2017年3月21日火曜日

2017.03.20 湯浅邦弘 『貞観政要』

書名 貞観政要
著者 湯浅邦弘
発行所 角川ソフィア文庫
発行年月日 2017.01.25
価格(税別) 800円

● 「ビギナーズクラシック 中国の古典」の1冊。貞観の治として,高校の世界史の教科書にも出てくる唐の名君,太宗の言行録。
 ただし,本当に太宗がそう言ったのか,後世の人がいうなら捏造したものなのか,そのあたりはじつは分明としないのではないかと思う。

● 『貞観政要』じたいに,過去の皇帝や宰相のエピソードが引用されている。範を過去に求めている。十年一日ならぬ千年一日であれば,それでいいだろう。
 経済成長も技術革新もなく,たんに王朝が変転を重ねるだけの静的な時代であれば,それでいい。

● とっくにそんな時代ではなくなっているわけで,昔の話が現在においてどれほどの有効性を持つのかはかなり疑問だ。
 『貞観政要』は政治家に宛てたものだろうと思われるんだけど,ここで想定されている政治家というのはいわゆる文人政治家だ。
 今は文人であることは政治家の資質を損ねるかもしれない。最近でいうと,宮澤喜一さんが文人政治家ぽかったけれども,彼の内閣は,自民党内閣の中でワースト3に入るのではなかろうか。文人政治家では政治はできない時代だ。
 要するに,“文”の価値が摩耗しきっているのが今という時代だ。

● 『貞観政要』は儒学のプロパガンダではないかとも思ってしまう。何らかの意図があって編まれた本。儒学者の益に資するわけだから,彼らが企んで編んだに違いない。
 後漢以降,三国六朝から隋の混乱期には,この儒学が衰退していきます。唐王朝が目指したのは,儒教国家の復活です。(p144)
 しかし,儒教国家で巧くいった例などあるのかい。

● 混乱の後に太平の世が来て,太平の後は必ず乱れる。太平の世は,混乱期に溜めたエネルギーを消費しているときのかもしれない。
 となれば,太平の世に大切なのは儒教などではない。儒教などなくても混乱期のエネルギーを食べればいいのだ。他に何が要るのか。

● 今でも,大学の文学部で中国文学を囓った人たちが,こういう本を出して,今の政治や政治家はなっとらんとオダをあげているのかもなぁ。
 この本にも何度かそうした論調の文章が出てくるんだけど,床屋政談の域を出ていないわけでねぇ。っていうか,床屋政談の方がまだまともかもしれない。
 この本をビジネス書として読もうとする向きもあるかと思うのだけど,ビジネスをまったく解さない学者が編んだ本だ。そういう読み方はしない方がいいと思う。

● さて,大いに称揚されている太宗だけれど,「こうした太宗の教育も,皇太子の承乾には効果がありませんでした」(p128)ということらしい。世の多くの父親族にとって,これはホッとするエピソードではないか。
 教師の子どもがマトモじゃないってのもよく聞く。そんなものなのだよねぇ。

● この本で唯一同意できるのは「自薦を認めれば,分をわきまえない者どもが,自画自賛で殺到するでしょう」(p143)という一文だ。
 国や自治体の審議会とかで,公募委員というのが最近は増えている。公募委員にはロクなのがいないという印象がある。自薦はダメだ。

2017.03.19 石田衣良 『モーツァルトのいる休日 大人の楽しむクラシック』

書名 モーツァルトのいる休日 大人の楽しむクラシック
著者 石田衣良
発行所 マイナビ新書
発行年月日 2016.09.30
価格(税別) 850円

● 幻冬舎から出ている『I LOVE モーツァルト』を底本にしているらしい。それも読んでいるんだけど,別の本になっていると思った方がいいようだ。
 特に,底本にはない加羽沢美濃さんとの対談がけっこうなボリューム。

● 聴き手が百人いれば,百通りのモーツァルト解釈が成立する。その解釈の幅の広さ,バラエティの多彩さを,モーツァルトほど許容する作曲家は,たぶんいないのじゃないかと思う。
 つまり,それがモーツァルトの凄味だと思う。凄味と書いてしまうと,鋭角的な鋭さを連想させるけれども,モーツァルトはそうではない。鋭角的だとか鋭いという印象を与えるものは,じつはあまりたいしたことはない。
 モーツァルトはふんわりと柔らかく,それでいて無限の許容性を持つ。後にも先にも,こんな作曲家は彼だけだ。

● 以下にいくつか転載。
 それまでに何十万曲というポップスを聴いていたおかげで,「音楽を聴く耳」ができていたのだろう。真剣に音楽にむきあって,長い年月をすごせば,そんなジャンルの音楽によってでも,音楽の耳は育成できるのだ。(p14)
 わからないものを少しずつ覚えながらいいものを探していくのはとても楽しいことだ。ああいう楽しいことが数年に一回あったらとても幸せだろう。(中略)ある程度の歴史の積み重ねがあって,知識と技術の広さ,深さがきちんと蓄積されたジャンルはちゃんと探求のしがいがあるのだ。(p17)
 わからにうちのほうがおもしろいのだ。知識を得ようと急がないほうがいいと思う。ぼくもあっという間に四十歳を過ぎてしまった。昔だったら「何でもいいから早く知りたい,覚えたい」と焦っていたことを,なるべくゆっくり,ちょっとずつわかりたいと考えるようになってきた。「お楽しみ」を急いで食いつぶしてしまいたくないのだ。(p18)
 本当に一番素晴らしいのは,芸術そのものではなくて,それを「素敵だ」「おもしろい」と感じることができる人の心である。(中略)人間の心のキャンバスのほうがどんな芸術よりもうんと広大なのだ。(p20)
 モーツァルトの音楽を聴いていると,絶対のテンポ感,タイム感覚を感じる。これは,テレビのアナウンサーと交わすスタジオ・トークと不思議に似た感覚だえる。「残り十秒」と指示されたときに,彼らが余裕の顔でしゃべりながらきっちりと十秒を刻んで言葉をあたはめていく,あの感覚。(p23)
 小説を書く場合は,「何がおもしろいのか」を最初の一行からラストまでぎゅっと握り締めて書かなければいけない。そのグリップ力がモーツァルトは恐ろしく強いと思う。(p25)
 モーツァルトの曲は,「このあとはこうなるといいな,次はこんなふうにいってくれるかな」と期待したとおりに,しかもこちらが予測するよいもずっと鮮やかに見せてくれるということ。そこがモーツァルトの天才の凄みなのだ。(p26)
 こんなに哀しかったり喜んだり笑ったりしているくせに,すべてにおいてどこか超然とした雰囲気があるというのもおもしろい。(p27)
 息子の出来があまりによすぎたので,てっとりばやく結果を求めすぎたのである。そこでぐっと待つことができなかったのは,親としての弱さだったのではないか。(p44)
 「情操教育」として無理して音楽を習わせるのはやめたほうがいいんじゃないだろうか。親のほうにこそ情操教育が必要なはずだ。(p45)
 映画でも文学でも,文化って無駄な知識を楽しく話せるということ自体が大切なのだ。(p69)
 日本の男がどんどん薄っぺらになっていくのはつらい。映画館,美術館,演劇にコンサート,どこでも女性客が七~八割なのだ。男たちは見る影もない。(p70)
 ロマン派以降のピアノ協奏曲はピアニストの名人性・名技性が前面に出てきて,ぼくにはそれが少々ウザいのだ。(中略)指が速くまわるだけだったらコンピュータにでも弾かせておけばいいと思う。超絶技巧にふさわしい超絶的な精神なんてほとんどの人間にはないのだから。(p77)
 音楽に出ている表面だけを見ればいいのだし,その表面が素晴らしいのだ。人間もそうなのかもしれない。外側に出ているものだけがすべてで,本当は内面なんて考えなくてもいいのかも・・・・・・。(p105)
 私は楽器としてはクラリネットよりオーボエが好きなんですけど,あの曲(クラリネット協奏曲)はオーボエじゃ泣けないんです。クラリネットじゃないとダメなんです。(加羽沢美濃 p151)
 現代人の悪い癖で,何でも知識から入ろうとするんだよね。日本人は特にそうなのかもしれないけど,何かを感じてそれを感じたままに表現するのが苦手。(p154)
 クラシック音楽や美術の鑑賞で黙り込んでしまうというのは,要するにみんな,正解があると思っているからなんだよね。だから今さら自分の感情なんて関係ないと思ってしまう。だけど,音楽や美術,芸術に正解なんてない。もっと自由に楽しめばいいんだけどなぁ。(p154)
 すごい演奏家は,普通にドレミファソって音階を弾くだけでも人をわーっと感動させてくれるよね。(p163)
 その,おしゃれをするっていうのがすごく大事だよね。(中略)ちょっと無理して背伸びをする,ちょっと澄ますというのが本当に大事なんだ。(p180)
 エピソードがある人生は素晴らしいと思うんだ。面白おかしいエピソードを貯めるために文化ってあるんじゃないかと思う。どうせいつかはみんな死んじゃうんだもの。(p182)

2017.03.16 中川右介 『未完成 大作曲家たちの「謎」を読み解く』

書名 未完成 大作曲家たちの「謎」を読み解く
著者 中川右介
発行所 角川SSC新書
発行年月日 2013.01.25
価格(税別) 840円

● 未完に終わったとされる代表的な楽曲と作曲家6人を取りあげる。
 シューベルト「未完成交響曲」
 ブルックナー「交響曲第九番」
 マーラー「交響曲第十番」
 ショスタコーヴィチ「オランゴ」
 プッチーニ「トゥーランドット」
 モーツァルト「レクイエム」

● 未完に関しては“「謎」を読み解く”というほどの謎ではないわけだけど。6人の作曲家の評伝として読めばよいのではないか。面白く読める。
 著者のスタンスは,それぞれの作曲家の生涯の中に入りこんで,内部から追体験しようというのではなく,彼らを突き放して適度に距離を置き,第三者の眼で眺めるという,学者的な態度。

● 以下にいくつか転載。
 カラヤンは一九六一年から六二年にかけて,ベルリン・フィルハーモニーを指揮して,ベートーヴェンの交響曲全曲を録音し,いきなり八枚組のセットで出し,当時の日本人は月賦で購入していた。(p52)
 十九世紀初頭において,一時間近い交響曲はあってはならないものだった。しかし,シューベルトは第二楽章までで三十分近くになる交響曲を書いてしまった。完成させても演奏機会のないことは必至だ。そこで続きを書くのを止めた。(p55)
 ブルックナーはなぜこのように休む間もなく,次の仕事に着手するのだろう。(中略)彼がそういう性格だからだとしか解釈できない。 その結果,何が起きたか。交響曲は「完璧」に仕上がらなかったのである。いったんできた後,じっくりと見直し、直すべきところを直し,それから初演する指揮者,オーケストラに見せるべきなのだが,どうも彼はその工程を怠っていたのではないか。(p68)
 レーヴィに先駆けて第七番を初演したニキシュは一八五五年生まれなので,レーヴィよりもさらに若く,ブルックナーとは親子ほども歳が離れている。つまりは,ブルックナーの音楽は若い,新しい世代によって初めて理解されたということでもある。(中略)ブルックナーは十五歳下のレーヴィのことを手紙では「私の芸術における父」と呼んでいる。(p70)
 ブルックナーの死は,瞬く間に口コミでウィーン中に知れわたった。多くの「関係者」がベルヴェデーレ宮殿のブルックナーの部屋を訪れると,あたりに散らかっていた楽譜を「記念」に持ち帰ってしまった。 こうして,ほぼ完成していた第九番第四楽章の楽譜は散逸してしまった。(p83)
 アダージョで静かに終わる曲というものに,現代の聴衆は違和感を抱かなくなっている。ブルックナーの時代は,そのような交響曲はあってはならないものだったが,チャイコフスキーの《悲愴交響曲》やマーラーの第九番などで,人々はそういう終わり方の曲の素晴らしさを知ってしまった。(p89)
 マーラーの「作曲」は,実に機械的というか実務的だ。夏の二カ月間に集中して「譜面に音符を書く」のが彼の「仕事の流儀」だ。このことから,書き始めた時点ですでにマーラーの頭のなかでは全曲が完成していたと考えるべきだ。(p112)
 五楽章完全版を聴くと,第十番がいかに雄大な曲であるかに驚く。そこからは「九のジンクス」「死の恐怖」「妻との愛の苦悩」に怯え悩んでいる姿など,微塵も感じられない。(p122)
 (スターリン時代のソビエトでは)公式文書だろうが個人の手紙だろうが,すべてその内容が信用できないのだ。人々は秘密警察と隣人の密告を恐れ,日記にも手紙にも自分にとっての真実は書けなかった。(p133)
 現在では偽書だとする学者のほうが多く,その内容を一〇〇パーセント信じる者は少ないが,残念ながらこの『証言』は日本で最も売れたショスタコーヴィチ関連の本なので,いまだにここに書かれていることが真実だと信じている人も多い。(p158)
 十九世紀後半になって,オペラは「そう簡単には作れないもの」となっていったのである。それ以前は台本を含め様式が決まっていて,それにあてはめて書くというかたちで注文をさばいていけばよかった(p176)
 それまでは歌劇場から注文されて書いて報酬をもらったらそれで終わりだったものが,どこかで上演されるたびに著作権料が発生するようになったことも大きい。(中略)経済的にも多作の必要がなくなった。(p177)
 オペラの場合,スコアが完成しても,上演にあたって手が加えられるのが常なので,初演をもって完成と考える。(p178)
 商業出版においては,たとえベストセラー作家であっても,出版社と著者が合意しないことには何も始まらない。著者が書きたいから書くのは,自費出版ぐらいだ。 それは音楽でも同じだ。クラシック愛好家のなかには,音楽家たちが芸術のためだけに作品を書き,芸術的理由のみで長さや規模や内容を決めていると思っている人がいるが,作品が生まれるのも未完になるのも,どんな内容になるのかも,さらには未完なのに演奏・出版されるのも含め,すべての過程で何らかの経済的事情があるのだ。(p249)
 そのテーマや,単行本なのか新書なのかといった器によって,「適量」がある。ワーグナーの《指輪》が破天荒な長さなのも,自主興行で上演するつもりだったからで,どこかの歌劇場からの依頼仕事では,あんな長いものは企画として通らない。(p250)

2017年3月13日月曜日

2017.03.11 手塚千砂子 『たった1行書くだけで毎日がうまくいく!「ほめ手帳」』

書名 たった1行書くだけで毎日がうまくいく!「ほめ手帳」
著者 手塚千砂子
発行所 青春出版社
発行年月日 2015.11.20
価格(税別) 1,300円

● 次のようなことが書いてある。
 日本人はまじめで勤勉なので,「反省が大事」「反省が成長の元」と考えている人が多いようです。もちろん反省することはとても大切なのですが,反省=自分を否定することになっていませんか。(p25)
 そもそもほめることができない-特にほめることに慣れていない男性や年輩の方が,最初にぶつかる大きな壁です。(p34)
 確かに人格者に謙虚な方は多いですが,私たちは否定と謙虚を取り違えていることが多いのではないでしょうか。ほめてもらった言葉を否定することは,わざわざ否定の言葉で自分を貶めているだけでなく,ほめてくれた相手の気持ちをも否定することになってしまうことに気づいていますか。(p35)
 重要なのは「心からほめること」ではなく「ほめ言葉を使うこと」。ほめることに違和感があろうとなかろうと,「これは脳が喜ぶことなんだ」と割り切ってほめ言葉を書き続ければいいのです。(p37)
 不思議なことに,自分のなかに入れたものは,自然に外に出てきます。自分をほめたら,人をほめたくなる。(p51)
 過去がどうであろうとそれはいったん脇に置いておき,今現在の自分をほめる,今の自分を受け入れて,楽しむことを重視します。(p62)
 「引き寄せるイメージ」を実践する前に,まず自分自身をプラスのエネルギーで満たすことが先なのです。(p148)
● 著者が提唱する「ほめ手帳」を始めるのにお金はかからない。手帳と鉛筆があればいい。お金がかからないんだから,やってみたらいい。
 ぼくはやらないけどね。著者が説くところを間違いだと証明することはできないと思うけれど,浅いとは思う。
 「ほめ手帳」を続けてみても,何も変わるまい。著者が説くような変化は起きないという方に一票を投じたい。

● しかし,コンサル料を取られるわけではない。やりたいと思うのなら,今日からでも始めてみるといい。
 自分は変われるかもしれないと妄想することは,それ自体が楽しいことだしね。

2017.03.10 伊集院 静 『不運と思うな。 大人の流儀6』

書名 不運と思うな。 大人の流儀6
著者 伊集院 静
発行所 講談社
発行年月日 2016.07.04
価格(税別) 926円

● タイトルの由縁は次のようなもの。
 天上へ行った人々。海の底に,土の下に眠る人々。哀しみだけを想うのをやめなくてはならない。どんなに短い一生でも,そこには四季があったはずだという言葉がある。笑っていた日を想うことが,人間の死への尊厳ではないか。(まえがき)
● 今年も3.11が巡ってきた。6年目になる。ぼく個人も昨年6月に19歳のひとり息子を亡くした。
 この時期にこの本を読んだのは偶々である。偶々ではあるが,染みてくるものがあった。そうしたことを書く資格のある人が書いているからだと思う。

● 以下に転載。
 奇妙なもので,近しい人を亡くすと,世の中に,これほどの数の同じ思いをした人がいたことを知ることになる。家族の誰かしらに不幸があるのが世の中の常なのである。(p18)
 人は泣いてばかりで生きられない。泣いて,笑って,正確には,笑って泣いて笑う,が人の生きる姿である。(p19)
 他人事なのである。(中略)それは彼等の言葉,表情を見聞していればすぐにわかる。(中略)キャスターという仕事(彼等にとっては商売でもいいが)はつくづくおそろしいものだ。彼等は身が危険な間は決して現場に行かない。戦争をはじめた政治家が決して戦場にいないのと同じである。(p43)
 先に着き,座敷で待っていると,店の者の声で談志さんがあらわれたのがわかった。普段は無愛想な鮨屋の主人が,やや高い声で,師匠よくお見えに,と声が届く。一分,二分の男ではこうならない。千両が顔を出すと,場が華やぐのが世間である。(p48)
 娘さんを探している父親にお願いがある。 あなたが明るい顔で笑えるものを探しなさい。それが生き残った者の使命です。 「いやです。自分一人がしあわせなんて」 それはわかるが,自分一人が笑う方が辛いことなら辛いことを選ぶのも大人の男の選択ではないかと思う。(p53)
 ヤンキースにいた松井秀喜君もそうだ。時々,彼等の何でもない話を聞いていると,自分は六十年以上何をしていたんだろうと思うことがある。 小泉進次郎君に初めて逢った時も驚いた。さわやかだと評判だが,そんなものではなかった。立っているだけで風が立つ,という感じがある。全盛の長嶋茂雄がそうである。(p58)
 苦しい,切ない時間だけが,人を成長させる。(p59)
 やはり昔から言うように,“学者と役者と坊主にはまともな者がいない”とは本当である。(p87)
 私は犬にむかっても,普通に人に接触するように応対する。相手が理解できていまいがかまわない。少年の時から生き物にはそうして来た。(p90)
 君たち(犬)が去った後,哀しみの淵に長く佇むことが起きれば,何のための出逢いだったのかわからなくなる。(p94)
 私たちは勿論いなくなるが,やがてこの宇宙も亡くなる,ということである。 私たちが感動したもの,学んだものも私たちと失せるが,シェークスピアがいたことも,モーツァルトの曲があったこともすべて消え失せるというのだ。それが今の宇宙物理学では正当であるらしい。(p98)
 不幸の最中にはいかなる声を掛けても,その哀しみを救える適切な言葉はない。言葉とはそういうものなのである。(p121)
 「はい。ゆっくり丁寧に書くことです。それしかありません」(中略) 「ゆっくり丁寧なら大丈夫なんですか」 「大丈夫です。姿勢を正して書けば,それで十分です」(P124)
 若者はあらゆることを覚える折に,急ぐ傾向がある。それが若いということだが,若い時に何かひとつでいいから,基本を,ゆっくり丁寧にくり返す時間があった方がいい。(p126)
 新しい年を迎えると,大半の人は,今年こそはと,数日思うそうだ。この数日というのがよろしい。 その証拠に市販されている日記帳の大半は櫻が咲く頃には,どこに置いたかわからなくなってるらしい。 私はそれでいいと思う。あまり決意,覚悟,必死になると周囲に迷惑をかける。(p148)
 女性たちが立ち上がると,戦争は本物の戦いになり,しかも悲劇を迎える,と昔から言われている。(p165)

2017.03.06 伊集院 静 『追いかけるな 大人の流儀5』

書名 追いかけるな 大人の流儀5
著者 伊集院 静
発行所 講談社
発行年月日 2015.11.16
価格(税別) 926円

● 「週刊現代」の連載を1冊にまとめたもの。週刊誌の読者も高齢化しているに違いない。若者は週刊誌など読まなくなっているのではあるまいか。
 昔の若者は背伸びをして(?),オッサンが読む週刊誌というものを読むことがあったのだと思うけれども,今はそんな背伸びなどする必要がない。

● が,毎回思うことだけれども,こういうエッセイが連載されているのだから,日本の週刊誌というのはレベルが高い。
 他の国では,知的階層がはっきりしていて,いわゆる週刊誌にこうしたエッセイが載ることはないと聞いたことがある。

● 以下に転載。
 私たちは日々,日常のさまざまなことに懸命にむかうのだが(そうでない人が多いし,それが人間らしくもあるが),今日はいい一日だったと実感が持てる一日はそうそうあるものではない。そのことは逆に言うと,私たちの日々は上手く行かない方が多いのである。これは万人が共通するところなのだ,とこの頃,わかるようになって来た。(まえがき)
 望み,願いと言った類いのものを,必要以上にこだわったり,必要以上に追いかけたりすると,それが逆に,当人の不満,不幸を招くことが,私の短い人生経験の中でも間々あり得ることを見て来た(まえがき)
 検査を終え,車椅子に乗って病室に戻って来た彼女が,Vサインをして私に笑いかけた時,その明るさに苦笑いをした。-なんだ,助けられてるのはこっちか。(p16)
 自分だけが,自分の身内だけが,なぜこんな目に・・・・・・,と考えないことである。気を病んでも人生の時間は過ぎる。明るく陽気でも過ぎるなら,どちらがいいかは明白である。(p17)
 並んでまで食べるものが,世の中にあるとは思えない。銀座では鮨店にも並ぶ。安くて旨いってか。鮨を並んで喰って,どこが江戸前の粋じゃ。(p21)
 「目の前にふらふらしているのをつかまえると碌なことはありません。だいたい目の前をふらふらしているのは蚊と同じだから」「どうしたらいいんですか?」「とっつかめて叩きつぶしなさい」(p22)
 作家は自分一人の才能で一人前になると思っている人もいようが,それは違う。人間の才能なんて高が知れている。どんな職業,仕事も周囲の人が見守り,育ててくれるのである。(p42)
 私は小説家であるから,本を読みなさい,と言う。しかし私はガキの頃,本を読んで何が面白いの,と思った。それでも読まないより,読んだ方が良かったと,かなり先になって感じた。(p91)
 太平洋戦争を,あれは軍部のひとかたまりがはじめたと今の日本人が考えたいたらこの国は大きな間違いをしていることになる。日本人の大半が,戦争を善し(やむなしは一番いい加減な肯定である)としたのだ。昭和の紀元節で日本人のほぼすべての人が,建国を祝い,自分たちにかなう敵国無し,と提灯をぶらさげて大騒ぎをしたのである。(p116)
 何しろ作家は負けず嫌いが多い。本当かって? 嘘だとお思いなら,作家を数人,ひとつ檻に入れてみるといい。三十分もしないうちに全員ブスッとした顔をして壁の方をむいて腕組みをしてるから。(p126)
 公共の場所,電車の中などで赤児が激しく泣き出し,それを五月蠅く思う時の対処の仕方を,私は母から教わった。“赤ちゃんは泣くのが仕事だから”。これが母の言い方である。(p131)
 “上手い”はつまらないものが多いのである。よく芸能人が絵を描き,××展入選などと新聞で紹介される記事を目にすることがあるが,バカも休み休みにしなさい,と私は思う。“上手”のレベルの絵は絵ではない。(中略) いかにも上手いという言うのは,私たちの小説の世界でも同じことが言えて,読む人が読めば上滑りしていることが見えてくる。(p141)
 手紙は気持ちを伝えようとした瞬間に,思ったことを文字にする方が良い。私はそれを井上陽水に学んだ。(p142)
 マキロイという若者が世界でトップというが,私はこの若者がまだ使えるボールを池に投げたのを見たし,今春,クラブを池に放った。人間がこしらえた道具をこういうふうに扱うバカは何十年経ってもまともな人間になれない。それが世界一というのだからプロゴルフの世界も程度が知れる。(p157)
 物を学んだり,物事を考察する行為は,最初,とっつきにくい所があっても,或る一点,或る領域を越えてしまうと堰を切ったように,知の並が押し寄せ,軽々とそこを泳いでいる自分がいたりするものだ。(p164)
 (“虚しく往きて実ちて帰る”の)“実ちて帰る”はどうでもよくて,“虚しく”のこの不安と孤独こそが人間を成長させる原動力であり,必須条件なのである。その証拠に空海は“虚しさ”の幅が人より何倍も大きかったから,人間業とは思えない能力を発揮して,密教をただ一人伝授されることができたのだろう,と私は考える。(p166)
 憂うのは,今の日本人の,個の甘さ,甘えである。皆がひとつの方向へ行けば,ワァーッとヒ弱な鳥のごとくそちらへ走る。(p177)
 昔は,大人の男が,知人でない相手に(知人であっても)食べ物が美味い,不味いは口にしなかった。食の話というのはどれほど慎重に書いても卑しさがともなう。(p179)

2017年3月6日月曜日

2017.03.01 森 博嗣 『本質を見通す100の講義』

書名 本質を見通す100の講義
著者 森 博嗣
発行所 大和書房
発行年月日 2015.07.25
価格(税別) 1,300円

● 頭のいい人が書いたものを読むのは,それだけで快感を伴う。といって,学術論文などはこちらは読めないわけで,あくまで商業出版に乗ったものに限るんだけど。
 自分もぼんやり思っていたことにピタッとはまる言葉を与えられると,快感がピュッと噴きあがってくる。

● 天上天下唯我独尊という思いをどこかに秘めていないと,面白いものは書けない。たぶん。
 唯我独尊という思いをどこかに秘めているのも,頭の良さの条件でしょうね。右顧左眄しないということでもある。

● 以下に転載。
 本というのは,窓から射し込む光のようなものであって,それで貴方の部屋が明るくなることもあれば,埃や汚れを際立たせることもある。でも,それは貴方の部屋なのだ。(p2)
 資本主義を牽引したエネルギィは,金を儲けたいという欲望であって,それは,自分と貧乏人との格差を広げたい,という「夢」なのだ。金持ちになってフェラーリを買っても,見せびらかす相手がいなかったら意味がない。(p30)
 エネルギィ的に見て,個人がなす仕事量には限界がある。だから,仕事に対して報酬を与えるだけならば,さほど大きな格差は生じない。資本主義における格差は,仕事をしないで得られる利益が存在するためである。ここが「資本」の意味だ。(p31)
 悪い部分があったときには,株主の顔色を窺い,応急処置をしなければならない。リストラしたり,試算を売却したり,といった防戦一方になる。ここに至っては,すぐに結果が出るものでなければ認めてもらえない。長期的な手は打てなくなり,刹那的になる。だから,ますますじり貧になる。(p32)
 結局のところ,つながりたがっている多くは,つながることで金が儲かるからにすぎない。それを,綺麗な言葉で飾って,「絆」「親睦」などと呼んでいるのである。(p37)
 民主主義とは,みんなが自由になる,ということではない。みんなでリスクを分担する,という意味だ。誰もが少しずつ不満を持って,少しずつ危険を抱え込むこと,それを許容することが,民主主義の精神である。(中略)したがって,消費税をゼロにするとか,教育費をゼロにするとか,原発を即ゼロにするとか,基地はすべて国外とか,そういう「みんなが得をする」ことばかり言っている政治家は,極論をすれば,民主主義を利用した詐欺師のようなものだ。(p39)
 もしできることの共通点を探ろうとすると,もの凄く細かい手しか打てない。もっと大胆な政策はないのか,と不満がみんなから出るはずだが,その不満の方向性がこれまた違うため,ベクトルを合計すると力が弱くなる。(中略)それでも,小さくても良いから一致する部分を見つけて,みんなで盛り上がりたいのが,人間というものらしい。(p45)
 弱者は貶すことができないが,強者は貶しても大目に見られる,ということである。(中略)グループの構成員が多くなると悪口が一般的になるからだ。東京の悪い点を挙げても,東京の人全員を責めているわけではないし,またたとえそうであっても一人当たりの責任が割り算で小さくなる。逆に,小さな村の悪口は,そこにいる人々の個人攻撃に近いものに受け止められる。そういうメカニズムなのではないか。(p54)
 金を使って楽をしようとする精神が貧しい,と怒る人もいるだろうけれど,そもそも,金とはそういう使い方をするものである。(p60)
 可能性をあれこれ想像することで,たいていのことは許容できるようになる。つまり,腹の虫というのは,腹の中にいて世間が見えていないからこそ,治まらないのである。ちょっと考えれば,そんなに怒るようなことか,となるはずだ。(p61)
 庭というものは,基本的に自然であって,完成品を人間が造ることはできない。無理に植えてもすぐに枯れてしまうだけだ。(p67)
 自然が絡むものは,「維持」が大変である。人工物でも腐食はするけれど,自然の変化に比べればずっと遅い。自然はあっという間に姿を変える。それこそ,季節が変わっただけで跡形もなく消えてしまう。毎年同じものはけっして現れない。(p67)
 全体として良くなっているということは,一人の人間の中でも,平均すれば,私欲よりは「みんなで良くなろう」という公欲が大事だと判断されていることを示している。何故そうなるのかといえば,答は一つしかない。そちらの方が「美しい」からだ。逆に,隠し持っている私欲が「醜い」ことを人間はたぶん知っている。(p69)
 この頃はネットが本に代わろうとしている。しかし,本のように一冊に纏められているわけではないので,「世界」を感じることが難しい。(中略)こういう時代にいる子供たちは,(中略)周りを見て,周りにきいて,歩調を合わせるだけの人になりやすい。(p75)
 自分の経験以外は基本的に「知らない」ことであるから,「知らない」ことを想像するしかない。その想像をする人が少ないということが,数多くの観察からわかる。また逆に,小説とか映画とか,自分の創作を大勢に見てもらう立場の人は,その想像をしないと作れないのである。(p77)
 科学というのは,そういう具合に,少しずつ進めるものなのであって,「あるのかないのかどっちなんだ」と声を荒らげる下品さは,非常に嘆かわしいと感じる。(p85)
 専門家になるほど,知識が豊富になるから,ほとんどの事について,複数の意見,複数の事例,数々の例外があることを考慮して,なかなか断定的な発言ができなくなる。したがって,ますますじれったい話っぷりになるのだ。(p89)
 若者は,本当にTVから離れてしまった。視聴率を気にして,ますます老人向けになっている。ようするに,年寄りが株主みたいな感じなのが今のTVだ。(p89)
 ワンパターンというのは,面白いから繰り返され,ワンパターンになる。どこで面白くなくなるかは,受け手のセンスの鋭さ(感度)による。(中略)全体を眺めている人は,まだ笑ってくれる人がいる,と観察するのだ。つまり,大勢を相手にする人ほど判断は必ず遅れる。(p92)
 ブログを続けられる人は,仕事としての報酬を得ているか,あるいはボランティアか,のいずれかである。いずれも,不可欠なのは不特定多数に対する「奉仕」の気持ちである。サービス精神がなくては続かない。自分が得たい,自分を売り込みたい,では続かないということだ。(p101)
 まずは,自分がどう感じるのかを丁寧に拾い上げることが大事であって,そのうえでの他者,社会なのではないか,と僕は思う。(p103)
 大人になり知識が増えると,知らないことを嫌うようになる。「嫌奇心」という言葉はないと思うが,そにかくそういう状態に多くの人がなる。(p104)
 わかったときに,「そうだったのか!」と跳び上がるほど嬉しい思いをしている人は,いつまでも知りたいと思う。だから,未知が希望になる。一方,わかったときに,「なんだ」とか「またか」と溜息が出る経験を積み重ねると,だんだん未知が不審になる。(p105)
 好き嫌いや美意識などは,そもそも多数決を取ることが間違っているのである。自分が好きなものが大勢と一緒でなければならない理由はない。大衆の多くはそこを勘違いしているみたいだ。 そういう社会に浸っていると,自分の感情,感覚も鈍ってくる。自分がどう感じたかを自分で取り上げなくなる。(p114)
 シュレディンガの猫ではないが,晴天なら晴れ男になり,雨なら雨男になっているだけで,観測されるまでは両者は同時に存在している,と考えるのが科学的である。(p121)
 僕としては,具体例を挙げることで,そちらへ関心が移ってしまうのを避けている。抽象的な文章はそのまま理解してもらいたい,と考えているからだ。(p145)
 クリエータというのは,常に新しいものを求めている。新しいものを作り出すことをクリエートという。作品を生み出すとは,そういう意味だ。何十年も前のヒット曲を大晦日になるごとに歌わなくてはいけない人は,クリエータだとしたら苦痛だろう。(p149)
 知らない人が多いようだが,この世には命よりも大事なものなんて幾らでもある。(p153)
 僕が書く本を読んだ人で,「森博嗣は世間知らずだ」と批判する人がいるけれど,僕は,それを批判だと感じない。どうしてかというと,世間なんか知りたくなかったからである。いつも世間知らずでありたいと願っていた。見て見ぬ振りでは,世間は知れてしまう。世間知らずであるためには,なにかに没頭し,一心不乱に打ち込まなければならないだろう。(p153)
 作ることに慣れている人であれば,何を作るかを考えると同時に,その作り方をイメージしている。そのイメージがないと,何を使うのかも決まらないし,作れるのかどうかもわからない。(p158)
 現在の方向性は,むしろ個人へ向かっている。商品は可能な限りカスタマイズされ,個性を重視するようになっている。ファミレスではなく,個人経営のレストラン,あるいは自宅での手料理へ,と価値はシフトしている。(p161)
 人間は自分が望まないものは信じない特性を持っている(p162)
 土屋賢二氏のエッセィが面白いという話は,もう何度も書いているところだが,似たような作品が現れないのは,彼のエッセィが尋常ではない思考力と知性によって生み出されているからだ。凡人には真似ができない。(p170)
 そんなことを言ったら偏見だと言われそうだが,平均的な考えとどれくらいずれているかが,エッセィにおける最大の武器といえるからだ。(p171)
 ものを作る人は,飾った言葉を使わない。とても正直だ。営業担当の人は,作業の細かい部分を知らない。ただ,客の希望を聞き,金額の交渉をするのが役目で,そこでは言葉によるコミュニケーションに頼っているから,自ずと言葉が飾られる。(p180)
 共通しているのは,みんな黙って仕事をすること。道具をもの凄く大事に扱うこと。そして,最後は作業場を綺麗に掃除することだ。自分も,大人になったら,こういう仕事がしたいと思っていた。工場で働いて,機械を作ることが夢だった。(p181)
 だいたい公共事業というのは,多かれ少なかれこんな性質のものである。もし「改革」を本気ですれば,ある程度は経費削減になるけれど,それは下々の首を絞めることになるはずだ。そんな非人情的なことは殿様にはできない。(中略)しかし,たとえば,社会主義だってこれで滅んだのだ。資本主義が生き残ったのは,残念なことだが,「儲けるために下々の首を切る殿様」が勝てる社会だったからである。全体としては,この合理主義が社会を発展させたといえる。(p184)
 毎日こつこつと作業をしていると,ついつい「怠けていない」と満足してしまう。少し考えてみれば,もう一段合理的な手法があるかもしれない。(p185)
 目標に向かって少しでも近づこう,という前向きさが,かえって目標に到達できない事態を招くことがある。(中略)道が一本であっても,道自体が大きく湾曲しているときには,目標から遠くなる方向に進むこともある。(p188)
 今日だけの楽しみ,身近な面白さだけで生きていたら,そのうち,どちらへも動けない停滞感に苛まれることになる可能性が高い。(p191)
 一見無駄に見えるけれど,実はそうでもない,というものが沢山ある。無駄に見えるのは視野が狭いことによる錯覚である。(中略)自分たちの物差しで見ているから,そう見えてしまうのだ。(p203)
 ピカソだって,若い頃の写実性は天才的だった。型破りなことをするためには,まず型の中に入らなければならないのである。 おそらく,この伝統的なものの中に身を置いてこそ,真に新しい発想を持つのではないか。(p204)
 それでも見つからないときは,最後の場所を見る。それは,この探索が始まる以前,すなわち,一番最初に見たところだ。結局,「探してもなかった」と勘違いしていた場所で見つかるのである。(p207)
 自然や社会や相手の問題だと捉えているうちは解決しない。観測するのも,理想を抱くのも自分なのだ。問題はすべて,結局は自分の中に存在するのである。(p209)
 問題を抱えている状態は,人に深みを与える。僕くらいの歳になるとひしひしと感じることだ。でもそれは,その深さに沈んだままの人ではなくて,その深さから浮かび上がってきた人にいえることなのである。(p211)
 問題を解かせないためには,問題が解けたと勘違いさせることが有効なのである。(中略)相手に勝ったと思わせることが,こちらが勝つために有利になることが多い。(中略)僕は仕事で,申請書や報告書をよく書いたのだが,わざと一字誤字を入れておく。するとチェックをする事務員がそこを指摘してくる。それを直してお終いとなる。(中略)直しやすいミスをわざと作っておくのである。書類なんてどうでも良いものだと考えていたので,このように自分なりに合理化していた。(p212)
 たとえば,腹が立っているときに,「ああ,自分は腹を立てているな」と思うことが自覚である。腹を立てている人の多くは,それを忘れている。(p214)
 孤独と一口にいっても,いろんな孤独がある。人間の数だけあり千差万別だ。(中略)だから,言葉というもので,抽象化して,だいたいの共通点について,だいたいの傾向を見出し,ぼんやりとした対策を練ったり,ぼんやりとした考え方について議論をするのである。本を読むことも,他者と話をすることも,あらゆるコミュニケーションとは,そういう「歩み寄り」のうえで,少しでも自分に有利となりそうなものを見つける行為なのだ。(p217)
 破裂して壊れるのは,コンクリートの性質というよりも,コンクリートを壊している試験機の性質だということだ。実現象には,こういうことがよくある。(中略)人間の壊れ方もたぶんこれと同じで,強度の個人差はあれ,実は周囲の圧力のかけ方に起因している場合がほとんどだ。(p221)
 人間というのは,「こんなこと滅多にないのだから,思い切ってぱっと使おう」という気持ちになりやすい。分割するとなんだか「こぢんまり」としてしまう,と何故か考える。実は,この一気にぱっと使うというのが,かなり貧乏くさい発想だとは気づかない。(p227)