2017年5月27日土曜日

2017.05.27 外山滋比古 『新聞大学』

書名 新聞大学
著者 外山滋比古
発行所 扶桑社
発行年月日 2016.11.01
価格(税別) 1,000円

● 自己学習や頭の体操をするための素材として,新聞は恰好のもの。その具体的な活用法を説く。
 しかし,それだけではなく,新聞批判や教育論にも及ぶ。

● かつては新聞を取ってないと奇異の目で見られたものだ。おたく,そこまで貧乏してるの,みたいな。新聞は取るのがあたりまえでしたね。
 今は,新聞を取らない家庭が増えているのではないだろうか。ニュースはネットで知ることができるせいでもあるだろうけど,そもそもニュースって知らなくても別に困らないんだよね。

● 新聞を取らなくなって,一番助かるのは,古紙が大幅に減ったことだ。古紙回収は月に1回だから,ひと月分の新聞を家の中に置いておかないといけない。実際にはそこに折り込みチラシが加わる。ひと月分だとけっこうな量になる。
 それをビニール紐で結わえて,ゴミステーションに持って行く手間がなくなった。これは大きいですよ。

● 新聞に載ってるのはニュースだけではない。書評や人生相談や読者投稿や識者の随筆や,その時々のトピックの特集記事もある。
 が,それらを含めて,知らないからといって,何か困るかといえば,さぁて,さほどには困らないのではないか。

● というような者が本書のような本を読むのもおかしなものだけど,外山さんが新聞について何を語っているのか,そこを知りたいと思った。

● 以下にいくつか転載。
 “自ら助くる”というのはヘルプ・ゼンセルブズ(help themselves)の訳であるが,“助ける”という日本語にしてしまうと,この言葉の趣旨が大きく失われる。“ヘルプ・ゼンセルブズ”は“自らを助ける”という意味ではなく,自分のことは自分でする,人の世話にならない,という意味である。(p2)
 われわれの社会では,いまだに知的散文は確立していない。そのことをはっきり認める知識人も少ないから,言論がおしなべて,情緒的に流れやすい。ウェットな文章が喜ばれ,ドライな文章には人気がない。(p60)
 もっともいけないのが,単行本である。薄くても二百ページを割ることは少ない。小さなテーマで,十万字の論文,原稿を書ける人は,そんなに,いるわけがない。どうしてもおもしろくない長文を読まされることになる。(p65)
 ことばは声が基本である。文字はそれを写した記号であって,声を失っている。文字だけを読んでいると,どこかおかしくなるおそれがあるが,いまの人たちは,そのことを考えない。そして文章のほうが話より高級であると決めこんでいるようであるが,近代の誤解のひとつである。(p68)
 署名のあるなしなど,ノンキな人は問題にしないようだが,大違いである。匿名のほうがいい書評ができる。身分を明かした原稿には,いろいろのシガラミがまつわりやすい。(p78)
 日本人は金銭への関心が高い。小金を貯めるのを生き甲斐にする人が多い。その割には,経済ということに関心が低いのである。(p84)
 日本人の経済的関心はゴシップの色彩が濃い。本当のところを突き留めるのではなくて人事に関心を持つ。企業の社長交代がいいニュースになる。(p87)
 外国から日本人は働きすぎると批判され,企業などが週休二日制を始めた。あれほど楽しみであった休みが,それを境に輝きを失いはじめる。(p98)
 その森(銑三)さんが,かつて,こっそり私に教えてくれたことがある。読んでおもしろいと思う新聞記事があったら,切り抜く。切り抜けないものなら,書写する。それを分類して袋に入れておく。だんだん,袋がふくれていく。ある程度,ふくらんだら,袋から取り出して整理する。うまく整理がついたら,それをもとにして,本を書く。そうすると,しっかり本が書ける,と森さんは教えてくれた。(p109)
 古き良き時代の話だろうね。今でも新聞の切り抜きだけで本を書く(書ける)人はいるんだろうか。
 人間にとって,おもしろいのは,動くものである。ニュースは一回きりだから,動きを感じさせない。株価は,毎日,動いているから,ニュースとしても,犯罪などと違って,知的興味を与えることができる。(p117)
 昔から,月曜日はいやな日である。学校へ行きたくない。しかし,火・水・木・金と学校へ行っていると,それなりの調子,リズムができ,それほど,いやでなくなるようである。調子の出たところで,週末,二日もぶっつづけて休めば調子の狂わないほうがおかしい。(p143)
 どうやら,教育はノロマを育てるらしい。俊敏でないのが多いのである。高等教育が普及して,ノロマ人間が増えたのではないかと思われる。(p151)
 モノマネするには,余計なことを考えたりしてはいけない。本に書いてあることを鵜呑みにして知識を増やせば進歩しているように錯覚した。幼い学習者がそう考えたのではなく,指導的な人たちが,知識は力なりという考えに支配された。(p159)
 文化における西高東低の傾向は,いまなお完全に消えてはいないようである。政治と文化の相性はあまりよくないのだろうか。少なくとも,歴史がないと,文化と相性は生じないことを暗示している。(p169)
 普通の大学は,専門によって小さく分かれている。(中略)日本史の学生でも西洋史の教養をもつことは例外的である。大学という文字が泣くようなのが一般大学である。 新聞大学は違う。政治も経済も,文化も社会もみな目が届く。八宗兼学である。(p175)
 学校教育の泣きどころは,知識が古いことである。教室で教える知識は常識的なものである。昔からのことをこと新しく伝える。(p176)
 講演会の記事には,たいてい“聴衆はせっせとメモを取っていた”などという文句があった。メモを取りながら講演を聴くのは熱心な聴き手であるという誤った観念にとらわれているわけで,すこし恥ずかしいことである。(p182)
 本は,読者の求めるものを与えなかった。古くさい知識をわけもなくありがたがって,博学多識を学問と取り違えている本があまりにも多い。若い燃えるような志をもった読者は,やがて,本から距離を置くようになった。書物文化は,それほど大したものではないと感じた読者はただの怠けものではなかった。(p183)
 小中高の教育がまがりなりにもうまく行っているのは,しっかりした,時間割に基づいて行われているからである。(中略)どういうわけか,大人は,宵っぱりの朝寝坊が好きである。ことに,早起きが苦手,朝食をそこそこにして出勤する。(中略)近代の泣きどころである。(p186)
 同世代人口の九十パーセント超が大学生になった。一般はそれを社会の進歩として歓迎した。学校教育は過ぎると人間を劣化させることがある,ということに気づく人は少なくて,高学歴化を喜んだ。(p201)
 日本だけのことではないが,近代文化の泣きどころは,知るを知って,考えることを知らないことである。いくらたくさん本を読んでも,博学多識にはなっても,みずから考える力はまるでない,ということが主知主義の泣きどころである。(p212)
 学校教育が努力の割りに成果が乏しいのは疑問を起こさせないからである。ことに日本の教育は丸呑み,丸暗記で,問題に答えることしか考えない。(p212)
 いまの人は,昔もそうだったが,読むということを誤解している。つまらぬことは読める。よく知っていることを書いた文章ならわかる。しかし,少し難しい内容の文章はわからない。おもしろくない,と言って放り出す。本当に,ものが読めていないのである。(p216)

0 件のコメント:

コメントを投稿