2017年5月4日木曜日

2017.05.04 伊集院 静 『旅人よ どの街で死ぬか。 男の美眺』

書名 旅人よ どの街で死ぬか。 男の美眺
著者 伊集院 静
発行所 集英社
発行年月日 2017.03.29
価格(税別) 1,400円

● 伊集院さんの小説は一冊も読んだことがない。まず「いねむり先生」から読んでみたいと思っているんだけど,まだ果たしていない。
 が,エッセイ集はだいぶ読んでいる。本書もそのひとつ。

● 酒,ギャンブル・・・・・・,いずれも常人には想像できない深みに達して,しかもそれでいて,常軌から外れに外れて破綻に至る,ということにはならずにいる。
 競輪に狂っていた老人(今は故人)を知っている。奥さんはそれが原因で精神に異常を来し,元に戻らない病気になってしまった。こういう人はけっこういそうだ。
 弱い人間はギャンブルなどに手を出してはいけない。ましてやそこに淫してはならない。と,思っている。自分は弱い人間に属することもわかっているので,ギャンブルに手を出そうと思ったことはない。
 つまらない男はつまらないなりの生き方をしなきゃしょうがない。

● 伊集院さんのような人は,要するに稀な存在だ。ロールモデルにしてはいけないと思う。
 生命力の核が強靱な人なのだと思う。なぜ強靱なのかといえば,そういうふうに生まれたからだと言うしかない。努力でどうにかできる部分ではないように思う。

● 以下に少し多いかもしれない転載。
 私たちにはこの世に生まれてきて,やってみなくてはいけないことがいくつかあると,私は思っています。 それをせずに死ぬということは,生きることへの冒涜(いささかオーバーですが)ではないかとさえ,思います。(中略) 私にとって,この世に生まれてきて,これをしなくてはならないと思えるものは,断然,旅なのです。(p24)
 その土地に足を踏み入れたなら,目で見たもの,見えたもの,歩きながら身体に伝わってきたもの,酒でも食事でも口に流しこんだもの,耳から入ってきた音色,犬のように鼻を鳴らして嗅いだ匂い,肌で感じたもの・・・・・・それらすべてを実感だけで捉えるのが,私のやり方です。その体験の積み重ねだけが,旅人の身体のなかに,何かを泌みこませるのだと私は信じています。(p29)
 晩年に書かれた作品の一節だから,事の真偽はわからない。作家の大半は己の時間を美化し,平気で嘘をでっちあげる輩だから。(p32)
 なぜ軟弱なのか。それは連るむからである。一人で歩かないからである。“弧”となりえないからである。連るむとはなにか? 時間があれば携帯電話を見ることである。マスコミが,こうだと言えば,そうなのかと信じることである。全体が流れだすほうに身をまかせることである。(中略) 弧を知るにはどうすればいいか。さまようことである。旅をすることである。(p34)
 想定する生には限界がある。所詮,人が頭で考えるものには限界がある。想定を超えるものは,予期せぬことに出逢うことからしか生まれない。(p43)
 国境が動いているのは今もかわらない。なぜなら人類は常に流動する生きものであるからだ。世界史は民の流動を記録したものでもある。国家はそこにあり続けるのではなく,そこに停泊しているに過ぎない。(p44)
 スコットランドにどうしてあれほどの数の酒造工場が点在しているのかを,ご存知か。それは,かつてウィスキーにとんでもない重税が課せられた時代に,酒好きの男たちが山のなかや海辺の小屋で酒の密造をしたからだ。(中略)元を辿ればひと癖もふた癖もあった連中があの味をこしらえたのだ。だから美味なのである。(p45)
 英雄は大衆のあやうい精神状態のなかから創造され,大衆と国家を津波のように動かしてしまう。(p57)
 どこで,どうやって,誰に,なぜ・・・・・・などという発想を捨てることだ。たださまよっていさえすれば,街はむこうから君を抱きにやってくる。何も考えずとも遭遇は隣の席に平然とあらわれる。(p66)
 旅人にとって大切なことのひとつに五感を磨いておくことがある。足を踏み入れた土地を,目で,耳で,鼻で,舌で,肌で,知覚することだ。鍛えられた五感は護身用のナイフより,脱出の際に見張り番に渡す袖の下の金より,旅人を生きながらえさせる。鋭い知覚は武器と言ってもいい。旅先で,旅人が思わぬ事故で死んでしまう原因は,ほとんどがこの五感の欠落による。(p74)
 百年前も,五百年前も,千年前も,そこだけずっと繁栄している場所がある。おそらく百年後も,五百年後も,千年後も栄え続けるだろう。 栄える場所と滅びる場所を決定するものは何か? それは場所の,力である。安堵と快楽を感じさせる力だ。土地にそんな力があるのか。間違いなくある。(p81)
 神を信じる土地に入ったら,神を否定しても仕方がない。(p82)
 厄介から逃げるのもひとつの術だが,生半可な逃亡は十中八九,背中から撃たれる。(中略)逃げるなら,大逃げを打つことだ。大逃げの難しいところは形振りかまわず逃走しなくてはならないことだ。(p88)
 旅に出て,その街を知りたければ酒場か娼家に行くことである。懐具合が気になれば酒場がよかろう。それもなるたけ場末の酒場がいい。(p116)
 娼婦を太陽の下に引っ張りだすな,と先達は言った。この言葉,やはり名言なのかもしれない。(p121)
 世界の名だたる都には見事な川が流れていると言ったが,それらの川には共通した風情がある。風情の正体は哀切である。哀切は都についてまわるものだ。 都に住む大半の人々は,都で生まれ育った人ではない。(中略)大半の人は疎外感をどこかに持っている。(p123)
 どんな人であれ生まれて死するまで順風な生を送れる者はいない。(中略)そんなことはこれまでなかったと言う人がいたとしてもいずれ厄介事,災いは訪れる。己一人ではどうしようもないことをかかえこむのが,生というものなのである。それゆえ,人は己以外の何かに依るのである。(p146)
 その神とて人が創造したものである。神が人のかたちをしていることがその証しだ。人間自体に欠落があるのだから,人が創造した神に欠落したものがあって当然である。そうであっても依るべきものがあれば人は安堵を持てる。(p147)
 多くの画家の作品のなかに置かれているとゴッホのあきらかな違いがわかる。かなり離れた場所からでも一目でゴッホとわかる。近代絵画の群れのなかでも彼の絵画は他のどの画家とも違うことが子供にでも理解できる。察知できるのだ。群れのなかでまぎれることがない。(p154)
 人が寄るべきものを探しあてられなければ他人,宗教,権力,名声,金・・・・・・に依って生きながらえようとするのだが,そえらのものに価値を見出せなければ(実際,価値などないのだが)探し続けるしか生きる術はない。 ゴッホはそれを実践した。実践の過程に創作活動はあった。(p156)
 いとおしい者へ惜しみない愛情を注ぐ。己のことよりも,いとおしき者へすべてを与える。そうせざるを得ない性癖。これこそが魔物なのである。惜しみない愛情は美徳という考えがある。私はそれを信じない。偽善とまでは言わないが,他人にやさしすぎることは,大人の男がなすことではない。(中略)他人に何かができると信じることに過ちがあるのだ。(p158)
 美術を学校で学んで何が生まれるというのだ。美術というものは欲望の具象化である。(p163)
 人は何を創造したかではない。何を残したかでもない。何とともに生きたかではなかろうか。(p171)
 文学の誕生するところは人の本能の善の領域からも発するが,その大半は善以外の領域を見る目から生まれる。それは人が善をなすより,それ以外の行為に走るからである。(p179)
 本当に魂というものは存在するのだろうか。私にはわからない。できることならそのようなものが存在しないほうがいいと願う。こうして文章を綴り,旅に出て彷徨した自分の時間が跡かたもなく失せることを望む。そう思っている大人の男は多いはずだ。 私の周囲でも,何人かの友がそんなふうに見事に立ち去った。彼等は生き残った者に名残りさえ与えない。それが大人の男の処し方のような気がする。(p188)
 よほど幸福な日々を送ってきた人でない限り,過去を追憶して充足感を抱く人はいないのではなかろうか。私にとって過ぎ去った時間は苦いものや忌まわしいものがほとんどだ。これから先も過去を懐かしんで気持ちが安らぐようなことはあるまい。(p192)
 若いということは肉体的にも精神的にもたぎるものがうちにあることで,その内包したものは常に自己中心に発散される。しかもその発散は大半が出すべきところを誤っており,他人に何らかの迷惑をかけている。(p192)
 賭博の基本を教わった。賭け事のベースにあるのは記憶力である。そのデータだけが,その人のギャンブルの腕を決める。打っている間の大半は,シノグことでしかない。記憶と流れが一致したとき,打って出る。いったん打って出たあとは,定石も加減もない。常軌をどれだけ逸脱できるかで,賭け事の高が決する。しかしそんなときは,半年に一度もない。(p219)

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