2017年4月20日木曜日

2017.04.20 森 博嗣 『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』

書名 人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか
著者 森 博嗣
発行所 新潮新書
発行年月日 2013.03.20
価格(税別) 700円

● 頭が強い人が書いたものを読む快楽の今月2冊目。

● 著者が折にふれて言っていた“抽象的に考える”というテーマについて展開している。あちらからこちらから,説いて説いてという感じ。

● ところで。読了してから,これ一度読んでいたことに気がついた。
 これって,昔からわりとある。まったく新鮮な気分で二度目を読めたのだから,お得かなと思う。バカか,おまえは,という意見もあると思うんだけどね。

● 以下に多すぎる転載。
 世間一般の多くの人たちの考え方は,極めて主観的であり,大多数は具体的だ。それを自分で意識しているならば問題はないが,無意識にそれがスタンダードだと思っているから,ときとして「狭いものの見方」になりがちで,また,主観的で具体的すぎるがゆえに感情的になってしまい,結果として損をすることになる。(p5)
 (現代アートでは)芸術として描かれる絵は,それが何を描いたものかを伝えるためにあるのではなく,作者がどう感じたのか,ということを訴えるものになった。(中略)「凄い!」という感動を絵にするのである。これが抽象画だ。(p25)
 客観的に考える場合には,自分の経験や知識や立場を忘れる必要があるし,抽象的に考える場合には,表面的なもの,目の前に見えているものに囚われないことが大切である。これはたしかに難しい。でも,できないわけではない。人間にはそれだけの能力がある。それができるから人間だ,といっても良い。(p27)
 僕の友人には,自殺してしまった人が数人いる。周囲の誰も,彼らを救うことができなかった。たぶん,彼ら自身しか,救えなかっただろう。多くの場合,自殺する人の思考は,主観的であり,具体的すぎる,と僕は感じている。(p30)
 だんだん文章が速く読めるようになる。これは,読む能力が増したように錯覚する人が多いが,そうではない。言葉が表していたはずの元のイメージを頭の中で展開せず,ただ言葉を鵜呑みにして処理するようになっただけだ。こういった状態で読んだものは,次第にインパクトが薄くなるし,すぐに忘れてしまうようになる。本を沢山読む人,読むのが速い人ほど,この傾向があるように観察される。(p35)
 社会では,沢山の人がそれぞれの分野の専門となって仕事を分担している。なんでもみんなで多数決を取る,というのは考えもので,それぞれその専門家が考える方が間違いがない。原発反対の人が多いから原発は廃止すべきだ,という数の理論は成り立たない。(p57)
 「どうしてこんな馬鹿なことをするんだ?」と怒ってしまう人は多いが,少なくても「どうしてか」が理解できないから腹が立つのだ。(中略)冷静さに必要なのは,この「理解」なのである。(p62)
 重要なのは,決めつけないこと。これは,「型」を決めてしまって,そのあとは考えない,では駄目だという意味だ。抽象的に,ぼんやりと捉えることで,決めつけない,限定しない,という基本的な姿勢を忘れないように。(p65)
 自分に都合の良い主張をするのは簡単だが,それを聞いた相手がどう感じるのかを予測しておくことは,一つには「思いやり」であり,また逆に考えれば,相手の反応を見越して,より有効な表現を選択するという戦術が取れるわけで,自分にとっても非常に有利となる。(p67)
 歳を取ると,自分に無縁なものが増えてくるし,割り切れるようになる。そんなことに金をかけても,なんの足しにもならない(ならなかった),と処理する。こうして欲求はすべて小さな具体的なものばかりになり,予感や願望だけの「美しさ」は無益なものとして排除される。(中略) こうなってしまった年寄りは,ぼんやりと悩んでいる若者に対して,つい「はっきりしろ」「もっと具体的に」と言いたくなるはずだ。しかし,若者の「はっきりしない思考」というのは,それも価値があるものであって,それを失ったのが「年寄り」なのである。(p83)
 悩むことはけっして悪いことではない。とにかく,考えないよりは考えた方が良い。この法則は例外が少ない。(p92)
 抽象的思考を身につける方法というものは,具体的にはない。こうすれば間違いなくできるようになる,という方法は存在しない。したがって,教えることなんてできない(p98)
 教育というのは,結局のところ,具体的な知識を詰め込むことしかできていない。「才能を育てる」というのは,もともとあった才能が活かされる場を用意するだけのことだ。(p99)
 僕が見たところ,現在の若者は常識に縛られ,具体的な大量の情報によって抑制されている。できるのに,できないと思い込まされている人が大勢いる。(中略)教育という行為は,少なからず,具体的情報を押しつける行為であり,ぼんやりと存在していた個人のイメージに対し,みんなで共有するために意味を限定(すなわち,定義)する作業の集積でもある。結果として,皮肉なことに,教育が抽象的思考を阻害する可能性があることを,まず自覚しなければならない。(p103)
 知識を得ることは,抽象的思考とは方向性がまったく異なる。もしも,知識の多さが「理解」であり,知識によって物事がすべて解決できると思い込めば,もうなにも考える必要がなくなってしまう。(p103)
 自分が知ってしまった情報に対して,「もしも自分がこれを知らなかったら」と仮定して考えることが,抽象的思考の基本なのである。(p115)
 なにか具体的な例を挙げようと思ったのだが,多くの読者は,僕がたまたま挙げた具体的な例に囚われるだろう。その具体例だけ覚えてしまい,逆に抽象的な本質を意識できなくなる。言葉で説明したり,人を納得させるときに,難しいのはまさにこの点なのだ。(p118)
 注意したいのは,芸術を評価する目というのは,裏データを知る必要がないことである。(中略)頼りになるのは,自分の感性だけだ。これをしなければ,芸術に触れる意味がないとさえ思われる。(中略)芸術の本質とは,貴方の目の前にある作品と貴方の関係なのである。(p122)
 言葉で表されていても,それを言葉で理解することは,僕は間違っていると思う。しかし,いわゆる評論家というのは,これを無理にしている人たちである。(p123)
 感想文を書くことが上手になれば,きっとその分,芸術家になれなくなるだろう。解釈という単純化が,芸術をたんなる技術にしてしまうからだ。(中略) 創作を自分で行うには,「感動できるけれど言葉にならないもの」,そんな「わからないもの」を自分の中に持っていなければならない。(P124)
 抽象化する力が不足している人は,創作するものが,人真似になるだろう。自然にそうなってしまう。それは,まだ具体的なものに囚われている証拠で,自分が目指すものが,充分に抽象化されていないことを示唆している。(p125)
 抽象的なものには,論理が完全には適用できない。また,論理的思考とうのは,発想があったあとに,それを吟味する役目のものである。論理的にいくら考えても,新しいことを思いつくことはできない。(p126)
 いつだったか,(たしか新聞の投稿で)子供が満天の星を見て,「蕁麻疹みたい」と言ったことに対して,「近頃の子供は夢がない」と嘆く論調のものがあったが,とんでもない話である。その子供の発想は素晴らしい,と褒めなければならない。星空は綺麗なものという固定観念に囚われている方が,明らかに「不自由」な頭の持ち主であろう。(p129)
 誰もが自殺について考えたことがあるだろう。それをしないで生きているのは何故なのか? この問いは,非常に重要なものである。(中略)しかし,この答を具体的に語れる人も少ない。少なくとも,僕にはできない。ただ,なんとなく,生きていた方が良いような気がする。ここでも大切なことは,「ような気がする」という極めて抽象的な方向性なのである。 すなわち,そもそも人が生きている,人を活かしているものは,抽象的な,ぼんやりとした理由でしかない。探求すれば,もっと深く考えることも可能だろうけれど,しかし,けっして具体的になるものではないだろう。(p132)
 世間の人がよく誤解をしていることがある。研究とは,「調査:だと思われがちだ。(中略)しかし,僕の認識では,これは研究ではない。研究のための準備か,あるいは確認作業だ。(中略) では,研究というのは,どんな行為なのか,といえば,考えて考えて,思いついて,そして,それを確かめる,もし確かめられなかったら,また考えて考えて,思いつく,という繰り返しである。(中略)なくてはならないのは,やはり思いつくこと。すべては,発想に起点がある。それは,時間にすれば,ほんの一瞬のことだ。(p137)
 僕は,メモというのは一切取らない。これは,研究でもそうだった。メモを取ろうと思った瞬間に,つまり,言葉にしようとすることで失われることが多すぎる。どうせ最後は言葉にするのだ。メモよりは,本文を書く方が言葉の数が多いので,失われるものは最小限になる。発想したときメモを取るくらいなら,発想しながら本文を書いた方が効率的だ,と考えている。(p144)
 作りたい気持ちはあるけれど,作りたいものがあるとはかぎらない。これが抽象的な指向である。そうではなく,作りたい気持ちは大してないけれど,作りたい(できれば,誰かに作ってほしい)ものがある,というのが具体的な指向になる。前者の方が良い状態だと思う。(p148)
 楽しいものを求めるときに,楽しくない手法では元も子もないという場合もある。(p150)
 世の中は,具体的な方法に関する情報で溢れ返っている。こんなに沢山の情報が存在できる理由は,結局それらの方法では上手くいかないからである。(p151)
 人生なんて,長生きしてもたかだか百年ではないか。さらにもっと未来を見れば,いつかは地球は太陽に呑み込まれて消滅してしまうだろう。自分がどう生きようが,最後はすべてが無に帰すのである。それは確実なことなのだ。(中略) このように,抽象的に見るために客観性を増して遠望すると,「すべてが虚しくなる」という人もいる。(中略)しかし,「虚しくなるから考えない」というのも理由として変だ。おそらく,「虚しいことは悪いことだ」と思い込んでいるのだろう。 日本には古来,虚しさを楽しむ文化があるではないか。(p154)
 思考は,自由で常にダイナミックだ。しかし,具体的な(肉体の)生活は,質素で無変化であってもかまわない。むしろ,その方が健康を維持しやすい。健康は,思考を支えるためにある,と僕は思っている。(p160)
 究極的には,その人の考え方なのだと思う。考え方がすべての基本なのだ。だから,現実がどんな状況にあっても,肉体がどんな状態であっても,思考は自由であり,いつでも楽しさを生み出すことができるはずである。ただ,現実や肉体といった具体的なものに囚われ,不自由を強いられているのである。(p161)
 論理的な思考というのは,それに集中し,「脇目もふらず」突き進む感じのものだが,発想するときの思考は,「どれだけ脇目をふるか」が重要になる。(p168)
 人間の頭脳が考えるものは,そういう「人工的」なものである。実は,「論理」というものも人工的なもので,計算も推論も人工だ。(中略) しかし,その当の人間の頭脳は,まちがいなく自然なのだ。頭は,人工物ではない。したがって,自分の思うとおりにはならない部分がどうしてもある。(中略) 優れた発想とは自然から生まれるものなのだ。思うようにならないのは,人間の頭が作り出した人工の論理から生じるのではなく,人間の頭という自然の中から育ってくるものだからである。したがって,まさにガーデニングや農業と同じで,抽象的思考の畑のようなものを耕し,そこに種を蒔くしかない。発想とは,そうやって収穫するものなのである。(p179)
 学び方,考え方といった具体的な手法を数々取り入れたところで,それはその場限りの,つまりお金を払って庭師さんに作ってもらった庭園であって,自分が作り上げたものではないため,やはり次第にアイデアは枯れ,土地は痩せてくる。毎日こつこつと雑草を取っている(抽象的な思考を続ける)人の庭には,どう頑張ってもかなわない。(p181)
 この頃は,「楽しく学ぼう」というような幻想を追い求めすぎていないだろうか。はっきり言って,勉強は楽しいものではない。考えることだって,どちらかといえば苦しいことだ。のんびりとリラックスしているときにアイデアが浮かぶよりも,忙しくて必死になって考えているときの方が,断然発想することが多い。(p184)
 大事なことは,「もうちょっと考えよう」という一言に尽きる。(中略)なにに対しても,もうちょっと考えてほしいのである。なにしろ,全然考えていない人が多すぎるからだ。(p186)
 知らないから不安になるという人が多いけれど,誰も本当のところは知らないということくらいは,知っておいた方が良い。専門家は,比較的詳しいというだけだ。(中略)自分で少し考えるだけで,かなり理解が深まるのに,それをせず,ただ知ろう知ろうとするから,疑心暗鬼になって「ちゃんとすべてデータを見せてほしい」「なにか隠しているんじゃないか」と疑ってしまう。(p190)
 情報は,それを発信した人の主観が基本になっている。自分に有利になることを書いている場合がほとんどだ。(p191)
 僕の場合は,引用を極力しないことにしている。誰かの意見を直接参考にして考えたわけではないし,具体的な事実にも無関係な,抽象的なことを話題にするように心がけているからだ。(p192)
 将来の方向性といった問題については,できるかぎり判断を保留した方が良い。この保留することも,抽象的思考から導かれるものの一つである。 慌ててどちらかに決める必要などない。ぼんやりとしたままで良いではないか。(p195)
 〇か一かを決めないといけない,と考えるのは,「もう考えたくない」という生理的な欲求によるものだと思われる。(p195)
 好きか嫌いかを決めて,好きなものからは情報を入れ,嫌いなものからは情報を入れない,ということは,あまりにも理由がない。(中略)そんな「好き」や「嫌い」は,僕は嫌いである。馬鹿馬鹿しいとさえ感じるし,明らかに理不尽だとも思う。(p203)
 僕は,人の意見を聞くときや,人が書いた本を読むときには,それで自分が影響を受けようという気持ちでいる。そうでなければ,意見を聞いたり本を読む意味がない。(p206)

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