2017年3月21日火曜日

2017.03.16 中川右介 『未完成 大作曲家たちの「謎」を読み解く』

書名 未完成 大作曲家たちの「謎」を読み解く
著者 中川右介
発行所 角川SSC新書
発行年月日 2013.01.25
価格(税別) 840円

● 未完に終わったとされる代表的な楽曲と作曲家6人を取りあげる。
 シューベルト「未完成交響曲」
 ブルックナー「交響曲第九番」
 マーラー「交響曲第十番」
 ショスタコーヴィチ「オランゴ」
 プッチーニ「トゥーランドット」
 モーツァルト「レクイエム」

● 未完に関しては“「謎」を読み解く”というほどの謎ではないわけだけど。6人の作曲家の評伝として読めばよいのではないか。面白く読める。
 著者のスタンスは,それぞれの作曲家の生涯の中に入りこんで,内部から追体験しようというのではなく,彼らを突き放して適度に距離を置き,第三者の眼で眺めるという,学者的な態度。

● 以下にいくつか転載。
 カラヤンは一九六一年から六二年にかけて,ベルリン・フィルハーモニーを指揮して,ベートーヴェンの交響曲全曲を録音し,いきなり八枚組のセットで出し,当時の日本人は月賦で購入していた。(p52)
 十九世紀初頭において,一時間近い交響曲はあってはならないものだった。しかし,シューベルトは第二楽章までで三十分近くになる交響曲を書いてしまった。完成させても演奏機会のないことは必至だ。そこで続きを書くのを止めた。(p55)
 ブルックナーはなぜこのように休む間もなく,次の仕事に着手するのだろう。(中略)彼がそういう性格だからだとしか解釈できない。 その結果,何が起きたか。交響曲は「完璧」に仕上がらなかったのである。いったんできた後,じっくりと見直し、直すべきところを直し,それから初演する指揮者,オーケストラに見せるべきなのだが,どうも彼はその工程を怠っていたのではないか。(p68)
 レーヴィに先駆けて第七番を初演したニキシュは一八五五年生まれなので,レーヴィよりもさらに若く,ブルックナーとは親子ほども歳が離れている。つまりは,ブルックナーの音楽は若い,新しい世代によって初めて理解されたということでもある。(中略)ブルックナーは十五歳下のレーヴィのことを手紙では「私の芸術における父」と呼んでいる。(p70)
 ブルックナーの死は,瞬く間に口コミでウィーン中に知れわたった。多くの「関係者」がベルヴェデーレ宮殿のブルックナーの部屋を訪れると,あたりに散らかっていた楽譜を「記念」に持ち帰ってしまった。 こうして,ほぼ完成していた第九番第四楽章の楽譜は散逸してしまった。(p83)
 アダージョで静かに終わる曲というものに,現代の聴衆は違和感を抱かなくなっている。ブルックナーの時代は,そのような交響曲はあってはならないものだったが,チャイコフスキーの《悲愴交響曲》やマーラーの第九番などで,人々はそういう終わり方の曲の素晴らしさを知ってしまった。(p89)
 マーラーの「作曲」は,実に機械的というか実務的だ。夏の二カ月間に集中して「譜面に音符を書く」のが彼の「仕事の流儀」だ。このことから,書き始めた時点ですでにマーラーの頭のなかでは全曲が完成していたと考えるべきだ。(p112)
 五楽章完全版を聴くと,第十番がいかに雄大な曲であるかに驚く。そこからは「九のジンクス」「死の恐怖」「妻との愛の苦悩」に怯え悩んでいる姿など,微塵も感じられない。(p122)
 (スターリン時代のソビエトでは)公式文書だろうが個人の手紙だろうが,すべてその内容が信用できないのだ。人々は秘密警察と隣人の密告を恐れ,日記にも手紙にも自分にとっての真実は書けなかった。(p133)
 現在では偽書だとする学者のほうが多く,その内容を一〇〇パーセント信じる者は少ないが,残念ながらこの『証言』は日本で最も売れたショスタコーヴィチ関連の本なので,いまだにここに書かれていることが真実だと信じている人も多い。(p158)
 十九世紀後半になって,オペラは「そう簡単には作れないもの」となっていったのである。それ以前は台本を含め様式が決まっていて,それにあてはめて書くというかたちで注文をさばいていけばよかった(p176)
 それまでは歌劇場から注文されて書いて報酬をもらったらそれで終わりだったものが,どこかで上演されるたびに著作権料が発生するようになったことも大きい。(中略)経済的にも多作の必要がなくなった。(p177)
 オペラの場合,スコアが完成しても,上演にあたって手が加えられるのが常なので,初演をもって完成と考える。(p178)
 商業出版においては,たとえベストセラー作家であっても,出版社と著者が合意しないことには何も始まらない。著者が書きたいから書くのは,自費出版ぐらいだ。 それは音楽でも同じだ。クラシック愛好家のなかには,音楽家たちが芸術のためだけに作品を書き,芸術的理由のみで長さや規模や内容を決めていると思っている人がいるが,作品が生まれるのも未完になるのも,どんな内容になるのかも,さらには未完なのに演奏・出版されるのも含め,すべての過程で何らかの経済的事情があるのだ。(p249)
 そのテーマや,単行本なのか新書なのかといった器によって,「適量」がある。ワーグナーの《指輪》が破天荒な長さなのも,自主興行で上演するつもりだったからで,どこかの歌劇場からの依頼仕事では,あんな長いものは企画として通らない。(p250)

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