2017年3月6日月曜日

2017.03.01 森 博嗣 『本質を見通す100の講義』

書名 本質を見通す100の講義
著者 森 博嗣
発行所 大和書房
発行年月日 2015.07.25
価格(税別) 1,300円

● 頭のいい人が書いたものを読むのは,それだけで快感を伴う。といって,学術論文などはこちらは読めないわけで,あくまで商業出版に乗ったものに限るんだけど。
 自分もぼんやり思っていたことにピタッとはまる言葉を与えられると,快感がピュッと噴きあがってくる。

● 天上天下唯我独尊という思いをどこかに秘めていないと,面白いものは書けない。たぶん。
 唯我独尊という思いをどこかに秘めているのも,頭の良さの条件でしょうね。右顧左眄しないということでもある。

● 以下に転載。
 本というのは,窓から射し込む光のようなものであって,それで貴方の部屋が明るくなることもあれば,埃や汚れを際立たせることもある。でも,それは貴方の部屋なのだ。(p2)
 資本主義を牽引したエネルギィは,金を儲けたいという欲望であって,それは,自分と貧乏人との格差を広げたい,という「夢」なのだ。金持ちになってフェラーリを買っても,見せびらかす相手がいなかったら意味がない。(p30)
 エネルギィ的に見て,個人がなす仕事量には限界がある。だから,仕事に対して報酬を与えるだけならば,さほど大きな格差は生じない。資本主義における格差は,仕事をしないで得られる利益が存在するためである。ここが「資本」の意味だ。(p31)
 悪い部分があったときには,株主の顔色を窺い,応急処置をしなければならない。リストラしたり,試算を売却したり,といった防戦一方になる。ここに至っては,すぐに結果が出るものでなければ認めてもらえない。長期的な手は打てなくなり,刹那的になる。だから,ますますじり貧になる。(p32)
 結局のところ,つながりたがっている多くは,つながることで金が儲かるからにすぎない。それを,綺麗な言葉で飾って,「絆」「親睦」などと呼んでいるのである。(p37)
 民主主義とは,みんなが自由になる,ということではない。みんなでリスクを分担する,という意味だ。誰もが少しずつ不満を持って,少しずつ危険を抱え込むこと,それを許容することが,民主主義の精神である。(中略)したがって,消費税をゼロにするとか,教育費をゼロにするとか,原発を即ゼロにするとか,基地はすべて国外とか,そういう「みんなが得をする」ことばかり言っている政治家は,極論をすれば,民主主義を利用した詐欺師のようなものだ。(p39)
 もしできることの共通点を探ろうとすると,もの凄く細かい手しか打てない。もっと大胆な政策はないのか,と不満がみんなから出るはずだが,その不満の方向性がこれまた違うため,ベクトルを合計すると力が弱くなる。(中略)それでも,小さくても良いから一致する部分を見つけて,みんなで盛り上がりたいのが,人間というものらしい。(p45)
 弱者は貶すことができないが,強者は貶しても大目に見られる,ということである。(中略)グループの構成員が多くなると悪口が一般的になるからだ。東京の悪い点を挙げても,東京の人全員を責めているわけではないし,またたとえそうであっても一人当たりの責任が割り算で小さくなる。逆に,小さな村の悪口は,そこにいる人々の個人攻撃に近いものに受け止められる。そういうメカニズムなのではないか。(p54)
 金を使って楽をしようとする精神が貧しい,と怒る人もいるだろうけれど,そもそも,金とはそういう使い方をするものである。(p60)
 可能性をあれこれ想像することで,たいていのことは許容できるようになる。つまり,腹の虫というのは,腹の中にいて世間が見えていないからこそ,治まらないのである。ちょっと考えれば,そんなに怒るようなことか,となるはずだ。(p61)
 庭というものは,基本的に自然であって,完成品を人間が造ることはできない。無理に植えてもすぐに枯れてしまうだけだ。(p67)
 自然が絡むものは,「維持」が大変である。人工物でも腐食はするけれど,自然の変化に比べればずっと遅い。自然はあっという間に姿を変える。それこそ,季節が変わっただけで跡形もなく消えてしまう。毎年同じものはけっして現れない。(p67)
 全体として良くなっているということは,一人の人間の中でも,平均すれば,私欲よりは「みんなで良くなろう」という公欲が大事だと判断されていることを示している。何故そうなるのかといえば,答は一つしかない。そちらの方が「美しい」からだ。逆に,隠し持っている私欲が「醜い」ことを人間はたぶん知っている。(p69)
 この頃はネットが本に代わろうとしている。しかし,本のように一冊に纏められているわけではないので,「世界」を感じることが難しい。(中略)こういう時代にいる子供たちは,(中略)周りを見て,周りにきいて,歩調を合わせるだけの人になりやすい。(p75)
 自分の経験以外は基本的に「知らない」ことであるから,「知らない」ことを想像するしかない。その想像をする人が少ないということが,数多くの観察からわかる。また逆に,小説とか映画とか,自分の創作を大勢に見てもらう立場の人は,その想像をしないと作れないのである。(p77)
 科学というのは,そういう具合に,少しずつ進めるものなのであって,「あるのかないのかどっちなんだ」と声を荒らげる下品さは,非常に嘆かわしいと感じる。(p85)
 専門家になるほど,知識が豊富になるから,ほとんどの事について,複数の意見,複数の事例,数々の例外があることを考慮して,なかなか断定的な発言ができなくなる。したがって,ますますじれったい話っぷりになるのだ。(p89)
 若者は,本当にTVから離れてしまった。視聴率を気にして,ますます老人向けになっている。ようするに,年寄りが株主みたいな感じなのが今のTVだ。(p89)
 ワンパターンというのは,面白いから繰り返され,ワンパターンになる。どこで面白くなくなるかは,受け手のセンスの鋭さ(感度)による。(中略)全体を眺めている人は,まだ笑ってくれる人がいる,と観察するのだ。つまり,大勢を相手にする人ほど判断は必ず遅れる。(p92)
 ブログを続けられる人は,仕事としての報酬を得ているか,あるいはボランティアか,のいずれかである。いずれも,不可欠なのは不特定多数に対する「奉仕」の気持ちである。サービス精神がなくては続かない。自分が得たい,自分を売り込みたい,では続かないということだ。(p101)
 まずは,自分がどう感じるのかを丁寧に拾い上げることが大事であって,そのうえでの他者,社会なのではないか,と僕は思う。(p103)
 大人になり知識が増えると,知らないことを嫌うようになる。「嫌奇心」という言葉はないと思うが,そにかくそういう状態に多くの人がなる。(p104)
 わかったときに,「そうだったのか!」と跳び上がるほど嬉しい思いをしている人は,いつまでも知りたいと思う。だから,未知が希望になる。一方,わかったときに,「なんだ」とか「またか」と溜息が出る経験を積み重ねると,だんだん未知が不審になる。(p105)
 好き嫌いや美意識などは,そもそも多数決を取ることが間違っているのである。自分が好きなものが大勢と一緒でなければならない理由はない。大衆の多くはそこを勘違いしているみたいだ。 そういう社会に浸っていると,自分の感情,感覚も鈍ってくる。自分がどう感じたかを自分で取り上げなくなる。(p114)
 シュレディンガの猫ではないが,晴天なら晴れ男になり,雨なら雨男になっているだけで,観測されるまでは両者は同時に存在している,と考えるのが科学的である。(p121)
 僕としては,具体例を挙げることで,そちらへ関心が移ってしまうのを避けている。抽象的な文章はそのまま理解してもらいたい,と考えているからだ。(p145)
 クリエータというのは,常に新しいものを求めている。新しいものを作り出すことをクリエートという。作品を生み出すとは,そういう意味だ。何十年も前のヒット曲を大晦日になるごとに歌わなくてはいけない人は,クリエータだとしたら苦痛だろう。(p149)
 知らない人が多いようだが,この世には命よりも大事なものなんて幾らでもある。(p153)
 僕が書く本を読んだ人で,「森博嗣は世間知らずだ」と批判する人がいるけれど,僕は,それを批判だと感じない。どうしてかというと,世間なんか知りたくなかったからである。いつも世間知らずでありたいと願っていた。見て見ぬ振りでは,世間は知れてしまう。世間知らずであるためには,なにかに没頭し,一心不乱に打ち込まなければならないだろう。(p153)
 作ることに慣れている人であれば,何を作るかを考えると同時に,その作り方をイメージしている。そのイメージがないと,何を使うのかも決まらないし,作れるのかどうかもわからない。(p158)
 現在の方向性は,むしろ個人へ向かっている。商品は可能な限りカスタマイズされ,個性を重視するようになっている。ファミレスではなく,個人経営のレストラン,あるいは自宅での手料理へ,と価値はシフトしている。(p161)
 人間は自分が望まないものは信じない特性を持っている(p162)
 土屋賢二氏のエッセィが面白いという話は,もう何度も書いているところだが,似たような作品が現れないのは,彼のエッセィが尋常ではない思考力と知性によって生み出されているからだ。凡人には真似ができない。(p170)
 そんなことを言ったら偏見だと言われそうだが,平均的な考えとどれくらいずれているかが,エッセィにおける最大の武器といえるからだ。(p171)
 ものを作る人は,飾った言葉を使わない。とても正直だ。営業担当の人は,作業の細かい部分を知らない。ただ,客の希望を聞き,金額の交渉をするのが役目で,そこでは言葉によるコミュニケーションに頼っているから,自ずと言葉が飾られる。(p180)
 共通しているのは,みんな黙って仕事をすること。道具をもの凄く大事に扱うこと。そして,最後は作業場を綺麗に掃除することだ。自分も,大人になったら,こういう仕事がしたいと思っていた。工場で働いて,機械を作ることが夢だった。(p181)
 だいたい公共事業というのは,多かれ少なかれこんな性質のものである。もし「改革」を本気ですれば,ある程度は経費削減になるけれど,それは下々の首を絞めることになるはずだ。そんな非人情的なことは殿様にはできない。(中略)しかし,たとえば,社会主義だってこれで滅んだのだ。資本主義が生き残ったのは,残念なことだが,「儲けるために下々の首を切る殿様」が勝てる社会だったからである。全体としては,この合理主義が社会を発展させたといえる。(p184)
 毎日こつこつと作業をしていると,ついつい「怠けていない」と満足してしまう。少し考えてみれば,もう一段合理的な手法があるかもしれない。(p185)
 目標に向かって少しでも近づこう,という前向きさが,かえって目標に到達できない事態を招くことがある。(中略)道が一本であっても,道自体が大きく湾曲しているときには,目標から遠くなる方向に進むこともある。(p188)
 今日だけの楽しみ,身近な面白さだけで生きていたら,そのうち,どちらへも動けない停滞感に苛まれることになる可能性が高い。(p191)
 一見無駄に見えるけれど,実はそうでもない,というものが沢山ある。無駄に見えるのは視野が狭いことによる錯覚である。(中略)自分たちの物差しで見ているから,そう見えてしまうのだ。(p203)
 ピカソだって,若い頃の写実性は天才的だった。型破りなことをするためには,まず型の中に入らなければならないのである。 おそらく,この伝統的なものの中に身を置いてこそ,真に新しい発想を持つのではないか。(p204)
 それでも見つからないときは,最後の場所を見る。それは,この探索が始まる以前,すなわち,一番最初に見たところだ。結局,「探してもなかった」と勘違いしていた場所で見つかるのである。(p207)
 自然や社会や相手の問題だと捉えているうちは解決しない。観測するのも,理想を抱くのも自分なのだ。問題はすべて,結局は自分の中に存在するのである。(p209)
 問題を抱えている状態は,人に深みを与える。僕くらいの歳になるとひしひしと感じることだ。でもそれは,その深さに沈んだままの人ではなくて,その深さから浮かび上がってきた人にいえることなのである。(p211)
 問題を解かせないためには,問題が解けたと勘違いさせることが有効なのである。(中略)相手に勝ったと思わせることが,こちらが勝つために有利になることが多い。(中略)僕は仕事で,申請書や報告書をよく書いたのだが,わざと一字誤字を入れておく。するとチェックをする事務員がそこを指摘してくる。それを直してお終いとなる。(中略)直しやすいミスをわざと作っておくのである。書類なんてどうでも良いものだと考えていたので,このように自分なりに合理化していた。(p212)
 たとえば,腹が立っているときに,「ああ,自分は腹を立てているな」と思うことが自覚である。腹を立てている人の多くは,それを忘れている。(p214)
 孤独と一口にいっても,いろんな孤独がある。人間の数だけあり千差万別だ。(中略)だから,言葉というもので,抽象化して,だいたいの共通点について,だいたいの傾向を見出し,ぼんやりとした対策を練ったり,ぼんやりとした考え方について議論をするのである。本を読むことも,他者と話をすることも,あらゆるコミュニケーションとは,そういう「歩み寄り」のうえで,少しでも自分に有利となりそうなものを見つける行為なのだ。(p217)
 破裂して壊れるのは,コンクリートの性質というよりも,コンクリートを壊している試験機の性質だということだ。実現象には,こういうことがよくある。(中略)人間の壊れ方もたぶんこれと同じで,強度の個人差はあれ,実は周囲の圧力のかけ方に起因している場合がほとんどだ。(p221)
 人間というのは,「こんなこと滅多にないのだから,思い切ってぱっと使おう」という気持ちになりやすい。分割するとなんだか「こぢんまり」としてしまう,と何故か考える。実は,この一気にぱっと使うというのが,かなり貧乏くさい発想だとは気づかない。(p227)

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