2017年2月1日水曜日

2017.02.01 中川右介 『聴かなくても語れるクラシック』

書名 聴かなくても語れるクラシック
著者 中川右介
発行所 日経プレミアシリーズ
発行年月日 2012.08.08
価格(税別) 850円

● 著者はクラシック音楽の入門書(新書)をいくつか書いている。本書はその中の1冊。入門するならこの曲を聴きなさい,この指揮者のこのCDがいいですよ,という内容ではない。それも巻末にまとめて紹介されてはいるけれど。
 そうではなくて,クラシック音楽という範疇について語っている。歴史やいくつかの転換点になった出来事や作曲家にも触れている。

● 「音楽は聴かなければ分からない」というのはそのとおりだろうけども,語るだけなら聴かなくたってじつはかなりのところまで語れてしまうのじゃないか。
 もちろん,オーケストラに入って楽器を演奏している人とか,コンサートに足繁く通い詰めている人とか,おまえはCDのレンタル業でも始めるつもりかと言いたくなるほど,CDを揃えて聴きこんでいる人とか,そういう人たちに読んだだけの知識をひけらかすのは自爆行為だとしても,ぼくもクラシックが好きでねぇ程度の人ならば,読んだだけの知識で充分に渡り合えると思う。
 そういう半可通を黙らせるだけなら,聴くまでもない。読むだけで充分だ。

● そのために格好な本は,最近出た『葉加瀬太郎の情熱クラシック講座』(ローソンHMWエンタテイメント)だと思うけれど,本書をその1冊に加えることに異存はない。
 読みやすいから時間をかけずに読了できるのも,精神衛生にいい。

● 以下にいくつか転載。
 音楽は聴かなければ分からない部分があります。それで聴いてみる。ところが,つまらない。自分には無理だ。クラシックなんてどうでもいいや-このように,せっかく入門しようと思ったのに,「聴いた」がために挫折し,あきらめてしまう人が多いようです。(p5)
 戦前に比べれば,クラシック・ファンの所得水準は平準化されていると思いますが,それでも比較的裕福な人々の趣味であることは事実です。 平準化したのは,大衆教養主義のおかげです。(中略)しかし,次の文化相対主義によりクラシックの価値が下がったため,本当に好きな人しか聴かなくなりました。(p22)
 すべては,楽譜の発明に始まったと言って過言ではないのです。これにより,音楽はその場で消えてしまうものではなく,記録されるもの,複製されるものになり,そこにビジネスが生まれたことで,さらに発展していったのです。 やがて二〇世紀になると,録音と放送,通信という技術が音楽をさらに普及させます。これらの発明も欧米でした。(p48)
 クラシック,つまり西洋音楽も最初は「歌」でした。教会音楽は聖歌ですから,基本的に合唱であり,オルガンは伴奏に過ぎません。オペラも歌が主でオーケストラは伴奏でした。ですから,ベートーヴェンの時代まではコンサートでも歌がメインであり,その合間に交響曲やピアノ・ソナタが演奏されており,オーケストラだけのコンサートが開催されるようになるのは,一九世紀になってからです、(中略)言葉を必要としなくなり,楽器演奏だけの音楽が主流になることで,クラシック音楽は世界市場を獲得したのかもしれません。(p50)
 クラシック音楽はある意味で富の集中する業界なので,お金のある国・地域に才能が集まり,お金のある都市でいい演奏会が開催されます。(p53)
 「音楽が嫌い」という人は,まず,いません。でも,「クラシックは苦手」という人は多い。なぜでしょう。「何を描いているのか分からない」からです。クラシック音楽とポップスとの最大の違いは何かというと,「言葉」の有無だと思います。(p58)
 モーツァルトの交響曲はすべて何も描いていません。さまざまな楽器が鳴り響いているだけです。物語は何もありません。言葉として理解することは不可能なのです。だから,クラシックを聴き慣れていない人がモーツァルトの交響曲を聴いて,「何を言いたいのかよく分からない」と思ったとしたら,それは正しいのです。(p60)
 高いチケットの公演でも,有名人は着飾っていますが(それが彼らの仕事でもあります),普通のお客さんは,そのまま街を歩いても目立たない服装がほとんどです。(p67)
 ロックのコンサートは大音量を楽しみに行くものですが,クラシックは「沈黙」の一歩手前の静かで弱い音を楽しむ音楽でもあるのです。弱い音だけど,ホール中に響く-この矛盾したことをやれるかどうかが演奏家として一流かどうかの違いと言ってもいいわけです。だから,聴くほうも静かにしていなければならない。(p69)
 学校の音楽鑑賞教室は,その目的とは逆に,「クラシック嫌い」を大量生産したわけですが,その最大の理由が,聴いた後に「感想文」を書かされること。教員は「聴いた音楽について感じたままに書けばいい」と言って書かせるわけですが,「音楽について感じたことを書く」なんて,プロの音楽評論家だって難しい。そんなことが中学生や高校生にできるわけがないのです。(p72)
 読書感想文は読書嫌いを作る。とうの昔から言われていることなんだけど,今でも教育現場では,小学生をせっせと読書嫌いにさせている。
 一八世紀までは「過去の名曲」という概念がありません。音楽とは,その場で消費されるものでした。有名な音楽家,人気のある音楽家はいましたが,死んでしまえば忘れられ,その人の作品を他の人が演奏して伝えていくなどということは,ほとんどなかったのです。 一九世紀半ばになって,過去の名曲を「クラシック」と呼ぶようになり,作曲者以外の人によって演奏される-ポップスでいう「カバー」の時代に突入します。 それを可能にしたのは,楽譜の出版でした。(p75)
 楽譜を買う人の購入動機は,自分で演奏するためですが,クラシックのファンのなかには,楽譜を「読むモノ」として購入する人もいます。音楽の作品論や演奏論を核にあたっては,楽譜を読むことは必要不可欠なので,資料として揃えている学者や評論家もいますが,なかには,趣味として楽譜を読む人もいるわけです。(p76)
 楽譜というものは正確なようでいて,かなり曖昧なものなので,それを読み取って演奏する人によって,かなり違ってくる。音の高さは,一応,科学的に決められています。しかし,長さとか強弱はかなり曖昧なのです。そこに演奏者の「解釈」の余地が生じます。(p77)
 レコード(CD)と卵は物価の優等生と言ってよく,何十年もの間,ほとんど値段が変わりません。一九六〇年代のレコードもいまのCDと同じで一枚二千円前後でした。大卒の初任給が一万円前後の時代の二千円ですから,かなり高かったのです。簡単に買えるものではなかった。そのため,音楽評論家には,どのレコードがよいか見解を示すことが求められたのです。(中略)こういう事情で「名盤」というものが決められました。(p82)
 映画音楽はフルオーケストラで演奏される豪華絢爛なものになっていきました。作曲家たちは,オペラの手法を使い,音楽を書いていったのです。そのオペラの手法とは何か。それはワーグナーが考案した「ライトモティーフ」という手法です。ワーグナーは登場人物ごとの音楽を作り,さらに「怒り」とか「恐怖」とか「歓び」とか「愛」などの状況や感情ごとの音楽を作り,されを組み合わせることを考案したのです。(p89)
 まず,コンサート会場が大きくなっていきました。(中略)大きくなればなるほど客の収容人数は増えるので,興行収入が増えます。 ところが,演奏会場が広くなると,端の席,うしろの席まで音を届けるためには,音量を大きくしなければなりません。こうして楽器の改良がなされます。音量が大きくなった楽器の代表がピアノです。(p169)
 芸術家なんだから,納得できる演奏になるまで徹夜も辞さないのだろう,なんて思っていたら大間違いです。彼らはサラリーマンでもあるのです。とくにアメリカのオーケストラはユニオンによて守られており,一分でもリハーサルが長引くと残業代が発生します。だから,事務局は時間厳守を指揮者に求めます。(p180)
 天才がいて独創的な音楽を創り出した。それを模倣する凡人がいてその音楽は拡散した。拡散することでやがて普遍化していく。そこにまた次の天才が現れて独創的な音楽を創り出す-これを繰り返しているわけです。二〇世紀に入ると,「作曲」では天才は現れにくくなりましたが,「演奏」において多くの天才が生まれました。(p187)
 多くのパトロンやスポンサーが芸術家や芸術団体へ寄付や援助をする際には,必ず「金は出すが,口は出さない,自由にやりたまえ」と言うものですが,必ず,口を出してきて最後には金をださなくなるものです。(p194)
 日本のクラシック音楽の関係者は,「クラシックなんてもともと採算がとれるものではないのだから,公的な援助がなければ成り立たない」と開き直ります。何にお金がかかるのかというと,大半は人件費です。そして,その音楽家たちはみな好きでやっているはずです。それなのに,国の援助がなければやっていけないというのもおかしな話です。嫌ならやめればいいのですから。(p195)
 これについてはぼくも意見を持っている。公的補助を望むなら,もっと数を減らさなければいけない。合併・統合が必要だ。それすらしないで,現状をそのまま維持できるように税金を投入してくれというのでは,まったく賛同できない。
 だいたい,納税者の95%はクラシック音楽を聴かない人たちだろう。どうして一部の人たちの趣味のために自分たちの税金が投入されなければならないのか説明しろ,と言いたくなるだろう。
 コンサートなどの興行は,行ってみれば分かりますが,客層の高齢化は深刻です。若い人が少ない。CDのクラシック売り場も中高年の男性客が圧倒的です。(p197)
 客層の高齢化はぼくも実感している。CDのクラシック売り場はほとんど覗いたことがない。栃木だと,宇都宮の最も大きなCDショップに行っても,品揃えは貧弱で,そこにお客がいた試しがない。CDはアマゾンで買うしかない。が,中高年の男性客が圧倒的に多いとなると,事態は最悪だなぁ。中高年の女性客ならまだしもだが。
 一回はコンサートに行かせることはできる。クラシックのCDを一枚は買わせることはできる。しかし,その人をクラシックのファンにさせるのは難しい。(p201)
 カラヤンのように,クラシック・ファン以外にもその名前が知られていたスーパースター,大巨匠がいなくなり,どうも今後は生まれそうもないという事情があります、これはクラシックに限らず,ポップスでも同じだし,音楽に限らず文化・芸術全般,さらには社会全体にも言えることかもしれません。(p206)
 クラシックの名曲は無数にありますが,「クラシック・ファン」と名乗るためには,千枚は聴かなければ鳴りません。(p222)
 最後にこれを言っちゃいけないと思うんだがな。

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