2017年4月23日日曜日

2017.04.22 番外:FRaU 2017年5月号

編者 岡田幸美
発行所 講談社
発売年月日 2017.05.01
価格(税別) 694円

● これも木村拓哉が表紙を飾っている。で,そういうものは一応見てみよう,と。

● 彼のインタビュー記事から転載。
 ずーっとやるべきことは詰まっていたので,やるべきことがしっかりあるという状況が自分を支えてくれたなって思います。
 (サンタクでは)さんまさんがあまりにも野性的なんで,自分がけこう常識的なポジションになるんです。
 初めてじゃないかな。20数年やってきて。“撮休”っていうスケジュールがあるんだっていう。 -作品のスケジュールが休みのときは,初めて共演者と同じように休めるようになったということですよね。 そうですね。今はいろいろ別の仕事も入ったりしてるけど。
 (ロングバケーションのこと)今思っても,これはほんとに,山口智子さんっていう共演者に恵まれたっていうひと言に尽きるんじゃないですか。アクトって,要は,カメラマン,音声さん,照明さんという傍観者がいる状況で,目の前にいる相手に対して,たとえば“好き”っていう気持ちをずっと抱いていられるかどうかっていうことじゃん。あの作品をやらせていただいたときには,(中略)その姿勢になり直す必要がないっていうか。山口さんに対して,自分は,そのまんま思っていればよかった。(中略)いちいち計算する必要がなくて。
 “あ? 待って,待って。ここまで全部自分でやってきて,その1カットだけ違う人?”って思って。結局,自分でやりました。朝イチで。顕微鏡の中のシーンだけ。 -指も映らないのに? はい。せっかくやるなら,ガッツリやったらないと。
 やっぱり周りの人たちがモチベーションを高めてくれるんだと思います。基本,すべてにおいて,自分がやらせてもらっていることって,相手がいて,初めて成立することだから。
 ふつうに(刀を)当てていたよ。(中略)監督も撮る前に“立ち回りではなく,殺し合いを今から撮影させていただくので,みなさん,よろしくお願いします”って言ってくださって。“あ,同じ感覚でいてくれる”と思えて,すごくうれしい気持ちをベースにして動けた。(中略)(市原)隼人なんかも,“撮影”という形で立ち合うのを嫌がっていたし。だからすごかったよ,ほんとに。最高ですよ。ああいう真面目で,ちゃんと熱意をもっている人が同じ現場に立っていてくれると・・・・・・。
 もうそれは,求められたら,動きます。自分は,そのためにちゃんとコンディションを整えていようと思っています。
 -以前のインタビューも,「楽しい,嬉しいといったポジティブな感情だけでなく,悲しい,寂しい,辛いといった感情もしっかり味わった方がいい」と言っていました。 うん,それが結局は,人生を豊かにしてくれると思うよ。

2017.04.22 番外:婦人公論4月25日号

編者 横山恵子
発行所 中央公論新社
発売年月日 2017.04.11
価格(税別) 528円

● これも表紙が木村拓哉君。写真は篠山紀信が撮っている。

● 彼のインタビュー記事からいくつか転載。
 今の僕にしても,何のために命を燃焼させているかと問われたら,やっぱり自分のためではない気がする。作品のためであったり,誰かのためであったり・・・・・・。(p44)
 真冬の京都で,セリフを言うと,寒さで白い息が出てしまう。だから,カメラを回す直前まで口に氷を含んでおいて,「本番!」の合図と同時に氷を吐き出し,セリフを言うようにしていました。(中略)寒いとかつらいとかいう僕自身の感情は,万次には関係ない。(p44)
 僕自身,逃げない,それから,やるからには全力を尽くす。この二つは,ずっと自分に課してきたことです。(p45)
 思いを作品という形にして,たくさんの人たちに向けて放つというのは,ものすごいエネルギー。僕は,そこに一員として参加させてもらっているだけです。一人じゃ,なんっにもできないんですよ。「自分一人で」という感覚は,僕の中では皆無です。(p45)
 映画なら映画,ドラマならドラマ,何かひとつの仕事にフォーカスを合わせ続けられるようになったことは,すごく新鮮ですね。前は(中略),チャッチャッと,仕事ごとにチャンネルを切り替えないといけなかった。(中略)これまで,“無駄”ってわりと避けてきたんです。時間も限られていたし,最短ルートで結果を出そうとしていた。でも今は,役について,ああでもない,こうでもない,と考えることができる。あ,無駄,いいなぁって。(p45)
 志は高くありたいですけど,高い場所に行きたいわけではない。(p45)
● 作家の佐藤愛子さんのインタビューもある。90歳にして『晩鐘』を世にだした。創作意欲が衰えないこと,その質を維持していること,この二点においてこの作家は野上弥生子以来ではないか。っていうか,野上弥生子を凌ぐのかも。
 何もない平穏な状態はいいことだけれど,いざというときは,平穏なんて何の役にも立たないと思いますよ。(p14)
 93歳の作家の言葉だ。

2017.04.22 番外:キネマ旬報5月上旬号-開眼,覚醒,前進 木村拓哉は銀幕にいる

編者 青木眞弥
発行所 キネマ旬報社
発売年月日 2017.05.01
価格(税別) 850円

● 書店のエンタテインメント雑誌の棚を見ると,木村拓哉が表紙になっている雑誌が並んでいた。「無限の住人」の封切りが近づいているからね。
 「無限の住人」,もちろん見る。

● この雑誌も木村君のところだけを読んだ。以下にいくつか転載。
 木村拓哉は自分もことより,共演者のことより,スタッフのことを語る。彼にとって現場は,単に芝居をするだけの場ではないのだ。(p8)
 万次がいまも生きているとすれば,それは木村拓哉なんじゃないか。そういう一致の凄みを感じるんですよね。キャスティングをする上で迷いがなかった。(この原作を)やるんだったら,木村拓哉がいないと無理だよねと。根拠はないんですけど,なぜかそう思った。(三池崇史 p12)
 万次が,スーパーアイドルとしての役割を果たしながら生きていく木村拓哉という人とものすごくリンクするんです。誰も味わったことのない,木村拓哉にしか見えていない世界がある。わけですよ。明らかに。万次にしか見えていない世界があるように。(三池崇史 p14)

2017.04.22 番外:POPEYE5月号-もし東京に友達が来たら,君はどこに案内するか?

編者 木下孝浩
発行所 マガジンハウス
発売年月日 2017.04.10
価格(税別) 722円

● 主には食堂やレストランの紹介。が,それ以外のものもあって,たとえば最初に出てくる「カストリ書房」。台東区千束にある。遊郭・赤線・歓楽街に関する古書と新刊を扱っている。けっこうエロいのもあるらしい。
 浮世絵は性交場面をデフォルメして描いているものが多いわけだけども,その伝統って江戸時代で絶えてしまったわけではなく,現在まで連綿と続いている? ひょっとして,その中から後世の人たちが驚くような作品もあるのかもしれない。と,妄想してみた。

● 銀座にも「蔦屋書店」ができるらしい。

● 山口瞳さんのエッセイにしばしば登場していた,国立の「ロジーナ茶房」は現在も健在。
 行ってみたいと思ったのは,中目黒の「おにやんま」。立食いうどんの店だ。ここなら一人でも入れる。旨そうだ。

● 昨年大晦日に泊まった「トレインホステル北斗星」も紹介されていた。清潔だし,3千円未満で泊まれるし,イートイン・スペースはあるし,コンビニがすぐ近いところにあるし,何より馬喰町駅に隣接しているという立地が移動者を助けてくれる。

2017年4月1日土曜日

2017.04.01 永江 朗 『小さな出版社のつくり方』

書名 小さな出版社のつくり方
著者 永江 朗
発行所 猿江商會
発行年月日 2016.09.26
価格(税別) 1,600円

● 出版界(出版社,取次,書店)の問題点を整理して,どこをどう直せばいいか,どうすれば出版界が活気づくのか,を検討している。
 背景には本が売れなくなったという事情がある。が,売れないのと読まれないのは違う。

● そういったところを,しつこく,いろんな観点から深掘りしている。その方法論として永江さんが採用したのが,小出版社を現に運営している人たちに取材して探ってみるというやり方。
 実際には,小出版社を取材するという仕事が先にあって,では何を訊けばいいかというのが後からついてきたのかもしれないけれども。

● 以下にいくつか転載。
 新聞広告を出したことは何度かあるが,書評ほどの効果はないというのが実感だ。(p22)
 返品削減はじめコストカットは,短期的には利益を増やしても,長期的には市場を収縮させ,自分たちの首を絞めることになる。(p40)
 一人ひとりの給料が高いので,経営側は人件費を抑えるために従業員を減らそうとする。従業員が減ると,ひとりあたりの労働量は増える。余裕がなくなり,アイデアも生まれにくくなる。(中略)給料を下げて人を増やしたほうが,長期的には出版界活性化につながるのではないだろうか。(p41)
 取次の社員はリスクを恐れる。自分が口座開設をOKした出版社が倒産したら,責任を問われるからだ。だが,出版というビジネスは,うまくいくこともあれば失敗することもある。(中略)できるだけリスクを回避しようと石橋を叩いてばかりいるので,誰も橋を渡らなくなり,出版界は活力を失ってしまった。(p55)
 読者にとっては,出版社が大手か零細かなんて関係ないし,本の内容だけで買うとは限らない。たとえ1000円でも2000円でも,ふつうの人は本を買うときシビアになる。チープな造本では購入意欲が失せる。こうした感覚は出版業界に長くいると鈍くなってしまう。(p57)
 出版社には企画会議があるでしょう? あれでだいたいつまんない企画になってくる(p62)
 ある大手書店チェーンの幹部は(酒の席での発言ではあったけれども),出版社が淘汰再編されたほうが書店の仕事は楽になるといっていた。売上は落ちているのに仕事量が増え続けている書店現場の悲鳴とも聞こえる。(p75)
 近年,美術館の展覧会は進化していて,60年代や70年代のようにただ泰西名画を集めただけ,あるいは個人の作品を年代順に並べただけという展覧会は少なくなった。明確な,しかも斬新なコンセプトで,展覧会そのものが表現であるかのような企画が増えたし,個人の回顧展にしても切り口が重視される。(p84)
 アートというものが時代のひとつ先のイシューをとらえるものだから,『BIOCITY』をつくりながら,このテーマは何年か前にアートで取り上げられていたものと感じることはよくあります。3.11以降,アートは変わったと思います。9.11以降にアメリカで起きたようなことが,日本でも起きている。たとえば,参加型の作品など関係性のアートが増えている。(p90)
 「(著者が)無名でさえなければ」という言葉は身も蓋もないように聞こえるけれども,これも重要なポイントだ。無名で,後ろ盾もなく,なんの実績もない出版社が最初に出す本で,著者も無名というのでは,売る自信がなかった。(p102)
 「風」だ。なんとなくの「風」を感じられるかどうか。人が書店でワクワクしている感じが減っている(p117)
 AKB48など秋元康氏のアイドル・ビジネスは漫画雑誌のつくり方に似ている。アイドルグループを運用するためにメンバーを新陳代謝させていく。 「一方,手塚プロとか藤子プロなど個人事務所のあるコンテンツは寿命が長いんです。コンテンツ側で管理する人間がいないと,コンテンツの寿命は短くなる」 佐渡島さんの感覚では,作品の80%は運用によって寿命を長くできるという。ところが出版社のしくみでは,長期的に運用できるのは5%程度にとどまる。(p119)
 作家に限らず,クリエイターにとって自己模倣は危険な罠だ。スタイルを確立したなどといえば聞こえはいいが,同じことの反復である。(p127)
 本を世に送り出すためにつくった出版社が,いつのまにか出版社を存続させるために本をつくるようになる。書店も取次も同様。存続することが自己目的化して,手段と目的が逆立ちしてしまう。「本が売れない」という状況は,その帰結だ。しかし「本が売れない」のは「新刊書が新刊書店で売れない」のであって,「本が読まれていない」のとは違う。(p133)
 店舗をつくるにあたって,ほかの書店は参考にしなかった。ヒントになったのはニューヨーク滞在中に通ってインデペンデント系の書店だった。日本の書店はビジネスモデルとして終わっている世界だから,参考にしても意味はない。(p143)
 セレクトした本がハマりすぎないこと。完璧すぎると図書館のような,博物館のような棚になってしまうのだ。鑑賞するにはいいけれども,購入意欲は刺激されない。人が買う気になるには,隙間というか,ノイズが必要だ。(p144)
 SNS全盛の時代になって,ふつうの人が共感するものがリツィートされたり拡散していくようになった。とくに消費の現場ではいい意味での“ふつう”“等身大感”みたいなものが重要になってきたと思う。(中略)出版界にはいまだに「80年代リブロ池袋店神話」みたいなものが生きているが,そんな化石にしがみついていては滅びるだけだ。(p150)
 そこの客層と向き合わずに自分のスタイルだけ貫くほうがよほどかっこ悪いと思ったんですね。お客さんを無視するのはどうなのか。お客さんに合わせるべきだと思った。(p152)
 ここ数年,本を置くカフェや生活雑貨店,洋服店などが増えた。だが,そうした店で本が売れているのを見たことがない。装飾品以上の役割を果たしていない。(p154)
 自宅を仕事場にすると際限なく仕事をしてしまうか,逆に怠けて遊んでばかりになるかになってしまい,ほどよく仕事と休息のバランスを保つのは難しい。(中略)曜日に関係なく朝の5時半に起きてパソコンに向かい,晩ごはんを食べたあとの夜の10時までダラダラと仕事を続けるのは我ながらよくないと思う。つい仕事をしてしまうのは,私が働き者だからではなく,仕事をしていないことに漠然とした後ろめたさを感じるからだ。よくないことだと思う。(p181)
 体力は歳とともに落ちていく。とくに回復力が落ちる。(中略)内面のほうはどうか。時代の変化についていけないということはないけれども,新しいことへの好奇心が感動が薄れる人もいるだろう。感性が鈍るというよりも,「新しい」ともてはやされることに既視感を抱くのだ。(p184)
 予算がないと,どうしても料金の安い業者を選んでしまいがちだが,料金にかかわらず信頼できる担当者のいる会社と取引するほうがいいと下平尾さんはいう。とくに小規模な出版社にとっては,印刷所やデザイナーも巻き込んで,いっしょに一冊の本づくりに参加するチームになってもらえるかどうかが大きい。(p206)
 さまざまなアンケートでも読者の購入動機のいちばんは「書店店頭で見て」という衝動買いである。(p226)

2017年3月21日火曜日

2017.03.20 湯浅邦弘 『貞観政要』

書名 貞観政要
著者 湯浅邦弘
発行所 角川ソフィア文庫
発行年月日 2017.01.25
価格(税別) 800円

● 「ビギナーズクラシック 中国の古典」の1冊。貞観の治として,高校の世界史の教科書にも出てくる唐の名君,太宗の言行録。
 ただし,本当に太宗がそう言ったのか,後世の人がいうなら捏造したものなのか,そのあたりはじつは分明としないのではないかと思う。

● 『貞観政要』じたいに,過去の皇帝や宰相のエピソードが引用されている。範を過去に求めている。十年一日ならぬ千年一日であれば,それでいいだろう。
 経済成長も技術革新もなく,たんに王朝が変転を重ねるだけの静的な時代であれば,それでいい。

● とっくにそんな時代ではなくなっているわけで,昔の話が現在においてどれほどの有効性を持つのかはかなり疑問だ。
 『貞観政要』は政治家に宛てたものだろうと思われるんだけど,ここで想定されている政治家というのはいわゆる文人政治家だ。
 今は文人であることは政治家の資質を損ねるかもしれない。最近でいうと,宮澤喜一さんが文人政治家ぽかったけれども,彼の内閣は,自民党内閣の中でワースト3に入るのではなかろうか。文人政治家では政治はできない時代だ。
 要するに,“文”の価値が摩耗しきっているのが今という時代だ。

● 『貞観政要』は儒学のプロパガンダではないかとも思ってしまう。何らかの意図があって編まれた本。儒学者の益に資するわけだから,彼らが企んで編んだに違いない。
 後漢以降,三国六朝から隋の混乱期には,この儒学が衰退していきます。唐王朝が目指したのは,儒教国家の復活です。(p144)
 しかし,儒教国家で巧くいった例などあるのかい。

● 混乱の後に太平の世が来て,太平の後は必ず乱れる。太平の世は,混乱期に溜めたエネルギーを消費しているときのかもしれない。
 となれば,太平の世に大切なのは儒教などではない。儒教などなくても混乱期のエネルギーを食べればいいのだ。他に何が要るのか。

● 今でも,大学の文学部で中国文学を囓った人たちが,こういう本を出して,今の政治や政治家はなっとらんとオダをあげているのかもなぁ。
 この本にも何度かそうした論調の文章が出てくるんだけど,床屋政談の域を出ていないわけでねぇ。っていうか,床屋政談の方がまだまともかもしれない。
 この本をビジネス書として読もうとする向きもあるかと思うのだけど,ビジネスをまったく解さない学者が編んだ本だ。そういう読み方はしない方がいいと思う。

● さて,大いに称揚されている太宗だけれど,「こうした太宗の教育も,皇太子の承乾には効果がありませんでした」(p128)ということらしい。世の多くの父親族にとって,これはホッとするエピソードではないか。
 教師の子どもがマトモじゃないってのもよく聞く。そんなものなのだよねぇ。

● この本で唯一同意できるのは「自薦を認めれば,分をわきまえない者どもが,自画自賛で殺到するでしょう」(p143)という一文だ。
 国や自治体の審議会とかで,公募委員というのが最近は増えている。公募委員にはロクなのがいないという印象がある。自薦はダメだ。

2017.03.19 石田衣良 『モーツァルトのいる休日 大人の楽しむクラシック』

書名 モーツァルトのいる休日 大人の楽しむクラシック
著者 石田衣良
発行所 マイナビ新書
発行年月日 2016.09.30
価格(税別) 850円

● 幻冬舎から出ている『I LOVE モーツァルト』を底本にしているらしい。それも読んでいるんだけど,別の本になっていると思った方がいいようだ。
 特に,底本にはない加羽沢美濃さんとの対談がけっこうなボリューム。

● 聴き手が百人いれば,百通りのモーツァルト解釈が成立する。その解釈の幅の広さ,バラエティの多彩さを,モーツァルトほど許容する作曲家は,たぶんいないのじゃないかと思う。
 つまり,それがモーツァルトの凄味だと思う。凄味と書いてしまうと,鋭角的な鋭さを連想させるけれども,モーツァルトはそうではない。鋭角的だとか鋭いという印象を与えるものは,じつはあまりたいしたことはない。
 モーツァルトはふんわりと柔らかく,それでいて無限の許容性を持つ。後にも先にも,こんな作曲家は彼だけだ。

● 以下にいくつか転載。
 それまでに何十万曲というポップスを聴いていたおかげで,「音楽を聴く耳」ができていたのだろう。真剣に音楽にむきあって,長い年月をすごせば,そんなジャンルの音楽によってでも,音楽の耳は育成できるのだ。(p14)
 わからないものを少しずつ覚えながらいいものを探していくのはとても楽しいことだ。ああいう楽しいことが数年に一回あったらとても幸せだろう。(中略)ある程度の歴史の積み重ねがあって,知識と技術の広さ,深さがきちんと蓄積されたジャンルはちゃんと探求のしがいがあるのだ。(p17)
 わからにうちのほうがおもしろいのだ。知識を得ようと急がないほうがいいと思う。ぼくもあっという間に四十歳を過ぎてしまった。昔だったら「何でもいいから早く知りたい,覚えたい」と焦っていたことを,なるべくゆっくり,ちょっとずつわかりたいと考えるようになってきた。「お楽しみ」を急いで食いつぶしてしまいたくないのだ。(p18)
 本当に一番素晴らしいのは,芸術そのものではなくて,それを「素敵だ」「おもしろい」と感じることができる人の心である。(中略)人間の心のキャンバスのほうがどんな芸術よりもうんと広大なのだ。(p20)
 モーツァルトの音楽を聴いていると,絶対のテンポ感,タイム感覚を感じる。これは,テレビのアナウンサーと交わすスタジオ・トークと不思議に似た感覚だえる。「残り十秒」と指示されたときに,彼らが余裕の顔でしゃべりながらきっちりと十秒を刻んで言葉をあたはめていく,あの感覚。(p23)
 小説を書く場合は,「何がおもしろいのか」を最初の一行からラストまでぎゅっと握り締めて書かなければいけない。そのグリップ力がモーツァルトは恐ろしく強いと思う。(p25)
 モーツァルトの曲は,「このあとはこうなるといいな,次はこんなふうにいってくれるかな」と期待したとおりに,しかもこちらが予測するよいもずっと鮮やかに見せてくれるということ。そこがモーツァルトの天才の凄みなのだ。(p26)
 こんなに哀しかったり喜んだり笑ったりしているくせに,すべてにおいてどこか超然とした雰囲気があるというのもおもしろい。(p27)
 息子の出来があまりによすぎたので,てっとりばやく結果を求めすぎたのである。そこでぐっと待つことができなかったのは,親としての弱さだったのではないか。(p44)
 「情操教育」として無理して音楽を習わせるのはやめたほうがいいんじゃないだろうか。親のほうにこそ情操教育が必要なはずだ。(p45)
 映画でも文学でも,文化って無駄な知識を楽しく話せるということ自体が大切なのだ。(p69)
 日本の男がどんどん薄っぺらになっていくのはつらい。映画館,美術館,演劇にコンサート,どこでも女性客が七~八割なのだ。男たちは見る影もない。(p70)
 ロマン派以降のピアノ協奏曲はピアニストの名人性・名技性が前面に出てきて,ぼくにはそれが少々ウザいのだ。(中略)指が速くまわるだけだったらコンピュータにでも弾かせておけばいいと思う。超絶技巧にふさわしい超絶的な精神なんてほとんどの人間にはないのだから。(p77)
 音楽に出ている表面だけを見ればいいのだし,その表面が素晴らしいのだ。人間もそうなのかもしれない。外側に出ているものだけがすべてで,本当は内面なんて考えなくてもいいのかも・・・・・・。(p105)
 私は楽器としてはクラリネットよりオーボエが好きなんですけど,あの曲(クラリネット協奏曲)はオーボエじゃ泣けないんです。クラリネットじゃないとダメなんです。(加羽沢美濃 p151)
 現代人の悪い癖で,何でも知識から入ろうとするんだよね。日本人は特にそうなのかもしれないけど,何かを感じてそれを感じたままに表現するのが苦手。(p154)
 クラシック音楽や美術の鑑賞で黙り込んでしまうというのは,要するにみんな,正解があると思っているからなんだよね。だから今さら自分の感情なんて関係ないと思ってしまう。だけど,音楽や美術,芸術に正解なんてない。もっと自由に楽しめばいいんだけどなぁ。(p154)
 すごい演奏家は,普通にドレミファソって音階を弾くだけでも人をわーっと感動させてくれるよね。(p163)
 その,おしゃれをするっていうのがすごく大事だよね。(中略)ちょっと無理して背伸びをする,ちょっと澄ますというのが本当に大事なんだ。(p180)
 エピソードがある人生は素晴らしいと思うんだ。面白おかしいエピソードを貯めるために文化ってあるんじゃないかと思う。どうせいつかはみんな死んじゃうんだもの。(p182)

2017.03.16 中川右介 『未完成 大作曲家たちの「謎」を読み解く』

書名 未完成 大作曲家たちの「謎」を読み解く
著者 中川右介
発行所 角川SSC新書
発行年月日 2013.01.25
価格(税別) 840円

● 未完に終わったとされる代表的な楽曲と作曲家6人を取りあげる。
 シューベルト「未完成交響曲」
 ブルックナー「交響曲第九番」
 マーラー「交響曲第十番」
 ショスタコーヴィチ「オランゴ」
 プッチーニ「トゥーランドット」
 モーツァルト「レクイエム」

● 未完に関しては“「謎」を読み解く”というほどの謎ではないわけだけど。6人の作曲家の評伝として読めばよいのではないか。面白く読める。
 著者のスタンスは,それぞれの作曲家の生涯の中に入りこんで,内部から追体験しようというのではなく,彼らを突き放して適度に距離を置き,第三者の眼で眺めるという,学者的な態度。

● 以下にいくつか転載。
 カラヤンは一九六一年から六二年にかけて,ベルリン・フィルハーモニーを指揮して,ベートーヴェンの交響曲全曲を録音し,いきなり八枚組のセットで出し,当時の日本人は月賦で購入していた。(p52)
 十九世紀初頭において,一時間近い交響曲はあってはならないものだった。しかし,シューベルトは第二楽章までで三十分近くになる交響曲を書いてしまった。完成させても演奏機会のないことは必至だ。そこで続きを書くのを止めた。(p55)
 ブルックナーはなぜこのように休む間もなく,次の仕事に着手するのだろう。(中略)彼がそういう性格だからだとしか解釈できない。 その結果,何が起きたか。交響曲は「完璧」に仕上がらなかったのである。いったんできた後,じっくりと見直し、直すべきところを直し,それから初演する指揮者,オーケストラに見せるべきなのだが,どうも彼はその工程を怠っていたのではないか。(p68)
 レーヴィに先駆けて第七番を初演したニキシュは一八五五年生まれなので,レーヴィよりもさらに若く,ブルックナーとは親子ほども歳が離れている。つまりは,ブルックナーの音楽は若い,新しい世代によって初めて理解されたということでもある。(中略)ブルックナーは十五歳下のレーヴィのことを手紙では「私の芸術における父」と呼んでいる。(p70)
 ブルックナーの死は,瞬く間に口コミでウィーン中に知れわたった。多くの「関係者」がベルヴェデーレ宮殿のブルックナーの部屋を訪れると,あたりに散らかっていた楽譜を「記念」に持ち帰ってしまった。 こうして,ほぼ完成していた第九番第四楽章の楽譜は散逸してしまった。(p83)
 アダージョで静かに終わる曲というものに,現代の聴衆は違和感を抱かなくなっている。ブルックナーの時代は,そのような交響曲はあってはならないものだったが,チャイコフスキーの《悲愴交響曲》やマーラーの第九番などで,人々はそういう終わり方の曲の素晴らしさを知ってしまった。(p89)
 マーラーの「作曲」は,実に機械的というか実務的だ。夏の二カ月間に集中して「譜面に音符を書く」のが彼の「仕事の流儀」だ。このことから,書き始めた時点ですでにマーラーの頭のなかでは全曲が完成していたと考えるべきだ。(p112)
 五楽章完全版を聴くと,第十番がいかに雄大な曲であるかに驚く。そこからは「九のジンクス」「死の恐怖」「妻との愛の苦悩」に怯え悩んでいる姿など,微塵も感じられない。(p122)
 (スターリン時代のソビエトでは)公式文書だろうが個人の手紙だろうが,すべてその内容が信用できないのだ。人々は秘密警察と隣人の密告を恐れ,日記にも手紙にも自分にとっての真実は書けなかった。(p133)
 現在では偽書だとする学者のほうが多く,その内容を一〇〇パーセント信じる者は少ないが,残念ながらこの『証言』は日本で最も売れたショスタコーヴィチ関連の本なので,いまだにここに書かれていることが真実だと信じている人も多い。(p158)
 十九世紀後半になって,オペラは「そう簡単には作れないもの」となっていったのである。それ以前は台本を含め様式が決まっていて,それにあてはめて書くというかたちで注文をさばいていけばよかった(p176)
 それまでは歌劇場から注文されて書いて報酬をもらったらそれで終わりだったものが,どこかで上演されるたびに著作権料が発生するようになったことも大きい。(中略)経済的にも多作の必要がなくなった。(p177)
 オペラの場合,スコアが完成しても,上演にあたって手が加えられるのが常なので,初演をもって完成と考える。(p178)
 商業出版においては,たとえベストセラー作家であっても,出版社と著者が合意しないことには何も始まらない。著者が書きたいから書くのは,自費出版ぐらいだ。 それは音楽でも同じだ。クラシック愛好家のなかには,音楽家たちが芸術のためだけに作品を書き,芸術的理由のみで長さや規模や内容を決めていると思っている人がいるが,作品が生まれるのも未完になるのも,どんな内容になるのかも,さらには未完なのに演奏・出版されるのも含め,すべての過程で何らかの経済的事情があるのだ。(p249)
 そのテーマや,単行本なのか新書なのかといった器によって,「適量」がある。ワーグナーの《指輪》が破天荒な長さなのも,自主興行で上演するつもりだったからで,どこかの歌劇場からの依頼仕事では,あんな長いものは企画として通らない。(p250)

2017年3月13日月曜日

2017.03.13 松宮義仁 『ソーシャル人の仕事術』

書名 ソーシャル人の仕事術
著者 松宮義仁
発行所 日本能率協会マネジメントセンター
発行年月日 2012.12.10
価格(税別) 1,500円

● 仕事術というより,上手なSNSの使い方の指南書。松宮さんはこの手の本をいくつか出しているけれども,本書のその中の一冊。

● 次のようなことが書いてある。
 それは「フェイスブックを嫌になるまでやってみる」ということです。(中略)ひと通りやりつくすと違う世界が見えてくるものです。いいことも悪いことも経験して初めて,自分の性格やライフスタイルにあった使い方が分かるのではないでしょうか。 とにかく,少しでも面白いなと思い始めたら,どっぷり浸かって,はまってしまうのが一番。(p32)
 リスクを恐れるあまり,「社員のフェイスブックは使用禁止」というルールを定めてしまう会社もあるようですが,これでは,「社員のことは信じない,教育することも放棄しました」と言っているようなものです。(p46)
 理想の更新頻度は,やはり「毎日」です。毎日投稿できるだけのネタの確保と更新計画があってこそ,多くの人に見てもらえるページになります。(中略)フェイスブックをはじめとしたSNSは「今」を伝えるツールです。放置するぐらいなら,やらない方がマシといえるほど,更新・メンテナンスが重要な作業になります。(p48)
 「世の中は自分のためにお金を出して実験してくれている!」 これは経営コンサルタントの石原明氏の言葉ですが,ツイッターでライバルの調査をしていると,まさにこの言葉どおりだと感じます。(中略) (ツイッターの)「リスト機能」では特定の人たちをリストに入れてツイートをまとめて表示させることができます。(中略)フェイスブックではカバーできないリアルタイムな情報を,まるで自分専用の週刊誌を読むような感覚でつかむことができるのです。(p81)
 相手に友達になってもらうお願いする前に,まずは「あなたに興味があります!」という気持ちを,いいね!やコメントという行動で相手に見せること。(p137)
 自分が何のためにソーシャルをやっているかをはっきりとさせることです。SNSで活動する「WHY」をしっかり固めれば,どんな風に伝えるか(写真選びや文面の作り方など)という「How」が決まり,それによって実際何を投稿するのかという「What」も決まってくるでしょう。(中略)自分も含め,「誰」の「どんなことに役立ちたいのか」といったことを明確にしていくことが,よりよい「WHY」を見つけるきっかけになります。(p153)
 日本一の高さを誇る富士山は,誰もが覚えていますが,二番目に高い山を覚えている人はほとんどいないでしょう。むしろ,日本全国で二番目に高い山より,自分の住んでいる県で一番高い山の方が覚えられているほど,二番は影が薄いものなのです。(中略)名もない個人であればこのランチェスター戦略のように,「一点突破」を目指すべきだといえるでしょう。 狭い範囲でも「一点突破」を目指し,その次に拡大のフェーズに入っていくのが正しいステップです。(p159)

2017.03.11 手塚千砂子 『たった1行書くだけで毎日がうまくいく!「ほめ手帳」』

書名 たった1行書くだけで毎日がうまくいく!「ほめ手帳」
著者 手塚千砂子
発行所 青春出版社
発行年月日 2015.11.20
価格(税別) 1,300円

● 次のようなことが書いてある。
 日本人はまじめで勤勉なので,「反省が大事」「反省が成長の元」と考えている人が多いようです。もちろん反省することはとても大切なのですが,反省=自分を否定することになっていませんか。(p25)
 そもそもほめることができない-特にほめることに慣れていない男性や年輩の方が,最初にぶつかる大きな壁です。(p34)
 確かに人格者に謙虚な方は多いですが,私たちは否定と謙虚を取り違えていることが多いのではないでしょうか。ほめてもらった言葉を否定することは,わざわざ否定の言葉で自分を貶めているだけでなく,ほめてくれた相手の気持ちをも否定することになってしまうことに気づいていますか。(p35)
 重要なのは「心からほめること」ではなく「ほめ言葉を使うこと」。ほめることに違和感があろうとなかろうと,「これは脳が喜ぶことなんだ」と割り切ってほめ言葉を書き続ければいいのです。(p37)
 不思議なことに,自分のなかに入れたものは,自然に外に出てきます。自分をほめたら,人をほめたくなる。(p51)
 過去がどうであろうとそれはいったん脇に置いておき,今現在の自分をほめる,今の自分を受け入れて,楽しむことを重視します。(p62)
 「引き寄せるイメージ」を実践する前に,まず自分自身をプラスのエネルギーで満たすことが先なのです。(p148)
● 著者が提唱する「ほめ手帳」を始めるのにお金はかからない。手帳と鉛筆があればいい。お金がかからないんだから,やってみたらいい。
 ぼくはやらないけどね。著者が説くところを間違いだと証明することはできないと思うけれど,浅いとは思う。
 「ほめ手帳」を続けてみても,何も変わるまい。著者が説くような変化は起きないという方に一票を投じたい。

● しかし,コンサル料を取られるわけではない。やりたいと思うのなら,今日からでも始めてみるといい。
 自分は変われるかもしれないと妄想することは,それ自体が楽しいことだしね。

2017.03.10 伊集院 静 『不運と思うな。 大人の流儀6』

書名 不運と思うな。 大人の流儀6
著者 伊集院 静
発行所 講談社
発行年月日 2016.07.04
価格(税別) 926円

● タイトルの由縁は次のようなもの。
 天上へ行った人々。海の底に,土の下に眠る人々。哀しみだけを想うのをやめなくてはならない。どんなに短い一生でも,そこには四季があったはずだという言葉がある。笑っていた日を想うことが,人間の死への尊厳ではないか。(まえがき)
● 今年も3.11が巡ってきた。6年目になる。ぼく個人も昨年6月に19歳のひとり息子を亡くした。
 この時期にこの本を読んだのは偶々である。偶々ではあるが,染みてくるものがあった。そうしたことを書く資格のある人が書いているからだと思う。

● 以下に転載。
 奇妙なもので,近しい人を亡くすと,世の中に,これほどの数の同じ思いをした人がいたことを知ることになる。家族の誰かしらに不幸があるのが世の中の常なのである。(p18)
 人は泣いてばかりで生きられない。泣いて,笑って,正確には,笑って泣いて笑う,が人の生きる姿である。(p19)
 他人事なのである。(中略)それは彼等の言葉,表情を見聞していればすぐにわかる。(中略)キャスターという仕事(彼等にとっては商売でもいいが)はつくづくおそろしいものだ。彼等は身が危険な間は決して現場に行かない。戦争をはじめた政治家が決して戦場にいないのと同じである。(p43)
 先に着き,座敷で待っていると,店の者の声で談志さんがあらわれたのがわかった。普段は無愛想な鮨屋の主人が,やや高い声で,師匠よくお見えに,と声が届く。一分,二分の男ではこうならない。千両が顔を出すと,場が華やぐのが世間である。(p48)
 娘さんを探している父親にお願いがある。 あなたが明るい顔で笑えるものを探しなさい。それが生き残った者の使命です。 「いやです。自分一人がしあわせなんて」 それはわかるが,自分一人が笑う方が辛いことなら辛いことを選ぶのも大人の男の選択ではないかと思う。(p53)
 ヤンキースにいた松井秀喜君もそうだ。時々,彼等の何でもない話を聞いていると,自分は六十年以上何をしていたんだろうと思うことがある。 小泉進次郎君に初めて逢った時も驚いた。さわやかだと評判だが,そんなものではなかった。立っているだけで風が立つ,という感じがある。全盛の長嶋茂雄がそうである。(p58)
 苦しい,切ない時間だけが,人を成長させる。(p59)
 やはり昔から言うように,“学者と役者と坊主にはまともな者がいない”とは本当である。(p87)
 私は犬にむかっても,普通に人に接触するように応対する。相手が理解できていまいがかまわない。少年の時から生き物にはそうして来た。(p90)
 君たち(犬)が去った後,哀しみの淵に長く佇むことが起きれば,何のための出逢いだったのかわからなくなる。(p94)
 私たちは勿論いなくなるが,やがてこの宇宙も亡くなる,ということである。 私たちが感動したもの,学んだものも私たちと失せるが,シェークスピアがいたことも,モーツァルトの曲があったこともすべて消え失せるというのだ。それが今の宇宙物理学では正当であるらしい。(p98)
 不幸の最中にはいかなる声を掛けても,その哀しみを救える適切な言葉はない。言葉とはそういうものなのである。(p121)
 「はい。ゆっくり丁寧に書くことです。それしかありません」(中略) 「ゆっくり丁寧なら大丈夫なんですか」 「大丈夫です。姿勢を正して書けば,それで十分です」(P124)
 若者はあらゆることを覚える折に,急ぐ傾向がある。それが若いということだが,若い時に何かひとつでいいから,基本を,ゆっくり丁寧にくり返す時間があった方がいい。(p126)
 新しい年を迎えると,大半の人は,今年こそはと,数日思うそうだ。この数日というのがよろしい。 その証拠に市販されている日記帳の大半は櫻が咲く頃には,どこに置いたかわからなくなってるらしい。 私はそれでいいと思う。あまり決意,覚悟,必死になると周囲に迷惑をかける。(p148)
 女性たちが立ち上がると,戦争は本物の戦いになり,しかも悲劇を迎える,と昔から言われている。(p165)

2017.03.06 伊集院 静 『追いかけるな 大人の流儀5』

書名 追いかけるな 大人の流儀5
著者 伊集院 静
発行所 講談社
発行年月日 2015.11.16
価格(税別) 926円

● 「週刊現代」の連載を1冊にまとめたもの。週刊誌の読者も高齢化しているに違いない。若者は週刊誌など読まなくなっているのではあるまいか。
 昔の若者は背伸びをして(?),オッサンが読む週刊誌というものを読むことがあったのだと思うけれども,今はそんな背伸びなどする必要がない。

● が,毎回思うことだけれども,こういうエッセイが連載されているのだから,日本の週刊誌というのはレベルが高い。
 他の国では,知的階層がはっきりしていて,いわゆる週刊誌にこうしたエッセイが載ることはないと聞いたことがある。

● 以下に転載。
 私たちは日々,日常のさまざまなことに懸命にむかうのだが(そうでない人が多いし,それが人間らしくもあるが),今日はいい一日だったと実感が持てる一日はそうそうあるものではない。そのことは逆に言うと,私たちの日々は上手く行かない方が多いのである。これは万人が共通するところなのだ,とこの頃,わかるようになって来た。(まえがき)
 望み,願いと言った類いのものを,必要以上にこだわったり,必要以上に追いかけたりすると,それが逆に,当人の不満,不幸を招くことが,私の短い人生経験の中でも間々あり得ることを見て来た(まえがき)
 検査を終え,車椅子に乗って病室に戻って来た彼女が,Vサインをして私に笑いかけた時,その明るさに苦笑いをした。-なんだ,助けられてるのはこっちか。(p16)
 自分だけが,自分の身内だけが,なぜこんな目に・・・・・・,と考えないことである。気を病んでも人生の時間は過ぎる。明るく陽気でも過ぎるなら,どちらがいいかは明白である。(p17)
 並んでまで食べるものが,世の中にあるとは思えない。銀座では鮨店にも並ぶ。安くて旨いってか。鮨を並んで喰って,どこが江戸前の粋じゃ。(p21)
 「目の前にふらふらしているのをつかまえると碌なことはありません。だいたい目の前をふらふらしているのは蚊と同じだから」「どうしたらいいんですか?」「とっつかめて叩きつぶしなさい」(p22)
 作家は自分一人の才能で一人前になると思っている人もいようが,それは違う。人間の才能なんて高が知れている。どんな職業,仕事も周囲の人が見守り,育ててくれるのである。(p42)
 私は小説家であるから,本を読みなさい,と言う。しかし私はガキの頃,本を読んで何が面白いの,と思った。それでも読まないより,読んだ方が良かったと,かなり先になって感じた。(p91)
 太平洋戦争を,あれは軍部のひとかたまりがはじめたと今の日本人が考えたいたらこの国は大きな間違いをしていることになる。日本人の大半が,戦争を善し(やむなしは一番いい加減な肯定である)としたのだ。昭和の紀元節で日本人のほぼすべての人が,建国を祝い,自分たちにかなう敵国無し,と提灯をぶらさげて大騒ぎをしたのである。(p116)
 何しろ作家は負けず嫌いが多い。本当かって? 嘘だとお思いなら,作家を数人,ひとつ檻に入れてみるといい。三十分もしないうちに全員ブスッとした顔をして壁の方をむいて腕組みをしてるから。(p126)
 公共の場所,電車の中などで赤児が激しく泣き出し,それを五月蠅く思う時の対処の仕方を,私は母から教わった。“赤ちゃんは泣くのが仕事だから”。これが母の言い方である。(p131)
 “上手い”はつまらないものが多いのである。よく芸能人が絵を描き,××展入選などと新聞で紹介される記事を目にすることがあるが,バカも休み休みにしなさい,と私は思う。“上手”のレベルの絵は絵ではない。(中略) いかにも上手いという言うのは,私たちの小説の世界でも同じことが言えて,読む人が読めば上滑りしていることが見えてくる。(p141)
 手紙は気持ちを伝えようとした瞬間に,思ったことを文字にする方が良い。私はそれを井上陽水に学んだ。(p142)
 マキロイという若者が世界でトップというが,私はこの若者がまだ使えるボールを池に投げたのを見たし,今春,クラブを池に放った。人間がこしらえた道具をこういうふうに扱うバカは何十年経ってもまともな人間になれない。それが世界一というのだからプロゴルフの世界も程度が知れる。(p157)
 物を学んだり,物事を考察する行為は,最初,とっつきにくい所があっても,或る一点,或る領域を越えてしまうと堰を切ったように,知の並が押し寄せ,軽々とそこを泳いでいる自分がいたりするものだ。(p164)
 (“虚しく往きて実ちて帰る”の)“実ちて帰る”はどうでもよくて,“虚しく”のこの不安と孤独こそが人間を成長させる原動力であり,必須条件なのである。その証拠に空海は“虚しさ”の幅が人より何倍も大きかったから,人間業とは思えない能力を発揮して,密教をただ一人伝授されることができたのだろう,と私は考える。(p166)
 憂うのは,今の日本人の,個の甘さ,甘えである。皆がひとつの方向へ行けば,ワァーッとヒ弱な鳥のごとくそちらへ走る。(p177)
 昔は,大人の男が,知人でない相手に(知人であっても)食べ物が美味い,不味いは口にしなかった。食の話というのはどれほど慎重に書いても卑しさがともなう。(p179)

2017年3月6日月曜日

2017.03.01 森 博嗣 『本質を見通す100の講義』

書名 本質を見通す100の講義
著者 森 博嗣
発行所 大和書房
発行年月日 2015.07.25
価格(税別) 1,300円

● 頭のいい人が書いたものを読むのは,それだけで快感を伴う。といって,学術論文などはこちらは読めないわけで,あくまで商業出版に乗ったものに限るんだけど。
 自分もぼんやり思っていたことにピタッとはまる言葉を与えられると,快感がピュッと噴きあがってくる。

● 天上天下唯我独尊という思いをどこかに秘めていないと,面白いものは書けない。たぶん。
 唯我独尊という思いをどこかに秘めているのも,頭の良さの条件でしょうね。右顧左眄しないということでもある。

● 以下に転載。
 本というのは,窓から射し込む光のようなものであって,それで貴方の部屋が明るくなることもあれば,埃や汚れを際立たせることもある。でも,それは貴方の部屋なのだ。(p2)
 資本主義を牽引したエネルギィは,金を儲けたいという欲望であって,それは,自分と貧乏人との格差を広げたい,という「夢」なのだ。金持ちになってフェラーリを買っても,見せびらかす相手がいなかったら意味がない。(p30)
 エネルギィ的に見て,個人がなす仕事量には限界がある。だから,仕事に対して報酬を与えるだけならば,さほど大きな格差は生じない。資本主義における格差は,仕事をしないで得られる利益が存在するためである。ここが「資本」の意味だ。(p31)
 悪い部分があったときには,株主の顔色を窺い,応急処置をしなければならない。リストラしたり,試算を売却したり,といった防戦一方になる。ここに至っては,すぐに結果が出るものでなければ認めてもらえない。長期的な手は打てなくなり,刹那的になる。だから,ますますじり貧になる。(p32)
 結局のところ,つながりたがっている多くは,つながることで金が儲かるからにすぎない。それを,綺麗な言葉で飾って,「絆」「親睦」などと呼んでいるのである。(p37)
 民主主義とは,みんなが自由になる,ということではない。みんなでリスクを分担する,という意味だ。誰もが少しずつ不満を持って,少しずつ危険を抱え込むこと,それを許容することが,民主主義の精神である。(中略)したがって,消費税をゼロにするとか,教育費をゼロにするとか,原発を即ゼロにするとか,基地はすべて国外とか,そういう「みんなが得をする」ことばかり言っている政治家は,極論をすれば,民主主義を利用した詐欺師のようなものだ。(p39)
 もしできることの共通点を探ろうとすると,もの凄く細かい手しか打てない。もっと大胆な政策はないのか,と不満がみんなから出るはずだが,その不満の方向性がこれまた違うため,ベクトルを合計すると力が弱くなる。(中略)それでも,小さくても良いから一致する部分を見つけて,みんなで盛り上がりたいのが,人間というものらしい。(p45)
 弱者は貶すことができないが,強者は貶しても大目に見られる,ということである。(中略)グループの構成員が多くなると悪口が一般的になるからだ。東京の悪い点を挙げても,東京の人全員を責めているわけではないし,またたとえそうであっても一人当たりの責任が割り算で小さくなる。逆に,小さな村の悪口は,そこにいる人々の個人攻撃に近いものに受け止められる。そういうメカニズムなのではないか。(p54)
 金を使って楽をしようとする精神が貧しい,と怒る人もいるだろうけれど,そもそも,金とはそういう使い方をするものである。(p60)
 可能性をあれこれ想像することで,たいていのことは許容できるようになる。つまり,腹の虫というのは,腹の中にいて世間が見えていないからこそ,治まらないのである。ちょっと考えれば,そんなに怒るようなことか,となるはずだ。(p61)
 庭というものは,基本的に自然であって,完成品を人間が造ることはできない。無理に植えてもすぐに枯れてしまうだけだ。(p67)
 自然が絡むものは,「維持」が大変である。人工物でも腐食はするけれど,自然の変化に比べればずっと遅い。自然はあっという間に姿を変える。それこそ,季節が変わっただけで跡形もなく消えてしまう。毎年同じものはけっして現れない。(p67)
 全体として良くなっているということは,一人の人間の中でも,平均すれば,私欲よりは「みんなで良くなろう」という公欲が大事だと判断されていることを示している。何故そうなるのかといえば,答は一つしかない。そちらの方が「美しい」からだ。逆に,隠し持っている私欲が「醜い」ことを人間はたぶん知っている。(p69)
 この頃はネットが本に代わろうとしている。しかし,本のように一冊に纏められているわけではないので,「世界」を感じることが難しい。(中略)こういう時代にいる子供たちは,(中略)周りを見て,周りにきいて,歩調を合わせるだけの人になりやすい。(p75)
 自分の経験以外は基本的に「知らない」ことであるから,「知らない」ことを想像するしかない。その想像をする人が少ないということが,数多くの観察からわかる。また逆に,小説とか映画とか,自分の創作を大勢に見てもらう立場の人は,その想像をしないと作れないのである。(p77)
 科学というのは,そういう具合に,少しずつ進めるものなのであって,「あるのかないのかどっちなんだ」と声を荒らげる下品さは,非常に嘆かわしいと感じる。(p85)
 専門家になるほど,知識が豊富になるから,ほとんどの事について,複数の意見,複数の事例,数々の例外があることを考慮して,なかなか断定的な発言ができなくなる。したがって,ますますじれったい話っぷりになるのだ。(p89)
 若者は,本当にTVから離れてしまった。視聴率を気にして,ますます老人向けになっている。ようするに,年寄りが株主みたいな感じなのが今のTVだ。(p89)
 ワンパターンというのは,面白いから繰り返され,ワンパターンになる。どこで面白くなくなるかは,受け手のセンスの鋭さ(感度)による。(中略)全体を眺めている人は,まだ笑ってくれる人がいる,と観察するのだ。つまり,大勢を相手にする人ほど判断は必ず遅れる。(p92)
 ブログを続けられる人は,仕事としての報酬を得ているか,あるいはボランティアか,のいずれかである。いずれも,不可欠なのは不特定多数に対する「奉仕」の気持ちである。サービス精神がなくては続かない。自分が得たい,自分を売り込みたい,では続かないということだ。(p101)
 まずは,自分がどう感じるのかを丁寧に拾い上げることが大事であって,そのうえでの他者,社会なのではないか,と僕は思う。(p103)
 大人になり知識が増えると,知らないことを嫌うようになる。「嫌奇心」という言葉はないと思うが,そにかくそういう状態に多くの人がなる。(p104)
 わかったときに,「そうだったのか!」と跳び上がるほど嬉しい思いをしている人は,いつまでも知りたいと思う。だから,未知が希望になる。一方,わかったときに,「なんだ」とか「またか」と溜息が出る経験を積み重ねると,だんだん未知が不審になる。(p105)
 好き嫌いや美意識などは,そもそも多数決を取ることが間違っているのである。自分が好きなものが大勢と一緒でなければならない理由はない。大衆の多くはそこを勘違いしているみたいだ。 そういう社会に浸っていると,自分の感情,感覚も鈍ってくる。自分がどう感じたかを自分で取り上げなくなる。(p114)
 シュレディンガの猫ではないが,晴天なら晴れ男になり,雨なら雨男になっているだけで,観測されるまでは両者は同時に存在している,と考えるのが科学的である。(p121)
 僕としては,具体例を挙げることで,そちらへ関心が移ってしまうのを避けている。抽象的な文章はそのまま理解してもらいたい,と考えているからだ。(p145)
 クリエータというのは,常に新しいものを求めている。新しいものを作り出すことをクリエートという。作品を生み出すとは,そういう意味だ。何十年も前のヒット曲を大晦日になるごとに歌わなくてはいけない人は,クリエータだとしたら苦痛だろう。(p149)
 知らない人が多いようだが,この世には命よりも大事なものなんて幾らでもある。(p153)
 僕が書く本を読んだ人で,「森博嗣は世間知らずだ」と批判する人がいるけれど,僕は,それを批判だと感じない。どうしてかというと,世間なんか知りたくなかったからである。いつも世間知らずでありたいと願っていた。見て見ぬ振りでは,世間は知れてしまう。世間知らずであるためには,なにかに没頭し,一心不乱に打ち込まなければならないだろう。(p153)
 作ることに慣れている人であれば,何を作るかを考えると同時に,その作り方をイメージしている。そのイメージがないと,何を使うのかも決まらないし,作れるのかどうかもわからない。(p158)
 現在の方向性は,むしろ個人へ向かっている。商品は可能な限りカスタマイズされ,個性を重視するようになっている。ファミレスではなく,個人経営のレストラン,あるいは自宅での手料理へ,と価値はシフトしている。(p161)
 人間は自分が望まないものは信じない特性を持っている(p162)
 土屋賢二氏のエッセィが面白いという話は,もう何度も書いているところだが,似たような作品が現れないのは,彼のエッセィが尋常ではない思考力と知性によって生み出されているからだ。凡人には真似ができない。(p170)
 そんなことを言ったら偏見だと言われそうだが,平均的な考えとどれくらいずれているかが,エッセィにおける最大の武器といえるからだ。(p171)
 ものを作る人は,飾った言葉を使わない。とても正直だ。営業担当の人は,作業の細かい部分を知らない。ただ,客の希望を聞き,金額の交渉をするのが役目で,そこでは言葉によるコミュニケーションに頼っているから,自ずと言葉が飾られる。(p180)
 共通しているのは,みんな黙って仕事をすること。道具をもの凄く大事に扱うこと。そして,最後は作業場を綺麗に掃除することだ。自分も,大人になったら,こういう仕事がしたいと思っていた。工場で働いて,機械を作ることが夢だった。(p181)
 だいたい公共事業というのは,多かれ少なかれこんな性質のものである。もし「改革」を本気ですれば,ある程度は経費削減になるけれど,それは下々の首を絞めることになるはずだ。そんな非人情的なことは殿様にはできない。(中略)しかし,たとえば,社会主義だってこれで滅んだのだ。資本主義が生き残ったのは,残念なことだが,「儲けるために下々の首を切る殿様」が勝てる社会だったからである。全体としては,この合理主義が社会を発展させたといえる。(p184)
 毎日こつこつと作業をしていると,ついつい「怠けていない」と満足してしまう。少し考えてみれば,もう一段合理的な手法があるかもしれない。(p185)
 目標に向かって少しでも近づこう,という前向きさが,かえって目標に到達できない事態を招くことがある。(中略)道が一本であっても,道自体が大きく湾曲しているときには,目標から遠くなる方向に進むこともある。(p188)
 今日だけの楽しみ,身近な面白さだけで生きていたら,そのうち,どちらへも動けない停滞感に苛まれることになる可能性が高い。(p191)
 一見無駄に見えるけれど,実はそうでもない,というものが沢山ある。無駄に見えるのは視野が狭いことによる錯覚である。(中略)自分たちの物差しで見ているから,そう見えてしまうのだ。(p203)
 ピカソだって,若い頃の写実性は天才的だった。型破りなことをするためには,まず型の中に入らなければならないのである。 おそらく,この伝統的なものの中に身を置いてこそ,真に新しい発想を持つのではないか。(p204)
 それでも見つからないときは,最後の場所を見る。それは,この探索が始まる以前,すなわち,一番最初に見たところだ。結局,「探してもなかった」と勘違いしていた場所で見つかるのである。(p207)
 自然や社会や相手の問題だと捉えているうちは解決しない。観測するのも,理想を抱くのも自分なのだ。問題はすべて,結局は自分の中に存在するのである。(p209)
 問題を抱えている状態は,人に深みを与える。僕くらいの歳になるとひしひしと感じることだ。でもそれは,その深さに沈んだままの人ではなくて,その深さから浮かび上がってきた人にいえることなのである。(p211)
 問題を解かせないためには,問題が解けたと勘違いさせることが有効なのである。(中略)相手に勝ったと思わせることが,こちらが勝つために有利になることが多い。(中略)僕は仕事で,申請書や報告書をよく書いたのだが,わざと一字誤字を入れておく。するとチェックをする事務員がそこを指摘してくる。それを直してお終いとなる。(中略)直しやすいミスをわざと作っておくのである。書類なんてどうでも良いものだと考えていたので,このように自分なりに合理化していた。(p212)
 たとえば,腹が立っているときに,「ああ,自分は腹を立てているな」と思うことが自覚である。腹を立てている人の多くは,それを忘れている。(p214)
 孤独と一口にいっても,いろんな孤独がある。人間の数だけあり千差万別だ。(中略)だから,言葉というもので,抽象化して,だいたいの共通点について,だいたいの傾向を見出し,ぼんやりとした対策を練ったり,ぼんやりとした考え方について議論をするのである。本を読むことも,他者と話をすることも,あらゆるコミュニケーションとは,そういう「歩み寄り」のうえで,少しでも自分に有利となりそうなものを見つける行為なのだ。(p217)
 破裂して壊れるのは,コンクリートの性質というよりも,コンクリートを壊している試験機の性質だということだ。実現象には,こういうことがよくある。(中略)人間の壊れ方もたぶんこれと同じで,強度の個人差はあれ,実は周囲の圧力のかけ方に起因している場合がほとんどだ。(p221)
 人間というのは,「こんなこと滅多にないのだから,思い切ってぱっと使おう」という気持ちになりやすい。分割するとなんだか「こぢんまり」としてしまう,と何故か考える。実は,この一気にぱっと使うというのが,かなり貧乏くさい発想だとは気づかない。(p227)

2017年2月24日金曜日

2017.02.24 近藤史恵 『スティグマータ』

書名 スティグマータ
著者 近藤史恵
発行所 新潮社
発行年月日 2016.06.20
価格(税別) 1,500円

● 『サクリファイス』『エデン』『サヴァイヴ』『キアズマ』に続く自転車シリーズの5冊目。主人公はすっかりお馴染みなった感のある白石誓(しらいし ちかう)。
 ツール・ド・フランスで優勝を狙えるチームに所属している。もちろん,自身が総合優勝を狙うエースの位置にいるのではない。アシスト要員だ。
 ただし,下り坂にめっぽう強い。『サクリファイス』からそういう設定。今回もすんでのところでツール・ド・フランスのステージ優勝をもぎ取りそうになる。

● 主人公の特徴はナイーブであること。神経質でウジウジと考えるタイプ。そうじゃないと小説の主人公には向かないのだろうけど。
 協調性に満ちている。したがって,監督はじめチームからの信頼は厚い。彼なら裏切らない,持てる力をすべて出して貢献してくれる,と。

● 以下にいくつか転載。
 笑顔は、敵意がないということを示すシグナルだ。違う国の,違う文化を持った人間が集まっているのだから,シグナルだけは発し続けなければならない。(p24)
 あれほど強かった選手が,ある年からばったり勝てなくなるなんてことはしょっちゅう目にしている。チャンスは今しかない。そう思わなければたった一度だって勝てない。(p26)
 いちばん強く,回復が早いものが勝つ。そう,この世界一過酷だと言われるレースは,強いだけでは勝てない。蓄積する疲労を回復させ,立ち直ったものしか勝てないのだ。だからこそ,ドーピングが強い効果を上げた。(p50)
 タクシー代はチームに請求することができるのに,ひとりのときはこうやって公共交通機関ばかりを使ってしまう。 たぶん,ひとりの人間としてだれかと対峙することには,少しだけ勇気がいる。人混みに混じっていれば,その他大勢でいられる。(p78)
 百七十五キロも自転車で走りながら休息するなんて,普通の人々にとっては想像もできない感覚だろう。グラン・ツールに出る選手は,体調不良も怪我も,走りながら治す。(p121)
 ニコラは,本当にやりたければ人の言うことなどきかないだろうし,そういう選手でなければツールで優勝することなどできないだろう。(p142)
 過去に信じて裏切られることが何度あったとしても,人は信じたいものを信じるのだ。(p200)
 ミッコがかすかに舌打ちをした。「生意気な若造だ」 (中略)「どうした」 にやついているのに気づかれたのだろう。尋ねられたから正直に答えた。 「きっと,ミッコが新人だったときの先輩選手もそう言ってたんじゃないかなと思ってね」 自分が子羊のような新人選手だったからこそ,その生意気さが重要な資質なのだとわかる。(p237)

2017年2月16日木曜日

2017.02.16 佐々木典士 『ぼくたちに,もうモノは必要ない。』

書名 ぼくたちに,もうモノは必要ない。
著者 佐々木典士
発行所 ワニブックス
発行年月日 2015.06.30
価格(税別) 1,000円

● 面白かった。いちいち腑に落ちる。
 著者はおそらくケチな人なんじゃないかと思う。関心が向くことに対しては,お金を突っこんで行くが(著者の場合は書籍とカメラ),それ以外のものに対しては非常に淡々とした人なのじゃないか。
 その下地があったから,関心の範疇にある多くのモノも捨てることができたのじゃないかなぁ。

● 元気が出る本でもある。著者が言うように,モノを少なくすれば家事や買い物に費やす時間が減り,家事そのものも楽になり,したがって汚れたままに放置することもしなくなり,自分を好きになることができ,時間をムダにしなくなり,行動力がつき・・・・・・という具合になるのかどうか,それはわからない。
 が,モノを捨てるというのは,難しい数学の問題を解くとか,顔も見たくないヤツと会わなければならないとか,そういうことに比べれば自分ひとりでできるし,作業自体は単純なものだ。

● それをやれば,その先には幸せが待っているかもしれないのだ。だったら,単純にやったらいいと思う。
 つまり,モノを減らすというのは,それ自体がいいことだと思っているので。たとえ著者の言うようにはならなかったとしても,少なくとも損はしないわけだから。

● しかし,モノを捨てることはできたとしても,その先,モノを買うという楽しみまで捨てられるかどうか。
 このあたりがじつは成否を分けそうだ。モノが極限まで少ないことの快感を味わってしまえば,よほどのことがない限り,新たに買う気にはならないものだよ,ってことですか。

● 以下にいくつか転載。
 出版業界は斜陽産業だから,存続のためにはとにかくまず売れる本が必要だ。売れる本を作らないと,価値のある本を出したくても,そもそも本を出すということ自体ができなくなってしまう。(p25)
 ぼくたちの社会で長期政権についているのは,自民党ではない。その後ろにある「お金党」と「モノ党」と「経済党」の連立政権だ。(p26)
 自分の価値は自分が持っているモノの合計ではない。モノは自分をほんのわずかの間しか幸せにしてくれない。必要以上のモノはエネルギーも時間も,すべてを自分から奪っていく。(p34)
 お酒は幸福ではなく,不幸の一時停止。そんな言葉を聞いたことがある。(p37)
 神経ネットワークは刺激の量ではなく,刺激が変わるという「差」に注目する仕組みだ。(中略)かつてはどうしても手に入れたいと願い,手に入れたモノ。そのモノに満足し続けられないのは,この「差」がないと神経が判断してしまうからだ。(p68)
 優勝の祝賀会の後,帰宅した彼は自分の部屋で,長年の夢が叶った幸せがすでに消え去っていることに気づいた。その喜びは3時間しか続かなかったという。(p72)
 残念な事実がある。1万円の指輪と,5万円の指輪,30万円の指輪を手に入れたとき,それぞれの段階で感じる喜びは大体同じだということだ。(中略)どこまでお金持ちになろうが,モノを持とうが,そこで感じられる喜びは,たった今あなたが感じられる喜びとほぼ同じで,大して変わらない。(p72)
 未来を予測できる動物は人間だけだが,予測できる未来の射程距離は実はとても短い。お腹が空いた状態で,スーパーに行き,必要以上に買いこんでしまったことはないだろうか?(中略)人は何度となく経験してわかっていることでも,「現在」を元に「未来」を予測してしまうのだ。(p75)
 これはほんとに思いあたるところ大。「予測できる未来の射程距離はとても短い」と言われると,まったくそうだなぁと思わないわけにはいかない。
 東日本大震災の犠牲者が約2万人。1千年に一度と言われる大きな災害の犠牲者以上の人が,毎年自分で命を絶ってしまっているのは,どういうわけだろう?(p85)
 「自分には価値がある」と思わずには,人は生きていけない。(中略)「自分には価値がある」と確かめるためには,誰かに認められることが必要だ。社会的な動物である人は,他の人から認められることでしか,自分の価値を確認できない。(中略)他人という鏡を通してでなければ,自分の姿すら人は見えない。(p86)
 だから,おまえに価値なんかないんだと言ったり,そうした態度を見せてはいけないのだ。絶対にいけない。
 しかし,ぼくは一番身近にいて,最も保護しなければならなかった自分の子どもに対して,そういう態度を取ってしまったことが何度かあったことを認めないわけにはいかない。
 ぼくの生涯で最大の痛恨事がこれだ。自分以外の人間から自己重要感を奪ってはいけない。絶対に,だ。どんな理由があっても,だ。
 誰かの価値を下げることで安心し,自分の価値を少しでも確かめようとするのが「批判」の本質だ。(p88)
 読んだ本を血肉にして使いこなしていなかったのに,本を増やし続けていた。ぼくは自分の価値を,置いてある本の量で示そうとしていた。(p95)
 これも,百パーセント自分にもあてはまる。書庫まで作って本を二重に並べて悦に入っていたというか。読んだ本はその中の3分の1にも満たなかった。まとめて処分したことが何度かある。
 が,まだカオスの状態だ。東日本大震災ですべて崩れ落ちてそのままになっているんで。
 これから捨てようとするモノは確かに気になる。それは目に見えるからだ。捨てることで得られるものは目に見えない。だから意識しづらい。だが捨てることによって得られる見えないものは,失いモノよりよほど大きい。(p102)
 「収納という巣」があれば,モノを減らしたつもりでも,いつの間にかモノはそこに住み始め増えていく。だからまずは,「巣」である収納を叩くのだ。(p117)
 これはねぇ,じつに相方に言って聞かせてやりたいよなぁ。収納スペースを作ろうとするんだよねぇ。真逆だよなぁ。
 物置小屋が必要だなんても言いだしてる。うちは農家じゃないんだし,ぼくは日曜大工もしないんだから,農機具や工具を入れておくスペースは要らないはずだよ。物置を作ってどうしようというのだ。
 満員電車がとても息苦しいように,あらゆるテクニックを用いて押し込まれたモノたちは見ていてとても息苦しい。何より最初と同じように収納するのは思った以上に手間がかかる。(p118)
 特に東日本大震災以降,モノがあるというのが嫌で嫌で仕方がない。とにかくモノはない方がいい。
 相方もそれまであった木製の(けっこう高価)な食器棚やタンスは全部処分した。だけど,軽いプラスチック製の何というのか知らないけれど,タンスのようなものを大量に買って部屋という部屋に並べてくれた。要らないよぉ,これ。
 学生時代に必要だった教科書,子どもの頃に自分を成長させてくれた本,ずっと前に自分を輝かせてくれた服。一時期ハマった趣味の用品,恋人がくれた思い出のプレゼント。 過去に執着していると,新しいことは入ってこなくなる。過去に必要だったモノとすっぱり縁をきらないと,一番大事な「今」はいつまでも無視されてしまう。(p120)
 誰でも一定の努力をすれば集められるようなコレクションは集めている本人にも,負担になるだけ。(中略)家は「博物館」ではない。貴重なモノは本当の博物館に見にいこう。(p138)
 ぼくの家の家賃は6万7千円で20㎡だから,1㎡あたり月に大体3千円払っている計算だ。さきほど買った2千円のモノがもし1㎡のものだったとしたら? あっという間に相殺されてしまった。安から買う,はこんなに危険だ。(p149)
 家にいてもテレビを見ていても,家から1歩外へ出ても,メディアや広告,本当にありとあらゆるものを通じて,脅迫的なメッセージがぼくたちに送られてくる。(中略)ミニマリズムを意識していると,あらゆるメディアや広告に惑わされる時間が減る。「自分は必要なモノをすべて持っている」という自覚ができるからだ。すべて持っていると思えればほとんどのメッセージは,スルーできる。(p174)
 ミニマリストはそもそもモノをあまり買わないので,買い物の時間が減る。(p176)
 いや,案外減らないんじゃないか。ぼくはそうだ。買わなくても店に行くんだよ。行ってかなりの時間を過ごす。
 ぼくが行くのは,書店,文具店,家電量販店,百円ショップが多いんだけど,ほぼ買わないんだよね。買わないんだけど,しばしば出かけていって,あれこれ物色する。店側には一番嫌な客だと思うんだけど,これがやめられない。これだけ行ってるんだから,たまには何か買えよ,じゃないと店に悪いだろ,と自分に突っ込みを入れている。
 モノに限らず,選択肢を絞るのは決断を早くし,ムダな時間を削るために欠かせない。(p178)
 家事にかかる時間は,本当に圧倒的に減る。(中略)部屋にモノを置かず,ミニマルにしていると,掃除にかかる時間は激減する。服を少なくすると洗濯の手間も減るし,今日何を着るか,迷う時間も減る。(p178)
 モノが少ないと,毎日やらなければならないことが少ない。目の前の雑用を次々片付けるので,溜まらない。すると何事においてもキビキビ動けるようになる。(p180)
 心理学者のティム・キャサーは「時間の豊かさ」が幸せに直結し,「物質の豊かさ」はそうではないと主張した。(中略)時間はお金持ちも貧しい人にも平等で1日24時間だ。だから時間をゆったり使うことは「究極の贅沢」でもある。(p181)
 部屋に溜まっているのは,ホコリや汚れではない。ホコリや汚れを放置した「過去の自分」が溜まっているのだ。「やるべきときにやらなかった自分」が堆積しているのだ。ホコリや汚れは嫌なものだが,何より嫌なのはそれを放置した「過去の自分」と向き合うことになるからだ。これは辛い。(p192)
 一瞬で不幸になれる方法がある。それは自分を誰かと比べてみることだ。(中略)人と比べるのが問題なのは,どこまでいっても自分より優れている人がいるということだ。どれだけお金持ちだろうが,イケメンだろうが美女だろうが上には上がいる。(p206)
 「経験」はどちらが優れているか比べづらく「モノ」はすぐに比べられる。比べられる「モノ」の方が「自分の価値」も確かめられやすい。 だけど実際には,幸せの「持続時間」が長いのは経験の方だ。だから誰かと比べるためにモノを買うより,行動力を上げて経験を積み重ねた方が,はるかに豊かに感じられるようになる。(p209)
 何かをやって失敗した後悔「やった後悔」よりも,行動できず「やらなかった後悔」の方が強く印象に残る。(中略)とすれば答えはひとつ。成功しようが失敗しようが,とにかく「やったもん勝ち」だ。(p221)
 ミニマムライフコスト,自分が生きていくために最低限必要な額を知れば,ものごとはもっとシンプルになる。(中略)ミニマリストに失う「モノ」はマジでない。だから楽観的に行動できるのだ。(p222)
 今はとにかく行動してみる。もはや効率なんてもうどうでもいい。(中略)早く目的地に行きたいと思えば,見切り発車が一番だったのだ。(p224)
 どんなモノでも大切に扱ってもらいたがっている。あなたがちゃんと相手にしてくれ,メッセージを受け入れてくれるのを,列をなして順番を待っているのだ。モノを増やせば増やすほど,それ列はどんどん長くなる。(p227)
 「めんどくさい」とは,ぼくはやるべきTODOリストが多すぎる状態,またはやるべき大事なことがあるのに雑事に阻まれてそれに辿りつけない状態だとぼくは考えている。(p227)
 大事なものに集中するためには,大事でないものを減らすしかない。(p229)
 ジョブズは,最小限に絞った最高の人材だけですべてを決めたがった。(中略)承認するハンコの数が増えれば増えるほど,アイデアはつまらなくなり,実現されるスピードも遅くなっていくとジョブズは考えていたのだ。(p230)
 モノを最小限にまで減らすには,本当に「必要」なモノだけを残すことが肝になる。単に「欲しい」だけのモノは持たない。モノを最小限にすると,自分の「欲望」の認識力が高まる。どこまでが「必要」なモノで,どこからが「欲しい」モノなのかはっきり判別できるようになる。これはモノだけでなく「食欲」も同様で,必要な食事の量がはっきり意識できるから,必要以上に食べないのだ。(p246)
 日本に住み続けるなら,地震対策としてモノを減らしておくことこそが,何よりの防災になるのではないだろうか。(p249)
 小さな家は犯罪を防ぐと言われている。(中略)モノを捨てれば,そんなメリットのある小さな家に住める。ありがたいことに,小さな家の方が今は安い。(p255)
 自分をただの「人」だと思うことで他の人への目線も変わった。「お金」「モノ」「才能」,それをたくさん持っている人に対して持っていた妬み,わずかしか持っていない人に対する微かな蔑み。かつてはあってそういう目線がなくなってきた。たくさん持っている人,輝くような才能のある人と会っても,自分を卑下することもなく「普通」に接することができるようになった。(p258)
 人には人に共感し,人に親切にすることで幸せを感じるアプリがそもそもインストールされている。(中略)こういう事実からすると,「善」「偽善」という区別は何の意味もなさなくなる。(p265)
 「いつか」必要になるかもしれないモノは必要になったそのときに手にすればいい。一度手放してみて,どうしても不都合があったり,必要なモノだったことがわかれば,改めてそのときに手に入れればいい。(p268)
 人に備わっている「慣れ」→「飽きる」というどうしようもない仕組みに対抗できるのは,唯一感謝だけだ。感謝だけが,今持っているモノをいつもと同じ「当たり前」でつまらないものと見なすことを防いでくれる。(p276)
 モノを減らすことによって,ついに悟りの境地に至るのだ。感謝こそ幸せなのだという境地に。
 ぼくはグルメの追求をもう卒業してしまった。(中略)食事に対する感謝の気持ちさえ忘れなければ,どんな食事が出てきても,食事に集中しつつ,ありがたくいただくことができる。(p278)
 心理学の実験では感謝する回数を多くする人ほど,幸福であることが知られているが,もはや当たり前だった。感謝自体が幸せだったのだから。(p280)

2017年2月13日月曜日

2017.02.13 Ciel 『月に一度の世界スパ&ホテル巡り』

書名 月に一度の世界スパ&ホテル巡り
著者 Ciel
発行所 KADOKAWA
発行年月日 2015.07.17
価格(税別) 1,300円

● この著者はそも何者? 世界中の超のつく一流ホテルに宿泊し,スパに通う。年に一度の贅沢というわけではなく,タイトルは月に一度となっているけれども,著者のブログに載っているプロフィールによると,「年間国際線50回以上搭乗(2015年度は73回),いままで280回以上の渡航を重ね,趣味である世界のスパとホテルを女性一人で巡る。訪れた国は,51カ国。現在,台北在住」とある。
 女性一人でっていうんだから,独身なんだろうけど,そんなにオバサンっぽくはない感じなんだけどね。

● 摩訶不思議。これだけ出歩いているんだから,勤め人ではないだろう。株式配当とか,家賃収入とか,親からの仕送り,親の遺産・・・・・・。要は,働かなくてもかなりの収入があるんだろう。
 広い世の中には,そんな羨ましい人がいるのかね。

● じつは Cielとは個人ではなくて,ホテル好き,スパ好きのグループの名前かもしれないね。そう考えるとわかりやすくなる。いかなホテル好き,スパ好きでも,一人でこれだけやったら飽きるんじゃないかと思うしね。
 いや,ところがどうもそうでもないらしいのだ。個人のようなんだよなぁ。

● いくつか転載しておく。
 長い人生の中で,命と比べ,ほめられたことによる損失はゼロに等しいものですから,終わった出来事はお気になさらずに。(p68)
 ニューヨーカーの特徴といえば,歩くのがとにかく速い!(p94)
 香港の魅力は,何といっても格安と高級が混在しているところです。(中略)驚くほど安いお店と,驚くほど高いお店と,両極端。(p148)

2017年2月12日日曜日

2017.02.12 中川右介 『グレン・グールド 孤高のコンサート・ピアニスト』

書名 グレン・グールド 孤高のコンサート・ピアニスト
著者 中川右介
発行所 朝日新書
発行年月日 2012.10.30
価格(税別) 820円

● はるかな昔,勢いがあった頃のフジテレビの月9ドラマ「ロングバケーション」で,木村拓哉君演じる若きピアニスト,瀬名君が,グレン・グールドのようなピアニストになりたいと言うシーンがあったとか。ぼくは気づかなかったというか,憶えていないんだけど。

● 本書はそのグレン・グールドの評伝といっていいもの。同時代に生きたエルヴィス・プレスリーやジェームズ・ディーンと対比しつつ,描いていく。
 ただし,途中までだ。生きたフィールドが違うんだから,徹底的な対比はできないだろうし,したところで意味がない。

● グールド伝説になっている,演奏するときのスタンダードとされている型からの逸脱が具体的に描写されるので,なるほど彼はこうして演奏していたのかとわかる。
 映像が残っているらしいんだけど,ぼくは見たことがない。

● レパートリーが少なかったこと。それについては,当然,確信犯というか,グールドの好みや考えがあったこと。
 バーンスタインとの親和と行き違い。カラヤンと相性が良かったこと。そうしたエピソードをつないでいくことによって,グールドの主義主張,哲学が浮かびあがってくるという構成(それだけではないけれど)。

● 以下にいくつか転載。
 グールドは三十一歳でコンサートから引退したものの,中年になってからの映像も数多く遺っているので,けっして若い頃のイメージだけが知られているわけではない。しかし,「グールド=青年」のイメージが強い。彼がいまだに人気があるのは,この青年のイメージをどうにか保持できたからではないだろうか。少なくとも彼には「老いて醜い姿」などありえない。(p4)
 エルヴィスは他の多くのポピュラー・ミュージックのミュージシャン同様に,楽譜は読めない。彼は耳で憶え,その記憶をもとに,自分の感覚で演奏し歌った。そこにオリジナリティが生じるのだ。(p22)
 ポップス系のミュージシャンは青少年期に,「僕はミュージシャンになるんだ」と自分で決めてからでも,才能と運があれば,プロの音楽家になれるが,クラシックの,中でもピアノと弦楽器の演奏家になるには幼少期から習っていないと難しい。楽譜と音の関係の把握,その音と指の動きの関連など,理屈で理解するのではなく,身体能力として身に付けるには,幼少期からの訓練が必要なのだ。(p23)
 「神童」ビジネスは,モーツァルトに始まる。以後,何人もの神童が現れ、そのうちの何人かは大音楽家へと成長したが,多くは,「五歳で神童,十歳で天才,二十歳過ぎればただの人」という運命を辿った。神童としてもてはやされ,演奏活動を強いられ,あったはずの才能が摩耗してしまうのだ。 しかし,グールドの両親はこの天才少年で神童ビジネスを展開しようとはしなかった。(中略)才能は温存された。(p24)
 ハイスクールでは音楽の教師から,「あなたは歌えない」と怒られた。それに対しエルヴィスは,「いいえ,ちゃんと歌えます。先生は僕のような歌い方を,よいとしていないだけなんです」と反論した。クラシック音楽の教育システムの中で生きている音楽教師には,エルヴィスの歌は認められなかったのだ。(p27)
 グールドの発言や書いたものには,「嘘ではないが本当でもない」事柄がある。これはグールドに限ったことではなく,自伝や回想録というものは疑ってかからなければならない。故意に虚偽を書くこともあれば,記憶違いや勘違いもあるし,憶えているが,あえて書かないこともあるからだ。(p30)
 有名になってからのグールドは,ホロヴィッツの悪口ばかりを言う。それは逆に,自分がホロヴィッツの影響を受けたことを隠すためではないか。(p31)
 グールド世代のほとんどが,コンクールがきっかけで音楽シーンにデビューしている。コンクールに出ずに有名になった点でグールドは特異だ。グールドも,出ようと思えばいくらでも出られたはずだが,彼は競争が嫌いなので,コンクールに出る気はまったくなかった。(p80)
 グレン・グールドは「コンサートからのドロップアウト」と,「レコードに専念」の面が強調されるが,「テレビとラジオに最も深く関わった音楽家」でもある。(p84)
 ロックンロールはラジオやテレビで視聴者の共感さえ得られれば大ヒットするが,クラシックは権威が必要だった。日本でグレン・グールドがすぐには人気が出なかったのは,権威ある批評家からの絶賛がなかなか得られなかったからだ。(p100)
 ソ連は市民生活において口コミが発達していた。政府や共産党の発表が嘘ばかりであることを国民は知っていたので,その対抗手段として,口コミネットワークを発達させていたのだ。(中略)グールドについての情報も,「新しい音楽」に飢えていた人々の間に,数十分のうちに伝わったのだ。知人から,とんでもないピアニストが演奏していると聞いた人々は音楽院大ホールへ駆けつけた。前半は空席が目立ったが,後半は嘘のように満席となった。(p116)
 よく似ている音楽家など,いるはずがないのだ。巨匠クラスになると,天才であるがゆえに個性的な人々ばかりなので,似ているほうがおかしい。(p139)
 グールドはホールに残り,演奏会後半のシベリウスの交響曲第五番を録音ブースで聴いていた。そこからはガラス一枚を隔てて,ちょうどカラヤンの顔が見えた。 「彼の陶酔的な表情の変化と,その結果として出てくる音との関係を導き出すことができました」とグールドは後に振り返る。そして,カラヤンの指揮について,「目を閉じて指揮し,タクトの動きにきわめて説得力のある舞踊のような輪郭を与える傾向がありますよね。率直に言って,この効果こそが僕の生涯で本当に忘れられない音楽的かつ劇的体験のひとつになっているのです」とも語る。 グールドも別にカラヤンにお世辞を言わなければならない立場にはないので,本当に感動したのであろう。(p141)
 経済的に成功した音楽家は,常にこう批判されるのだ。(中略)当時の音楽院生の間で尊敬されていたのはトスカニーニだったと,グールドは書く。彼には「トスカニーニの指揮ぶりは確信よりもむしろ恐怖心から生まれたもので,締まりがなかった」ように思えたのだが,「機運はトスカニーニにあった」と。(p148)
 グールド自身がチャイコフスキーを演奏するわけがない。ソロのリサイタルでもショパンやリストは弾く気がない。そうなると,グールドとしてはバッハやベートーヴェンをいつも演奏しなければならない。同じ都市で何度も演奏するわけではないので,聴衆はその時々に初めて聴くからいいが,グールドは飽きてくる。(p160)
 ジャズにリズムの興奮を感じるかとの質問には,「バッハ以上にスウィングする音楽はない」と断言する。つまり,グールドは「スウィング」という言葉を正しく理解している。(p164)
 ソ連共産党の目論見は,たったひとりの青年の音楽の力によって大きく狂っていく。強引にソ連代表の誰かを優勝させることも可能だったのかもしれない。しかし,それでは世論が納得しない。ソ連の国民も,クライバーンの優勝を望んでいるようなのだ。(p171)
 ピアニストは普通,よほど光熱でも出ない限り,気管支炎ではキャンセルはしない。だが,グールドは喉を痛めたくらいで弾けなくなってしまう。(p175)
 グールドは保険の外交員にはならなかったが,株の取引ではかなり有能だった。(中略)ピーター・F・オストウォルドは,グールドが演奏会から引退できた背景には,出演料収入に依存していなかったからだと指摘している。(p186)
 彼(グールド)はその前の世代であるホロヴィッツが若い頃にやっていたような,オーケストラと対決し,叩きのめすような演奏は好まない。ピアノがオーケストラに溶け込むようなかたちの共演を求めるのだ。グールドとカラヤンの相性がよかったのも,そこにある。(p192)
 カラヤンの映画は,コンサートをそのまま撮影するのではなかった。先にオーケストラを指揮して音楽を録音し,カット割りを決めた上で,それに合わせて指揮する自分とオーケストラを撮影し,編集していくという方法で制作された。(中略)カラヤンはコンサートを録画するのではなく,スコアを視覚的に表現しようとしたのだが,なかなか理解されなかった。しかし,グールドはこれを理解し,評価した。彼のレコード作りと考え方が同じだからだ。 グールドはカラヤンのEMIでのレコードについて,「コンサートホールの音響を真似る無意味さを悟ったレコーディング哲学」があると評している。カラヤンとグールドに共通するのは,コンサートとレコードは別だという割り切りだ。レコードはコンサートの再現ではないのだ。レコードならではの演奏をするというのが,カラヤンとグールドの共通認識だった。(p247)
 帝王と呼ばれ自分が望んだことであれば何でも実現させる「私の辞書に不可能はない」タイプのイメージのカラヤンと,孤高の人で自分のやりたいこと以外はやろうとしないイメージのグールドが,ともに共演を望んだのに実現しなかったという事実は,音楽ビジネスの複雑さを示してもいる。二人は金などどうでもよかったかもしれないが,二人の周囲には,二人の音楽によって生活している人があまりにも多かった。(p250)
 コンサートについて「前列左手ではご婦人がブレスレットをじゃらつかせ,右手では誰かがスコアを追いつつ(ただしページが間違っている),プログラムで拍子を取っている(ただし狂っている)。後ろの席では,誰かが駐車場が確保できなかったらしく,そのことを隣の客にぶつぶつとこぼしている」と,その不愉快さを語っているのは,グールドではなくカラヤンである。カラヤンもまた,コンサートが演奏者にとっていかに不愉快なものか,よく知っていた。(p257)
 グールドが「二度とコンサートはやりませんよ」と断言すると,「君は本当に,聴衆が発する,あのきわめて特殊な気といったものを,ほんの一瞬でも感じたことがなかったのかい」と質問した。 グールドはきっぱりと言った。「本当になかったのです。実際,聴衆がいるせいでいつも演奏がよくなかったんです」(p258)
 グールドはそれぞれの曲や作曲家についての既成概念を打ち破り,「これまでにない演奏」をしなければ録音する意味がないと考え,批判されるのを覚悟して確信犯的に独創的なレコードを作ってきた。(p261)

2017年2月11日土曜日

2017.02.11 中川右介 『国家と音楽家』

書名 国家と音楽家
著者 中川右介
発行所 七つ森書館
発行年月日 2013.10.26
価格(税別) 2,800円

● かつて国家(あるいは政府)のくびきに絡めとられて,苦悩した音楽家がいた。今の日本ではあり得ないことだ。音楽家に限らないが,ノホホンとしていられる。
 本書はその苦悩した音楽家を取りあげて,時代背景との相関を外部的な視点から俯瞰する。

● 第Ⅰ章 独裁者に愛された音楽
 ナチスドイツとそれに翻弄された音楽家を取りあげる。その代表は,フルトヴェングラーとカラヤンということになるが,この二人については著者の視線は穏やかだ。が,クナッパーツブッシュに対しては容赦ない言辞を浴びせる。
 ヒトラーはワーグナーに心酔していた。そのワーグナーの聖地,バイロイト音楽祭はワーグナーの子孫が主催する。この時期にその当主にあったのは,ヴィニフレート・ワーグナーだった。
 史上最も藝術に理解があり,藝術を保護し支援した政治家は,おそらく,アドルフ・ヒトラーである。彼の政権ほど,クラシック音楽とオペラを優遇した政権はない。(p15)
 ドイツに留まり,ドイツ音楽の伝統を守り,ドイツで暮らすドイツ人のために音楽を奏で続けた人々もいた。ナチが合法的に成立した政権である以上,彼らの選択は決して責められるものではなかったはずだ。(p21)
 代役とはいえ,栄えある総統誕生日に指揮できた。ヒトラーの愛人エーファ・ブラウンが,その外見に惹かれ,彼を起用するように言ったからだった。
 こうしてクナッパーツブッシュは,四三年と最後の誕生日祝賀会となる四四年も,ベルリン・フィルハーモニーを指揮した。
 これだけ,ヒトラー政権に擦り寄りながらも,彼は戦後,「自分は反ナチだった」と言い張るのである。(p33)
 ナチの恩恵を受けた多くの者が,戦後はヒトラーを否定したり,自分がいかにヒトラーと関係が薄かったかを強調したりした。
 しかし,ヴィニフレート・ワーグナーは戦後も「ヒトラーとは友情で結ばれていました。もし今,彼が扉を開けて入って来たら,心から嬉しい」と公言した。彼女だけが筋を通したのである。(p52)
● 第Ⅱ章 ファシズムと闘った指揮者
 ここでの主役はトスカニーニ。
 とくにオペラやオーケストラ音楽のように,何十人,ときには何百人もの共同作業で作っていく藝術の場合,統率者が必要だ。指揮者,演出家は独裁者であることを求められる。(p57)
 トスカニーニはすでに世界的名声を得ている大指揮者だ。それに比べると,フルトヴェングラーはこの時点ではまだ新進気鋭,中堅といったクラスである。にもかかわらず,フルトヴェングラーがバイロイト音楽祭に求めたのは,音楽総監督というポストだった。トスカニーニが無償で引き受けたのと比べると,その権力欲には驚くばかりである。ヴィニフレートはこの条件を呑んだ。(p75)
● 第Ⅲ章 沈黙したチェロ奏者
 スペイン出身のチェロ奏者カザルスを取りあげている。フランコ政権下でカザルスはどう動いたか。ここで描かれているカザルスは誠実で清廉だ。

● 第Ⅳ章 占領下の音楽家たち
 アメリカでも喝采を浴びたが,コルトーがこの国で音楽的に刺激を受けることはなかった。音楽の伝統のない国であるアメリカはビジネスとして行く場でしかないのだ。コルトーが何よりも憧れていたのが,ドイツの音楽と文学だった。彼にとって,ドイツ人は「悪」とは思えなかった。これを甘いと批判するのは簡単だが,この時点ではナチの残虐非道な蛮行の全貌はまだ明らかになってはいないのだ。(p158)
 彼はフランスを出ることもできたが,占領当局から,戻らないのならドイツの指揮者にパリ音楽院管弦楽団のコンサートを指揮させると脅されたのだ。この時,名前が挙がったのがヘルベルト・フォン・カラヤンだった。ドイツ人の手に渡すくらいなら,自分が振ろう-ミュンシュはそう決断し,占領下のパリへ戻った。(p160)
 シャルル・ミュンシュは占領下にあってパリに留まりつつ,抵抗を続けるという困難な立場に身を置いた。ミュンシュはレジスタンスに協力し,その収入のほとんどを寄付するようになる。(p163)
 ベルリンは連日連夜,連合国軍による空爆を受け,瓦礫の山だったが,フィルハーモニー楽堂は被害がなく,どうにか演奏会を開くことができた。音楽を求める人々で,ホールは満員となり,入りきれない数百人も,立ち見で無料で聴くことになった。
 コルトーがステージに出てきただけで,大喝采となった。この日演奏されたのはショパンの曲ばかりだった。(中略)
 その夜のベルリンの聴衆にとっては戦時下での最高の贈り物だったであろう。この危険な状況下にベルリンへ客演したことで,コルトーは多額の出演料を得た。しかし,彼はそれと引き換えに「対独協力者」という汚名をきせられることになる。(p164)
● 第Ⅴ章 大粛清をくぐり抜けた作曲家
 当然,ショスタコーヴィチがこの章の主役となる。スターリンのような人物がどうして生存を許されてしまったのか。時代の綾の重なり具合によっては,こういうことにもなるのだと,思考停止をするしかないようだ。
 ドイツで生まれ,ヨーロッパ各地に広がり,ロシアで終演を迎えたものに,交響曲とマルクス主義とがある。(p179)
 このようにショスタコーヴィチについては謎が多い。それだけソ連という国は闇の世界なのだ。検閲と密告の社会だったので,親しい友人あるいは家族にすら本心を打ち明けられない。手紙はもちろん,日記ですら信用できない。もちろん,当局の公文書も粉飾と虚偽が入り混じる。(p184)
 ショスタコーヴィチは脅えながら暮らしていた。夜中,ふと足音が近づいてくるのを耳にすると,その恐怖は頂点に達したと,彼は後に語っている。もしその足音が彼の住む部屋の前で止まったら,それは逮捕を意味し,その逮捕は,よくて収容所,悪ければ死刑を意味していた。そういう時代だった。(p195)
 ショスタコーヴィチがトゥハチェフスキー事件に連座せずにすんだのは,彼を取り調べた係官がその次の日には逮捕されていたからだ。粛清のトップであるエジョフの末路を思えば,ソ連社会全体のなかで同じようなことが数限りなくあったと推測できる。(p200)
● 第Ⅵ章 亡命ピアニストの系譜
 ポーランドの亡命ピアニストを3人取りあげる。 ショパン,パデレフスキ,ルービンシュタイン。
 ドイツやフランスからは,ユダヤ系を中心に大量の亡命者がアメリカにやって来た。そのなかには音楽家や演劇・映画関係者も多く,戦中から戦後のアメリカの娯楽産業は彼ら亡命者が支えたと言って過言ではない。藝術の伝統のない国アメリカは,ヒトラーとスターリンのおかげで音楽や演劇・映画の伝統をタダで輸入できたのだ。(p228)
● 第Ⅶ章 プラハの春
 その結果,各国で,その民族固有の音楽の確立を目指した藝術運動が勃興した。実は,この「民族固有の音楽」という考えそのものも,ドイツで生まれたものだった。
 十九世紀半ばからロマン主義運動が盛んとなり,ドイツ音楽こそが最高の音楽であるとドイツ人たちは思い込み,そう主張するわけだが,その過程で,ワーグナーに代表されるようにあまりにもドイツ色を出しすぎたため,普遍的なものとして発展していたクラシック音楽が,そいつのローカル色の強いものになってしまった。(p240)
 反ハプスブルクで一致したチェコとスロヴァキアの人々は共闘して独立を求めたので,その流れでひとつの国となったが,この時,ひとつの国にならず,別々の国家となっていれば,その後の世界史はだいぶ変わっていたはずだ。(p248)
● 第Ⅷ章 アメリカ大統領が最も恐れた男
 バーンスタインがこの章の主役。「アメリカ大統領が最も恐れた男」というのは少々以上に言い過ぎではあるけれども,大統領を恐れなかった男ではあったようだ。
 もともとケネディ家の思想信条は共和党に近い。だが,ボストンを支配していたイギリス系の人々が共和党を支持していたので,アイルランド系の人々はそれへの反発で,敵の敵は味方ということで民主党を支持していたのだ。(p288)
 バーンスタインは誰とでも親しくなる人で,頼まれると自分の名を使うことを気軽に許した。そのため左翼系の団体や人々の嘆願書の多くにバーンスタインの名があった。といって,彼が熱心な活動家だったわけではない。単に気前が良かっただけだ。(p290)
 バーンスタインとニューヨーク・フィルハーモニックのツァーと同時期に,副大統領のニクソンも南米各国を歴訪していたのだが,彼は激しい野次と怒号で出迎えられ,実に不愉快な思いをしていたのだ。しかし,バーンスタインは歓迎された。(中略)南米に人々はアメリカという国家の外交政策には不満があったが,アメリカが嫌いなわけではないことを示したのだ。(p297)
 広島での記者会見でバーンスタインは,日本の反核運動が分裂していることを批判し,関係者をあわてさせた。相手が大統領であろうが反核団体であろうが,バーンスタインは遠慮しない。(p323)
 バーンスタインがここまで強い態度に出られるのは,政界的名声と巨万の富があるからだった。そしてその名声と富とは,彼が政府に頼らずに自分の力で手に入れたものだった。だから彼は権力から自由だった。しかし同じように世界的名声と富を持ちながらも,メダルを集めることに夢中になり,時の政権に媚びへつらう藝術家もいるのだから,やはり,バーンスタインは特別な人だったと言えるだろう。(p324)
● エピローグ 禁じられた音楽
 同楽団(パレスチナ交響楽団,現在のイスラエル・フィル)の最初のコンサートは一九三六年十二月で,指揮したのはユダヤ人ではないトスカニーニ,曲はブラームスやシューベルトというドイツ音楽だった。二年後の三八年に,この楽団はトスカニーニの指揮でワーグナーの《ローエングリン》の前奏曲も演奏している。
 ワーグナーがタブーとなったのは戦後,イスラエルという国家が建国されてからなのだ。イスラエル国家は,かつてユダヤ人を弾圧したナチ政権のように,音楽を弾圧している。(p340)
● あとがき
 藝術と権力の関係については映画『第三の男』の冒頭の有名なセリフがある。
 「ボルジア家三十年の圧政はルネサンスを生んだが,スイス五百年の平和と同胞愛は何を生んだか。鳩時計だけだ」
 これを真似すれば,スターリン政権の圧政がショスタコーヴィチを生み,戦後日本六十年の平和は美空ひばりを生んだのだ。(p346)

2017年2月8日水曜日

2017.02.07 宇野功芳 『ベートーヴェン 不滅の音楽を聴く』

書名 ベートーヴェン 不滅の音楽を聴く
著者 宇野功芳
発行所 ブックマン社
発行年月日 2013.07.01
価格(税別) 1,900円

● ベートーヴェンの楽曲を録音したCDについて語っている。もちろん,それを通してベートーヴェンについて語るところもあるんだけど,基本はCDの名盤案内だ。

● 著者はカラヤンは嫌いなようだ。著者に限らず,評論家先生はカラヤンはダメだと言うことで,評論家としての立ち位置を確保するという性癖があるようだ。
 なので,本書においては,カラヤン&ベルリン・フィルのCDはまったく推奨されていない。

● 本書で推奨されるのは古いCDが多い。しかし,例外を3人ばかり登場させている。
 まず,ピアノ三重奏曲第7番「大公」において,鳥羽泰子を激賞。ヴァイオリン・ソナタ第5番「春」においては,佐藤久成を。佐藤に合わせる鳥羽も再び。ピアノソナタにおけるHJリム。
 鳥羽と佐藤のCDは手当てした。さっそく聴いてみることにしよう。

● 以下にいくつか転載。
 最近はピアノ,ヴァイオリン独奏などの技術向上が著しく,オーケストラもマーラーなど一昔前には考えられなかったくらい演奏水準が上がった。そういうCDを聴き慣れた現在,カルミナ(四重奏団)へのおどろきが今回の試聴ではややうすれたのも事実だ。(p176)
 レコード界不況のせいで,最近はオペラの録音がめっきり減ってしまったが,弦楽四重奏の世界も淋しい。いつまでもスメタナ(四重奏団)が推薦盤に名を連ねるのでは,書く方も気が引ける。(p181)
 ベートーヴェンの後期の四重奏曲,それは深い思索とファンタジーが曲のすみずみにまで浸透し,融通無碍な形式の自由さを獲得した幽玄ともいえる精神の声である。彼のモットーである〈苦悩を克服して歓喜へ〉の思想はもはや表面に現れず,孤独の影が深い。(p187)
 バックハウス盤を久しぶりに聴き始めたとたん,なんという美しい音,なんという美しい音楽だろうと思った。80歳をすぎた老音楽評論家には耳タコのこの作品が,若き日の熱情とともに蘇り,感動させてくれたのである。音楽における演奏とは実にすばらしい行為なのだ,と改めて思い知った。(p250)

2017年2月4日土曜日

2017.02.04 番外:Pen 2017.02.15号-エルメスの秘密。

編者:安藤貴之
発行所 CCCメディアハウス
発行年月日 2017.02.15
価格(税別) 602円

● エルメスの歴史,製品を紹介する。記事のメインはユーザーのエルメス礼讃。まず,そこからいくつか転載しておく。
 個々の製品が,まるでこの世にひとつずつしか存在しない-そんな価値を感じさせます。(ロベルト・ロレンツィ p30)
 自分でこのバッグ(1947年製のケリー)を手にして,なぜこのバッグがこんなに愛されるのかがよくわかりました。まず,服を選ばない。もてばもつほど味が出てくる。そして,軽くシンプルでムダがない一方で,人を魅了する美しさをもっています。デザイナーの立場から言うと,飽きがこない鞄をつくるのは非常に難しいことなんです。(マウロ・ポロッティ・カレッラ p31)
 我々の世界で名品と言われるのは周りに影響をおよぼすような空気をもっているもの。エルメスのアイテムは空気をもっている。(中西輝之 p38)
 アート作品は最初のインスピレーションが大切。迷ったら買わない。ものや人の出会いも同じだと思います。パリのエルメスでこのコートに出会った時はひと目惚れでした。(井村俊三 p41)
 文章に関していうと,どういう言葉を使うのかという以外に,どういう言葉を使わないのかも大切です。そういう意味で,エルメスは“なにを使わないのか”というのが明確な気がします。(平野啓一郎 p49)
● 「現代に生きる人々の日常を美しくするためのお手伝いをすること」がエルメスのミッションであるらしい。日常を美しくするのはその本人しかできない。エルメスといえども,できるのはその「お手伝い」に限られる。
 エルメスをまとうよりも,まずは姿勢をよくすること。そしてその姿勢を保つ努力をすること。よけいな脂肪を除去する努力をすること。感情を安定させるように努め,穏やかでいること。
 そういうことが第一に必要で,第二は洗濯や掃除などの家事をきちんとやること。衣服や持ち物はその次に考えればいいことでしょ。

● そういうことをまるでしていないのに,エルメスやシャネルにうつつを抜かしている人がいるんだと思う。で,エルメスもシャネルもそういう人たちがいてくれるおかげで,存続できているのだと思う。
 と,エルメスなどに縁のない輩は勝手な想像をするのだ。

● 6代目当主のアクセル・デュマが語っているところを,最後に転載。
 お客様はサプライズを求めている。しっかりマーケティングして,誰もが欲しいものをつくってもサプライズは生まれない。(中略)新しい香水を出す時にも,エルメスでは消費者テストを一切しないのです。(p60)

2017.02.04 番外:twin 2017.2月号-LOVEを届けるパン おしゃれ定食

発行所 ツインズ
発行年月日 2017.01.25
価格(税別) 286円

● こういう雑誌は同じ特集を何度も繰り返して誌面を作っていく。そうそう話材が転がっているわけでもない。そうせざるを得ない。
 しかも,店は栄枯盛衰極まりない。取材対象は常に新たに生まれている。

● この店はいつまで保つのかなと思うのもある。M町のしかも奥まったところに店を出して,千円のランチを出す。
 たぶんだけれども,そこに住んでいる人は行かないだろう。昼間いるのは年寄りばかりのはずだ。お客はヨソから来る人だ。
 そこには人を呼べるものはない。あるのは豊かな自然だけ。栃木県に限っていえば,豊かな自然なんぞというのはどこにでもある。わざわざそれを求めて来る人はいないと断言しておこう。

● となれば,その店自身が人を呼べるのでなければならない。蕎麦屋でもステーキ屋でも,旨ければ遠くからでもお客は来てくれる。
 たとえば,烏山の「ステーキハウス クローバー」がそうだし,今市の「長畑庵」もそうだ。

● しかし,それだけの覚悟があるのかどうか。この雑誌に載っている写真と記事からは,それが伝わってこないんだよな。

2017年2月1日水曜日

2017.02.01 中川右介 『聴かなくても語れるクラシック』

書名 聴かなくても語れるクラシック
著者 中川右介
発行所 日経プレミアシリーズ
発行年月日 2012.08.08
価格(税別) 850円

● 著者はクラシック音楽の入門書(新書)をいくつか書いている。本書はその中の1冊。入門するならこの曲を聴きなさい,この指揮者のこのCDがいいですよ,という内容ではない。それも巻末にまとめて紹介されてはいるけれど。
 そうではなくて,クラシック音楽という範疇について語っている。歴史やいくつかの転換点になった出来事や作曲家にも触れている。

● 「音楽は聴かなければ分からない」というのはそのとおりだろうけども,語るだけなら聴かなくたってじつはかなりのところまで語れてしまうのじゃないか。
 もちろん,オーケストラに入って楽器を演奏している人とか,コンサートに足繁く通い詰めている人とか,おまえはCDのレンタル業でも始めるつもりかと言いたくなるほど,CDを揃えて聴きこんでいる人とか,そういう人たちに読んだだけの知識をひけらかすのは自爆行為だとしても,ぼくもクラシックが好きでねぇ程度の人ならば,読んだだけの知識で充分に渡り合えると思う。
 そういう半可通を黙らせるだけなら,聴くまでもない。読むだけで充分だ。

● そのために格好な本は,最近出た『葉加瀬太郎の情熱クラシック講座』(ローソンHMWエンタテイメント)だと思うけれど,本書をその1冊に加えることに異存はない。
 読みやすいから時間をかけずに読了できるのも,精神衛生にいい。

● 以下にいくつか転載。
 音楽は聴かなければ分からない部分があります。それで聴いてみる。ところが,つまらない。自分には無理だ。クラシックなんてどうでもいいや-このように,せっかく入門しようと思ったのに,「聴いた」がために挫折し,あきらめてしまう人が多いようです。(p5)
 戦前に比べれば,クラシック・ファンの所得水準は平準化されていると思いますが,それでも比較的裕福な人々の趣味であることは事実です。 平準化したのは,大衆教養主義のおかげです。(中略)しかし,次の文化相対主義によりクラシックの価値が下がったため,本当に好きな人しか聴かなくなりました。(p22)
 すべては,楽譜の発明に始まったと言って過言ではないのです。これにより,音楽はその場で消えてしまうものではなく,記録されるもの,複製されるものになり,そこにビジネスが生まれたことで,さらに発展していったのです。 やがて二〇世紀になると,録音と放送,通信という技術が音楽をさらに普及させます。これらの発明も欧米でした。(p48)
 クラシック,つまり西洋音楽も最初は「歌」でした。教会音楽は聖歌ですから,基本的に合唱であり,オルガンは伴奏に過ぎません。オペラも歌が主でオーケストラは伴奏でした。ですから,ベートーヴェンの時代まではコンサートでも歌がメインであり,その合間に交響曲やピアノ・ソナタが演奏されており,オーケストラだけのコンサートが開催されるようになるのは,一九世紀になってからです、(中略)言葉を必要としなくなり,楽器演奏だけの音楽が主流になることで,クラシック音楽は世界市場を獲得したのかもしれません。(p50)
 クラシック音楽はある意味で富の集中する業界なので,お金のある国・地域に才能が集まり,お金のある都市でいい演奏会が開催されます。(p53)
 「音楽が嫌い」という人は,まず,いません。でも,「クラシックは苦手」という人は多い。なぜでしょう。「何を描いているのか分からない」からです。クラシック音楽とポップスとの最大の違いは何かというと,「言葉」の有無だと思います。(p58)
 モーツァルトの交響曲はすべて何も描いていません。さまざまな楽器が鳴り響いているだけです。物語は何もありません。言葉として理解することは不可能なのです。だから,クラシックを聴き慣れていない人がモーツァルトの交響曲を聴いて,「何を言いたいのかよく分からない」と思ったとしたら,それは正しいのです。(p60)
 高いチケットの公演でも,有名人は着飾っていますが(それが彼らの仕事でもあります),普通のお客さんは,そのまま街を歩いても目立たない服装がほとんどです。(p67)
 ロックのコンサートは大音量を楽しみに行くものですが,クラシックは「沈黙」の一歩手前の静かで弱い音を楽しむ音楽でもあるのです。弱い音だけど,ホール中に響く-この矛盾したことをやれるかどうかが演奏家として一流かどうかの違いと言ってもいいわけです。だから,聴くほうも静かにしていなければならない。(p69)
 学校の音楽鑑賞教室は,その目的とは逆に,「クラシック嫌い」を大量生産したわけですが,その最大の理由が,聴いた後に「感想文」を書かされること。教員は「聴いた音楽について感じたままに書けばいい」と言って書かせるわけですが,「音楽について感じたことを書く」なんて,プロの音楽評論家だって難しい。そんなことが中学生や高校生にできるわけがないのです。(p72)
 読書感想文は読書嫌いを作る。とうの昔から言われていることなんだけど,今でも教育現場では,小学生をせっせと読書嫌いにさせている。
 一八世紀までは「過去の名曲」という概念がありません。音楽とは,その場で消費されるものでした。有名な音楽家,人気のある音楽家はいましたが,死んでしまえば忘れられ,その人の作品を他の人が演奏して伝えていくなどということは,ほとんどなかったのです。 一九世紀半ばになって,過去の名曲を「クラシック」と呼ぶようになり,作曲者以外の人によって演奏される-ポップスでいう「カバー」の時代に突入します。 それを可能にしたのは,楽譜の出版でした。(p75)
 楽譜を買う人の購入動機は,自分で演奏するためですが,クラシックのファンのなかには,楽譜を「読むモノ」として購入する人もいます。音楽の作品論や演奏論を核にあたっては,楽譜を読むことは必要不可欠なので,資料として揃えている学者や評論家もいますが,なかには,趣味として楽譜を読む人もいるわけです。(p76)
 楽譜というものは正確なようでいて,かなり曖昧なものなので,それを読み取って演奏する人によって,かなり違ってくる。音の高さは,一応,科学的に決められています。しかし,長さとか強弱はかなり曖昧なのです。そこに演奏者の「解釈」の余地が生じます。(p77)
 レコード(CD)と卵は物価の優等生と言ってよく,何十年もの間,ほとんど値段が変わりません。一九六〇年代のレコードもいまのCDと同じで一枚二千円前後でした。大卒の初任給が一万円前後の時代の二千円ですから,かなり高かったのです。簡単に買えるものではなかった。そのため,音楽評論家には,どのレコードがよいか見解を示すことが求められたのです。(中略)こういう事情で「名盤」というものが決められました。(p82)
 映画音楽はフルオーケストラで演奏される豪華絢爛なものになっていきました。作曲家たちは,オペラの手法を使い,音楽を書いていったのです。そのオペラの手法とは何か。それはワーグナーが考案した「ライトモティーフ」という手法です。ワーグナーは登場人物ごとの音楽を作り,さらに「怒り」とか「恐怖」とか「歓び」とか「愛」などの状況や感情ごとの音楽を作り,されを組み合わせることを考案したのです。(p89)
 まず,コンサート会場が大きくなっていきました。(中略)大きくなればなるほど客の収容人数は増えるので,興行収入が増えます。 ところが,演奏会場が広くなると,端の席,うしろの席まで音を届けるためには,音量を大きくしなければなりません。こうして楽器の改良がなされます。音量が大きくなった楽器の代表がピアノです。(p169)
 芸術家なんだから,納得できる演奏になるまで徹夜も辞さないのだろう,なんて思っていたら大間違いです。彼らはサラリーマンでもあるのです。とくにアメリカのオーケストラはユニオンによて守られており,一分でもリハーサルが長引くと残業代が発生します。だから,事務局は時間厳守を指揮者に求めます。(p180)
 天才がいて独創的な音楽を創り出した。それを模倣する凡人がいてその音楽は拡散した。拡散することでやがて普遍化していく。そこにまた次の天才が現れて独創的な音楽を創り出す-これを繰り返しているわけです。二〇世紀に入ると,「作曲」では天才は現れにくくなりましたが,「演奏」において多くの天才が生まれました。(p187)
 多くのパトロンやスポンサーが芸術家や芸術団体へ寄付や援助をする際には,必ず「金は出すが,口は出さない,自由にやりたまえ」と言うものですが,必ず,口を出してきて最後には金をださなくなるものです。(p194)
 日本のクラシック音楽の関係者は,「クラシックなんてもともと採算がとれるものではないのだから,公的な援助がなければ成り立たない」と開き直ります。何にお金がかかるのかというと,大半は人件費です。そして,その音楽家たちはみな好きでやっているはずです。それなのに,国の援助がなければやっていけないというのもおかしな話です。嫌ならやめればいいのですから。(p195)
 これについてはぼくも意見を持っている。公的補助を望むなら,もっと数を減らさなければいけない。合併・統合が必要だ。それすらしないで,現状をそのまま維持できるように税金を投入してくれというのでは,まったく賛同できない。
 だいたい,納税者の95%はクラシック音楽を聴かない人たちだろう。どうして一部の人たちの趣味のために自分たちの税金が投入されなければならないのか説明しろ,と言いたくなるだろう。
 コンサートなどの興行は,行ってみれば分かりますが,客層の高齢化は深刻です。若い人が少ない。CDのクラシック売り場も中高年の男性客が圧倒的です。(p197)
 客層の高齢化はぼくも実感している。CDのクラシック売り場はほとんど覗いたことがない。栃木だと,宇都宮の最も大きなCDショップに行っても,品揃えは貧弱で,そこにお客がいた試しがない。CDはアマゾンで買うしかない。が,中高年の男性客が圧倒的に多いとなると,事態は最悪だなぁ。中高年の女性客ならまだしもだが。
 一回はコンサートに行かせることはできる。クラシックのCDを一枚は買わせることはできる。しかし,その人をクラシックのファンにさせるのは難しい。(p201)
 カラヤンのように,クラシック・ファン以外にもその名前が知られていたスーパースター,大巨匠がいなくなり,どうも今後は生まれそうもないという事情があります、これはクラシックに限らず,ポップスでも同じだし,音楽に限らず文化・芸術全般,さらには社会全体にも言えることかもしれません。(p206)
 クラシックの名曲は無数にありますが,「クラシック・ファン」と名乗るためには,千枚は聴かなければ鳴りません。(p222)
 最後にこれを言っちゃいけないと思うんだがな。

2017年1月31日火曜日

2017.01.31 中牟田洋子 『モレスキンのある素敵な毎日』

書名 モレスキンのある素敵な毎日
著者 中牟田洋子
発行所 大和書房
発行年月日 2016.09.30
価格(税別) 1,400円

● モレスキンユーザーはモレスキンをどう使っているのか。それを取材したもの。もちろん,絵になる使い方でなければならない。そうでないと本にしずらい。
 というわけで,カラフルな使い方をしている人たちが多く登場する。その多くは女性。色鉛筆で絵日記を描いていたりとか,旅ノートを作っていたりとか。

● 貼る派の人ももちろんいる。趣味で集めた切手を貼っている人もいるし,食べ物のラベルを貼っている人もいる。
 貼るというのは,描くとともに,ノート術(?)の鉄板になっている感があるね。

● ただし,モレスキンならではという使い方はたぶん存在しない。ここで紹介されている使い方の多くは(というか,ほとんどは)『ほぼ日手帳公式ガイドブック』にも出てくるし,MdN編集部編『新 手帳で楽しむスケッチイラスト』とも重なるところが多い(ように思う)。
 つまり,ここで紹介されている使い方はどんなノートでもできるものだ。逆にいうと,モレスキンを使っていない人にも役に立つ(かもしれない)。

● モレスキンの特徴の第一は高価なこと。が,高価だといったところで,ノートだからね,値段など知れたものだ。
 モレスキンがこれだけ売れているのは,普通の人が買っているからだ。ここに登場するユーザーさんたちも,また然り。

● ぼくなんかは高価だってところに幻惑されて,これだけ高いのでは使えるのは特別な人たちに限られると思ってしまいがちだ。
 が,そんなことはないんだね。使いたければ誰でも使っていいんですよ。あたりまえのことだけど。

● また,高いからといって特別な使い方をしなくたっていいわけだ。普段使いで使えばいい。
 ちょっと話はずれるかもしれないんだけど,ぼくは恥も外聞も捨てたダイスキンユーザーだ。そのダイスキンに対して,横罫だけじゃなくて無地と方眼も出してくれという意見をしばしば耳にするわけですよ(ネットでね。目にするといった方がいいのか)。
 でね,あなたね,無地だ方眼だって騒ぐほどの使い方をほんとにしてるんですか,とか思ってしまうわけですよ。

● でも騒いでいいんだよね。これまた,あたりまえのことだけど。使い方の水準が幼稚園レベルだろうと小学生レベルだろうと,そんなの関係ないんですよ。
 無地や方眼にこだわっていいんですよ。些細な好みを口にしていい。
 同様に,高価なモレスキンを好きなように使っていい。使いたいように使っていい。
 というようなことを,この本を読みながら思った。

2017年1月23日月曜日

2017.01.23 葉加瀬太郎 『葉加瀬太郎の情熱クラシック講座』

書名 葉加瀬太郎の情熱クラシック講座
著者 葉加瀬太郎
発行所 ローソンHMWエンタテイメント
発行年月日 2016.12.10
価格(税別) 1,500円

● クラシック音楽の入門書として,ぼくが知る限り,第一に推されるべきものが出た。バロック以降の音楽史をサッと辿るのにも使えるし,キーマンとなる作曲家のプロフィールやエピソードも面白く語られるから,いわゆる楽屋裏の話も仕入れることができる。

● 著者は演奏のみならず,自身で作曲もする人だから,実作者ならではの視点もふんだんに盛り込まれている。
 著者が一番好きだというブラームスについての,その視点からの叙述は本書でしか読めないものだろう。

● また,著者がどういう生い立ちを経て現在の著者になっているのかという自叙伝的な記述もある。本書は自叙伝ではないので,そこは読み手に想像力を要求することになるけれども,著者の生い立ちを想像することは,本書のみで充分にできる。

● 以下に,著作権法違反にならない程度に転載しておく。
 あくまで彼(ヴィヴァルディ)の音楽は観光用の大量生産で,惰性で書いていたようなもの。新しいことを考えている暇がないから,ある意味,どの曲もほとんど一緒。モチーフさえ違えば,ひとつのコード進行を使ってすべての曲を作ることができる,そして楽器を変えれば別の曲になる。 でも,ヴィヴァルディ自身はヴァイオリンを知り尽くしていた人ですから,そのワンパターンが弾き手にとっては超気持ちいい!(p10)
 名曲が生まれれば,当然名手も生まれ,酒場の音楽から純芸術音楽へと,ヴァイオリンという楽器の地位が変わる。その立役者が,ヴィヴァルディなんです。(p11)
 バッハはすべての音楽の源泉だと僕は思っています。ビートルズだって,バッハがいなかったら生まれなかったかもしれない。(中略)しかし,当時のバッハはとにかく地味だった。(中略)地味な活動ゆえに,当時はヨハン・ゼバスティアン・バッハの名前を知る人はほとんどいなかっんですよ。(p17)
 バッハはプロテスタントの教会にずっといたので,今でもイタリアを始めとするカトリックの国ではバッハの作品はあまり演奏されないんです。(中略)日本は,そういう意味では宗教的な背景なく,音楽的な価値だけで評価する。ニュートラルに全部の作曲家を受け入れることができる素晴らしい国だと,僕は思います。(p21)
 バッハが作曲した『マタイ受難曲』や『教会カンタータ』などは,正確にいうと一部は,作曲ではなく編曲です。もともとはグレゴリオ聖歌の賛美歌の旋律があって,そこに装飾音やハーモニーをバッハがくっつけています。(中略)ルネサンス時代の頃から,作曲家たちは案外やっていたことです。(p23)
 彼(ハイドン)は「交響曲(シンフォニー)の父」とも呼ばれています。「父」といわれるゆえんは,ソナタ形式という勝ちパターンを確立した,ということでしょう。交響曲にしても,ソナタにしても,ハイドンが確立したからベートーヴェンが破壊できた。(p28)
 音楽はやはり,狂おしくなければいけない,と僕は心底思います。ハイドンの音楽には,狂おしさがまったくない。ペラッペラな感じがする。ツルンツルンな感じがする。何も引っかかってこない。(中略)楽器を持って,あるいは五線紙に向かって何かを書いたら,もう少し心揺さぶられる音楽が生まれるのではないかと思うんです。(p29)
 音楽というのは「はみ出るもの」で,そういう精神性が作品にも出るわけだけれど,ハイドンにはそれがまったくない。(p30)
 僕は,人生のほとんど毎日をヴァイオリンという,あの曲線だけでできている美しい楽器と接しているせいか,どうも直線とうものが嫌で,苦手です。直角とか,定規とか。線が入っているノートもダメ。真っ白で自由になんでも書いていい紙でないとダメで,かたい四角いものが大嫌い。 直線のようなかたくて四角い音楽,これもハイドンが嫌いな理由のひとつ。ぴっぴって縦に割れる直線なものに心は揺さぶられない。(p31)
 彼(モーツァルト)の残した楽譜を見ると,もうただただ,神と交信しているんだとしか思えない。頭に浮かぶメロディに手が追いついていないと思われる。どんどん浮かぶものを,次はなんだ次はなんだと,考える間もなく書き殴っているのがわかります。真の大天才ですね。(p32)
 ベートーヴェンと比較すると,彼は音楽のいちばん小さなパーツのモチーフ,例えば,「ド」「ミ」だけのパーツだけで,40分くらいの交響曲を書きます。しかし,モーツァルトの場合,例えば『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』は,次々と浮かぶメロディをそのままメドレーにしているんです。なんてもったいない! 僕だったら,そのメロディひとつで1曲を作ります。モーツァルトの1曲分で,10曲は作れるはずです!(p32)
 モーツァルトが作った曲には圧倒的に短調の曲が少ないということをご存知でしょうか。ほとんどが長調の明るい曲ばかりですが,それは彼がエンターテインメントの人だったからです。(中略) 日本では“疾走する悲しみ”なんていわれて,深い悲しみが云々などとあたかもドラマティックに深読みされて語られていますが,実は,モーツァルトにとって短調の曲は,楽譜を売るときのセット販売用でした。3曲セットなのに,明るい曲ばかりだとつまらないでしょう? メリハリをつけるため,短調の曲を入れていたんです。(p36)
 ベートーヴェンの暗くて重くて難しい音楽は,当時としてはほとんど前衛でしたが,新興貴族たちのステータスアップのためには,とってもピッタリだった。彼らは,こんな難しい音楽を「わかる」「理解できる」というところを見せたかった。時代が求めていたものと,ベートーヴェンというアーティストの音楽がピッタリ合致したわけです。(p41)
 ハイドンの100曲分がベートーヴェンの1曲といってもいいくらい。(中略)ベートーヴェンの9曲は驚くほどそれぞれが全部根本的に違います。まったく似ているところがありません。(p43)
 『運命』が象徴的ですが,ベートーヴェンという人は小さなパーツの積み重ねで曲を書く人です。(中略)「ソソソミー,ファファレー」というパーツのバリエーションだけで大曲を成していく。まるでレンガをずーっと積み上げて巨大な建築物を作るかのように。当時,レゴがあったらベートーヴェンは絶対にハマったでしょうね。(p43)
 観客を熱狂させるパフォーマンスの元祖は,なんといってもピアニストならリスト,ヴァイオリニストだったらパガニーニですね。ヴァイオリンのテクニカルなことは,パガニーニがやり尽くしてしまったといっても過言ではありません。(p47)
 パガニーニが書く曲のメロディはイタリア民謡そのもの。(中略)パガニーニは,ヴィヴァルディから脈々と続いていたイタリアン・カンツォーネの世界をちゃんと受け継いでいる作曲家でもあるといえます。 ヴァイオリンの音楽は,歌詞のない歌です。僕もヴァイオリンを弾くことは歌うことだと思って演奏しています。それこそがヴァイオリンの世界そのものですから。(p49)
 今でこそ演奏家たちは楽譜通りに演奏しますが,20世紀の初めぐらいまで,オペラというのは,出演する歌手が歌えるようにいくらでも変えて良かったんです。(中略)ストーリーの流れは関係ない。むしろオペラ歌手のショーが大事。(p54)
 19世紀の初頭というのはオペラやバレエの全盛期で,イタリアやフランスの音楽が主流になっていて,ドイツの伝統的な難しい音楽は廃れそうになっていました。ドイツ文化の復興というようなことがいわれるようになり,そこで『マタイ受難曲』の演奏会を行うことになったんです。(メンデルスゾーンは)お金持ちだったので,そうした忘れ去られていた名曲の楽譜も手に入れることができたんですね。(p62)
 当時の新興貴族は,けしてインテリだったわけではないので,自分の娘を良家に嫁がせるためのアピールとして,ピアノを習わせるのが流行りました。ピアノを弾けるというのはお嬢様の証だったんですね。『乙女の祈り』と『エリーゼのために』を弾けるのが,まず目標。(中略)そう思うとこの2曲はすごいですね。まさに永遠のピアノ・スタンダードです。(p68)
 ショパンは超浪費家。(中略)稼いだ分,金遣いも荒かったんです。(中略)リストも超イケメンで派手なイメージですが,見てくれを気にしたのは実はショパンのほうだったんです。(p69)
 (リストは)74歳までパワフルに生きましたが,晩年は俗世間とはかけ離れた,ある意味気難しい,暗く哲学的な曲を書くようになります。若い頃の人気ぶりと比べて,このあたりの極端な振れ方も興味深いものがあります。(p70)
 ショパンは,最終的には一人で死んでいきました。と言いながらも,臨終直前の絵をみると,彼の周りには女性が5人ほどいて,水を飲ませたり,手握ったりしているんですよ。ハーレム死ではないですか? これは。(p74)
 僕にとって超スペシャルで,最愛の作曲家はヨハネス・ブラームスです。(中略)ブラームスはきちんと曲を書いているからだと思います。駄作がないというのは,圧倒的に信用できる要因です。(p82)
 彼(ブラームス)の譜面はものすごい情報量で,いろんなことを教えてくれます。スルメみたいに,見れば見るほど,演奏すればするほど,新たな発見や気づきがある。(中略)あまり言及されないことですが,ブラームスはリズム感がいい。とにかくシンコペーションが素晴らしい。(p84)
 彼(ブラームス)ほど,過去の作曲家に対して賛辞を贈った人はいません。(中略)古い楽譜のコレクターでもありました。とにもかくにも自分の先代たちが大好きで大好きでしょうがなく,研究に研究を重ねていました。これは自分の音楽に自信があるからこその姿勢です。自信がない人ほど,「俺は自分のもので勝負する」って言いますからね。(p87)
 キャリア的にはどんどん登りつめてお金持ちにもなったのに,家は持たずにアパートに住み,稼いだ莫大な金は全部寄付してしまった。身なりもみすぼらしかったし,食べものも毎日同じ肉団子。(中略)ブラームスは,恋愛や結婚,夢といった人生のキラキラしあ部分はすべてスコアの中に詰め込んでいたのだと思います。自分は表に出ないまま,楽譜は美しく完璧に仕上げる。(p90)
 生涯孤独だったからこそ,僕はブラームスを信頼できる。作曲家で友達が多いなんて,まずダメ。そんなヤツの音楽は信用できない。だって,音楽は一人でいるときにしか作れないんだから,友達が多くて,夜な夜なパーティに行っていたら曲は書けません。(p90)
 フェリックスというシューマンの息子がいるんですが,僕は断言します。フェリックスは絶対にブラームスの子であると。(中略)まあ奔放な女性だったので,ひょっとしたらブラームスの子ですらないなんていう可能性もあるかもしれない。(p93)
 特にロマン派の音楽は色恋あってこそ。ロマン派音楽の本質は恋愛だとすると,いちばん深く結びついている楽器はやはりヴァイオリンとピアノです。この二つはロマン派の楽器といってしまってもいい。ヴァイオリンもピアノも恋愛を奏でているときこそ,いちばんきれいな魅力的な音がする。(p97)
 ブラームスがCマイナー(ハ短調)で書くときは,絶対にベートーヴェンのことを考えているんです。意識しすぎているのが辛いくらいに伝わってくる。Cマイナーというのは,ある意味ベートーヴェンの“城”ですから,あえてそこにぶつけていくというのは根性がないとできないことです。(p99)
 僕にとって音楽は,普段の喜びがあり,その上に何かがあるというものであってほしい。コンサートでもCDでも,音楽によって幸せな気持ちになる,それが最高だと思うんです。(P124)
 ヴェルディやワーグナーのように,政治と切り離せないところに作品があるというのが,僕があまりオペラを好きになれないいちばんの理由です。(中略)たとえ作曲家にその意図がなかったとしても,オペラは国策として利用されやすいんです。(P124)
 オペラってどんな作品でも,「ここはあんまり聴いてもらわなくてもいいや」という捨て曲が必ずあるんですよ。『カルメン』にはそれがない。捨て曲が1曲もない!(p125)
 ヨーロッパ社会とうのは,昔は横割りでした。基本は身分階級で分かれていて,フランス人、ドイツ人という分け方はなかった。(p128)
 チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲について,ハンスリックという人が「音楽から悪臭がするということが初めてこの曲でわかった」みたいなことを書いている。でも,その悪臭,発酵臭こそが,チャイコフスキーの音楽の個性であり,武器だったんです。上流階級のものだったクラシック音楽に,大衆音楽を持ち込んだ。スノッブな上流の人たちにとっては,それこそ新鮮だったんです!(p130)
 交響曲は第四番も第五番も,まとまった構成で書かれているのに,彼(チャイコフスキー)のヴァイオリン協奏曲,ピアノ協奏曲は,どう考えてもわざとぶっ壊していると考えざるを得ない。構成がおかしいし,そのせいで気分が繋がらない。演奏していて右往左往するんです。(p131)
 僕は15歳のときに初めて『春祭』を生で聴きました。もうなんというか,ロックですよ,あれは。人生観が変わるくらいの衝撃でした。(p139)
 新しい表現が世に出たときの世間の反応というのは大方冷たいものですが,『春の祭典』も初演は最悪だったらしいです。なにしろ,それまで聴いたこともない音楽,観たこともないバレエだったからで,そりゃあ観客もわけがわからない。(中略)やがてパリだけではなくロンドンやニューヨークでも評価されるようになりましたが,必ず時代はとがった表現の後を追うんですよ。(p139)
 ベートーヴェンが作った苦悩から歓喜へと向かう物語の美学は継承しましたが,マーラーはその中で時間のコントロールをしたんです。その結果,物語は2時間にも肥大化して,交響曲という形は行きつくところまでいってしまいました。(p145)
 この時点では「ドレミファソラシド」という調性はギリギリのところで保たれていた。何か新しいことをやるとしたら,変わった楽器を増やすというアイディア勝負だったんですね。(p147)
 ニーチェの大傑作『ツァラトゥストラ』のテキストを,オーケストラ音楽にする。このような物語を描写する彼(リヒャルト・シュトラウス)のオーケストラ曲は,まさに映画音楽のパイオニアです。ハリウッドの大元はここにあるといってもいい。(中略)『スターウォーズ』や『スーパーマン』,『インディージョーンズ』など,名だたる大作の音楽をかたっぱしから手がけているジョン・ウィリアムズの音楽は,リヒャルト・シュトラウスのほとんどパクリです。(p147)
 マーラーが1000人のオーケストラでドカーンと「これが芸術だ!」とやっている頃,フランスではドビュッシーが「なにそれ,ダッセー」と言っていました。「なにを汗かいて大仰なことやってんだよ」と。(p150)
 彼(ドビュッシー)は単なるコンポーザーではなく,イノベーターでもあったんです。それまでとはまったく違う音楽のあり方を作って,音楽における美学のようなものを発明した。(中略)わかりやすく言うと,楽しい和音と悲しい和音を組み合わせて一緒に鳴らして,えも言われぬ雰囲気といいうものを作ったんですね。(中略)悲しい気持ちと楽しい気持ちが同居している,アンニュイな響き。そう“アンニュイ”なんていう雰囲気以外のなにものでもないものを音で作り出した。それまで「形式の音楽」「ダンスのための音楽」はありましたが,「雰囲気の音楽」なるものがここで初めて登場します。(p150)
 ドビュッシーは文学ではなくビジュアルの世界を音楽で作り始めた。演奏から絵や景色が浮かぶ。さらに抽象的な言い方をすれば,ドビュッシーの音楽は“光と影”を作り出したんです。(p152)
 ドビュッシーとラヴェルはよくセットで語られますが,まったく違います。ドビュッシーは雰囲気の音楽,ラヴェルは古典的な形式の音楽です。ただし,ラヴェルはテンションコードをたくさん使っている。外枠はバッハだけれど,中身はテンションコード満載といった曲が多いのが特徴です。(p154)
 ショスタコーヴィチはここから二枚舌を使い始めます。表と裏で言っていることが全然違って,ポジにしてみると国家賛美の曲だけれど,同じ曲でもネガにしてみるとものすごいスターリンをバカにしている曲というふうにできている。(中略)音楽を本当にわかる人が聴くと,これは後ろのほうに人をバカにしたようなメロディが入っていると気づく。そんな二重構造をとるようになります。(p164)
 現代音楽のジャンルで,今でも活躍している作曲家,スティーヴ・ライヒはミニマル・ミュージックという,同じパーツを繰り返す,現代のクラブミュージックやポップスの源流にもなっている音楽を生み出した人です。(p167)
 ビートルズは最初,アイドルバンドとして出てきたわけですが,最終的には音楽的にあんな高みまで登ってしまった。バロックもあれば,シタール奏者のラビ・シャンカールをフィーチャーしたインド音楽のアレンジも,ミニマル的なものも,弦楽四重奏もある。それまでの音楽をすべて内包して要素を取り入れたのは,間違いなくビートルズです。つまり,クラシックの行きついた先はビートルズだったと,僕は思っているんです。(p170)
 僕がいちばんヴァイオリンを練習していた時期は,中学時代です。ほかのことは何もしなかったといってもいいくらい。体育の授業は全部休んでいましたし,部活なんてもちろんやりませんでした。突き指をしたらコンクールに出られませんから。(中略)先生からも友達からも“特別枠”扱いでした。 そんな音楽漬けの毎日の中で,僕と遊んでくれるのは作曲家で指揮者のレナード・バーンスタイン,そしてヴァイオリニストのアイザック・スターンとイツァーク・パール万でした。(p184)