2017年5月14日日曜日

2017.05.14 伊庭正康 『仕事が速い人の手帳・メモのキホン』

書名 仕事が速い人の手帳・メモのキホン
著者 伊庭正康
発行所 すばる舎
発行年月日 2016.11.29
価格(税別) 1,400円

● ぼくはもうビジネス書を読んでも仕方がない年齢になった。が,手帳だのメモだのノートだのというタイトルの本があると,つい手に取ってしまう。

● 本書もタイトルに惹かれて読んだんだけど,手帳術やメモ術を説くのが主眼ではなくて,仕事の心得を説いている本だ。
 日中の効率を最大限にあげて残業はするな,という。スキマ時間も1秒たりともムダにするな,と恐ろしいことを言う。

● 本書に書かれていることが間違っているかといえば,まったくそんなことはない。説得力もある。しかし,このとおりにできる人はそんなにいないだろう。
 基本,人間は怠惰に流れるものだ。何かというと,勤勉が日本人の代名詞のように言われるけれど,その日本人にしても怠惰が好きな人たちが大半だ。大衆とはそうしたものだろう。

● 大衆の一人でいることを潔しとしない人は,本書が説くところをひとつでもふたつでも実践してみるといいと思う。

● 以下にいくつか転載。
 多くの人の手帳は(中略)次の週あたりまでは埋まっているけれど,その先は空白だらけ,ということも少なくないのです。やってくる業務を「速くこなすこと」こそが,仕事を速くする方法だと考えているので,直近の予定しか埋まっていないのです。 やってくる業務をいくら速くこなしたところで,残業はなくなりませんし,ましてや生産性を上げることは無理です。(p4)
 私が変わったきっかけは,上司のひと言でした。「スケジューリングの基本は逆算だ。考え方を変えないと,いくら工夫しても仕事は速くならないぞ」と。(p5)
 記憶に頼るということは,脳のなかで何度も「繰り返し思い出す」作業をせざるを得ないわけです。こうなると,休日も頭がスッキリしないのは当然です。 だから,常に頭をスッキリさせたいなら,ちょっとした予定であっても,「記憶」に頼るのではなく,「記憶」に頼るべきなのです。(p24)
 この議論(デジタルかアナログか)にはすでに答えが出ています。共有する必要がないならアナログを,共有する必要があるならデジタルが正解だと。(p31)
 1日の予定が3件以上あるなら,毎週の予定を俯瞰できるウィークリータイプの手帳を使ってほしいのです。(中略)私はキチキチの手帳を使っていると,せっかくのチャンスを逃すことになる,と考えます。「もうこれ以上はムリ」と無意識に思い込んでしまうため,新しいことに挑戦しようと思わなくなるからです。(p35)
 もし,あなたがズルズルと仕事をしてしまうタイプなら,あえて申します。何をやるかを考える前に,何よりも「退社時間」を先に決めてみてください。短時間で成果を出す人は,常に「終わり」から逆算しています。(p49)
 やってみてわかったことがあります。一度退社時間を決めると,思った以上にその時間内に終えられる,ということです。(p52)
 それでも,その時間には帰りにくい,ということがあるかもしれません。あえてこう考えてみてはいかがでしょう。「帰りにくいから残るというのは,プロの発想ではない」と。(p53)
 労働時間を延ばすことはナンセンス。残業なんてしても30%の生産性アップはできません。夜は「財」を生みません。オンタイムの時間効率を徹底的に高めていくようにしましょう。(p93)
 締め切りを前倒しにし,負荷をかけることで,何よりもあなた自身も気づいていなかった自分のポテンシャルを引き出すことができるでしょう。(p93)
 仕事は必ず相手ありきで進むものです。(中略)最初に見せるのは70点の完成度でもかまいません。そこから相手とすり合わせて,100点に近づけていけばいいのです。一番良くないのが,相手にこちらの進捗が見えないままに,自分ひとりで黙々と100点を目指してしまうことです。(p104)
 体感速度を速くするいい方法があります。スケジュールの所要時間の単位を30分で考えるようにしてみてください。(中略)実は,多くの人は無意識に1時間を単位に予定を決めています。(p118)
 よく質問をいただきます。「あらあじめ,スキマ時間でやるべきことをリストアップすべきか?」と。答はノー。(中略)わざわざリストアップしなくても,その空いたスキマの数分で何が出来るかを考える癖を持っておけば十分。(p126)
 私が二次会に出るかどうかを決めるポイントは,「その場に私が必要なのかどうか」です。(p152)
 この一歩を踏み出すいわゆる“踏み出し力の強い人”が,生活のステージをアップさせ,「希望」を確実に実現させているのです。(p160)
 仕事ができる人に多いのが,切手を手帳に挟むことです。メールの時代なのに,なぜだと思いますか? メールを送ることがかえって失礼になることがあるからです。これをわかっている人は案外少ない。(p163)
 ビジネスの基本は,相手を思う気持ちです。あまりに自分の効率を追求しすぎて,相手の事情を忘れてはなりません。(p164)
 我々は手帳を使うことで田中角栄氏並の記憶を身につけることができます、「来月の中頃にメールしますね」と言えば,その場で翌月の中旬の予定に組み込む。「息子さんの誕生日が7月25日」と相手から聞けば,手帳にそのことを書きとめ,次に会った際に「明日は息子さんのお誕生日ですよね」などとひと声かける。相手以上にささいなことを覚えている。これが大人の信用を勝ち取る第一歩なのです。(p172)
 私もPCやタブレットにメモしながら打ち合わせをしていたこともあったのですが,ひとつのことに気づきました。切れ味のいい質問ができないのです。その理由はシンプル。意識が分散されてしまうからです。(中略)何割かは文字を打ち込むことに意識を奪われます。(p175)
 「アレ,いいじゃん」と思ったことは日常的に手帳に書き込む習慣をつけましょう。そして,アイデアがほしいときは「掛け合わせると何ができるか」という視点で,良さそうなものを検討する。(p185)
 「しんどいな」と思ったら,こうしてみてください。自分の感情を思いつくままに,手帳のフリーページに「今の気持ち」として書きまくる,と。(中略)愚痴を言う相手がいればいいのですが,実際はその瞬間にそんな相手が目の前にいない場合がほとんどです。だからと言って,無防備にSNSやブログで書くなんて愚の骨頂。必ず後悔することになります。(p191)
 よく,「紙に願いを書けば叶う」と聞きますが,本当なのでしょうか。(中略)私はスピリチュアルやおまじない,迷信などを敬遠するタイプなのですが,こればかりは,私の経験からしてもそうだと感じています。(p195)

2017年5月12日金曜日

2017.05.12 高野 登 『リッツ・カールトン 「型」から入る仕事術』

書名 リッツ・カールトン 「型」から入る仕事術
著者 高野 登
発行所 中公新書ラクレ
発行年月日 2014.03.10
価格(税別) 760円

● 本書でいう「型」とは形に心をこめたものということらしい。イマイチよくわからないといえばわからない。
 タイトルは「仕事術」となっているけれども,内容はリーダー論。

● 著者は「リッツ・カールトン」の高野であって,「リッツ・カールトン」と一体になっている感がある。今は「リッツ・カールトン」を離れているわけだが。
 その「リッツ・カールトン」の話は終わりの方に出てくる。

● 以下にいくつか転載。
 リーダーが育っていない組織では,従業員があまり成長しない方がコントロールしやすいと考えます。つまりミッションなどを考えずに,言われたこと,指示されたことを,マニュアルに沿ってこなす従業員の方が使いやすいということですね。(p5)
 最近見かけなくなったものに,「床屋」「スナック」があります。(中略)「床屋」と「スナック」,ここに共通しているものは「談義」です。(p25)
 地域社会を活性化するために一番大事なことは,その地域によそ者,若者,ばか者がいることです。(p28)
 (呼びだしボタンが設置されると)ボタンが押される前にお客様のご要望に気づこうとしていたものが,だんだん「呼ばれたら行けばいい」,最後は「呼ばれるまで行かない」となってしまうのです。本来ならば,基礎体力をそろえるためのマニュアルが,結果としてサービスの質の低下につながってしまうという現象が起こります。(p43)
 呼びだしボタンを最初に導入したのはチェーンの居酒屋だったか。ファミレスの方が早かったのか。
 居酒屋は半個室が増えているから,スタッフはお客を見ることができない。お客さんも,呼びだしボタンを押さなければ店員は来ない,とハッキリわかっていた方がくつろげるだろう。ファミレスもこれに準ずる。
 「ボタンが押される前にお客様のご要望に気づこうと」するのがサービスになるのは,高級ホテルとかレストランとか,わりと一部に限られるのではないか。
 で,そういうところで呼びだしボタンを設置してあるのを,ぼくは見たことがない。
 あいさつは仏教の言葉の「一挨一拶」が語源となっています。(中略)あいさつの意味から考えたら,自分から先にあいさつをするということです。あいさつは位の高い人が低い人の様子を伺うということからきているものです。(p69)
 人は笑顔の人のまわりに集まってきます。笑顔は場を明るくし,そしてまわりを笑顔にしていきます。豊かな人間関係をつくることができるのです。これこそ人として生まれた醍醐味ではないでしょうか。(p75)
 たとえそれが言いがかりのようなクレームだったとしてもまずは聞く,それが最初のステップです。そして最終的にどうするかという着地点をイメージするのです。たとえば賠償が必要なのか,謝罪なのか,菓子折りなのか,それとも自分たちの言い分をきちんと伝えるのか,毅然とした態度をとるのか,それは相手の声に耳を傾けるなかで見えてくるものです。でも最初のステップである聞くことを軽視してしまうと,問題がさらに大きくなってしまうものです。(p88)
 勢いがあるから姿勢がいいのではなく,姿勢を正すことによって心の構えも正していく。それによって勢い,人間のパワーのようなものがみなぎってくるのだと思うのです。(p91)
 ワクワク感とうのは探しに行くものというより,来たものにワクワクするというのが正しいように思います。今あるものに感謝して,今ある状態に感謝して素直に受け入れてみる。(p122)
 今日という日は残りの人生の第一日目です。毎日を人生の一日目として,スタートできているかどうか。(P124)
 リッツ・カールトンでは,社員同士でもお互いが「顧客」と考えています。社員と業者さんは内部顧客なのです。(p134)
 謙虚さと素直さと兼ね備えている人は,入社当初は多少スキルや技術が劣っていたとしても,長期的に見たら間違いなく伸びます。反対に,スキルや知識が優れていても,謙虚さと素直さに欠ける人は,どこかで頭打ちになります。(p137)
 舞台役者と同じではないでしょうか。「一流の舞台役者は日常を引きずらない」。舞台に上がったときには私生活を忘れて役に入りきる。(p138)
 サービスにおいては,サービスを受ける側よりも提供する側のエネルギーが大きいことが必要です。サービスする側が元気がないのに,受け手がワクワクすることはありえないからです。(p140)
 仕事を途中で投げだしてしまう人や,落ち込みやすい人は,心の筋力を鍛えることを意識していないのかもしれません。(p142)
 想いというのはリーダーが300度の熱でそれを伝えても,組織の中間にそれが伝わるときには200度になってしまいます。(中略)自然の法則と同じで,お湯の温度は器と移すたびに少しずつ下がります。それと同じことが組織でも起きてしまうのです。(中略)リーダーがもつべき温度が高くなければならない理由はそこにあります。(p157)
 内定をもらえたらとりあえず社会に出る。でも「本気になることが運命を拓く」ということも教わっていない。自立や自律といった知恵も身につけていない人もたくさんいるようです。(p163)

2017年5月7日日曜日

2017.05.07 樫尾幸雄 『電卓四兄弟 カシオ「創造」の60年』

書名 電卓四兄弟 カシオ「創造」の60年
著者 樫尾幸雄
発行所 中央公論新社
発行年月日 2017.03.25
価格(税別) 1,300円

● 今では百円ショップにもある電卓。その電卓を切り開いてきたカシオの,これは創業者のひとりによる社史のようなものだ。

● 電卓って,その黎明期においては,自動車1台分の価格だったことも知った。自動車も個人で買える人はごく少なかった時代のことだから,電卓に入れ込んで新製品が出るたびに買いまくったという人は,おそらくいないだろうけども,もしいたとすると,今の電卓を価格を見て,車にしときゃよかったと地団駄を踏むことになるだろうね。

● 歴史は繰り返す。同じことがパソコンで起こった。かつてのMacなんか一式揃えると車が買えると言われたからね。Macじゃなくても百万円のノートパソコンってあったよね。軽自動車が買えた(今は軽も高くなってるけど)。その百万円のノートパソコン,今は使いものにならないスペック。
 こちらは比較的最近のことだけに,パソコンにつぎ込んだ人はかなりいるだろうねぇ。

● 以下にいくつか転載。
 当時の大学の授業は,戦時中の本が一切使えないため教科書や参考書はなく,先生が講義でしゃべる内容をメモするしかありません。逆に言えば,学校に行かなくても,ノートがあれば何とかなります。(p32)
 (当時の輸入物の計算機は)価格は三〇万~四〇万円と,自動車と同じぐらい高価でした。(p37)
 ある日,営業担当の和雄が,販売会社である内田洋行との生産計画の打ち合わせで,リレー式計算機の在庫が積み上がっていることを知らされます。(中略)原因は,シャープが発売した電卓でした。(p78)
 それでも,当時のカシオは,リレー式計算機にこだわり,最新型を出そうとしました。(中略)トランジスターを使った電子式の時代はまだ先だと考え,「まだまだリレーでいける」と思っていました。(p80)
 「技術は生鮮食品のようなもの」というのが私の持論です。放っておくと,すぐに腐って使い物にならなくなってしまいます。「鮮度」が大事で,メーカーは常に世界の技術革新の流れを読まなければいけません。少しでも遅れると大変なことになります。ところが,兄弟でゴルフに熱中するあまりおろそかになり,電卓で出遅れました。これ以降,平日に四人でゴルフに行ったことは一度もありません。(p87)
 カシオの電卓発売は,シャープより一年遅れましたが,もう一年遅れていたら,今,カシオの存在はなかったかもしれません。(p96)
 (大ヒット商品になったカシオ・ミニの発売にあたって)志村君の説明では,「開発部門は,常に機能を上げていくのが使命です。機能を下げた製品を作ることは,認められないでしょう」とのことでした。(中略)「いかがでしょう」と問われた私はすぐ,「やろう」と答え,志村君の提案を全面的に受け入れることにしました。内緒で進めれば,誰からも反対されません。商品さえ完成してしまえば発売まで一気に押し切れると考えました。(p109)
 時計業界への参入の難しさをあらかじめ知っていたら,二の足を踏んだかもしれません。あまり下調べをすることもなく,一気に進めたことが良かったのだと思います。(p134)
 デバイス事業と自分たちの製品を両立させることは難しいと思います。デバイスの場合,顧客から注文が来た時に自社向けを優先したりすると,顧客の信用を失ってしまうので,自社製品のことを度外視してやらなければいけない場合もあります。 個人的な見方ですが,液晶で一時は世界を席巻したシャープが,その後,苦境に陥ったのは,デバイスとしての液晶と製品としての液晶テレビの両方に力を入れたからではないでしょうか。(p155)
 コストの勝負になると,国内での生産では韓国や台湾などの海外企業にかないません。FA化による組み立てのコストダウンではとうてい追いつきません。(p157)
 今のものづくりで重要なのは,コスト勝負となる半導体や液晶といった単体の部品ではなく,複数の施術を組み合わせた技術なのではないでしょうか。例えば、ファナックという産業用ロボットメーカーは,数値制御(NC)による機械の加工方法であるNC技術と,ロボットなどを制御するサーボ技術を組みあわせた複合的な技術で強みを発揮しています。(p158)

2017年5月4日木曜日

2017.05.04 伊集院 静 『旅人よ どの街で死ぬか。 男の美眺』

書名 旅人よ どの街で死ぬか。 男の美眺
著者 伊集院 静
発行所 集英社
発行年月日 2017.03.29
価格(税別) 1,400円

● 伊集院さんの小説は一冊も読んだことがない。まず「いねむり先生」から読んでみたいと思っているんだけど,まだ果たしていない。
 が,エッセイ集はだいぶ読んでいる。本書もそのひとつ。

● 酒,ギャンブル・・・・・・,いずれも常人には想像できない深みに達して,しかもそれでいて,常軌から外れに外れて破綻に至る,ということにはならずにいる。
 競輪に狂っていた老人(今は故人)を知っている。奥さんはそれが原因で精神に異常を来し,元に戻らない病気になってしまった。こういう人はけっこういそうだ。
 弱い人間はギャンブルなどに手を出してはいけない。ましてやそこに淫してはならない。と,思っている。自分は弱い人間に属することもわかっているので,ギャンブルに手を出そうと思ったことはない。
 つまらない男はつまらないなりの生き方をしなきゃしょうがない。

● 伊集院さんのような人は,要するに稀な存在だ。ロールモデルにしてはいけないと思う。
 生命力の核が強靱な人なのだと思う。なぜ強靱なのかといえば,そういうふうに生まれたからだと言うしかない。努力でどうにかできる部分ではないように思う。

● 以下に少し多いかもしれない転載。
 私たちにはこの世に生まれてきて,やってみなくてはいけないことがいくつかあると,私は思っています。 それをせずに死ぬということは,生きることへの冒涜(いささかオーバーですが)ではないかとさえ,思います。(中略) 私にとって,この世に生まれてきて,これをしなくてはならないと思えるものは,断然,旅なのです。(p24)
 その土地に足を踏み入れたなら,目で見たもの,見えたもの,歩きながら身体に伝わってきたもの,酒でも食事でも口に流しこんだもの,耳から入ってきた音色,犬のように鼻を鳴らして嗅いだ匂い,肌で感じたもの・・・・・・それらすべてを実感だけで捉えるのが,私のやり方です。その体験の積み重ねだけが,旅人の身体のなかに,何かを泌みこませるのだと私は信じています。(p29)
 晩年に書かれた作品の一節だから,事の真偽はわからない。作家の大半は己の時間を美化し,平気で嘘をでっちあげる輩だから。(p32)
 なぜ軟弱なのか。それは連るむからである。一人で歩かないからである。“弧”となりえないからである。連るむとはなにか? 時間があれば携帯電話を見ることである。マスコミが,こうだと言えば,そうなのかと信じることである。全体が流れだすほうに身をまかせることである。(中略) 弧を知るにはどうすればいいか。さまようことである。旅をすることである。(p34)
 想定する生には限界がある。所詮,人が頭で考えるものには限界がある。想定を超えるものは,予期せぬことに出逢うことからしか生まれない。(p43)
 国境が動いているのは今もかわらない。なぜなら人類は常に流動する生きものであるからだ。世界史は民の流動を記録したものでもある。国家はそこにあり続けるのではなく,そこに停泊しているに過ぎない。(p44)
 スコットランドにどうしてあれほどの数の酒造工場が点在しているのかを,ご存知か。それは,かつてウィスキーにとんでもない重税が課せられた時代に,酒好きの男たちが山のなかや海辺の小屋で酒の密造をしたからだ。(中略)元を辿ればひと癖もふた癖もあった連中があの味をこしらえたのだ。だから美味なのである。(p45)
 英雄は大衆のあやうい精神状態のなかから創造され,大衆と国家を津波のように動かしてしまう。(p57)
 どこで,どうやって,誰に,なぜ・・・・・・などという発想を捨てることだ。たださまよっていさえすれば,街はむこうから君を抱きにやってくる。何も考えずとも遭遇は隣の席に平然とあらわれる。(p66)
 旅人にとって大切なことのひとつに五感を磨いておくことがある。足を踏み入れた土地を,目で,耳で,鼻で,舌で,肌で,知覚することだ。鍛えられた五感は護身用のナイフより,脱出の際に見張り番に渡す袖の下の金より,旅人を生きながらえさせる。鋭い知覚は武器と言ってもいい。旅先で,旅人が思わぬ事故で死んでしまう原因は,ほとんどがこの五感の欠落による。(p74)
 百年前も,五百年前も,千年前も,そこだけずっと繁栄している場所がある。おそらく百年後も,五百年後も,千年後も栄え続けるだろう。 栄える場所と滅びる場所を決定するものは何か? それは場所の,力である。安堵と快楽を感じさせる力だ。土地にそんな力があるのか。間違いなくある。(p81)
 神を信じる土地に入ったら,神を否定しても仕方がない。(p82)
 厄介から逃げるのもひとつの術だが,生半可な逃亡は十中八九,背中から撃たれる。(中略)逃げるなら,大逃げを打つことだ。大逃げの難しいところは形振りかまわず逃走しなくてはならないことだ。(p88)
 旅に出て,その街を知りたければ酒場か娼家に行くことである。懐具合が気になれば酒場がよかろう。それもなるたけ場末の酒場がいい。(p116)
 娼婦を太陽の下に引っ張りだすな,と先達は言った。この言葉,やはり名言なのかもしれない。(p121)
 世界の名だたる都には見事な川が流れていると言ったが,それらの川には共通した風情がある。風情の正体は哀切である。哀切は都についてまわるものだ。 都に住む大半の人々は,都で生まれ育った人ではない。(中略)大半の人は疎外感をどこかに持っている。(p123)
 どんな人であれ生まれて死するまで順風な生を送れる者はいない。(中略)そんなことはこれまでなかったと言う人がいたとしてもいずれ厄介事,災いは訪れる。己一人ではどうしようもないことをかかえこむのが,生というものなのである。それゆえ,人は己以外の何かに依るのである。(p146)
 その神とて人が創造したものである。神が人のかたちをしていることがその証しだ。人間自体に欠落があるのだから,人が創造した神に欠落したものがあって当然である。そうであっても依るべきものがあれば人は安堵を持てる。(p147)
 多くの画家の作品のなかに置かれているとゴッホのあきらかな違いがわかる。かなり離れた場所からでも一目でゴッホとわかる。近代絵画の群れのなかでも彼の絵画は他のどの画家とも違うことが子供にでも理解できる。察知できるのだ。群れのなかでまぎれることがない。(p154)
 人が寄るべきものを探しあてられなければ他人,宗教,権力,名声,金・・・・・・に依って生きながらえようとするのだが,そえらのものに価値を見出せなければ(実際,価値などないのだが)探し続けるしか生きる術はない。 ゴッホはそれを実践した。実践の過程に創作活動はあった。(p156)
 いとおしい者へ惜しみない愛情を注ぐ。己のことよりも,いとおしき者へすべてを与える。そうせざるを得ない性癖。これこそが魔物なのである。惜しみない愛情は美徳という考えがある。私はそれを信じない。偽善とまでは言わないが,他人にやさしすぎることは,大人の男がなすことではない。(中略)他人に何かができると信じることに過ちがあるのだ。(p158)
 美術を学校で学んで何が生まれるというのだ。美術というものは欲望の具象化である。(p163)
 人は何を創造したかではない。何を残したかでもない。何とともに生きたかではなかろうか。(p171)
 文学の誕生するところは人の本能の善の領域からも発するが,その大半は善以外の領域を見る目から生まれる。それは人が善をなすより,それ以外の行為に走るからである。(p179)
 本当に魂というものは存在するのだろうか。私にはわからない。できることならそのようなものが存在しないほうがいいと願う。こうして文章を綴り,旅に出て彷徨した自分の時間が跡かたもなく失せることを望む。そう思っている大人の男は多いはずだ。 私の周囲でも,何人かの友がそんなふうに見事に立ち去った。彼等は生き残った者に名残りさえ与えない。それが大人の男の処し方のような気がする。(p188)
 よほど幸福な日々を送ってきた人でない限り,過去を追憶して充足感を抱く人はいないのではなかろうか。私にとって過ぎ去った時間は苦いものや忌まわしいものがほとんどだ。これから先も過去を懐かしんで気持ちが安らぐようなことはあるまい。(p192)
 若いということは肉体的にも精神的にもたぎるものがうちにあることで,その内包したものは常に自己中心に発散される。しかもその発散は大半が出すべきところを誤っており,他人に何らかの迷惑をかけている。(p192)
 賭博の基本を教わった。賭け事のベースにあるのは記憶力である。そのデータだけが,その人のギャンブルの腕を決める。打っている間の大半は,シノグことでしかない。記憶と流れが一致したとき,打って出る。いったん打って出たあとは,定石も加減もない。常軌をどれだけ逸脱できるかで,賭け事の高が決する。しかしそんなときは,半年に一度もない。(p219)

2017年5月2日火曜日

2017.05.02 佐藤愛子 『それでもこの世は悪くなかった』

書名 それでもこの世は悪くなかった
著者 佐藤愛子
発行所 文春新書
発行年月日 2017.01.20
価格(税別) 780円

● 故・吉行淳之介さんは,文壇一のモテ男だった。亡くなったあとも,何人かの女性が私が一番愛されていたという内容の本を出していて,その中のいくつかはぼくも読んだ。
 中村メイコさんも10代で出会った吉行さんについて,『メイコめい伝』の中で熱く語っていた。故・山口洋子さんも,吉行さんとの対談で自分の思いを隠さずに語っていたことがあった。
 それらを読んだのは若かりしときだけれども,世の中にこんな果報者がいるのかと思った。

● けれども,佐藤愛子さんは,その吉行さんにわりと辛口だ。
 (川上)宗薫が好きで,尊敬もしていた作家は,吉行(淳之介)さんでした。吉行さんは,誰が見てもハンサムだし,気働きの人でしたね。でも,カッコいいなんていうのは,私には向かないの。アホなところが全くないのがね。(p148)
 (色川武大さんは)みんなに好かれる人でした。自然体のところが魅力でした。吉行さんもみんなに好かれる人でしたが,どこか気働きが先に立っているように感じられて,私のような野人には少しうっとうしかったです。(p153)
 ということだ。辛口とまではいかないのかもしれないけれども,吉行さんをよく言わない女性を初めて知った。

● もちろん,そういうことがこの小さな本の主内容ではない。この本で著者が語っていることをひと言で言えば,どう生きようと一局の人生,ということだろうか。
 でもって,全体を覆っている色調は豪快さ。

● 以下に多すぎるかもしれない転載。
 そんないちいちね,何かことがあるたびに感想を持つわけじゃないんですよ,人間は。何かする時だって,思わずする,ということがあるんです。 今の人は分析が好きなのか,なぜ,なぜ,と聞くんですね。なぜということを聞いたって,別にどうということはないんです。(p5)
 私は人生相談の回答者には向かない人間です。人は好きなように生きればいい,人生相談なんかするな,としか思っていないんです。第一相談したところで,結局人間は自分の好きなように生きているんですよ。(p5)
 人生の苦難に遭った時,誰かのためにそうさせられたと思う人は多いけれども,自分の人生を選んだのは自分だと思った方がいいんじゃないかと思います。何があろうと,自分の性質のお陰でこうなったと思えば誰も恨むことはないし,心平らかに反省の日々を送ることができます。(p6)
 私は人間に対する興味が人一倍強いんだと思います。小説というのは,人間の面白さを描けばいいのではないか,と考えたんですね。 ところが,売れる小説というものはたいてい人間の面白さではなくて,ストーリーの面白さを追求しているんです。最初にストーリーを付くって,そこに人間をはめ込んでいくという書き方ですね。でも私は,自分が面白いと思う人間がどう生きていくかに興味がある。(p29)
 ある時,(吉田一穂)先生がこう仰った。「女に小説は書けないよ。女はいつも自分を正しいと思っている。そしてその正しさはいつも感情から出ている。だからダメなんだ」(p36)
 苦しいことが来た時にそこから逃げようと思うと,もっと苦しくなる。逃げないで受け入れた方が楽ですよ(p42)
 やっぱり貧しくて,それで一所懸命に暮らしている人を見ると,お互いに助け合っていきましょう,とそんな気持ちになります。ところが,そんな気持ちになっているところを,相手の方はピシャリと裏切ってくる,なんてこともあります。だけど,それもまた人間の一部なのでね。そういう体験の積み重ねで,私は小説家になれたのだと思います。(p60)
 人生というのは,わからないですね。マイナスがあった時に,そのマイナスがあったからこそ後のプラスが生まれたんだ,ということが,長く生きているとわかることがあるんですよ。だから,いまマイナスが来ているからって,ちっとも悲観することはないの。(p60)
 ところが実際に貧乏になってみますとね,どうっていうことはないんですよ。朝になったらお日様は上がるし,夕方になったらお月様は出る,そのことに変わりはないわけで,まあ,こんなものか,というね。(p61)
 貧乏になると,何かこう陰気な顔をしなければいけないものなんですね。(中略)それが元気でいるもんだから,「あいつは金を隠しているに違いない」となる。 世間というのは本当にいい加減なものだなあ,(中略)人間の真実なんかわかるわけがない,ただのアホなんだ,とつくづく思いました。(p62)
 何でも失敗しっぱなし,ということはないですよ。その後の生き方によって,いくらでもそれをひっくり返すことができるんです。でも,そのためには楽天的でいることですね。(p73)
 今の人が言う繁栄は,経済の繁栄ですからね。金がなくても「しょがないもなあ」で済ませていられるその精神力というか,鈍感さというか,それもまた才能だと私は思います。(p80)
 外がうるさいから覗いたら裸の男がいる。「まあ,イヤねえ」というのは女であって,男はそういう時に何も言わずに笑って済ませるものなんですよ。それが男と女の本質的な違いであるはずなんです。だから,女が警察を呼んだのならまだ許せる。男たるものがねえ。(p92)
 満州,朝鮮からの引き揚げでは,母と子は生きているけどお父さんは途中で死んじゃった,ということが本当に多かった。(中略)女は強靱で,男はもともと弱いんですね。(p103)
 女は子どもを抱えて生き抜かなくちゃならない。生き抜く,それは現実そのものであって,男意識なんて役に立たない。(p103)
 女はリアリストですから,生活するための知恵と力がいくらでも浮かぶんですよ。(p104)
 お産に亭主が付いてきてフウフウハアハア一緒に言うなんてのはね,お産に対する冒涜だと私は思います。お産というものは一人で耐えて一人で産みだすことによって,女に力がつくものなんです。(p122)
 男の子は泣いていると言うんです。それでもお母さんががんばって,「切れ,切れ」と言うものだから,恐る恐るやってみるけれども,へその緒って硬くてなかなか切れないものなんですってね。それを泣きながら一所懸命に切ろうとする。 私はね,彼はおそらく一生インポになると思いますよ。トラウマになってね。どれだけ傷ついたかですよ。 そういうことも思わないで,命の誕生の・・・・・・何だかもう忘れましたけれど,そういうものを教えたいという母親の意図は物凄く強いものだった。そのお母さんは,観念の奴隷みたいになっていますね。そういうつまらないことを考えるなら,何も考えない方がマシなんですよ。(P124)
 長いこと生きるとわかってくるんです。人生というものはね,幸福だのなんだのと言ったって,どうっていうことはないんですよ。(中略)だから,苦労をするまいと思って頑張る必要はないんですよ。その方がいろいろなことがわかるんだから,苦労したってどうということはない。反対に,幸福になったからと言って,別にどうということはない。(p128)
 今は本当のことを言ってはいけない時代なのね。いつも傷つけた,傷ついたということばかり考えてものを言わなければならないとしたら,人間は萎縮してしまうんじゃないですか。政治家に信念がないなんて批判する人がいるけれど,八方に気を遣っていると信念なんか持ってこない。とにかく小うるさい,小さな世の中になりましたね。(p140)
 私は死後の世界はある,と思っている人間です。(中略)アイヌの人たちの怨念の場へ,私は家を建てたんです。そうしたら,いろいろな超常現象が起こりました。(p173)
 何も苦しいことがなければ,幸福は生まれないのですよ。幸福を知るには苦労があってこそなんだというのは,苦労から逃げた人にはわからない真理だと思います。(p183)

2017年4月30日日曜日

2017.04.30 番外:AERA '17.5.1-8号

編者 井原圭子
発行所 朝日新聞出版社
発行年月日 2017.05.08
価格(税別) 380円

● この雑誌も表紙が木村(拓哉)君だったので手に取ってみた。「無限の住人」に関する木村君のインタビュー記事があって,そこだけを読んだ。

● 以下にいくつか転載。
 「無限の住人」に挑む木村は,主人公の万次という役を通して,自分の新しい可能性をつかみ取ろうと果敢に奮闘しているように見えた。(p9)
 役者として,どんなキャラクターを演じるかは「縁」でしかなく,その都度,与えられた役を全力で演じるしかありません。(p40)
 役者にとって映画は1カットずつの積み重ね。自分の「主観」で演じてきたものが,編集という作業を経て「映画」になる。試写で初めて,客観的に見ることができます。(p40)
 周囲のスタッフに万次に「してもらう」ことはできても,実際に魂を吹き込んで,自分が万次に「なる」ことはそう簡単ではない。 そのためには「感じる」しかないんです。まずは万次という役を「感じる」。彼は,過去の戦で片目を失っています。であるならば,まずは自分が片目で動いてみようと。撮影は,朝5時から深夜3時に及ぶのですが,その間,ずっと片方の目しか使いませんでした。(中略)僕は不器用なタチなので,そうやって自分を追い込み,体で感じるしかなかった。(p40)
 映画やドラマの前評判などでもいろいろ書かれることがありますが,これでいいやと中途半端な気持ちでやっている作品はひとつもない。そう思うなら思えばいいと,どこかで割り切ってします。テレビも同じです。視聴率というものだけでジャッジされてしまうことがあるけれども,そうしたいなら,そうしてもらっていいと思う。(p41)
 木村さんはビジュアルひとつとっても「気高い孤独」をまとっていて,余計な役作りをする必要がない。(三池崇史 p43)
 これまで出会ってきた役者の中で,木村拓哉ほど戦っている男はいない。断言できます。必要以上に人に媚びないし,全方位で真剣勝負を挑んでいる。監督って,役者を探すときに「真剣勝負をしていない人」には用はないんですよ。(三池崇史 p43)
 木村さんは,面倒くさい芝居から解放されたいんだと思う。本当は見えているのに,見えない芝居をするのが面倒くさいんじゃない?(三池崇史 p43)
 共演した福士蒼汰さんは,木村さんのそんな姿を見て変わりました。役者は,役者が育てるのだと,改めて思いましたね。(三池崇史 p43)

2017年4月29日土曜日

2017.04.29 柴田秋雄・瀧森古都 『日本でいちばん心温まるホテルであった奇跡の物語』

書名 日本でいちばん心温まるホテルであった奇跡の物語
著者 柴田秋雄・瀧森古都
発行所 SBクリエイティブ
発行年月日 2015.07.27
価格(税別) 1,300円

● 鎌田洋さんの『ディズニー ○○の神様が教えてくれたこと』シリーズを出している出版社から出ている,同様の寓話集。
 舞台は名古屋アソシア。今は名古屋マリオットアソシアになっている。名古屋を代表する高級ホテルなのじゃないか。
 この本に出てくる名古屋アソシアは,外資が入る前のホテルのことなのだと思うけど。

● 寓話集なんだけど,それでもホロッとしてしまう。これはいいことなのか幼稚で情けないことなのか。

● 以下にいくつか転載。
 「日本一お客様を幸せにする」ことが第一ではなく,「日本一幸せな従業員のいるホテル」をつくることが,ホテル再生への第一歩だ(p4)
 仲間を思う優しさ,仲間を許す優しさ,そしてお客様の心に寄り添う優しさ。僕は,この『優しさ』さえ持っていれば,人間として合格だと思うんだ。どんなに素晴らしい大学を出るよりも,人間的に優れていると思うよ(p80)
 正直になるということは,とても勇気のいることかもしれない。しかし,目の前のことと向き合う「覚悟」を持つことで,様々な奇跡を起こすことができる。(中略) もしかすると,今までホテルに起きた様々な試練は,神様からのプレゼントだったのかもしれない。(p199)

2017年4月27日木曜日

2017.04.25 松宮義仁 『A6ノートで仕事を超仕組み化しなさい』

書名 A6ノートで仕事を超仕組み化しなさい
著者 長谷川慶太郎
発行所 徳間書店
発行年月日 2009.09.30
価格(税別) 1,400円

● 巷間有名な(でもないのか)「PDCAサイクル」に替えて「LDSPサイクル」を提唱。PDCAは「Plan-Do-Check-Act」。それに対してLDSPは「Learn-Do-See-Plan」。
 PDCAというのは,ぼくも社会人になった初期に研修で聴いたことがあるけれども,最初にP(計画)があるのには違和感があった。その対象について知るところが皆無の状態で,どうして計画を作れるのかってこと。

● それに対して著者が出した解答がLDSPで,まずはL(学習)があり,実際にやってみて,その結果と過程を評価する。この場合の評価は二度目の学習だという。評価だからSeeなんだろうけど,二度目の学習という意味でStudyであるとも言っている。
 で,最後にP(計画)があり,以後はそのサイクルを回していく。

● が,こうしたサイクル論に惹かれないのはどうしてなんだろう。なるほどねとは思うんだけど,実際にやってみようとは思わない。めんどくさそうだからかね。

● ちなみに,本書にはA6ノートの話はほとんど出てこない。

● 以下にいくつか転載。いずれもサイクル論とは関係ないもの。
 「仕組み化」というと,一つの決まりきったやり方を作りあげて,後はそれを未来永劫,続けていけば良いといった印象があります。しかし,それは夢物語であり,一度つくったらおしまいなどということは,特に,ビジネスの世界ではまずありません。(p1)
 一言で言うなら,世代間ディスコミュニケーションが進み,同世代だけが集まり,世代が異なると,まったく情報が交換されないということです。(中略)勢い,つい本だから知識を得て,「知るだけで満足する」という傾向(勉強本ブーム)が進んだのも同じ背景があるかも知れないと思います。(p71)
 読書にもいろいろありますが,サイクルを回すための「学習」にとってもっとも効果的なのは「同ジャンル多読」です。(p121)
 行動することで成果を出す人,出せない人の違いは,完璧を求めるか,求めないかにあります。「完璧な計画」を立てようとする人よりも,「不明確な計画」,計画は完璧ではないけれども,まず行動に移している人,そういう人のほうが,結果的に成果を出していることが多いのです。(p133)
 タスクを整理するために,「ToDoリスト」もよく使われますが,(中略)これは行動の先延ばしでしかありません。スケジューリングができないからです。束の間の心理的な安心感が生まれるだけで,結果的には「できないことリスト」になりがちで,かえってストレスになってしまいます。(p138)
 個人の場合は,誰かに「教える」ことが,最高のフィードバックを得る方法です。教えることで自分の記憶にもしっかり刻まれ,内容も人に説明する機会が増えるほど,ブラッシュアップされていきます。(p152)

2017年4月23日日曜日

2017.04.22 番外:FLIX 2017年6月号

編者 松下元綱
発行所 ビジネス社
発売年月日 2017.06.01
価格(税別) 917円

● 映画雑誌。したがって,表紙は木村拓哉。で,これも購入。

● 読んだのは冒頭の木村君のインタビュー記事のみ。そこからいくつか転載。
 “一緒にやりませんか?”と言っていただき,本当に快諾させていただきました。監督ご本人の口からそういう言葉をいただけるのが,僕らのような仕事をしている人間にとっては一番恵まれた瞬間だと思うので。
 (三池監督からは)一度も演出はしていただかなかったんです。でも,何て言ったらいいんだろう? 現場では本当に,監督が作り込む作業,のめり込む作業が三池組を象徴している気がして。(中略)その情熱を全員が感じ取れる現場でしたね。
 安全第一で作業すればするほど,どうしても痛みって忘れがちなんです。実際は,痛くも何ともないので。けれど,やっぱりヴィジュアルから伝わるであろう痛みを伝えるのは自分の責任だ
 役としての痛みは自分の責任だけど,自分自身の痛みは撮影に関係ない。
 自分自身で万次を作り上げるというよりは,杉咲花ちゃんが演じてくれた町や凜のことを感じ,自分の中で解釈したり,飲み込んだりして,自分の表現に変換させていただく感覚でしたね。彼女が苦しめば苦しむほど,万次としてはアクセルの回転数が上がる。
 彼(市川海老蔵)の何がすごいって,動いても着物が全く着崩れないんです。
 (妹の町が殺されるシーンは)本編の中では冒頭にあたるんですが,実は僕のクランクアップのシーンで。(中略)あのシーンに限っては手を決めないでやろうとなりました。“とにかくこっちは殺しに行くので,それに対して反応してください”と言われて,“分かりました”と。(中略)非常にライブ感のある撮影でした。やるからにはという思いもどこかにありますし。しかも,肘から先しかフレームの中に映っていないんじゃない? という人まで,全力なんです。(中略)そういった出演者の方々に,出演者の方々の1カットにかける思いや情熱に,自分も触発された部分は大きいと思います。
● というわけで,今月29日の封切りが待ち遠しい。言うも愚かながら,この映画(「無限の住人」)は絶対に見る。

2017.04.22 番外:FRaU 2017年5月号

編者 岡田幸美
発行所 講談社
発売年月日 2017.05.01
価格(税別) 694円

● これも木村拓哉が表紙を飾っている。で,そういうものは一応見てみよう,と。

● 彼のインタビュー記事から転載。
 ずーっとやるべきことは詰まっていたので,やるべきことがしっかりあるという状況が自分を支えてくれたなって思います。
 (サンタクでは)さんまさんがあまりにも野性的なんで,自分がけこう常識的なポジションになるんです。
 初めてじゃないかな。20数年やってきて。“撮休”っていうスケジュールがあるんだっていう。 -作品のスケジュールが休みのときは,初めて共演者と同じように休めるようになったということですよね。 そうですね。今はいろいろ別の仕事も入ったりしてるけど。
 (ロングバケーションのこと)今思っても,これはほんとに,山口智子さんっていう共演者に恵まれたっていうひと言に尽きるんじゃないですか。アクトって,要は,カメラマン,音声さん,照明さんという傍観者がいる状況で,目の前にいる相手に対して,たとえば“好き”っていう気持ちをずっと抱いていられるかどうかっていうことじゃん。あの作品をやらせていただいたときには,(中略)その姿勢になり直す必要がないっていうか。山口さんに対して,自分は,そのまんま思っていればよかった。(中略)いちいち計算する必要がなくて。
 “あ? 待って,待って。ここまで全部自分でやってきて,その1カットだけ違う人?”って思って。結局,自分でやりました。朝イチで。顕微鏡の中のシーンだけ。 -指も映らないのに? はい。せっかくやるなら,ガッツリやったらないと。
 やっぱり周りの人たちがモチベーションを高めてくれるんだと思います。基本,すべてにおいて,自分がやらせてもらっていることって,相手がいて,初めて成立することだから。
 ふつうに(刀を)当てていたよ。(中略)監督も撮る前に“立ち回りではなく,殺し合いを今から撮影させていただくので,みなさん,よろしくお願いします”って言ってくださって。“あ,同じ感覚でいてくれる”と思えて,すごくうれしい気持ちをベースにして動けた。(中略)(市原)隼人なんかも,“撮影”という形で立ち合うのを嫌がっていたし。だからすごかったよ,ほんとに。最高ですよ。ああいう真面目で,ちゃんと熱意をもっている人が同じ現場に立っていてくれると・・・・・・。
 もうそれは,求められたら,動きます。自分は,そのためにちゃんとコンディションを整えていようと思っています。
 -以前のインタビューも,「楽しい,嬉しいといったポジティブな感情だけでなく,悲しい,寂しい,辛いといった感情もしっかり味わった方がいい」と言っていました。 うん,それが結局は,人生を豊かにしてくれると思うよ。

2017.04.22 番外:婦人公論4月25日号

編者 横山恵子
発行所 中央公論新社
発売年月日 2017.04.11
価格(税別) 528円

● これも表紙が木村拓哉。写真は篠山紀信が撮っている。

● 彼のインタビュー記事からいくつか転載。
 今の僕にしても,何のために命を燃焼させているかと問われたら,やっぱり自分のためではない気がする。作品のためであったり,誰かのためであったり・・・・・・。(p44)
 真冬の京都で,セリフを言うと,寒さで白い息が出てしまう。だから,カメラを回す直前まで口に氷を含んでおいて,「本番!」の合図と同時に氷を吐き出し,セリフを言うようにしていました。(中略)寒いとかつらいとかいう僕自身の感情は,万次には関係ない。(p44)
 僕自身,逃げない,それから,やるからには全力を尽くす。この二つは,ずっと自分に課してきたことです。(p45)
 思いを作品という形にして,たくさんの人たちに向けて放つというのは,ものすごいエネルギー。僕は,そこに一員として参加させてもらっているだけです。一人じゃ,なんっにもできないんですよ。「自分一人で」という感覚は,僕の中では皆無です。(p45)
 映画なら映画,ドラマならドラマ,何かひとつの仕事にフォーカスを合わせ続けられるようになったことは,すごく新鮮ですね。前は(中略),チャッチャッと,仕事ごとにチャンネルを切り替えないといけなかった。(中略)これまで,“無駄”ってわりと避けてきたんです。時間も限られていたし,最短ルートで結果を出そうとしていた。でも今は,役について,ああでもない,こうでもない,と考えることができる。あ,無駄,いいなぁって。(p45)
 志は高くありたいですけど,高い場所に行きたいわけではない。(p45)
● 作家の佐藤愛子さんのインタビューもある。90歳にして『晩鐘』を世にだした。創作意欲が衰えないこと,その質を維持していること,この二点においてこの作家は野上弥生子以来ではないか。っていうか,野上弥生子を凌ぐのかも。
 何もない平穏な状態はいいことだけれど,いざというときは,平穏なんて何の役にも立たないと思いますよ。(p14)
 93歳の作家の言葉だ。

2017.04.22 番外:キネマ旬報5月上旬号-開眼,覚醒,前進 木村拓哉は銀幕にいる

編者 青木眞弥
発行所 キネマ旬報社
発売年月日 2017.05.01
価格(税別) 850円

● 書店のエンタテインメント雑誌の棚を見ると,木村拓哉が表紙になっている雑誌が並んでいた。「無限の住人」の封切りが近づいているからね。
 「無限の住人」,もちろん見る。

● この雑誌も木村君のところだけを読んだ。以下にいくつか転載。
 木村拓哉は自分もことより,共演者のことより,スタッフのことを語る。彼にとって現場は,単に芝居をするだけの場ではないのだ。(p8)
 万次がいまも生きているとすれば,それは木村拓哉なんじゃないか。そういう一致の凄みを感じるんですよね。キャスティングをする上で迷いがなかった。(この原作を)やるんだったら,木村拓哉がいないと無理だよねと。根拠はないんですけど,なぜかそう思った。(三池崇史 p12)
 万次が,スーパーアイドルとしての役割を果たしながら生きていく木村拓哉という人とものすごくリンクするんです。誰も味わったことのない,木村拓哉にしか見えていない世界がある。わけですよ。明らかに。万次にしか見えていない世界があるように。(三池崇史 p14)

2017.04.22 番外:POPEYE5月号-もし東京に友達が来たら,君はどこに案内するか?

編者 木下孝浩
発行所 マガジンハウス
発売年月日 2017.04.10
価格(税別) 722円

● 主には食堂やレストランの紹介。が,それ以外のものもあって,たとえば最初に出てくる「カストリ書房」。台東区千束にある。遊郭・赤線・歓楽街に関する古書と新刊を扱っている。けっこうエロいのもあるらしい。
 浮世絵は性交場面をデフォルメして描いているものが多いわけだけども,その伝統って江戸時代で絶えてしまったわけではなく,現在まで連綿と続いている? ひょっとして,その中から後世の人たちが驚くような作品もあるのかもしれない。と,妄想してみた。

● 銀座にも「蔦屋書店」ができるらしい。

● 山口瞳さんのエッセイにしばしば登場していた,国立の「ロジーナ茶房」は現在も健在。
 行ってみたいと思ったのは,中目黒の「おにやんま」。立食いうどんの店だ。ここなら一人でも入れる。旨そうだ。

● 昨年大晦日に泊まった「トレインホステル北斗星」も紹介されていた。清潔だし,3千円未満で泊まれるし,イートイン・スペースはあるし,コンビニがすぐ近いところにあるし,何より馬喰町駅に隣接しているという立地が移動者を助けてくれる。

2017年4月20日木曜日

2017.04.20 森 博嗣 『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』

書名 人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか
著者 森 博嗣
発行所 新潮新書
発行年月日 2013.03.20
価格(税別) 700円

● 頭が強い人が書いたものを読む快楽の今月2冊目。

● 著者が折にふれて言っていた“抽象的に考える”というテーマについて展開している。あちらからこちらから,説いて説いてという感じ。

● ところで。読了してから,これ一度読んでいたことに気がついた。
 これって,昔からわりとある。まったく新鮮な気分で二度目を読めたのだから,お得かなと思う。バカか,おまえは,という意見もあると思うんだけどね。

● 以下に多すぎる転載。
 世間一般の多くの人たちの考え方は,極めて主観的であり,大多数は具体的だ。それを自分で意識しているならば問題はないが,無意識にそれがスタンダードだと思っているから,ときとして「狭いものの見方」になりがちで,また,主観的で具体的すぎるがゆえに感情的になってしまい,結果として損をすることになる。(p5)
 (現代アートでは)芸術として描かれる絵は,それが何を描いたものかを伝えるためにあるのではなく,作者がどう感じたのか,ということを訴えるものになった。(中略)「凄い!」という感動を絵にするのである。これが抽象画だ。(p25)
 客観的に考える場合には,自分の経験や知識や立場を忘れる必要があるし,抽象的に考える場合には,表面的なもの,目の前に見えているものに囚われないことが大切である。これはたしかに難しい。でも,できないわけではない。人間にはそれだけの能力がある。それができるから人間だ,といっても良い。(p27)
 僕の友人には,自殺してしまった人が数人いる。周囲の誰も,彼らを救うことができなかった。たぶん,彼ら自身しか,救えなかっただろう。多くの場合,自殺する人の思考は,主観的であり,具体的すぎる,と僕は感じている。(p30)
 だんだん文章が速く読めるようになる。これは,読む能力が増したように錯覚する人が多いが,そうではない。言葉が表していたはずの元のイメージを頭の中で展開せず,ただ言葉を鵜呑みにして処理するようになっただけだ。こういった状態で読んだものは,次第にインパクトが薄くなるし,すぐに忘れてしまうようになる。本を沢山読む人,読むのが速い人ほど,この傾向があるように観察される。(p35)
 社会では,沢山の人がそれぞれの分野の専門となって仕事を分担している。なんでもみんなで多数決を取る,というのは考えもので,それぞれその専門家が考える方が間違いがない。原発反対の人が多いから原発は廃止すべきだ,という数の理論は成り立たない。(p57)
 「どうしてこんな馬鹿なことをするんだ?」と怒ってしまう人は多いが,少なくても「どうしてか」が理解できないから腹が立つのだ。(中略)冷静さに必要なのは,この「理解」なのである。(p62)
 重要なのは,決めつけないこと。これは,「型」を決めてしまって,そのあとは考えない,では駄目だという意味だ。抽象的に,ぼんやりと捉えることで,決めつけない,限定しない,という基本的な姿勢を忘れないように。(p65)
 自分に都合の良い主張をするのは簡単だが,それを聞いた相手がどう感じるのかを予測しておくことは,一つには「思いやり」であり,また逆に考えれば,相手の反応を見越して,より有効な表現を選択するという戦術が取れるわけで,自分にとっても非常に有利となる。(p67)
 歳を取ると,自分に無縁なものが増えてくるし,割り切れるようになる。そんなことに金をかけても,なんの足しにもならない(ならなかった),と処理する。こうして欲求はすべて小さな具体的なものばかりになり,予感や願望だけの「美しさ」は無益なものとして排除される。(中略) こうなってしまった年寄りは,ぼんやりと悩んでいる若者に対して,つい「はっきりしろ」「もっと具体的に」と言いたくなるはずだ。しかし,若者の「はっきりしない思考」というのは,それも価値があるものであって,それを失ったのが「年寄り」なのである。(p83)
 悩むことはけっして悪いことではない。とにかく,考えないよりは考えた方が良い。この法則は例外が少ない。(p92)
 抽象的思考を身につける方法というものは,具体的にはない。こうすれば間違いなくできるようになる,という方法は存在しない。したがって,教えることなんてできない(p98)
 教育というのは,結局のところ,具体的な知識を詰め込むことしかできていない。「才能を育てる」というのは,もともとあった才能が活かされる場を用意するだけのことだ。(p99)
 僕が見たところ,現在の若者は常識に縛られ,具体的な大量の情報によって抑制されている。できるのに,できないと思い込まされている人が大勢いる。(中略)教育という行為は,少なからず,具体的情報を押しつける行為であり,ぼんやりと存在していた個人のイメージに対し,みんなで共有するために意味を限定(すなわち,定義)する作業の集積でもある。結果として,皮肉なことに,教育が抽象的思考を阻害する可能性があることを,まず自覚しなければならない。(p103)
 知識を得ることは,抽象的思考とは方向性がまったく異なる。もしも,知識の多さが「理解」であり,知識によって物事がすべて解決できると思い込めば,もうなにも考える必要がなくなってしまう。(p103)
 自分が知ってしまった情報に対して,「もしも自分がこれを知らなかったら」と仮定して考えることが,抽象的思考の基本なのである。(p115)
 なにか具体的な例を挙げようと思ったのだが,多くの読者は,僕がたまたま挙げた具体的な例に囚われるだろう。その具体例だけ覚えてしまい,逆に抽象的な本質を意識できなくなる。言葉で説明したり,人を納得させるときに,難しいのはまさにこの点なのだ。(p118)
 注意したいのは,芸術を評価する目というのは,裏データを知る必要がないことである。(中略)頼りになるのは,自分の感性だけだ。これをしなければ,芸術に触れる意味がないとさえ思われる。(中略)芸術の本質とは,貴方の目の前にある作品と貴方の関係なのである。(p122)
 言葉で表されていても,それを言葉で理解することは,僕は間違っていると思う。しかし,いわゆる評論家というのは,これを無理にしている人たちである。(p123)
 感想文を書くことが上手になれば,きっとその分,芸術家になれなくなるだろう。解釈という単純化が,芸術をたんなる技術にしてしまうからだ。(中略) 創作を自分で行うには,「感動できるけれど言葉にならないもの」,そんな「わからないもの」を自分の中に持っていなければならない。(P124)
 抽象化する力が不足している人は,創作するものが,人真似になるだろう。自然にそうなってしまう。それは,まだ具体的なものに囚われている証拠で,自分が目指すものが,充分に抽象化されていないことを示唆している。(p125)
 抽象的なものには,論理が完全には適用できない。また,論理的思考とうのは,発想があったあとに,それを吟味する役目のものである。論理的にいくら考えても,新しいことを思いつくことはできない。(p126)
 いつだったか,(たしか新聞の投稿で)子供が満天の星を見て,「蕁麻疹みたい」と言ったことに対して,「近頃の子供は夢がない」と嘆く論調のものがあったが,とんでもない話である。その子供の発想は素晴らしい,と褒めなければならない。星空は綺麗なものという固定観念に囚われている方が,明らかに「不自由」な頭の持ち主であろう。(p129)
 誰もが自殺について考えたことがあるだろう。それをしないで生きているのは何故なのか? この問いは,非常に重要なものである。(中略)しかし,この答を具体的に語れる人も少ない。少なくとも,僕にはできない。ただ,なんとなく,生きていた方が良いような気がする。ここでも大切なことは,「ような気がする」という極めて抽象的な方向性なのである。 すなわち,そもそも人が生きている,人を活かしているものは,抽象的な,ぼんやりとした理由でしかない。探求すれば,もっと深く考えることも可能だろうけれど,しかし,けっして具体的になるものではないだろう。(p132)
 世間の人がよく誤解をしていることがある。研究とは,「調査:だと思われがちだ。(中略)しかし,僕の認識では,これは研究ではない。研究のための準備か,あるいは確認作業だ。(中略) では,研究というのは,どんな行為なのか,といえば,考えて考えて,思いついて,そして,それを確かめる,もし確かめられなかったら,また考えて考えて,思いつく,という繰り返しである。(中略)なくてはならないのは,やはり思いつくこと。すべては,発想に起点がある。それは,時間にすれば,ほんの一瞬のことだ。(p137)
 僕は,メモというのは一切取らない。これは,研究でもそうだった。メモを取ろうと思った瞬間に,つまり,言葉にしようとすることで失われることが多すぎる。どうせ最後は言葉にするのだ。メモよりは,本文を書く方が言葉の数が多いので,失われるものは最小限になる。発想したときメモを取るくらいなら,発想しながら本文を書いた方が効率的だ,と考えている。(p144)
 作りたい気持ちはあるけれど,作りたいものがあるとはかぎらない。これが抽象的な指向である。そうではなく,作りたい気持ちは大してないけれど,作りたい(できれば,誰かに作ってほしい)ものがある,というのが具体的な指向になる。前者の方が良い状態だと思う。(p148)
 楽しいものを求めるときに,楽しくない手法では元も子もないという場合もある。(p150)
 世の中は,具体的な方法に関する情報で溢れ返っている。こんなに沢山の情報が存在できる理由は,結局それらの方法では上手くいかないからである。(p151)
 人生なんて,長生きしてもたかだか百年ではないか。さらにもっと未来を見れば,いつかは地球は太陽に呑み込まれて消滅してしまうだろう。自分がどう生きようが,最後はすべてが無に帰すのである。それは確実なことなのだ。(中略) このように,抽象的に見るために客観性を増して遠望すると,「すべてが虚しくなる」という人もいる。(中略)しかし,「虚しくなるから考えない」というのも理由として変だ。おそらく,「虚しいことは悪いことだ」と思い込んでいるのだろう。 日本には古来,虚しさを楽しむ文化があるではないか。(p154)
 思考は,自由で常にダイナミックだ。しかし,具体的な(肉体の)生活は,質素で無変化であってもかまわない。むしろ,その方が健康を維持しやすい。健康は,思考を支えるためにある,と僕は思っている。(p160)
 究極的には,その人の考え方なのだと思う。考え方がすべての基本なのだ。だから,現実がどんな状況にあっても,肉体がどんな状態であっても,思考は自由であり,いつでも楽しさを生み出すことができるはずである。ただ,現実や肉体といった具体的なものに囚われ,不自由を強いられているのである。(p161)
 論理的な思考というのは,それに集中し,「脇目もふらず」突き進む感じのものだが,発想するときの思考は,「どれだけ脇目をふるか」が重要になる。(p168)
 人間の頭脳が考えるものは,そういう「人工的」なものである。実は,「論理」というものも人工的なもので,計算も推論も人工だ。(中略) しかし,その当の人間の頭脳は,まちがいなく自然なのだ。頭は,人工物ではない。したがって,自分の思うとおりにはならない部分がどうしてもある。(中略) 優れた発想とは自然から生まれるものなのだ。思うようにならないのは,人間の頭が作り出した人工の論理から生じるのではなく,人間の頭という自然の中から育ってくるものだからである。したがって,まさにガーデニングや農業と同じで,抽象的思考の畑のようなものを耕し,そこに種を蒔くしかない。発想とは,そうやって収穫するものなのである。(p179)
 学び方,考え方といった具体的な手法を数々取り入れたところで,それはその場限りの,つまりお金を払って庭師さんに作ってもらった庭園であって,自分が作り上げたものではないため,やはり次第にアイデアは枯れ,土地は痩せてくる。毎日こつこつと雑草を取っている(抽象的な思考を続ける)人の庭には,どう頑張ってもかなわない。(p181)
 この頃は,「楽しく学ぼう」というような幻想を追い求めすぎていないだろうか。はっきり言って,勉強は楽しいものではない。考えることだって,どちらかといえば苦しいことだ。のんびりとリラックスしているときにアイデアが浮かぶよりも,忙しくて必死になって考えているときの方が,断然発想することが多い。(p184)
 大事なことは,「もうちょっと考えよう」という一言に尽きる。(中略)なにに対しても,もうちょっと考えてほしいのである。なにしろ,全然考えていない人が多すぎるからだ。(p186)
 知らないから不安になるという人が多いけれど,誰も本当のところは知らないということくらいは,知っておいた方が良い。専門家は,比較的詳しいというだけだ。(中略)自分で少し考えるだけで,かなり理解が深まるのに,それをせず,ただ知ろう知ろうとするから,疑心暗鬼になって「ちゃんとすべてデータを見せてほしい」「なにか隠しているんじゃないか」と疑ってしまう。(p190)
 情報は,それを発信した人の主観が基本になっている。自分に有利になることを書いている場合がほとんどだ。(p191)
 僕の場合は,引用を極力しないことにしている。誰かの意見を直接参考にして考えたわけではないし,具体的な事実にも無関係な,抽象的なことを話題にするように心がけているからだ。(p192)
 将来の方向性といった問題については,できるかぎり判断を保留した方が良い。この保留することも,抽象的思考から導かれるものの一つである。 慌ててどちらかに決める必要などない。ぼんやりとしたままで良いではないか。(p195)
 〇か一かを決めないといけない,と考えるのは,「もう考えたくない」という生理的な欲求によるものだと思われる。(p195)
 好きか嫌いかを決めて,好きなものからは情報を入れ,嫌いなものからは情報を入れない,ということは,あまりにも理由がない。(中略)そんな「好き」や「嫌い」は,僕は嫌いである。馬鹿馬鹿しいとさえ感じるし,明らかに理不尽だとも思う。(p203)
 僕は,人の意見を聞くときや,人が書いた本を読むときには,それで自分が影響を受けようという気持ちでいる。そうでなければ,意見を聞いたり本を読む意味がない。(p206)

2017年4月17日月曜日

2017.04.17 森 博嗣 『正直に語る100の講義』

書名 正直に語る100の講義
著者 森 博嗣
発行所 大和書房
発行年月日 2016.08.15
価格(税別) 1,300円

● 頭のすこぶる強い人が書いた文章を読む幸せ。

● 以下に,多すぎるかもしれない転載。
 成功者に学ぶ,成功例を参考にする,というのは間違いではない。ただ,一つ気づいてほしいことがある。売れているものが既にあるなら,同じものはもう売れない,ということだ。(p14)
 多くの人は,自分がどう考えるかよりも,みんながどう思っているのかを想像する方を優先する。(中略)ようするに,自分の考えを持たないように努力している。(p16)
 人間の思考というものは,もう少し高等であって,論理を組み立て,未来を予測し,自分が進むべき道を選択することができる。現在見ている範囲の状況だけで判断する動物とは,ここが違う。(p17)
 才能を褒め称えられる側の成功者も勝者も,自分に才能があったなんて感じているだろうか? おそらく,感じているとしたら,「努力をする才能」程度では? 「運」も同じである。「運がなかった」と諦めるためにある言葉のように感じる。(p19)
 「意欲」を測ろうということが,そもそも雲を掴むような話で,口で言うのは簡単だが,実現は本当に難しい。(中略)幻想のようなものを見ようとするから,見せる方は幻想を演じることになる。ようするに演技力の勝負になってしまう。たぶん,社会においても,この演技力がものを言うわけだから,まんざら間違った評価でもない。でも,本質ではないのは明らかである。(p24)
 「褒めて育てよう」という子育て法が広まったのも,褒めることが親にとって簡単であり,できそうな手法だったからだろう。(p27)
 一部の人は,自分の「将来」というものを他者が作ると認識している。たとえば,「政府になんとかしてもらわないと困る」と本気で考えている。これは,既に,動物園の檻の中にいるような状態だといえる。(p33)
 「気がする」というのは,ツイッタなでも非常に多い表現で,大勢の人が毎日,いろいろなことで呟いている。(中略)僕に言わせると,そういう呟きばかりする人は,既に負けな気がする。(p35)
 作ることは苦労を伴う。消費にはそれがない。この対比は絶対的だろう。多くの人は長時間働くことで,僅かな楽しみの時間を得ている。(中略)この絶対的比率があるかぎり,快楽の何倍もの苦労を伴うのが人生ということになってしまう。(p42)
 時間をかけることに本当の価値,楽しさがあるものは多い。お金を出して買えば,一瞬で楽しさが得られるけれど,コストパフォーマンス的には低い,ということである。(p43)
 自分を観測するには,周囲が自分をどう扱うのか,自分がなしたもの,自分が作ったものを他者がどう評価するのか,という視点をもたなければならないだろう。(中略)この他者の評価を自分の視点で再評価することが大事で,そうしないと,ただ周囲に流され,人を気にしてばかりの人間になってしまう。(p47)
 「もうこの歳になったら,新しいものはわからない」と諦めて,ただ毎日TVを見て新聞を読んで出てきたものを食べる。関心は自分の子供や孫にしかない。せいぜい,たまに旅行をして,名所,自然を愛でて,昔を懐かしむ程度。まるで死の待合室で大人しく座っているような存在ではないか。(p49)
 どうせ自分には無理だから,時間がないから,面倒だし,あまり興味が湧かないし,と新しさを拒絶する。エネルギィを使いたがらない。「生きる」ためには少なからず「障害」がある。しかし,それらに抵抗し続けることが,「生きる」「生き続ける」という意味なのである(p49)
 自分の好きなこと,興味のあることで小説を書くという発想が,僕にはありえないものだ。(中略)自分の経験から出すものは安物だと思ってもらっても良い。(p53)
 難しいことを少しでも易しくしよう,という工夫が準備なのだ。もし,その準備が難しいと思うのなら,準備の準備をすれば良い。「意欲」を持つよりは,実現確率は高い,と思われる。(p57)
 小説を書くときなら,タイトルを決めて,プロローグを書いたくらいで,もう厭きてしまう。その作品についてはあまり考えたくなくなって,しかたなくあとは労働者のように執筆するだけになる。(中略)とにかく,自分を騙し騙し書いている感じだ。 逆に言えば,厭き厭きしているから,さっさと終わらせようという気持ちが強く働いて,執筆は短期間で終了する。(p58)
 アナウンサなどは,所定の時間でぴったり収めてしゃべるそうだ。訓練というほどのものは必要なく,人間は,それくらいのことは自然に覚える,というだけのことだろう。(p61)
 良いなと感じた作品には近づかない方が良い,と考えている。何故なら,その良さはすでに世に出ているからだ。違う方向のものを書かないと,作品の価値が出ない。(p65)
 本質は,むしろ端っこに隠れている場合の方が多い。(p82)
 「自分の目で見ないと信じられない」という人ほど,見て騙される。(p84)
 僕は,本を読むことの価値の八十パーセントくらいは,どの本を手に取るか,ということにかかっていると感じている。つまり,自分が何を読みたいのか,ということに自分で答えることが,読書をする価値のほとんどだと思うのだ。したがって,それがわからないなら,読んでも大半の価値を得られない,無駄が多すぎる,ということ。(p86)
 なにかをするときの価値の大半は,目標を捉える初動の判断にある。どこに目を向けるのか,という「着眼」だ。ここに,人の思考,発想,能力といったものの大半がある。これを人に委ねる行為は,人間性を半分失っているのに等しい。(p87)
 良い子は,悪い子が先生に叱られるのを見て,もっと良い子になろうとする。だから,悪い子を叱ることは,実は良い子のためでもある。(p93)
 細かく分類する意味は既になくなっている。(中略)むしろ,分類することで固定化される概念に気をつけた方が良い。(p95)
 現代において,ノーベル賞候補となるような科学的研究上の大発見は,才能だけでなく,努力だけでもなく,まして内助の功でもなく,大部分は研究に費やされた金額によっている。(中略)発展途上国では受賞者が出にくい理由がここにある。(p99)
 平和の作り方というのは,「平和を!」「戦争反対!」と絶叫し大勢で行進するのではうまくいかないように思う。むしろ,こういった風景はファシズムに近い雰囲気に感じられる。 そうではない。平和がいかに楽しいものかを,大勢の個人が示すことだ。(p122)
 反体制派あるいは野党などは,いろいろ国の方針にケチをつけるのが仕事である。しかし,他国を相手にして非難するこては少ない。おそらく,能力的にできないのではないか。なにしろ,感情的な言葉で濁った主張しか日頃していない。「冷静さ」に欠ける発言の限界だ。(p125)
 もし相手がなにかを知らずに言っているのなら,それを知らせてあげて,知ったうえで再びどういう意見を主張してくるのかを待つのが筋である。議論というものは,そういうスタンスで行うのが正しい。(p128)
 仕事ができる人,理性的な人になるほど,指摘を喜ぶようになる。まったく無関係な人からの批判的なものでさえ,聞いただけで嬉しくなるだろう。それが役に立つ方向性を持っていたり,ヒントになることが少なくないと知っているから,自分の利益になると直感できる。相手がどんな感情を持って言ったのかは,どうだって良い,と感じているだろう。(p131)
 日本人はブログが大好きだ。世界でもこんなにブログを書く民族はいない。世界的に見て,けっしておしゃべりではないのに,この形式の自己発信にはなってしまったわけである。まるで,なにかの国民的・国家的鬱憤があったかのようにも見えてしまう。(p155)
 傷ついたり,悲しみを経験したりすると,むしろ人は優しくなるものだ。周囲に対しても,傷ついたことや悲しみに関することを見せないほうに気を遣う。それが自分の責任だという使命感を持つ。こうして,人は立ち直るのだ。(p165)
 「優しさ」というのは,結局のところ,自分の時間をどれだけ相手に差し出せるか,ということ。測り方はさまざまあるけれど,結局はここに表れる。金や一時の労力などは誤魔化せるけれど,時間は誤魔化しにくいので,最も測りやすい指標となる。(p167)
 子供を観察しているとよくわかる。なんでも真似をしたがるし,運転手さんとか正義の味方とかに自分を擦り寄らせる。この子供の素直さが,人をどれだけ成長させるかわからない。(p168)
 貧乏人は金と言い,金持ちはお金と言う。つまりは,この差なのか。(p178)
 社会で役に立たないことは教えるな」という主張が正しいかどうかである。(中略)そもそも,「役に立つ」というのは何なのかも定かではない。(中略)その人自身,本当に社会の役に立っているのだろうか。その人がいなくても代わりになる人はいるのではないか。だったら,その人はいらないということにならないか。(p182)

2017年4月1日土曜日

2017.04.01 永江 朗 『小さな出版社のつくり方』

書名 小さな出版社のつくり方
著者 永江 朗
発行所 猿江商會
発行年月日 2016.09.26
価格(税別) 1,600円

● 出版界(出版社,取次,書店)の問題点を整理して,どこをどう直せばいいか,どうすれば出版界が活気づくのか,を検討している。
 背景には本が売れなくなったという事情がある。が,売れないのと読まれないのは違う。

● そういったところを,しつこく,いろんな観点から深掘りしている。その方法論として永江さんが採用したのが,小出版社を現に運営している人たちに取材して探ってみるというやり方。
 実際には,小出版社を取材するという仕事が先にあって,では何を訊けばいいかというのが後からついてきたのかもしれないけれども。

● 以下にいくつか転載。
 新聞広告を出したことは何度かあるが,書評ほどの効果はないというのが実感だ。(p22)
 返品削減はじめコストカットは,短期的には利益を増やしても,長期的には市場を収縮させ,自分たちの首を絞めることになる。(p40)
 一人ひとりの給料が高いので,経営側は人件費を抑えるために従業員を減らそうとする。従業員が減ると,ひとりあたりの労働量は増える。余裕がなくなり,アイデアも生まれにくくなる。(中略)給料を下げて人を増やしたほうが,長期的には出版界活性化につながるのではないだろうか。(p41)
 取次の社員はリスクを恐れる。自分が口座開設をOKした出版社が倒産したら,責任を問われるからだ。だが,出版というビジネスは,うまくいくこともあれば失敗することもある。(中略)できるだけリスクを回避しようと石橋を叩いてばかりいるので,誰も橋を渡らなくなり,出版界は活力を失ってしまった。(p55)
 読者にとっては,出版社が大手か零細かなんて関係ないし,本の内容だけで買うとは限らない。たとえ1000円でも2000円でも,ふつうの人は本を買うときシビアになる。チープな造本では購入意欲が失せる。こうした感覚は出版業界に長くいると鈍くなってしまう。(p57)
 出版社には企画会議があるでしょう? あれでだいたいつまんない企画になってくる(p62)
 ある大手書店チェーンの幹部は(酒の席での発言ではあったけれども),出版社が淘汰再編されたほうが書店の仕事は楽になるといっていた。売上は落ちているのに仕事量が増え続けている書店現場の悲鳴とも聞こえる。(p75)
 近年,美術館の展覧会は進化していて,60年代や70年代のようにただ泰西名画を集めただけ,あるいは個人の作品を年代順に並べただけという展覧会は少なくなった。明確な,しかも斬新なコンセプトで,展覧会そのものが表現であるかのような企画が増えたし,個人の回顧展にしても切り口が重視される。(p84)
 アートというものが時代のひとつ先のイシューをとらえるものだから,『BIOCITY』をつくりながら,このテーマは何年か前にアートで取り上げられていたものと感じることはよくあります。3.11以降,アートは変わったと思います。9.11以降にアメリカで起きたようなことが,日本でも起きている。たとえば,参加型の作品など関係性のアートが増えている。(p90)
 「(著者が)無名でさえなければ」という言葉は身も蓋もないように聞こえるけれども,これも重要なポイントだ。無名で,後ろ盾もなく,なんの実績もない出版社が最初に出す本で,著者も無名というのでは,売る自信がなかった。(p102)
 「風」だ。なんとなくの「風」を感じられるかどうか。人が書店でワクワクしている感じが減っている(p117)
 AKB48など秋元康氏のアイドル・ビジネスは漫画雑誌のつくり方に似ている。アイドルグループを運用するためにメンバーを新陳代謝させていく。 「一方,手塚プロとか藤子プロなど個人事務所のあるコンテンツは寿命が長いんです。コンテンツ側で管理する人間がいないと,コンテンツの寿命は短くなる」 佐渡島さんの感覚では,作品の80%は運用によって寿命を長くできるという。ところが出版社のしくみでは,長期的に運用できるのは5%程度にとどまる。(p119)
 作家に限らず,クリエイターにとって自己模倣は危険な罠だ。スタイルを確立したなどといえば聞こえはいいが,同じことの反復である。(p127)
 本を世に送り出すためにつくった出版社が,いつのまにか出版社を存続させるために本をつくるようになる。書店も取次も同様。存続することが自己目的化して,手段と目的が逆立ちしてしまう。「本が売れない」という状況は,その帰結だ。しかし「本が売れない」のは「新刊書が新刊書店で売れない」のであって,「本が読まれていない」のとは違う。(p133)
 店舗をつくるにあたって,ほかの書店は参考にしなかった。ヒントになったのはニューヨーク滞在中に通ってインデペンデント系の書店だった。日本の書店はビジネスモデルとして終わっている世界だから,参考にしても意味はない。(p143)
 セレクトした本がハマりすぎないこと。完璧すぎると図書館のような,博物館のような棚になってしまうのだ。鑑賞するにはいいけれども,購入意欲は刺激されない。人が買う気になるには,隙間というか,ノイズが必要だ。(p144)
 SNS全盛の時代になって,ふつうの人が共感するものがリツィートされたり拡散していくようになった。とくに消費の現場ではいい意味での“ふつう”“等身大感”みたいなものが重要になってきたと思う。(中略)出版界にはいまだに「80年代リブロ池袋店神話」みたいなものが生きているが,そんな化石にしがみついていては滅びるだけだ。(p150)
 そこの客層と向き合わずに自分のスタイルだけ貫くほうがよほどかっこ悪いと思ったんですね。お客さんを無視するのはどうなのか。お客さんに合わせるべきだと思った。(p152)
 ここ数年,本を置くカフェや生活雑貨店,洋服店などが増えた。だが,そうした店で本が売れているのを見たことがない。装飾品以上の役割を果たしていない。(p154)
 自宅を仕事場にすると際限なく仕事をしてしまうか,逆に怠けて遊んでばかりになるかになってしまい,ほどよく仕事と休息のバランスを保つのは難しい。(中略)曜日に関係なく朝の5時半に起きてパソコンに向かい,晩ごはんを食べたあとの夜の10時までダラダラと仕事を続けるのは我ながらよくないと思う。つい仕事をしてしまうのは,私が働き者だからではなく,仕事をしていないことに漠然とした後ろめたさを感じるからだ。よくないことだと思う。(p181)
 体力は歳とともに落ちていく。とくに回復力が落ちる。(中略)内面のほうはどうか。時代の変化についていけないということはないけれども,新しいことへの好奇心が感動が薄れる人もいるだろう。感性が鈍るというよりも,「新しい」ともてはやされることに既視感を抱くのだ。(p184)
 予算がないと,どうしても料金の安い業者を選んでしまいがちだが,料金にかかわらず信頼できる担当者のいる会社と取引するほうがいいと下平尾さんはいう。とくに小規模な出版社にとっては,印刷所やデザイナーも巻き込んで,いっしょに一冊の本づくりに参加するチームになってもらえるかどうかが大きい。(p206)
 さまざまなアンケートでも読者の購入動機のいちばんは「書店店頭で見て」という衝動買いである。(p226)

2017年3月21日火曜日

2017.03.20 湯浅邦弘 『貞観政要』

書名 貞観政要
著者 湯浅邦弘
発行所 角川ソフィア文庫
発行年月日 2017.01.25
価格(税別) 800円

● 「ビギナーズクラシック 中国の古典」の1冊。貞観の治として,高校の世界史の教科書にも出てくる唐の名君,太宗の言行録。
 ただし,本当に太宗がそう言ったのか,後世の人がいうなら捏造したものなのか,そのあたりはじつは分明としないのではないかと思う。

● 『貞観政要』じたいに,過去の皇帝や宰相のエピソードが引用されている。範を過去に求めている。十年一日ならぬ千年一日であれば,それでいいだろう。
 経済成長も技術革新もなく,たんに王朝が変転を重ねるだけの静的な時代であれば,それでいい。

● とっくにそんな時代ではなくなっているわけで,昔の話が現在においてどれほどの有効性を持つのかはかなり疑問だ。
 『貞観政要』は政治家に宛てたものだろうと思われるんだけど,ここで想定されている政治家というのはいわゆる文人政治家だ。
 今は文人であることは政治家の資質を損ねるかもしれない。最近でいうと,宮澤喜一さんが文人政治家ぽかったけれども,彼の内閣は,自民党内閣の中でワースト3に入るのではなかろうか。文人政治家では政治はできない時代だ。
 要するに,“文”の価値が摩耗しきっているのが今という時代だ。

● 『貞観政要』は儒学のプロパガンダではないかとも思ってしまう。何らかの意図があって編まれた本。儒学者の益に資するわけだから,彼らが企んで編んだに違いない。
 後漢以降,三国六朝から隋の混乱期には,この儒学が衰退していきます。唐王朝が目指したのは,儒教国家の復活です。(p144)
 しかし,儒教国家で巧くいった例などあるのかい。

● 混乱の後に太平の世が来て,太平の後は必ず乱れる。太平の世は,混乱期に溜めたエネルギーを消費しているときのかもしれない。
 となれば,太平の世に大切なのは儒教などではない。儒教などなくても混乱期のエネルギーを食べればいいのだ。他に何が要るのか。

● 今でも,大学の文学部で中国文学を囓った人たちが,こういう本を出して,今の政治や政治家はなっとらんとオダをあげているのかもなぁ。
 この本にも何度かそうした論調の文章が出てくるんだけど,床屋政談の域を出ていないわけでねぇ。っていうか,床屋政談の方がまだまともかもしれない。
 この本をビジネス書として読もうとする向きもあるかと思うのだけど,ビジネスをまったく解さない学者が編んだ本だ。そういう読み方はしない方がいいと思う。

● さて,大いに称揚されている太宗だけれど,「こうした太宗の教育も,皇太子の承乾には効果がありませんでした」(p128)ということらしい。世の多くの父親族にとって,これはホッとするエピソードではないか。
 教師の子どもがマトモじゃないってのもよく聞く。そんなものなのだよねぇ。

● この本で唯一同意できるのは「自薦を認めれば,分をわきまえない者どもが,自画自賛で殺到するでしょう」(p143)という一文だ。
 国や自治体の審議会とかで,公募委員というのが最近は増えている。公募委員にはロクなのがいないという印象がある。自薦はダメだ。

2017.03.19 石田衣良 『モーツァルトのいる休日 大人の楽しむクラシック』

書名 モーツァルトのいる休日 大人の楽しむクラシック
著者 石田衣良
発行所 マイナビ新書
発行年月日 2016.09.30
価格(税別) 850円

● 幻冬舎から出ている『I LOVE モーツァルト』を底本にしているらしい。それも読んでいるんだけど,別の本になっていると思った方がいいようだ。
 特に,底本にはない加羽沢美濃さんとの対談がけっこうなボリューム。

● 聴き手が百人いれば,百通りのモーツァルト解釈が成立する。その解釈の幅の広さ,バラエティの多彩さを,モーツァルトほど許容する作曲家は,たぶんいないのじゃないかと思う。
 つまり,それがモーツァルトの凄味だと思う。凄味と書いてしまうと,鋭角的な鋭さを連想させるけれども,モーツァルトはそうではない。鋭角的だとか鋭いという印象を与えるものは,じつはあまりたいしたことはない。
 モーツァルトはふんわりと柔らかく,それでいて無限の許容性を持つ。後にも先にも,こんな作曲家は彼だけだ。

● 以下にいくつか転載。
 それまでに何十万曲というポップスを聴いていたおかげで,「音楽を聴く耳」ができていたのだろう。真剣に音楽にむきあって,長い年月をすごせば,そんなジャンルの音楽によってでも,音楽の耳は育成できるのだ。(p14)
 わからないものを少しずつ覚えながらいいものを探していくのはとても楽しいことだ。ああいう楽しいことが数年に一回あったらとても幸せだろう。(中略)ある程度の歴史の積み重ねがあって,知識と技術の広さ,深さがきちんと蓄積されたジャンルはちゃんと探求のしがいがあるのだ。(p17)
 わからにうちのほうがおもしろいのだ。知識を得ようと急がないほうがいいと思う。ぼくもあっという間に四十歳を過ぎてしまった。昔だったら「何でもいいから早く知りたい,覚えたい」と焦っていたことを,なるべくゆっくり,ちょっとずつわかりたいと考えるようになってきた。「お楽しみ」を急いで食いつぶしてしまいたくないのだ。(p18)
 本当に一番素晴らしいのは,芸術そのものではなくて,それを「素敵だ」「おもしろい」と感じることができる人の心である。(中略)人間の心のキャンバスのほうがどんな芸術よりもうんと広大なのだ。(p20)
 モーツァルトの音楽を聴いていると,絶対のテンポ感,タイム感覚を感じる。これは,テレビのアナウンサーと交わすスタジオ・トークと不思議に似た感覚だえる。「残り十秒」と指示されたときに,彼らが余裕の顔でしゃべりながらきっちりと十秒を刻んで言葉をあたはめていく,あの感覚。(p23)
 小説を書く場合は,「何がおもしろいのか」を最初の一行からラストまでぎゅっと握り締めて書かなければいけない。そのグリップ力がモーツァルトは恐ろしく強いと思う。(p25)
 モーツァルトの曲は,「このあとはこうなるといいな,次はこんなふうにいってくれるかな」と期待したとおりに,しかもこちらが予測するよいもずっと鮮やかに見せてくれるということ。そこがモーツァルトの天才の凄みなのだ。(p26)
 こんなに哀しかったり喜んだり笑ったりしているくせに,すべてにおいてどこか超然とした雰囲気があるというのもおもしろい。(p27)
 息子の出来があまりによすぎたので,てっとりばやく結果を求めすぎたのである。そこでぐっと待つことができなかったのは,親としての弱さだったのではないか。(p44)
 「情操教育」として無理して音楽を習わせるのはやめたほうがいいんじゃないだろうか。親のほうにこそ情操教育が必要なはずだ。(p45)
 映画でも文学でも,文化って無駄な知識を楽しく話せるということ自体が大切なのだ。(p69)
 日本の男がどんどん薄っぺらになっていくのはつらい。映画館,美術館,演劇にコンサート,どこでも女性客が七~八割なのだ。男たちは見る影もない。(p70)
 ロマン派以降のピアノ協奏曲はピアニストの名人性・名技性が前面に出てきて,ぼくにはそれが少々ウザいのだ。(中略)指が速くまわるだけだったらコンピュータにでも弾かせておけばいいと思う。超絶技巧にふさわしい超絶的な精神なんてほとんどの人間にはないのだから。(p77)
 音楽に出ている表面だけを見ればいいのだし,その表面が素晴らしいのだ。人間もそうなのかもしれない。外側に出ているものだけがすべてで,本当は内面なんて考えなくてもいいのかも・・・・・・。(p105)
 私は楽器としてはクラリネットよりオーボエが好きなんですけど,あの曲(クラリネット協奏曲)はオーボエじゃ泣けないんです。クラリネットじゃないとダメなんです。(加羽沢美濃 p151)
 現代人の悪い癖で,何でも知識から入ろうとするんだよね。日本人は特にそうなのかもしれないけど,何かを感じてそれを感じたままに表現するのが苦手。(p154)
 クラシック音楽や美術の鑑賞で黙り込んでしまうというのは,要するにみんな,正解があると思っているからなんだよね。だから今さら自分の感情なんて関係ないと思ってしまう。だけど,音楽や美術,芸術に正解なんてない。もっと自由に楽しめばいいんだけどなぁ。(p154)
 すごい演奏家は,普通にドレミファソって音階を弾くだけでも人をわーっと感動させてくれるよね。(p163)
 その,おしゃれをするっていうのがすごく大事だよね。(中略)ちょっと無理して背伸びをする,ちょっと澄ますというのが本当に大事なんだ。(p180)
 エピソードがある人生は素晴らしいと思うんだ。面白おかしいエピソードを貯めるために文化ってあるんじゃないかと思う。どうせいつかはみんな死んじゃうんだもの。(p182)

2017.03.16 中川右介 『未完成 大作曲家たちの「謎」を読み解く』

書名 未完成 大作曲家たちの「謎」を読み解く
著者 中川右介
発行所 角川SSC新書
発行年月日 2013.01.25
価格(税別) 840円

● 未完に終わったとされる代表的な楽曲と作曲家6人を取りあげる。
 シューベルト「未完成交響曲」
 ブルックナー「交響曲第九番」
 マーラー「交響曲第十番」
 ショスタコーヴィチ「オランゴ」
 プッチーニ「トゥーランドット」
 モーツァルト「レクイエム」

● 未完に関しては“「謎」を読み解く”というほどの謎ではないわけだけど。6人の作曲家の評伝として読めばよいのではないか。面白く読める。
 著者のスタンスは,それぞれの作曲家の生涯の中に入りこんで,内部から追体験しようというのではなく,彼らを突き放して適度に距離を置き,第三者の眼で眺めるという,学者的な態度。

● 以下にいくつか転載。
 カラヤンは一九六一年から六二年にかけて,ベルリン・フィルハーモニーを指揮して,ベートーヴェンの交響曲全曲を録音し,いきなり八枚組のセットで出し,当時の日本人は月賦で購入していた。(p52)
 十九世紀初頭において,一時間近い交響曲はあってはならないものだった。しかし,シューベルトは第二楽章までで三十分近くになる交響曲を書いてしまった。完成させても演奏機会のないことは必至だ。そこで続きを書くのを止めた。(p55)
 ブルックナーはなぜこのように休む間もなく,次の仕事に着手するのだろう。(中略)彼がそういう性格だからだとしか解釈できない。 その結果,何が起きたか。交響曲は「完璧」に仕上がらなかったのである。いったんできた後,じっくりと見直し、直すべきところを直し,それから初演する指揮者,オーケストラに見せるべきなのだが,どうも彼はその工程を怠っていたのではないか。(p68)
 レーヴィに先駆けて第七番を初演したニキシュは一八五五年生まれなので,レーヴィよりもさらに若く,ブルックナーとは親子ほども歳が離れている。つまりは,ブルックナーの音楽は若い,新しい世代によって初めて理解されたということでもある。(中略)ブルックナーは十五歳下のレーヴィのことを手紙では「私の芸術における父」と呼んでいる。(p70)
 ブルックナーの死は,瞬く間に口コミでウィーン中に知れわたった。多くの「関係者」がベルヴェデーレ宮殿のブルックナーの部屋を訪れると,あたりに散らかっていた楽譜を「記念」に持ち帰ってしまった。 こうして,ほぼ完成していた第九番第四楽章の楽譜は散逸してしまった。(p83)
 アダージョで静かに終わる曲というものに,現代の聴衆は違和感を抱かなくなっている。ブルックナーの時代は,そのような交響曲はあってはならないものだったが,チャイコフスキーの《悲愴交響曲》やマーラーの第九番などで,人々はそういう終わり方の曲の素晴らしさを知ってしまった。(p89)
 マーラーの「作曲」は,実に機械的というか実務的だ。夏の二カ月間に集中して「譜面に音符を書く」のが彼の「仕事の流儀」だ。このことから,書き始めた時点ですでにマーラーの頭のなかでは全曲が完成していたと考えるべきだ。(p112)
 五楽章完全版を聴くと,第十番がいかに雄大な曲であるかに驚く。そこからは「九のジンクス」「死の恐怖」「妻との愛の苦悩」に怯え悩んでいる姿など,微塵も感じられない。(p122)
 (スターリン時代のソビエトでは)公式文書だろうが個人の手紙だろうが,すべてその内容が信用できないのだ。人々は秘密警察と隣人の密告を恐れ,日記にも手紙にも自分にとっての真実は書けなかった。(p133)
 現在では偽書だとする学者のほうが多く,その内容を一〇〇パーセント信じる者は少ないが,残念ながらこの『証言』は日本で最も売れたショスタコーヴィチ関連の本なので,いまだにここに書かれていることが真実だと信じている人も多い。(p158)
 十九世紀後半になって,オペラは「そう簡単には作れないもの」となっていったのである。それ以前は台本を含め様式が決まっていて,それにあてはめて書くというかたちで注文をさばいていけばよかった(p176)
 それまでは歌劇場から注文されて書いて報酬をもらったらそれで終わりだったものが,どこかで上演されるたびに著作権料が発生するようになったことも大きい。(中略)経済的にも多作の必要がなくなった。(p177)
 オペラの場合,スコアが完成しても,上演にあたって手が加えられるのが常なので,初演をもって完成と考える。(p178)
 商業出版においては,たとえベストセラー作家であっても,出版社と著者が合意しないことには何も始まらない。著者が書きたいから書くのは,自費出版ぐらいだ。 それは音楽でも同じだ。クラシック愛好家のなかには,音楽家たちが芸術のためだけに作品を書き,芸術的理由のみで長さや規模や内容を決めていると思っている人がいるが,作品が生まれるのも未完になるのも,どんな内容になるのかも,さらには未完なのに演奏・出版されるのも含め,すべての過程で何らかの経済的事情があるのだ。(p249)
 そのテーマや,単行本なのか新書なのかといった器によって,「適量」がある。ワーグナーの《指輪》が破天荒な長さなのも,自主興行で上演するつもりだったからで,どこかの歌劇場からの依頼仕事では,あんな長いものは企画として通らない。(p250)

2017年3月13日月曜日

2017.03.13 松宮義仁 『ソーシャル人の仕事術』

書名 ソーシャル人の仕事術
著者 松宮義仁
発行所 日本能率協会マネジメントセンター
発行年月日 2012.12.10
価格(税別) 1,500円

● 仕事術というより,上手なSNSの使い方の指南書。松宮さんはこの手の本をいくつか出しているけれども,本書のその中の一冊。

● 次のようなことが書いてある。
 それは「フェイスブックを嫌になるまでやってみる」ということです。(中略)ひと通りやりつくすと違う世界が見えてくるものです。いいことも悪いことも経験して初めて,自分の性格やライフスタイルにあった使い方が分かるのではないでしょうか。 とにかく,少しでも面白いなと思い始めたら,どっぷり浸かって,はまってしまうのが一番。(p32)
 リスクを恐れるあまり,「社員のフェイスブックは使用禁止」というルールを定めてしまう会社もあるようですが,これでは,「社員のことは信じない,教育することも放棄しました」と言っているようなものです。(p46)
 理想の更新頻度は,やはり「毎日」です。毎日投稿できるだけのネタの確保と更新計画があってこそ,多くの人に見てもらえるページになります。(中略)フェイスブックをはじめとしたSNSは「今」を伝えるツールです。放置するぐらいなら,やらない方がマシといえるほど,更新・メンテナンスが重要な作業になります。(p48)
 「世の中は自分のためにお金を出して実験してくれている!」 これは経営コンサルタントの石原明氏の言葉ですが,ツイッターでライバルの調査をしていると,まさにこの言葉どおりだと感じます。(中略) (ツイッターの)「リスト機能」では特定の人たちをリストに入れてツイートをまとめて表示させることができます。(中略)フェイスブックではカバーできないリアルタイムな情報を,まるで自分専用の週刊誌を読むような感覚でつかむことができるのです。(p81)
 相手に友達になってもらうお願いする前に,まずは「あなたに興味があります!」という気持ちを,いいね!やコメントという行動で相手に見せること。(p137)
 自分が何のためにソーシャルをやっているかをはっきりとさせることです。SNSで活動する「WHY」をしっかり固めれば,どんな風に伝えるか(写真選びや文面の作り方など)という「How」が決まり,それによって実際何を投稿するのかという「What」も決まってくるでしょう。(中略)自分も含め,「誰」の「どんなことに役立ちたいのか」といったことを明確にしていくことが,よりよい「WHY」を見つけるきっかけになります。(p153)
 日本一の高さを誇る富士山は,誰もが覚えていますが,二番目に高い山を覚えている人はほとんどいないでしょう。むしろ,日本全国で二番目に高い山より,自分の住んでいる県で一番高い山の方が覚えられているほど,二番は影が薄いものなのです。(中略)名もない個人であればこのランチェスター戦略のように,「一点突破」を目指すべきだといえるでしょう。 狭い範囲でも「一点突破」を目指し,その次に拡大のフェーズに入っていくのが正しいステップです。(p159)

2017.03.11 手塚千砂子 『たった1行書くだけで毎日がうまくいく!「ほめ手帳」』

書名 たった1行書くだけで毎日がうまくいく!「ほめ手帳」
著者 手塚千砂子
発行所 青春出版社
発行年月日 2015.11.20
価格(税別) 1,300円

● 次のようなことが書いてある。
 日本人はまじめで勤勉なので,「反省が大事」「反省が成長の元」と考えている人が多いようです。もちろん反省することはとても大切なのですが,反省=自分を否定することになっていませんか。(p25)
 そもそもほめることができない-特にほめることに慣れていない男性や年輩の方が,最初にぶつかる大きな壁です。(p34)
 確かに人格者に謙虚な方は多いですが,私たちは否定と謙虚を取り違えていることが多いのではないでしょうか。ほめてもらった言葉を否定することは,わざわざ否定の言葉で自分を貶めているだけでなく,ほめてくれた相手の気持ちをも否定することになってしまうことに気づいていますか。(p35)
 重要なのは「心からほめること」ではなく「ほめ言葉を使うこと」。ほめることに違和感があろうとなかろうと,「これは脳が喜ぶことなんだ」と割り切ってほめ言葉を書き続ければいいのです。(p37)
 不思議なことに,自分のなかに入れたものは,自然に外に出てきます。自分をほめたら,人をほめたくなる。(p51)
 過去がどうであろうとそれはいったん脇に置いておき,今現在の自分をほめる,今の自分を受け入れて,楽しむことを重視します。(p62)
 「引き寄せるイメージ」を実践する前に,まず自分自身をプラスのエネルギーで満たすことが先なのです。(p148)
● 著者が提唱する「ほめ手帳」を始めるのにお金はかからない。手帳と鉛筆があればいい。お金がかからないんだから,やってみたらいい。
 ぼくはやらないけどね。著者が説くところを間違いだと証明することはできないと思うけれど,浅いとは思う。
 「ほめ手帳」を続けてみても,何も変わるまい。著者が説くような変化は起きないという方に一票を投じたい。

● しかし,コンサル料を取られるわけではない。やりたいと思うのなら,今日からでも始めてみるといい。
 自分は変われるかもしれないと妄想することは,それ自体が楽しいことだしね。

2017.03.10 伊集院 静 『不運と思うな。 大人の流儀6』

書名 不運と思うな。 大人の流儀6
著者 伊集院 静
発行所 講談社
発行年月日 2016.07.04
価格(税別) 926円

● タイトルの由縁は次のようなもの。
 天上へ行った人々。海の底に,土の下に眠る人々。哀しみだけを想うのをやめなくてはならない。どんなに短い一生でも,そこには四季があったはずだという言葉がある。笑っていた日を想うことが,人間の死への尊厳ではないか。(まえがき)
● 今年も3.11が巡ってきた。6年目になる。ぼく個人も昨年6月に19歳のひとり息子を亡くした。
 この時期にこの本を読んだのは偶々である。偶々ではあるが,染みてくるものがあった。そうしたことを書く資格のある人が書いているからだと思う。

● 以下に転載。
 奇妙なもので,近しい人を亡くすと,世の中に,これほどの数の同じ思いをした人がいたことを知ることになる。家族の誰かしらに不幸があるのが世の中の常なのである。(p18)
 人は泣いてばかりで生きられない。泣いて,笑って,正確には,笑って泣いて笑う,が人の生きる姿である。(p19)
 他人事なのである。(中略)それは彼等の言葉,表情を見聞していればすぐにわかる。(中略)キャスターという仕事(彼等にとっては商売でもいいが)はつくづくおそろしいものだ。彼等は身が危険な間は決して現場に行かない。戦争をはじめた政治家が決して戦場にいないのと同じである。(p43)
 先に着き,座敷で待っていると,店の者の声で談志さんがあらわれたのがわかった。普段は無愛想な鮨屋の主人が,やや高い声で,師匠よくお見えに,と声が届く。一分,二分の男ではこうならない。千両が顔を出すと,場が華やぐのが世間である。(p48)
 娘さんを探している父親にお願いがある。 あなたが明るい顔で笑えるものを探しなさい。それが生き残った者の使命です。 「いやです。自分一人がしあわせなんて」 それはわかるが,自分一人が笑う方が辛いことなら辛いことを選ぶのも大人の男の選択ではないかと思う。(p53)
 ヤンキースにいた松井秀喜君もそうだ。時々,彼等の何でもない話を聞いていると,自分は六十年以上何をしていたんだろうと思うことがある。 小泉進次郎君に初めて逢った時も驚いた。さわやかだと評判だが,そんなものではなかった。立っているだけで風が立つ,という感じがある。全盛の長嶋茂雄がそうである。(p58)
 苦しい,切ない時間だけが,人を成長させる。(p59)
 やはり昔から言うように,“学者と役者と坊主にはまともな者がいない”とは本当である。(p87)
 私は犬にむかっても,普通に人に接触するように応対する。相手が理解できていまいがかまわない。少年の時から生き物にはそうして来た。(p90)
 君たち(犬)が去った後,哀しみの淵に長く佇むことが起きれば,何のための出逢いだったのかわからなくなる。(p94)
 私たちは勿論いなくなるが,やがてこの宇宙も亡くなる,ということである。 私たちが感動したもの,学んだものも私たちと失せるが,シェークスピアがいたことも,モーツァルトの曲があったこともすべて消え失せるというのだ。それが今の宇宙物理学では正当であるらしい。(p98)
 不幸の最中にはいかなる声を掛けても,その哀しみを救える適切な言葉はない。言葉とはそういうものなのである。(p121)
 「はい。ゆっくり丁寧に書くことです。それしかありません」(中略) 「ゆっくり丁寧なら大丈夫なんですか」 「大丈夫です。姿勢を正して書けば,それで十分です」(P124)
 若者はあらゆることを覚える折に,急ぐ傾向がある。それが若いということだが,若い時に何かひとつでいいから,基本を,ゆっくり丁寧にくり返す時間があった方がいい。(p126)
 新しい年を迎えると,大半の人は,今年こそはと,数日思うそうだ。この数日というのがよろしい。 その証拠に市販されている日記帳の大半は櫻が咲く頃には,どこに置いたかわからなくなってるらしい。 私はそれでいいと思う。あまり決意,覚悟,必死になると周囲に迷惑をかける。(p148)
 女性たちが立ち上がると,戦争は本物の戦いになり,しかも悲劇を迎える,と昔から言われている。(p165)

2017.03.06 伊集院 静 『追いかけるな 大人の流儀5』

書名 追いかけるな 大人の流儀5
著者 伊集院 静
発行所 講談社
発行年月日 2015.11.16
価格(税別) 926円

● 「週刊現代」の連載を1冊にまとめたもの。週刊誌の読者も高齢化しているに違いない。若者は週刊誌など読まなくなっているのではあるまいか。
 昔の若者は背伸びをして(?),オッサンが読む週刊誌というものを読むことがあったのだと思うけれども,今はそんな背伸びなどする必要がない。

● が,毎回思うことだけれども,こういうエッセイが連載されているのだから,日本の週刊誌というのはレベルが高い。
 他の国では,知的階層がはっきりしていて,いわゆる週刊誌にこうしたエッセイが載ることはないと聞いたことがある。

● 以下に転載。
 私たちは日々,日常のさまざまなことに懸命にむかうのだが(そうでない人が多いし,それが人間らしくもあるが),今日はいい一日だったと実感が持てる一日はそうそうあるものではない。そのことは逆に言うと,私たちの日々は上手く行かない方が多いのである。これは万人が共通するところなのだ,とこの頃,わかるようになって来た。(まえがき)
 望み,願いと言った類いのものを,必要以上にこだわったり,必要以上に追いかけたりすると,それが逆に,当人の不満,不幸を招くことが,私の短い人生経験の中でも間々あり得ることを見て来た(まえがき)
 検査を終え,車椅子に乗って病室に戻って来た彼女が,Vサインをして私に笑いかけた時,その明るさに苦笑いをした。-なんだ,助けられてるのはこっちか。(p16)
 自分だけが,自分の身内だけが,なぜこんな目に・・・・・・,と考えないことである。気を病んでも人生の時間は過ぎる。明るく陽気でも過ぎるなら,どちらがいいかは明白である。(p17)
 並んでまで食べるものが,世の中にあるとは思えない。銀座では鮨店にも並ぶ。安くて旨いってか。鮨を並んで喰って,どこが江戸前の粋じゃ。(p21)
 「目の前にふらふらしているのをつかまえると碌なことはありません。だいたい目の前をふらふらしているのは蚊と同じだから」「どうしたらいいんですか?」「とっつかめて叩きつぶしなさい」(p22)
 作家は自分一人の才能で一人前になると思っている人もいようが,それは違う。人間の才能なんて高が知れている。どんな職業,仕事も周囲の人が見守り,育ててくれるのである。(p42)
 私は小説家であるから,本を読みなさい,と言う。しかし私はガキの頃,本を読んで何が面白いの,と思った。それでも読まないより,読んだ方が良かったと,かなり先になって感じた。(p91)
 太平洋戦争を,あれは軍部のひとかたまりがはじめたと今の日本人が考えたいたらこの国は大きな間違いをしていることになる。日本人の大半が,戦争を善し(やむなしは一番いい加減な肯定である)としたのだ。昭和の紀元節で日本人のほぼすべての人が,建国を祝い,自分たちにかなう敵国無し,と提灯をぶらさげて大騒ぎをしたのである。(p116)
 何しろ作家は負けず嫌いが多い。本当かって? 嘘だとお思いなら,作家を数人,ひとつ檻に入れてみるといい。三十分もしないうちに全員ブスッとした顔をして壁の方をむいて腕組みをしてるから。(p126)
 公共の場所,電車の中などで赤児が激しく泣き出し,それを五月蠅く思う時の対処の仕方を,私は母から教わった。“赤ちゃんは泣くのが仕事だから”。これが母の言い方である。(p131)
 “上手い”はつまらないものが多いのである。よく芸能人が絵を描き,××展入選などと新聞で紹介される記事を目にすることがあるが,バカも休み休みにしなさい,と私は思う。“上手”のレベルの絵は絵ではない。(中略) いかにも上手いという言うのは,私たちの小説の世界でも同じことが言えて,読む人が読めば上滑りしていることが見えてくる。(p141)
 手紙は気持ちを伝えようとした瞬間に,思ったことを文字にする方が良い。私はそれを井上陽水に学んだ。(p142)
 マキロイという若者が世界でトップというが,私はこの若者がまだ使えるボールを池に投げたのを見たし,今春,クラブを池に放った。人間がこしらえた道具をこういうふうに扱うバカは何十年経ってもまともな人間になれない。それが世界一というのだからプロゴルフの世界も程度が知れる。(p157)
 物を学んだり,物事を考察する行為は,最初,とっつきにくい所があっても,或る一点,或る領域を越えてしまうと堰を切ったように,知の並が押し寄せ,軽々とそこを泳いでいる自分がいたりするものだ。(p164)
 (“虚しく往きて実ちて帰る”の)“実ちて帰る”はどうでもよくて,“虚しく”のこの不安と孤独こそが人間を成長させる原動力であり,必須条件なのである。その証拠に空海は“虚しさ”の幅が人より何倍も大きかったから,人間業とは思えない能力を発揮して,密教をただ一人伝授されることができたのだろう,と私は考える。(p166)
 憂うのは,今の日本人の,個の甘さ,甘えである。皆がひとつの方向へ行けば,ワァーッとヒ弱な鳥のごとくそちらへ走る。(p177)
 昔は,大人の男が,知人でない相手に(知人であっても)食べ物が美味い,不味いは口にしなかった。食の話というのはどれほど慎重に書いても卑しさがともなう。(p179)

2017年3月6日月曜日

2017.03.01 森 博嗣 『本質を見通す100の講義』

書名 本質を見通す100の講義
著者 森 博嗣
発行所 大和書房
発行年月日 2015.07.25
価格(税別) 1,300円

● 頭のいい人が書いたものを読むのは,それだけで快感を伴う。といって,学術論文などはこちらは読めないわけで,あくまで商業出版に乗ったものに限るんだけど。
 自分もぼんやり思っていたことにピタッとはまる言葉を与えられると,快感がピュッと噴きあがってくる。

● 天上天下唯我独尊という思いをどこかに秘めていないと,面白いものは書けない。たぶん。
 唯我独尊という思いをどこかに秘めているのも,頭の良さの条件でしょうね。右顧左眄しないということでもある。

● 以下に転載。
 本というのは,窓から射し込む光のようなものであって,それで貴方の部屋が明るくなることもあれば,埃や汚れを際立たせることもある。でも,それは貴方の部屋なのだ。(p2)
 資本主義を牽引したエネルギィは,金を儲けたいという欲望であって,それは,自分と貧乏人との格差を広げたい,という「夢」なのだ。金持ちになってフェラーリを買っても,見せびらかす相手がいなかったら意味がない。(p30)
 エネルギィ的に見て,個人がなす仕事量には限界がある。だから,仕事に対して報酬を与えるだけならば,さほど大きな格差は生じない。資本主義における格差は,仕事をしないで得られる利益が存在するためである。ここが「資本」の意味だ。(p31)
 悪い部分があったときには,株主の顔色を窺い,応急処置をしなければならない。リストラしたり,試算を売却したり,といった防戦一方になる。ここに至っては,すぐに結果が出るものでなければ認めてもらえない。長期的な手は打てなくなり,刹那的になる。だから,ますますじり貧になる。(p32)
 結局のところ,つながりたがっている多くは,つながることで金が儲かるからにすぎない。それを,綺麗な言葉で飾って,「絆」「親睦」などと呼んでいるのである。(p37)
 民主主義とは,みんなが自由になる,ということではない。みんなでリスクを分担する,という意味だ。誰もが少しずつ不満を持って,少しずつ危険を抱え込むこと,それを許容することが,民主主義の精神である。(中略)したがって,消費税をゼロにするとか,教育費をゼロにするとか,原発を即ゼロにするとか,基地はすべて国外とか,そういう「みんなが得をする」ことばかり言っている政治家は,極論をすれば,民主主義を利用した詐欺師のようなものだ。(p39)
 もしできることの共通点を探ろうとすると,もの凄く細かい手しか打てない。もっと大胆な政策はないのか,と不満がみんなから出るはずだが,その不満の方向性がこれまた違うため,ベクトルを合計すると力が弱くなる。(中略)それでも,小さくても良いから一致する部分を見つけて,みんなで盛り上がりたいのが,人間というものらしい。(p45)
 弱者は貶すことができないが,強者は貶しても大目に見られる,ということである。(中略)グループの構成員が多くなると悪口が一般的になるからだ。東京の悪い点を挙げても,東京の人全員を責めているわけではないし,またたとえそうであっても一人当たりの責任が割り算で小さくなる。逆に,小さな村の悪口は,そこにいる人々の個人攻撃に近いものに受け止められる。そういうメカニズムなのではないか。(p54)
 金を使って楽をしようとする精神が貧しい,と怒る人もいるだろうけれど,そもそも,金とはそういう使い方をするものである。(p60)
 可能性をあれこれ想像することで,たいていのことは許容できるようになる。つまり,腹の虫というのは,腹の中にいて世間が見えていないからこそ,治まらないのである。ちょっと考えれば,そんなに怒るようなことか,となるはずだ。(p61)
 庭というものは,基本的に自然であって,完成品を人間が造ることはできない。無理に植えてもすぐに枯れてしまうだけだ。(p67)
 自然が絡むものは,「維持」が大変である。人工物でも腐食はするけれど,自然の変化に比べればずっと遅い。自然はあっという間に姿を変える。それこそ,季節が変わっただけで跡形もなく消えてしまう。毎年同じものはけっして現れない。(p67)
 全体として良くなっているということは,一人の人間の中でも,平均すれば,私欲よりは「みんなで良くなろう」という公欲が大事だと判断されていることを示している。何故そうなるのかといえば,答は一つしかない。そちらの方が「美しい」からだ。逆に,隠し持っている私欲が「醜い」ことを人間はたぶん知っている。(p69)
 この頃はネットが本に代わろうとしている。しかし,本のように一冊に纏められているわけではないので,「世界」を感じることが難しい。(中略)こういう時代にいる子供たちは,(中略)周りを見て,周りにきいて,歩調を合わせるだけの人になりやすい。(p75)
 自分の経験以外は基本的に「知らない」ことであるから,「知らない」ことを想像するしかない。その想像をする人が少ないということが,数多くの観察からわかる。また逆に,小説とか映画とか,自分の創作を大勢に見てもらう立場の人は,その想像をしないと作れないのである。(p77)
 科学というのは,そういう具合に,少しずつ進めるものなのであって,「あるのかないのかどっちなんだ」と声を荒らげる下品さは,非常に嘆かわしいと感じる。(p85)
 専門家になるほど,知識が豊富になるから,ほとんどの事について,複数の意見,複数の事例,数々の例外があることを考慮して,なかなか断定的な発言ができなくなる。したがって,ますますじれったい話っぷりになるのだ。(p89)
 若者は,本当にTVから離れてしまった。視聴率を気にして,ますます老人向けになっている。ようするに,年寄りが株主みたいな感じなのが今のTVだ。(p89)
 ワンパターンというのは,面白いから繰り返され,ワンパターンになる。どこで面白くなくなるかは,受け手のセンスの鋭さ(感度)による。(中略)全体を眺めている人は,まだ笑ってくれる人がいる,と観察するのだ。つまり,大勢を相手にする人ほど判断は必ず遅れる。(p92)
 ブログを続けられる人は,仕事としての報酬を得ているか,あるいはボランティアか,のいずれかである。いずれも,不可欠なのは不特定多数に対する「奉仕」の気持ちである。サービス精神がなくては続かない。自分が得たい,自分を売り込みたい,では続かないということだ。(p101)
 まずは,自分がどう感じるのかを丁寧に拾い上げることが大事であって,そのうえでの他者,社会なのではないか,と僕は思う。(p103)
 大人になり知識が増えると,知らないことを嫌うようになる。「嫌奇心」という言葉はないと思うが,そにかくそういう状態に多くの人がなる。(p104)
 わかったときに,「そうだったのか!」と跳び上がるほど嬉しい思いをしている人は,いつまでも知りたいと思う。だから,未知が希望になる。一方,わかったときに,「なんだ」とか「またか」と溜息が出る経験を積み重ねると,だんだん未知が不審になる。(p105)
 好き嫌いや美意識などは,そもそも多数決を取ることが間違っているのである。自分が好きなものが大勢と一緒でなければならない理由はない。大衆の多くはそこを勘違いしているみたいだ。 そういう社会に浸っていると,自分の感情,感覚も鈍ってくる。自分がどう感じたかを自分で取り上げなくなる。(p114)
 シュレディンガの猫ではないが,晴天なら晴れ男になり,雨なら雨男になっているだけで,観測されるまでは両者は同時に存在している,と考えるのが科学的である。(p121)
 僕としては,具体例を挙げることで,そちらへ関心が移ってしまうのを避けている。抽象的な文章はそのまま理解してもらいたい,と考えているからだ。(p145)
 クリエータというのは,常に新しいものを求めている。新しいものを作り出すことをクリエートという。作品を生み出すとは,そういう意味だ。何十年も前のヒット曲を大晦日になるごとに歌わなくてはいけない人は,クリエータだとしたら苦痛だろう。(p149)
 知らない人が多いようだが,この世には命よりも大事なものなんて幾らでもある。(p153)
 僕が書く本を読んだ人で,「森博嗣は世間知らずだ」と批判する人がいるけれど,僕は,それを批判だと感じない。どうしてかというと,世間なんか知りたくなかったからである。いつも世間知らずでありたいと願っていた。見て見ぬ振りでは,世間は知れてしまう。世間知らずであるためには,なにかに没頭し,一心不乱に打ち込まなければならないだろう。(p153)
 作ることに慣れている人であれば,何を作るかを考えると同時に,その作り方をイメージしている。そのイメージがないと,何を使うのかも決まらないし,作れるのかどうかもわからない。(p158)
 現在の方向性は,むしろ個人へ向かっている。商品は可能な限りカスタマイズされ,個性を重視するようになっている。ファミレスではなく,個人経営のレストラン,あるいは自宅での手料理へ,と価値はシフトしている。(p161)
 人間は自分が望まないものは信じない特性を持っている(p162)
 土屋賢二氏のエッセィが面白いという話は,もう何度も書いているところだが,似たような作品が現れないのは,彼のエッセィが尋常ではない思考力と知性によって生み出されているからだ。凡人には真似ができない。(p170)
 そんなことを言ったら偏見だと言われそうだが,平均的な考えとどれくらいずれているかが,エッセィにおける最大の武器といえるからだ。(p171)
 ものを作る人は,飾った言葉を使わない。とても正直だ。営業担当の人は,作業の細かい部分を知らない。ただ,客の希望を聞き,金額の交渉をするのが役目で,そこでは言葉によるコミュニケーションに頼っているから,自ずと言葉が飾られる。(p180)
 共通しているのは,みんな黙って仕事をすること。道具をもの凄く大事に扱うこと。そして,最後は作業場を綺麗に掃除することだ。自分も,大人になったら,こういう仕事がしたいと思っていた。工場で働いて,機械を作ることが夢だった。(p181)
 だいたい公共事業というのは,多かれ少なかれこんな性質のものである。もし「改革」を本気ですれば,ある程度は経費削減になるけれど,それは下々の首を絞めることになるはずだ。そんな非人情的なことは殿様にはできない。(中略)しかし,たとえば,社会主義だってこれで滅んだのだ。資本主義が生き残ったのは,残念なことだが,「儲けるために下々の首を切る殿様」が勝てる社会だったからである。全体としては,この合理主義が社会を発展させたといえる。(p184)
 毎日こつこつと作業をしていると,ついつい「怠けていない」と満足してしまう。少し考えてみれば,もう一段合理的な手法があるかもしれない。(p185)
 目標に向かって少しでも近づこう,という前向きさが,かえって目標に到達できない事態を招くことがある。(中略)道が一本であっても,道自体が大きく湾曲しているときには,目標から遠くなる方向に進むこともある。(p188)
 今日だけの楽しみ,身近な面白さだけで生きていたら,そのうち,どちらへも動けない停滞感に苛まれることになる可能性が高い。(p191)
 一見無駄に見えるけれど,実はそうでもない,というものが沢山ある。無駄に見えるのは視野が狭いことによる錯覚である。(中略)自分たちの物差しで見ているから,そう見えてしまうのだ。(p203)
 ピカソだって,若い頃の写実性は天才的だった。型破りなことをするためには,まず型の中に入らなければならないのである。 おそらく,この伝統的なものの中に身を置いてこそ,真に新しい発想を持つのではないか。(p204)
 それでも見つからないときは,最後の場所を見る。それは,この探索が始まる以前,すなわち,一番最初に見たところだ。結局,「探してもなかった」と勘違いしていた場所で見つかるのである。(p207)
 自然や社会や相手の問題だと捉えているうちは解決しない。観測するのも,理想を抱くのも自分なのだ。問題はすべて,結局は自分の中に存在するのである。(p209)
 問題を抱えている状態は,人に深みを与える。僕くらいの歳になるとひしひしと感じることだ。でもそれは,その深さに沈んだままの人ではなくて,その深さから浮かび上がってきた人にいえることなのである。(p211)
 問題を解かせないためには,問題が解けたと勘違いさせることが有効なのである。(中略)相手に勝ったと思わせることが,こちらが勝つために有利になることが多い。(中略)僕は仕事で,申請書や報告書をよく書いたのだが,わざと一字誤字を入れておく。するとチェックをする事務員がそこを指摘してくる。それを直してお終いとなる。(中略)直しやすいミスをわざと作っておくのである。書類なんてどうでも良いものだと考えていたので,このように自分なりに合理化していた。(p212)
 たとえば,腹が立っているときに,「ああ,自分は腹を立てているな」と思うことが自覚である。腹を立てている人の多くは,それを忘れている。(p214)
 孤独と一口にいっても,いろんな孤独がある。人間の数だけあり千差万別だ。(中略)だから,言葉というもので,抽象化して,だいたいの共通点について,だいたいの傾向を見出し,ぼんやりとした対策を練ったり,ぼんやりとした考え方について議論をするのである。本を読むことも,他者と話をすることも,あらゆるコミュニケーションとは,そういう「歩み寄り」のうえで,少しでも自分に有利となりそうなものを見つける行為なのだ。(p217)
 破裂して壊れるのは,コンクリートの性質というよりも,コンクリートを壊している試験機の性質だということだ。実現象には,こういうことがよくある。(中略)人間の壊れ方もたぶんこれと同じで,強度の個人差はあれ,実は周囲の圧力のかけ方に起因している場合がほとんどだ。(p221)
 人間というのは,「こんなこと滅多にないのだから,思い切ってぱっと使おう」という気持ちになりやすい。分割するとなんだか「こぢんまり」としてしまう,と何故か考える。実は,この一気にぱっと使うというのが,かなり貧乏くさい発想だとは気づかない。(p227)

2017年2月24日金曜日

2017.02.24 近藤史恵 『スティグマータ』

書名 スティグマータ
著者 近藤史恵
発行所 新潮社
発行年月日 2016.06.20
価格(税別) 1,500円

● 『サクリファイス』『エデン』『サヴァイヴ』『キアズマ』に続く自転車シリーズの5冊目。主人公はすっかりお馴染みなった感のある白石誓(しらいし ちかう)。
 ツール・ド・フランスで優勝を狙えるチームに所属している。もちろん,自身が総合優勝を狙うエースの位置にいるのではない。アシスト要員だ。
 ただし,下り坂にめっぽう強い。『サクリファイス』からそういう設定。今回もすんでのところでツール・ド・フランスのステージ優勝をもぎ取りそうになる。

● 主人公の特徴はナイーブであること。神経質でウジウジと考えるタイプ。そうじゃないと小説の主人公には向かないのだろうけど。
 協調性に満ちている。したがって,監督はじめチームからの信頼は厚い。彼なら裏切らない,持てる力をすべて出して貢献してくれる,と。

● 以下にいくつか転載。
 笑顔は、敵意がないということを示すシグナルだ。違う国の,違う文化を持った人間が集まっているのだから,シグナルだけは発し続けなければならない。(p24)
 あれほど強かった選手が,ある年からばったり勝てなくなるなんてことはしょっちゅう目にしている。チャンスは今しかない。そう思わなければたった一度だって勝てない。(p26)
 いちばん強く,回復が早いものが勝つ。そう,この世界一過酷だと言われるレースは,強いだけでは勝てない。蓄積する疲労を回復させ,立ち直ったものしか勝てないのだ。だからこそ,ドーピングが強い効果を上げた。(p50)
 タクシー代はチームに請求することができるのに,ひとりのときはこうやって公共交通機関ばかりを使ってしまう。 たぶん,ひとりの人間としてだれかと対峙することには,少しだけ勇気がいる。人混みに混じっていれば,その他大勢でいられる。(p78)
 百七十五キロも自転車で走りながら休息するなんて,普通の人々にとっては想像もできない感覚だろう。グラン・ツールに出る選手は,体調不良も怪我も,走りながら治す。(p121)
 ニコラは,本当にやりたければ人の言うことなどきかないだろうし,そういう選手でなければツールで優勝することなどできないだろう。(p142)
 過去に信じて裏切られることが何度あったとしても,人は信じたいものを信じるのだ。(p200)
 ミッコがかすかに舌打ちをした。「生意気な若造だ」 (中略)「どうした」 にやついているのに気づかれたのだろう。尋ねられたから正直に答えた。 「きっと,ミッコが新人だったときの先輩選手もそう言ってたんじゃないかなと思ってね」 自分が子羊のような新人選手だったからこそ,その生意気さが重要な資質なのだとわかる。(p237)

2017年2月16日木曜日

2017.02.16 佐々木典士 『ぼくたちに,もうモノは必要ない。』

書名 ぼくたちに,もうモノは必要ない。
著者 佐々木典士
発行所 ワニブックス
発行年月日 2015.06.30
価格(税別) 1,000円

● 面白かった。いちいち腑に落ちる。
 著者はおそらくケチな人なんじゃないかと思う。関心が向くことに対しては,お金を突っこんで行くが(著者の場合は書籍とカメラ),それ以外のものに対しては非常に淡々とした人なのじゃないか。
 その下地があったから,関心の範疇にある多くのモノも捨てることができたのじゃないかなぁ。

● 元気が出る本でもある。著者が言うように,モノを少なくすれば家事や買い物に費やす時間が減り,家事そのものも楽になり,したがって汚れたままに放置することもしなくなり,自分を好きになることができ,時間をムダにしなくなり,行動力がつき・・・・・・という具合になるのかどうか,それはわからない。
 が,モノを捨てるというのは,難しい数学の問題を解くとか,顔も見たくないヤツと会わなければならないとか,そういうことに比べれば自分ひとりでできるし,作業自体は単純なものだ。

● それをやれば,その先には幸せが待っているかもしれないのだ。だったら,単純にやったらいいと思う。
 つまり,モノを減らすというのは,それ自体がいいことだと思っているので。たとえ著者の言うようにはならなかったとしても,少なくとも損はしないわけだから。

● しかし,モノを捨てることはできたとしても,その先,モノを買うという楽しみまで捨てられるかどうか。
 このあたりがじつは成否を分けそうだ。モノが極限まで少ないことの快感を味わってしまえば,よほどのことがない限り,新たに買う気にはならないものだよ,ってことですか。

● 以下にいくつか転載。
 出版業界は斜陽産業だから,存続のためにはとにかくまず売れる本が必要だ。売れる本を作らないと,価値のある本を出したくても,そもそも本を出すということ自体ができなくなってしまう。(p25)
 ぼくたちの社会で長期政権についているのは,自民党ではない。その後ろにある「お金党」と「モノ党」と「経済党」の連立政権だ。(p26)
 自分の価値は自分が持っているモノの合計ではない。モノは自分をほんのわずかの間しか幸せにしてくれない。必要以上のモノはエネルギーも時間も,すべてを自分から奪っていく。(p34)
 お酒は幸福ではなく,不幸の一時停止。そんな言葉を聞いたことがある。(p37)
 神経ネットワークは刺激の量ではなく,刺激が変わるという「差」に注目する仕組みだ。(中略)かつてはどうしても手に入れたいと願い,手に入れたモノ。そのモノに満足し続けられないのは,この「差」がないと神経が判断してしまうからだ。(p68)
 優勝の祝賀会の後,帰宅した彼は自分の部屋で,長年の夢が叶った幸せがすでに消え去っていることに気づいた。その喜びは3時間しか続かなかったという。(p72)
 残念な事実がある。1万円の指輪と,5万円の指輪,30万円の指輪を手に入れたとき,それぞれの段階で感じる喜びは大体同じだということだ。(中略)どこまでお金持ちになろうが,モノを持とうが,そこで感じられる喜びは,たった今あなたが感じられる喜びとほぼ同じで,大して変わらない。(p72)
 未来を予測できる動物は人間だけだが,予測できる未来の射程距離は実はとても短い。お腹が空いた状態で,スーパーに行き,必要以上に買いこんでしまったことはないだろうか?(中略)人は何度となく経験してわかっていることでも,「現在」を元に「未来」を予測してしまうのだ。(p75)
 これはほんとに思いあたるところ大。「予測できる未来の射程距離はとても短い」と言われると,まったくそうだなぁと思わないわけにはいかない。
 東日本大震災の犠牲者が約2万人。1千年に一度と言われる大きな災害の犠牲者以上の人が,毎年自分で命を絶ってしまっているのは,どういうわけだろう?(p85)
 「自分には価値がある」と思わずには,人は生きていけない。(中略)「自分には価値がある」と確かめるためには,誰かに認められることが必要だ。社会的な動物である人は,他の人から認められることでしか,自分の価値を確認できない。(中略)他人という鏡を通してでなければ,自分の姿すら人は見えない。(p86)
 だから,おまえに価値なんかないんだと言ったり,そうした態度を見せてはいけないのだ。絶対にいけない。
 しかし,ぼくは一番身近にいて,最も保護しなければならなかった自分の子どもに対して,そういう態度を取ってしまったことが何度かあったことを認めないわけにはいかない。
 ぼくの生涯で最大の痛恨事がこれだ。自分以外の人間から自己重要感を奪ってはいけない。絶対に,だ。どんな理由があっても,だ。
 誰かの価値を下げることで安心し,自分の価値を少しでも確かめようとするのが「批判」の本質だ。(p88)
 読んだ本を血肉にして使いこなしていなかったのに,本を増やし続けていた。ぼくは自分の価値を,置いてある本の量で示そうとしていた。(p95)
 これも,百パーセント自分にもあてはまる。書庫まで作って本を二重に並べて悦に入っていたというか。読んだ本はその中の3分の1にも満たなかった。まとめて処分したことが何度かある。
 が,まだカオスの状態だ。東日本大震災ですべて崩れ落ちてそのままになっているんで。
 これから捨てようとするモノは確かに気になる。それは目に見えるからだ。捨てることで得られるものは目に見えない。だから意識しづらい。だが捨てることによって得られる見えないものは,失いモノよりよほど大きい。(p102)
 「収納という巣」があれば,モノを減らしたつもりでも,いつの間にかモノはそこに住み始め増えていく。だからまずは,「巣」である収納を叩くのだ。(p117)
 これはねぇ,じつに相方に言って聞かせてやりたいよなぁ。収納スペースを作ろうとするんだよねぇ。真逆だよなぁ。
 物置小屋が必要だなんても言いだしてる。うちは農家じゃないんだし,ぼくは日曜大工もしないんだから,農機具や工具を入れておくスペースは要らないはずだよ。物置を作ってどうしようというのだ。
 満員電車がとても息苦しいように,あらゆるテクニックを用いて押し込まれたモノたちは見ていてとても息苦しい。何より最初と同じように収納するのは思った以上に手間がかかる。(p118)
 特に東日本大震災以降,モノがあるというのが嫌で嫌で仕方がない。とにかくモノはない方がいい。
 相方もそれまであった木製の(けっこう高価)な食器棚やタンスは全部処分した。だけど,軽いプラスチック製の何というのか知らないけれど,タンスのようなものを大量に買って部屋という部屋に並べてくれた。要らないよぉ,これ。
 学生時代に必要だった教科書,子どもの頃に自分を成長させてくれた本,ずっと前に自分を輝かせてくれた服。一時期ハマった趣味の用品,恋人がくれた思い出のプレゼント。 過去に執着していると,新しいことは入ってこなくなる。過去に必要だったモノとすっぱり縁をきらないと,一番大事な「今」はいつまでも無視されてしまう。(p120)
 誰でも一定の努力をすれば集められるようなコレクションは集めている本人にも,負担になるだけ。(中略)家は「博物館」ではない。貴重なモノは本当の博物館に見にいこう。(p138)
 ぼくの家の家賃は6万7千円で20㎡だから,1㎡あたり月に大体3千円払っている計算だ。さきほど買った2千円のモノがもし1㎡のものだったとしたら? あっという間に相殺されてしまった。安から買う,はこんなに危険だ。(p149)
 家にいてもテレビを見ていても,家から1歩外へ出ても,メディアや広告,本当にありとあらゆるものを通じて,脅迫的なメッセージがぼくたちに送られてくる。(中略)ミニマリズムを意識していると,あらゆるメディアや広告に惑わされる時間が減る。「自分は必要なモノをすべて持っている」という自覚ができるからだ。すべて持っていると思えればほとんどのメッセージは,スルーできる。(p174)
 ミニマリストはそもそもモノをあまり買わないので,買い物の時間が減る。(p176)
 いや,案外減らないんじゃないか。ぼくはそうだ。買わなくても店に行くんだよ。行ってかなりの時間を過ごす。
 ぼくが行くのは,書店,文具店,家電量販店,百円ショップが多いんだけど,ほぼ買わないんだよね。買わないんだけど,しばしば出かけていって,あれこれ物色する。店側には一番嫌な客だと思うんだけど,これがやめられない。これだけ行ってるんだから,たまには何か買えよ,じゃないと店に悪いだろ,と自分に突っ込みを入れている。
 モノに限らず,選択肢を絞るのは決断を早くし,ムダな時間を削るために欠かせない。(p178)
 家事にかかる時間は,本当に圧倒的に減る。(中略)部屋にモノを置かず,ミニマルにしていると,掃除にかかる時間は激減する。服を少なくすると洗濯の手間も減るし,今日何を着るか,迷う時間も減る。(p178)
 モノが少ないと,毎日やらなければならないことが少ない。目の前の雑用を次々片付けるので,溜まらない。すると何事においてもキビキビ動けるようになる。(p180)
 心理学者のティム・キャサーは「時間の豊かさ」が幸せに直結し,「物質の豊かさ」はそうではないと主張した。(中略)時間はお金持ちも貧しい人にも平等で1日24時間だ。だから時間をゆったり使うことは「究極の贅沢」でもある。(p181)
 部屋に溜まっているのは,ホコリや汚れではない。ホコリや汚れを放置した「過去の自分」が溜まっているのだ。「やるべきときにやらなかった自分」が堆積しているのだ。ホコリや汚れは嫌なものだが,何より嫌なのはそれを放置した「過去の自分」と向き合うことになるからだ。これは辛い。(p192)
 一瞬で不幸になれる方法がある。それは自分を誰かと比べてみることだ。(中略)人と比べるのが問題なのは,どこまでいっても自分より優れている人がいるということだ。どれだけお金持ちだろうが,イケメンだろうが美女だろうが上には上がいる。(p206)
 「経験」はどちらが優れているか比べづらく「モノ」はすぐに比べられる。比べられる「モノ」の方が「自分の価値」も確かめられやすい。 だけど実際には,幸せの「持続時間」が長いのは経験の方だ。だから誰かと比べるためにモノを買うより,行動力を上げて経験を積み重ねた方が,はるかに豊かに感じられるようになる。(p209)
 何かをやって失敗した後悔「やった後悔」よりも,行動できず「やらなかった後悔」の方が強く印象に残る。(中略)とすれば答えはひとつ。成功しようが失敗しようが,とにかく「やったもん勝ち」だ。(p221)
 ミニマムライフコスト,自分が生きていくために最低限必要な額を知れば,ものごとはもっとシンプルになる。(中略)ミニマリストに失う「モノ」はマジでない。だから楽観的に行動できるのだ。(p222)
 今はとにかく行動してみる。もはや効率なんてもうどうでもいい。(中略)早く目的地に行きたいと思えば,見切り発車が一番だったのだ。(p224)
 どんなモノでも大切に扱ってもらいたがっている。あなたがちゃんと相手にしてくれ,メッセージを受け入れてくれるのを,列をなして順番を待っているのだ。モノを増やせば増やすほど,それ列はどんどん長くなる。(p227)
 「めんどくさい」とは,ぼくはやるべきTODOリストが多すぎる状態,またはやるべき大事なことがあるのに雑事に阻まれてそれに辿りつけない状態だとぼくは考えている。(p227)
 大事なものに集中するためには,大事でないものを減らすしかない。(p229)
 ジョブズは,最小限に絞った最高の人材だけですべてを決めたがった。(中略)承認するハンコの数が増えれば増えるほど,アイデアはつまらなくなり,実現されるスピードも遅くなっていくとジョブズは考えていたのだ。(p230)
 モノを最小限にまで減らすには,本当に「必要」なモノだけを残すことが肝になる。単に「欲しい」だけのモノは持たない。モノを最小限にすると,自分の「欲望」の認識力が高まる。どこまでが「必要」なモノで,どこからが「欲しい」モノなのかはっきり判別できるようになる。これはモノだけでなく「食欲」も同様で,必要な食事の量がはっきり意識できるから,必要以上に食べないのだ。(p246)
 日本に住み続けるなら,地震対策としてモノを減らしておくことこそが,何よりの防災になるのではないだろうか。(p249)
 小さな家は犯罪を防ぐと言われている。(中略)モノを捨てれば,そんなメリットのある小さな家に住める。ありがたいことに,小さな家の方が今は安い。(p255)
 自分をただの「人」だと思うことで他の人への目線も変わった。「お金」「モノ」「才能」,それをたくさん持っている人に対して持っていた妬み,わずかしか持っていない人に対する微かな蔑み。かつてはあってそういう目線がなくなってきた。たくさん持っている人,輝くような才能のある人と会っても,自分を卑下することもなく「普通」に接することができるようになった。(p258)
 人には人に共感し,人に親切にすることで幸せを感じるアプリがそもそもインストールされている。(中略)こういう事実からすると,「善」「偽善」という区別は何の意味もなさなくなる。(p265)
 「いつか」必要になるかもしれないモノは必要になったそのときに手にすればいい。一度手放してみて,どうしても不都合があったり,必要なモノだったことがわかれば,改めてそのときに手に入れればいい。(p268)
 人に備わっている「慣れ」→「飽きる」というどうしようもない仕組みに対抗できるのは,唯一感謝だけだ。感謝だけが,今持っているモノをいつもと同じ「当たり前」でつまらないものと見なすことを防いでくれる。(p276)
 モノを減らすことによって,ついに悟りの境地に至るのだ。感謝こそ幸せなのだという境地に。
 ぼくはグルメの追求をもう卒業してしまった。(中略)食事に対する感謝の気持ちさえ忘れなければ,どんな食事が出てきても,食事に集中しつつ,ありがたくいただくことができる。(p278)
 心理学の実験では感謝する回数を多くする人ほど,幸福であることが知られているが,もはや当たり前だった。感謝自体が幸せだったのだから。(p280)