2016年11月28日月曜日

2016.11.28 番外:iPad超活用術2017 flick!特別編集

編者 村上琢太
発行所 枻出版社
発行年月日 2016.12.10
価格(税別) 722円

● 2月に出た『iPad超活用術』の第2弾。ぼくはアップル製品は使っていない。iPhone5Cをひと月かふた月使ったことがあったけど,それだけで終わった。
 これからも,おそらく,アップル製品を使うことはないんじゃないかと思っている。

● けれども,アップル製品を扱ったムックは買ってしまう。買わないでいることができない。なぁに,大したことが書いてあるわけじゃないんだよ。それもわかっている。でも,買ってしまう。
 職場にはアップルユーザーの同僚がいる。MacとiPad miniを使っているのに,スマホはAndroidというちょっと変わった人。
 この種のムックは読み終えたら,彼に差しあげることにしている。今回もその前提で購入した。

● ヘビーユーザーが何人も登場して,自分の使い方を語っている。iPadはいろんなことに使える。昔のMacintoshからそうだけど,アップルの製品はクリエイティブ系に支持される。
 iPad Proなんか典型的にそうだろうな。Apple Pencilで手書き入力ができる。絵も描ける。もともと音楽にも強い。

● その分,ぼくのような無芸大食にとっては,iPadは豚に真珠もいいところ。自分を卑下しすぎだろうか。
 実際はさ,このムックに登場しているような人は圧倒的に少数派で,ほとんどのiPadユーザーはiPadで何をしているかといえば,まずはゲーム,次にLINEやメールといったところで,クリエイティブとは関係のない使い方しかしていないはずだよ。だから,彼らにiPadも豚に真珠なわけですよ。

● いくつか転載。
 パソコンだとついつい饒舌になってしまうメールも,iPadならキーを打つのが若干面倒なので,大事なことをしっかりと伝えるようになる。(p7)
 これ,スマホも同じ。スマホやタブレットは,単体だと入力は苦手。でも,そこをポジティブに受けとめると,このような言い方になるんだねぇ。
 コンピュータでやることの大半は,昔は書類作成だった。(p8)
 そうだった,そうだった。インターネット以前のパソコンは,MS-Officeを使うためのものだった。ビジネスマンの傍らにあって,彼の仕事を手助けするためのツールだった。
 コミュニケーションに使うなんてあり得なかった。PIMソフトはあったけど,手帳代わりになるなどとは思いもよらなかった。
 今,手書きの価値が見直されています。でも,表現の場はどうしてもデジタルになる。iPadを使えば,両方の良いとこどりができる。(p30)
 外付けキーボードは持っていますが,ほとんど使いません。キーボードを使うのは集中して入力作業をしたい時ですよね。その作業はPCでやりたいんです。(p43)
 あ,これはよくわかる。ぼくも外付けキーボードは持っているけど,ほとんど使わない。なぜか。使いづらいからだ。キーの配列もパソコンとは違う。タイプミスが増える。
 けれども,たとえばThinkPadキーボードをBluetoothではなくUSB(有線)接続で使えば,どうなんだろうなぁ。やっぱりダメだろうね。接続するのが面倒だもんな。
 ファッション業界というのはあまりデジタル化が進んだ状態ではないのだそうだ。(中略)そんな中でiPadを駆使する五十嵐さんのやり方は異端。しかし異端だからこそ突出した便利さを生み出すことができる。(p45)

2016年11月27日日曜日

2016.11.27 吉田友和 『ハノイ発夜行バス,南下してホーチミン』

書名 ハノイ発夜行バス,南下してホーチミン
著者 吉田友和
発行所 幻冬舎文庫
発行年月日 2016.06.10
価格(税別) 580円

● 吉田友和さんの作品はほぼすべてを読んでいると思う。完全にすべてかどうかは自信がないが。今のところ,吉田さんと下川裕治さんのものは出れば読む。

● 吉田さんは淡々と行跡を記していく。下川裕治さんのように,その地の歴史や政治の変遷について調べて蘊蓄を語ることはしない。
 その場で感じたこと,考えたことを述べるんだけど,さほどに深く考えているふうでもない。少なくとも,文章からはそう感じる。
 のだけれども,不思議に面白い。なんなのかね,このテイストは。ノンポリの魅力とでもいうか。ノンポリでここまで読ませるのだとすると,文章が凄いのか。

● 吉田さんはカメラも好きなようで,本書の表紙も自身が撮った写真を使っている。腕前は相当なもの。
 
● 以下にいくつか転載。
 この国(ベトナム)の旅では,正直者が馬鹿を見ることがままある。タイやシンガポールなど,ほかの東南アジアの国々に比べると,まだまだ油断ならない瞬間も多い。(p28)
 旅をしていると,各地で日本人の旅行者にももちろん出会う。(中略)けれど,一緒になる旅人の傾向としては,女性だけのグループか女性の一人旅,あるいはカップルがほとんどである。たまたまなのかもしれないが,男性の一人旅というのはレアケースで,滅多に見られないのだ。(p42)
 アジアの大衆食堂のいいところは,安くてウマいだけでなく,早い点だ。(p92)
 怒りを通り越して,呆気に取られる。お金へ対する並々ならぬ執着心に閉口してしまう。別れ際だから揉めたくないとか,そういう発想は皆無らしい。(p117)
 基本的には善人を装いつつも,隙あらば果敢に攻めてくるこの感じ。いやはや,ベトナムの旅は油断ならない。(p118)
 ボートツァーの客引きから何度か声がかかった。といっても,あまりやる気はなさそうで,断るとそれっきり。しつこくつきまとったりはしない。 市場で商いをしていたのは女性だったが,こちらは男性である。市場のおばちゃんたちがアグレッシブなのと比べると,対照的だなぁと感じた。なんというか,どことなく勤労意欲に欠けるというか。(p128)
 ベトナムは朝ご飯が美味しい国だ。そして朝ご飯が美味しい国は,豊かな国だと思う。忙しい朝にもかかわらず,食べ物に妥協しない姿勢が立派ではないか。(p157)
 ベトナムの人たちはせっかちらしいと,この旅を通して僕は学習していた。とくにこういう移動のシーンになると,先を急ぎたがる傾向があるのだ。(p191)
 食べ終わってトイレに行こうとすると,運転手や車掌さんたちのテーブルの前を通りかかった。チラリと覗き見ると,テーブルの上には食い散らかしたお皿がズラリと並んでいた。「あんなに食べたのか・・・・・・」と絶句する。この短時間で食べるには,ちょっと過剰とも言えそうなほどの量に僕は度肝を抜かれた。(中略)ベトナムの人たちは早食いなのかもしれない。少なくとも,時間感覚が僕とは明らかに異なる。(p192)
 ベトナムのホテルが特別コストパフォーマンスが高いということも,今回の旅を通して実感させられたことの一つだった。安宿であっても,クオリティが高く,値段以上の内容という感想を何度も抱いた。(p195)
 いよいよベトナムも本格的に新時代へ突入しそうな予感を抱く。それは近隣諸国が通ってきた道でもある。変わりゆく街並みに置いていかれないように,旅人も進化していきたいところだ。アジア通いを続けるのならば,いつまでも懐古趣味にばかり浸ってはいられない。(p214)

2016年11月25日金曜日

2016.11.25 川上弘美 『神様2011』

書名 神様2011
著者 川上弘美
発行所 講談社
発行年月日 2011.09.20
価格(税別) 800円

● 川上弘美さんの作品を読むのは,この本が初めて。1993年に発表された『神様』に東日本大震災の原発事故を受けて,一部の文章を手直ししたのが『神様2011』。

● 『神様』の方が面白い。細かいディテールが流れるように自然だ。放射能の話が入ると,とってつけた感が混ざってしまう。

● 主人公が散歩に出て帰ってくる。それだけの話だ。ただし,一人じゃなくてお連れの方がいらっしゃる。そのお連れの方というのが,熊だ。動物の熊。
 この熊が主人公と同じアパートに住んでいる(マンションかもしれない)。どういうわけで主人公と知り合ったのか,そんなことは問題じゃない。
 要は,熊だけれども,人間と同じコミュニケーション能力を持っているのだ。日本語で語り合えるのだし,日本語で思考できるのだ。

● 廉直で誠実で控えめな熊だ。何かが起こりそうになると,自分の方からスッと身をかわしてしまうところがあるようだ。友だちがたくさんいるようには思えない。むしろ交友は得意じゃないようだ。
 孤独を愛するというのではないけれど(主人公を散歩に誘っているくらいだから),孤独を苦にしないタイプではあるようだ。宮澤賢治的というか。

● で,神様とはこの熊のことなんだろうか。熊は作者の分身でもあるんだろうか。

2016年11月23日水曜日

2016.11.23 東 浩紀 『弱いつながり』

書名 弱いつながり
著者 東 浩紀
発行所 幻冬舎
発行年月日 2014.07.25
価格(税別) 1,300円

● 本書は何を述べたいのか。冒頭に記されている。
 ひとが所属するコミュニティのなかの人間関係をより深め,固定し,そこから逃げ出せなくするメディアがネットです。(p5)
 とはいえ,ぼくたちはもうネットから離れられない。だとすれば,その統制から逸脱する方法はただひとつ。グーグルが予測できない言葉で検索することです。(p5)
 ぼくたちは環境に規定されています。「かけがえのない個人」などというものは存在しません。ぼくたちが考えること,思いつくこと,欲望することは,たいてい環境から予測可能なことでしかない。あなたは,あなたの環境から予想されるパラメータの集合でしかない。(p9)
 だからこそ,自分を変えるためには,環境を変えるしかない。人間は環境に抵抗することはできない。環境を改変することもできない。だとすれば環境を変える=移動するしかない。(p7)
● その移動とはつまり「旅」。時々は外国に逃げてリフレッシュしなさいよ。著者が言いたいのは,これだけなのではないか。
 情報技術革命によって情報へのアクセスは格段に上昇しました。しかし,検索エンジンにどういう言葉を打ち込めばいいのか,それを思いつくためには部屋に閉じこもってネットばかり見ているのではなく,身体を移動しないといけない。(p91)
● その他,いくつか転載。
 世の中の多くのひとは,リアルの人間関係は強くて,ネットはむしろ浅く広く弱い絆を作るのに向いていると考えている。でもこれは本当はまったく逆です。(p14)
 アライバルビザはバックパッカーに厳しかったんですね。こぎれいな格好をして,「いいホテルに泊まる」と言えば楽に取得できる。しかしそんな情報はネットには載っていない。バックパッカーしか,インドについて書いていないからです。(p26)
 ぼくが休暇で海外に行くことが多いのは,日本語に囲まれている生活から脱出しないと精神的に休まらないからです。頭がリセットされない。日本国内にいる限り,九州に行っても北海道に行っても,一歩コンビニに入れば並んでいる商品はみな同じ。書店に入っても,並んでいる本はみな同じ。その環境が息苦しい。(p31)
 ソーシャルネットワークは,基本的に無料だからお金のない若者がいっぱい集まってくる。有名人はそんな「お金のない若者」の人気を取らなければならない。結果,ある種の情報は隠すようになっている。(p33)
 ネットには情報が溢れているということになっているけど,ぜんぜんそんなことはないんです。むしろ重要な情報は見えない。なぜなら,ネットでは自分が見たいと思っているものしか見ることができないからです。そしてまた,みな自分が書きたいものしかネットに書かないからです。(p34)
 これはネットの特性ではない。ネット以前からそうだったわけだから。書店や図書館に並んでいる本からどれをピックアップするかを考えてみれば明らかだ。人間の特性というべきで,ネットに罪はないなぁ。
 たとえばパリに行く。「せっかくだから」とルーブル美術館に行く。近場の美術館にすら行かないひとでもそういうことをする。それでいい。美術愛好家でないと美術館に行ってはいけない,というほうがよほど窮屈です。(p52)
 検索とは一種の旅です。検索結果一覧を見るぼくたちの視線は,観光客の視線に似ていないでしょうか。(p54)
 彼(アナドリー・ハイダマカ)は,展示にはむしろ主観的な感情が入っているべきだと答えるのです。ハイダマカ氏は広島の平和記念資料館も訪れたらしいのですが,感情抜きの客観的な展示だけでは,出来事の記憶は伝わらないと言います。(p78)
 文書や写真や証言が残っていても,それはいくらでも,現在の価値観に都合のいいように再解釈できてしまう。人間にはそういう力がある。けれども解釈の力はモノには及ばない。歴史を残すには,そういうモノをのこすのがいちばんなのです。(p99)
 世界はいま急速に均質化しています。(中略)この変化を批判するひともいます。(中略)しかし,そもそも人間は,民族や歴史の差異にかかわらず,みな同じ身体をしている。となると,求めるものにそこまでバリエーションがあるわけでもない。その前提のうえで,商業施設や交通機関といったインフラのデザインが効率的なかたちに収斂していくのは,別に暴力でもなんでもなく,一種の必然のように思います。(p126)
 本当に新しいコンテンツ,本当にすばらしいコンテンツは,決してそのような消耗戦からは出てきません。「いまここ」の売り上げを最大にしようとすると,ひとはすぐ体力勝負に巻き込まれます。(p137)
 日本人は,会社や町内会など,自分が属している狭いコミュニティの人間関係を大切にしすぎていると思います。人間関係は少しおろそかにするぐらいがちょうどいい。(p145)
 人生そのものには失敗なんてないのです。だって,その成否を測る基準はどこにもないのですから。(p150)
 看板の最初の数文字が読めるだけでも意外と役立ちますし,文字がただの模様には見えなくなってくると,街の見えかたがぜんぜん違ってきます。(p152)
 旅先での写真をフェイスブックやツイッターにどしどし上げているひとがいます。きもちはわかりますが,あれでは旅の意味がない。(中略)フェイスブックやツイッターの視線を気にしているのでは,日常と変わりません。(p153)
 小学校や中学校の同級生がいつまでもフェイスブックやLINEのリストにあり続ける,というのがいまの現実でしょう。となると,あるていど意図的に関係を切る必要が出てきます。ぼくたちはいま,ネットのおかげで,断ち切ったはずのものにいつまでも付きまとわれるようになっている。(中略)旅はその絆を切断するチャンスです。(p155)

2016.11.23 古川 亨 『僕が伝えたかったこと,古川亨のパソコン秘史 1 アスキー時代』

書名 僕が伝えたかったこと,古川亨のパソコン秘史 1 アスキー時代
著者 古川 亨
発行所 インプレスR&D
発行年月日 2016.01.31
価格(税別) 1,850円

● 著者の古川さんは,小学生のときの知能テストでありえない数字を叩きだし,全国模試で2番になった(当時,小学生の全国模試なんてあったのか。ぼくはドが付くほどの田舎に住んでいたので,模試という言葉すら知らないで,小学生時代を通過した)。国立の附属中に進むと自他ともに思っていたところ,その受験に失敗し,麻布中に進学。
 これが最初の挫折体験だというんだから,常人離れしているね。

● 本書では著者がアスキーにいた頃の話が中心になる。当時のアスキーは,読者側から見ても,たしかに輝きがあった。
 ソフトバンクは野暮ったい感じがしたけれど,アスキーは都会的で洒落ているという印象だった。

● 当時のアスキーはこんなふうだった。
 お互いがリスペクトしていたので,僕もバイト君をバカにするようなことはしないし,バイト君もへりくだったりしない。それが心地よいから入り浸る。(中略)思えば,米マイクロソフトにもそういう雰囲気があった。そういう空気を作るには,社長室があって,社員がそこに報告に行くようではダメなのだ。(p48)
 第5世代コンピュータ開発でも使われていたDEC SYSTEM20は,当時日本に3台しかなかった。そんな高価な機材を買い,新入社員にも新しいことにチャレンジする機会を与えるというのがアスキーの文化だった。(p69)
 グーグルの20%ルールどころではない。80%は遊びのように仕事をする,それがアスキーの文化であった。経営者が,そこからひょっとして生まれるかもしれない,何か新しいものに期待していた。そんな自由な空気を求めて優秀な若者が集まり,半分遊びの中から,日本のパソコン史に残るような素晴らしい成果が次々と生まれていったのである。(p81)
 アスキーには,優れた人材を引きつける何かがあった。コンピュータ関係以外の,人事,営業,経理などにも逸材がいた。なんと,ある時期のアスキー全体の売上の半分を,一人で稼いでいたスゴ腕営業マンもいたという。(p120)
● ぼくはその世界には疎いし,パソコンを使い始めたのも遅い方だったと思う。が,それでも当時の空気は懐かしい。その懐かしさは共有できるような気がしている。
 他のバイト君は富士通のOASYSで原稿を書いていて,最初はOASYSからCP/M-86へファイル形式変換するコンバーターがあった。それも秋山さんが作ったものだった。(p54)
 試作機に触り始めたら,「おーっ」というどよめきが起きた。「どうしたんですか?」と聞くと,「古川さん,両手でキーボードが叩けるんですか?」と。当時は,タイプライター型のキーボードを叩けるエンジニアがいなかったのである。NECにも。(p85)
 そうだった。OASYSは文書作成マシンとしては,傑出していた。親指シフトキーボードが秀逸だった。あれが普及しなかったのは,いろんな理由があるんだろうけれど,少し残念な気がする。富士通のノートパソコン(FM-R)でも親指シフトキーボードを搭載したのはなかったんじゃなかったかなぁ。あったんだっけ?
 究極は,普及すべきではないから普及しなかったのだ,ということになってしまうのかもしれないけどね。かく申すぼくも,親指シフトかな入力から,ロマカナに変わったクチだ。
 OASYS文書をテキストファイルに変換するコンバーターは,OASYS自身が備えるようになった。ワープロ専用機からパソコンに移行するという兆しがはっきり出てきた頃だ。おかげでOASYS文書はすべてパソコンに移行できたんだけど。

● 著者は当時の若者たちにも優しい目線を送る。
 あの頃は若い小僧たちが,「将来なにかやりたいね」と言って自分たちで歴史を作っていった。アラン・ケイの言葉じゃないけれど,歴史の傍観者になったり批評家になったり予想家になったりするのではなくて,未来を自分たちで作るんだ,と燃えていた学生が一杯いた。(p83)
 当時の若者たちが今の若者たちよりしっかりしていたというのではない。時代がそういう若者を作っていた。そういう時代に巡り合わせた当時の若者たちは幸せだった。

● IBMが自社パソコンにCP/Mではなく,マイクロソフトのMS-DOSを採用した経緯については,いくつかの本で読んで,知ったつもりになっていた。最有力だったデジタルリサーチのゲーリー・キルドールがIBMとの交渉で大ボケをかましてくれたために,マイクロソフトが漁夫の利を得たのだ,と。
 それはそうなのだけれど,マイクロソフトもIBMがCP/Mを採用することを前提にしていたことを,本書で初めて知った。そのうえで,自社のBASICなどを売っていくという戦略だった。だから,マイクロソフトにしても,キルドールとIBMとの交渉が上手くいってくれないと困るのだった。
 ビル・ゲイツがデジタルリサーチの社長のゲーリー・キルドールに「相手の名前は言えないけれど,大事なお客さんがそちらに行くから,ちゃんと話してくれよ」と頼んだ当日に,キルドールは別のところに出張してしまい,会合を奥さんに任せてしまったのだ。(p163)
● その他,いくつか転載。
 事実として発生したある事象に対して,人はそれをどのように受け止めて語っていくかは,臨席した人の数だけでなく伝承していく人の数だけ,新しい事実が生まれていくと感じています。世の中で広まっている真実には,事実と異なることも多く,ある人の語る真実が都市伝説として人々の意識に定着してしまうことも多々あります。 本書の立場は,誰の語る真実は事実と異なり,私の語ることこそ,真実=事実です,という立場を取っていません。(p3)
 当時,各メーカーでパソコンを作っていたのは,従来のコンピュータ事業で活躍している主流の人たちではなかった。NECでは電子デバイス部門,松下電器に至ってはラジオ事業部であった。いわば,正統的コンピュータ部門ではない門外漢の人たちの活躍があった。(p80)
 当時の日本には,若い人たちのやることを温かく見守って,会社のプレッシャーから守ってくれるような人がいた。NECの戸坂さんや(中略)鈴木泰次さんなど,本当に懐が深かった。自分たちは何十年もコンピュータの世界で生きてきたのに,この新しい世界は若い人に全権を委ねた方がいいという采配をした。(p96)
 この頃,ビル・ゲイツにアドビを買ったらいいと勧めたが,彼は「コンピュータに二つ以上のフォントなんか必要ない」とけんもほろろだった。当時は,多様なフォントの必要性を理解していなかったのである。(p170)
 日本では,商品にして商売,という話になった途端に,大学の先生たちは「それは民間のやること」と言う。そんな下賤なことに予算は使えないとまで言う人もいある。アメリカのMBA教育などは違っていて,スタンフォードやハーバードの先生は,「基礎研究で最後に人の手に渡らない物は,世の中が必要としていない物なのでは」と言う。ともかく,「デプロイメントまで含めて見る人が本当のイノベーティブである」,という発想が必要なのである。(p177)
 何かを創り出す動機として,作ったものが売れて儲かるとか,学会で発表するとかが目的ではなくて,使っている人の笑顔が見たいという気持ちがすごく重要である。(p180)

2016年11月22日火曜日

2016.11.21 松宮義仁 『世界一受けたいソーシャルメディアの授業』

書名 世界一受けたいソーシャルメディアの授業
著者 松宮義仁
発行所 フォレスト出版
発行年月日 2012.03.14
価格(税別) 1,500円

● 訴求力のあるタイトル。テレビ番組から拝借してきたんだろうけど,テレビ番組のタイトルはさすがによく考えられているものが多いんでしょうね。

● 本書はソーシャルメディア(主にはフェイスブック)をビジネスに使いたいと考えている人に向けて書かれたもの。
 読む人が読めば,参考になるところがたくさんあるのだろう。もちろん,ビジネス抜きでフェイスブックを使いたいと思っている人にも,参考にできるところはたくさんあるだろう。

● 以下にいくつか転載。別の著書からすでに引いているものもあるけれど,かまわず転載。
 ソーシャルメディアを使っている以上,影響力を高める目標から逃れることはできません。なぜなら,友達とのやり取りだけの問題ではなく,影響力の弱い人はフェイスブックを完全に使い切ることはできないからです。(p6)
 総務省の情報流通インデックス統計というものがありますが,それによるとここ10年で情報量は約280倍も膨れ上がっています。そして,その99%の情報は処理されていないそうです。つまり,影響力の強い人の情報だけが収集され,共有されるのです。(p7)
 フェイスブックは「いいね!」というあくまでも「共感」の気持ちで押された1クリックを「クチコミ」に変える仕組みを実現してしまいました。これこそがフェイスブックが成功した最大のポイントだとあたしは考えています。(中略)「シェアされなくても情報が広がる」のがフェイスブックを使うメリットなのです。(p26)
 最初にやるべきことは,大きな輪に加わることではなくて,自分の輪を小さくても良いから作ることなのです。(p99)
 リアルとネットをつなげるのがソーシャルネットワークです。「ネットはバーチャル」なんて言葉は完全に古いと言わざるをえません。(中略)ネットで暴言など吐いていると,噂が巡り巡って会社の評判も落とすことになりますし,いきなり解雇なんて話も今後は続々と出てくるでしょう。(p104)
 情報が溢れかえっているソーシャル時代だからこそ,信頼できる人物からの情報というのが大いに役に立ちます。無駄な時間を使わないため,間違った情報に踊らされないためにも,ジャンルごとに信頼できる「キュレーター」を持つことはとても大切です。(p137)
 フェイスブックのソーシャルプラグインを使うと,「いいね!」ボタンや「コメント欄」を自分のブログにも設置することができ,ただのブログがあたかもフェイスブックと連動して一体化したようになります。(中略)中心となるブログにはソーシャルボタン,いわゆる「いいね!ボタン」「リツイートボタン」「+1ボタン」を設置しておくことがとても重要です。(p168)
 でもって,そのためにはワールドプレスのサービスを使うといいと痒い手が届く紹介も。 同じジャンルの本を10冊も読んで,しかも人に解説すれば,あなたのそのテーマに関する知識レベルは,恐らくセミプロ級ぐらいまでにはなっているでしょう。(p206)
 大事なことを1つつけ加えておきます。それが「リアルタイム感」です。そもそもソーシャルメディア自体がリアルタイムメディアであるので,あたり前の話ではあるのですが,ここは強く意識して「演出」していくことが大切です。(p210)
 ネットで陰口を叩いたり,ネガティブな発言をする人の活動時間帯は,だいたいが夜から夜中にかけてが多いです。(中略)夜遅くにフラフラしているから,変な人に遭遇してしまうのであって,主な活動時間帯を朝に変えるだけで,出会える人のレベルがまったく違ってきます。(p242)
● クラウトスコアというのがあるんだそうですね。
 あるコンサルタントの方が,ツイッターのフォロワーが10万人以上いると常々自慢していたのですが,クラウトの「True Reach」を確認してみると,実際には2000人程度にしか情報が届いていないことがわかってしまった,というようなことが起きています。(p68)
 自分の数値も調べることができる。ぼくは調べていない。調べるまでもないからね。

2016.11.20 成毛 眞 『情報の「捨て方」』

書名 情報の「捨て方」
著者 成毛 眞
発行所 角川新書
発行年月日 2015.05.10
価格(税別) 800円

● 副題は,「知的生産,私の方法」。この種の話題は,著者のこれまでの著書でも何度か触れられていた。
 が,その話題だけで1冊にしたのは,この新書が初めて。

● 本書の肝は巻頭(「はじめに」の見出し)に載っている。いわく「価値あることを考えるために,ムダ情報から徹底的に逃げよ」。

● だから,賢い人なら,この1行だけ読めばそれでよくて,本文は読まないで書店の本棚に戻してもかまわないのじゃないかと思う。
 とはいえ,本文も(読みものとして)面白い。

● 次にいくつかを転載しておく。
 前向きな大人たるもの,人と違う判断を下し行動を起こすため,人とは違う判断材料が必要です。極端な言い方をすれば,人とは違う判断材料を手に入れられる(そして手元に残せる)かどうかで,その判断の結果は見えているようなものです。(p21)
 10年前というと,それほど昔には感じられないかもしれませんが,「iPhone」の発売は2007年ですから,2005年にはまだスマホはありませんでした。隔世の感があります。10年前の“常識”で情報について語っていては,完全に時代遅れです。(p31)
 本やテレビで得た情報に対して「ここはどうなっているのだろう」と疑問を抱いてから,現地へ出掛けます。なので,私にとって出掛けた先は,答え合わせの現場です。(中略)答え合わせをしながら歩くのと,漫然と歩くのでは得られる情報量は天と地ほども違います。(p44)
 素人のブログは狭い視野の上に成り立つオピニオンの塊ばかりで,読むに値しないのです。(p48)
 私はベストセラー本は読みません。みんな,つまり大衆が読んでいるような本を読んでいたら,その大衆の中に埋もれてしまうからです。(中略)周りが「自分には関係ない」とスルーしている情報こそ,貪欲に求めていくことが重要なのです。(中略)自分に意外性を持たせることを意識するといってもいいかもしれません。自分の勤務先や肩書きとは,最も縁遠そうなところを攻めてみてはどうでしょうか。(p54)
 テレビは重要な情報源です。しかも,最近はテレビの視聴率は低下傾向とか。観ていない人が多いなら,観ることは周りに差を付けるチャンスです。なぜテレビが有用な情報源といえるのか。それは,テレビは「取材に大変な時間をかけている」からです。(中略)ただ,どんな番組でもネタの宝庫であるかというと,そうではありません。(中略)穴場はBSにあります。(p59)
 学校の外の社会には,学校の内部とは比べものにならない速度で,多彩な質の大量の情報が流通しています。仕事で役に立つような情報は,学校の外でしか手に入らないのです。(p63)
 とびきりの情報は,仲良くなった人からもたらされるというシンプルな事実は知っておくべきです。(p67)
 あまり積極的に摂取すべきでない情報があるのです。それは,自分からはアウトプットしたいとは思わないような情報です。(中略)自分で「出さない」(出す予定のない)情報は,最初から「入れない」のです。(p75)
 それでなくても人間は,聞きたいことだけを聞き,信じたいことだけを信じる動物です。「すごい! 知らなかった」と衝撃を受けた情報ほど,疑ってかかるくらいが,ちょうどいいと言えます。(p84)
 変化がゆるやかな店は,たいてい,長続きします。劇的な変化を繰り返す店は,すぐになくなってしまうことが多いようです。(p89)
 働くのに本当にふさわしい人かどうかは,たとえ面接をパスして入社したとしても,実際に働いてもらうまでは判断できません。これは断言できます。(p99)
 社会人がノートを使うのは,自分の頭に,そこに書いたことを入れるためではなく,入れないためです。忘れてはならないことを,脳の代わりにノートに記憶させるということです。(p104)
 「ネタ帳」に私がメモしているのは,いつか使うかもしれない情報そのものではなく,その情報にアクセスするためのキーワードです。つまり,情報そのものの記憶はインターネットに任せておき,その手がかりだけをファイルに記録していることになります。この手がかりとなるキーワードは多ければ多いほど,新たな情報を自分に引き寄せる機会が増えます。(p109)
 検索エンジンは便利なツールですが,これは,人の情報格差を広げるツールでもあります。ググるためのキーワードたくさん持っている人は,どんどん有益な情報を手に入れていきますが,何も持たない人は何も持たないままです。(p110)
 SNSなどでは実名か匿名かに関する議論があるようですが,私は実名一択。実名にすることで失われるものはほとんどない一方で,得られるものがあまりにも多いからです。(p117)
 実名のメリットはこの後にも具体的に登場する。Facebookで実名を出すことに慣れてきた人が多いのかもしれない。ぼくも最近は実名でやっている。
 ただし,実名でやると無責任なことを言わなくなるから,質の向上につながるという意見には必ずしも与しない。無責任な放言っていうのは,言わない人は匿名でも言わないし,言う人は実名でも言う。匿名なら言うけれども実名になると控える,という人はあまりいないように思える。
 1冊を読み終えてから次を読むのではなく,併読をするのです。その理由は,併読することで,別々の本に書かれている内容が,私の頭の中だけで融合します。すると,それぞれの本の著者が思いもしなかったようなアイデアが生まれることがある。(中略)仕事や家事も“並列処理”で進めると,新しい発見が得られると思います。(p119)
 公言すべきは,苦手なことばかりではありません。好きなこと,夢中になっていることも積極的に表明していくべきです。(中略)より深い情報を教えてもらえるからです。実際の知人に話すのはもちろんのこと,「Facebook」にも積極的に書き込んでいます。「Facebook」に,食べた料理やきれいな景色の写真を投稿するのが悪いとは言いませんが,誰かからの情報提供を得られるようなテーマの投げかけの場として活用することも,考えてみてはどうでしょうか。(p121)
 自分の頭で記憶できることには限りがあります。なので,これはという情報が手に入ったら,人に伝えてシェアすることで,他人の頭も記憶装置として拝借します。しかし,あまりそれをやりすぎると周囲に負担をかけるので,人に話す代わりに「Facebook」に書き込んでいるのです。(p148)
 私が「Facebook」に書くことの何割かは,他人に発表するための投稿ではありません。後ですぐ活用できるようにと,自分のために「書き留めている情報」だということです。(p149)
 社会人たるもの,笑いのないプレゼンだけは避けなくてはなりません。(中略)大勢の前で話をするときには,笑わせられるかどうかが,プレゼンの成功のカギを握るからです。(p152)
 教養とは実は,捨てたつもりで捨てていない情報のことだ,と私は考えています。(中略)教養は,時間をかけていろいろな食べ物を摂取してきたことで,体に備わった血肉のようなものです。おいそれとは構築できないし,だからこそ,捨てたつもりでも捨てきれません。(p165)
 旧石器時代の人類はなぜ,壁画を描こうと思ったのでしょうか。(中略)ひとつ考えられる答えに“単に楽しいから”があります。(中略)やっぱり,描くことは楽しいのだと思います。(中略)つまり,アウトプットは楽しいのです。壁画を描いていた人類と,壁画を描かなかった人類とでは,壁画を描いていた人類のほうがよほど楽しかったに違いありません。(p167)
 使わないことは,その存在を知らないことと同じです。そういうものがあると知っているだけでは無意味なのです。(中略)今後,新しいジャンルのデバイス,これまでになかったサービスが登場したときにも,真っ先にそれを試し,使い続けられるかどうか判断し,使い続けると決めたなら,どんどんアップデートしていくべきです。それが,情報を活用して生きていきたい人が最低限満たすべき条件です。(p173)
● 著者がiPhoneで使っているアプリもいくつか紹介されている。同じものか類似のものが,Androidにもあるだろう。
 惹かれたのは次の4つ。
 Captio メモした内容を自分宛にメールする専用ツール。
 Poet-it Plus ポストイットに書いたメモを撮影するためのもの。他の写真と混じることがないし,複数のメモをまとめて撮影しても,個々に認識してくれる。
 SmartNews ニュースキュレーションアプリ。
 Star Walk 2 空に掲げるとその方向にある星座や人工衛星を表示してくれる。

2016.11.20 アフロ編 『世界一の絶景を見る』

書名 世界一の絶景を見る
編者 アフロ
発行所 新人物往来社
発行年月日 2011.08.28
価格(税別) 1,600円

● 世界最大 自然編,世界最大 建造物編,世界最長,世界最古,世界最高,その他の世界一,の6章立て。世界最高というのは,最も高いという意味。

● 一番印象に残ったのは,イギリスのアイアンブリッジ。1779年にかけられた,世界最古の鉄橋。“産業革命の象徴”と言われている由。
 かつてのイギリスの底力のようなもの。今のイギリスは静かにフェイドアウトしつつあるように思われるが。

2016.11.19 『地球一周 空の旅』

書名 地球一周 空の旅
発行所 パイ インターナショナル
発行年月日 2011.05.16
価格(税別) 1,900円

● 副題は「上空から眺める55の絶景」。で,その副題どおりの本。

● ナスカの地上絵,ヴィクトリア滝,モロッコのマラケシュの街並み,万里の長城,など,有名すぎるスポットを空から眺めて,写真を撮り,それを1冊にまとめたもの。

● 上から俯瞰すると,全体を一望できる代わり,平板な印象になる。写真じゃなくて,ヘリコプターに乗りこんで現地で生を見れば,まったく違った印象になるんだろうけど。

2016.11.19 公文健太郎 『BANEPA ネパール邂逅の街』

書名 BANEPA ネパール邂逅の街
著者 公文健太郎
発行所 青弓社
発行年月日 2010.07.20
価格(税別) 3,400円

● これも写真集。この本が出た数年後に,ネパール大地震が発生した。今のBANEPAはどうなっているのか。

● ネパール人,目つきが悪い。いや,目線が強い。インド人の血が入っているのだろうな。皆が哲学者の風貌をしているが,目先をどう出し抜いて儲けてやろうか,としか考えていないんだろうな,たぶん。
 アーリア系ばかりじゃない。ネパールも人種のルツボなのだろう。モンゴル系,スラヴ系,いろんな顔立ちの人がいる。

● 通り(道路)に集まって繰り広げられる民衆の生活を写している。ほかに,産院の様子。今,産んだばかりと思われる女性の写真もある。どうやって撮ったんだろう。外でウンコしている男の子の写真も。可愛いといえば可愛い。
 総じて,ぼくらが懐かしいと感じる光景を切り取っている。

● 埃っぽいBANEPAの街は,創生間もない頃のアメリカの西部を思わせる。正確にいうと,昔の映画で描かれていたアメリカ西部の街。
 ひょっとしたら,その頃のアメリカの映画関係者は,BANEPAの街をモデルに舞台を作ったのかもしれない。って,そんなことはあり得ないわけだが。

2016.11.19 中川道夫 『上海双世紀1979−2009』

書名 上海双世紀1979−2009
著者 中川道夫
発行所 岩波書店
発行年月日 2010.02.24
価格(税別) 4,600円

● 写真集。1979−2009となれば30年にわたる。その間の上海の変貌は,世界の瞠目を集めるに足るものだろう。
 その間の変化を対比してみたいというのが,写真家の狙いかもしれない。

● この写真が撮られたのは,上海がどんどん変わっていった頃だろう。とはいえ,2016年の現在から見れば,充分に昔であるのかもしれない。
 この本にある上海は,すでに“記録”になっているのかも。

● 1980年代の上海は,まだ貧困が覆っていたように思える。どんどん高層ビルが建って,港が整備される。
 しかし,上海はどことなく荒涼としたたたずまいを見せる。都市の荒野とでも呼びたくなるような気配を感じる。

2016年11月20日日曜日

2016.11.19 山口正介 『正太郎の粋 瞳の洒脱』

書名 正太郎の粋 瞳の洒脱
著者 山口正介
発行所 講談社文庫
発行年月日 2013.12.13
価格(税別) 530円

● 池波正太郎と山口瞳の比較論というのか。あるいは,二人の共通点や相違点から渡世の勘所を炙りだそうとする試みか。著者は山口瞳の息子。

● 若い頃に,山口瞳の作品は全部読んだ。小説も,「週刊新潮」で超長期連載となったエッセイ「男性自身」も,紀行文や対談集も。
 池波さんの作品も食や旅に関するエッセイはだいぶ読んだ(小説は,じつはまったく読んでいない)。
 というわけで,少し懐かしくなって,本書を読んでみた。

● 「あとがき」で著者が二人の違いをまとめている。
 料亭なり旅館のお座敷に二人がいるとすれば,池波さんは旦那であり,瞳は幇間であったろう。池波さんはお座敷で,きちんと旦那として振る舞うことができたひとだ。(中略)瞳のスタンスは,お店の側から見て嫌は客は駄目ということであり,お店の人に嫌われるようなことは止めましょう,ということになる。(中略) これが池波さんの粋であり,瞳の洒脱であった。(p227)
● ほかにいくつか転載。
 座持ちがいいというのは我が家では評価が高いのだった。つまりお座敷には太鼓持ちが必要だという発想であった。(p25)
 池波さん流の旅にはもう一つ,一般の旅人とは大きく違うところがある。当てずっぽうに出かけた寂れた村落でさえ旅心を満喫出来るのは該博な知識があるからだ。「食堂一つない」と書く小さな港町に,栄光の時代があったのを知って歩くのと,知らないで通りすぎるのでは雲泥の差だ。やはり,なにごとにつけても勉強は必要だ。(p39)
 瞳も京都に好んで出かけたが,まず神社仏閣に立ち寄るということをしない。名所旧跡に興味がない。土地土地の美術館などにも寄らない。だいたい歴史というものが分かっていない。だから古刹の由来が分からない。分からないから面白くないので行かない,となる。(p43)
 池波さんは小さなときから癇性で,ということは潔癖病か,銭湯でも上がり湯で何度も身体を洗わないと気が済まない質だったという。これは瞳も同じであった。(p40)
 どうも瞳の発想には競馬でいえば連複(一着,二着を当てるが,その着順は問わない)や麻雀の両面待ちということが多く,別の言葉でいえば二股をかけてリスクを少なくして効果をあげるという発想になるらしい。(p109)
 瞳の場合は原稿用紙を前にしたときは全て,指定された原稿の枚数分の文章がすでに頭の中で出来上がっているようだ。最初の一文字から書き出して,最後の行の最後の升目にきちんと句点を書いて終わる。だから下書きをしないし,清書という作業もない。(p132)
 落ちたからといってガックリはしない。もう,すぐその日から仕事ができる。その考えでいかないと,時間というものがロスになってしまう。なぜというに,ぼくらと一緒に出て行った連中が,一回落ちると二年ぐらい書けないで,みすみす才能がある人がずいぶん討死をして,ついに世に出られなかった人が多いんだよ。(池波正太郎 p133)
 俳優は,見物席からでは想像もつかぬほどのスピードで頭上から降りて来る幕の彼方から湧き起る拍手に酔う。このとき,俳優の脳裡には脚本も演出もない,ただ,自分の演技への陶酔があるのみだ。それでよい。それが俳優の生甲斐なのである。(池波正太郎 p154)
 男のお洒落の中でも重要な時計,眼鏡,万年筆,ライターなどはどうなのだろうか。(中略)池波さんも,瞳も,この点に関しても禁欲的で実用一点張りである。というよりは男のお洒落は実用をもって旨とすべし,という堅い信念があるようだ。(p172)
 しかし,まずかったな,と言うのは一度だけ。こうしたとき,変にこだわったり悔やんだりすることはなかった。やってしまったことはやってしまったことです,という清さ潔さがあった。(p174)
 瞳の嗜好には,その母である静子の趣味について書かなければ理解できない一面がある。なにしろ静子は,篆刻家で陶芸家だが,美食でも有名な当代一の趣味人といわれた北大路魯山人と互角にやりあうとうひとだった。(中略)この母が一流を好んだ。お稽古事は最高の名人に習わなければ駄目だということで,本人も長唄は昭和の大名人と呼ばれた四世,吉住小三郎に師事し,彼の与えた最後の名取りとなる。 「ダンディズムとは,何でも手に入ってしまうひとが持つ虚しさ」という至言があるが,瞳のシニシズムとダンディズムにも同様なものを感じる。(p176)
 外食では単に食事をしているわけではない。職人の技術に対価を支払っているのだ。外食の贅沢とは,自宅ではおいそれと出来ない料理をいただくということなのだ。(p206)
 常連扱いから家族扱いになる,次第にお店の人との距離が縮まり,遠慮がなくなってくる。客が立て込んでくると,注文したものが後回しになったりする。そんなとき瞳は「この辺が引け時」と考える。つまり行かなくなる。いくら親しくなったとはいえ,客は客,である。そこには自ずから,越えてはいけない一線というのがあり,遠慮があるべきだ。(p206)
 あえて反論しないのも瞳流であった。“御派が違う”というような言い方をしていただろうか。考え方の基本が違うひとと話し合ってもしようがない,ということだろう。(p208)
 だいたいにおいて,寿司屋での立ち居振る舞いの礼儀作法というものには,すこしでも美味しいものを安く食べたいという下心が少なからずあるように思える。そこを“粋”というオブラート(これも死語だろうか)で上手くくるむところに妙味があるようだ。(p213)

2016.11.17 永江 朗 『誰がタブーをつくるのか?』

書名 誰がタブーをつくるのか?
著者 永江 朗
発行所 河出書房新社
発行年月日 2014.08.30
価格(税別) 1,400円

● 本書でいう「タブー」とは何か。著者による定義が与えられている。
 法的な根拠のない規制は,自主的な規制だ。マスメディアが自分で自分の手足を縛っている。そういう規制が存在するということをメディア自身が認めている規制もあれば,公式には認めていないものもある。ないことになっている規制だ。ないことになっている規制を「タブー」と呼ぼう。その規制について語ることさえ忌避されているような規制だ。(p31)
● 本書はいわゆる読みものだけれども,学術論文に仕立てることもできるだろう。該博な知識と検証が背後にある。フィールドワークもある。
 もっとも,学術論文に仕立てるなどというのは,あまり賢い人間がやるものではないだろうけど。

● 以下にいくつか転載。
 世の中がひとつの方向に進んでいるとき,それに異を唱える者は嫌われる。この「空気」に国家権力などが加わると,とても息苦しいことになる。(p16)
 雑誌にとってコンビニは重要な販売拠点である。雑誌によっては書店での販売数よりコンビニでの販売数が多いものもある。(中略)そう思って眺めると,世の中の雑誌にコンビニ批判の記事はほとんどない。コンビニはフランチャイズ・オーナーとその家族が過酷な労働を強いられるなど,問題も多いのだけど,それを批判する記事は週刊誌などでもめったに載らない。(p18)
 もしもわいせつ物が国民に深刻な悪影響を与えると本気で考えているなら,たとえITで取り残されようと経済的に孤立しようと,インターネットのアクセス制限をするだろう。それをしないということは,悪影響云々なんて行政だって信じていないのだ。信じていないのになぜ規制はあるのか。(p23)
 国家による規制であれ,民間企業の自主規制であれ,読者であるぼくたちの多くは日常的に規制を規制として意識していない,という現実がある。ぼくたちは息苦しさすら感じていない。自分たちはまったく自由だと思っている。(p23)
 官庁の情報ほど裏取りが必要ではないのか。東日本大震災と東電福島第一原発の事故で明らかになったのは,官庁の情報は油断ならないということだ。警察も含めて,役所・役人は,流す情報をコントロールすることで世論をコントロールしようとする傾向がある。それはもう,彼らの本能みたいなものかもしれない。民はこれに由らしむべし,これを知らしむべからず,というのはいつの時代も権力者とその手先の本音だ。官庁の発表情報を垂れ流すメディアは,役所・役人の道具になり下がっている。(p39)
 宗教がタブー扱いされるもうひとつの理由は,教団や信者たちの抗議の執拗さだ。たぶんこちらのほうが宗教タブーの本質だとぼくは思う。ようするに面倒なことになるのだ,新興宗教にかかわると。(中略)熱心な信者は疲れを知らない。しかも,こうした嫌がらせが信仰の証しであると信じている。(p58)
 「噂の真相」も記事で取次を取り上げたことがあるが,しかしそれは匿名座談会という形式の,しかも社内の不倫がどうこうという,ゴシップとも呼べない程度のものだった。岡留安則編集長に,この記事のつまらなさをなじると,「大手取次についてやれるのはこれが限界。これ以上のことはウチでも無理」と彼は苦笑した。(p80)
 このエピソードは「かもしれない」「かもしれない」の連続である。そして「かもしれない」が伝わり,時には尾ひれがつき,面白がると同時に我が身に降りかかりそうになると「面倒くさいからそういうことはやめよう」と考える。それこそがタブーのメカニズムだ。ここで重要なのは何があったのかという事実ではなく,「あったかもしれない」という憶測だ。(p86)
 本も雑誌も読まれなければその言論は伝わらない。言論は伝わってこそ初めて言論となる。「つくるのはご自由に。でも流通はさせません」では言論封殺と同じである。(p126)
 どうも,「見せたくない」という感情の正当化のために「有害だ」とされているように思える。「見せたくない」という感情は,他者の表現活動を制限するほど強い根拠を持つものなのかどうか,検討する必要がある。(p162)
 法律や条令による規制は,国家や自治体,政治家や法律家がぼくたちに無理やり押しつけるわけではない。新たな規制の背景には,規制を求めるぼくたちの声がある。タブーも規制も一方的,一面的なものではないのだ。(p188)
 ポルノグラフィーは国家によって規制され弾圧されているかのように見えながら,じつは規制されることで存在していた。ポルノグラフィーは規制に依存していた,国家に寄生していたと考えることもできる。その意味では,ポルノグラフィーは国家と対立しているように見せかけて,国家と共犯関係にあった。国家と一体となって,国民の欲望をコントロールし,それを貨幣に替えてきたのではないか。(p198)
 タブーへの侵犯にはスリルがある。それは背徳感ともいえるし,もっと生理的なものかもしれない。(中略)このときの快感はなんによってもたらされるのか。自分の生存を脅かすリスクによってではないのか。自動車が退屈になったのは,安全性が高まったからだ(p209)
 インターネット時代になって,タブー破りが簡単になるかと思いきや,かえって不自由になった。(中略)ブログにしてもツイッターにしても,いわゆる炎上という状況になる。(p214)
 匿名の大衆は常にタブーを求め,タブーを侵犯する者を監視し,侵犯する者を処罰しようとする。タブーとは我々大衆自身の欲望だ。(p215)

2016年11月13日日曜日

2016.11.12 角幡唯介 『探検家,40歳の事情』

書名 探検家,40歳の事情
著者 角幡唯介
発行所 文藝春秋
発行年月日 2016.10.20
価格(税別) 1,250円

● 『探検家,36歳の憂鬱』に続く,角幡さんの2冊目のエッセイ集。文章の才というのは,持って生まれたものなのかねぇ。平明達意の文章だ。
 角幡さんに言わせれば,バカ言うなよ,どんだけ苦労してると思ってんだよ,ってことでもあると思うんだけど,苦吟すれば誰でも書けるかというと,そういうものではないんだと思うんだよね。

● 歳をとったら,若い頃に読んで記憶に残っている小説やエッセイや対談集を再読して,余生を過ごそうと思ってたんだけど,これはできそうにない。
 次々に新しい作家が登場して,面白い作品を発表するからだ。それを読んでいくだけで手一杯で,昔読んだものを読み返すだけの時間は遺されていないように思えてきた。

● それとやはり時代の勢いというものがあって,30年前に読んで感激した作品を今読んでみても,ピンと来ないってところもあるのじゃないかと思う。思うっていうか,そういう経験をすでにしている。
 本は一回勝負。一度読んだら二度目はないというつもりで,時代の今に対峙(というと大げだだけど)すべきなのかなと思うようになった。

● 以下にいくつか転載。
 後悔する人生とは決断できなかった人生であり,後悔しない人生とは決断できた人生のことだ。重要なのは決断できたかどうか,自分の葛藤に主体的に決着をつけられたかどうかであり,どのような結果がおとずれるかはさして本質的ではないとさえいえる。だとすると決断すべきだ。(p9)
 極地の長期旅行において,一日五千キロカロリーという数字はかならずしも人体を健康的に保つには十分な熱量ではない。(p32)
 どこの親も自分は誰よりも育児に手を焼かされたと思いこんでいるので,親にとっての子供の思い出話というのは大体,わが子がいかに手に負えない腕白小僧だったかを語る傾向がある。(p46)
 登山や探検の場合は軽量化をはかるため,極端なことを言えば,これがないと死んでしまうという重要な装備しか持っていかない。だから途中での忘れ物は命にかかわる事態を招きかねない。(p51)
 失くした瞬間こそ死んだほうがいいんじゃないかと思うぐらい焦ったが,探しながら,まあ,どうにかかるか・・・・・・と気をとりなおしていた。立ち直りが早いのは私の唯一の取柄である。キャップがなくなったのなら代用品を作ればいい。(p57)
 七カ月もイヌイット村で生活していると,さすがに郷にいれば郷に従えじゃないが,否応なく彼らの食生活に同化していく。そもそも地元の人と同じ食事をしたほうが経済的に安上がりだ。(p75)
 肉を日々,生食していると身体にビタミンが補給されていることがじつによくわかる。(中略)それになんといっても肉は旨い。(p76)
 コウモリの煮込みはメチャクチャ旨い(味の素が存分に投入されていたので余計,旨かった)。(中略)あのコウモリの見たまんまの姿が味覚に転換されたらコレになるというしかない味で,じつに深みのある味だった。(中略)コウモリで一番旨いのは脳ミソだという。(中略)私も真似してお玉でコツコツ開頭してズルズルズルーっとすすったが,その旨いこと。ドロっと濃厚で,少し苦味のきいたコウモリ独特の味が生きている。(p95)
 一度,彼にトランプの神経衰弱のやり方を教えたことがあったが,彼らはつねに深い密林のなかで鳥やコウモリを追いかけているので,瞬間的な光景を空間的に把握する能力が発達しているのだろう,彼が一度,神経衰弱のルールを覚えると,それからはまったく歯が立たなかったことをよくおぼえている。(p133)
 なんのニオイもせず,清潔で,爽やかな笑顔をかわすこの人たちは,樹木や泥や土や雪や氷や濁流や炎といった万物の根源を形成する自然から切りはなされた世界に住んでいるのだ。そして自然から切りはなされているということは,すなわち自然がもたらす汚いもの,臭いもの,ドロドロしたもの,汚穢なもの,要するに生と死そのものからも切りはなされているのだ。世界の根源から去勢された,上辺だけの,浅薄な世界で,何も知らないまま生きている現代の都市生活者だち。(p140)
 原始人こそすべてを知る者だった。野生のなかで生き抜くために知恵をしぼり,創意工夫をこらし,大胆に,そして細心に行動し,命を連綿とつないだ彼等こそ,この世界の真実を知る者だった。(中略)彼らには自らの判断や行動によって自らの生と死すら決定するという究極の自由が存在していた。(p141)
 人間の生活から遠くへだたった世界。人間の痕跡が感じられない場所。そこにあるのは氷と風と太陽と太陽がつくる影だけだ。私は一匹のイヌとともにそこにいる。私が死んだらイヌは死ぬ。イヌが死んだら私も死ぬ。そのとき私とイヌとのあいだに引かれていたあらゆる区分や差異は消滅し,二つの生物種を規定する異なる概念に意味はなくなるだろう。そこにあるのは私とイヌがある種の契りをむすんでいること,ただそれだけだ。(p171)

2016年11月11日金曜日

2016.11.10 管 未里 『文具に恋して。』

書名 文具に恋して。
著者 管 未里
発行所 洋泉社
発行年月日 2016.10.07
価格(税別) 1,200円

● 著者は「文具ソムリエール」。文具雑誌やムックなどにも頻繁に登場していますね。
 文具ソムリエールとは何かといえば,「私が「あ,いいな」と感じた文房具をご紹介しているだけ,とも言えます。あえて特徴を探すならば,その「いいな」の内容に,機能性よりも見た目や手触り,音などの感性面が目立つことでしょうか」(p2)とのこと。

● 感性面? たとえば,次のようなことだ。
 そのとき,今まで聞いたことのない音がしたんです。箱の中で鉛筆どうしが当たる音でした。「カラカラ」というほど乾いてはおらず,でも「コンコン」というよりは軽やかな,独特としか言いようのない音です。私はその音にすっかり魅了されました。(p77)
 本来が実用品である文房具を感性で選ぶのは,なんだか変な話です。普通は感性よりも機能性が重視されると思います。 でも,実は感性にはとても大切な意味があります。人と人をつないでくれるからです。(中略)誰でも五感で世界を感じていますから,最初に他者に触れるのは五感のいずれかです。(p81)
 ノートや手帳の紙には繊維が粗いものと細かいものがありますが,私は粗いほうが好きです。それは,鉛筆の黒鉛が繊維の隙間に「入っていく」イメージが浮かぶからです。(中略)繊維が見えるような紙に6Bの鉛筆で字を書くと,ゾクゾクします。(p88)
 削り終えてふと紙の上を見ると,削りかすたちがなんともいえない,美しいカーブを描いていたんです。綺麗に向かれたリンゴの皮を,さらに複雑にしたようなカーブです。削りかすに魅力があるなんて,知りませんでした。(p94)
 実は鉛筆は,さらに別の魅力も秘めていました。それは香りです。(p97)
 文房具の特性のひとつは常に自分の視野に入るということですが,好きな色が見えていたら気分も変わりますよね。色は特に重要な要素です。(p112)
● その文具ソムリエールがお気に入りの文具をいくつか本書でも紹介している。
 私の脚が,ある諸ケースの前で止まります。そこには1本のシャープペンシルが飾られていました。(中略)トンボの「ZOOM707」。異色のデザインでした。私の目はくぎ付けになり,胸は高鳴りました。こんなに素敵なペンが世の中にあったなんて・・・・・・。それが初恋でした。(p17)
 アルバイトをはじめて真っ先に買ったのがモレスキンのノートです。(中略)興味を持ったきっかけは「どうしてこんなに高いんだろう」という驚きでした。(中略)でも同時に,素敵だとも思ったんです。(p23)
 パーカーに「ジョッター」という有名なボールペンがあります。ベーシックな「ジョッター フライター CT」が1620円で売られていますが,パーカーを象徴する矢羽クリップといい,飽きのこないデザインといい,価格以上の満足感を得られます。(p53)
 その日の主役が紙なのか筆記具なのかは,気分によって変わりますよね。筆記具の日なら紙には控え目でいてほしい。 控え目というと,たとえばコクヨの「キャンパスノート」はとっても優秀です。(p87)
 私が大好きなペンのひとつに,ぺんてるの「サインペン」があります。108円で買えるこのペンも,高級ペンに負けない魅力を秘めているんですよ。(中略)安価な文房具のいいところは他にもあって,それはデザインがシンプルなことです。サインペンもそう。凝ったデザインは好き嫌いが分かれますが,シンプルなら万人に好かれます。(p120)
 一般に男性のお客様は直線的,女性は曲線的なものを好まれますが,直線的であるしかないペンに,巧妙に曲線を馴染ませたのがカヴァリエです。(p129)
 ラッションプチは,寺西化学工業製品とは思えないくらい「不親切」なペンです。何が不親切って,ペンのどこにも日本語が見当たらないんですよ。(中略)それが,女子高生を惹きつける可愛いデザインになっているんです。(p153)
● 著者の人となりを示唆するエピソード。
 文房具のおかげでなんとか,思春期を乗り切ることができた(p16)
 大学時代の私の情熱の対象は文房具以外にもありました。ひとつは,『CanCam』『JJ』などの,いわゆる「赤文字系」ファッション誌です。(中略)モデルさんたちが使う文房具が気になったからです。(中略)そのうち,あることに気づきました。私が好きなストーリー仕立ての記事には,しばしば主人公たる女性のペットが登場します。面白いのは,そのペットの名前に「ココア」とか「モカ」とかカフェ関係が多いことです。私はペットの名前を追うことが楽しくなり「ペットの名付けと飼い主の性格特性」というテーマで卒論を書くことにしました。(p26) 
  これが卒論のテーマになるのか。社会学部? 文学部? 目からウロコ。卒論って楽しんじゃっていいものだったんだ。苦しみながら書くのは外道かもしれないね。ぼくは卒論って書いたことはないんだけどね。
  考え事が多い日は本を持たずにお風呂に入ることもありますが,手ぶらということはありません。お風呂で浮かぶアイデアって多いじゃないですか。シャンプー中は両手が泡だらけだからメモがとれないのでは,と心配なさる方もいらっしゃるかもしれませんが,不思議なことに,何か思いつくのは決まって湯船の中なんです。(p43)
● その他,いくつか転載。
 外国製ボールペンはインクが「硬い」傾向があり,ぎゅっと筆圧をかけて,かつ,それなりの筆記速度で書かなければインクの出がいまいち,ということがたびたび起こります。(p63)
 海外製ボールペンの書き味に違和感を覚える方向けに,サードパーティー製のリフィルアダプタが売られています(実は私も,モンブランの中身をそっとジェットストリームに替えています)。(p64)
 私の見る限り,ペンなら,ご自分用にお買い求めになる価格の上限がだいたい5千円くらいです。つまり5千円以上のペンは,他人から貰わない限り,自分のものになる機会がないんです。(p69)
 もっとも需要があるのは事務用品で,社員に文房具を配らなければいけない会社がまとめ買いをしてくれていたんですね。ところが2008年のリーマンショックにより,社員向けの文房具の需要ががくんと減ったといわれます。コストカットのためです。 会社からの受注が減ると,メーカーは今まで以上に個人にも目を向けるようになります。その結果,どの文房具もデザインを競うようになりました。(p108)
 女性の存在感は,文房具界では大きいんです。(中略)実は,「大口の顧客」には,女子高生もいました。(中略)女子高生ってカラーペンを大量に持っているじゃないですか。彼女たちは文房具界にとっての大切なお客様なのです。(p109)
 私はいつも思うんですが,文房具って趣味としてはコストパフォーマンスが抜群にいいと思うんですよ(万年筆は確かに高価ですが,文房具全体から見ると例外です)。(中略) 3千円でハイエンドに手が届くんです。普通,物の値段は「エントリークラス」「ミドルクラス」「ハイエンド」をいうふうに分かれていますが,ボールペンは二極化しています。ミドルクラスが極端に少ないんです。ハイエンドの価格が,それほど高くないせいでしょうか。(p116)
 筆記具は価格による機能差がないか,非常に小さいという,とても珍しい実用品です。(p125)
 男性のお客様がお買い求めになるペンの色は,だいたいが黒かシルバーに落ち着きます。(p138)
 「イエローベース」と「ブルーベース」という言葉を聞いたことがある女性は多いと思います。(中略)イエローベースの肌の方は,落ち着いた色のペンを選んでみてください。対して,ブルーベースの肌の方には,ビビッドな色が映えます。(p141)
 男性にとって永遠の定番といわれるのが,黒とゴールドの組み合わせです。ベーシックで,どんな場面にも馴染みます。でも私は,若いうちに買わなくてもいいと思うんです。この色は歳を重ねても似合う色ですから。若いうちは青系の色を楽しんでおくのがいいのではないでしょうか。(p146)
 歳を重ねた男性は恰好よさの「加点」を狙うよりも「減点」を減らしていくスタイルのほうがいいと思うんです。(中略)減点,つまりお腹が出ているとかズボンがヨレヨレだとかの「恰好悪い要素」を極力なくすだけです。(p148)
 20代や30代の女性では,白系や,白にゴールドのカラーをお買い求めになる方が多いですね。(p156)
 百貨店のスタッフの間ではよく知られているらしいことなんですが,お子さんがいるような歳の女性への贈り物は「華やかなものを選ぶべし」が大原則です。地味じゃダメなんです。(中略)真っ赤だと幼くなってしまいますから,原色ではなく少し深みのある,たとえばルビーレッドなどはいかがでしょう。(p157)
 ボールペンをご希望の場合,私ならば,この段階で3本のボールペンをお出しします。3本になるのは,あまりたくさん出してもお客様を混乱させるだけだからです。選択肢となる本数は,経験上3本が限界だと感じます。(p164)
● ぼくはダイスキン+Preppyの300円システムでやっているし,これからもそうであり続けるつもりだから,文具ソムリエールのお世話になるような高みに登ることもないと思う。
 だけど,文具好きあるいは文具フリークの話を聞くのは大好きだ。この本も面白く読みました。

2016年11月6日日曜日

2016.11.06 藤原智美 『スマホ断食』

書名 スマホ断食
著者 藤原智美
発行所 潮出版社
発行年月日 2016.07.20
価格(税別) 1,200円

● 副題は「ネット時代に異議があります」。藤原さんの著書を読むのは,『ネットで「つながる」ことの耐えられない軽さ』に続いて2冊目。
 1冊目のときは,SNSに手を染めていなかったけれども,今はスマホでSNSをやるようになっている。

● 中身を見ていこう。
 ネット社会とは「個が個を意識できる」,言葉をかえれば「あなたがあなただけでいられる」時間を剥奪する社会です。(中略)自己の内面の深みに達するような思考が非常に難しい世界です。(p15)
 ネット以前は,今よりも自分だけでいられる時間を享受していただろうか。ぼく一個に関していうと,そうだとは言い難い。
 著作権とは,権利の保護だけでなく,その作品に対しての責任が明確にされるという意味もあるのです。しかしネット上に存在する情報の多くには実名がない。いったいどこの誰の発言なのか,誰がつくった画像や映像なのか実態がよく分からない。(p68)
 フェイスブックもいつまで実名主義でいるかわからない,とも指摘している。それはそうなのだろう。しかし,実名がないのはじつはマスメディアも同じなのではないか。
 個人の責任を明記しての意見表明は,雑誌と書籍に限られていた。そして,雑誌や書籍は今と同様に,昔もさほどに読まれるものではなかった。
 私たちは日常的にネット上でいろいろな情報を発信していますが,一つひとつは相手や仲間に知られても心配ないものです。しかしバラバラに点在するその情報が誰かによって収集され体系的に統合されたとき,そこから思わぬ秘密が露呈することもあります。(p164)
 手元のスマホはあなたの望み通りに働く従順な道具ではありません。スマホがあなたをプロファイリングによって評価し,いつのまにか操っているということもありえます。スマホの画面を覗いているあなたは同時に,知らない誰かによって覗かれているのです。(p170)
 たしかにそうだろう。しかし,だから何だというのかとも思う。ぼくなんかは自分のかなりの部分をネットに晒しているので,年齢,家族構成の変遷,居住形態(持ち家か貸家かなど)の変遷,興味のありか,性格,職業,食べものの好き嫌いなど,すべてが知られうる。おそらく,年収だってかなりの確度で推測可能だろう。
 しかし,そんなものを知ってどうするのか。知りたければ知るがいいが,知ったところで実益はあるまい。

 その前に,電話帳がネットに上がっていたりするわけだから,自分の住所や電話番号は知られているのだ。実名でネットに発言するということは,それに対して見も知らぬ人からの反発を電話で受けることもあり得るということだ。覚悟のうえだ。
 とはいっても,そんなことをされるようなことは言っていないと思うんだけどね。

 これってSNSやネットだけでなく,クレジットカードや各種ポイントカードからだって,覗かれていることに変わりはない。
 たとえば,ぼくの相方はJALカードをこよなく偏愛してて,スーパーでの買いものから病院の支払まで,すべてJALカードを使っている。マイルの魅力にはあらがえない。となれば,購買履歴も健康状態も,そのほぼすべてをカード会社に把握されていることになる。
 この情報は,おそらく売買の対象になっているに違いない。情報が社外に流出したと騒ぎになることが時にあるけれども,騒ぎにならない情報流出がないわけないだろ,と思う。
 SNSでは,他人に自分のメッセージが受け入れられるということが最も重要なことであり,そのためにはリツイートされたり,ネット上の仲間を介してさらに多くの人に広がるということが目標になります。だから,メッセージの内容はなるべく人目をひくようなもので,しかもとぎれることなく送りつづけなければならない。しかし毎日発信するメッセージなのだから,そんなに価値の高い,有益な内容をつくることは不可能です。勢い,中身は他愛ない,ばかげたものが多くなる。(p69)
 さらに問題なのは「いいね」クリックです。これをたくさんとるには,誰にも分かりやすい,そして平均的な価値観や感覚からはずれないメッセージでなければならない。ユニークで独創的な,あるいはクリティカル(批判的)な主張などは敬遠されます。(中略)このようにSNSを主戦場として言葉をくりだすうちに,他者の視線に合わせるように自分の思考そのものが,実に平均的で奥行きの欠けたつまらないものに変化していく。(p195)
 そのとおりかなぁ。特にフェイスブックにそれを感じる。大半は仲間内でどうでもいい情報のやり取りをしている。
 だいたい,ツイッターと違って140文字の制限を受けないのに,140字を超える投稿がほとんどない。ので,最近はフェイスブックからは足を洗いつつある。
 でも,ツイッターにはユニークや独創的やクリティカルも存在しているのじゃないか。大論はないけれども。
 書き言葉は少しずつ蓄積されていくのですが,ネット言葉は「流れ」のなかにあります。(中略)書き言葉が「私」の中に掘られた井戸に溜まっていくとすれば,ネット言葉は「皆」の間を川のように流れていく。SNSで発信した言葉は,一年もたてば記憶に残っていることはまずありません。(p199)
 たしかに。でも紙の日記帳に書いたことでも,1年もたてばたいてい忘れているだろうよ。

● その他にもいくつか転載。
 学校でも最近は個性という言葉が以前ほどきかれなくなった。代わりに,絆,つながりが重視されます。祭りにおける群衆,学校における集団,あらゆる場所で個から集団へのシフトが進んでいます。(p17)
 人は外部からの情報や刺激が減るほど,さまざまな考えが浮かび,それを消し去ることはなかなかできない。だからただ座ること,座禅が修行になるのです、(p25)
 ものいわぬモノもメッセージを発していて,常に人を新しい消費へと駆り立てます。よほどの片づけ魔でもないかぎり,その人の部屋には,衣服がうんざりするほどのメッセージがあふれているはずです。衣類を捨ててすっきりするというのは,このメッセージを切り捨てるということ。情報の整理整頓です。(p41)
 人間が処理できる情報には量的な限界があります。私たちが暮らしの中で受けとる情報量はその限界値をとっくに超えています。しかし情報をデジタル化すればとりあえずストックして目の前からモノを消すことができる。(中略)「ぼくらはスマホで何でもできる」(『ぼくたちに,もうモノは必要ない』) そう,実はミニマリストとはモノに占有された暮らしからの離脱者であり,スマホを信奉する情報主義者でもあるのです、(p44)
 ネットでは「ミスよりのろまのほうが悪」といわれます。多少の間違いより,ともかくすぐに発信することが正しい,という考え方です。(中略)しかし,私たちにとっての言葉というものは思考そのものです。(中略)スピードが最優先されるネットでは,熟考する,内省する,深く考えるという,言葉による人間的な営為がないがしろにされているのではないか。(p76)
 いくら記録しても自分の中に記憶されていない言葉は,物事を発想したり考えたりするときには役立ちません。それは「私は三〇〇〇冊の本を持っている。だから頭がいい」と威張っている愚かな人にたとえられるでしょう。(p183)
 SNSが「個」の発信ではなく,結果として「集団」への従属を促進する装置のように見えるからです。「私」を伝えているように見えながら,実は「皆」に溶けこむために発信されている言葉,それによって組み立てられるのが,SNS思考です。(p200)

2016年11月5日土曜日

2016.11.05 番外:monmiya 2016.11月号-栃木のラーメン食べたい

発行所 新朝プレス
発行年月日 2016.10.25
価格(税別) 352円

● カレーとラーメンは,カレーでありラーメンであるというだけで旨い。厳密にいえばそうではないけれども,大きくは外れないものだと思う。
 この2つが日本人の2大国民食ではなかろうか。

● 外で食べるものとなると,圧倒的にラーメンだな。長く海外にいた人が帰国してまず何を食べるかというと,多くの場合,ラーメンになるらしい。
 その分,お店の数も膨大にある。しかも栄枯盛衰が速い。したがって,ラーメン店のガイドブックは永遠に不滅だ。

● この雑誌にも多くのお店が紹介されているけれど,新しくできたばかりっていうのもけっこうあるんじゃなかろうか。
 ぼくがしばしば行く店は2つあるんだけれども,どちらも載っていない。載せてくれなくてもいいよっていう店主もいるだろうしね。

● 自分が行く店がガイドブックに載っていないというのも,なかなか乙なものだね。結局,こうしたものは,こういう店があるのか,ほほぅ,と眺めるためにある。
 では,ここに行ってみようか,とはなかなかならない。その背中を押すのに効果があるのは,ガイドブックではなくて口コミ情報になるわけだよね。

2016.11.03 武田友宏編 『方丈記(全)』

書名 方丈記(全)
編者 武田友宏
発行所 角川ソフィア文庫
発行年月日 2007.06.25
価格(税別) 590円

● 行く河の流れは絶えずして・・・・・・,という「方丈記」の冒頭の部分は,たぶん知らない人はいないほどに人口に膾炙していると思う。が,その先は知らない人が多い。
 ぼくもその中の一人。で,今回,この文庫を読むことによって,その蒙が啓かれた。

● 何とも凄まじい時代だった。火災,飢饉,地震など度重なる天災で,都でも餓死する人が引きも切らず。死臭が都大路をも覆った時代。
 公家政権はなす術がない。たぶん,加持祈祷くらいはやったんだろうけど。まさしく,政治は祭事だった。
 武士(平氏)が台頭してくる時期でもあるのだが,これでは政治構造に地殻変動が起こるのも当然かと思われた。

● いくつか転載。
 人皆あぢきなきことを述べて,いささか心の濁りもうすらぐと見えしかど,月日かさなり,年経にし後は,ことばにかけて言い出づる人だになし。(地震(元暦の大地震)直後のしばらくは,だれもかれも,天災に対していかに人間が無力であるかを語り合い,少しは欲望や邪念といった心の濁りも薄らいだように見えた。だが,月日が経ち,何年か過ぎてしまうと,震災から得た無常の体験などすっかり忘れ果て,話題に取り上げる人さえいなくなった)(p88)
 それが人間というもので,そこを責めても仕方がない。今度の東日本大震災でも同じことだろう。こういう部分で人間は賢くなれない。
 永江朗さんが『51歳からの読書術』で,「『日本の歴史』と『世界の歴史』を読んでみて思ったのは,日本の歴史,人類の歴史というのは愚行の繰り返しだということ。人間はちっとも進歩していない。いつも下らないことで争い,つまらないことで人を殺す。(中略)歴史の本を読んでいると絶望的な気持ちになる」と述べている。そういうことなのだろう。
 (長明の方丈は)一見質素に見えるが,意外や大工に特注した高級な部材なのではないか。資産家の一員である長明ならばありうる。なにしろ後鳥羽院に琵琶を献上するほど裕福だった。(p110)
 歌人としても音楽家としても一流だった彼は,ついに風雅の道を捨てることはできなかった。彼は仏者である前に,風雅の人「数奇者」だった。(p115)
 ただ,我が身を奴婢とするにはしかず。いかが奴婢とするならば,もし,なすべきことあれば,すなわち,おのが身を使ふ。たゆからずしもあらねど,人を随へ,人を顧みるより安し。(p137)
 住む環境は危険な都心から郊外に移しながら,情報環境はしっかり都に残している(p145)