2016年11月23日水曜日

2016.11.23 古川 亨 『僕が伝えたかったこと,古川亨のパソコン秘史 1 アスキー時代』

書名 僕が伝えたかったこと,古川亨のパソコン秘史 1 アスキー時代
著者 古川 亨
発行所 インプレスR&D
発行年月日 2016.01.31
価格(税別) 1,850円

● 著者の古川さんは,小学生のときの知能テストでありえない数字を叩きだし,全国模試で2番になった(当時,小学生の全国模試なんてあったのか。ぼくはドが付くほどの田舎に住んでいたので,模試という言葉すら知らないで,小学生時代を通過した)。国立の附属中に進むと自他ともに思っていたところ,その受験に失敗し,麻布中に進学。
 これが最初の挫折体験だというんだから,常人離れしているね。

● 本書では著者がアスキーにいた頃の話が中心になる。当時のアスキーは,読者側から見ても,たしかに輝きがあった。
 ソフトバンクは野暮ったい感じがしたけれど,アスキーは都会的で洒落ているという印象だった。

● 当時のアスキーはこんなふうだった。
 お互いがリスペクトしていたので,僕もバイト君をバカにするようなことはしないし,バイト君もへりくだったりしない。それが心地よいから入り浸る。(中略)思えば,米マイクロソフトにもそういう雰囲気があった。そういう空気を作るには,社長室があって,社員がそこに報告に行くようではダメなのだ。(p48)
 第5世代コンピュータ開発でも使われていたDEC SYSTEM20は,当時日本に3台しかなかった。そんな高価な機材を買い,新入社員にも新しいことにチャレンジする機会を与えるというのがアスキーの文化だった。(p69)
 グーグルの20%ルールどころではない。80%は遊びのように仕事をする,それがアスキーの文化であった。経営者が,そこからひょっとして生まれるかもしれない,何か新しいものに期待していた。そんな自由な空気を求めて優秀な若者が集まり,半分遊びの中から,日本のパソコン史に残るような素晴らしい成果が次々と生まれていったのである。(p81)
 アスキーには,優れた人材を引きつける何かがあった。コンピュータ関係以外の,人事,営業,経理などにも逸材がいた。なんと,ある時期のアスキー全体の売上の半分を,一人で稼いでいたスゴ腕営業マンもいたという。(p120)
● ぼくはその世界には疎いし,パソコンを使い始めたのも遅い方だったと思う。が,それでも当時の空気は懐かしい。その懐かしさは共有できるような気がしている。
 他のバイト君は富士通のOASYSで原稿を書いていて,最初はOASYSからCP/M-86へファイル形式変換するコンバーターがあった。それも秋山さんが作ったものだった。(p54)
 試作機に触り始めたら,「おーっ」というどよめきが起きた。「どうしたんですか?」と聞くと,「古川さん,両手でキーボードが叩けるんですか?」と。当時は,タイプライター型のキーボードを叩けるエンジニアがいなかったのである。NECにも。(p85)
 そうだった。OASYSは文書作成マシンとしては,傑出していた。親指シフトキーボードが秀逸だった。あれが普及しなかったのは,いろんな理由があるんだろうけれど,少し残念な気がする。富士通のノートパソコン(FM-R)でも親指シフトキーボードを搭載したのはなかったんじゃなかったかなぁ。あったんだっけ?
 究極は,普及すべきではないから普及しなかったのだ,ということになってしまうのかもしれないけどね。かく申すぼくも,親指シフトかな入力から,ロマカナに変わったクチだ。
 OASYS文書をテキストファイルに変換するコンバーターは,OASYS自身が備えるようになった。ワープロ専用機からパソコンに移行するという兆しがはっきり出てきた頃だ。おかげでOASYS文書はすべてパソコンに移行できたんだけど。

● 著者は当時の若者たちにも優しい目線を送る。
 あの頃は若い小僧たちが,「将来なにかやりたいね」と言って自分たちで歴史を作っていった。アラン・ケイの言葉じゃないけれど,歴史の傍観者になったり批評家になったり予想家になったりするのではなくて,未来を自分たちで作るんだ,と燃えていた学生が一杯いた。(p83)
 当時の若者たちが今の若者たちよりしっかりしていたというのではない。時代がそういう若者を作っていた。そういう時代に巡り合わせた当時の若者たちは幸せだった。

● IBMが自社パソコンにCP/Mではなく,マイクロソフトのMS-DOSを採用した経緯については,いくつかの本で読んで,知ったつもりになっていた。最有力だったデジタルリサーチのゲーリー・キルドールがIBMとの交渉で大ボケをかましてくれたために,マイクロソフトが漁夫の利を得たのだ,と。
 それはそうなのだけれど,マイクロソフトもIBMがCP/Mを採用することを前提にしていたことを,本書で初めて知った。そのうえで,自社のBASICなどを売っていくという戦略だった。だから,マイクロソフトにしても,キルドールとIBMとの交渉が上手くいってくれないと困るのだった。
 ビル・ゲイツがデジタルリサーチの社長のゲーリー・キルドールに「相手の名前は言えないけれど,大事なお客さんがそちらに行くから,ちゃんと話してくれよ」と頼んだ当日に,キルドールは別のところに出張してしまい,会合を奥さんに任せてしまったのだ。(p163)
● その他,いくつか転載。
 事実として発生したある事象に対して,人はそれをどのように受け止めて語っていくかは,臨席した人の数だけでなく伝承していく人の数だけ,新しい事実が生まれていくと感じています。世の中で広まっている真実には,事実と異なることも多く,ある人の語る真実が都市伝説として人々の意識に定着してしまうことも多々あります。 本書の立場は,誰の語る真実は事実と異なり,私の語ることこそ,真実=事実です,という立場を取っていません。(p3)
 当時,各メーカーでパソコンを作っていたのは,従来のコンピュータ事業で活躍している主流の人たちではなかった。NECでは電子デバイス部門,松下電器に至ってはラジオ事業部であった。いわば,正統的コンピュータ部門ではない門外漢の人たちの活躍があった。(p80)
 当時の日本には,若い人たちのやることを温かく見守って,会社のプレッシャーから守ってくれるような人がいた。NECの戸坂さんや(中略)鈴木泰次さんなど,本当に懐が深かった。自分たちは何十年もコンピュータの世界で生きてきたのに,この新しい世界は若い人に全権を委ねた方がいいという采配をした。(p96)
 この頃,ビル・ゲイツにアドビを買ったらいいと勧めたが,彼は「コンピュータに二つ以上のフォントなんか必要ない」とけんもほろろだった。当時は,多様なフォントの必要性を理解していなかったのである。(p170)
 日本では,商品にして商売,という話になった途端に,大学の先生たちは「それは民間のやること」と言う。そんな下賤なことに予算は使えないとまで言う人もいある。アメリカのMBA教育などは違っていて,スタンフォードやハーバードの先生は,「基礎研究で最後に人の手に渡らない物は,世の中が必要としていない物なのでは」と言う。ともかく,「デプロイメントまで含めて見る人が本当のイノベーティブである」,という発想が必要なのである。(p177)
 何かを創り出す動機として,作ったものが売れて儲かるとか,学会で発表するとかが目的ではなくて,使っている人の笑顔が見たいという気持ちがすごく重要である。(p180)

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