2016年11月20日日曜日

2016.11.17 永江 朗 『誰がタブーをつくるのか?』

書名 誰がタブーをつくるのか?
著者 永江 朗
発行所 河出書房新社
発行年月日 2014.08.30
価格(税別) 1,400円

● 本書でいう「タブー」とは何か。著者による定義が与えられている。
 法的な根拠のない規制は,自主的な規制だ。マスメディアが自分で自分の手足を縛っている。そういう規制が存在するということをメディア自身が認めている規制もあれば,公式には認めていないものもある。ないことになっている規制だ。ないことになっている規制を「タブー」と呼ぼう。その規制について語ることさえ忌避されているような規制だ。(p31)
● 本書はいわゆる読みものだけれども,学術論文に仕立てることもできるだろう。該博な知識と検証が背後にある。フィールドワークもある。
 もっとも,学術論文に仕立てるなどというのは,あまり賢い人間がやるものではないだろうけど。

● 以下にいくつか転載。
 世の中がひとつの方向に進んでいるとき,それに異を唱える者は嫌われる。この「空気」に国家権力などが加わると,とても息苦しいことになる。(p16)
 雑誌にとってコンビニは重要な販売拠点である。雑誌によっては書店での販売数よりコンビニでの販売数が多いものもある。(中略)そう思って眺めると,世の中の雑誌にコンビニ批判の記事はほとんどない。コンビニはフランチャイズ・オーナーとその家族が過酷な労働を強いられるなど,問題も多いのだけど,それを批判する記事は週刊誌などでもめったに載らない。(p18)
 もしもわいせつ物が国民に深刻な悪影響を与えると本気で考えているなら,たとえITで取り残されようと経済的に孤立しようと,インターネットのアクセス制限をするだろう。それをしないということは,悪影響云々なんて行政だって信じていないのだ。信じていないのになぜ規制はあるのか。(p23)
 国家による規制であれ,民間企業の自主規制であれ,読者であるぼくたちの多くは日常的に規制を規制として意識していない,という現実がある。ぼくたちは息苦しさすら感じていない。自分たちはまったく自由だと思っている。(p23)
 官庁の情報ほど裏取りが必要ではないのか。東日本大震災と東電福島第一原発の事故で明らかになったのは,官庁の情報は油断ならないということだ。警察も含めて,役所・役人は,流す情報をコントロールすることで世論をコントロールしようとする傾向がある。それはもう,彼らの本能みたいなものかもしれない。民はこれに由らしむべし,これを知らしむべからず,というのはいつの時代も権力者とその手先の本音だ。官庁の発表情報を垂れ流すメディアは,役所・役人の道具になり下がっている。(p39)
 宗教がタブー扱いされるもうひとつの理由は,教団や信者たちの抗議の執拗さだ。たぶんこちらのほうが宗教タブーの本質だとぼくは思う。ようするに面倒なことになるのだ,新興宗教にかかわると。(中略)熱心な信者は疲れを知らない。しかも,こうした嫌がらせが信仰の証しであると信じている。(p58)
 「噂の真相」も記事で取次を取り上げたことがあるが,しかしそれは匿名座談会という形式の,しかも社内の不倫がどうこうという,ゴシップとも呼べない程度のものだった。岡留安則編集長に,この記事のつまらなさをなじると,「大手取次についてやれるのはこれが限界。これ以上のことはウチでも無理」と彼は苦笑した。(p80)
 このエピソードは「かもしれない」「かもしれない」の連続である。そして「かもしれない」が伝わり,時には尾ひれがつき,面白がると同時に我が身に降りかかりそうになると「面倒くさいからそういうことはやめよう」と考える。それこそがタブーのメカニズムだ。ここで重要なのは何があったのかという事実ではなく,「あったかもしれない」という憶測だ。(p86)
 本も雑誌も読まれなければその言論は伝わらない。言論は伝わってこそ初めて言論となる。「つくるのはご自由に。でも流通はさせません」では言論封殺と同じである。(p126)
 どうも,「見せたくない」という感情の正当化のために「有害だ」とされているように思える。「見せたくない」という感情は,他者の表現活動を制限するほど強い根拠を持つものなのかどうか,検討する必要がある。(p162)
 法律や条令による規制は,国家や自治体,政治家や法律家がぼくたちに無理やり押しつけるわけではない。新たな規制の背景には,規制を求めるぼくたちの声がある。タブーも規制も一方的,一面的なものではないのだ。(p188)
 ポルノグラフィーは国家によって規制され弾圧されているかのように見えながら,じつは規制されることで存在していた。ポルノグラフィーは規制に依存していた,国家に寄生していたと考えることもできる。その意味では,ポルノグラフィーは国家と対立しているように見せかけて,国家と共犯関係にあった。国家と一体となって,国民の欲望をコントロールし,それを貨幣に替えてきたのではないか。(p198)
 タブーへの侵犯にはスリルがある。それは背徳感ともいえるし,もっと生理的なものかもしれない。(中略)このときの快感はなんによってもたらされるのか。自分の生存を脅かすリスクによってではないのか。自動車が退屈になったのは,安全性が高まったからだ(p209)
 インターネット時代になって,タブー破りが簡単になるかと思いきや,かえって不自由になった。(中略)ブログにしてもツイッターにしても,いわゆる炎上という状況になる。(p214)
 匿名の大衆は常にタブーを求め,タブーを侵犯する者を監視し,侵犯する者を処罰しようとする。タブーとは我々大衆自身の欲望だ。(p215)

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