2016年11月6日日曜日

2016.11.06 藤原智美 『スマホ断食』

書名 スマホ断食
著者 藤原智美
発行所 潮出版社
発行年月日 2016.07.20
価格(税別) 1,200円

● 副題は「ネット時代に異議があります」。藤原さんの著書を読むのは,『ネットで「つながる」ことの耐えられない軽さ』に続いて2冊目。
 1冊目のときは,SNSに手を染めていなかったけれども,今はスマホでSNSをやるようになっている。

● 中身を見ていこう。
 ネット社会とは「個が個を意識できる」,言葉をかえれば「あなたがあなただけでいられる」時間を剥奪する社会です。(中略)自己の内面の深みに達するような思考が非常に難しい世界です。(p15)
 ネット以前は,今よりも自分だけでいられる時間を享受していただろうか。ぼく一個に関していうと,そうだとは言い難い。
 著作権とは,権利の保護だけでなく,その作品に対しての責任が明確にされるという意味もあるのです。しかしネット上に存在する情報の多くには実名がない。いったいどこの誰の発言なのか,誰がつくった画像や映像なのか実態がよく分からない。(p68)
 フェイスブックもいつまで実名主義でいるかわからない,とも指摘している。それはそうなのだろう。しかし,実名がないのはじつはマスメディアも同じなのではないか。
 個人の責任を明記しての意見表明は,雑誌と書籍に限られていた。そして,雑誌や書籍は今と同様に,昔もさほどに読まれるものではなかった。
 私たちは日常的にネット上でいろいろな情報を発信していますが,一つひとつは相手や仲間に知られても心配ないものです。しかしバラバラに点在するその情報が誰かによって収集され体系的に統合されたとき,そこから思わぬ秘密が露呈することもあります。(p164)
 手元のスマホはあなたの望み通りに働く従順な道具ではありません。スマホがあなたをプロファイリングによって評価し,いつのまにか操っているということもありえます。スマホの画面を覗いているあなたは同時に,知らない誰かによって覗かれているのです。(p170)
 たしかにそうだろう。しかし,だから何だというのかとも思う。ぼくなんかは自分のかなりの部分をネットに晒しているので,年齢,家族構成の変遷,居住形態(持ち家か貸家かなど)の変遷,興味のありか,性格,職業,食べものの好き嫌いなど,すべてが知られうる。おそらく,年収だってかなりの確度で推測可能だろう。
 しかし,そんなものを知ってどうするのか。知りたければ知るがいいが,知ったところで実益はあるまい。

 その前に,電話帳がネットに上がっていたりするわけだから,自分の住所や電話番号は知られているのだ。実名でネットに発言するということは,それに対して見も知らぬ人からの反発を電話で受けることもあり得るということだ。覚悟のうえだ。
 とはいっても,そんなことをされるようなことは言っていないと思うんだけどね。

 これってSNSやネットだけでなく,クレジットカードや各種ポイントカードからだって,覗かれていることに変わりはない。
 たとえば,ぼくの相方はJALカードをこよなく偏愛してて,スーパーでの買いものから病院の支払まで,すべてJALカードを使っている。マイルの魅力にはあらがえない。となれば,購買履歴も健康状態も,そのほぼすべてをカード会社に把握されていることになる。
 この情報は,おそらく売買の対象になっているに違いない。情報が社外に流出したと騒ぎになることが時にあるけれども,騒ぎにならない情報流出がないわけないだろ,と思う。
 SNSでは,他人に自分のメッセージが受け入れられるということが最も重要なことであり,そのためにはリツイートされたり,ネット上の仲間を介してさらに多くの人に広がるということが目標になります。だから,メッセージの内容はなるべく人目をひくようなもので,しかもとぎれることなく送りつづけなければならない。しかし毎日発信するメッセージなのだから,そんなに価値の高い,有益な内容をつくることは不可能です。勢い,中身は他愛ない,ばかげたものが多くなる。(p69)
 さらに問題なのは「いいね」クリックです。これをたくさんとるには,誰にも分かりやすい,そして平均的な価値観や感覚からはずれないメッセージでなければならない。ユニークで独創的な,あるいはクリティカル(批判的)な主張などは敬遠されます。(中略)このようにSNSを主戦場として言葉をくりだすうちに,他者の視線に合わせるように自分の思考そのものが,実に平均的で奥行きの欠けたつまらないものに変化していく。(p195)
 そのとおりかなぁ。特にフェイスブックにそれを感じる。大半は仲間内でどうでもいい情報のやり取りをしている。
 だいたい,ツイッターと違って140文字の制限を受けないのに,140字を超える投稿がほとんどない。ので,最近はフェイスブックからは足を洗いつつある。
 でも,ツイッターにはユニークや独創的やクリティカルも存在しているのじゃないか。大論はないけれども。
 書き言葉は少しずつ蓄積されていくのですが,ネット言葉は「流れ」のなかにあります。(中略)書き言葉が「私」の中に掘られた井戸に溜まっていくとすれば,ネット言葉は「皆」の間を川のように流れていく。SNSで発信した言葉は,一年もたてば記憶に残っていることはまずありません。(p199)
 たしかに。でも紙の日記帳に書いたことでも,1年もたてばたいてい忘れているだろうよ。

● その他にもいくつか転載。
 学校でも最近は個性という言葉が以前ほどきかれなくなった。代わりに,絆,つながりが重視されます。祭りにおける群衆,学校における集団,あらゆる場所で個から集団へのシフトが進んでいます。(p17)
 人は外部からの情報や刺激が減るほど,さまざまな考えが浮かび,それを消し去ることはなかなかできない。だからただ座ること,座禅が修行になるのです、(p25)
 ものいわぬモノもメッセージを発していて,常に人を新しい消費へと駆り立てます。よほどの片づけ魔でもないかぎり,その人の部屋には,衣服がうんざりするほどのメッセージがあふれているはずです。衣類を捨ててすっきりするというのは,このメッセージを切り捨てるということ。情報の整理整頓です。(p41)
 人間が処理できる情報には量的な限界があります。私たちが暮らしの中で受けとる情報量はその限界値をとっくに超えています。しかし情報をデジタル化すればとりあえずストックして目の前からモノを消すことができる。(中略)「ぼくらはスマホで何でもできる」(『ぼくたちに,もうモノは必要ない』) そう,実はミニマリストとはモノに占有された暮らしからの離脱者であり,スマホを信奉する情報主義者でもあるのです、(p44)
 ネットでは「ミスよりのろまのほうが悪」といわれます。多少の間違いより,ともかくすぐに発信することが正しい,という考え方です。(中略)しかし,私たちにとっての言葉というものは思考そのものです。(中略)スピードが最優先されるネットでは,熟考する,内省する,深く考えるという,言葉による人間的な営為がないがしろにされているのではないか。(p76)
 いくら記録しても自分の中に記憶されていない言葉は,物事を発想したり考えたりするときには役立ちません。それは「私は三〇〇〇冊の本を持っている。だから頭がいい」と威張っている愚かな人にたとえられるでしょう。(p183)
 SNSが「個」の発信ではなく,結果として「集団」への従属を促進する装置のように見えるからです。「私」を伝えているように見えながら,実は「皆」に溶けこむために発信されている言葉,それによって組み立てられるのが,SNS思考です。(p200)

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