2016年4月30日土曜日

2016.04.22 角幡唯介 『探検家,36歳の憂鬱』

書名 探検家,36歳の憂鬱
著者 角幡唯介
発行所 文藝春秋
発行年月日 2012.07.20
価格(税別) 1,250円

● 著者は早稲田大学探検部の出。次のような青年だった。
 大学の講義にはまったくといっていいほど出席しなかったが,それでも大学には毎日通い部室に顔を出した。時間はたっぷりとあったし,学生時代は悩んだり考えたりして時間を無駄に使うことが将来の貴重な財産になりうる人生で唯一の時間だった。(p15)
 探検部の活動は本気になればなるほど将来が見えなくなり,人生が混沌としていく。多分自分にはそこが合っていた。ある意味で,安定した未来から逃げたくて,私は探検部に居座り続けたのだ。(p18)
 小さい頃,背広とネクタイが嫌いだった。背広とネクタイをしめる人生だけは御免だと思っていた。(p18)
 たぶん私は六〇年代とか七〇年代に青春を過ごしていたら,確実に学生運動にのめり込んでいたタイプの人間だったはずだ。昔から時代の常識とか規範とか支配的な枠組みに対して,どうしても生理的に嫌悪感を抱いてしまうのである。(p19)
 自分は社長の息子なのだ。しかも長男なのだ。(中略)つまるところ自分は生まれながらにして恵まれているのだ。そういう過剰な自意識が小さな頃から私の中にあって,それが成長するに従って変な劣等感を生み出した。つまり恵まれているという劣等感だ。(p20)
● 本書の特徴は,香り高い文章にある。読ませるエッセイだ。素材は探検絡みから取られているけれども,そうしたものに興味がなくても,純粋に文章を味わえるものだと思う。

● 以下にいくつか転載。
 新聞社という安定的な大機構の中に身を置いていると,どうしても自分は今生きているというヒリヒリした感覚は失われる。記事を書こうと書くまいと,毎晩寿司を食べて,キャバクラに行っても,基本的には生活の不安を感じない程度の給与が勝手に銀行口座の中に振り込まれてくるのだ。(p37)
 書くことでも映像をとることでも何でもいいのだが,結果として表現に置き換えることを前提に何かの行為をする場合,その行為の純粋性を保つことは想像以上に難しい。(p50)
 こうした実況中継にみられる,常に行為をジリジリと表現形態に置き換えようとする表現者としての態度は,よほど気をつけてかからないと,行為を面白く見せるためのヤラセを引き起こす可能性がある。よりスリリングな物語を提示したいという表現者側の論理は,純粋に行為に専念したいという行為者側の立場を常に飲み込もうとしているのだ。(p55)
 冒険する価値のある対象が地球上から失われてしまっただけではなく,仮にそれがあったとしても,もはやそうした大きな価値観自体が社会の関心をひかなくなったという事情もアルのだ。(p62)
 何かを表現するということは,その何かに含まれるテーマを個人の領域から社会の領域に昇華させる作業のことを言う。つまり表現することは多くの他者を相手にした社会的な行為であり,人々に訴えかけるストーリーを提示しなければならない。 しかしエベレストからも北極からもアマゾン川からも冒険する社会的意義が失われた今,冒険は簡単に他者に理解してもらえるストーリーを提示しにくくなった。(p64)
 個々人を引きつける冒険の本質的な魅力はいったい何か。死ぬかもしれないのに,無益なことをやる理由はどこにあるのか。もはや社会的な価値がなくなったのに冒険を続けるのだから,冒険者たちには社会的な価値の他に,それを続けなければならない個人的な事情があるのだろう。(中略)個人が冒険を続けざるを得ないその事情をうまく抽出して描き出すことができれば,今日でも社会性のある物語に敷衍できるかもしれない。(p65)
 身も蓋もない言い方をすれば,遭難でもしなければ冒険は面白い物語になりにくいのである。(中略)冒険の現場とは通常,冒険をしない人が考えるほどスリリングではない。冒険の最中は単調で退屈な時間が続くことが多く,それは人間のいない自然を相手に行う冒険の場合はことのほか顕著だ。(p68)
 本当のノンフィクションの物語とは,現場での体験や取材が事前の見通しを上回った時に初めて立ち上がってくるものでもある。逆説的な言い方になるが,筋書きのないドラマとは,まず筋書きがあって,かつそれを越えたところにしか存在しないのだ。(p70)
 冒険の場合は命がかかっているので,基本的には現場で起きるあらゆるトラブルに対処できるように計画を作る。そのため予想を裏切る体験というのはなかなか起きないし,もし実際に起きたら,それは(中略)限りなく死に近い深刻な事態に陥ったことを意味している。(p71)
 グローバルに情報がいきわたると思える時代になったとはいえ,人間が身体を通じて周囲の有様を知覚する動物である限り,物理的な距離は今でも単純に情報の格差をもたらすのだ。(p84)
 私がこの時に知ったのは,死は意外と日常のすぐぞばにあるという単純なことだった。いつもと少しだけ違う細かな状況の変化が,自分でも気がつかないうちに積み重なって,最悪の状況というのはやって来る。当人は実際に死に直面するまで,状況が決定的に悪化していることに気がつかない。(p128)
 インターネットの進展が自然との乖離を決定的に加速させた。ネットによる情報収集には身体により外界を知覚するという要素がほとんどなく,動かす部位が指先と目と脳に限られるため,身体性の喪失と生感覚の無化を二次関数曲線を描くように進展させる。(中略)日常生活の中から生感覚が失われてしまったのだから,現代社会に閉塞感が広がるのは当たり前だろう。(p160)
 自然に深く入り込むということは,自ら積極的に生と死の境界線という危険なエリアに身をさらすことを意味する。なぜなら本当の自然とは常に人間の意図を越えて振る舞う,生と死に満ち溢れた世界だからだ。(中略)極地探検に限らず,外部との通信手段を確保したまま行う冒険がどこか不完全な感じがするのは,そうした冒険の本質がぼやけてしまうからである。(p189)
 北極点通信手段不携帯無補給到達。それは考えられないほどの恐怖と不安に支配される,間違いなく「世界最難の旅」となるに違いない。(中略)帰った方がいいのではないか,戻れるのは今しかないのではないか,このまま進むと死ぬのではないか・・・・・・。何よりもそうした不安に耐えられる強靱な精神力が求められる。 しかし考えてみると,ナンセンやピアリー,クックといった人たちは,それを当然のやり方として受け入れ,探検していた。昔の人たちは強かったというのは,単なる過去の理想化ではなく事実である。(p195)
 その目は周囲を睥睨し,その場を完全に支配しているような力強さに満ちていた。どれほどの覚悟があれば,あのような目になるのだろう,と私は思った。(中略) その迫力の背後にあったのは,明らかに彼が背負っていた死への覚悟だった。(p212)
 人間は死ぬ直線まで,自分がこれから本当に死ぬということを精確に認識することはできない。(p218)
 結局のところ冒険を魅力的にしているのは死の危険なのだ。(中略)生とは死に向かって収斂していく時間の連なりに過ぎず,そうした生の範囲の中でも最も死に近い領域で展開される行為が冒険と呼ばれるものだとしたら,それは必然的に生の極限の表現ということになるだろう。(中略)死を意識した瞬間に,その行為は最も生の煌めく瞬間に変わる。だから冒険者は冒険からなかなか足を洗えない。(p222)
● 次のような役に立つトリビアも。著者のブログからもってきた文章らしい。
 マルタイ棒ラーメン(しょうゆ味)のおいしい作り方を紹介しよう。お湯を少なめにして,麺をかためにゆでる。刻んだネギとおろしニンニク,ごま油,酢を加え,コショウ,七味を少々ふりかけると,あら不思議。そのへんのラーメン屋よりも,よっぽどうまいラーメンができあがる。(p105)

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