2016年12月23日金曜日

2016.12.23 山口由美 『一度は泊まりたい 粋な宿,雅な宿』

書名 一度は泊まりたい 粋な宿,雅な宿
著者 山口由美
発行所 潮出版社
発行年月日 2015.07.20
価格(税別) 1,400円

● 本書で紹介されている宿は次のとおり。その前に「まえがき」で「庭のホテル 東京」が紹介されているけど。
 佐久間(川越市)
 ホテリ・アアルト(福島県北塩原村)
 大沢館(南魚沼市)
 オーベルジュ土佐山(高知市)

 旅館あづまや(田辺市)
 皆美館(松江市)
 島宿真里(小豆島町)
 上高地帝国ホテル(松本市)

 箱根ハイランドホテル(箱根町)
 加賀屋(七尾市)
 日光金谷ホテル(日光市)
 庵町家ステイ(京都市)

 あかん鶴雅別荘 鄙の座(釧路市)
 石山離宮 五足のくつ(天草市)
 星野リゾート 青森屋(三沢市)
 十八楼(岐阜市)
 奈良ホテル(奈良市)

● 以上の宿について,その宿が持っている物語を物語ろうとしている。宿の経営者や女将に取材はもちろんしているけれども,それによって直接に宿の魅力を語ろうとはしていない。
 故事来歴をさぐり,それらがいかにして今あるような形になったかを語っている。たとえば,「星野リゾート 青森屋」では以前の経営者の話は詳細に語られるが,星野リゾートは無視される。

● 以下にいくつか転載。
 棚田の合間の傾斜地を歩きながら,ふと振り返った先にオーベルジュ土佐山が見えた。ウブドでウォーキングツアーに出かけた折,アユン川という川の対岸から棚田の先に見たアマンダリの景観に本当によく似ていた。もし椰子の木がそこに生えていたなら,瓜二つの風景といってもよかった。(p61)
 もうひとつ,箱根ハイランドホテルが先駆的だったものがある。それは提供する食事の内容を写真付きのパンフレットで見せる宿泊プランの考案だった。(中略)かつて旅館では,提供される料理の内容が事前に細かく知らされることはなかったという。(p116)
 世界各地を旅していて,いつも不思議に思うのは,世界の風光明媚といわれる風景は,なぜかことごとく箱根に似ていることだった。(p117)
 女将の小田真弓さんは,「主役は接客係。いかにその舞台作りをして舞ってもらうかです」と言う。加賀屋の加賀屋たるゆえんは,客室係の一人一人の能力の高さもさることながら,彼女たちを生かすことに徹した宿の姿勢にこそあるのかもしれない。(P124)
 私が感じたのは,ディズニーランドや豪華客船の旅にも通じる,独特の高揚感と多幸感だった。それを創り出しているのは,客室係のサービスだけではない。旅館のハードそのものであり,さまざまな演出や仕掛けであり,そして,そこで満足げに楽しい時間を過ごしている宿泊客の笑顔だった。そのどれが欠けても,加賀屋は加賀屋ではない。(p128)
 成人式に振り袖を着る習慣が生まれたのも,成人の日が祝日に制定された戦後のこと。日本人の誰もが華やかな振り袖を着るようになったのは,人々が豊かになった高度経済成長以後のことだろ,以前,呉服商の人から話を聞いたことがある。(p148)
 「自然はカムイ(神)が創ったもの。それを想定してはいけない」 東日本大震災後,しばしば人々が口にした「想定外」という表現に対して,アイヌのエカシ(長老)が語った言葉だという。(p156)
 ねぶたは,祭りが終わったら処分することを前提に作られる。ほんの一時の祭りのために長い時間をかけて制作される,それがねぶたの美学なのかもしれない。(p182)
 私は長年,旅をしてものを書く仕事をしてきた勘から,どこであろうと,現場に行くと,その場でなければ入手できない,その土地ならではの情報があることを経験として知っていた。インターネットの普及した現代においても,その事実は変わらない。(p216)

2016年12月17日土曜日

2016.12.17 犬丸一郎 『軽井沢伝説』

書名 軽井沢伝説
著者 犬丸一郎
発行所 講談社
発行年月日 2011.07.01
価格(税別) 1,600円

● 昔のセレブが集うハイソな軽井沢の様子を,著者自身の体験,友人・知人の証言,当時の地元のミニコミ誌からまとめたもの。
 セレブやハイソはいつだってごく少数しかいないはずだ。そういうところにぼくのような者が迷いこんでも居場所はないだろう。この場合の「ぼく」は多数派の代表でありますよ。つまり,皆様方も「ぼく」の同類でありますよ。

● 今の軽井沢は大衆化してしまっているのだろうけれど,どこかにかつての軽井沢と同じ機能を果たしている場所や空間があるのかもしれない。たぶん違うだろうけど,慶應や学習院の同窓会とか。
 ただ,今でも理屈は同じであって,そういうところに貴方やぼくが紛れ込んでも,いいことは何もないとしたものですよ。

● 本書にも別荘暮らしの大変さが登場する。いくらお金があっても持ってはいけないものが3つある,と言われる。ひとつは愛人,ふたつめは秘書,そして最後が別荘だ。
 愛人と秘書についてはここでの検討事項ではないが,別荘を持つのはなぜいけないか。理由は明確だ。持ってしまえば別荘に縛られるからだ。

● 軽井沢に別荘を持てば,毎年,夏は軽井沢で過ごさなければならない。ひと夏住まないでいれば,別荘とその敷地はかなり荒れる。近隣に迷惑をかける(近隣のことなど知らないという奴は,豚に喰われよ)。
 それでいいのか。今年も来年も再来年もその先も,夏は軽井沢で過ごすのか。ハワイに行きたくなったりはしないのか。北海道はどうだ。夏の沖縄もいいぞ。

● 行きたいところに行ける。自分の欲望に忠実でいることができる。そのためには別荘など持たないに限る。
 滞在はホテルがいい。もし軽井沢で過ごしたくなったら,万平ホテルに泊まればいいではないか。ハワイならコンドミニアムを借りるのがいい。所有は自由を縛るのだ。

● 本書で描かれている時代のハイソでは,今の大衆は満足しないだろう。それはキチンと取ったダシでは満足できず,化学調味料をどっさり使ったゆえのエッジの立った旨さを求めるようなものではあるんだろうけど,とにかく,かつてのハイソでは今の大衆は満足すまい。
 つまり,本書は懐古趣味で終わることになる。IKKOだの,たかの友梨だの,ビル・ゲイツだのが,豪邸を建てるようになっているのだから,軽井沢はもはやどうにもなるまい。

● 以下にいくつか転載。
 軽井沢が避暑地として今日に至るまで,花柳の巷を設けず,あくまで純潔の風習を保つに腐心していることは,他に対する第一の誇りである。(p31)
 かつての軽井沢の土地取引は,不動産業者が土地を取得し,リゾート地として分譲するような形はほとんどなかった。知り合い同士の「あの土地を譲っていただけませんか」「では,お譲りしましょう」という話し合いによって譲渡されるのが常であった。こうした売り手と買い手の親密な関係が,軽井沢ソサエティの強い絆を保ってきたともいえるのである。(p43)
 僕の感じでは昭和四七(一九七二)年にプリンスホテル系の「軽井沢72ゴルフ」がオープンしたあたりから,軽井沢の客層がはっきり変わってきたように思う。「72ゴルフ」は会員権がいらなくて,コースもたくさんあったから,随分,いろんな人が来るわけです。そうした人たちが帰りに食事するための店が自然に増えて,街並みも急激に変わっていった。(p82)
 マナーの悪い人間は,相手が誰だろうと絶対に容赦しなかった。総理大臣になる前の田中角栄さんも,白洲さんに怒鳴られたことがある。(p108)
 世間的に,軽井沢ゴルフ倶楽部は名門クラブ,といわれているせいか,なにか,ものすごい豪華なイメージがあるみたいだけれども,別にそんなことは全然ないよね。(p110)
 軽井沢ゴルフ倶楽部は,理事長の独断で次の理事長を決めて,各代の理事長が少しずつ自分なりに倶楽部を改善するという方針ですよね。理事長選挙とか,そういう面倒なことはしない。(p113)
 白洲さんも最晩年はもっぱら,ゴルフ場の雑草取りに精を出していた(p115)
 別荘に住まうのも結構,大変なんです。私の場合,実家(小林節太郎家)が鹿島ノ森に別荘を持っていましたが,母は毎年それはそれは苦労していました。(p182)
 軽井沢の場合,ファミリーで,というのはないんですよ。子供の世界と大人の世界はきちんと分かれている。だから,どこかの方とお会いする場合にも,夫婦単位であってね。(p189)
 いまでは塀の上に防犯カメラが備え付けられたり,中には二四時間,ガードマンが警備しているような物件まで見受けられ,ここは世田谷か?と見まごうような光景があちこちに出現している。 もうひとつ不思議なことがある。豪華な“別邸”にやってくる彼ら新住民は,まったくと言っていいほど,自分の敷地内から姿を現さないのだ。(中略) 私には,彼らが財産を持った引きこもりにしか見えない。(p198)
● 最後の“新住民”の代表としては,人材派遣会社大手「グッドウィル」の折口雅博さんが思い浮かぶ。軽井沢に個人の別荘なのか会社の保養所(あるいは支社)なのかわからない建物を建てた。それが絶頂期。
 本人としては力一杯生きて満足だと仰ると思うけれど,もう少し目立たない工夫が必要だったのではないか。儲けてもいいからつまらない目立ち方をしないという工夫。

2016年12月16日金曜日

2016.12.16 中川淳一郎・漆原直行・山本一郎 『読書で賢く生きる。』

書名 読書で賢く生きる。
著者 中川淳一郎・漆原直行・山本一郎
発行所 ベスト新書
発行年月日 2015.04.20
価格(税別) 815円

● ビジネス書,自己啓発書の告発本的な色彩が濃厚。っていうか,そんなの読んでる奴って馬鹿なんじゃね,というのが基本のトーン。
 ではないんだけれども,そう受け取った方が面白い。

● 言挙げされる出版社はサンマーク出版,ディスカヴァー・トゥエンティワンなど。著者の代表は・・・・・・と書きかけたけれども,それはやめておく。本書を読んでもらえばいい。

● 以下に多すぎるかもしれない転載。
 書籍化されているものというのは,自費出版を除き,何らかの権威性を有している。(中略)だからこそ,書籍というのは「自分の責任を回避するために利用できる」「論理を補強してくれる」という側面があるのだ。それだけでも価値はある。(p16)
 これから会う人・商談の話題に関する事前知識を得るのに,書籍は有用である。理由は,ネットでちゃちゃっと検索したものは,おそらく相手も把握しているからである。(p17)
 本を読むべき理由というのは,本があまり売れないからである。(中略)知識の差別化をするにあたっては,逆説的ではあるものの,あまり多くの人が接しない情報に接することが有益である。(p19)
 もう一つネットの特徴を。「普段から自分がフォローしている人は皆同じものを知っている」の法則がある。それは,SNS時代となり,相互にフォローしているような状態であれば顕著だ。(p20)
 私がサラリーマンだった1990年代後半から2000年代前半,サラリーマンにとって日経新聞は「共通言語」だった。(中略)共通言語が重要なのは,会話がラクになるからである。(p23)
 『経営心得帖』も『社員心得帖』も『人生心得帖』もすべて読んだが,徹底して松下氏は常識人であり続けている。「経営の神様」とはいわれるものの,「ただ,常識人たれ」という主張をしていると私は読み解いた。(p36)
 私は元々書籍はそれなりに多く読んでいたが,基礎となったのはなんといっても学研の「ひみつシリーズ」である。(中略)子供向けだからとバカにするなかれ。これは本心から言うのだが,私自身,現在の基礎的な知識はこの「ひみつシリーズ」から学んだとしか思えないのである。(p45)
 私としては最良のビジネス書とは,ロールモデルとして崇める人の著書にあると考えている。椎名(誠)氏,東海林(さだお)氏,吉田(豪)氏のようになりたいと考える自分がいる。だったら「師匠」である彼らの人生を,著書を通じて学ぶことこそもっとも役立つのである。(p53)
 焦って関連書籍を求め続ける必要はない。そこにあるだけの情報でなんとかなるのだ。(p59)
 本も一応,商材みたいなもんだから,もちろん売るためのテクニックやマーケティングの仕掛けなどはあって当然なんです。だた,ビジネス書で金儲けしようとしている人たちは,真摯じゃないというか。お客さんをカモにしようとしているんですよ。(p71)
 自己啓発本なんて,原典,古典と評されている数冊程度を押さえておけば,他は読む必要なんてないんです。(p73)
 コツ的なことを言えば,「目次には何度も目を通すべき」。まず読み始める前にザッと目次に目を通す。そして,1章を読み終えたら,また目次を確認。これを2章,3章と繰り返していくんです。(p87)
 ビジネス書は小説とは違って,実務経験が言説の土台になるケースが多いから,実務から離れて講演とか著述業にドップリになってしまうと劣化は避けられない。ということで,よく知らない著者の本で,何を買っていいか迷ったら,まず初期作品を読んでみてください。(p89)
 仕事って(中略)上を目指すのであれば,結局のところ目の前の仕事を粛々とこなして,実績を積み上げていくしかないと思っているんです。(中略)ビジネス書の中では,意識の高い著者が,ミッション・ステートメントやキャリアパスを明確に描きましょう,みたいなことを言うでしょう。でも,そんなことをしている暇があったら,目の前の仕事をしろよと。それはどんな仕事でもそうだと思うんです。(p100)
 うちも海外あわせて2240人くらいのスタッフがいたけど,本当の業務の根幹を担っている人材は30人ほどですよ。言い方は悪いけど,他の人たちはいなくなっても何とか取替えは利く。そんなもんです。(p107)
 人間生きていくうえでは必ず敵がいて,それって生きるうえでエネルギーになるんだよね。(p111)
 (成毛眞さんの本は)目を通しておくだけで,ああ,なるほどなってものは得られる。ただ,成毛さん自身はものすごく嫌われている人でもあり,癖のある人ならではの視点がすごく興味深いんです。(p113)
 まずは,これですよ,これ。「セルフブランディング」という言葉。(中略)死ねって感じですよ。(p181)
 続いてのキーワードはこれ。「ライフハック」。これをブログで書いた奴はバカですね。(p182)
 次も大人気のキーワードでしたね。「Win-Win」です。(中略)この言葉を聞くと,その人が突然胡散臭く感じますよね。実際,そんな関係ってありえないでしょう。(p183)
 速読なんてのは横スクロールのシューティングゲームをやっていたら,自然と身につくものなんです。(p186)
 キャラで売っていくのって燃え尽きるのが早いんです。勝間さんあたりはずいぶん長く,自分をブランド化する取り組みを続けていますけど,これは特殊というか,もはや才能の領域だと思う。(p195)
 彼らはダマされるべくしてダマされているわけじゃないですか。役に立たない資格を取り,ふらふらと自分探しをする。私としては,「自分は何者なのか」,人間の根っこの部分と向き合おうとしない人が,本から読み取れるものなんてないと思ってるんですよ。目先の金儲けを追いかけて,橘玲の本ばかり読んでるような人に届く言葉を私はもっていないな,と。(p246)
 電車内で文庫本を読んでいるとそれだけで「いい女補正」がかかる。逆に「同じことをしている姿」は誰が見てもバカにしか見えないんですよ。行列に並ぶとか。(p266)
 本に書かれていても,ネットにないコンテンツはたくさんある。本当に価値のある話でネットにしか載っていない話はあまりないのも事実で。(p268)
 だいたい人の後ろについていって,いいことなんてあるわけがない!(p275)
 自己啓発という「秘伝のタレ」の調味に使う“厳選素材”は限られる。大ヒットしたスティーブン・R・コヴィーの『7つの習慣』にしたってエッセンスはモルモン教じゃん。(p289)
 でもさ,まず「バカは抜け出せない」じゃん。強いきっかけがあったり,誰かに強制され続けない限り,ダメな人はたぶんずっとダメだと思います。(p298)

2016年12月11日日曜日

2016.12.11 斉藤道子編 『首都圏大学図書館ガイド オトナの知的空間案内』

書名 首都圏大学図書館ガイド オトナの知的空間案内
編著者 斉藤道子
発行所 メイツ出版
発行年月日 2015.06.30
価格(税別) 1,600円

● 首都圏(東京,神奈川,埼玉,千葉,筑波)の大学図書館59館を写真入りで紹介。

● 最近,大学図書館がその大学の学生じゃなくても使えるようになりつつあるというのは知っていた。地域住民に開放する流れがあるようだ。
 ぼくの地元でも宇都宮大学附属図書館は学外者の利用を認めている。ぼくは利用したことはないけれども。

● 大学図書館=知の殿堂=近寄りがたいところ,といったイメージがある。それがどういうところなのか覗いてみたいと思って,本書のページを繰ってみたというわけだ。
 写真がメインになっているので,ほほぅこんなところなのかと思える。

● 蔵書数が数十万冊とか百万冊超の図書館が首都圏にはたくさんあるということもわかった。
 ホントにこんなにたくさんの本が必要なのかとも思ったりした。いや,必要なのだろうね。多くの学生はここにある本を1冊も読まないで卒業するんだけどね。

● 誰もいない本棚や建物だけの写真もあれば,明らかにサクラとわかる学生の利用者を配した写真もある。大学によって対応がはっきり違ったようだ。

2016.12.11 下川裕治・阿部稔哉 『週末ちょっとディープな台湾旅』

書名 週末ちょっとディープな台湾旅
著者 下川裕治
   阿部稔哉(写真)
発行所 朝日文庫
発行年月日 2016.08.310
価格(税別) 700円

● 今日,八重洲ブックセンター本店を覗いた。ピンポイントで買いたい本があったので,それを買うため。
 そしたら,この下川さんの新刊が目に入ってきた。8月に出ていたのだな。今まで気がつかなかったとは。本屋には何度も行っているのに。

● 紀行文学という言葉が現在も生きているのかどうか知らない。紀行文をたくさん読んでいるわけではないけれど,文学の香りがするというか,文章で読ませるのは,現在では下川さんを第一人者としていいのではあるまいか。
 けっこう,“社会派”が入っているのではあるが。で,その“社会派”が下川さんの真骨頂ではあるのだが。

● 読み終えた本は処分するようになった。残さない。
 が,何人か手元に残す著者がいて,下川さんはそのひとりだ。

● 今回は,最後の章で,沖縄がアジアより東京に近くなってしまったことを淋しそうに記しているのが印象的。もっとも,アジアじたい,猛烈な勢いで変化を続けていて,どんどん東京化しているようだ。古き良きアジアを旅するのなら,今しかないのかもしれない。
 けれどもね,こういうのっていつの時代でも言われていたことかもしれないのでね。アジアほどではないにしても,東京も変わっている。この変化に棹さしてはいけないのだと多う。棹さす術などないわけだけど。

● 以下にいくつか転載。
 世界の料理は,保存技術のなかで育まれてきた面がある。現代のように冷蔵や冷凍といった手法がなかった時代,食品を腐らせない技術は,人が生き延びていくための重要な要素だった。(p36)
 アジアの飲食店は酒で儲けるという発想が薄いから,多くがしっかりした料理を出す。(p57)
 台湾を歩くと,そのあまりにあっさりとした酒への思いに足を掬われてしまうことがある。酒というものへも思い入れが少ないのだ。(p59)
 「彼ら,外省人だね」 李さんは日本語でいった。周りの人は日本語がわからないから堂々と話すことができる。「あだれけ酒を飲んだら,明日の午前中は仕事にならないよ。(中略)まあ彼らは,午前中,休んでも大丈夫な仕事に就いてるってことだよ。本省人はそうはいかない。朝からしっかり働かないと,金が稼げないからね。(中略)」 李さんの言葉に険があった。(p74)
 海外に出向くと,買うものもないというのにコンビニに入る日本人は多い。言葉がわからなくても,安心できるスペースがコンビニである。日本で慣れ親しんだ世界でひと息つく・・・・・・そんな感覚だろうか。(p81)
 蒋介石への憎しみを抱いても不思議はないのだが,行き場のなくなった蒋介石像を前に悩んでしまったのだろう。彼らのなかには,像を破壊する感性はなかった。それが台湾人なのかもしれない。いや,アジア人というべきだろうか。記憶を引き出しにしまうことがうまい人々である。(p112)
 一般の人々がアップする情報が,ネット系ガイドを真似ていることが鼻につく。(中略)文章などへたでもいいから,本音で語ってほしいのだ。店選びにも主張がない。(p124)
 北回帰線の南にあるこの街(台南)には,ともすれば硬直化しがちな東アジアとは別の文脈が流れている気もする。(p160)
 台南の街に流れる空気はどこか違う。その奥にあるものは,香港やマカオ,シンガポールといった植民地になった都市に共通した処世術なのかもしれない。これらの街にはさまざまな人が住みついていく。流入する人々と渡りあっていく術をこの街はもっている気がする。(p165)
 台湾の人って,カラオケ大好きだからね。彼らって,カラオケと酒がつながっていない。素面でがんがん歌うからね。(p224)
 台北より静かな台南の街からやってきたのだが,こうして那覇の街に立つと,その静けさに足を掬われそうになってしまうのだった。(p243)
 アジアの都市は,ここ二十年でずいぶん変わった。(中略)生活が豊かになり,中間層が急増したが,彼らは金の動きに敏感になり,権利を守ろうとする保守化の道を歩きはじめている。金はないというのに,将来のことも考えない底が抜けるようなエネルギーは,影を潜めつつある。日本とアジアの温度差は年を追ってなくなってきている。(p252)
 十年という年月は,沖縄を変えていた。空気のなかから,アジアらしさが消えてしまったように映る。(p254)

2016年12月10日土曜日

2016.12.10 中川右介 『購書術 本には買い方があった!』

書名 購書術 本には買い方があった!
著者 中川右介
発行所 小学館新書
発行年月日 2015.02.07
価格(税別) 720円

● 著者は自分で本も書くし,小さな出版社を経営していたこともある。タイトルは「購書術」となっているけれど,出版界の知られざる裏側(?)的なところが面白かった。
 なるほどそうだったのか,と腑に落ちるところが多くあった。

● そういうところを,以下に転載。
 本当に,「本は本屋で売っている」ことを知らないのだ。冗談を言っているのではない。クラシック音楽のコンサートに来る人は,教養度は平均よりは高い。カメラ・マニアの人たちは,教養度はともかく,所得は高い。そういう,いわば日本社会のなかでは,教養もお金もあるほうの人たちですら,こういう反応を示す。(p4)
 それ以上に私は「本を買う人」なのだ。もはや正確な数は分からないが,雑誌を含めて五十年間に四万冊は買ったと思われる。過去二十年は年に百万円は本代として使ってきた。都立高校の学校図書館の予算と同じくらいだ。(p7)
 ぼくも年に百万円を本代に使っていた時期がある。20年はなかった。その半分くらいか。だいぶ無駄というか,読みもしない本を買ってしまった。
 大手版元は最低でも五千部を発行しないと採算がとれないので,そういう部数になる。(中略)零細版元は所帯が小さいので,二千部の本でも採算がとれる。(p30)
 出版社の規模が小さく専門性が高ければ高いほど,大型書店への依存度が高くなる。小さな書店とはほとんど付き合いがなくなる。(p32)
 出版界は「売る」側である「書店」,それも規模の小さなところから疲弊し,撤退を余儀なくされた。これは「作る」側である「出版社」の,零細版元の明日の姿でもあるように思う。さらには書く側においても,一部のベストセラー作家を除く,多くの書き手たちの明日の姿でもあるように思えてならない。(p33)
 発売直後の「新刊」である間は版元のブランド力よりも,一冊一冊の本そのものの力で売れ行きが決まるが,新刊でなくなってからは老舗版元のほうが強い。まさに老舗の力だ。(p46)
 図書館は,(中略)マニアックな少部数の本の版元にとっては,優良顧客でもある。(中略)公共図書館が合計して五百部近く買ってくれることで,専門書の出版は成り立っていた。(中略) それがいま,図書館は税金で運営しているのだから住民サービスしろとの声が大きくなり,リクエストカードに基づいてベストセラーの本を何十冊(同じ本を,である)と購入し,貸出率の高さを競っている。(p56)
 図書館が無料の貸本屋になりさがったという批判は前からある。今のところ改善される気配はないようだ。
 特に,市町村立の図書館だと,税金を使っているのだから云々から自由になるのは難しいのかもしれない。
 けれど,本なんか読む人はいつだって少数派なのだから,税金云々を言うのなら,そもそも図書館を税金で運営するのなんかやめてしまえ,とならなければおかしいのではないか。
 誤解している人が多いが,本の著者は自分が書いた本でも,できたときに版元からもらうのは十冊が一般的で,それ以上に欲しい場合は二割引で購入する。(中略)知り合いが本を書いて,「読んでください」と送られてきたら,それは著者が出版社から買って送ったものだと理解してほしい。(p64)
 アマゾンもアメリカで創業された当初は「本を買いやすくしたい」という動機だったと聞く。だから本が好きな人が始めたのだろう。(中略)しかし,それなのに,本を作っている出版社への敵意を感じる。(p67)
 検索機能については,日本国内で出版された全ての本の書誌データがあるはずの国立国会図書館よりも,アマゾンのほうがはるかに優れている。(p68)
 私はこの「個性的な店」というもの,何店か行ってみたが,まったく本を買おうという気にならなかった。(中略)そういう店は,店内のインテリアというのか書棚のデザインも凝っていて,また配列も独特のものになっている。本を関連づけて並べるという,かつてリブロ池袋店で話題になったものを起源としているようだが,これがひとりよがりで,探しにくい。(p76)
 中学生の学年誌はつまらなかったので一年生でやめてしまったが,その代わりに(というのもおかしいが),中学二年生の年から早川書房の「ミステリ・マガジン」と「S・Fマガジン」を毎月取るようになった。(p106)
 ぼくは学年誌を6年間(中学と高校)取り続けた。このあたりがいかにも凡人という気がして,恥ずかしくなる。
 実際,紛れもない凡人だったわけだけど。
 所有することの利点のひとつが,読書ノートが不要になることだ。(中略)本が手もとにあれば,それがどんな本であったかは,まさにその本を見れば分かる。現物にまさるものはないのだ。(p121)
 読んだ本ほど,あとで必要になるものなのだ。だから,まず,読んでいない本から処分する。(p131)
 いま小説はほとんど値がつかない。これはブックオフによって古書に価格破壊が起きたからだ。あと,いわゆる実用書もほどんど値がつかない。古書で値がつくのは専門書だ。値がつくといっても,買った時の定価よりも高く売れるようなことはまずありえない。(p137)
 合理的に考えれば,電子書籍はますます売れるだろう。ただ,その人間というものは,合理性の追求だけでは生きていけない。不合理で不条理で不思議な生き物なのだ。(p164)
 小さな版元には大宣伝は不可能だ。数は少ないかもしれないが,全国の書店という場に陳列されるからこそ,本の存在を知ってもらえる。書店店頭こそが最大の,そして最適の広告・宣伝の場なのだ。(p167)
 本であれ雑誌であれ,基本的に書き手に価格決定権はない。それは,書き手というものが,常に「書きたい人」であるからだ。(中略)多くの書き手は,本を書く動機として「お金」ではなく,「多くの人に読んでほしい」を優先させている。だから,書き手は版元の提示する額でその仕事を引き受ける。(p175)
 最近は本の寿命が短く,二年もたてば出た当時は話題になった本も,店頭に置いても動かなくなる。そのまま重版するよりも,形を変えて「新刊」として出し直したほうがいいのだ。(p180)
 本はタダでは作られない。その過程では多くのコストがかかっている。それが回収できないと,出版社は本が作れない。書店も店頭で売れないと店が維持できない。著者も次の作品が書けない。 そんなの自分には関係ない。タダで読めるんだから,タダで読むよ,と考える人には,何を言っても無駄だろう。(p203)

2016年12月8日木曜日

2016.12.06 小林惠子 『空海と唐と三人の天皇』

書名 空海と唐と三人の天皇
著者 小林惠子
発行所 祥伝社
発行年月日 2011.06.20
価格(税別) 1,400円

● 「あとがき」に著者が次のように書いている。
 私の著書はあまりに日本史の常識とかけ離れているので,特に日本古代史の専門家からは一顧もされていない。(p196)
 本書によると,桓武天皇とその跡を継いだ平城天皇は,新羅の国王にもなっている。日本列島,朝鮮半島,中国大陸を股にかけて,闘いを繰り広げ,政略をめぐらせている。
 じつにコスモポリタンであって,当時の日本は島国ではなく海洋国家というに相応しい。

● 別の著書(『聖徳太子の正体』)では,聖徳太子は突厥から海を渡ってやってきたのだということになっている。法隆寺の夢殿はモンゴルのパオと似ているというのだ。
 なかなか一般の賛同は得られないだろう。

● 著者のその「日本史の常識とかけ離れ」た見方を作ってきた元にあるものは,次のような信念(?)である。
 中国の周辺に位置する日本が,古代に遡るほど,民族の移住と共に中国や東南アジアからの影響をものに受けないはずはないのである。(p194)
 私は日本古代史を知るには,まず周辺先進国の中国史を知らなければならないと大学では東洋史を専攻した。しかし中国史の部分的な講義を受けても日本古代史とはまったく関連づけられないし,関連づける意思のない研究ばかりだった。東洋史=中国史で,周辺への広がりを持たない史観なのである。(p194)
● 日本と周辺国の関連,あるいは中国と周辺国の関連を追及した学者としては,江上波夫氏や宮崎市定氏がいるけれど(宮崎市定『アジア史概説』はダイナミックな概説書だと思う),著者の説くところは著者一人説であって,今のところ追随者は出ていないように思われる。

● 空想力を無尽に展開。史書を独自に解釈。その結果,悪くいえば荒唐無稽,よくいえば極めて斬新な日本古代史が組み立てられる。
 著者の作品群は,学術書としてではなく文芸書として読まれるべきだろう。文芸書としてはかなり面白いのだ。ひょっとすると,史実も著者のいうとおりなのかもしれないと思わせるほどに面白い。
 この点で,だいぶ昔に流行った,古事記や万葉集を古朝鮮語で読むというような,正真正銘の荒唐無稽とは一線を画している。

2016年11月28日月曜日

2016.11.28 番外:iPad超活用術2017 flick!特別編集

編者 村上琢太
発行所 枻出版社
発行年月日 2016.12.10
価格(税別) 722円

● 2月に出た『iPad超活用術』の第2弾。ぼくはアップル製品は使っていない。iPhone5Cをひと月かふた月使ったことがあったけど,それだけで終わった。
 これからも,おそらく,アップル製品を使うことはないんじゃないかと思っている。

● けれども,アップル製品を扱ったムックは買ってしまう。買わないでいることができない。なぁに,大したことが書いてあるわけじゃないんだよ。それもわかっている。でも,買ってしまう。
 職場にはアップルユーザーの同僚がいる。MacとiPad miniを使っているのに,スマホはAndroidというちょっと変わった人。
 この種のムックは読み終えたら,彼に差しあげることにしている。今回もその前提で購入した。

● ヘビーユーザーが何人も登場して,自分の使い方を語っている。iPadはいろんなことに使える。昔のMacintoshからそうだけど,アップルの製品はクリエイティブ系に支持される。
 iPad Proなんか典型的にそうだろうな。Apple Pencilで手書き入力ができる。絵も描ける。もともと音楽にも強い。

● その分,ぼくのような無芸大食にとっては,iPadは豚に真珠もいいところ。自分を卑下しすぎだろうか。
 実際はさ,このムックに登場しているような人は圧倒的に少数派で,ほとんどのiPadユーザーはiPadで何をしているかといえば,まずはゲーム,次にLINEやメールといったところで,クリエイティブとは関係のない使い方しかしていないはずだよ。だから,彼らにiPadも豚に真珠なわけですよ。

● いくつか転載。
 パソコンだとついつい饒舌になってしまうメールも,iPadならキーを打つのが若干面倒なので,大事なことをしっかりと伝えるようになる。(p7)
 これ,スマホも同じ。スマホやタブレットは,単体だと入力は苦手。でも,そこをポジティブに受けとめると,このような言い方になるんだねぇ。
 コンピュータでやることの大半は,昔は書類作成だった。(p8)
 そうだった,そうだった。インターネット以前のパソコンは,MS-Officeを使うためのものだった。ビジネスマンの傍らにあって,彼の仕事を手助けするためのツールだった。
 コミュニケーションに使うなんてあり得なかった。PIMソフトはあったけど,手帳代わりになるなどとは思いもよらなかった。
 今,手書きの価値が見直されています。でも,表現の場はどうしてもデジタルになる。iPadを使えば,両方の良いとこどりができる。(p30)
 外付けキーボードは持っていますが,ほとんど使いません。キーボードを使うのは集中して入力作業をしたい時ですよね。その作業はPCでやりたいんです。(p43)
 あ,これはよくわかる。ぼくも外付けキーボードは持っているけど,ほとんど使わない。なぜか。使いづらいからだ。キーの配列もパソコンとは違う。タイプミスが増える。
 けれども,たとえばThinkPadキーボードをBluetoothではなくUSB(有線)接続で使えば,どうなんだろうなぁ。やっぱりダメだろうね。接続するのが面倒だもんな。
 ファッション業界というのはあまりデジタル化が進んだ状態ではないのだそうだ。(中略)そんな中でiPadを駆使する五十嵐さんのやり方は異端。しかし異端だからこそ突出した便利さを生み出すことができる。(p45)

2016年11月27日日曜日

2016.11.27 吉田友和 『ハノイ発夜行バス,南下してホーチミン』

書名 ハノイ発夜行バス,南下してホーチミン
著者 吉田友和
発行所 幻冬舎文庫
発行年月日 2016.06.10
価格(税別) 580円

● 吉田友和さんの作品はほぼすべてを読んでいると思う。完全にすべてかどうかは自信がないが。今のところ,吉田さんと下川裕治さんのものは出れば読む。

● 吉田さんは淡々と行跡を記していく。下川裕治さんのように,その地の歴史や政治の変遷について調べて蘊蓄を語ることはしない。
 その場で感じたこと,考えたことを述べるんだけど,さほどに深く考えているふうでもない。少なくとも,文章からはそう感じる。
 のだけれども,不思議に面白い。なんなのかね,このテイストは。ノンポリの魅力とでもいうか。ノンポリでここまで読ませるのだとすると,文章が凄いのか。

● 吉田さんはカメラも好きなようで,本書の表紙も自身が撮った写真を使っている。腕前は相当なもの。
 
● 以下にいくつか転載。
 この国(ベトナム)の旅では,正直者が馬鹿を見ることがままある。タイやシンガポールなど,ほかの東南アジアの国々に比べると,まだまだ油断ならない瞬間も多い。(p28)
 旅をしていると,各地で日本人の旅行者にももちろん出会う。(中略)けれど,一緒になる旅人の傾向としては,女性だけのグループか女性の一人旅,あるいはカップルがほとんどである。たまたまなのかもしれないが,男性の一人旅というのはレアケースで,滅多に見られないのだ。(p42)
 アジアの大衆食堂のいいところは,安くてウマいだけでなく,早い点だ。(p92)
 怒りを通り越して,呆気に取られる。お金へ対する並々ならぬ執着心に閉口してしまう。別れ際だから揉めたくないとか,そういう発想は皆無らしい。(p117)
 基本的には善人を装いつつも,隙あらば果敢に攻めてくるこの感じ。いやはや,ベトナムの旅は油断ならない。(p118)
 ボートツァーの客引きから何度か声がかかった。といっても,あまりやる気はなさそうで,断るとそれっきり。しつこくつきまとったりはしない。 市場で商いをしていたのは女性だったが,こちらは男性である。市場のおばちゃんたちがアグレッシブなのと比べると,対照的だなぁと感じた。なんというか,どことなく勤労意欲に欠けるというか。(p128)
 ベトナムは朝ご飯が美味しい国だ。そして朝ご飯が美味しい国は,豊かな国だと思う。忙しい朝にもかかわらず,食べ物に妥協しない姿勢が立派ではないか。(p157)
 ベトナムの人たちはせっかちらしいと,この旅を通して僕は学習していた。とくにこういう移動のシーンになると,先を急ぎたがる傾向があるのだ。(p191)
 食べ終わってトイレに行こうとすると,運転手や車掌さんたちのテーブルの前を通りかかった。チラリと覗き見ると,テーブルの上には食い散らかしたお皿がズラリと並んでいた。「あんなに食べたのか・・・・・・」と絶句する。この短時間で食べるには,ちょっと過剰とも言えそうなほどの量に僕は度肝を抜かれた。(中略)ベトナムの人たちは早食いなのかもしれない。少なくとも,時間感覚が僕とは明らかに異なる。(p192)
 ベトナムのホテルが特別コストパフォーマンスが高いということも,今回の旅を通して実感させられたことの一つだった。安宿であっても,クオリティが高く,値段以上の内容という感想を何度も抱いた。(p195)
 いよいよベトナムも本格的に新時代へ突入しそうな予感を抱く。それは近隣諸国が通ってきた道でもある。変わりゆく街並みに置いていかれないように,旅人も進化していきたいところだ。アジア通いを続けるのならば,いつまでも懐古趣味にばかり浸ってはいられない。(p214)

2016年11月25日金曜日

2016.11.25 川上弘美 『神様2011』

書名 神様2011
著者 川上弘美
発行所 講談社
発行年月日 2011.09.20
価格(税別) 800円

● 川上弘美さんの作品を読むのは,この本が初めて。1993年に発表された『神様』に東日本大震災の原発事故を受けて,一部の文章を手直ししたのが『神様2011』。

● 『神様』の方が面白い。細かいディテールが流れるように自然だ。放射能の話が入ると,とってつけた感が混ざってしまう。

● 主人公が散歩に出て帰ってくる。それだけの話だ。ただし,一人じゃなくてお連れの方がいらっしゃる。そのお連れの方というのが,熊だ。動物の熊。
 この熊が主人公と同じアパートに住んでいる(マンションかもしれない)。どういうわけで主人公と知り合ったのか,そんなことは問題じゃない。
 要は,熊だけれども,人間と同じコミュニケーション能力を持っているのだ。日本語で語り合えるのだし,日本語で思考できるのだ。

● 廉直で誠実で控えめな熊だ。何かが起こりそうになると,自分の方からスッと身をかわしてしまうところがあるようだ。友だちがたくさんいるようには思えない。むしろ交友は得意じゃないようだ。
 孤独を愛するというのではないけれど(主人公を散歩に誘っているくらいだから),孤独を苦にしないタイプではあるようだ。宮澤賢治的というか。

● で,神様とはこの熊のことなんだろうか。熊は作者の分身でもあるんだろうか。

2016年11月23日水曜日

2016.11.23 東 浩紀 『弱いつながり』

書名 弱いつながり
著者 東 浩紀
発行所 幻冬舎
発行年月日 2014.07.25
価格(税別) 1,300円

● 本書は何を述べたいのか。冒頭に記されている。
 ひとが所属するコミュニティのなかの人間関係をより深め,固定し,そこから逃げ出せなくするメディアがネットです。(p5)
 とはいえ,ぼくたちはもうネットから離れられない。だとすれば,その統制から逸脱する方法はただひとつ。グーグルが予測できない言葉で検索することです。(p5)
 ぼくたちは環境に規定されています。「かけがえのない個人」などというものは存在しません。ぼくたちが考えること,思いつくこと,欲望することは,たいてい環境から予測可能なことでしかない。あなたは,あなたの環境から予想されるパラメータの集合でしかない。(p9)
 だからこそ,自分を変えるためには,環境を変えるしかない。人間は環境に抵抗することはできない。環境を改変することもできない。だとすれば環境を変える=移動するしかない。(p7)
● その移動とはつまり「旅」。時々は外国に逃げてリフレッシュしなさいよ。著者が言いたいのは,これだけなのではないか。
 情報技術革命によって情報へのアクセスは格段に上昇しました。しかし,検索エンジンにどういう言葉を打ち込めばいいのか,それを思いつくためには部屋に閉じこもってネットばかり見ているのではなく,身体を移動しないといけない。(p91)
● その他,いくつか転載。
 世の中の多くのひとは,リアルの人間関係は強くて,ネットはむしろ浅く広く弱い絆を作るのに向いていると考えている。でもこれは本当はまったく逆です。(p14)
 アライバルビザはバックパッカーに厳しかったんですね。こぎれいな格好をして,「いいホテルに泊まる」と言えば楽に取得できる。しかしそんな情報はネットには載っていない。バックパッカーしか,インドについて書いていないからです。(p26)
 ぼくが休暇で海外に行くことが多いのは,日本語に囲まれている生活から脱出しないと精神的に休まらないからです。頭がリセットされない。日本国内にいる限り,九州に行っても北海道に行っても,一歩コンビニに入れば並んでいる商品はみな同じ。書店に入っても,並んでいる本はみな同じ。その環境が息苦しい。(p31)
 ソーシャルネットワークは,基本的に無料だからお金のない若者がいっぱい集まってくる。有名人はそんな「お金のない若者」の人気を取らなければならない。結果,ある種の情報は隠すようになっている。(p33)
 ネットには情報が溢れているということになっているけど,ぜんぜんそんなことはないんです。むしろ重要な情報は見えない。なぜなら,ネットでは自分が見たいと思っているものしか見ることができないからです。そしてまた,みな自分が書きたいものしかネットに書かないからです。(p34)
 これはネットの特性ではない。ネット以前からそうだったわけだから。書店や図書館に並んでいる本からどれをピックアップするかを考えてみれば明らかだ。人間の特性というべきで,ネットに罪はないなぁ。
 たとえばパリに行く。「せっかくだから」とルーブル美術館に行く。近場の美術館にすら行かないひとでもそういうことをする。それでいい。美術愛好家でないと美術館に行ってはいけない,というほうがよほど窮屈です。(p52)
 検索とは一種の旅です。検索結果一覧を見るぼくたちの視線は,観光客の視線に似ていないでしょうか。(p54)
 彼(アナドリー・ハイダマカ)は,展示にはむしろ主観的な感情が入っているべきだと答えるのです。ハイダマカ氏は広島の平和記念資料館も訪れたらしいのですが,感情抜きの客観的な展示だけでは,出来事の記憶は伝わらないと言います。(p78)
 文書や写真や証言が残っていても,それはいくらでも,現在の価値観に都合のいいように再解釈できてしまう。人間にはそういう力がある。けれども解釈の力はモノには及ばない。歴史を残すには,そういうモノをのこすのがいちばんなのです。(p99)
 世界はいま急速に均質化しています。(中略)この変化を批判するひともいます。(中略)しかし,そもそも人間は,民族や歴史の差異にかかわらず,みな同じ身体をしている。となると,求めるものにそこまでバリエーションがあるわけでもない。その前提のうえで,商業施設や交通機関といったインフラのデザインが効率的なかたちに収斂していくのは,別に暴力でもなんでもなく,一種の必然のように思います。(p126)
 本当に新しいコンテンツ,本当にすばらしいコンテンツは,決してそのような消耗戦からは出てきません。「いまここ」の売り上げを最大にしようとすると,ひとはすぐ体力勝負に巻き込まれます。(p137)
 日本人は,会社や町内会など,自分が属している狭いコミュニティの人間関係を大切にしすぎていると思います。人間関係は少しおろそかにするぐらいがちょうどいい。(p145)
 人生そのものには失敗なんてないのです。だって,その成否を測る基準はどこにもないのですから。(p150)
 看板の最初の数文字が読めるだけでも意外と役立ちますし,文字がただの模様には見えなくなってくると,街の見えかたがぜんぜん違ってきます。(p152)
 旅先での写真をフェイスブックやツイッターにどしどし上げているひとがいます。きもちはわかりますが,あれでは旅の意味がない。(中略)フェイスブックやツイッターの視線を気にしているのでは,日常と変わりません。(p153)
 小学校や中学校の同級生がいつまでもフェイスブックやLINEのリストにあり続ける,というのがいまの現実でしょう。となると,あるていど意図的に関係を切る必要が出てきます。ぼくたちはいま,ネットのおかげで,断ち切ったはずのものにいつまでも付きまとわれるようになっている。(中略)旅はその絆を切断するチャンスです。(p155)

2016.11.23 古川 亨 『僕が伝えたかったこと,古川亨のパソコン秘史 1 アスキー時代』

書名 僕が伝えたかったこと,古川亨のパソコン秘史 1 アスキー時代
著者 古川 亨
発行所 インプレスR&D
発行年月日 2016.01.31
価格(税別) 1,850円

● 著者の古川さんは,小学生のときの知能テストでありえない数字を叩きだし,全国模試で2番になった(当時,小学生の全国模試なんてあったのか。ぼくはドが付くほどの田舎に住んでいたので,模試という言葉すら知らないで,小学生時代を通過した)。国立の附属中に進むと自他ともに思っていたところ,その受験に失敗し,麻布中に進学。
 これが最初の挫折体験だというんだから,常人離れしているね。

● 本書では著者がアスキーにいた頃の話が中心になる。当時のアスキーは,読者側から見ても,たしかに輝きがあった。
 ソフトバンクは野暮ったい感じがしたけれど,アスキーは都会的で洒落ているという印象だった。

● 当時のアスキーはこんなふうだった。
 お互いがリスペクトしていたので,僕もバイト君をバカにするようなことはしないし,バイト君もへりくだったりしない。それが心地よいから入り浸る。(中略)思えば,米マイクロソフトにもそういう雰囲気があった。そういう空気を作るには,社長室があって,社員がそこに報告に行くようではダメなのだ。(p48)
 第5世代コンピュータ開発でも使われていたDEC SYSTEM20は,当時日本に3台しかなかった。そんな高価な機材を買い,新入社員にも新しいことにチャレンジする機会を与えるというのがアスキーの文化だった。(p69)
 グーグルの20%ルールどころではない。80%は遊びのように仕事をする,それがアスキーの文化であった。経営者が,そこからひょっとして生まれるかもしれない,何か新しいものに期待していた。そんな自由な空気を求めて優秀な若者が集まり,半分遊びの中から,日本のパソコン史に残るような素晴らしい成果が次々と生まれていったのである。(p81)
 アスキーには,優れた人材を引きつける何かがあった。コンピュータ関係以外の,人事,営業,経理などにも逸材がいた。なんと,ある時期のアスキー全体の売上の半分を,一人で稼いでいたスゴ腕営業マンもいたという。(p120)
● ぼくはその世界には疎いし,パソコンを使い始めたのも遅い方だったと思う。が,それでも当時の空気は懐かしい。その懐かしさは共有できるような気がしている。
 他のバイト君は富士通のOASYSで原稿を書いていて,最初はOASYSからCP/M-86へファイル形式変換するコンバーターがあった。それも秋山さんが作ったものだった。(p54)
 試作機に触り始めたら,「おーっ」というどよめきが起きた。「どうしたんですか?」と聞くと,「古川さん,両手でキーボードが叩けるんですか?」と。当時は,タイプライター型のキーボードを叩けるエンジニアがいなかったのである。NECにも。(p85)
 そうだった。OASYSは文書作成マシンとしては,傑出していた。親指シフトキーボードが秀逸だった。あれが普及しなかったのは,いろんな理由があるんだろうけれど,少し残念な気がする。富士通のノートパソコン(FM-R)でも親指シフトキーボードを搭載したのはなかったんじゃなかったかなぁ。あったんだっけ?
 究極は,普及すべきではないから普及しなかったのだ,ということになってしまうのかもしれないけどね。かく申すぼくも,親指シフトかな入力から,ロマカナに変わったクチだ。
 OASYS文書をテキストファイルに変換するコンバーターは,OASYS自身が備えるようになった。ワープロ専用機からパソコンに移行するという兆しがはっきり出てきた頃だ。おかげでOASYS文書はすべてパソコンに移行できたんだけど。

● 著者は当時の若者たちにも優しい目線を送る。
 あの頃は若い小僧たちが,「将来なにかやりたいね」と言って自分たちで歴史を作っていった。アラン・ケイの言葉じゃないけれど,歴史の傍観者になったり批評家になったり予想家になったりするのではなくて,未来を自分たちで作るんだ,と燃えていた学生が一杯いた。(p83)
 当時の若者たちが今の若者たちよりしっかりしていたというのではない。時代がそういう若者を作っていた。そういう時代に巡り合わせた当時の若者たちは幸せだった。

● IBMが自社パソコンにCP/Mではなく,マイクロソフトのMS-DOSを採用した経緯については,いくつかの本で読んで,知ったつもりになっていた。最有力だったデジタルリサーチのゲーリー・キルドールがIBMとの交渉で大ボケをかましてくれたために,マイクロソフトが漁夫の利を得たのだ,と。
 それはそうなのだけれど,マイクロソフトもIBMがCP/Mを採用することを前提にしていたことを,本書で初めて知った。そのうえで,自社のBASICなどを売っていくという戦略だった。だから,マイクロソフトにしても,キルドールとIBMとの交渉が上手くいってくれないと困るのだった。
 ビル・ゲイツがデジタルリサーチの社長のゲーリー・キルドールに「相手の名前は言えないけれど,大事なお客さんがそちらに行くから,ちゃんと話してくれよ」と頼んだ当日に,キルドールは別のところに出張してしまい,会合を奥さんに任せてしまったのだ。(p163)
● その他,いくつか転載。
 事実として発生したある事象に対して,人はそれをどのように受け止めて語っていくかは,臨席した人の数だけでなく伝承していく人の数だけ,新しい事実が生まれていくと感じています。世の中で広まっている真実には,事実と異なることも多く,ある人の語る真実が都市伝説として人々の意識に定着してしまうことも多々あります。 本書の立場は,誰の語る真実は事実と異なり,私の語ることこそ,真実=事実です,という立場を取っていません。(p3)
 当時,各メーカーでパソコンを作っていたのは,従来のコンピュータ事業で活躍している主流の人たちではなかった。NECでは電子デバイス部門,松下電器に至ってはラジオ事業部であった。いわば,正統的コンピュータ部門ではない門外漢の人たちの活躍があった。(p80)
 当時の日本には,若い人たちのやることを温かく見守って,会社のプレッシャーから守ってくれるような人がいた。NECの戸坂さんや(中略)鈴木泰次さんなど,本当に懐が深かった。自分たちは何十年もコンピュータの世界で生きてきたのに,この新しい世界は若い人に全権を委ねた方がいいという采配をした。(p96)
 この頃,ビル・ゲイツにアドビを買ったらいいと勧めたが,彼は「コンピュータに二つ以上のフォントなんか必要ない」とけんもほろろだった。当時は,多様なフォントの必要性を理解していなかったのである。(p170)
 日本では,商品にして商売,という話になった途端に,大学の先生たちは「それは民間のやること」と言う。そんな下賤なことに予算は使えないとまで言う人もいある。アメリカのMBA教育などは違っていて,スタンフォードやハーバードの先生は,「基礎研究で最後に人の手に渡らない物は,世の中が必要としていない物なのでは」と言う。ともかく,「デプロイメントまで含めて見る人が本当のイノベーティブである」,という発想が必要なのである。(p177)
 何かを創り出す動機として,作ったものが売れて儲かるとか,学会で発表するとかが目的ではなくて,使っている人の笑顔が見たいという気持ちがすごく重要である。(p180)

2016年11月22日火曜日

2016.11.21 松宮義仁 『世界一受けたいソーシャルメディアの授業』

書名 世界一受けたいソーシャルメディアの授業
著者 松宮義仁
発行所 フォレスト出版
発行年月日 2012.03.14
価格(税別) 1,500円

● 訴求力のあるタイトル。テレビ番組から拝借してきたんだろうけど,テレビ番組のタイトルはさすがによく考えられているものが多いんでしょうね。

● 本書はソーシャルメディア(主にはフェイスブック)をビジネスに使いたいと考えている人に向けて書かれたもの。
 読む人が読めば,参考になるところがたくさんあるのだろう。もちろん,ビジネス抜きでフェイスブックを使いたいと思っている人にも,参考にできるところはたくさんあるだろう。

● 以下にいくつか転載。別の著書からすでに引いているものもあるけれど,かまわず転載。
 ソーシャルメディアを使っている以上,影響力を高める目標から逃れることはできません。なぜなら,友達とのやり取りだけの問題ではなく,影響力の弱い人はフェイスブックを完全に使い切ることはできないからです。(p6)
 総務省の情報流通インデックス統計というものがありますが,それによるとここ10年で情報量は約280倍も膨れ上がっています。そして,その99%の情報は処理されていないそうです。つまり,影響力の強い人の情報だけが収集され,共有されるのです。(p7)
 フェイスブックは「いいね!」というあくまでも「共感」の気持ちで押された1クリックを「クチコミ」に変える仕組みを実現してしまいました。これこそがフェイスブックが成功した最大のポイントだとあたしは考えています。(中略)「シェアされなくても情報が広がる」のがフェイスブックを使うメリットなのです。(p26)
 最初にやるべきことは,大きな輪に加わることではなくて,自分の輪を小さくても良いから作ることなのです。(p99)
 リアルとネットをつなげるのがソーシャルネットワークです。「ネットはバーチャル」なんて言葉は完全に古いと言わざるをえません。(中略)ネットで暴言など吐いていると,噂が巡り巡って会社の評判も落とすことになりますし,いきなり解雇なんて話も今後は続々と出てくるでしょう。(p104)
 情報が溢れかえっているソーシャル時代だからこそ,信頼できる人物からの情報というのが大いに役に立ちます。無駄な時間を使わないため,間違った情報に踊らされないためにも,ジャンルごとに信頼できる「キュレーター」を持つことはとても大切です。(p137)
 フェイスブックのソーシャルプラグインを使うと,「いいね!」ボタンや「コメント欄」を自分のブログにも設置することができ,ただのブログがあたかもフェイスブックと連動して一体化したようになります。(中略)中心となるブログにはソーシャルボタン,いわゆる「いいね!ボタン」「リツイートボタン」「+1ボタン」を設置しておくことがとても重要です。(p168)
 でもって,そのためにはワールドプレスのサービスを使うといいと痒い手が届く紹介も。 同じジャンルの本を10冊も読んで,しかも人に解説すれば,あなたのそのテーマに関する知識レベルは,恐らくセミプロ級ぐらいまでにはなっているでしょう。(p206)
 大事なことを1つつけ加えておきます。それが「リアルタイム感」です。そもそもソーシャルメディア自体がリアルタイムメディアであるので,あたり前の話ではあるのですが,ここは強く意識して「演出」していくことが大切です。(p210)
 ネットで陰口を叩いたり,ネガティブな発言をする人の活動時間帯は,だいたいが夜から夜中にかけてが多いです。(中略)夜遅くにフラフラしているから,変な人に遭遇してしまうのであって,主な活動時間帯を朝に変えるだけで,出会える人のレベルがまったく違ってきます。(p242)
● クラウトスコアというのがあるんだそうですね。
 あるコンサルタントの方が,ツイッターのフォロワーが10万人以上いると常々自慢していたのですが,クラウトの「True Reach」を確認してみると,実際には2000人程度にしか情報が届いていないことがわかってしまった,というようなことが起きています。(p68)
 自分の数値も調べることができる。ぼくは調べていない。調べるまでもないからね。

2016.11.20 成毛 眞 『情報の「捨て方」』

書名 情報の「捨て方」
著者 成毛 眞
発行所 角川新書
発行年月日 2015.05.10
価格(税別) 800円

● 副題は,「知的生産,私の方法」。この種の話題は,著者のこれまでの著書でも何度か触れられていた。
 が,その話題だけで1冊にしたのは,この新書が初めて。

● 本書の肝は巻頭(「はじめに」の見出し)に載っている。いわく「価値あることを考えるために,ムダ情報から徹底的に逃げよ」。

● だから,賢い人なら,この1行だけ読めばそれでよくて,本文は読まないで書店の本棚に戻してもかまわないのじゃないかと思う。
 とはいえ,本文も(読みものとして)面白い。

● 次にいくつかを転載しておく。
 前向きな大人たるもの,人と違う判断を下し行動を起こすため,人とは違う判断材料が必要です。極端な言い方をすれば,人とは違う判断材料を手に入れられる(そして手元に残せる)かどうかで,その判断の結果は見えているようなものです。(p21)
 10年前というと,それほど昔には感じられないかもしれませんが,「iPhone」の発売は2007年ですから,2005年にはまだスマホはありませんでした。隔世の感があります。10年前の“常識”で情報について語っていては,完全に時代遅れです。(p31)
 本やテレビで得た情報に対して「ここはどうなっているのだろう」と疑問を抱いてから,現地へ出掛けます。なので,私にとって出掛けた先は,答え合わせの現場です。(中略)答え合わせをしながら歩くのと,漫然と歩くのでは得られる情報量は天と地ほども違います。(p44)
 素人のブログは狭い視野の上に成り立つオピニオンの塊ばかりで,読むに値しないのです。(p48)
 私はベストセラー本は読みません。みんな,つまり大衆が読んでいるような本を読んでいたら,その大衆の中に埋もれてしまうからです。(中略)周りが「自分には関係ない」とスルーしている情報こそ,貪欲に求めていくことが重要なのです。(中略)自分に意外性を持たせることを意識するといってもいいかもしれません。自分の勤務先や肩書きとは,最も縁遠そうなところを攻めてみてはどうでしょうか。(p54)
 テレビは重要な情報源です。しかも,最近はテレビの視聴率は低下傾向とか。観ていない人が多いなら,観ることは周りに差を付けるチャンスです。なぜテレビが有用な情報源といえるのか。それは,テレビは「取材に大変な時間をかけている」からです。(中略)ただ,どんな番組でもネタの宝庫であるかというと,そうではありません。(中略)穴場はBSにあります。(p59)
 学校の外の社会には,学校の内部とは比べものにならない速度で,多彩な質の大量の情報が流通しています。仕事で役に立つような情報は,学校の外でしか手に入らないのです。(p63)
 とびきりの情報は,仲良くなった人からもたらされるというシンプルな事実は知っておくべきです。(p67)
 あまり積極的に摂取すべきでない情報があるのです。それは,自分からはアウトプットしたいとは思わないような情報です。(中略)自分で「出さない」(出す予定のない)情報は,最初から「入れない」のです。(p75)
 それでなくても人間は,聞きたいことだけを聞き,信じたいことだけを信じる動物です。「すごい! 知らなかった」と衝撃を受けた情報ほど,疑ってかかるくらいが,ちょうどいいと言えます。(p84)
 変化がゆるやかな店は,たいてい,長続きします。劇的な変化を繰り返す店は,すぐになくなってしまうことが多いようです。(p89)
 働くのに本当にふさわしい人かどうかは,たとえ面接をパスして入社したとしても,実際に働いてもらうまでは判断できません。これは断言できます。(p99)
 社会人がノートを使うのは,自分の頭に,そこに書いたことを入れるためではなく,入れないためです。忘れてはならないことを,脳の代わりにノートに記憶させるということです。(p104)
 「ネタ帳」に私がメモしているのは,いつか使うかもしれない情報そのものではなく,その情報にアクセスするためのキーワードです。つまり,情報そのものの記憶はインターネットに任せておき,その手がかりだけをファイルに記録していることになります。この手がかりとなるキーワードは多ければ多いほど,新たな情報を自分に引き寄せる機会が増えます。(p109)
 検索エンジンは便利なツールですが,これは,人の情報格差を広げるツールでもあります。ググるためのキーワードたくさん持っている人は,どんどん有益な情報を手に入れていきますが,何も持たない人は何も持たないままです。(p110)
 SNSなどでは実名か匿名かに関する議論があるようですが,私は実名一択。実名にすることで失われるものはほとんどない一方で,得られるものがあまりにも多いからです。(p117)
 実名のメリットはこの後にも具体的に登場する。Facebookで実名を出すことに慣れてきた人が多いのかもしれない。ぼくも最近は実名でやっている。
 ただし,実名でやると無責任なことを言わなくなるから,質の向上につながるという意見には必ずしも与しない。無責任な放言っていうのは,言わない人は匿名でも言わないし,言う人は実名でも言う。匿名なら言うけれども実名になると控える,という人はあまりいないように思える。
 1冊を読み終えてから次を読むのではなく,併読をするのです。その理由は,併読することで,別々の本に書かれている内容が,私の頭の中だけで融合します。すると,それぞれの本の著者が思いもしなかったようなアイデアが生まれることがある。(中略)仕事や家事も“並列処理”で進めると,新しい発見が得られると思います。(p119)
 公言すべきは,苦手なことばかりではありません。好きなこと,夢中になっていることも積極的に表明していくべきです。(中略)より深い情報を教えてもらえるからです。実際の知人に話すのはもちろんのこと,「Facebook」にも積極的に書き込んでいます。「Facebook」に,食べた料理やきれいな景色の写真を投稿するのが悪いとは言いませんが,誰かからの情報提供を得られるようなテーマの投げかけの場として活用することも,考えてみてはどうでしょうか。(p121)
 自分の頭で記憶できることには限りがあります。なので,これはという情報が手に入ったら,人に伝えてシェアすることで,他人の頭も記憶装置として拝借します。しかし,あまりそれをやりすぎると周囲に負担をかけるので,人に話す代わりに「Facebook」に書き込んでいるのです。(p148)
 私が「Facebook」に書くことの何割かは,他人に発表するための投稿ではありません。後ですぐ活用できるようにと,自分のために「書き留めている情報」だということです。(p149)
 社会人たるもの,笑いのないプレゼンだけは避けなくてはなりません。(中略)大勢の前で話をするときには,笑わせられるかどうかが,プレゼンの成功のカギを握るからです。(p152)
 教養とは実は,捨てたつもりで捨てていない情報のことだ,と私は考えています。(中略)教養は,時間をかけていろいろな食べ物を摂取してきたことで,体に備わった血肉のようなものです。おいそれとは構築できないし,だからこそ,捨てたつもりでも捨てきれません。(p165)
 旧石器時代の人類はなぜ,壁画を描こうと思ったのでしょうか。(中略)ひとつ考えられる答えに“単に楽しいから”があります。(中略)やっぱり,描くことは楽しいのだと思います。(中略)つまり,アウトプットは楽しいのです。壁画を描いていた人類と,壁画を描かなかった人類とでは,壁画を描いていた人類のほうがよほど楽しかったに違いありません。(p167)
 使わないことは,その存在を知らないことと同じです。そういうものがあると知っているだけでは無意味なのです。(中略)今後,新しいジャンルのデバイス,これまでになかったサービスが登場したときにも,真っ先にそれを試し,使い続けられるかどうか判断し,使い続けると決めたなら,どんどんアップデートしていくべきです。それが,情報を活用して生きていきたい人が最低限満たすべき条件です。(p173)
● 著者がiPhoneで使っているアプリもいくつか紹介されている。同じものか類似のものが,Androidにもあるだろう。
 惹かれたのは次の4つ。
 Captio メモした内容を自分宛にメールする専用ツール。
 Poet-it Plus ポストイットに書いたメモを撮影するためのもの。他の写真と混じることがないし,複数のメモをまとめて撮影しても,個々に認識してくれる。
 SmartNews ニュースキュレーションアプリ。
 Star Walk 2 空に掲げるとその方向にある星座や人工衛星を表示してくれる。

2016.11.20 アフロ編 『世界一の絶景を見る』

書名 世界一の絶景を見る
編者 アフロ
発行所 新人物往来社
発行年月日 2011.08.28
価格(税別) 1,600円

● 世界最大 自然編,世界最大 建造物編,世界最長,世界最古,世界最高,その他の世界一,の6章立て。世界最高というのは,最も高いという意味。

● 一番印象に残ったのは,イギリスのアイアンブリッジ。1779年にかけられた,世界最古の鉄橋。“産業革命の象徴”と言われている由。
 かつてのイギリスの底力のようなもの。今のイギリスは静かにフェイドアウトしつつあるように思われるが。

2016.11.19 『地球一周 空の旅』

書名 地球一周 空の旅
発行所 パイ インターナショナル
発行年月日 2011.05.16
価格(税別) 1,900円

● 副題は「上空から眺める55の絶景」。で,その副題どおりの本。

● ナスカの地上絵,ヴィクトリア滝,モロッコのマラケシュの街並み,万里の長城,など,有名すぎるスポットを空から眺めて,写真を撮り,それを1冊にまとめたもの。

● 上から俯瞰すると,全体を一望できる代わり,平板な印象になる。写真じゃなくて,ヘリコプターに乗りこんで現地で生を見れば,まったく違った印象になるんだろうけど。

2016.11.19 公文健太郎 『BANEPA ネパール邂逅の街』

書名 BANEPA ネパール邂逅の街
著者 公文健太郎
発行所 青弓社
発行年月日 2010.07.20
価格(税別) 3,400円

● これも写真集。この本が出た数年後に,ネパール大地震が発生した。今のBANEPAはどうなっているのか。

● ネパール人,目つきが悪い。いや,目線が強い。インド人の血が入っているのだろうな。皆が哲学者の風貌をしているが,目先をどう出し抜いて儲けてやろうか,としか考えていないんだろうな,たぶん。
 アーリア系ばかりじゃない。ネパールも人種のルツボなのだろう。モンゴル系,スラヴ系,いろんな顔立ちの人がいる。

● 通り(道路)に集まって繰り広げられる民衆の生活を写している。ほかに,産院の様子。今,産んだばかりと思われる女性の写真もある。どうやって撮ったんだろう。外でウンコしている男の子の写真も。可愛いといえば可愛い。
 総じて,ぼくらが懐かしいと感じる光景を切り取っている。

● 埃っぽいBANEPAの街は,創生間もない頃のアメリカの西部を思わせる。正確にいうと,昔の映画で描かれていたアメリカ西部の街。
 ひょっとしたら,その頃のアメリカの映画関係者は,BANEPAの街をモデルに舞台を作ったのかもしれない。って,そんなことはあり得ないわけだが。

2016.11.19 中川道夫 『上海双世紀1979−2009』

書名 上海双世紀1979−2009
著者 中川道夫
発行所 岩波書店
発行年月日 2010.02.24
価格(税別) 4,600円

● 写真集。1979−2009となれば30年にわたる。その間の上海の変貌は,世界の瞠目を集めるに足るものだろう。
 その間の変化を対比してみたいというのが,写真家の狙いかもしれない。

● この写真が撮られたのは,上海がどんどん変わっていった頃だろう。とはいえ,2016年の現在から見れば,充分に昔であるのかもしれない。
 この本にある上海は,すでに“記録”になっているのかも。

● 1980年代の上海は,まだ貧困が覆っていたように思える。どんどん高層ビルが建って,港が整備される。
 しかし,上海はどことなく荒涼としたたたずまいを見せる。都市の荒野とでも呼びたくなるような気配を感じる。

2016年11月20日日曜日

2016.11.19 山口正介 『正太郎の粋 瞳の洒脱』

書名 正太郎の粋 瞳の洒脱
著者 山口正介
発行所 講談社文庫
発行年月日 2013.12.13
価格(税別) 530円

● 池波正太郎と山口瞳の比較論というのか。あるいは,二人の共通点や相違点から渡世の勘所を炙りだそうとする試みか。著者は山口瞳の息子。

● 若い頃に,山口瞳の作品は全部読んだ。小説も,「週刊新潮」で超長期連載となったエッセイ「男性自身」も,紀行文や対談集も。
 池波さんの作品も食や旅に関するエッセイはだいぶ読んだ(小説は,じつはまったく読んでいない)。
 というわけで,少し懐かしくなって,本書を読んでみた。

● 「あとがき」で著者が二人の違いをまとめている。
 料亭なり旅館のお座敷に二人がいるとすれば,池波さんは旦那であり,瞳は幇間であったろう。池波さんはお座敷で,きちんと旦那として振る舞うことができたひとだ。(中略)瞳のスタンスは,お店の側から見て嫌は客は駄目ということであり,お店の人に嫌われるようなことは止めましょう,ということになる。(中略) これが池波さんの粋であり,瞳の洒脱であった。(p227)
● ほかにいくつか転載。
 座持ちがいいというのは我が家では評価が高いのだった。つまりお座敷には太鼓持ちが必要だという発想であった。(p25)
 池波さん流の旅にはもう一つ,一般の旅人とは大きく違うところがある。当てずっぽうに出かけた寂れた村落でさえ旅心を満喫出来るのは該博な知識があるからだ。「食堂一つない」と書く小さな港町に,栄光の時代があったのを知って歩くのと,知らないで通りすぎるのでは雲泥の差だ。やはり,なにごとにつけても勉強は必要だ。(p39)
 瞳も京都に好んで出かけたが,まず神社仏閣に立ち寄るということをしない。名所旧跡に興味がない。土地土地の美術館などにも寄らない。だいたい歴史というものが分かっていない。だから古刹の由来が分からない。分からないから面白くないので行かない,となる。(p43)
 池波さんは小さなときから癇性で,ということは潔癖病か,銭湯でも上がり湯で何度も身体を洗わないと気が済まない質だったという。これは瞳も同じであった。(p40)
 どうも瞳の発想には競馬でいえば連複(一着,二着を当てるが,その着順は問わない)や麻雀の両面待ちということが多く,別の言葉でいえば二股をかけてリスクを少なくして効果をあげるという発想になるらしい。(p109)
 瞳の場合は原稿用紙を前にしたときは全て,指定された原稿の枚数分の文章がすでに頭の中で出来上がっているようだ。最初の一文字から書き出して,最後の行の最後の升目にきちんと句点を書いて終わる。だから下書きをしないし,清書という作業もない。(p132)
 落ちたからといってガックリはしない。もう,すぐその日から仕事ができる。その考えでいかないと,時間というものがロスになってしまう。なぜというに,ぼくらと一緒に出て行った連中が,一回落ちると二年ぐらい書けないで,みすみす才能がある人がずいぶん討死をして,ついに世に出られなかった人が多いんだよ。(池波正太郎 p133)
 俳優は,見物席からでは想像もつかぬほどのスピードで頭上から降りて来る幕の彼方から湧き起る拍手に酔う。このとき,俳優の脳裡には脚本も演出もない,ただ,自分の演技への陶酔があるのみだ。それでよい。それが俳優の生甲斐なのである。(池波正太郎 p154)
 男のお洒落の中でも重要な時計,眼鏡,万年筆,ライターなどはどうなのだろうか。(中略)池波さんも,瞳も,この点に関しても禁欲的で実用一点張りである。というよりは男のお洒落は実用をもって旨とすべし,という堅い信念があるようだ。(p172)
 しかし,まずかったな,と言うのは一度だけ。こうしたとき,変にこだわったり悔やんだりすることはなかった。やってしまったことはやってしまったことです,という清さ潔さがあった。(p174)
 瞳の嗜好には,その母である静子の趣味について書かなければ理解できない一面がある。なにしろ静子は,篆刻家で陶芸家だが,美食でも有名な当代一の趣味人といわれた北大路魯山人と互角にやりあうとうひとだった。(中略)この母が一流を好んだ。お稽古事は最高の名人に習わなければ駄目だということで,本人も長唄は昭和の大名人と呼ばれた四世,吉住小三郎に師事し,彼の与えた最後の名取りとなる。 「ダンディズムとは,何でも手に入ってしまうひとが持つ虚しさ」という至言があるが,瞳のシニシズムとダンディズムにも同様なものを感じる。(p176)
 外食では単に食事をしているわけではない。職人の技術に対価を支払っているのだ。外食の贅沢とは,自宅ではおいそれと出来ない料理をいただくということなのだ。(p206)
 常連扱いから家族扱いになる,次第にお店の人との距離が縮まり,遠慮がなくなってくる。客が立て込んでくると,注文したものが後回しになったりする。そんなとき瞳は「この辺が引け時」と考える。つまり行かなくなる。いくら親しくなったとはいえ,客は客,である。そこには自ずから,越えてはいけない一線というのがあり,遠慮があるべきだ。(p206)
 あえて反論しないのも瞳流であった。“御派が違う”というような言い方をしていただろうか。考え方の基本が違うひとと話し合ってもしようがない,ということだろう。(p208)
 だいたいにおいて,寿司屋での立ち居振る舞いの礼儀作法というものには,すこしでも美味しいものを安く食べたいという下心が少なからずあるように思える。そこを“粋”というオブラート(これも死語だろうか)で上手くくるむところに妙味があるようだ。(p213)

2016.11.17 永江 朗 『誰がタブーをつくるのか?』

書名 誰がタブーをつくるのか?
著者 永江 朗
発行所 河出書房新社
発行年月日 2014.08.30
価格(税別) 1,400円

● 本書でいう「タブー」とは何か。著者による定義が与えられている。
 法的な根拠のない規制は,自主的な規制だ。マスメディアが自分で自分の手足を縛っている。そういう規制が存在するということをメディア自身が認めている規制もあれば,公式には認めていないものもある。ないことになっている規制だ。ないことになっている規制を「タブー」と呼ぼう。その規制について語ることさえ忌避されているような規制だ。(p31)
● 本書はいわゆる読みものだけれども,学術論文に仕立てることもできるだろう。該博な知識と検証が背後にある。フィールドワークもある。
 もっとも,学術論文に仕立てるなどというのは,あまり賢い人間がやるものではないだろうけど。

● 以下にいくつか転載。
 世の中がひとつの方向に進んでいるとき,それに異を唱える者は嫌われる。この「空気」に国家権力などが加わると,とても息苦しいことになる。(p16)
 雑誌にとってコンビニは重要な販売拠点である。雑誌によっては書店での販売数よりコンビニでの販売数が多いものもある。(中略)そう思って眺めると,世の中の雑誌にコンビニ批判の記事はほとんどない。コンビニはフランチャイズ・オーナーとその家族が過酷な労働を強いられるなど,問題も多いのだけど,それを批判する記事は週刊誌などでもめったに載らない。(p18)
 もしもわいせつ物が国民に深刻な悪影響を与えると本気で考えているなら,たとえITで取り残されようと経済的に孤立しようと,インターネットのアクセス制限をするだろう。それをしないということは,悪影響云々なんて行政だって信じていないのだ。信じていないのになぜ規制はあるのか。(p23)
 国家による規制であれ,民間企業の自主規制であれ,読者であるぼくたちの多くは日常的に規制を規制として意識していない,という現実がある。ぼくたちは息苦しさすら感じていない。自分たちはまったく自由だと思っている。(p23)
 官庁の情報ほど裏取りが必要ではないのか。東日本大震災と東電福島第一原発の事故で明らかになったのは,官庁の情報は油断ならないということだ。警察も含めて,役所・役人は,流す情報をコントロールすることで世論をコントロールしようとする傾向がある。それはもう,彼らの本能みたいなものかもしれない。民はこれに由らしむべし,これを知らしむべからず,というのはいつの時代も権力者とその手先の本音だ。官庁の発表情報を垂れ流すメディアは,役所・役人の道具になり下がっている。(p39)
 宗教がタブー扱いされるもうひとつの理由は,教団や信者たちの抗議の執拗さだ。たぶんこちらのほうが宗教タブーの本質だとぼくは思う。ようするに面倒なことになるのだ,新興宗教にかかわると。(中略)熱心な信者は疲れを知らない。しかも,こうした嫌がらせが信仰の証しであると信じている。(p58)
 「噂の真相」も記事で取次を取り上げたことがあるが,しかしそれは匿名座談会という形式の,しかも社内の不倫がどうこうという,ゴシップとも呼べない程度のものだった。岡留安則編集長に,この記事のつまらなさをなじると,「大手取次についてやれるのはこれが限界。これ以上のことはウチでも無理」と彼は苦笑した。(p80)
 このエピソードは「かもしれない」「かもしれない」の連続である。そして「かもしれない」が伝わり,時には尾ひれがつき,面白がると同時に我が身に降りかかりそうになると「面倒くさいからそういうことはやめよう」と考える。それこそがタブーのメカニズムだ。ここで重要なのは何があったのかという事実ではなく,「あったかもしれない」という憶測だ。(p86)
 本も雑誌も読まれなければその言論は伝わらない。言論は伝わってこそ初めて言論となる。「つくるのはご自由に。でも流通はさせません」では言論封殺と同じである。(p126)
 どうも,「見せたくない」という感情の正当化のために「有害だ」とされているように思える。「見せたくない」という感情は,他者の表現活動を制限するほど強い根拠を持つものなのかどうか,検討する必要がある。(p162)
 法律や条令による規制は,国家や自治体,政治家や法律家がぼくたちに無理やり押しつけるわけではない。新たな規制の背景には,規制を求めるぼくたちの声がある。タブーも規制も一方的,一面的なものではないのだ。(p188)
 ポルノグラフィーは国家によって規制され弾圧されているかのように見えながら,じつは規制されることで存在していた。ポルノグラフィーは規制に依存していた,国家に寄生していたと考えることもできる。その意味では,ポルノグラフィーは国家と対立しているように見せかけて,国家と共犯関係にあった。国家と一体となって,国民の欲望をコントロールし,それを貨幣に替えてきたのではないか。(p198)
 タブーへの侵犯にはスリルがある。それは背徳感ともいえるし,もっと生理的なものかもしれない。(中略)このときの快感はなんによってもたらされるのか。自分の生存を脅かすリスクによってではないのか。自動車が退屈になったのは,安全性が高まったからだ(p209)
 インターネット時代になって,タブー破りが簡単になるかと思いきや,かえって不自由になった。(中略)ブログにしてもツイッターにしても,いわゆる炎上という状況になる。(p214)
 匿名の大衆は常にタブーを求め,タブーを侵犯する者を監視し,侵犯する者を処罰しようとする。タブーとは我々大衆自身の欲望だ。(p215)

2016年11月13日日曜日

2016.11.12 角幡唯介 『探検家,40歳の事情』

書名 探検家,40歳の事情
著者 角幡唯介
発行所 文藝春秋
発行年月日 2016.10.20
価格(税別) 1,250円

● 『探検家,36歳の憂鬱』に続く,角幡さんの2冊目のエッセイ集。文章の才というのは,持って生まれたものなのかねぇ。平明達意の文章だ。
 角幡さんに言わせれば,バカ言うなよ,どんだけ苦労してると思ってんだよ,ってことでもあると思うんだけど,苦吟すれば誰でも書けるかというと,そういうものではないんだと思うんだよね。

● 歳をとったら,若い頃に読んで記憶に残っている小説やエッセイや対談集を再読して,余生を過ごそうと思ってたんだけど,これはできそうにない。
 次々に新しい作家が登場して,面白い作品を発表するからだ。それを読んでいくだけで手一杯で,昔読んだものを読み返すだけの時間は遺されていないように思えてきた。

● それとやはり時代の勢いというものがあって,30年前に読んで感激した作品を今読んでみても,ピンと来ないってところもあるのじゃないかと思う。思うっていうか,そういう経験をすでにしている。
 本は一回勝負。一度読んだら二度目はないというつもりで,時代の今に対峙(というと大げだだけど)すべきなのかなと思うようになった。

● 以下にいくつか転載。
 後悔する人生とは決断できなかった人生であり,後悔しない人生とは決断できた人生のことだ。重要なのは決断できたかどうか,自分の葛藤に主体的に決着をつけられたかどうかであり,どのような結果がおとずれるかはさして本質的ではないとさえいえる。だとすると決断すべきだ。(p9)
 極地の長期旅行において,一日五千キロカロリーという数字はかならずしも人体を健康的に保つには十分な熱量ではない。(p32)
 どこの親も自分は誰よりも育児に手を焼かされたと思いこんでいるので,親にとっての子供の思い出話というのは大体,わが子がいかに手に負えない腕白小僧だったかを語る傾向がある。(p46)
 登山や探検の場合は軽量化をはかるため,極端なことを言えば,これがないと死んでしまうという重要な装備しか持っていかない。だから途中での忘れ物は命にかかわる事態を招きかねない。(p51)
 失くした瞬間こそ死んだほうがいいんじゃないかと思うぐらい焦ったが,探しながら,まあ,どうにかかるか・・・・・・と気をとりなおしていた。立ち直りが早いのは私の唯一の取柄である。キャップがなくなったのなら代用品を作ればいい。(p57)
 七カ月もイヌイット村で生活していると,さすがに郷にいれば郷に従えじゃないが,否応なく彼らの食生活に同化していく。そもそも地元の人と同じ食事をしたほうが経済的に安上がりだ。(p75)
 肉を日々,生食していると身体にビタミンが補給されていることがじつによくわかる。(中略)それになんといっても肉は旨い。(p76)
 コウモリの煮込みはメチャクチャ旨い(味の素が存分に投入されていたので余計,旨かった)。(中略)あのコウモリの見たまんまの姿が味覚に転換されたらコレになるというしかない味で,じつに深みのある味だった。(中略)コウモリで一番旨いのは脳ミソだという。(中略)私も真似してお玉でコツコツ開頭してズルズルズルーっとすすったが,その旨いこと。ドロっと濃厚で,少し苦味のきいたコウモリ独特の味が生きている。(p95)
 一度,彼にトランプの神経衰弱のやり方を教えたことがあったが,彼らはつねに深い密林のなかで鳥やコウモリを追いかけているので,瞬間的な光景を空間的に把握する能力が発達しているのだろう,彼が一度,神経衰弱のルールを覚えると,それからはまったく歯が立たなかったことをよくおぼえている。(p133)
 なんのニオイもせず,清潔で,爽やかな笑顔をかわすこの人たちは,樹木や泥や土や雪や氷や濁流や炎といった万物の根源を形成する自然から切りはなされた世界に住んでいるのだ。そして自然から切りはなされているということは,すなわち自然がもたらす汚いもの,臭いもの,ドロドロしたもの,汚穢なもの,要するに生と死そのものからも切りはなされているのだ。世界の根源から去勢された,上辺だけの,浅薄な世界で,何も知らないまま生きている現代の都市生活者だち。(p140)
 原始人こそすべてを知る者だった。野生のなかで生き抜くために知恵をしぼり,創意工夫をこらし,大胆に,そして細心に行動し,命を連綿とつないだ彼等こそ,この世界の真実を知る者だった。(中略)彼らには自らの判断や行動によって自らの生と死すら決定するという究極の自由が存在していた。(p141)
 人間の生活から遠くへだたった世界。人間の痕跡が感じられない場所。そこにあるのは氷と風と太陽と太陽がつくる影だけだ。私は一匹のイヌとともにそこにいる。私が死んだらイヌは死ぬ。イヌが死んだら私も死ぬ。そのとき私とイヌとのあいだに引かれていたあらゆる区分や差異は消滅し,二つの生物種を規定する異なる概念に意味はなくなるだろう。そこにあるのは私とイヌがある種の契りをむすんでいること,ただそれだけだ。(p171)

2016年11月11日金曜日

2016.11.10 管 未里 『文具に恋して。』

書名 文具に恋して。
著者 管 未里
発行所 洋泉社
発行年月日 2016.10.07
価格(税別) 1,200円

● 著者は「文具ソムリエール」。文具雑誌やムックなどにも頻繁に登場していますね。
 文具ソムリエールとは何かといえば,「私が「あ,いいな」と感じた文房具をご紹介しているだけ,とも言えます。あえて特徴を探すならば,その「いいな」の内容に,機能性よりも見た目や手触り,音などの感性面が目立つことでしょうか」(p2)とのこと。

● 感性面? たとえば,次のようなことだ。
 そのとき,今まで聞いたことのない音がしたんです。箱の中で鉛筆どうしが当たる音でした。「カラカラ」というほど乾いてはおらず,でも「コンコン」というよりは軽やかな,独特としか言いようのない音です。私はその音にすっかり魅了されました。(p77)
 本来が実用品である文房具を感性で選ぶのは,なんだか変な話です。普通は感性よりも機能性が重視されると思います。 でも,実は感性にはとても大切な意味があります。人と人をつないでくれるからです。(中略)誰でも五感で世界を感じていますから,最初に他者に触れるのは五感のいずれかです。(p81)
 ノートや手帳の紙には繊維が粗いものと細かいものがありますが,私は粗いほうが好きです。それは,鉛筆の黒鉛が繊維の隙間に「入っていく」イメージが浮かぶからです。(中略)繊維が見えるような紙に6Bの鉛筆で字を書くと,ゾクゾクします。(p88)
 削り終えてふと紙の上を見ると,削りかすたちがなんともいえない,美しいカーブを描いていたんです。綺麗に向かれたリンゴの皮を,さらに複雑にしたようなカーブです。削りかすに魅力があるなんて,知りませんでした。(p94)
 実は鉛筆は,さらに別の魅力も秘めていました。それは香りです。(p97)
 文房具の特性のひとつは常に自分の視野に入るということですが,好きな色が見えていたら気分も変わりますよね。色は特に重要な要素です。(p112)
● その文具ソムリエールがお気に入りの文具をいくつか本書でも紹介している。
 私の脚が,ある諸ケースの前で止まります。そこには1本のシャープペンシルが飾られていました。(中略)トンボの「ZOOM707」。異色のデザインでした。私の目はくぎ付けになり,胸は高鳴りました。こんなに素敵なペンが世の中にあったなんて・・・・・・。それが初恋でした。(p17)
 アルバイトをはじめて真っ先に買ったのがモレスキンのノートです。(中略)興味を持ったきっかけは「どうしてこんなに高いんだろう」という驚きでした。(中略)でも同時に,素敵だとも思ったんです。(p23)
 パーカーに「ジョッター」という有名なボールペンがあります。ベーシックな「ジョッター フライター CT」が1620円で売られていますが,パーカーを象徴する矢羽クリップといい,飽きのこないデザインといい,価格以上の満足感を得られます。(p53)
 その日の主役が紙なのか筆記具なのかは,気分によって変わりますよね。筆記具の日なら紙には控え目でいてほしい。 控え目というと,たとえばコクヨの「キャンパスノート」はとっても優秀です。(p87)
 私が大好きなペンのひとつに,ぺんてるの「サインペン」があります。108円で買えるこのペンも,高級ペンに負けない魅力を秘めているんですよ。(中略)安価な文房具のいいところは他にもあって,それはデザインがシンプルなことです。サインペンもそう。凝ったデザインは好き嫌いが分かれますが,シンプルなら万人に好かれます。(p120)
 一般に男性のお客様は直線的,女性は曲線的なものを好まれますが,直線的であるしかないペンに,巧妙に曲線を馴染ませたのがカヴァリエです。(p129)
 ラッションプチは,寺西化学工業製品とは思えないくらい「不親切」なペンです。何が不親切って,ペンのどこにも日本語が見当たらないんですよ。(中略)それが,女子高生を惹きつける可愛いデザインになっているんです。(p153)
● 著者の人となりを示唆するエピソード。
 文房具のおかげでなんとか,思春期を乗り切ることができた(p16)
 大学時代の私の情熱の対象は文房具以外にもありました。ひとつは,『CanCam』『JJ』などの,いわゆる「赤文字系」ファッション誌です。(中略)モデルさんたちが使う文房具が気になったからです。(中略)そのうち,あることに気づきました。私が好きなストーリー仕立ての記事には,しばしば主人公たる女性のペットが登場します。面白いのは,そのペットの名前に「ココア」とか「モカ」とかカフェ関係が多いことです。私はペットの名前を追うことが楽しくなり「ペットの名付けと飼い主の性格特性」というテーマで卒論を書くことにしました。(p26) 
  これが卒論のテーマになるのか。社会学部? 文学部? 目からウロコ。卒論って楽しんじゃっていいものだったんだ。苦しみながら書くのは外道かもしれないね。ぼくは卒論って書いたことはないんだけどね。
  考え事が多い日は本を持たずにお風呂に入ることもありますが,手ぶらということはありません。お風呂で浮かぶアイデアって多いじゃないですか。シャンプー中は両手が泡だらけだからメモがとれないのでは,と心配なさる方もいらっしゃるかもしれませんが,不思議なことに,何か思いつくのは決まって湯船の中なんです。(p43)
● その他,いくつか転載。
 外国製ボールペンはインクが「硬い」傾向があり,ぎゅっと筆圧をかけて,かつ,それなりの筆記速度で書かなければインクの出がいまいち,ということがたびたび起こります。(p63)
 海外製ボールペンの書き味に違和感を覚える方向けに,サードパーティー製のリフィルアダプタが売られています(実は私も,モンブランの中身をそっとジェットストリームに替えています)。(p64)
 私の見る限り,ペンなら,ご自分用にお買い求めになる価格の上限がだいたい5千円くらいです。つまり5千円以上のペンは,他人から貰わない限り,自分のものになる機会がないんです。(p69)
 もっとも需要があるのは事務用品で,社員に文房具を配らなければいけない会社がまとめ買いをしてくれていたんですね。ところが2008年のリーマンショックにより,社員向けの文房具の需要ががくんと減ったといわれます。コストカットのためです。 会社からの受注が減ると,メーカーは今まで以上に個人にも目を向けるようになります。その結果,どの文房具もデザインを競うようになりました。(p108)
 女性の存在感は,文房具界では大きいんです。(中略)実は,「大口の顧客」には,女子高生もいました。(中略)女子高生ってカラーペンを大量に持っているじゃないですか。彼女たちは文房具界にとっての大切なお客様なのです。(p109)
 私はいつも思うんですが,文房具って趣味としてはコストパフォーマンスが抜群にいいと思うんですよ(万年筆は確かに高価ですが,文房具全体から見ると例外です)。(中略) 3千円でハイエンドに手が届くんです。普通,物の値段は「エントリークラス」「ミドルクラス」「ハイエンド」をいうふうに分かれていますが,ボールペンは二極化しています。ミドルクラスが極端に少ないんです。ハイエンドの価格が,それほど高くないせいでしょうか。(p116)
 筆記具は価格による機能差がないか,非常に小さいという,とても珍しい実用品です。(p125)
 男性のお客様がお買い求めになるペンの色は,だいたいが黒かシルバーに落ち着きます。(p138)
 「イエローベース」と「ブルーベース」という言葉を聞いたことがある女性は多いと思います。(中略)イエローベースの肌の方は,落ち着いた色のペンを選んでみてください。対して,ブルーベースの肌の方には,ビビッドな色が映えます。(p141)
 男性にとって永遠の定番といわれるのが,黒とゴールドの組み合わせです。ベーシックで,どんな場面にも馴染みます。でも私は,若いうちに買わなくてもいいと思うんです。この色は歳を重ねても似合う色ですから。若いうちは青系の色を楽しんでおくのがいいのではないでしょうか。(p146)
 歳を重ねた男性は恰好よさの「加点」を狙うよりも「減点」を減らしていくスタイルのほうがいいと思うんです。(中略)減点,つまりお腹が出ているとかズボンがヨレヨレだとかの「恰好悪い要素」を極力なくすだけです。(p148)
 20代や30代の女性では,白系や,白にゴールドのカラーをお買い求めになる方が多いですね。(p156)
 百貨店のスタッフの間ではよく知られているらしいことなんですが,お子さんがいるような歳の女性への贈り物は「華やかなものを選ぶべし」が大原則です。地味じゃダメなんです。(中略)真っ赤だと幼くなってしまいますから,原色ではなく少し深みのある,たとえばルビーレッドなどはいかがでしょう。(p157)
 ボールペンをご希望の場合,私ならば,この段階で3本のボールペンをお出しします。3本になるのは,あまりたくさん出してもお客様を混乱させるだけだからです。選択肢となる本数は,経験上3本が限界だと感じます。(p164)
● ぼくはダイスキン+Preppyの300円システムでやっているし,これからもそうであり続けるつもりだから,文具ソムリエールのお世話になるような高みに登ることもないと思う。
 だけど,文具好きあるいは文具フリークの話を聞くのは大好きだ。この本も面白く読みました。

2016年11月6日日曜日

2016.11.06 藤原智美 『スマホ断食』

書名 スマホ断食
著者 藤原智美
発行所 潮出版社
発行年月日 2016.07.20
価格(税別) 1,200円

● 副題は「ネット時代に異議があります」。藤原さんの著書を読むのは,『ネットで「つながる」ことの耐えられない軽さ』に続いて2冊目。
 1冊目のときは,SNSに手を染めていなかったけれども,今はスマホでSNSをやるようになっている。

● 中身を見ていこう。
 ネット社会とは「個が個を意識できる」,言葉をかえれば「あなたがあなただけでいられる」時間を剥奪する社会です。(中略)自己の内面の深みに達するような思考が非常に難しい世界です。(p15)
 ネット以前は,今よりも自分だけでいられる時間を享受していただろうか。ぼく一個に関していうと,そうだとは言い難い。
 著作権とは,権利の保護だけでなく,その作品に対しての責任が明確にされるという意味もあるのです。しかしネット上に存在する情報の多くには実名がない。いったいどこの誰の発言なのか,誰がつくった画像や映像なのか実態がよく分からない。(p68)
 フェイスブックもいつまで実名主義でいるかわからない,とも指摘している。それはそうなのだろう。しかし,実名がないのはじつはマスメディアも同じなのではないか。
 個人の責任を明記しての意見表明は,雑誌と書籍に限られていた。そして,雑誌や書籍は今と同様に,昔もさほどに読まれるものではなかった。
 私たちは日常的にネット上でいろいろな情報を発信していますが,一つひとつは相手や仲間に知られても心配ないものです。しかしバラバラに点在するその情報が誰かによって収集され体系的に統合されたとき,そこから思わぬ秘密が露呈することもあります。(p164)
 手元のスマホはあなたの望み通りに働く従順な道具ではありません。スマホがあなたをプロファイリングによって評価し,いつのまにか操っているということもありえます。スマホの画面を覗いているあなたは同時に,知らない誰かによって覗かれているのです。(p170)
 たしかにそうだろう。しかし,だから何だというのかとも思う。ぼくなんかは自分のかなりの部分をネットに晒しているので,年齢,家族構成の変遷,居住形態(持ち家か貸家かなど)の変遷,興味のありか,性格,職業,食べものの好き嫌いなど,すべてが知られうる。おそらく,年収だってかなりの確度で推測可能だろう。
 しかし,そんなものを知ってどうするのか。知りたければ知るがいいが,知ったところで実益はあるまい。

 その前に,電話帳がネットに上がっていたりするわけだから,自分の住所や電話番号は知られているのだ。実名でネットに発言するということは,それに対して見も知らぬ人からの反発を電話で受けることもあり得るということだ。覚悟のうえだ。
 とはいっても,そんなことをされるようなことは言っていないと思うんだけどね。

 これってSNSやネットだけでなく,クレジットカードや各種ポイントカードからだって,覗かれていることに変わりはない。
 たとえば,ぼくの相方はJALカードをこよなく偏愛してて,スーパーでの買いものから病院の支払まで,すべてJALカードを使っている。マイルの魅力にはあらがえない。となれば,購買履歴も健康状態も,そのほぼすべてをカード会社に把握されていることになる。
 この情報は,おそらく売買の対象になっているに違いない。情報が社外に流出したと騒ぎになることが時にあるけれども,騒ぎにならない情報流出がないわけないだろ,と思う。
 SNSでは,他人に自分のメッセージが受け入れられるということが最も重要なことであり,そのためにはリツイートされたり,ネット上の仲間を介してさらに多くの人に広がるということが目標になります。だから,メッセージの内容はなるべく人目をひくようなもので,しかもとぎれることなく送りつづけなければならない。しかし毎日発信するメッセージなのだから,そんなに価値の高い,有益な内容をつくることは不可能です。勢い,中身は他愛ない,ばかげたものが多くなる。(p69)
 さらに問題なのは「いいね」クリックです。これをたくさんとるには,誰にも分かりやすい,そして平均的な価値観や感覚からはずれないメッセージでなければならない。ユニークで独創的な,あるいはクリティカル(批判的)な主張などは敬遠されます。(中略)このようにSNSを主戦場として言葉をくりだすうちに,他者の視線に合わせるように自分の思考そのものが,実に平均的で奥行きの欠けたつまらないものに変化していく。(p195)
 そのとおりかなぁ。特にフェイスブックにそれを感じる。大半は仲間内でどうでもいい情報のやり取りをしている。
 だいたい,ツイッターと違って140文字の制限を受けないのに,140字を超える投稿がほとんどない。ので,最近はフェイスブックからは足を洗いつつある。
 でも,ツイッターにはユニークや独創的やクリティカルも存在しているのじゃないか。大論はないけれども。
 書き言葉は少しずつ蓄積されていくのですが,ネット言葉は「流れ」のなかにあります。(中略)書き言葉が「私」の中に掘られた井戸に溜まっていくとすれば,ネット言葉は「皆」の間を川のように流れていく。SNSで発信した言葉は,一年もたてば記憶に残っていることはまずありません。(p199)
 たしかに。でも紙の日記帳に書いたことでも,1年もたてばたいてい忘れているだろうよ。

● その他にもいくつか転載。
 学校でも最近は個性という言葉が以前ほどきかれなくなった。代わりに,絆,つながりが重視されます。祭りにおける群衆,学校における集団,あらゆる場所で個から集団へのシフトが進んでいます。(p17)
 人は外部からの情報や刺激が減るほど,さまざまな考えが浮かび,それを消し去ることはなかなかできない。だからただ座ること,座禅が修行になるのです、(p25)
 ものいわぬモノもメッセージを発していて,常に人を新しい消費へと駆り立てます。よほどの片づけ魔でもないかぎり,その人の部屋には,衣服がうんざりするほどのメッセージがあふれているはずです。衣類を捨ててすっきりするというのは,このメッセージを切り捨てるということ。情報の整理整頓です。(p41)
 人間が処理できる情報には量的な限界があります。私たちが暮らしの中で受けとる情報量はその限界値をとっくに超えています。しかし情報をデジタル化すればとりあえずストックして目の前からモノを消すことができる。(中略)「ぼくらはスマホで何でもできる」(『ぼくたちに,もうモノは必要ない』) そう,実はミニマリストとはモノに占有された暮らしからの離脱者であり,スマホを信奉する情報主義者でもあるのです、(p44)
 ネットでは「ミスよりのろまのほうが悪」といわれます。多少の間違いより,ともかくすぐに発信することが正しい,という考え方です。(中略)しかし,私たちにとっての言葉というものは思考そのものです。(中略)スピードが最優先されるネットでは,熟考する,内省する,深く考えるという,言葉による人間的な営為がないがしろにされているのではないか。(p76)
 いくら記録しても自分の中に記憶されていない言葉は,物事を発想したり考えたりするときには役立ちません。それは「私は三〇〇〇冊の本を持っている。だから頭がいい」と威張っている愚かな人にたとえられるでしょう。(p183)
 SNSが「個」の発信ではなく,結果として「集団」への従属を促進する装置のように見えるからです。「私」を伝えているように見えながら,実は「皆」に溶けこむために発信されている言葉,それによって組み立てられるのが,SNS思考です。(p200)

2016年11月5日土曜日

2016.11.05 番外:monmiya 2016.11月号-栃木のラーメン食べたい

発行所 新朝プレス
発行年月日 2016.10.25
価格(税別) 352円

● カレーとラーメンは,カレーでありラーメンであるというだけで旨い。厳密にいえばそうではないけれども,大きくは外れないものだと思う。
 この2つが日本人の2大国民食ではなかろうか。

● 外で食べるものとなると,圧倒的にラーメンだな。長く海外にいた人が帰国してまず何を食べるかというと,多くの場合,ラーメンになるらしい。
 その分,お店の数も膨大にある。しかも栄枯盛衰が速い。したがって,ラーメン店のガイドブックは永遠に不滅だ。

● この雑誌にも多くのお店が紹介されているけれど,新しくできたばかりっていうのもけっこうあるんじゃなかろうか。
 ぼくがしばしば行く店は2つあるんだけれども,どちらも載っていない。載せてくれなくてもいいよっていう店主もいるだろうしね。

● 自分が行く店がガイドブックに載っていないというのも,なかなか乙なものだね。結局,こうしたものは,こういう店があるのか,ほほぅ,と眺めるためにある。
 では,ここに行ってみようか,とはなかなかならない。その背中を押すのに効果があるのは,ガイドブックではなくて口コミ情報になるわけだよね。

2016.11.03 武田友宏編 『方丈記(全)』

書名 方丈記(全)
編者 武田友宏
発行所 角川ソフィア文庫
発行年月日 2007.06.25
価格(税別) 590円

● 行く河の流れは絶えずして・・・・・・,という「方丈記」の冒頭の部分は,たぶん知らない人はいないほどに人口に膾炙していると思う。が,その先は知らない人が多い。
 ぼくもその中の一人。で,今回,この文庫を読むことによって,その蒙が啓かれた。

● 何とも凄まじい時代だった。火災,飢饉,地震など度重なる天災で,都でも餓死する人が引きも切らず。死臭が都大路をも覆った時代。
 公家政権はなす術がない。たぶん,加持祈祷くらいはやったんだろうけど。まさしく,政治は祭事だった。
 武士(平氏)が台頭してくる時期でもあるのだが,これでは政治構造に地殻変動が起こるのも当然かと思われた。

● いくつか転載。
 人皆あぢきなきことを述べて,いささか心の濁りもうすらぐと見えしかど,月日かさなり,年経にし後は,ことばにかけて言い出づる人だになし。(地震(元暦の大地震)直後のしばらくは,だれもかれも,天災に対していかに人間が無力であるかを語り合い,少しは欲望や邪念といった心の濁りも薄らいだように見えた。だが,月日が経ち,何年か過ぎてしまうと,震災から得た無常の体験などすっかり忘れ果て,話題に取り上げる人さえいなくなった)(p88)
 それが人間というもので,そこを責めても仕方がない。今度の東日本大震災でも同じことだろう。こういう部分で人間は賢くなれない。
 永江朗さんが『51歳からの読書術』で,「『日本の歴史』と『世界の歴史』を読んでみて思ったのは,日本の歴史,人類の歴史というのは愚行の繰り返しだということ。人間はちっとも進歩していない。いつも下らないことで争い,つまらないことで人を殺す。(中略)歴史の本を読んでいると絶望的な気持ちになる」と述べている。そういうことなのだろう。
 (長明の方丈は)一見質素に見えるが,意外や大工に特注した高級な部材なのではないか。資産家の一員である長明ならばありうる。なにしろ後鳥羽院に琵琶を献上するほど裕福だった。(p110)
 歌人としても音楽家としても一流だった彼は,ついに風雅の道を捨てることはできなかった。彼は仏者である前に,風雅の人「数奇者」だった。(p115)
 ただ,我が身を奴婢とするにはしかず。いかが奴婢とするならば,もし,なすべきことあれば,すなわち,おのが身を使ふ。たゆからずしもあらねど,人を随へ,人を顧みるより安し。(p137)
 住む環境は危険な都心から郊外に移しながら,情報環境はしっかり都に残している(p145)

2016年10月28日金曜日

2016.10.28 角川書店編 『おくのほそ道(全)』

書名 おくのほそ道(全)
編者 角川書店
発行所 角川ソフィア文庫
発行年月日 2001.07.25
価格(税別) 680円

● 角川ソフィア文庫の「ビギナーズ・クラシックス 日本の古典」シリーズの1冊。『おくのほそ道』の冒頭,月日は百代の過客にして,行きかふ年もまた旅人なり,に初めて接したのは中学校の教科書だったか高校の教科書だったか。
 教科書に出てくるような古典を,ともかく全部読んだのは今回が初めてのことだ。

● この「ビギナーズ・クラシックス 日本の古典」シリーズ,かなり読みやすい。初心者向けの編集というか。
 このあとも,いくつか読んでいこうと思う。短いのがいいから,『方丈記』と『枕草子』あたりかな。

● 『おくのほそ道』は見たまんまを書いているのではなくて,芭蕉があえてフィクションを付与しているのだね。紀行文には違いないのだろうけど,それだけにはとどまらないようだ。
 驚くべき簡潔さ。ほんとに短い作品だ。何度も書き直しているんだろうか。いきなりこれができたわけではないのだろうな。

● 感情表現が大げさっていう印象も受ける。たとえばやたらに泣く。昔の男はこんなに涙もろかったのか。
 感激屋であることが,どの道においても大成するための第一条件であるのかもしれない,とも思うんだけどね。
 千住といふ所にて船を上がれば,前途三千里の思い胸にふさがりて,幻の巷に離別の涙をそそぐ。
 麓に大手の跡など,人の教ふるにまかせて涙を落とし,
 行脚の一徳,存命の喜び,羈旅の労を忘れて,涙も落つるばかりなり。
 「国破れて山河あり,城春にして草青みたり」と,笠うち敷きて,時の移るまで涙を落としはべりぬ。
● あるいは次のような表現。
 耳に触れていまだ目に見ぬ境,もし生きて帰らばと,定めなき頼みの末をかけ,その日やうやう草加という宿にたどり着きにけり。
 たかだか国内を歩くだけだろうがよ,とか思ってしまうんだけどね。この時代のこれだけの旅というのは,命を落とすことも普通にあり得たんだろうか。
 そのわりには,曾良という世話係を連れているし,先々に芭蕉を崇拝する人がいて,手厚いもてなしを受けている。それって,出発前に想定してたことだよね。
 お伊勢参りが流行して,庶民も大旅行をするようになるのはまだ先のことだけれども,芭蕉のこの陸奥行きも,そんなに悲壮な覚悟を要するものだったとは思いにくいんだけどね。

● 「かれは富める者なれども,志卑しからず」という表現もある。この時代から,富める者は志が卑しいものだという通念があったのかね。

● 「書に埋もれて推敲する詩人ではない芭蕉は,時間=旅人→旅=人生という真実を追究するために,書斎を捨てた。だから,その結果として生まれた『おくのほそ道』は,まさに行動の書にほかならない」と解説されている。
 たしかに,芭蕉はモノを持たない。一個所に定住しない。出家者のようでもある。が,案外グルメで,物見遊山が好きで,俗を愛していたのではないかと思える節もあるような。

2016年10月25日火曜日

2016.10.24 小山薫堂 『幸せの仕事術』

書名 幸せの仕事術
著者 小山薫堂
発行所 NHK出版
発行年月日 2012.08.30
価格(税別) 1,200円

● 副題は「つまらない日常を特別な記念日に変える発想法」。読了したあと,何がなし元気になっている。それだけで読む価値があるといえるだろう。

● 小山さんによれば,企画とはサービスであり思いやりである。
 突き詰めていくと,企画とは「サービス」だと思うんです。どれだけ人を楽しませてあげられるか,幸せにしてあげられるか。(p21)
 同じ商品であっても,その背景にどういうストーリーがあるか,どういう思いでその商品が生まれているのかを知ることによって人の心は大きく変わる(p27)
 その例として,イチローの母親が作ったカレーをあげる。大学の授業にイチローの母親に来てもらって,カレーを作ってもらう。午後の講義で学生に「このカレーを食べたい人」と訊いても,昼食を食べたばかりなので,ほとんど手があがらない。
 しかるのちに,種明かしをして,再度「このカレーを食べたい人」と訊くと,ほぼ全員の手があがる。そこにあるカレーは変わらないのに,背景がわかると,評価が一変する。
 僕のベースには,「誰かを喜ばせたい」という気持ちがあります。ユアハピネス・イズ・マイハピネス=「あなたの幸せが,私の幸せ」。これは僕が企画を発想する時の原点です。いつも,どうやって人を喜ばせようかと考えているんです。(p36)
 ものの価値というのは,そこにいかに感情移入できるか,どれだけ好きになれるかで決まるんですね。(p149)
 「究極の企画とは何か?」と訊かれたら,僕はこう答えます。「それは,自分の人生を楽しくすること」「それは,自分が幸せな気分で生きること」(中略)別の言い方をすると,究極の企画とは「自分の中の不安を軽くすること」でもあるでしょう。自分の思いひとつで人生が変わるわけですから,企画とは,実は信仰に近いのかもしれません。(p162)
● その他,いくつか転載。
 本来希望していた現場ではないこともあって仕事がおもしろくないらしいのです。ただ,そこで彼はどうしたかというと,その部署にいる,普段まったく笑わないおばちゃんを笑わせる,ということをひとつの目標として自分に課したそうです。その人がちょっとでもニヤッとした時に「よし,勝った」と思う。これも立派な企画ですよね。(p30)
 僕は「芸術家」ではないので,自分の中からわき出してくる何かを表現したいとか,自分の魂を外に発散したいといった欲求はまったくないんですよ。(p58)
 アイデアのタネは,植物のタネのように,いつか発芽して何かの役に立つかもしれない,というもの。それは単なる「情報」ではなく,自分の体験や見聞からつかんだ内容や考え方です。目の前の仕事にすぐに活かすことはできないかもしれないけれども,そうしたタネをいかにたくさん集めておけるかが重要なわけです。(p67)
 僕は,仕事だけのために人脈をつくろうと思うこと自体,浅ましいと思ってしまう。(中略)いかに利害関係のないところで人と出会い,つながっておけるかが大切なのだと思います。(p78)
 そもそも,人は環境に慣れてしまうと,なかなか目の前にある価値に気づかないものなんですよね。けれども,やはりアイデアのタネは日常の中に落ちているものなのです。(p85)
 僕の場合,日常でアンテナに引っかかったものを逐一メモすることはせず,あえて心の中にしまっておくんです。メモを取ると,その時点で安心してしまうんですよ。それよりも,心の中で思い続けていれば,ある時,具体的なアイデアとなって発芽するものなのだと思います。(p99)
 必要なものにしか目を向けないということは,不要なことはしなくなる,ということ。それでは,可能性は広がらないと思うのです。(p105)
 一見無駄だと思うものの中にこそ,実は人生を豊かにするヒントが隠されているような気がするんですよね。(中略)お肉でも脂身が多い肉って,うまいじゃないですか。なくてもいいけれど,脂身があるから味わい深くなる。(p107)
 僕は最近,観光客誘致というものにやや懐疑的なんですよ。あらゆる地域が,とにかく外から人を呼べば幸せになるだろうと「うちはいいところだから,おいでおいで」と言っている。その割に,地元の人たちは,その「いいもの」をさほど満喫していないような印象を受けます。(p129)
 何をするにも,デザインというのは大事だと思いますね。中途半端というのが一番ダメで,徹底的にやらないと人の共感はなかなか得られません。(p157)
 「こうしなければいけない」という規則なんて,本当はもとからないんですよ。自分の人生は自分で決めるものなのです。ですから,八方塞がりになった時にも,それくらいのことでつぶされるのだから,その道はその程度だったんだと思えばいい。同時に,それよりも別のところに,自分にとってもっと確かなものがあるはずだと考えれば,意外に楽になると思うんです。(p172)

2016.10.24 番外:本屋はおもしろい!!

編者 渡邉秀樹
発行所 洋泉社
発行年月日 2014.11.28
価格(税別) 1,200円

● 表紙と巻頭のインタビューは壇蜜。この種のムックを飾る女優として欠けるところがない。知的な雰囲気を漂わす。実際に読書家でもあるらしい。
 一方で,独特の色香を発散してやむところがない。その分野でも独特の立ち位置を確保している。

● 知性と色香を統合した女優って,かつてなかったのではないか。いや,そういう女優さんはいたはずだけれども,その双方が表に出て,自然に統合されている女優っていうのは,彼女が初めてかもしれないと思う。
 去年はNHKのEテレで中国語講座のナビゲーターを務めた。見事な反射神経で,番組終了時にはかなり話せる程度に上達していたはずだ。

● オリオンパピルスという本屋。立川市にある。
 立川は駅前を歩いたことがあるくらいなんだけど,荒っぽい気風というのか,建て前を排して本音で生きてる人たちの街という印象を持っていた。
 本? んなものがナンボのもんじゃい,という街かなぁ,と。駅ビルには本屋はないようだったしね。そういう街なんだなと思っていた。
 しかし。ちょっと見で決めつけてはいけなかった。オリオン書店が何店舗も立川市内に展開しているのだった。

● 以下にいくつか転載。
 本屋さんに通っていると,書店員という仕事をされている人を尊敬します。本屋に来るお客さんってあまり表情を見せないじゃないですか。だけど,探している本が見つからないと不機嫌になりますよね。当たられることもあるでしょうしね。人のゼロかマイナスの感情に,自我を殺して向き合う仕事なので凄いなと思います。(壇蜜 p5)
 アマゾンよりもリアル書店がいいのは,そのジャンルの全貌が見えることですね。(高野秀行 p7)
 日本のように本屋が大衆的な国のほうが珍しい。(高野秀行 p7)
 日本の本屋に行くとすごくアジアを感じます。アジアから帰ってきたのに,日本の本屋のほうがずっとアジア。(高野秀行 p7)
 (本を読むのは)最近の議員なら,与謝野馨さん,森山眞弓さん,鈴木宗男さんとかかな。でもまぁ,今のセンセイたちは・・・・・・,六法全書を持ってない人もいるくらいだからねぇ(p43)
 日本人の料理人も本を読んで自分で勉強する人は伸びるよね。小僧の頃から先輩につれられてウチに来て,有名になった子も何人もいる。今じゃあミシュランの星獲って,とても高くて行けないけどさ(p53)
 最近は本が売れなくなり,雑貨も並べる本屋が増えてきた。(中略)ところが「混在」させる勇気のある本屋は少ない。「混在」にこそ意味があるのに。(永江朗 p64)
 菊地敬一はヴィレヴァンでいくつか画期的なことをやったが,そのひとつが「新刊やベストセラーを追いかけない」だ。中小の書店が「話題の新刊」やベストセラーを仕入れようとすると膨大なエネルギーが必要になる。それよりも,入手しやすい既刊を掘り下げたほうがずっとおもしろい品揃えができる。(永江朗 p65)
 「人が何か大変なものに襲われる小説」というフェアをツイッターで告知したときは,1200回ぐらいリツイートされましたが,売上げにはあまり影響しませんでしたね。(中略)ネットよりも半径30メートルにどう届けるかですね。(p110)
 ひとつ気掛かりなのは,本屋は本屋同士で仲良くするのに,隣近所の他業態とあまりつながろうとしないことです。(p111)

2016.10.24 番外:本屋さんへ行こう 書店はみんなのパラダイス

編者 杉村貴行
発行所 枻出版社
発行年月日 2011.03.20
価格(税別) 743円

● 特色のある本屋がたくさんあるのだということがわかる。京都の恵文社一乗寺店のほかにもたくさんある。
 ぼくもかつてはそうした特色のある本屋をひとつだけ守備範囲に含めていた。韓国書籍の専門店「三中堂」。
 もともと日本橋の裏路地にひっそりとあったが,阿佐ヶ谷に引っ越した。阿佐ヶ谷に移ってからは一度しか行っていない。

● つまり,ソウルオリンピックを挟んだ時期によく行っていたんですね。空前の韓国ブームが日本を襲っていた時期。
 日本国内で出版された韓国ものは,ここに行けばまずないことはない。韓国で出版された書籍も輸入販売していた。地図や仏像の写真集なんかを買った記憶がある。
 今もあるんだろうか。

● 巻頭にある3人の読書人のインタビューが,この本の最大の読みどころ。その3人とは,映画監督の周防正行さん,スタイリストの高橋靖子さん,モデル・DJのniuさん。
 周防さんのインタビューからひとつだけ転載。
 僕らが小学生のときから教えてもらうのは『もしもこの主人公が自分だったら・・・・・・』みたいな読み方。そうやって自分に引きつけることが,何かを読んだり,観たりすることだと思ってるんです。でも,そんなふうにテキストを引き寄せるのではなく,自分からテキストの向こう側に行って,書かれた世界を生きてみる。そうすることで,その作品をより豊かに感じることができるんです(周防正行 p6)

2016年10月24日月曜日

2016.10.20 かとうちあき 『野宿もん』

書名 野宿もん
著者 かとうちあき
発行所 徳間書店
発行年月日 2012.02.29
価格(税別) 1,500円

● 野宿をする。寝袋にくるまって外で寝る。何のために,と言われても困る。そうしたいからそうしている。
 そうしていると何か面白いことがあるのかといえば,別にそんなことはない。

● でも,野宿をする。あってもなくてもいいものを軽妙なエッセイに仕立てて,1冊を編む。その結果,誕生したのが本書。
 それをやっているのが女性だというのも,本書の特徴のひとつに挙げていいと思う。
 ゆるゆると読む。何が起きるわけではないけれども,面白くてページを繰るのをやめることができない。

● 何でもないことを面白く書くというのは,ひとつの芸だ。文章の芸。
 ただし,読ませようという作為があざといとイヤになる。しかし,読ませるためには,ある程度のあさとさが必要だ。そのあたりが難しいのだろう。

● 以下にいくつか転載。
 「隣の駅で友人が寝ている」 そう思うと,ほくほくした気持ちになる。「一人じゃない」って思えてくる。(p82)
 「野宿の天敵」とはなんだろう。雨,お巡りさん,口うるさいおじさんおばさん,などなど,いろいろ思いつくけれど,「天敵」というなら,それは「ヤンキー」なのではないか,とわたしは思う。(p89)
 「ヤンキーはとても元気だ」「ヤンキーはなんとなく明るいところへと集まってくる」 これが野宿をすることで,わたしが新たに獲得した知識なんだった。(p91)
 シシャモ,のろい。まだ焼けてない。そこで,「木をくべても木をくべても我がシシャモ・・・・・・」などと言い言い,じっと見る。なぜって,暇だからです。だってわたしが今夜ここでやることといったら,お腹をいっぱいにして,眠りたくなったら寝る,それだけなのだ。(p209)

2016.10.17 永江 朗 『51歳からの読書術』

書名 51歳からの読書術
著者 永江 朗
発行所 六耀社
発行年月日 2016.02.25
価格(税別) 1,500円

● 著者が自身の読書スタイルの変遷を語ったもの。読書スタイルの変遷を語ることはつまり,世相の移り変わりを語ることでもある。

● 副題は「ほんとうの読書は中年を過ぎてから」。それが納得できる内容だ。
 が,“ほんとうの読書”ができるためには,若いときから“ほんとうじゃない読書”を重ねていないといけない。そうじゃないと,“ほんとう”かどうかもわからない。

● 以下に転載。
 和歌というのは,どれだけ過去の作品を知っているかが,創作の上でも鑑賞の上でも鍵になる。引用に次ぐ引用で,イメージを借用したり,エピソードを借用したりして,自分の和歌をつくっていく。現代の著作権についての考え方からすると,ほとんどパクリじゃん,といわれかねない。しかしそういうものなのだ。価値観が逆なのだ。パクって引用してイメージを広げるのがすぐれた和歌なのだ。 素晴らしい! ひとりでゼロから生み出せるものなんてほとんどない。クリエイターだ,アーティストだと威張っていても,その創作のほとんどは先人の仕事の上にある。教育というものそれ自体がパクリの練習みたいなものだ。(p23)
 オトナには時間がないのだ。終わりは刻々と迫っている。無駄な本は読みたくない。つい最近まで「無駄こそ人生」なんていっていたくせに。(p34)
 「こんな本はダメだ」という書評があってもいいとは思うけれども,けなすくらいなら無視したほうがいい。(p35)
 『日本の歴史』と『世界の歴史』を読んでみて思ったのは,日本の歴史,人類の歴史というのは愚行の繰り返しだということ。人間はちっとも進歩していない。いつも下らないことで争い,つまらないことで人を殺す。(中略)歴史の本を読んでいると絶望的な気持ちになる。どうして歴史家たちはシニシズムに陥らないのか不思議でならない。(p43)
 『平家物語』を読むと,日本人の性格が一千年前から変わっていないのに呆れた。日本人は人を持ち上げて落とすのが得意なのだ。(p44)
 読んでもわからない文章は,読み手ではなく,書き手のほうに問題があるのだ,という人もいる。そういうこともあるだろうが,すべてにあてはまるとは思えない。(p66)
 本は一冊だけで存在するのではなく,一冊の本の後ろには何百という本があり,それら後ろにある本を読む機会が増えたので,一冊の本がよりわかりやすくなったのだ。(p70)
 古本屋では文学全集がびっくりするほど安い。二束三文ならぬ,一セット三千円状態だ。(中略)ハードカバーの立派な函入りが,新刊の文庫版よりも安い。文学全集や百科事典の古書価格が暴落したのは,整理術や片づけ術の本がベストセラーの常連になるのと相前後してのことだと思う。(p79)
 一九六〇年代後半から一九七〇年代前半に起きた文学全集ブーム,百科事典ブームは,ほんとうに「読むため」ではなく,たんに「見栄のため」に購入する人が支えていたのだろうと推測できる。出版関係者は「本が売れなくなった」と嘆くけれども,「読むため」に購入する読者はあまり変わらないのではないか。(p80)
 ベストセラーはブームが終わってからブックオフで買って読むのがちょうどいい。ほんとうに価値ある内容であれば,一冊百円でも十分に得るところがあるだろう。つまらない本なら,なぜあのときみんなこれに熱狂したのか考える楽しみがある。(p106)
 毎日新聞社が戦後まもなく開始して,いまも継続している「読書世論調査」のデータを見ると,ふだん本を読むと回答する人の比率は,一九六〇年代からほとんど変化していないことがわかる。つまり,よくいわれる「読書ばなれ」は起きていないのだ。それと同時に,中高年が意外と本を読んでいないということもわかる。(中略)しかし,自分が老眼・飛蚊症・白内障になってみると,「こりゃあ,老人の読書ばなれが起きるのも当然だよなあ」と感じることが増えた。(P124)
 普通車の自由席で立ち続けて失われる時間よりも,グリーン車で快適に本を読む時間を買う。自由席で立ち続けたことによる疲労は,その日だけでなく翌日や翌々日にも影響する。(中略)時間を気にせず貧乏旅行ができるのは若者の特権だったのだ,といまにして思う。(p131)
 蔵書は少ないほうがいい。たくさんあると,どの本がどこにあるのかわからなくなる。本棚を見まわして,把握できる本だけを所有するのがいい。(p136)
 ある大学図書館では,亡くなった教授の遺族から寄贈された本が,未整理のまま段ボールに詰められ大量に積まれているそうだ。遺族としては「○○文庫」なんて名前のついた棚が図書館にできるのを夢見ているのだろうけれども,そうした価値のある本をたくさん持っている人は学者でもまれだ。(p139)
 図書館がこんなににぎやかになったのは,いつごろからだろうか。(中略)変わり始めたのは十年ぐらい前からだと思う。利用者が増えた理由はいくつかある。まず図書館の使い勝手がよくなった。開館時間が延び,なかには夜遅くまで開いているところもある。コンピューターとインターネットによる検索システムの充実ぶりも大きい。(中略)利用者の側も変わった。(中略)かつて図書館といえば勉強する学生の姿が多かったが,いまは老人ばかりだ。それも圧倒的に男性が多い。(p168)

2016.10.16 中谷彰宏 『なぜランチタイムに本を読む人は,成功するのか』

書名 なぜランチタイムに本を読む人は,成功するのか
著者 中谷彰宏
発行所 PHP
発行年月日 2016.01.05
価格(税別) 1,300円

● こういうタイトルの付け方は以前からある。“ランチタイムに本を読む人”が成功しているのかどうか。
 成功がお金とか出世とイコールであるなら,ランチタイムに本を読む人は,あまり成功しないんじゃないかと思うが。少なくとも,読まない人との有意差はないのじゃないかと思う。

● 副題は「人生が変わる「超!読書」のすすめ」。「超!読書」というのが何なのか,よくわからない。もっとも,わかる必要のないものではあると思う。

● 以下にいくつか転載。
 家賃の高いところに行けば行くほど,電車の中で本を読む人が増えてきます。家賃の低いところに行けば行くほど,スマホ率が上がります。(p3)
 本当かね。収入と読書率は比例する?
 まとまった時間を読書のために使うのはもったいないです。本は,1分あれば読めるものです。その感覚を持つことです。それが読書の習慣につながるのです。(p23)
 「読書より実践だ」と言う人は,それほど実践していません。本当に実践している人は,モーレツに本を読んでいます。(p38)
 知性のないセクシーは,ただの下品です。(p44)
 お金持ちは,必ずその日に感想を送ります。(中略)感想は,全部読んでから送らなければならないということはありません。まじめな人は,全部読んでから感想を送ろうとします。(p53)
 本を読む人は,最後まで読むことにはこだわりません。途中でやめてもいい権利をちゃんと行使するのです。(p56)
 学歴とは,「社会では持っていても関係ないな」とわかるために持つものなのです。(p60)
 学校は,試験で選抜します。ところが,社会は推薦で選抜されます。試験は,まんべんなく網羅されているとこに対して知識を問われます。推薦は,「こいつ,面白いよ」と言われることです。(p62)
 失敗した人のほとんどは,失敗したところでとまっています。(p72)
 徹夜を1日すると,1週間を棒に振ります。コンスタントに書き続けなければ,職業作家にはなれないのです。(p75)
 本を読んだ瞬間に,一瞬で現実を切り離すことができます。本を読まない人は,常に現実を切り離せません。(p88)
 ネットは情報を仕入れるのが得意で,本は価値観を仕入れるのが得意です。(中略)情報がたくさん入ると,なんとなく自分が賢くなったような錯覚に陥りがちです。本来,賢くなるということは,価値観がひっくり返ることなのです。(p91)
 読んだ本を家に残す必要は,まったくありません。蔵書は,本がなかった時代の本とのつき合い方です。(中略)「読んだ本はブックオフに出す」という覚悟でいると,真剣に読めます。(p110)
 「本が無料だったら読む」と言う人は,結局,無料で手に入るものしか手に入れることができなくなります。本を書く人は,その人の全人生,全財産をかけて,その体験をし,学び,打ち込んでいます。(p114)
 今は「自炊」が流行っています。自炊してる間に読むことをおすすめします。(P124)
 ネットの中に出てくるのは,答えだけです。いかにしてその答えにたどり着いたかがわからないまま答えを受け取るのは,受け身です。受け身とは,イニシアチブを放棄することです。(p146)
 覚えようとしないのが一番正しい読み方です。(中略)結果として頭の中に残っているということが大切なのです。メモを取りながらでは,読書のスピードが落ちます。本は速く読んだほうが面白いです。(p196)

2016年10月16日日曜日

2016.10.14 疋田 智 『電動アシスト自転車を使いつくす本』

書名 電動アシスト自転車を使いつくす本
著者 疋田 智
発行所 東京書籍
発行年月日 2016.08.18
価格(税別) 1,500円

● 電動アシスト自転車は,今や原付バイクよりはるかに売れているらしい。疋田さんが仰るように原付よりずっとエコなんだろうけど,電動アシストといえども自転車なんだから,たぶん歩道を走るよなぁ。
 こんなのが歩道を走って危なくないのかと,まずは思ったんだけど。

● そこも含めて電動アシスト自転車のメリットや可能性を,いろんな方面から分析していく。ぼくは田舎に住んでいるものだから,特に地方の高齢者にとって福音であると説くところに惹かれた。

● 以下にいくつか転載。
 ふと気づくと,周囲の自転車(主にママチャリ)が少しずつ電動アシストに入れ替わっていることに気づかないだろうか。静かだが,しかし,何か力強いものが,そこには息づいている。大げさにいうと,交通社会が変わりつつある。(p2)
 現在,高齢ドライバーがさまざまなところでシリアスな事故を起こし,問題になっている。しかし彼らからクルマを取り上げることなどできない。日本の地方においてそれは完全なライフラインだからだ。だが,もしも電動アシスト自転車が,クルマ需要の大部分を肩代わりできるなら。 事故のシリアスさが減じるだけではない。自転車はそれ自体,ボケ防止になるし,クルマに比べるとはるかに健康との親和性が高い。そして電動アシストならば,高齢者といえど,無理なく走れるのだ。(p6)
 日々,会社まで自転車通勤する私にとって,目の前の東京という街は,一気にフラットな街となった。ほんの少しの「電動アシスト」という力を得ただけなのだ。(p8)
 デザイン全般に言えることだと思うけど,若い女性は「いかにも女性用」「これってフェミニンな感じでいいでしょ?」なんてものにはノラないと今さらながら思う。(中略)本気で考えた上で決まったデザイン「こういう必然からこうなった」「これが本格派なのだ」というものにこそ反応する。このことは,あらゆるマーケティングのヒントになるものと,私は考えている。(p23)
 ルールを守れば安全は後からついてくる。これもひとつの事実だ。もしそれが「自分だけが守る」という状態であっても,効用は変わらない。(p69)

2016年10月11日火曜日

2016.10.11 バリー・C・ターナー 『シューベルト』

書名 シューベルト
著者 バリー・C・ターナー
訳者 橘高弓枝
発行所 偕成社
発行年月日 1998.04.01
価格(税別) 2,000円

● 天才の特徴はいくつかあるのだろうが,ひとつは多作であること。多作であるためには生産過程が迅速であること。シューベルトもそうであったらしい。
 作曲するとき,シューベルトはめったにピアノを使わなかった。机につくと,ペンをかみ,指で拍子をとりながら作曲するのが,いつものやりかただった。(p54)
 シューベルトの作品の多くは,信じられないくらい短い時間に-つまり,ペンを使って曲を五線紙に書きいれるのに必要な時間だけで完成した。しかも,それを決して修正しなかった。(p145)
 シューベルトは,歌曲を日におよそ六曲のペースで書き続け,一年間に一四五曲もの新曲を完成させた。そのなかには,有名な『野ばら』もふくまれている。このように,一八一五年は,新曲が次から次へと泉のごとくわきだした,実りゆたかな一年だった。(p67)
● 無口で人付き合いが得意ではなかった。作曲以外のことは基本的にどうでもよかったらしい。
 もともと無口なシューベルトは,ことばよりも音楽で自分の心のうちを表現するほうが得意だった。(p60)
 シューベルトは,自分の作品を几帳面に保管するタイプの作曲家ではなかった。楽譜をほしがる者がいれば気軽にあたえ,友だちに貸した楽譜がそのままになったり,仲間から仲間へとまわって最後になくなったりしても,さほど気にしなかった。 心配したのは,本人よりも友人のアルベルト・シュタードラーのほうだった。(中略)作曲家自身がずぼらだったために,日の目を見なかったかもしれない傑作の数々を救ったのだ。(p65)
● しかし,何人かの親身になってくれる友人たちがいた。彼らがシューベルトのために動いてくれた。つまり,それだけの何か(その核は音楽の才能だったのだろうが)をシューベルトは持っていたのだろう。
 シューベルトをとりまくこの人びとの輪は,やがて《シューベルティアーデ(シューベルトの仲間)》とよばれるようになった。(p90)
● 他に,ひとつ転載。
 シューベルトの歌曲を比類ない芸術にまで高めている最大の秘密は,ピアノ伴奏にあった。ピアノが単なる伴奏に終わらず,微妙な心理描写の役割までになっているのだ。この手法こそ,シューベルトが,新しく創造した表現方法だった。(p61)