2015年9月30日水曜日

2015.09.30 番外:自転車イベント参加マニュアル

編者 小林豊孝
発行所 枻出版社
発行年月日 2005.05.30
価格(税別) 1,200円

● もう10年前のデータなので,今も同じようなイベントやレースが行われているのかどうかはわからない。が,わからなくても不都合はない。
 つまり,自分が実際にそうしたイベントに参加することはないから。

● なのになぜこういうムックを見ているのかといえば,こういう自転車の楽しみ方もあるんだなっていうのがわかるから。
 わかっても自分は参加しないよ,と。何より,そこまでのレベルに到達していないし,到達したいとも思っていないのでね。

● 自転車は独り楽しみ。っていうか,楽しみは基本独りでしょ。
 誰かと一緒に,あるいはグループで,楽しむ能力がある人はすごいと思うけれど,どうも自分には無理なようだ。

2015.09.28 内田 樹 『下流志向』

書名 下流志向
著者 内田 樹
発行所 講談社文庫
発行年月日 2009.07.15(単行本:2007.01)
価格(税別) 524円

● 「学ばない子どもたち 働かない若者たち」が副題。
 なぜそうなったか。それは子どもたちや若者たちが怠惰だからではなく,むしろ勤勉だからである。愚かであり続けることを全力で維持しようとしているのだ。
 なぜか。そうするように社会から強制されているからである。
 概ね,そのような内容。

● 彼らは社会との関わりを消費者として始めることを強いられている。どういうことか。
 今の子どもたちと,今から三十年ぐらい前の子どもたちの間のいちばん大きな違いは何かというと,それは社会関係に入っていくときに,労働から入ったか,消費から入ったかの違いだと思います。(中略) 社会的能力のない幼児が,成長していく過程で,社会的な承認を獲得するために何をしたかというと,まず家事労働をしたわけです。(中略)親からすれば自分たちの分担すべき家事労働がわずかなりとも軽減するわけですから,当然「ありがとう」とか,「よくやったね」とかほめてくれる。子どもはそれがうれしいし,誇らしい。(中略) ところが,今はそうではない。今の子どもたちは,労働主体というかたちで社会的な承認を得て,自らを立ち上げるということができない。そういう機会をほとんど構造的に奪われている。(p45)
 むしろ,今の子どもに求められているのは,「何もしないこと」です。 子どもが動き回ること自体が家庭内の秩序を乱す壊乱的なファクターであるのですから,できればじっとしていて,割り当てられた空間内で静止していることが子どもの果たしうる最良の貢献である。そういうふうになっている家庭がたいへんに多いと思うのです。「いいから,あなたは何もしないでちょうだい!」という母親たちの怒声を僕たちはずいぶん聞き慣れています(p48)
 消費することから社会的活動をスタートさせた子どもはその人生のごく初期に「金の全能性」の経験を持ってしまう。そのスタートラインにおける刷り込みの重みは想像される以上に大きいと僕は思います。それは単なる拝金主義的傾向が刻印されてしまうということとは違います。そうではなくて,消費主体として立ち現れる限り,買う主体の属人的性質については誰からも問われないということです。 問題は金の多寡ではないのです。「買い手」という立場を先取することなのです。(p51)
 さらに危機的なのは,子どもの目から見て,学校が提供する「教育サービス」のうち,その意味や有用性が理解できる商品がほとんどないということです。(中略)教育の逆説は,教育から受益する人間は,自分がどのような利益を得ているのかと,教育がある程度進行するまで,場合によっては教育課程が終了するまで,言うことができないということにあります。(p54)
 五十分間の授業を黙って耐えて聴くという作業は子どもたちにとっては「苦役」です。彼らはその苦役がもたらす「不快」を「貨幣」に読み換えて,教師が提供する教育サービスと等価交換しようとする。学校において,子どもたちが交換の場に差し出すことのできる貨幣はそれしかないからです。(p57)
 公立の中高の生徒たちに授業に対する「興味がない」という意思表示の激しさにいつも驚かされます。(中略)これ以上だらけた姿勢を取ることは人間工学的に不可能ではないかと思われるほどだらけた姿勢で立ち上がり,いやいや礼をし,のろのろ着席する。僕はこの精密な身体技法にほとんど感動してしまいました。「きちんとした動作をしたせいで,うっかり教師に敬意を示していると誤解される余地がないように」この生徒たちは全力を尽くしている。(p60)
 今の子どもたちが最初に社会関係に登場するときに,労働主体としてではなく消費主体としてであること。それは(当然ながら)彼らの責任ではなく,そういう社会になっていること。ここを指摘したのは著者が初めてではないか。

● この問題をさらに深刻にしているのは,消費主体にとって,自分の知らないことは存在しないことになるということ。
 学力低下の危機的な要素の一つは(中略)子どもたちが,自分たちには学力がないとか,論理的思考ができないといったことを,多少は自覚していても,そのことを不快には思っていないという点にあります。 どうしてそういうことができるのか,僕にはよくわからなかったのです。でも,これを説明できるロジックというのは,よく考えると一つしかない。 それは,彼らは「自分の知らないこと」は「存在しない」ことにしているということです。(p32)
 消費主体にとって,「自分にその用途や有用性が理解できない商品」というのは存在しないのです。そのようなものはそもそも商品としては認識されない。(p52)
● そうした消費=市場原理の特徴は無時間モデルであること。しかし,学びは時間性を本質とするものだから,教育に市場原理を持ち込むことはそもそもできない。
 学びは市場原理によっては基礎づけることができない。これが教育について考えるときの基本です。この基本原則を見逃してしまうと,あとはどのような精緻な教育モデルとつくってみても,どのように斬新な教育方法を考案しても,無駄なことです。(p70)
 母語の習得は最も原型的な学びです。他のすべての学びは,この経験を原型として構築されます。そう断言してよいと思います。 母語の習得を,私たちは母語をまだ知らない段階から開始します。(中略)母語の学習を始めたときは,これから何を学ぶかということを知らなかった。これがたいせつなところです。(中略) つまり,起源的な意味での学びというのは,自分が何を学んでいるのかを知らず、それが何の価値や意味や有用性をもつものであるかも言えないということろから始まるものなのです。というよりもむしろ,自分が何を学んでいるのか知らず,その価値や意味や有用性を言えないという当の事実こそが学びを動機づけているのです。(p74)
 まず,学びがあり,その運動に巻き込まれているうちに,「学びの運動に巻き込まれつつあるものとしての主体」という仕方で事後的に学びの主体は成立してくる。私たちは自らの意思で,自己決定によって学びのうちに進むわけではありません。私たちはそのつどすでに学びに対して遅れています。私たちは「すでに学び始めている」という微妙なタイムラグを感じることなしに,学び始めることができないのです。(p76)
 教育を「苦役と成果」「貨幣と商品」「投資と回収」というビジネス・モデルで考想する限り,それは必ず無時間モデルで下絵を描かれることになります。なぜなら,消費主体は時間の中で変化しない,というより変化してはならないからです。手持ちの貨幣のいくぶんかを投じ,それと等価の商品を手に入れるという交換を繰り返している限り,手持ちの資産は形態は変化するけれど総額は変化しない。それが等価交換プロセスを生きる主体の宿命です。変化することを禁じられているというのが消費主体の宿命なのです。(p182)
● それはまた,子どもたち自身にも過酷な結果をもたらすと著者は言う。
 子どもがまず学ぶべきことは「変化する仕方」です。学びのプロセスで開発すべきことは何よりもまず「外界の変化に即応して自らを変えられる能力」です。「学び」の人類学的意味はそれに尽きます。「学び」は人類と同じだけ古い。それに比べれば,市場経済や等価交換の原理が人間世界に入ってきたのは,ぼく最近のことにすぎません。ですから,市場原理を掲げて学校教育に立ち向かう子どもたちは,いわば,人類学的な進化圧に抗して戦っていることになります。(p82)
 おのれの幼児的欲望を抱え込んで,決して成長変化することのない消費主体のままでいること。市場原理は子どもたちにそうであることを要請します。(p82)
 知性とは,詮ずるところ,自分自身を時間の流れの中に置いて,自分自身の変化を勘定に入れることです。 ですから,それを逆にすると,「無知」の定義も得られます。 無知とは時間の中で自分自身もまた変化するということを勘定に入れることができない思考のことです。(p182)
● 市場原理を支えるイデオロギーは「自己決定・自己責任論」である。しかし,これは官が奨励したもので,かつて流行った(今も流行っているのか)いわゆる「自分探し」も同様である。
 「自分はほんとうはなにものなのか?」「自分はほんとうはなにをしたいのか?」 ちょっと申し上げにくいのですが,このような問いを軽々に口にする人間が人格的に成長する可能性はあまり高くありません。(中略) もし,自分がなにものであるかほんとうに知りたいと思ったら,自分のことをよく知っている人たち(例えば両親とか)にロング・インタビューしてみる方がずっと有用な情報が手に入るんじゃないでしょうか? 外国の,まったく文化的バックグラウンドの違うところで,言葉もうまく通じない相手とコミュニケーションして,その結果自分がなにものであるかがよくわかるということを僕は信じません。(p83)
 この「自分探しの旅」のほんとうの目的は「出会う」ことにはなく,むしろ私についてのこれまでの外部評価をリセットすることにあるのではないかと思います。(中略) 「自分探し」というのは,自己評価と外部評価のあいだにのりこえがたい「ずれ」がある人に固有の出来事だと言うことができます。(p84)
 「何の役に立つのか?」という問いを立てる人は,ことの有用無用についてのそのひと自身の価値観の正しさをすでに自明の前提にしています。(中略)では,「私」が採用している有用性の判定の正しさは誰が担保してくれるのでしょうか? (中略)この個人的な判定の正しさには実は「連帯保証人」がいるのです。「未来の私」です。 「私」に自己決定権があるのは,自己決定した結果どのような不利なことが我が身にふりかかっても,その責任は自己責任として,自分が引き受けると「私」が宣言しているからです。 これが「何の役に立つのか?」という功利的問いを下支えしているのは「自己決定・自己責任論」です。これもまた「自分探しイデオロギー」と同時期に,官民一体となって言い出されたものでした。そして,それが捨て値で未来を売り払う子どもたちを大量に生み出しているのです。(p90)
● さらに。「自己決定・自己責任」は自分でリスクを取るということだけれども,そのリスクは誰にでも遍在的に存在しているものではない。弱者ほどリスクが大きくなる構造がある。
 リスク社会では必ず二極化が進行します。それは,努力におけるごくわずかな入力差が成果において巨大な出力差として結果することがある,ということです。 しかし,リスク社会のほんとうの問題はその次にあります。それは,「このリスク社会をどうやって生き延びるか」という生存戦略の選択において,さらに二極化が進行するということです。 もっとも典型的なのは学校システムにおけるふるまいです。(中略)パイプラインに亀裂が入っているときに,それでもなお学習努力を続けられる子どもと,学習努力を放棄してしまう子どもの間にはあきらかな学力差がつきます。そして,リスク社会では入力におけるわずかな差が,巨大な出力差として現れる可能性が高い。(p96)
 一般的印象としても,社会上層の家庭の子どもたちは下層家庭の子どもたちよりも学力が高いように思われる。(中略) 上層家庭の子どもは「勉強して高い学歴を得た場合には,そうでない場合よりも多くの利益が回収できる」ということを信じていられるが,下層家庭の子どもは学歴の効用をもう信じることができなくなっているということです。ここにあるのは「学力の差」ではなく,「学力についての信憑の差」です。「努力の差」ではなく,「努力についての動機づけの差」です。(p97)
 リスク社会におけるリスクはすべての社会成員に均等に分配されているわけではなく,階層ごとにリスクの濃淡があるのです。そして,自分たちが生きているのは努力と成果が相関しないリスク社会であるということを認め、それゆえ「努力してもしかたがない」という結論を出しているのは,いちばん多くのリスクをかぶっている階層なのです。(中略) まことに奇妙な話なのですが,リスク社会とは,そこがリスク社会であると認める人々だけがリスクを引き受け、あたかもそれがリスク社会ではないかのようにふるまう人々は巧みにリスクをヘッジすることができる社会なのです。(p98)
 失業するのも,ホームレスになるのも,病気になるのも,すべてはそのようなリスクのある生き方を選んでしまった自分自身の責任であるという言い方には,リスクというのは個人的なものだということを前提にしています。 しかし,この言明は論理的にはすでに破綻しています。だって,リスクヘッジというのは一人ではできないことだからです。(中略) リスクをヘッジするためには,少なくとも二人が必要です。Aを選択した人間とBを選択した人間がいて,どちらに転んでも,利益と損失を均等にシェアするという約束が成立している場合にしかリスクはヘッジできない。(p116)
 リスク社会を生き延びることができるのは「生き残ることを集団的目的に掲げる,相互扶助的な集団に属する人々」だけです。ですから,「リスク社会を生きる」というのは,巷間言われているように,「自己決定し,その結果については一人で責任を取る」ということを原理として生きることではまったくないのです。「自己決定し,その結果については一人で責任を取る」というのはリスク社会が弱者に強要する生き方(というよりは死に方)なのです。(p120)
 「迷惑をかけ,かけられる」ような双務的な関係でなければ,相互支援・相互扶助のネットワークとしては機能しません。「誰にも迷惑をかけてないんだから,ほっといてくれよ」というのは若い日本人の常套句です。たしかに,その人は,誰にも迷惑をかけていないのでしょうが,それは他人に迷惑をかけたくないからそうしているのではなく,他人に迷惑をかけられたくないからそうしているのです。自己決定について他人に関与されるのがわずらわしいので,「あなたの生き方にも関与しない」と宣言しているのです。こう宣言することによって,人々は戻り道のない社会的降下のプロセスを歩み始めます。(p126)
 現在の教育の問題は,単に子どもたちの学力が低下しているからということではありません。それが子どもたちの怠惰の帰結であるのではなく,努力の成果である,ということです。(中略) それは「自分のことは自分で決める」という自己決定権に対する固執です。自己決定したことであれば,それが結果的に自分に不利益をもたらす決定であっても構わない。(中略) つねに正しい選択肢を選ぶことができるから自己決定が推奨されるのではない。「私は私の運命の支配者である」という自尊感情のもたらす高揚感が,間違った選択肢のもたらす心身のダメージをカバーできる限り,自己決定は有用である。 だから,「自己決定することはいついかなる場合でもよいことである」という信憑が社会全体に根づいている社会では,自己決定は多くのプラスをもたらす可能性が高い。でも,そうでない社会ではそうではない。そして,日本はそういう社会ではない。(p137)
 選択を強制されていながら,選択したことの責任は自分でかぶることを強いられている。これはどう考えても不条理です。でも,子どもたちはそのことを特に不条理だとも思っていない。(中略)不条理が現実のものであり,ある程度以上の人間によって引き受けられていると,それはもう不条理のようには見えない。(p144)
 日本では,社会的弱者が進んで差別的な社会構造の強化に加担するという仕方で階層化が進んでいる。弱者が自分自身の社会的立場をより脆弱なものとするために積極的に活動している。(p146)
 「未婚化・非婚化」といわれていますけれど,現実には高学歴で高収入の人たちの方が結婚率は高いのです。収入と学歴が下がるにつれて,離婚率,未婚率が上がる。つまり,社会的弱者たちほど支援者が持てないようなシステムになっている。(中略)弱者が弱者であるのは孤立しているからなんです。自己決定・自己責任とか,「自分探しの旅」とかいうイデオロギーに乗せられて,セーフティネットの解体に同意し,自分のリスクを増大させていることに気づいていない。(p238)
● 子どもたちにとっては自分が属する階層がすなわち世界であって,その世界に過剰適応してしまいがちだ。その結果,階層が固定化が促進されることになる。著者は「文化資本」を例にとって説明する。
 子どもたちが「自信を持つ」のは,彼が属する社会集団のおいて支配的な価値観に合致する場合だけです。(中略)「自信を持ちたがる」子どもは自分の属する集団のイデオロギーに過剰反応してしまう可能性があります。(中略) 例えば日本でも,社会上層では「文化資本(いわゆる教養)には差別化機能がある」と信じられていますから,子どもたちは進んで文化資本を身につけようとします。逆に,社会下層では「文化資本には差別化機能がない」という考え方の方が受け容れられやすいので,子どもたちはむしろ積極的に文化資本を拒否するふるまいによって同集団の大人たちからの評価を期待します。(p134)
 階層化がいちばん進んでるのは,(中略)実は文化資本においてなんです。(中略)フランスは階層社会ですから,所属階層が違うと生きる世界が違う。(中略)文化資本は所属階層を表示する「名刺代わり」です。だから,その取り扱いにはみんな非常に慎重です。階層の下の人間がヴィトンとかエルメスを身につけたり,高級レストランで食事をすることは,「ルール違反」というか,ほとんど「経歴詐称」のようなものですから,階層社会では禁忌とされる。 でも,日本は久しくそういうことはなかったわけです。「あいつは野暮だね」くらいのことは言いますけれど,それは所属階層とはあまり関係ない。(p231)
 佐藤学さんから伺ったんですけれど,東大のゼミでももう学生同士の話題が噛み合わなくなってきているそうです。音楽の話とか,美術の話とか,文学の話になると,そういう話題にまったくついていけない学生と,そういう話題がちゃんとできる学生の間にはっきりとした断層が生じている。(中略)いわゆる昔ながらの上流社会の「リベラルアーツ」を身に付けて育ってきた子どもが一方にいて,子どものころから塾通いで勉強だけしてきて,本も読まないし,音楽も聴かないし,美術もわからない・・・・・・というような学生が他方にいる。その落差がもう埋めがたくなっている。(p232)
 文化資本は統計的には正規分布していないんですから,下の方の階層の人は文化資本が豊かに備わっている日本人が存在するということ自体を知らない。日本人はみんな「自分程度」だと思っている。「教養のある人」がどこかにいるということがわかっていれば,自分には教養がないということもわかるし,教養を身につけないとまずいということもわかる。現に,大学に進んではじめて自分に文化資本がないということを知った東大生は必死になってその遅れを取り戻そうとする。でも,自分には文化資本が欠けているということを知らない階層にはそもそも努力するモチベーションがない。だから,階層間の文化資本格差は拡大する一方なんです。(p233)
● 自分が最もギョッとしたのは,次の指摘だ。思いあたる節がありすぎるのだ。そうか,自分は妻や子どもに取り返しのつかない傷を負わせてしまったのかもしれない,と思った。そう,もう取り返しがつかない。
 昔は給料袋というものがあって,月末になると父親がそれを持ち帰り,その日だけはトンカツやすき焼きなど,ふだんと違うごちそうを食べて,扶養者たる人への感謝の意を家族で確認するという行事が行われていました。そんな美風も給料が銀行振り込みになってからはなくなりました。(中略) その結果どうなったかというと,父親が家計の主要な負担者であるという事実は,彼が夜ごと家に戻ってきたときに全身で表現する「疲労感」によって記号的に表象される以外になくなりました。(p64)
 家庭の電化が進んで,主婦の家事労働は劇的に軽減されます。育児を除くと,家事のうちに「肉体労働」に類するものはもうほとんど存在しないと申し上げてよいでしょう。となると,子どもから手を離せるようになった主婦たちが家庭内において記号的に示しうる労働とは何でしょう? それは「他の家族の存在に耐えている」という事実以外にありません。たいへん悲劇的なことですが,現代日本の多くの妻たちが夫に対して示している最大の奉仕は夫の存在それ自体に耐えていることなのです。(p65)
 今の子どもたちには家庭に貢献できるような仕事がそもそもありません。彼らに要求されるのは,「そんな暇があったら勉強しろ」とか「塾に行け」という類のことだけです。(中略)子どももまた子どもなりに「おつとめ」を立派に果たしたことを示そうとします。父や母がそうしているように,充分に不機嫌でありうるということによって,子どもたちは不快に耐えて,家産の形成に与っていることを誇示しているのです。 家族の中で,「誰がもっとも家産の形成に貢献しているか」は「誰がもっとも不機嫌であるか」に基づいて測定される。これが現代日本家庭の基本ルールです。(p66)
● ほかにも多すぎる転載。
 「誰にとっても同じように正しくないソリューション」で合意形成を果たす方が,当事者双方が「私はあくまで正しい」と言い募って合意形成ができないよりも「まし」であるということについての社会的合意は日本社会からは急速に失われつつあるように思われます。(中略) 「つねに正しいソリューションを採択する」という条件が課せられた場合,「正しいソリューション」が何であるかを確定するためには,たいへんな手間ひまがかかります。うっかりすると「正しいソリューション」を採択させるために投じられた努力と時間の総量が,「正しいソリューション」が採択実施されたことによってもたらされる利益よりも大である,ということになりかねません。(p110)
 日本人がリスクヘッジという技術について考えるのを止めてしまって,「正しいソリューションだけを選択し続けなければならない」というような途方もないことを言い出したのは,「間違っても大丈夫」という無根拠な安心に全国民がのどもとまで浸かっていることができているからです。日本人はそれほどまでに無防備なのです。その理由を言い当てることは少しもむずかしいことではありません。 それは戦後六十年間戦争をしたことがなかったからです。(p113)
 「自立」と「孤立」の間には千里の逕庭があるのですが,そのことを指摘した人はほとんどいません。 「孤立している人」にとって,他者はすべて彼または彼女の自由や自己実現の妨害者です。百パーセントの自由を享受するのが「孤立した人間」の目標なわけですから,「他者が存在する」ということ自体がすでに主体の自由を制約することになります。(p128)
 「オレは自立しているぞ」といくら力んでみても,それだけでは自立した人間にはなれません。その人の判断や言動が適切であることが経験的に確証されたために,周りの人々から繰り返し助言や支援や連帯を求められるようになった人が「自立した人間」と呼ばれるというだけのことです。(p129)
 ヨーロッパのニートは階層化の一つの症状です。本人に社会的上昇の意思があっても機会が与えられない。でも,日本のニート問題はそれとは違います。社会的上昇の機会が提供されているにもかかわらず,子どもたちが自主的にその機会を放棄している点に日本固有の問題があります。 「青い鳥」を探して,若い人がどこか遠くへ行ってしまうというのは,昔からよくあったことで,そういうこと自体が悪いというわけではありません。(中略) でも,少数の人だけがやっているときには本人にとっても社会にとっても有用だけれど,それをする人の数が一定数を超えてしまうと,本人にも社会にも弊害が出てくる,ということがあります。たいせつなのは按配なんです。(p151)
 転職を繰り返すのは「よりよい雇用条件」を求めて行われているわけです。しかし,実際には,(中略)階層下降しているケースが多い。 (中略)転職を繰り返している人を見ると,仕事がつまらないから,職場での人間関係に投資しない,仕事の質を上げる努力も怠る,その結果,勤務考課が下がり,つまらない仕事しか与えられなくなり,耐えきれずに転職する・・・・・・という悪循環に陥っている人が多いように思われます。(p154)
 失敗の責任を他人に押しつけて,自分には何の過誤もなく,自分のやったことはすべて正しかったということにすると,その「正しいふるまい」を繰り返さなければならなくなる。人間はそうやって失敗に取り憑かれます。(p156)
 彼らが「有用無用」の判断に際して判断基準に採るのは,学びの場合と同じく,財貨やエロス的愉悦や政治的威信や享楽的な熱狂といった「子どもにもわかる価値」だけです。(p171)
 「実学」というのは,「実際に役立つ知識や技術」ということであると理解されていますが,そうではありません。「実学」とは,それが「実際に役に立つことを高校生でも知っている知識や技術」のことです。「高校生でも知っている」という限定は譲ることができません。どれほど有用な学問でも,高校生にその有用性が理解できない学問は「実学」とは認定されませんから,専攻としては選択されません。(p175)
 「適切な勤務考課ができる人間」というのは,客観的にものが見られて,冷静で,手際のいい人ですから,それ以外の仕事だってできるに決まっている。そういう,企業にとっていちばん重要な人材をあらいざらい評価活動にもっていかれてしまったら,企業はたちゆきません。 実際に,どこの企業でも,ある段階までやって「成果主義はあきらめよう」という雰囲気になってきています。個人の成果を評価するのはいいことなんですけれど,評価コストが評価のもたらす利益を超えることが確実だからです。(p187)
 学校で身につけるもののうちもっとも重要な「学ぶ能力」は,「能力を向上させる能力」というメタ能力です。いうなれば「ものさしを作り出す能力」です。「ものさしを作り出す力」をできあいの「ものさし」で計測できるはずがない。 教育のアウトカムは数値的に評価できない。それは当たり前のことなんです。(p188)
 なぜ貨幣と商品を交換することに私たちが熱中するのかというと,交換が安定的にスムーズに進行するためには,交換の場を下支えするさまざまな制度や人間的資質を開発する必要があるからです。交換そのものよりもむしろ,交換の場に厚みを加えること,それ自体に目的があるわけです。(p193)
 児童虐待の事例がだんだん増えてきていますけれど,これは育児を等価交換で考える習慣の必然の帰結のように私には思えます。(中略) 自分の子どもは自分が作り出した「製品」であり,親の「成果」は「製品」にどんな付加価値を付けたかによって査定されると考えている。その成果が評価されると,親は育児の「成功」というかたちで社会的な自己実現を果たした,と考える。メーカーが工場から送り出した製品の売れ行きや評価に一喜一憂するのと同じメンタリティです。(p196)
 それで子どもの成長を気長に待つということができにくくなっていると思うんです。子どもというのは,意味のわからない行動をする。なんだか訳のわからないことをやる。そういうときに,「この子は何をやっているんだろう」と親もぼうっと見ているのがまっとうな育て方だろうと思うんです。でも,そういう育て方が許されなくなっている。(p197)
 精神科のお医者さんに聞いたんですけれど,思春期で精神的に苦しんでいる子どもたちの場合,親に共通性があるそうです。子どもの発信するメッセージを聴き取る能力が低い親が多い。子どもが発信する「何かちょっと気持ちが悪い」とか「これは嫌だ」とかいう不快なメッセージがありますね。それを親の方が選択的に排除してしまう。というのは,子どもが心身に不快を感じているという情報は,いわば「製品」がノイズを出しているようなものだからです。それは製造過程に瑕疵があるということを意味する。それを親は自分の育児の失敗を意味する記号として理解する。だから,耳を塞いでしまう。(p198)
 自分の理解の枠組みをいったん「かっこに入れて」,自分にはまだ理解できないけれど,注意深く聴いているうちに理解できるようになるかもしれないメッセージに対して,敬意と忍耐をもって応接する。そういう開放的な態度で耳を傾けないとノイズはシグナルに変わらない。ノイズはノイズであり,シグナルはシグナルであるというふうにきれいに切り分けてしまう人には,ノイズがシグナルになる変成の瞬間が訪れない。(p200)
 時間は過去・現在・未来という順序で不可逆的に進行しているわけじゃない。未来までたどりつけないと過去は確定できないし,過去が確定されないと未来は成立しない。時間というのは,そういう高速度で往還する力動的なプロセスなんです。(p201)
 ビジネスが実際の人生といちばん違う点は,やったことに対してすぐにリアクションが返ってくることです。自分の選択が成功か失敗か,すぐに市場の反応でわかる。そして,「マーケットは間違えない」というのは,ビジネスの場合,プレイヤー全員が承認しているゲームのルールです。(中略) 男が仕事をしたがるのは,仕事の方がはるかにシンプルで,アクションに対する成否の反応がすぐに出るゲームだからというにすぎません。(p205)
 けれども,無時間モデルのピットフォールは,あまり気持ちがいいので,「それだけ」になってしまうということにあります。(p206)
 「師であることの条件」は一つでいい,ということだと思うんです。「師であることの条件」は「師を持っている」ことです。(中略) 弟子として師に仕え,自分の能力を無限に超える存在とつながっているという感覚を持ったことがある。ある無限に続く長い流れの中の,自分は一つの環である。長い鎖の中のただ一つの環にすぎないのだけれど,自分がいなければ,その鎖はとぎれてしまうという自覚と強烈な使命感を抱いたことがある。そういう感覚を持っていることが師の唯一の条件だ,と。 弟子が師の技量を超えることなんかいくらでもあり得るわけです。そんなことあっても全然問題ではない。長い鎖の中には大きな環もあるし,小さな環もある。(p210)
 私が技術上のことで質問しても,師は「これこれこうだ,と私は思う」とは言わない。そうではなくて,「私は師からこう聞いた」としか言わない。私見を述べない。師は断言しない人なのです。(平川克美 p219)
 人から尊敬される方法は一つしかないんです。「人を尊敬するとはどういうことか」を身をもって示せるということです。その人に敬意を示す仕方を私たちは,その人が敬意を示している当の仕方を通じて学ぶからです。(p220)
 どういうわけだか,こちらが楽しそうだと,向こうも「ちょっと仕事を出してやらせてみようか」ということになって仕事をくれる。たぶん,何か訳がわからないんだけれど,俺より楽しそうなやつがいるというのが向こうにはどうも気になったんでしょうね。 仕事の原動力というのか,何でもそうなんだけれど,何かわからないけれど,楽しそうな人たちがいると,どうして楽しいのか知りたくなる。(平川 p224)
 「幼児や病人や老人の面倒を押しつけられると私の自己実現の障害になるから,そういうものの面倒は行政が見ろ」と声高に言える人は,「幼児であり,病人であり,老人である自分」を勘定に入れ忘れている。かつて自分がそうであり,これから自分がそうなるかもしれないものとして「家庭内弱者」をとらえたときにはじめて,家庭内の誰かに過度の負担をかけることもなく,行政に丸投げするのでもなく,弱者たちをどういうふうに細やかにすくい上げてゆくかという問題が「自己救済」の問題として立てられることになる。(p236)
 今は孤立した個人と個人が中間的な緩衝帯抜きで向き合っている。これを風通しがいい関係だと思っている人もいると思うのですけれども,やはり,これほどストレスフルな環境に人間は長くは耐えられません。(中略)地縁的なものであれ,血縁の共同体であれ,とにかく複数の人間で構成される相互扶助組織を持っていないと,やっていけないと僕は思います。(p238)
 今は家の中に他人に入り込まれるということに対して強いアレルギーがあります。(中略)たぶん,今は家の中に他人を迎え入れて共生する能力がなくなってしまったということだと思うんです。 これはけっこう重要な能力だと僕は思うんです。ふすまと障子だけの仕切りで公私の切り分けができるというのは,かなり気配りができないとむずかしい。(p241)
 「ニートになったやつは自己責任だから,勝手に飢え死にしろ」というロジックを正論として認めれば,僕たちの社会はこれからも無数のニートを生み出し続けることになる。(中略)「オレのことはほうっておいてくれ」という人々がもたらす社会的コストを減らす方法は,「悪いけれど,ほうっておけない」という「おせっかい」しかないのです。(p244)
 余計なコミュニケーションが人を育てるのです。過不足ないコミュニケーションなんてありえませんよ。(p254)
 今の方がされた「日本社会は均質的で,アメリカ社会は価値観が多様である」というような言い方って,それ自体が日本人の均質的なものの見方の「見本」みたいな言葉づかいだと思うんです。(中略)「均質的だから多様化しよう」という発想そのものがすでにして絶望的なまでに均質的なんです。(p259)
 その人が話を聴く前から持っている手持ちの枠組みの中に聴いた話を全部収めようとする。枠に収まらない部分は全部カット。聴いてわかるところだけ拾う。(中略)そういう人,どんどん増えてますね。(p262)
 都市生活の中でいかに時間性を回復するかというのは,すごく大きな、面白いテーマだと思います。僕の思いつきですけれども,一つあるとすれば,ルーティンを守ることです。日課を崩さない。意外かもしれませんが,都市化のもたらしたいちばん大きな変化は,人々が日課を守らなくなったということだと思っているんです。(中略) そうすると,なんというか,生活がもっとゆったりと平和なんですよ。ルーティンを守って暮らしていると,一日が長いんです。(p265)
 今の子どもたちを見ていると,曜日によってスケジュールが違うし,ご飯の時間も違う。(中略)それに耐えるためには時間意識をむしろ鈍感にしていかないといけない。(中略)寝る時間も食事の時間も風呂に入る時間も,毎日違うような生活をしていれば,体内時計は狂ってくる。日変化もわからなくなるし,四季の変化にも気づかなくなる。(p267)
 天才的プレーヤーというのは,野球でもバスケットボールでもそうでしょうけれど,時間変数込みで,三次元のシミュレーションができる。背走していって,くるりと振り返ると外野フライがすっぽりとグローブに収まるというような芸当ができる。 「待ち合わせ」をするのは,こういう能力開発の基礎訓練だと思うんです。でも携帯のせいで,もう「待ち合わせ」は死語になりつつある。(p269)
 宇宙には起源があり,終末がある。時の始まりがあり,終わりがある。その悠久の流れの中のこの一瞬,という時間のとらえ方ができる人間のことを「宗教的な人間」あるいは「霊的な人間」と呼んでよいと思います。自分がこの広大な宇宙の,他ならぬこの場所に,他ならぬこの瞬間に,他ならぬこの人といっしょにいるという事実に,人知を超えた「何か大いなるもの」の意思を感知できると,人間はとても豊かな気持ちになれる。(p272)

2015.09.28 番外:自転車と旅 vol.2 キャンピングの旅,教えます

編者 田村 浩
発行所 実業之日本社
発行年月日 2010.08.22
価格(税別) 1,143円

● このムックを読むのは,じつは2回目。前回はさらっとページをめくった程度。今回は,文章も含めて丁寧に読んだ。
 というのは,自分も自転車にテントやシュラフを積んで,キャンプしながら全国各地を走ってみたいと思っているので。実際にやるかどうかはわからないけど。

● ので,テントやランタンなど,どんな装備を整えればいいのか,情報を得たいと思った。まったく何も知らない状態なので。
 結果,情報としては充分なものが得られたと思う。走るといっても日本国内の話なので,途中でいくらでも補充が利く。
 実際にやってみて初めてわかることもあるだろう。スタート時点では足りないのは致命傷になることはない。むしろ,過剰に持ちすぎないことが大事だと思う。

● 自転車はランドナーに限るんですかねぇ。ミニベロでやりたいと思っているんですよね。日本一周程度ならそれでもできるんじゃないかと思っていて。
 実際,ブロンプトンを使っている例も紹介されていた。2泊程度の超短期のツーリングだったけど。でも,2泊でも半年でも必要なものは変わらないんじゃないかと思うんですよね。

● キャンプしながら全国を走ってみたいと思うようになったのは,ほんとに最近のこと。だから,やっぱりいいやと思うことになる可能性も高い。ゆっくりじわじわとそういう思いが溜まってきたというのじゃないからね。

2015.09.27 近藤史恵 『キアズマ』

書名 キアズマ
著者 近藤史恵
発行所 新潮社
発行年月日 2013.04.20
価格(税別) 1,500円

● “幸せな数時間”をさらに延長。シリーズ4冊目の『キアズマ』を続けて読んだ。このシリーズは同じ主人公が成長していくというものではなく,主人公は入れ替わり立ち替わりする。
 今回は大学1年生。ひょんなことから自転車部に入部することになって・・・・・・。

● でも,後半で前作『サヴァイヴ』に登場していた赤城さんに会っているから,物語はまだ続くのだろう。

● 腹にもたれない。ほどよい意外性がある。グイグイと読ませていくのは文章の芸もあると思う。短めの文章を積み重ねていく。

● ところが,ぼくは自転車シリーズ以外の近藤さんの小説はまだ1冊も読んでいない。小説ってほんとに読まなくなってしまった。

2015.09.27 近藤史恵 『サヴァイヴ』

書名 サヴァイヴ
著者 近藤史恵
発行所 新潮社
発行年月日 2011.06.30
価格(税別) 1,400円

● 『サクリファイス』と『エデン』は前(2011年)に読んでいる。その続編が出ていることは,迂闊にもほどがあることだけれども,ずっと知らないでいた。
 で,シリーズ3冊目になる『サヴァイヴ』を読むのは今日になった。

● 読み始めれば一気通貫。短編を併せたものだけれども,読み終えると,何となくストーリーがつながってくる。
 取材は当然しているのだろう。選手や裏方のスタッフから色々と話を聞いているに違いない。もちろん,実際のレースは何度も何度も観戦しているだろう。
 でも,それに起伏を与えて,読んでもらえるストーリーに仕立てるのは作家の腕。

● 良質な大衆小説ってことになるんでしょうかねぇ。幸せな数時間を過ごせた。

2015年9月28日月曜日

2015.09.25 内田 樹・釈徹宗 『現代霊性論』

書名 現代霊性論
著者 内田 樹・釈徹宗
発行所 講談社文庫
発行年月日 2013.04.12(単行本:2010.02)
価格(税別) 581円

● 眼からウロコが何十枚も落ちる。ただし,読書で落ちたウロコは,短時日でまた付いてしまうもの。落ちっぱなしになってくれればいいのにね。

● ともあれ。全文を引き写したいくらいのものだ。が,厳選して以下に転載。それでも少々以上に多すぎるか。
 なによりもまず宗教的寛容。ある宗教について,そのクオリティや意義を論じるのは,その次の段階の話だと僕は思っています。(内田 p12)
 政治を語っても,生活文化を語っても,文学や芸能を語っても,僕たちの関心は必ず「その制度文物の宗教的な意味は何か? それはどのように宗教的に機能しているか?」という問いに収斂されます。そして,実際に,この問いはおよそ人間のかかわるすべてのものについて有効な問いまのです。ということはつまり,人間たちは古来あらゆる社会制度を宗教的なしかたで設計し,運用してきたということになります。(内田 p14)
 アナログな世界にデジタルな分節線を引くこと,切り分けられないはずのものを截然と切り分けることこそが人間の本性だからです。そうしないと人間は生きていくことができないのです。現に,「二元論的に世界を切り分けるのはよくない」と主張している人自身,すでに世界を「よいこと」と「よくないこと」に二元論的に切り分けているわけですし・・・・・・。(内田 p16)
 都会だと,目に入るものは刺激が強いし,耳から入ってくる音はうるさいし,臭気も気分のよいものではないし,身体に触れる刺激もとげとげしいものばかりでしょう。それなら自己防衛上,視覚情報も聴覚情報も遮断して,五感の感度を下げるのは当然なわけですよ。(内田 p44)
 低刺激環境にいると,身体感度をかなり上げても,それによって深いな入力を浴びるリスクがない。だから,いつのまにか感覚の回路が全開してしますう。(中略)そういうふうに感覚回路の開いた子たちはコミュニケーション感度がいいんです。(中略)言葉のレベルではなく,非言語的なレベルで「わかる」んです。でもね,ほんとうはそういう能力が生きてゆく上で一番大切な力じゃないかと僕は思うんです。(内田 p44)
 「名前を与えられる」というのは,規定づけられる,縛られる,ってことですから。宗教学的に言うと,「名前は呪術の機能を持つ」ということになります。(釈 p49)
 日本でも明治維新以降,国民はみんな名字と名前をつけられますけど,これはつまり,「個人」という縛りがなかったら近代は成立しないということです。(中略)個人を特定できなかったら,徴税も徴兵もできないわけです。全員が名字と名前を名乗ることによって,近代の呪縛が始まったわけですね。(釈 p50)
 宗教は超歴史的に固定的で,政治だけが変化するというものではない。すべての人間的営為を押し流していく滔々たる巨大な流れがある。宗教と政治を二元的に対立させると身動きがとれなくなる。(内田 p54)
 名前は本来呪術的に機能しているのに,現代人はそれをただの記号として,機械的に処理しようとする。それがいろいろな問題を引き起こしている。(内田 p57)
 僕はご存じのように,父子家庭で娘を一人で育てました。出産こそしなかったけれど,育児はずいぶん真面目にやりました。でも,そのことが僕の自己実現を妨害しているなんて思ったことは一遍もない。どう考えたって僕が業界的に成功することなんかよりも,子どもと一緒にいて,子どもを育てるほうが楽しいに決まっている。ですから,子育てに専念していた十二年間は,学者らしい仕事はほとんど何もしてないんです。翻訳を少しやったくらいで。でも,それで何かを失ったなんて思わない。子育てを通じて学んだことのほうが,その時間難しい本をばりばり読んで学べたことよりも,ずっと大きかったと思う。(内田 p64)
 すでに人口に膾炙している情報を,いつの間にか自分の意見として信じ込んでしまうと,その結果,誰かの都合のよい方向に誘導されたり,操作されることがあるという自覚は必要ですね。その自覚の有無が,大人と子どもの分岐点なのかもしれない。(釈 p67)
 下手でも何でも、芸能でもファッションでも,政治でも法律でも何でも,とりあえず自分なりのフォームができると,それを応用してあるときバアーッといろんなことがわかる,知的快感が連鎖することってありますよね。(釈 p69)
 都市生活には土俗の宗教性がありません。そこで「占い」や「スピリチュアル」がブームとなる。「占い」が都市部ほど盛んなのは,都市生活者がなんらかの縛りを求めていることの表れの一つなんじゃないでしょうか。(釈 p74)
 最大の供養というのは「その人が生きていたらするであろうふるまいを繰り返すこと」だと思うんです。自分が死んだ後も,自分が今しているような日々の営みを誰かが継いでくれると思ったら,死ぬときに気が楽じゃないですか。(内田 p80)
 E阪先生はね,全然叱らないの。歯を見て,「あらー,これは大変なことになってますよ。がんばって闘いましょうね」っていうふうにおっしゃる。要するに「歯を悪くする邪悪な霊」みたいなものを想定して,僕がその無辜なる被害者で,E阪先生と二人で悪と闘うっていう,そういう物語に巻き込んでしまうんです。僕の生活習慣とか,ブラッシング不足とか,そういうことは一切とがめないんですよ。(内田 p92)
 言われて直せるようなら,「生活習慣」なんて言わない。(中略)患者自身をまず免罪する、そうしないと患者自身が「戦力」になりませんからね。(内田 p93)
 逆に言えば,民間宗教者というのは,その場にいるその相手,個人と個人との関係性の中で機能する技法だということです。ですから,いわゆるマス(大衆)を相手にすると,ある意味,詐欺に近くなると思うんですね。詐欺というか,とても罪つくりなことだと思います。(釈 p94)
 荒行や座禅や瞑想をすることで,この世と外部をつなぐ回路が開いて,いろんなものが見えたり聞こえたりするのを,伝統宗教では「単なる生理現象だから,宗教の本質には関係ない」とばっさり切って捨てます。(釈 p100)
 このメジャー宗教の裏バージョンには,だいたい共通する特徴があります。 一つは,超越的唯一性を説くというところです。(中略) さらには,人間がそれに合一することを説きます。唯一絶対なるものと自分が一体となる。ほとんどがこういう構造をとっていますね。ですから,そこでは,変性意識や自己変革といった,自分というものが新たなものに生まれ変わるという体験が重要になります。(釈 p102)
 少し前まではインターネットを使えない人たちが,「デジタルデバイド」により情報にキャッチアップできなくて下流に吹き寄せられると言われてましたけど,現実には,ネットのための初期投資はどんどん安くなっている。(中略)だから,インターネットで遊んでいるのが一番お金がかからない。それが「引きこもり」状態をより容易にしている。その若いネットピープルたちが好む娯楽は,ロックコンサート鑑賞とスポーツ観戦なんだそうです。(内田 p107)
 グローバリゼーションとか男女雇用機会均等法とか,そういう流れにのって,がんがん働いていた若い女性が,どこかで心身の限界に達して,ぷつんと切れる。そしてまったく逆の方向に同じように走りだす。そういうふうに僕には見えます。ペースダウンするわけじゃないし,それまでの価値観からまったく離れようというのでもない。能力主義・成果主義を別のかたちで表現しているような気がするんです。オウム真理教がそうでしたけれど,「表」の能力主義・成果主義で疲れた人たちが,次には「裏」の能力主義・成果主義に飛びついてしまう。(内田 p112)
 若い人たちが宗教やナショナリズムに走るときって,どうも生活実感が希薄なんだな。日々の生活なんてどうだっていい,自分の身体なんかどうなってもいいという,なんだか捨て鉢な感じがする。(中略)具体的で持ち重りのする身体実感に根ざしたものが感じられないんです。(内田 p118)
 ヨーガを実践する「ポスト新宗教」にコミットしている知り合いから聞いたんですけど,師弟関係を嫌がる人がすごく多いらしいんですね。自我が少しでも傷つけられるのを避けるから,頭を下げたり師弟関係を結ぶことなく繋がろうとする。だから,信者をたくさん獲得できるかどうかもそこがポイントや,って言ってましたね。(釈 p119)
 ものごとには必ず裏表があるんですよね。こういう「いいこと」があれば,必ず「よくないこと」がある。対になっている。それがリミッターとして機能していると思うんです。しかし霊能力で商売している人たちというのは,「裏側」のことを言わないですよね。わりと単純なことなんですけどね。たとえば「瞑想は夜してはいけない」なんて当たり前のことなんだけれど。(中略) でも,瞑想することで自分の霊的ステージを上げようといった功利的な発想で修行をしている人は,自分の体感が「こんなことしたくない」とアラームを鳴らしていても,気がつかない。(内田 p125)
 神道というのは共同体を繋げるための宗教です。だからそこには教義とか教えとか,あるいは思想とかは別に必要ないわけです。その代わりに,たとえばみんなで同じタブーを共有したりします。(釈 p131)
 どのような宗教も社会とは別の価値体系を持っています。そうでなければ宗教である存在意味も希薄になってしまうと言ってもいいでしょう。つまりその宗教も,社会と対峙する面があるということです。もちろん,教団内というのは単なる社会の縮図ですので,内部はどこにでも見られる権力構造だったりしますが,いずれにしても,社会とは別のものを提示するところに宗教の面目があるわけです。(釈 p144)
 武道では「胆力」と言うんですけど,「驚かされちゃいけない」ということを教える。「驚かされない」ための秘訣は,いつも「驚いている」ことなんです。(内田 p151)
 「人知を絶した境域における適切なふるまい方」,それを主題にした文学作品が世界性を獲得する。僕はそう思う。(中略) 世界文学になるような作品は,あらゆる時代,あらゆる場所に共通する「どうしていいかわからないときには,どうすればいいか」という難問を扱っているから世界文学になり得る。(内田 p153)
 ふつうに生活している人の枠組みをわざわざ揺さぶって,不安にさせてるんですね。(中略)先祖を供養してないでしょうとか,思わぬ方向から球を投げて,誰もがどきっとするようなことで揺さぶっておいて・・・・・・。マッチポンプですよね,自分で火を点けておいて,うちに頼めば火を消しますよ,というのと同じ手法ですね。(釈 p190)
 死者たちは正しく弔わなければならない。しかし,どのような喪服の儀礼が正しいのかについては誰も確言する権利を持たないし,持ってはならない。(中略)なぜならば,それは本来死者たちの判断に委ねられるべきことだからです。でも,死者は語らない。(内田 p205)
 国民国家という近代的な国家制度はまだできて日が浅い。それはあらゆる人間的制度がそうであるように,いずれ賞味期限が切れて消滅する。長いスパンで見れば,暫定的な制度にすぎない。しかし,これに代わる新しい統治形態が標準的なものになるまでは,国民国家を基準に共同体のありようを考えざるを得ない。(内田 p218)
 一流の詐欺師はできいるだけターゲットに不満を残さない詐欺を行いたいので,そのために,予め「クーラー」という役目の人間をつけておきます。このクーラーは,ふだんからターゲットに対して何かと世話を焼いたり,相談に乗って親切にしたりして,すごく信頼されるようにしておきます。充分な信頼関係ができたところで,詐欺師が詐欺を行うんです。詐欺師はすぐ逃げますが,そこからがいよいよクーラーの出番です。クーラーはこのターゲットに対して,「まあ,よう考えたらこれぐらいで済んでよかったやん」とか「あいつ見てみ。あいつに比べたらずっとましやで」と言って,この人の不満や苦しみを半減させることで,本質的な詐欺の被害から目をそらさせるわけです。(釈 p232)
 現代人は自分と他者の間にはっきりした境界線を引きたがりますね。「自立」や「自己決定」「自己責任」も同じ流れです。だいたい人間は「自己決定」なんかできないし,「自己責任」も取れない。人がなんらかの決断をするときは,いろんなファクターが関与しているわけで,百パーセント自分の判断で事を決めることなんかあり得ない。(内田 p241)
 前に大峰山という女人禁制のところに,性同一性障害者の人たちが入山をこころみたという事件がありましたでしょう。性差別反対を掲げて。女人禁制というのが特異なローカル・ルールであって,一般性がないというのは指摘のとおりなんです。でも,そういうローカル・ルールは非合理的だから撤廃しろと主張している人たちご自身は,性同一性障害の人たちなわけですよね。「自分たちの性の特異なありようを認めろ」と,「強制的異性愛体制で全員を標準化,規格化するな」という主張をしている人たちが,なぜ大峰山の人たちの「宗教性の特異なありよう」は認められないと言えるのか。彼らは自分の特異性には配慮を要求し,他人の特異性には権利を認めない。自分の論理矛盾に気づかずにいられるその愚鈍さが,どうにも僕には耐えられない。(内田 p248)
 行うべき儀礼を表の顔とするなら,行うべきではない儀礼,つまり裏の顔は「タブー」となります。(中略)たとえばヒンドゥー教のカースト制度や,神道のケガレ観は負の側面ですね。(中略) 日本のケガレの観念のユニークなところは,ケガレ状態の人に接触すると,ケガレが伝染すると考えるところです。(釈 p260) 境界線上をタブーとするというのは,タブーについて考える上で大きな手がかりになります。(釈 p269)
 おそらく儀礼の定義というのは,基本的にはその儀礼の起源を言えないということなんじゃないでしょうか。(中略)それができたらそれはもう儀礼ではなくなる。(中略) 起源に遡行すると,最後にはすべてが闇の中に消えてしまう。でも存在している。(中略)僕はこういうものに対して人間はもっと畏れの気持ちを持つべきだと思います。(内田 p276)
 オカルトというのは,「隠された知」というのがもともとの語源なんですけど,「真実は隠されている/私(占い師)はそれに気づいている」という構図が危ないんです。(釈 p278)
 「三十二歳まで結婚できない」と言われたときに,「はあ,そうですか」と言ってしまったら,もう結婚するのは難しくなる。というのは,そんなバカな占いでも,行って三千円払って予言を聞いた以上は,その払った三千円が惜しくなるからです。そこで三千円払った自分の行動を正当化するためには,予言が実現したほうがいい。ほんとに人間って,人生を信じられないほどの安値で叩き売るんです。怖いですよ。(内田 p280)
 「最後にすべては解明されるのであるが,その答えは私が想像していたものとはまったく違うものである」という確信だけが推理小説を読む快楽を担保している。生きる快楽を担保するのも同じ「不可知」だと思うんです。(内田 p282)
 その頃西武が開発した「ロフト」とか「シード」を店舗展開したとき,彼は江戸時代の古地図を参考にしたんだそうです。(中略)江戸の場合,人通りの多い通りには共通性があって,それは,「汐見坂」か「富士見坂」のどちらかだった。ゆるい坂道を歩くと,その先に東京湾が見える通りと,その道の先に富士山が見える通り,そういう坂道に人々は惹きつけられる。(内田 p291)
 われわれが考えることって,だいたい同じようなことです。みんな似たようなことで苦悩し,死について考えたり,死を希求したりします。大切なのは,「それはけっして自分だけが気づいているのではない」という感覚です。(釈 p296)
 自我というのは一種の仮説だと思っているんです。内と外という言い方をしたときに,自我というのは内側のことだと思う人がいるけれど,そうじゃない。外と内の境界面みたいな,皮膜みないなものが自我じゃないかと思います。(内田 p297)
 村上春樹さんもかいていたけれど,作家の条件というのは,自分のヴォイスが見つかるかどうかにかかっている。自分のヴォイスを探しあてたら,あとは無限に書ける。(中略)「ヴォイス」は音声ですからね。ずっと身体的です。声質,音の響き,厚み,奥行き,そういうもの全部含めてヴォイスなんです。自我が操作する道具じゃないんです。インターフェイスなんですよ。(内田 p298)
 たぶん世の中で起こる苦しみの総量というのは一定であって,僕が回避した分のツケを誰かが払っている。そう思ったら,ぞっとして。それからあと自分の幸運を試すようなことは絶対に止めようと思った。(内田 p303)
 ツキってダマで来るんですよね。平均的に来るということはない。いいことは集中的に来るし,悪いことも集中的に来る。いいときに図に乗って「好天モデル」をベースにして生きていると,ある日どかんと不運に遭遇する。(内田 p304)
 宗教というのは,愛とか労働とか言語と同じレベルのものです。「言語って必要ですか」「愛って必要ですか」「労働って必要ですか」「共同体って必要ですか」「空気って必要ですか」「地球って必要ですか」という質問と同じことですよね。それらがあるからこそ,僕たちは現にここにいるわけであって,必要か必要じゃないかなんていう議論ができる論件ではないんです。人間が必要だと思ったから宗教をつくり出したわけではなくて,宗教があったから人間ができた。(中略) 自己決定できない問題について,「必要かどうか」を論じても始まらないです。(内田 p312)
 宗教の戒律だって,「戒律を守る」のではなくて,戒律に守られているんですよ。宗教のエートスを守ることによって危ない場面を避けることができて,守られていくと考えるべきでしょう。(釈 p316)
 「運がいい人」というのは,周りからは「選択するときにいつも正しいほうを選ぶ人」というふうに見えているんだと思います。でも,そうじゃない。「運がいい人」っていうのは選択しない人なんです。分かれ道に至って,「さて,どちらの道を進んだものか」と自問する人は,その時点でかなり運に見放されている。というのは「運がいい人」の眼には道は一本しか見えていないから。(内田 p317)
 繰り返しさまざまなトラブルに巻き込まれる人がいますね。それは,ご自分で「そういう道」を選んでいるからそうなるんですよ。人間だって生物である以上,すべての生物と同じく自己保存の機能が生得的に標準装備されています。だから,危険なファクターが近づけば,「危ない」というアラームが鳴りだす。そのとき(中略)アラームを消してしまう人がいる。そういう人がだいたいトラブルに巻き込まれる。(中略)みんなが「あの人はいい人だよ」と言っても,その人の近くにゆくと自分のアラームが鳴るという場合は,世間の評価よりも自分のアラームを信じたほうがいい。(内田 p317)

2015年9月26日土曜日

2015.09.23 舘神龍彦 『意外と誰も教えてくれなかった手帳の基本』

書名 意外と誰も教えてくれなかった手帳の基本
著者 舘神龍彦
発行所 ディスカヴァー・トゥエンティワン
発行年月日 2014.10.30
価格(税別) 1,400円

● 手帳術を扱った書物はこれまでにもたくさんあって(これからもたくさん出るんだろうけど),すでにすべては言い尽くされているのではないかと思う。
 思うんだけど,目に入ると読んでしまう。

● この本は術を説くものではなく,術が成立する理由をていねいに説明している感じ。以下にいくつか転載。
 (手帳は)出荷時に完成している工業製品ではありません。むしろ,ユーザーが自らの好みに合わせてソフトウェア・アプリをインストールするパソコンやスマートフォンに近いといえます。同じメーカーの同じ型番の手帳であっても,十人十色の使われ方の実態がそこにはあるのです。(p2)
 そもそも,いま手帳に夢中になっている,二十代から四十代くらいの人たちには,「手帳は予定管理のためのものである」という考え方自体,昔のものに感じられるかもしれません。(p22)
 ペンと紙の間にはエロスがある(p24)
 手帳にはパソコンやスマートフォンのようにネット接続機能があるわけではありませんが,そのことが,逆に集中力につながっています。フェイスブックやツイッターから解放されて手帳に向き合うことで,自分との対話ができるわけです。ノートもそうですが,これは紙媒体ならではのメリットです。(p35)
 手帳には必ず余白があります。欄外の余白やメモページはどう使ってもいいわけです。この自由度の高さはスマートフォンのスケジュール管理アプリにはないものです。(p39)
 手帳に予定を記入することで,予定が「見える化」されるのです。予定を書くことで,書かれていない自分の時間と用事を効率化する。これが手帳を使ったスケジュール管理の要です。(p102)
 「手帳を変えるといろいろ変えなければならなくなりますよね」。確かに,それまでと違う手帳を購入すると,記入方法や,どこに何を書くかなど,あたかも部屋を引っ越ししたかのように,やり方を一から考え直す必要があります。(p134)
 筆記具に限らず,文房具に官能性能が求められるのは,そのほとんどが人間の神経が集中している手で扱う道具だからです。だからこそ,私たちは文房具を選ぶのにこだわり,迷うわけです。(p227)
● 手帳の達人が5人,登場。そのひとりが坂下仁氏。手帳に関することではまったくないんだけど,「ビールの代わりに炭酸水をのむ」(p180)と紹介されていたのが,目に入った。
 ぼくも家飲みをやめられないでいるんだけど,缶チューハイの代わりに炭酸水を飲むことで,何とかできないかと思ってね。これ,コーラやサイダーではダメなんだよね。甘味のない炭酸水じゃないと。試してみようかね。

2015年9月25日金曜日

2015.09.23 長谷川慶太郎 『日本経済は盤石である』

書名 日本経済は盤石である
著者 長谷川慶太郎
発行所 PHP
発行年月日 2015.10.02
価格(税別) 925円

● またまた,長谷川さんの新著が出た。出れば必ず買う。

● 本書の内容はタイトルに凝縮されている。
 現在のデフレ下のいても,日本企業は熱心に研究開発投資を続けており,あらゆるイノベーションによって利益を高めている。デフレ基調の世界経済の大きな枠組みのなかで,着実に技術開発を続ける日本企業の未来は絶対的に明るく,「日本の大繁栄」は揺るがないと言えよう。(p155)
● 技術力がすべてを決するというのが,著者の考え方の基本にあるものかと思う。
 その技術力はしかし,小手先の政策や方法論ではどうにもならないところがあって,それこそその国の歴史とか伝統とか,長い間に少しずつ溜まってきたものがモノを言うところがある,と。

● ユーロ圏(の特にギリシャとドイツ)が詳しく論じられている。

● 以下にいくつか転載。
 中国共産党の上層部が繰り広げている権力闘争が大衆デモと結びついたとき,中国の現政権は間違いなく崩壊する。(p50)
 中国は現在,人民元のレートを複数の外貨に連想させる通貨バスケット制を採用しているが,(中略)中国がこのシステムを維持することができなくなり,人民元の取引を変動為替相場制に移行せざるを得なくなったとき,中国経済は崩壊に向けた一歩を踏み出すことになるだろう。(p68)
 ギリシャが今回あれだけ強気な態度を貫いてきた背景には,自国の存在がEUにとって地政学的に不可欠だという自負がある。冷戦期において,ギリシャがトルコとともに,事実上の「反共の防波堤」になった歴史があるからだ。(p79)
 ドイツは今のようにユーロ圏がごたついていても,何も気にしていない。かえってユーロ圏のゴタゴタこそが,ユーロ加盟国の財政政策にドイツが介入できる絶好の口実になってさえいるわけだ。(p87)
 これは非常に大事なことだが,東西ドイツ統一の際,旧西ドイツでは徹底的に左翼が潰された。共産党はもちろん労働組合,社会民主党も潰され,そこに連なる知識人たちも徹底的にパージされている。 その結果,東西ドイツが統合されたあと,労使関係の力のバランスが大きく変わり,雇用主が優勢になった。(中略)ドイツの企業経営者たちは非常に有利な条件で国際競争力を向上させることができたのである。(p93)
 東西ドイツ統合当時,旧東ドイツ外務省には約二〇〇〇人の職員がいたが,統合後に外務省に残れた職員は八人しかいなかった。敗戦とはそういうものである。(p98)
 日本には明治の開国当時から,国際条約をきちんと守る国だという揺るぎない信頼がある。(p109)
 私があらためて素晴らしいと思うのが,日本がかつて,そういう不平等条約を結ばざるを得なかった状況にあったにもかかわらず,明治時代に工業化に成功したことである。(p111)
 ひと頃,「日本企業は成長著しい韓国・中国企業に学べ」と主張するエコノミストや評論家が数多くいた。もちろん,企業経営の優劣は技術力のみによって定まるものではないが,日本は世界のすべての国に対して技術貿易で黒字を計上する実力を持っているというのは非常に重要(p118)
 知恵を売って得た収入でモノを買うことにより,収支のバランスが取れるような国になった場合,日本経済が弱くなるということはあり得ないし,すでに日本はそういう国になっているのだ。(p119) 日本はもうしばらくすると鉄鉱石を輸入しなくても済む国になる。日本国内に,老朽化したビルや自動車といったさまざまなかたちで,鉄鋼の在庫が二五億トンもあるからだ。(p120)
 トヨタは年間一兆五〇〇億円(二〇一五年度)を研究開発に投資しているが,これはもちろん企業の研究開発費としては日本一で,二〇一四年度における同社の株主に対する配当金総額の六三一三億円をはるかに上回っている。 やはりトヨタは大したものだ。「戦力の逐次投入」が下策であるように,研究開発費も小出しではなく,それなりの規模で使わなければ会社に力がついていかない。(p124)
 日本のインフラ輸出には改善の余地も大いにある。 たとえば日本仕様ではオーバースペックになりがちなインフラ設備やシステムを,いかに現地に合ったものに最適化するか。また,事業の採算性などを調べる予備的調査や,現地に密着し,現地の事情にマッチした事業の提案を行うコンサルタントをいかに増強していくか。そして外国人と対等に,ビジネス面でも技術面でも英語で突っ込んだ交渉ができる人材をいかに育てていくか,ということが挙げられる。(p150)

2015年9月24日木曜日

2015.09.23 番外:メンズクラブ11月号増刊 世界スナップ2013

編者 戸賀敬城
発行所 ハースト婦人画報社
発行年月日 2013.09.24
価格(税別) 1,219円

● お洒落さん(男性)のスナップ集。最も多いのはイタリア人。

● このムックというか雑誌というか,2年前に買ったのに,ずっとほったらかしていた。ぼくのお洒落に対する関心はその程度のもの。
 なので,彼らのどこがお洒落なのかピンとこなくてね。が,次々に見ていくうちになるほどお金をかけているなってことはわかってきた。

● いい年こいたオッサンも多数登場。その年になっても腹が出てないのはたいしたものだな。でも,いい年になっても若作りして,戦える男を演出しないといけないんだとすると,ちょっと大変だよなぁ。欧米はそういうお国柄なのかね。

2015.09.23 宮田珠己 『モンタヌスが描いた驚異の王国 おかしなジパング図版帖』

書名 モンタヌスが描いた驚異の王国 おかしなジパング図版帖
著者 宮田珠己
発行所 パイ インターナショナル
発行年月日 2013.04.12
価格(税別) 1,900円

● 「18世紀以前に,ヨーロッパ人によって日本の絵図」しかも,「(ピエール・)ロチの主人公が,実際のナガサキの町を見て幻滅するよりも前の,夢の国であった日本の絵」を掲載して,それを勝手に楽しんでみようという趣向なんだろうか。要するにデタラメなんだけど,当時のヨーロッパ人が日本をどんなところだと思っていたのかがわかる。
 が,学術書の趣もある。

● 当時の彼らが持っていた情報を延長して想像するから,彼らの中の日本は中国だったりインドだったりする。
 マルコポーロのジパングが日本のことを指していたのかどうかもわからないらしい。そうなのか。

● これがわずか300年前のことだったというのが,不思議な気がする。この300年間の変化というのは,想像を絶するものなのかもな。

2015.09.23 米原万里・山本皓一 『マイナス50℃の世界』

書名 マイナス50℃の世界
著者 米原万里
    山本皓一(写真)
発行所 清流出版
発行年月日 2007.01.19
価格(税別) 1,500円

● 厳寒期のヤクート自治共和国(サハ共和国)を訪ねる。北極より寒い,地球の寒極と呼ばれている地域らしい。
 石油を原料とするビニールやプラスチックは使いものにならない。粉々になってしまう。寒いので道路が凍っても滑らないし,川が凍って天然の橋ができる。

● ここに住むヤクートの人たちは,余所に行っても戻ってくる人が多い。住めば都という喩えでは覆いきれない。そういうものなのかと思うしかない。つまるところ,ぼくらの常識は通用しないのだ。

● 1986年に出版されたのを復刊したもの。小学生を読者対象として書かれている。平易でわかりやすいと言えるが,だからといって水準を落としているわけではない。

● 30代の著者の写真も多数。きれいな人だ。椎名誠さんが短い文章を寄せており,当時の著者の様子を彷彿させる。

2015.09.22 栗原良平・栗原純子 『人生を120%楽しむための世界旅行』

書名 人生を120%楽しむための世界旅行
写真 栗原良平・栗原純子
発行所 リベラル社
発行年月日 2014.07.20
価格(税別) 1,500円

● 写真がメイン。各国の景勝地や食事の。これをサラサラと眺めて,自分はどこに行きたいと思うか,何を食べてみたいと思うか,そんなことを確認したかったんだけど,どこにも行きたいと思わなかったし,どれを食べてみたいとも思わなかった。

● うーむ,いかんなぁ。ネットやガイドブックで,疑似体験をしたつもりになっているのかもなぁ。それって最も悪いパターンなんだと思うけどなぁ。

● マチュピチュってこんなものなのか。わざわざ見に行かなくてもいいかなぁ,っていう印象なんだよね。そこに行くまでの過程や現地での空気の中で見れば,ぜんぜん違った印象になるんだろうとは思うんだけど。
 前日に読んだ『新装改訂版 WORLD JOURNEY』では,行って良かったところとして,イースター島とウユニ塩湖をあげている人が多かったが。

2015年9月23日水曜日

2015.09.21 高橋 歩編 『新装改訂版 WORLD JOURNEY』

書名 新装改訂版 WORLD JOURNEY
編者 高橋 歩
発行所 A-Works
発行年月日 2015.05.14
価格(税別) 1,500円

● 2005年に発行された『WORLD JOURNEY』の新装改訂版。当時の時代の空気がかなり,というかたっぷりと,残っている。

● インターネットで航空券やホテルの予約ができるようになり,現地の情報も溢れるほどに流れている。むしろ,それらの情報に振り回されないことが肝要だと思えるくらいだ。
 世界一周航空券などというものもある。世界一周に出る前の壁はかなり低くなっているように思える。

● 実地に旅行した人の声を集めているので,これから出かけようとする人たちにとっては,参考になるのだと思う。
 という,ありきたりの感想。

2015.09.21 松尾たいこ・江國香織 『ふりむく』

書名 ふりむく
著者 松尾たいこ:絵
    江國香織:文
発行所 講談社文庫
発行年月日 2010.09.15(単行本:2005.09.15)
価格(税別) 419円

● 巻末の解説は永江朗さん。そこでも解説されているけれど,まず松尾さんの絵があって,そこに江國さんが文章を付けている。

● したがって,読者である自分もまず絵を見て,自分だったらその絵からどんな妄想を得て,それをどんな文章にするだろうかとチラッと考えてから,文を読んでいくことになる。
 で,たいていの場合は,何の妄想も得られないわけだ。「作家の想像力というか妄想力には驚かされます」(p54)という結果になる。

2015.09.20 川内有緒 『バウルの歌を探しに』

書名 バウルの歌を探しに
著者 川内有緒
発行所 幻冬舎文庫
発行年月日 2015.06.10(単行本:2013.02)
価格(税別) 690円

● 副題は「バングラディシュの喧噪に紛れこんだ彷徨の記録」。
 たった12日間の旅を1冊の本に仕立てるのか,美味しすぎないか,と思って読み始めたんだけど,あたりまえのことながらそうではなかった。前後にたっぷり元手がかかっていた。

● まず,転載から。
 もう十年以上も国際協力の仕事をしてきて,南米やアジア,アフリカでホームレスや病気の子どもを大勢見てきた。そういう人のために役に立ちたいと思って就いた仕事だったが,いつの間にか何も感じなくなっていた。たぶん辛すぎる現実を前に,ずっと思考を停止させていたのだ。そのせめてもの免罪符が国連で働いていることだった。 しかし,自分はただの旅人になり,今日,見てしまった。 あの(新聞売りの)少年の目。 カメラを向けた時の少し緊張したような,照れたような,悲しそうな目。まっすぐな背中。新聞を握りしめる小さな手。汚れたTシャツ。 彼は小さな体で,このバングラディシュという国が背負ってきた業,貧困,差別というすべてを背負っていた。少年は写真を撮った私に,何も求めなかった。言葉も発さなかった。ただレンズの向こう側からじっと見つめ返した。(p332)
● こういう視点を持てる人が書いたものが面白くないはずがないじゃないか。同時に,こういう視点を持ってしまった人は,もの書きになるしかないんだろうなとも思う。
 ものを書くことを業とする人は,なるべくしてそうなるのであって,努力とか修練とか,そうした人工的な作為でもって道をつけるのではないようだ。
 文章力や構成力も舌を巻くしかないもので,やはりもの書きはなるべき人がなるのだろう。

● バングラディシュが好きになった。バングラディシュに行ってみたくなった。
 自分が行くと,本書の世界はまったく見えなくて,人いきれの中でたんに疲れて帰ってくることになりそうだけど。

● ノンフィクションだから量産は利かないだろうし,量産できるタイプの文章ではないと思われる。その分,フォローしやすいかもしれない。
 宇都宮の書店では,本書以外の著者の作品はなかったので,東京に出るときに大きな本屋を覗いてみることにする。アマゾンでもいいんだけど。

2015.09.20 山本敏行 『日本でいちばん社員満足度が高い会社の非常識な働き方』

書名 日本でいちばん社員満足度が高い会社の非常識な働き方
著者 山本敏行
発行所 ソフトバンク クリエイティブ
発行年月日 2010.12.06
価格(税別) 1,400円

● この本は以前に読んで,しかもこのブログに感想もアップしていた。のに。読んだことをすっかり忘れてて。
 今回また読んだわけだけど,読み終えたあとも,一度読んでいることにまったく気づかなんだ。

● けれども,一度目とは気になる箇所が異なるらしく,そういう意味では読み返して良かったよ,と自分を慰めてみる。
 ただし,気になる箇所が異なるのは,自分が成長したとか成熟したとか,そういうものによるのではない。たんに,そのときの自分が置かれた状況の違いによる。

● では,気になった箇所を転載。
 怒られてやる気が出るなんて,ウソです。そんな人は,見たことがない。ほとんどの場合,上司に怒られた社員は,その根本原因よりも怒られた事実にとらわれてしまうのでは?(p51)
 怒らないことによるメリットのほうが大きいのです。会社の雰囲気が悪くならない,怒られないことで逆に自問自答して次は気をつけようと思う,怒ることに時間をとられないなどいいことずくめです。(p52)
 部下に成果が出ないからといって怒ったとしても,怒られないために頑張るようなモチベーションは長続きしません。(p52)

2015年9月22日火曜日

2015.09.19 太田英基 『僕らはまだ,世界を1ミリも知らない』

書名 僕らはまだ,世界を1ミリも知らない
著者 太田英基
発行所 幻冬舎文庫
発行年月日 2015.06.10(単行本:2014.08)
価格(税別) 690円

● 本書もバックパッカーによる世界一周の記録といっていいんだろうけど,類書にはない大きな特徴がある。放浪記ではないということ。
 僕はまず,今回の世界一周の旅で取り組むテーマを決めた。二つ。(中略)20代の若者を中心に,世界を舞台に生きる魅力を伝えたい,世界を舞台に働くことは楽しいことなんだと伝えたい。そのために,世界各地でビジネスというフィールドで頑張っている日本人を訪ね,彼らのことをインターネット上でレポートしていくことに決めた。(中略) もう一つは,とにかくインターネットサービスをフル活用しながら,お! この人オモシロそうだな!と思う人がいれば,どんどんアポイントを取る。そうして世界中の人と交流すること,学ばせてもらうことだった。(p33)
● その結果どうなったかというと,放浪よりはビジネス交渉のような趣が前面に出るような旅になったようだ。 
 日によっては人と逢う予定が5件ぐらいあって,朝から晩まで観光そっちのけで様様な出会いを全力で楽しんできた。『どこへ行くか』よりも『誰と出逢うか』。僕の旅の醍醐味は人との出逢いだった。(p6)
● もうひとつ。出かける前に英語力を鍛えていること。フィリピンで3ヶ月間,英語漬けの日々を送った。マンツーマンでレッスンを受ける英語留学だ。その3ヶ月間,必死こいて勉強したらしい。あとは,旅をしながらさらに鍛えていった。
 『英語ができなくても旅は楽しめる』とはよく聞く言葉。それを否定はしないけれども,『英語ができれば旅はもっと楽しくなる』というのは間違いない。(p39)
 本当にシャイな人間は海外に出てこない。海外に出てきて,それでもシャイと呼ばれる人間は,きっと僕のように英語力が足らなくて,みんなが何を言っているのか見失ってしまった人のことなんだと思った。(p64)
 スペイン語についても同様で,スペイン語圏の中米に入ってまずやったことは,スペイン語の勉強だ。
 「なぜ僕は,アメリカから陸路で南下してメキシコに入るのではなく,グアテマラまで飛んだのでしょうか?」 その答えは,「スペイン語を学ぶため」だった。(中略)グアテマラは物価や人件費が安いため,スペイン語をマンツーマンレッスンで格安に習えるというわけだ。(p77)
● 何と周到で計画的か。20代の若者がここまでやれるのか。著者は学生時代に起業しているくらいだから,このあたりはお手のもの?
 で,そのフィリピン留学の一件を本にすることなって,この旅の間に原稿を書いてしまう。1週間くらいで書きあげたようだ。これも離れ業でしょ。
 旅の最中に出版される。編集者とは一度も顔を合わせないまま,出版に到ったというわけで,そういう時代になったのかと思った。

● では,そういう著者はどんな人なのか。
 僕は昔から,他の誰もしたことがないことをしたくて,ウズウズしてしまうタイプの人間だった。(p28)
● 日本人のこれが弱点だと言われていることも,著者は,そうではなくてそれを活かせばいいのだという意見。
 自己主張する能力は他国に比べると弱いのかもしれない。でも,僕らはその代わりに協調性という他国にはない武器を持っている。この協調性を最大限活かせば,世界を舞台にしても輝けるポジションがあるはず。(p285)
 僕は日本人ほど仕事熱心で頑張れる人たちを知らない。間違いなく日本人には『仕事ができる人』が多い。ただ,その能力を海外で発揮するために必要な語学力が世界水準に遠いのがネックだ。逆に言えば,そこを克服していくことができればチャンスはまだまだあるということ。(p332)
 日本には資源がないと言われているが,アフリカや中東に人たちにはない『雨』という資源を持っているんだ。(p272)
● その他,いくつか転載。放浪記ではないものの,痛快な世界一周記であることは間違いない。
 ジョージの方は,まさかのアメリカの名門カリフォルニア大学バークレー校の大学教授だった。僕は驚いて,「なんでここに泊まってるの!?」と発した。(中略) ジョージは答えた。「なんでって,そりゃ独りがつまらないからだよ。こういう場所ならいろんな人と出逢えるだろう? 僕は常に新しい出逢いを求めているんだ」(p92)
 けれども,とあるキューバ人が言っていた。「キューバは,生きるのは簡単なんだぜ」と。 この国の人はみんな,等しく貧しい。その代わりに,極めて貧乏な人はいない。(p104)
 ヨーロッパの中でも真面目な気風があるスウェーデンで働いている日本人女性は言っていた。「みんながあまりにも働かないから,私もダラダラ仕事をしてみたんだけれど,それでもどう考えても私の方が仕事しているんだから不思議よね」(p224)
 日本だと,高い税金を払っても『万が一』以外の日常の大部分では福祉を感じることが難しい。でも,ここスウェーデンはそこの見せ方がうまい。(p242)
 日本人宿には,やっぱりオモシロイ人が集まってくる。(中略)ヨーロッパからトルコまで自転車ではるばるやってきたチャリダー夫妻は,60歳前後だというからすごい。このご夫妻もすごいが,中東を旅してきた80歳の高齢バックパッカーの日本人男性がいたのだから驚いた。何歳になっても,本気ならできるんだ。ちなみに,その日本人宿の壁には熱いメッセージが書かれた紙が貼られていた。 「カメハメ波,なんで出ないと思う? 出そうとしないから出ないんだよ」(p262)
 旅の間に好きになった言葉があります。「The World is smaller than we think.(世界は,僕らが思っている以上に小さい)」。まさにその通りだなと。飛行機でどこへでも行ける時代に変わり,世界の物理的な距離感は大きく狭まりました。だからこそ,これからの時代は世界の『広さ』を知ることよりも,世界の『深さ』を知ることにみんなの関心が集まるのだと思います。(p338)

2015年9月21日月曜日

2015.09.18 番外:ハンドメイドバイシクルBOOK ジャパンメイドの底力

書名 ハンドメイドバイシクルBOOK ジャパンメイドの底力
編者 鈴木喜生
発行所 枻出版社
発行年月日 2014.03.20
価格(税別) 1,500円

● 埼玉県は川口市にある東叡社。日本を代表する“ハンドメイド”の雄。ランドナーが多いんだろうか。
 東叡社に作ってもらうのは,自転車乗りにとってはステイタスになっているのだろう。

● 断言するけど,ぼくには縁のない世界だ。何とかその縁を得たいとも思わない。だって,ほとんど住む世界が違うからね。

● そうした“ハンドメイド”によって完成された自転車の端正な正統派のたたずまいを写真で鑑賞する。それだけでいいかなぁと思っている。
 でも,東叡社の自転車が似合うようなツーリングができる自分になりたいという妄想が,まったくないわけではない。

2015.09.18 番外:自転車レストア&クロモリバイクカスタム

書名 自転車レストア&クロモリバイクカスタム
編者 鈴木喜生
発行所 枻出版社
発行年月日 2014.11.10
価格(税別) 1,500円

● まったくぼくのレベルを超える世界。とてものことついていけない。出てくる用語がわからない。

● 枻出版社の自転車関係のムックはけっこう売れているんじゃないかと思われる。買う人がみんな,このレベルに見合った人だとは思えない。
 ぼくと同じように,はぁーとため息をついている人が多数派なのだろう。

● ここに登場する自転車の写真を眺めているだけでも楽しい。いつかは自分もと妄想するのはもっと楽しい。

2015.09.17 長谷川慶太郎 『2016年 長谷川慶太郎の大局を読む』

書名 2016年 長谷川慶太郎の大局を読む
著者 長谷川慶太郎
発行所 李白社
発行年月日 2015.09.30
価格(税別) 1,600円

● 続けざまに長谷川さんの新著が出た。今回は,上海株の暴落と天津の爆発事故が織りこまれている。『2016年 世界の真実』とは色合いの違う著作になっている。

● 世界経済,世界情勢を扱いながら,ミステリを読むようなワクワク感が味わえるのはどうしてなのか。最期の謎解きまで用意されているからというのもあるけれども,細かいデータの渉猟に抜かりがないからだろうと思う。
 自身の世界観とか宗教観とか文明観とか,「観」の付くような粗雑なモノサシを一切用いないで,データとその組み合わせで語っているからではあるまいか。

● 本書の結論は「まえがき」に述べられている。
 今後もアメリカを先頭にして日本,ドイツが世界経済を引っ張っていくという構図には変わりがない。この三ヵ国の経済基盤に揺るぎがない以上,世界経済の先行きは非常に明るい。(p5)
● 国内の株式市場について,次のように言う。
 株価が急落し年内にもう一回大きな押し目が来ます。(中略)二度目の押し目の前に日経平均は元に戻るどころか,もっと高くなります。このときに持っている株を売って現金に換えておけばいいでしょう。(p5)
 マスコミはマッチポンプであって,上海株の暴落と日本株への打撃を結び付けて報道することで視聴者や読者の関心を集め,そうしたことによって経営を成り立たせようとするのだ。証券会社も手数料が稼げるので株価の乱高下を歓迎している。したがって日本の個人投資家が株で儲けたいのならマスコミや証券会社のいうことに惑わされてはいけない。(p18)
● 中国に対する見方は一貫している。滅びへの道を着々と歩んでいるというもの。
 天津での大爆発事故はなぜ起こったのか。事故なのか,偶発的な出来事なのか,あるいはテロリストによる犯行なのか。さまざまな説がありますが,私はテロだと見ています。では誰がやったのかというと,独立をめぐって中国政府と激しく対立している新彊ウイグル自治区のウイグル族です。それを支援しているIS(イスラム国)が,カザフスタン国境を通じてウイグル族に武器・弾薬を提供しています。(p3)
 上海株に流れ込んできたのは,それまで不動産に回っていた資金も多少はあるものの,大半は個人投資家が借金してつくった資金だ。余った投資マネーではなく命ガネであって,それだけに事態は深刻である。(p21)
 人民解放軍は各軍区も海軍も空軍も習近平政権の裏をかくことばかり考えている。(p52)
 経済の動きをも計画的にコントロールできると考えるのが社会主義だ。計画経済は社会主義の別名ともいえる。 一方,株式市場は本来,多くの人々が株を自由に売り買いするから,つまり一人の人間だけで売り買いするのではないから,上場されている各銘柄の値動きはそれぞれバラバラになる。裏を返せば,誰か一人の意思で株価をコントロールすることはできない。(中略) 要するに株式市場に計画経済を持ちこんだこと自体が論理的な矛盾なのである。(p56)
 今の中国の国民は公的には中国が北朝鮮を切ったことを知らされていないのだが,北朝鮮が崩壊するとそれがわかる。となると,なぜ中国は血の同盟を無視する行動を取ったのかとまず疑問を持ち,しかるのちに北朝鮮を救うだけの力が中国にはないことに気が付かざるをえない。(中略)そういうことで中国国内では共産党政権に対する反対運動が一気に広がっていく。 北朝鮮が潰れれば中国も持たない。(p81)
● 北朝鮮はすでに死に体になっている。
 北朝鮮の状況は切迫してきている。日本ではあまり報道されていないが,二〇一五年は北朝鮮が一〇〇年に一度という最悪の大干魃に見舞われたからだ。(p61)
 二〇一五年四月,金正恩は軍事外交を担ってきた人民武力相の玄永哲を反逆罪で銃殺処刑した。この粛清はクーデターがあったという証拠だ。そればかりか,朝鮮人民軍が金正恩と距離を置くようになっているという示唆でもある。(p63)
 粛清を恐れた朝鮮労働党,北朝鮮政府,朝鮮人民軍などの幹部が海外に出る機会を利用して亡命するというケースが二〇一五年になってから相次いでいる。(p64)
 北朝鮮は粛清とともに幹部の亡命が続いて国家としての正常な機能を失いつつある。となるともはや拉致被害者を含む日本人の抑留者だけをピックアップすることもできないだろうし,再調査報告を出すのさえ無理になってきているのだろう。 日本政府は,再調査を終えていないとする北朝鮮に対して遺憾の意を示したものの,北朝鮮への制裁強化という強硬路線は取らなかった。日本政府もすでに北朝鮮が死に体であることを知っていて,強硬路線によって自ら引導を渡すことを避けたのだ。(p65)
● 北朝鮮が潰れれば,中国にはもちろん,韓国にとっても非常事態である。
 南北統合は韓国経済にとっては他国の救援がなければ心中に等しいのである。(p68)
● ではヨーロッパはどうか。ドイツが覇権を確立しており,これはこのまま続く。
 EC(ヨーロッパ共同体)もEUもユーロもドイツ封じ込めを最大の目的としてつくられた。だが,現実にはヨーロッパ諸国の思惑は完全に裏目に出て,ドイツを封じ込めるどころか,ドイツによってヨーロッパが逆に封じ込められたという結果になった。特に単一通貨ユーロを通じて今やユーロ圏はドイツの植民地になってしまったといっても過言ではない。(中略)ユーロ圏は人口三億三〇〇〇万人のドイツの領土なのである。(p192)
 ドイツは国際貢献のつもりでユーロ圏を守ってきたわけではない。通貨ユーロはドイツに対して何にも代え難いメリットをもたらしてくれるからだ。そのメリットはまず,ユーロ圏内での貿易であれば為替レートの影響を受けないということだ。(中略) もう一つのメリットは,ユーロ圏以外の国々との貿易においてもユーロであればドイツの国力に比べて為替レートを低く保つことができるということだ。(p193)
● ロシアの先行きも五里霧中。
 国際社会はバラバラに見えるが,遵守すべき共通した原則があって,それを破った者に対しては厳しい。原則とはたとえば国家主権である。ロシアはクリミア併合でウクライナの国家主権を侵してしまった。今のところロシアも面子があるから,やせ我慢しているけれども,そろそろ限界だ。背に腹は代えられなくなる。といって戦争を起こす力もない。(p221)
 ロシア経済には依然としてソ連時代の共産主義における統制経済の残渣が残っている。ロシア国民の多くの意識も共産主義から完全に抜けきっていないので,自由主義経済へと移行するためにはロシアは少なくとも一〇年間は苦しまなくてはならないだろう。共産主義は捨ててもその精神から逃れるのは大変である。(p221)
● 原油価格はさらに下がる。なぜなら,イランが経済制裁を解かれるからだ。中東の大国イランの雇用が改善されれば,テロリスト集団も消滅に向かう。
 イラン石油相のいう通りならイラン産原油の輸出は二〇一六年には倍増して他の産油国との輸出シェア争いが激しくなる。これはまた原油市場における長期的な供給過剰に拍車をかけていく。とすれば原油価格もこれからさらに下がるのは明らかだ。(p110)
 経済制裁のためにイランがインフレに苦しんでいるということはそれだけ物不足であり,潜在的な需要も大きいということだ。人口七八〇〇万人という市場の巨大さに加えて潜在的な需要も期待できるなら,今後,世界中の外資企業もイランに触手を伸ばしていくだろう。(p111)
 IS(イスラム国)のようなテロリストの武装集団は,貧しい者や失業者をリクルートしてテロリストに仕立てるのだから,貧しい者や失業者がたくさにるとそれだけテロリストも多くなる。つまり経済的な衰退のためにテロリストが多数派になってしまうのだ。逆にいえば中東で経済的な繁栄が生まれると貧困が減って就業者が増えていくからテロリストは少数派になる。(p112)
● 日本はどうか。総体としては順調に推移する。もちろん,個別企業を見れば問題を抱えたところもあるけれども。
 キャノンは二〇一八年までに国内工場でのデジタルカメラ生産をロボットの導入によって完全自動化する計画だ。この背景には単なる人手不足ももちろんだが,熟練工が年々足りなくなってきたことも大きい。逆にいうと,これまで熟練した労働力を必要とする組み立て作業でもロボットでこなせるようになってきた。(中略) 増産体制を整える目的もある。ロボット化に成功すれば,人件費の安い海外に進出しなくても国内での生産コストが下げられるので国際競争力も高まっていくのはいうまでもない。(p140)
 一九六〇年代までであれば日本の大企業でも粉飾決算は珍しくなかった。しかし現代では粉飾決算は言い訳が通用しない犯罪だ。東芝の旧経営陣はその認識が乏しかったのである。(p143)
 新銀行東京については最初からやるべきではなかった。金融業の大原則は「天気なら傘を貸し,雨が降ったら傘を取り上げる」というものだ。性善説に立っている行政にそんな大原則を貫けるはずがない。貸し渋りの救済のために行政が銀行をつくったことがそもそもの間違いだったのである。(p154)
 居酒屋大手のワタミの場合,社員の自殺で遺族から訴えられ,系列の介護施設でも死亡事故が発生した。そのためインターネットの書き込みやマスコミ報道でブラック企業のレッテルを貼られてしまった結果,ブランド力が落ちて居酒屋の客離れが起こり,居酒屋の売上高は三年間マイナスで二期連続の最終赤字となった。(中略)このワタミの事例はブラック企業と見なされることがいかに企業経営に響くかという見本でもある。(p162)
● その他,いくつか転載。
 冷戦の終結は人類に非常に素晴らしい成果をもたらす。世界の人口は七二億人だが,東アジアにはその約二三%の一六億人が住んでいる。この膨大な人口を持つ地域は多くの点でバラエティにも富んでいる。宗教や言語は多種多様であり,各地域では長い歴史を通じてさまざまな文明・文化が培われてきた。だから,それらの文明・文化が直接ぶつかり合うことできわめて強い知的な刺激も生まれる。この刺激を活用することによって東アジア地域はものすごく発展していくだろう。(p84)
 これからの日本企業は基本的に地域を限定して商売をするような発想を持ってはいけない。たとえば東南アジアやインドは相手にするが,欧米には出て行かないといった考え方は時代遅れだ。つねに世界市場を相手にして商売をしていくという発想が欠かせない。(p130)
 ロボット化では別の面で大きな問題が生まれてくるだろう。つまり,簡単な作業はロボットが担うことになるので,いくら人手不足であっても簡単な作業しかできない人間には仕事が来なくなる。(p141)
 私も企業経営におけるダイバーシティには賛成で,日本文化が世界を制覇するなどと思ったことは一度もない。日本企業にももっと外国人の役員を入れるべきだ。むしろ社内でいろいろな価値観をどんどんぶつけあわないと,企業も品質の高い商品やサービスを提供していけない時代になったのである。(p148)
 マイナンバーは公務員制度改革と結び付いてこそ価値がある。というのも,マイナンバーの利用によって行政事務が簡素化され,その結果,公務員の仕事が減って公務員の数も大幅に削減できるはずだからだ。(p168)
 今はまだ,子供を安定した公務員にしたいという親も少なくないが,公務員がリストラされる時代になるとそんな考え方は通用しなくなる。好きだから公務員になりたいというのならいいが,安定しているから公務員を選ぶという発想は間違いだ。(p170)
 学生が文系の学部や大学院で学んでいることは,今のような情報化時代には自宅にいても勉強できるようなことばかりだ。卒業資格はさておき,学者を目指さないのならわざわざ学部や大学院に通う必要もないだろう。一方,理系のほうはやはり実習や実験が欠かせないから,そのための設備等を持っている学部や大学院の役割は重要だ。(p171)
 民法のように法律が時代に即して長い間改正されてこなかったのは立法に携わる国会議員のせいなのか。つまり政治の怠慢なのかということだが,そうではない。実は司法の怠慢なのである。(p173)

2015年9月19日土曜日

2015.09.17 番外:ポルシェスタイル

書名 ポルシェスタイル
編者 濱島雄一郎
発行所 枻出版社
発行年月日 2015.08.20
価格(税別) 1,500円

● ポルシェって,この辺で見かけることはまずない。ポルシェのオーナーだって人もぼくの周りにはいない。ベンツとかBMWとかレクサスとかは,よく探せばいるのかもしれないけど。
 でも,ポルシェとなると,それらとは世界が別だ。

● で,どんな人が乗っているんだろうと思って,このムックを見てみましたよ,と。
 結果からいうと,行っちゃってる人だね。堅気ではない人。絶対的なお金持ちというわけではないし,仕事も誠実にやっていそうな人たちなんだけど(その仕事もポルシェ絡みの仕事だったりする),まぁ何というのか行っちゃってる感じだよね。

● 行っちゃえるというのは,男の子の特権なのかもしれないね。こういう実利のない遊びに没頭できるのは男の領域というか。
 女性のコレクターってあんまり見かけない。あっても,洋服とかバッグとか靴とか,なんらかの実用性をまとっている場合がほとんどではないか。

● でも,女がしっかりと地に足をつけているから,男は遊んでいられる(男の子でいられる)わけで,どっちが偉いのかといえば女のほうが偉いや。
 男の場合,いくつになっても子どもでいることが許される度合が女よりもずっと大きくて,ときに“少年の心を持った人”なんて称揚されることもあったりする。だけど,少年の心しか持っていない男なんて,相当に迷惑な存在だろうよ。

● このムックに登場する人たちは,しかし,少年の心しか持っていない人たちではない。しっかり大人もやっている。
 以下に,オーナーたちの発言をいくつか転載。
 ポルシェは90%の完成品としてデリバリされ,あとの10%はオーナーが創るものだと思います。(p53)
 ムダ遣いが一番大事だよね。真顔じゃないもの。ムダがわからないと,ポルシェで遊ぶなんて無理だと思うよ。(p59)
 趣味だから走れるんです。大人げないというか幼稚というか,性懲りもなくなりたいなって思う。これが仕事ならそうはいかない。(p71)
 まるで子供でしょ。でも大人にはムダに見えても幼児には意味があるのです。(p75)
 ポルシェに乗るには,それに相応しい自分を造り上げなければならないと思います。逆に言うとポルシェに似合う男になりたいと常に思っているのです。なにより,ワクワクする気持ちを続けたい。(p83)
 僕は資金的な意味でも,あるいは似合うとか乗りこなすという意味であっても,“クルマについていけないのなら,それはみっともないから乗るべきではない”と考えていた。(p86)

2015年9月17日木曜日

2015.09.15 長谷川慶太郎 『2016年 世界の真実』

書名 2016年 世界の真実
著者 長谷川慶太郎
発行所 WAC
発行年月日 2015.09.11
価格(税別) 900円

● 長谷川さんの新著が出ると必ず読んでしまう。これまでの著作で語られていることがらを,本書でも念押ししている。
 本書の特徴といえば,語り口に容赦がないことか。

● まず,韓国に対して。
 慰安婦問題の本質とは何か。人身売買である。安倍総理はきちんとそのことをいっているし,アメリカも慰安婦が人身売買の問題だということを知っている。だから,日本に対して特別に「韓国人慰安婦の問題」を言挙げしようとしていない。 では,人身売買はだれの責任か。親の責任である。親に甲斐性がなく,お金を稼ぐために子どもを売った。それを韓国はいいたくない。だから,日本の名を挙げて非難するのだ。(p19)
 国際条約を守らない国,「歴史認識の修正は認めない」といって条約そのものを否定する国と,国際条約を守る国とでは扱いを違える。今度の安倍訪米はそれをはっきりさせた。これは大きい。こんなことをいったら悪いけれど,国際司法裁判所に竹島問題を訴えたら必ず日本が勝つ。(p46)
 産経新聞の黒田勝弘記者がいうように,韓国人は「昼反日,夜親日」である。公式の場では建前をいい,非公式の場になると本音を口にするのだ。馬鹿でなければ,韓国人はだれだって日本なしに韓国経済が成り立たないことをわかっている。(p127)
 ウォン高になってサムスンや現代が苦しいと騒ぐが,本当の問題はそこにない。繰り返し申し上げると,工作機械工業をもっていないことが問題なのだ。結局のところ,自立した機械工業を持たない韓国の企業は,お釈迦様の手の上で踊っている孫悟空である。お釈迦様は日本だ。つまり,日本の手の上で踊っているだけである。(p128)
 韓国で工作機械の製造ができず,生産財を日本からの輸入に頼るのは,単に技術レベルの問題ではない。「ものづくりの精神」がないからである。(p130)
 米にしても石油にしても,北朝鮮が崩壊して韓国がそれを引き受けたとき,すぐに必要となるものを提供する能力を持つのは日本だけである。日本との関係を良好に保たずに,韓国は「北朝鮮危機」に対処し得ない。歴史認識だとか従軍慰安婦だとかいって騒ぐのは,朴槿惠が甘えているのである。(p137)
● 次に,中国に対して。
 アメリカが日本でオスプレイをこれほど増強する理由は明らかだ。中国が崩壊したとき,中国の核戦力をコントロールすることに,神経を尖らせているからである。(p55)
 ソ連は文民統制だったから,ソ連軍の首脳部はきちんと統制を利かせて,核兵器をコントロールした。中国の場合,それができるか。胡錦涛の時代でさえ,文民統制が成り立っていないのだ。「とうていソ連のような対応は望めない」と考えるのが当然である。(p54)
 メーカーが「本物」になっていくためには研究開発投資が大事だ。ところが,中国では日本のように技術力を持った「本物のメーカー」が生まれない。お金が何よりも大事なので目先の利益に目がくらんでしまい,研究開発するよりも技術を盗むからだ。盗んできた技術はただである。そんなことをやっていたら,どうにもならない。(p154)
 共産党幹部の粛清は自分の敵を排除するだけでなく,国民に対してのアピールと受け止める向きがあるが,それは違う。共産党の組織そのものが必ず独裁者の独裁を必要とするのだ。(p142)
● ロシアに対して。
 なぜ,ロシアの外貨準備が減っているのか。企業の経営者が資本を海外に移転して減ったのではない。一般の国民が外貨を買っているからである。(中略) 毎月の給与としてルーブル紙幣を受け取ったら,会社を中退してでも銀行へ走っていって,ルーブル紙幣をドル紙幣かユーロ紙幣に交換する。こういうことをやっているのが何十人,何百人というレベルではなく,何百万人という規模だ。(p161)
● その他,転載。
 (朝鮮戦争では)当初,北朝鮮の攻撃が成功し,韓国はかろうじて釜山周辺のごく一部地域を確保するだけというところまで追い詰められた。そこからさらに北朝鮮軍が進み,朝鮮海峡を渡ったらどうなったか。これは仮定の話ではない。それを金日成は狙っていたし,スターリンと毛沢東は金日成の戦略を支援した。 冷たい戦争が熱い戦争に変わったら,西側が負ける危険がある。そのことを朝鮮戦争は示している。(p30)
 LEDの技術開発は目覚ましいが,中村(修二)の研究が実用化されれば「農業生産の工業化」が成立する。そのときの効果は大きく,土地の生産性は飛躍的に高まるだろう。日本でも「農業生産の工業化」が進めば,あっという間に米工場ができて田んぼがなくなる。これは笑い話ではない。必ずそうなる。(p66)
 民主党はヒラリー・クリントンで大統領候補の一本化が進んでいる。ところが,共和党は日本人があまり知らない人も含めて,何人も手を挙げている。このままだとヒラリーが勝ちそうだと思われるかも知れないが,そんなことはない。逆である。大統領選挙の候補者は党の予備選挙を通らなければならないが,共和党は多数の候補者が予備選挙を通して切磋琢磨し,「化ける」可能性があるからだ。(p71)
 大統領が代わると幹部が全部入れ替わる。郵便局長まで代わる。これがだいたい四千名ぐらいだ。だから,日本でいうところの職業的な官僚制はアメリカにはない。 逆にいうと,そういうふうに入れ替わって働ける能力を持つ人間が大勢遊んでいる。そうでなければ,大規模な人事異動をしてすぐ,政府も議会も運営できない。では,そういう人間がどこにいるのかというと,シンクタンクにいる。幹部になるのはシンクタンクのメンバーであり,そのためのシンクタンクがたくさんつくられている。(p75)
 アメリカと日本が主導するアジア開発銀行の決裁が遅いと先ほど述べたが,それだけでなく,どんな案件を申請してもなかなか全額は認められない。それだけ「借り手の質が悪い」のである。そういう相手に簡単な審査で貸したら,不良債権の山ができるのは当然だろう。(p85)
 今,住宅ローン業界はだまし合いだという。住宅ローンはだいたい一%の金利で集めた金を九%の金利で貸す。単純計算で,一千万円の貸出で年に八十万円の利益が出る。ただし,三大メガバンクの平均で住宅ローンの三分の一が不良化しているらしい。 これは日本国内の話である。外国に行ったら,もっとひどい。(p95)
 ちなみに,この記事(ヤクザ問題)を載せた『週刊朝日』が発売された日に,私の家の電話が鳴った。受話器を取ると,「警察庁の佐々敦行ですが,今週の『週刊朝日』の記事はよく書けていますね。ちゃんと取材をされたそうですな」。警察官僚の佐々は私が取材したことを確認していた。「東西でそれぞれ,一番大きいところへ行きました」と応じたら,「そうらしいですね。稲川会の連中も感心していましたよ」と佐々はいった。何のことはない。みんな,つうかあなのだ。(p149)
 「イスラム教の原則に従って政治を運営すべきである」「イスラム教の原則に従って社会生活を律すべきである」 イスラム過激派のこういう主張を受け入れる若い人が増えている。「コーランのとおりにやっていれば,アラーのおぼしめしにかなった生活ができますよ」と,気楽なほうへ誘導していくのはオウム真理教と同じである。 実際にそのほうが気楽なのは確かだ。コーランに書いてあるとおりやればいいのだから,頭を使わずに済む。変な話だけれど,イスラム教に忠実であればあるほど知的レベルが下がる。だから,男女平等を否定する。(p178)
 デフレの時代は一品当たりの価格が下がる。そこで「売り上げを伸ばすには販売数を増やすしかない」と考えるかも知れないが,そうではない。「価格の高いものを売ることで売り上げを増やす」が正解である。「値段が高いもの」とは「付加価値の高いもの」だ。付加価値の高いものは技術開発によってしか生み出しようがない。(p187)
 デフレの時代で重要なことはインフラ整備である。大規模なインフラの整備はデフレ時代にしかできない。(p188)
 農地改革がもたらすものが「農業の生産性向上」だけではないことだ。一番大きいのは「積極的に動いた人間が勝つ」という社会の構築である。(中略) 「積極的に動いた人間が勝つ社会の構築」において,「公正な競争」が不可欠だ。「公正」は法律によって支えられないと成立しない。したがって,法治主義国家でなければ「公正な競争」は生まれない。(p191)

2015.09.14 田坂広志 『人生で起こること すべて良きこと』

書名 人生で起こること すべて良きこと
著者 田坂広志
発行所 PHP
発行年月日 2015.08.06
価格(税別) 1,300円

● 医者からもう長くないと言われたほどの大病を経験したことは,本書で初めて語られることか。真摯に人生に向き合って来た人が到達できる地点が語られる。
 自分のそうした体験を踏まえているのだから,説得力もある。

● なんだけど,二度読むことはないように思う。著者の作品はいくつか読んでいるんだけど,再読したものはない。
 これは文体によるものだろうか。一度読むと,文体に飽きてしまうんだろうか。

● 以下にいくつか転載。
 我々が逆境を超えられないのは,我々の心が,その逆境に「正対」できていないからなのです。その逆境に「正対」する,すなわち,「正面」から向き合わなければならないにもかかわらず,心が,別な方向を向いてしまっているからなのです。(p15)
 「人生で起こること,すべて良きこと」と思うことができるようになれば,目の前の逆境に正対する力が湧いてくるのですね。(p17)
 その「厄介なエゴ」の動きに処する「こころの技法」は,ただ一つです。(中略)心の中の「エゴ」の動きを,否定も肯定もせず,ただ静かに見つめる。それだけです。(p76)
 (本当の強さとは)「引き受け」ができるということです。「引き受け」とは,本来,他人に直接の責任があることでも,自分の責任として引き受け,それを自分の成長にむすびつけようとする心の姿勢のことです。(p83)
 まず最初に,自分の生々しい感情や思いを,決して抑圧せず,ありのままに,文章にして書くのです。 その上で,一度冷静になり,心を整えた静かな環境で,それを読み直すと,自然に,それを書いた自分とは違う「もう一人の自分」,すなわち「静かで賢明な自分」が現れてくるのです。そして,その「静かで賢明な自分」が,いま書いたばかりの文章を,冷静に,そして客観的に読み,その感情や思いを語った自分との「対話」を始めるのです。(p94)
 このとき,避けるべきは,表面的に飾った「綺麗ごと」を書くことです。例えば、心の中では,「彼とは,もう口も利きたくない!」という生々しい感情が渦巻いているにもかかわらず,「今後,彼との交流は控えたい」といった形で,表面的に飾った表現をしてしまうことです。それをすると,心の中で,無意識に「感情の抑圧」が起こってしまい,その感情と向き合うことができなくなります。(p99)
 「自己嫌悪」の極みにおいて生まれてくる,この意味での「自己肯定感」は,とても大切なのですね。(中略)「未熟さや欠点も含めて自分を愛する」ということができなければ,「未熟さや欠点も含めて他人を愛する」ことができないからです。(p108)
 その人が好きになれない理由を,次々と書き出してみることです。(中略)そうした書き出しをしていると,ときおり,ある真実に気がつくことがあります。(中略)その人が,自分に似ている・・・・・・。そのことに,気がつくときがあります。(p118)
 我々は,自分の中にある「嫌な面」を抑圧して外に出さないようにしていると,その抑圧した「嫌な面」を他人の中に見るとき,その人に対する嫌悪感が,増幅されてしまうのです。(p120)
 「人を好きになる」ということには即効的な技法は無いのですが,嫌いな人,苦手な人に対して,自分の感情をコントロールする技法は,あります。(中略)心の中で,ただ,「有り難うございます」と祈る技法です。 すなわち,好きになれない人に対して,心の中で,その人の顔や姿を思い浮かべ,ただ,「有り難うございます」と唱える。それだけの技法です。(p124)
 起こった「不運な出来事」を,「なぜ,この最悪のタイミングで・・・・・・」「なぜ,よりによって,自分が・・・・・・」といった後向きな姿勢で見つめるのではなく,前向きな姿勢で「正対」することです。(中略) 「正対」するとは,一つのことを,心に定めることです。人生で起こること,すべてに深い意味がある。そのことを,心に定めることです。(p140)
 我々人間は,誰もが,人間としての未熟さを抱え,エゴという厄介なものを背負い,怒り,嘆き,苦しみ,悲しみながら,思うままにならない人生を,そして,限りある人生を生きているのですね。誰もが,精一杯に生きている。それが,人間の真実の姿であり,それは自分だけでなく,相手もそうなのですね。 そのことを理解し,相手を見つめるということが,相手を「一人の人間」として見つめるということです。(p150)
 たとえ百年生きても,宇宙や地球の悠久の時の流れから見るならば,我々は,誰もが,「一瞬」と呼ぶべき短い人生を駆け抜けているのです。 そうであるならば,この地上での人間同士の出会いは,その「一瞬」と「一瞬」が巡り会う,「奇跡の一瞬」。 もし,我々が,そのことを理解するならば,人間の出会いを見つめるまなざしが,大きく変わるでしょう。(p150)
 我々が,「人間,いつ死ぬか,分からない」「誰にも,明日は,約束されていない」という「人生の真実」を直視するならば,そして,その「死生観」を定めるならば,我々の中の,何かが開花し始めます。(p189)
 かつてスウェーデンの海洋学者,オットー・ペテルソンが,九三歳で亡くなる直前,やはり海洋学者であった息子に残した言葉があります。 死に臨んだとき 私の最期の瞬間を支えてくれるものは この先になにがあるのかという 限りない好奇心だろう(p222)

2015年9月15日火曜日

2015.09.13 養老孟司 C・Wニコル 『「身体」を忘れた日本人』

書名 「身体」を忘れた日本人
著者 養老孟司
    C・Wニコル
発行所 山と渓谷社
発行年月日 2015.09.05
価格(税別) 1,300円

● もう面白くて仕方がない。一級の啓蒙書といえるのではないか。自然保護から産業論,社会システム論,教育論,情報論,言語論,心身相関論・・・・・・。名前はどうでもいいけれども,話が次々に展開していく。圧倒される快感を味わえる。

● 以下に多すぎる転載。
 僕のアメリカの友人が日本の杉の人工林を見て,「花粉が多いのは,成長が止まって苦しいから,子孫を残すために必死になって花を咲かせているからじゃないか」と言ってましたね。(ニコル p14)
 林業も,いまの感覚で合理的に考えてやれば,成り立つはずなんです。(中略)なぜそれをやらないかというと,昔からやっている人は1本100万円の時代を知っているから,「またそういう時代が来ないかな」とどこかで思ってるんです。成功体験ってすごく邪魔になるんですよ。(養老 p15)
 日本はこんなにたくさん森があるのに,森の中で働いている人は圧倒的に少ないですね。それなのに,後ろで管理している人は多いからコストがかかる。(ニコル p15)
 この近くで数億円かけて林道をつくって,天然林を全部伐採して,運び出せた材がいくらだったと思いますか? 1千万円だったそうです。でも,馬を使えば,林道をつくらなくても,大きな道のところまで引っ張ってこられる。(ニコル p17)
 間伐もそうなんですよ。切り捨て間伐になっちゃうのは,間伐材が材として回るようなシステムがないからなんです。(中略)ということは,間伐を経済的に成り立たせようと思ったら,間伐材を使うという仕組みをあらかじめつくっておかなくちゃいけない。だから,どこかをいじろうと思ったら,全部いじらなくてはいけなくなるんです。(養老 p20)
 沿岸漁業を生かすためには,川から直さなきゃいけません。でも,川に手を付けるということは,森もちゃんとしないといけないということなんです。(中略)日本人は魚をたくさん食べるのに,なんでこんなに魚をいじめたんだろうって思いますね。(養老 p28)
 日本の漁業は問題だらけだから,極端なことを言えば,漁業権の補償費だけ払って,魚を捕らないほうがいいぐらいですよ。(養老 p34)
 限界集落をみんな「かわいそう」みたいに言うんだけど,全然違いますよ。若い人がいなくても年寄りが暮らせるくらいにいいところなんですよ。しかも,子どもたちが都会に来いって言ったって行かないんだから。ただ,そういうところは年寄りがかんばっちゃって,若い人が入れないんですよ。(養老 p37)
 都会の人は弱いですよね。僕は,それ一番よく象徴してるのが,第二次大戦のときにナチスに殺されたユダヤ人だと思う。ユダヤ人って結局都会の人なんですね。だから,抵抗しないで300万人も殺されてる。普通なら,そんなことあり得ないよね。誰かが抵抗するでしょう?(養老 p39)
 イギリスのワーキングクラスの人は,いろいろなものが食べられないんです。知らないものは食べられない。(ニコル p45)
 一番印象的だったのは,お役所の人がつらそうだったことです。帰宅困難区域に家畜が放置されたままになってるから,その面倒をみているNPOがあるんです。でも,お役所の人は安全を管理する責任があるから,そういう人たちに,「入ってはいけません」と言うしかない。国の被爆量の安全基準は1桁ぐらい厳しくとってあるんだから,ちょっと入って世話する程度なら,たいしたことないんですよ。でも,お役所の人は「牛もかわいそうだから,そうやって飼うのも仕方ないですよね」とは言えないんです。見ていて,本当につらそうだった。(養老 p54)
 何かあったとき,周りに助けてもらえないから,保険会社に保険料を払わなくちゃいけなくなったということです。昔は人間関係で補償していたものを,いまは全部お金に替えていっていて,それをやっているのが保険会社なんです。(養老 p57)
 グレートマザーの怖いところは,子どもがどこまで行ってもその向こうにいようとすることです。それを「子どもを理解する」っていうんでしょうね,よく言えば。でも,そうすると,子どもは母親の世界から出られなくなる。(養老 p68)
 子どもから自然を取り上げると,世界が半分になっちゃうということです。つまり,自然がなくなって人間世界だけになっちゃう。そうなると,いじめみたいな人間世界の中でのマイナスの重さが2倍になっちゃうんです。(養老 p73)
 書物やITで教えるのは,結局,素直に驚くことを邪魔しているんだよね。「よけいなことを教えやがって」って思う。(養老 p82)
 昔の先生は子どもが中心だったけれど,いまは教育制度を維持するために働いている。その証拠に,夏休みで子どもがいなくても,休まずに学校に行ってるでしょう? つまり,先生は自分の給料を出してくれるところに忠誠を誓っていて,子どもは付録になっちゃてるということです。(養老 p85)
 腸内細菌を100兆も飼っている野に、除菌グッズなんておかしいでしょう? こんな生活を続けていると,自己免疫が怖い。特に神経系がやられると,いわゆる難病になって,治療法がありませんから。(養老 p88)
 生き物は甘くない。だって,我々は,1個の細胞ですら,化学的にきちんと記述できないんですよ。(中略)それをいじって何かできたといっても,「正体不明のものをいじったら,別の正体不明のものができた」というのと同じなんですよ。(養老 p112)
 僕は,感覚というのは,違いを識別するものだと思っています。「においがする」ということは,それまでにおいがなかったということを意味するんです。それに対して,我々の意識は,いろいろなものを「同じ」にしようとする。この茶碗とあの茶碗はよく似ていても違うものですが,意識はどちらも茶碗だという。そうやって概念化していくんです。我々の意識が持っている一番強い能力は,「同じにする」能力なんですよ。(養老 p127)
 夢は一種の意識です。脳波をとると,覚醒時とほとんど変わらないですから,大脳の動きはほとんど同じです。だけど,下位の部分,つまり脳の中心部の大事な部分の機能がなくなって,大脳皮質が勝手に動いているような状態なんです。そうするとああいうふうにデタラメになるんですね。(養老 p141)
 聴覚と運動は,耳の中に体のバランスをとるための感覚器官があるぐらいですから,深く結びついているし,体操は音楽や号令を聞きながらやるでしょう? でも,目で見て動作をまねするのは難しい。これは何が問題かというと,視覚は時間を止めるものだからです。写真を撮ると,瞬間が永遠になるし,映画はコマ撮りの連続で動いて見える。目は瞬間を積み重ねているんです。 でも,言葉は目と耳を一緒にしなくちゃならない。そのために,「時間」と「空間」という概念を発明する必要が出てきたんです。つまり,視覚が聴覚を理解するためには「時間」という概念が必要だし,聴覚側が視覚を理解するためには「空間」という概念が必要だったんです。(養老 p142)
 情報を一言で定義すると,「時間と共に変化しないもの」を指しているんです。写真もそうだし,書かれたものもそう。10年経ったって一切変わらないんです。 そして,意識は変化しないものしか扱わないんです。だから,さっきも言ったけれど,いまの時代の人は,自分はいつも同じ自分だと思っている。こんなの完全な錯覚だけど,意識は同じだっていうんです,情報として見るから。(養老 p146)
 しかも,賞味期限の長い情報を珍重する。フローよりもストックに重きを置く。古典に頼ろうとする。
 言葉で何かを表そうとするとき,「自分」があって,「言葉」があって,表そうとする「対象」がありますね。日本語では,言葉と気持ちの関係性が固いんです。だから,自分の気持ちが言葉に直接いっちゃうんです。ところが英語だと,言葉と対象の関係性が固くて,自分がどう思っていても,言葉を変えることができない。これを客観的というんです。逆に言うと,英語はうそがつきにくい。うそをつくときは「真っ赤なうそ」になるんです。(養老 p151)
 だから,裁判制度も全然違ってきて,英語は証拠主義で証言主義になっちゃう。ものとの関係性が非常にきついので,もし自分のいいようにものを言おうとすると,真っ赤なうそをつかざるを得なくなる。だから,証拠とか証言に当たっていくとうそがバレるんですよ。一方,日本の場合は自白主義になるんです。しゃべらせていけば,ひとりでに悪いと思っているかどうかバレちゃう。(養老 p152)
 欧米人が「コーヒーにしますか? 紅茶にしますか?」と聞くのも,どちらが好きかということではなく,それを選ぶ主体,つまり,「あなた」がいまそこに存在しているっていうことを暗黙に指摘しているんだと思います。そういう主体を,ある意味で押しつけていく近代文化が,主語を必要とする言語をつくったんでしょう。(養老 p161)
 漢字も,もともとは象形文字で,「象」という字は最初は本当にゾウのマンガだったんだけど,やっぱりゾウとは似ても似つかない形になるんですよ。つまり,文字を目でみたときにゾウが見えてしまうと,耳は理解できないんですよね。「これはゾウの形をしている」ということは耳ではわかりませんから。だから文字はゾウの形から離れないといけないっていうルールがあるんです。ということは,ゾウの形のままの文字は原始的だということになる。日本語の音声は,そういう意味で原始的といわれる段階で止まっているんでしょう,きっと。だから擬音語が多いんですね。(養老 p165)
 すべてが明るくて解明できると,「いやな人たち」ができちゃうんです。東大医学部の学生が「先生,説明してください」とよく言うけれど,それは説明されればわかると思っているからです。それが気に入らないから,学生が男の子だったら,「説明したら陣痛がわかるのか」って言う。 わからないことがあるということを,必ず保留としておいていないと謙虚にならないんです。学問をするためには自分がものを知らないって前提がある。いまは本当の意味で学問をする人はいないと思いますね。「ネットで調べればわかる」「俺はバカじゃない」というのが裏にあって,説明されればわかると言うんです。(養老 p170)
 僕は,若い人を元気にするのに一番いいのは,年寄りが早く死ぬことだと思っています。年寄りがいなくなりゃ若い人が動かざるを得ない。若い人って責任持たせた瞬間に急激に伸びますからね。(養老 p182)
 いまの若い研究者が気の毒なのは,5年なら5年って任期を切られていることですね。(中略)僕は,そういう状況でやった仕事って,ほんとうじゃないと思ってます。人間って状況の産物で,そういう状況でやった仕事って,やっぱりそういう仕事なんですよ。(養老 p183)
 日本の社会は短期的で,長期にわたる答えが必要なことは考えないか,しないんですよ。(養老 p189)
 日本人って,冷たくないですから。考え方が,冷静でないっていうか,客観的でない。感情で動いているんですよ。だから,「もう一つ先を考えてください」って言うんです。(養老 p194)
 英雄だって,その人が英雄になれるような状況があったから英雄になれたので,状況が合わなければ,英雄にはなれない。(中略)性善説とか性悪説とか言われるけれど,それもやっぱり「状況」によるんです。ある状況に置くと,人間はとんでもないことをする。(養老 p194)
 今の人は絶対それを考えないんです。あの人はどこか変わっていたんだろうって結論にする。でも,「自分が危険だ」とは思っていないんですよ。(中略) 僕が放射能をあまり怖がっていないのは,「怖いのは俺のほうだよ。状況によっては,何をするかわかったもんじゃない」と思っているからです。 放射能を怖がって逃げているお母さんは,きっと「自分は怖くない」と思っているんですよ。でも,そういうお母さんたちをギリギリの極限状態に追い込んでいくと,ほんとうに何をするかわかりませんよ。(養老 p196)
 自分でやると,ひとりでにその人ができてくる。生涯お勤めが悪いとは言わないけれど,それをやっていると,自分がなくなる。組織に合わせなきゃならない場合が多いからである。そのうちに,自分がなんだったのか,それがわからなくなるのではないか。自分はいったい何が好きだったんだろうか。何をしたかったんだろうか。歳をとってそう思うとしたら,悲しいと思いませんか。(養老 p201)

2015年9月14日月曜日

2015.09.13 番外:twin 2013.11月号-本とのいい時間

発行所 ツインズ
発行年月日 2013.10.25
価格(税別) 238円

● 古本屋は益子町から2軒,紹介されている。絵本の専門店は那須町のお店が2軒。那珂川町の「いわむらかずお絵本の丘美術館」も。
 以上のいずれにも,ぼくは行ったことがない。

● おやっと思ったのは,Wonder GOO宇都宮店。4号沿いにあるので,建物は何度も見ている。ネットカフェかマンガ喫茶のようなものだと思っていた。
 が,そうではない。内部はけっこう小洒落た感じ。是非にとまでは思わなかったけれども,機会があれば覗いてみようと思った。

● 本との時間となれば,新刊書店と図書館が誰にとっても2本柱になるわけだ。が,図書館と普通の新刊書店はひとつも登場せず。記事にしにくいのかもしれない。

2015.09.13 番外:twin 2015.9月号-凜 昼を愉しむ

発行所 ツインズ
発行年月日 2015.08.25
価格(税別) 286円

● 和食の店8軒が紹介されている。昼だと2,000円程度で,ミニ懐石的な食事ができる。写真で見る限りでは,けっこうお得感がただよう。
 が,昼の2,000円は日常にはなりにくい。たまの贅沢になるだろう。

● で,たまにだったら,年齢を考えれば,自分も和食を味わえるようになっていたいと思った。食通になりたいとは思わないし,なれるとも思わない。食べたあとに,料理人に役に立つような感想を伝えることなどできそうもない。
 けれども,和食を食べているときに,自分が食膳から浮いていないようにはなっていたいかな。

2015.09.12 プロギャンブラーのぶき 『ギャンブルだけで世界6周』

書名 ギャンブルだけで世界6周
著者 プロギャンブラーのぶき
発行所 幻冬舎文庫
発行年月日 2015.06.10
価格(税別) 600円

● ラスベガスを根城にして,カジノを渡り歩く。その費用はカジノの勝ち金だ。こういう人もいるのだということにまず驚く。

● どういう人なのか。
 他人から見てかっちょいいかなど,どうでもよい。僕から見て,僕がかっちょいいかが大事。それのみが人生の正解。(p21)
 今後,日本の重要な文化財になるようなふすまである。僕は,誰よりも真剣にふすまを拭いた。ふすまを拭くことに人生をかけているように,勝負をしているがごとく真剣に。 そのふすまを真剣に拭く姿勢を見て,千住画伯が僕をとても気に入ってくださった。(中略) それから9ヶ月間,休みなく1日13時間は働いた。(p108)
 僕の毎日がとてもエキサイティングで楽しすぎる。すごくハイテンションに生きている。友達には「ナチュラル・ハイ」or「キメてるべ?」って言われていたし。オーストラリアでマクドナルドにいる僕へ,売人から「ドラッグしているっしょ?」って言われるほど,ハイテンションに生きている。 ひとりでマリファナやっても何も変わらなかった。(p208)
 こういう人。常時,ハイテンションの人らしい。

● ギャンブルについての格言をいくつか。
 カジノは,州や政府へ税金をたっぷり支払っている。そのため州や政府はカジノの運営にプラスな法律を創り上げていく。(p44)
 プロになってわかったことだけど,「ディーラーに強弱などなく,みんな強い」。(p50)
 カジノ側はトランプを配ってくれるディーラー役に対し,どういうふうに配るべきかを指示している。しかし,自己中なアメリカ人は,その指導に基づいて仕事をしていない人も多い。とても適当な国民性だ。(p51)
 マフィアと聞くと,みんな怖がるかと思う。けど,「マフィアが仕切っていた時代のほうが,ラスベガスの治安は良かった」とよく聞いた。雰囲気も大人の社交場で良かったとも聞く。(p61)
 勝負する前に,勝負が見えていないから勝てない。カジノの扉を開けたときに,どれくらい勝てるのか見定められる。それがプロだ。(p103)
 先に決めておかないと,万一が起こったときに考えている時間が長いだけ,やられる可能性が高まる。これはギャンブルも旅も人生もすべて,一緒。(p115)
 カジノで勝負しているときは,自分の勝つ設定通りに従えばいい。勝利ロボットと化すだけ。その勝つ設定を創り上げる準備のほうが,真の勝負と化すし,読むのがとても難しいもの。(p128)
 勝負をしているとき,お金を賭けに行くタイミング,賭ける金額を常にベストにしないと,ダメなのです。それがベストな答えから1秒でも,1円でもミスるなら,ギャンブラーとしては終焉を迎えていくんす(p211)
 ヨーロッパに初陣して1時間くらい経って,気付けたことあり。誰も勝負から降りない。いや,降りる能力がない。(p213)
 プロは一発を狙わない。プロは安定してコツコツとした勝ちを求める。つまり,ギャンブル波を減らすのがプロ。行き着く先は同じ勝ち金額としても,「まれに大きな勝ちという狙い」だと,ギャンブル波が偏ったときに破産してしまう。実力があろうとも,ギャンブル波というのは容赦などしてくれない。(p216)
● ほかに,いくつか転載。
 けれど,「ホームレスを見下す視点」を持っているなら,伸びしろが限定されてしまう。ホームレスから学ぶことができない器となるから。自分より下と思う人からは,学べない器となるから。子供からだって,学ぶことはいっぱいある。(p79)
 プライドはいつも器を小さくする。(p93)
 いろんな一流の方とお話しして,相手の分野では月とすっぽんでも,ギャンブルならカジノで追い出され,一線で勝負している僕のほうが上。別にへりくだって話す必要性がないことを知った。(p111)
 パレード側が投げてくれるものは,価値がないものばかり。メインはプラスチック製のおもちゃのネックレスやコイン。でもね♪ みんなね,宝物でも,もらえるがごとくに,「くれ~,くれ~」と両手広げて,大絶叫する。(中略)日本人だと,もらえるものの内容によって,絶叫度を変えちゃう。「クール」と思いがちだけど,英語の「クール」の真意とは「こっちのアホなノリできる」ことを指す。多くの日本人には足りない「クール」さ。(p121)
 僕は殺人発生率=悪い人間率=治安の悪さと数値で把握しにいく。訪れた方が「治安の良し悪しをなんと言おう」が,数値は現実を表してくれる。短期間ステイした他人の意見に左右されたら,それは狭すぎる視点。旅も勝負もミスとなり,敗因だ。(p149)
 世の中,常識にとらわれず,賢い奴が勝つ。(p209)
● ブログの文章をそのまま本にしたんだろうか。上に転載したとおり,変わった文章だ。

2015年9月12日土曜日

2015.09.12 番外:自転車で困ったときに見る本

書名 自転車で困ったときに見る本
編者 ひょっとこproduction
発行所 桃園書房
発行年月日 2007.06/25
価格(税別) 1,524円

● 女性向けの自転車メンテナンス解説書のように思える。前かごの取り付け方やサドルの交換の仕方なんかをていねいに解説している。
 が,メンテナンスに女性向けも男性向けもないわけで,MTBのホイールの交換の仕方も解説されている。

● ブレーキを取り外す→キャリパーアジャスターの取り付け→ブレーキの取り付け→リムとブレーキの間隔を調整,ということになるわけだけど,最後のクリアランス調整がわからない。
 「ブレーキのボルトを左右2本とも締め終わったら,リムとブレーキゴムの間隔が左右同じになるように調整します」とあるんだけど,どうすればこの調整ができるのだ?

● が,後の箇所で,ブレーキの支点に調整ネジがあって,これを回すことによって調整できるとあった。
 いや,初めて知りましたよ。おかげで自分が乗っている安物自転車の前ブレーキをきちんと利くように調整できた。ありがたかった。
 でも,調整ネジがないタイプの自転車もあるよねぇ。

● 変速制御についても,有益な知識を得た。変速機に付いているリングを回すだけでワイヤーの張りの強さを調整できるってこと。初歩的な知識なんでしょうね。こんなこともぼくは知らなかった。
 それでもダメならワイヤーが切れている可能性が高い。ワイヤーが切れていないのに変速できないのなら,そこから先はプロにお願いしなさい,とある。

● じつはぼくのもう1台の自転車はワイヤーが切れていないのに変速できない状態だった。リングを回して張りを強くしてみたけれど,やはりダメ。プロにお願いするしかないんですかね。

2015年9月11日金曜日

2015.09.10 吉田友和 『10日もあれば世界一周』

書名 10日もあれば世界一周
著者 吉田友和
発行所 光文社新書
発行年月日 2014.04.20
価格(税別) 740円

● 前著『3日もあれば海外旅行』でも触れられていたけど,世界一周航空券というものがある。金額を見ると,通常のチケットよりも,エコノミー-ビジネス-ファースト間の料金差が少ない。ファーストでもエコノミーの3倍くらい。
 これだったら,思い切ってファーストに乗ってみるのもいいかも。っていうか,ファーストに乗りたいんだったら世界一周航空券しかないんじゃないか。
 普通にパリやロンドンに行くときに,自腹でファーストに乗れる人なんていったいどれほどいるんだろう。

● 以前,飛鳥Ⅱで世界一周クルーズに出かけられたら豪勢だなと憧れたことがあったが,それよりも世界一周航空券でファーストクラスに乗った方が,ずっといいかも。自分の行きたいところに行けるし(どこで降機するかを自分で選べる。100%の自由はないけれども),日程も自分で組み立てられる。
 荷物は自分で運ばなければならないけどね。

● これも前著などで紹介されていることだけれども,ネットの利用を著者は推奨する。宿はホテルに限らずいわゆる安宿もネットで予約できる状況になっているようだ。
 バックパッカー的な旅や自転車旅だと,予定が固まらないから予約なんてあり得ないんだけど,飛行機での移動ならネットで予約しておいたほうが安心だ。

● 10日間で世界一周,やろうと思えばやれるわけだ。実際,著者はやって見せている。が,可能ならば1ヶ月か2ヶ月はかけたいね。勤め人には無理な話で,この本はそうした勤め人に向けて,こういうやり方があるんですよと紹介しているわけだ。

● 以下にいくつか転載。
 数年前に会社を辞め独立した身だが,日本での日常の呪縛からは逃れなれない。フリーランスとはいえ,みんなが想像するほど自由に休めないのが現実である。(p7)
 最初の世界一周で長旅をしていた当時は,宿なんてほとんど予約したことはなかった。いつその宿へ行くかが確定していなかったし,現在の予約サイトのような便利なものも存在しなかった。(中略) 今回のように日程がタイトな旅になると,状況は大きく変わってくる。少しでも無駄な時間は省きたい方針で臨むと,宿探しに時間をかけるなんて非効率極まりないものとなってしまう。(p87)
 旅をしていると曜日感覚を失いがちだが,常に曜日を意識することは案外大きなポイントかもしれない。国によっては,特定の曜日は一斉に休む習慣があるからだ。(p91)
 どの市場にも共通して言えるのは,その土地の人々の暮らしを覗き見できることだ。これほど異文化へ対する好奇心が満たされるスポットもないだろう。(p177)

2015.09.08 吉田友和 『35歳からの海外旅行〈再〉入門』

書名 35歳からの海外旅行〈再〉入門
著者 吉田友和
発行所 SB新書
発行年月日 2014.11.25
価格(税別) 730円

● 外国を旅行しているときに,一番困るのは自分の意志を伝えることだ。二番目に困るのは,それに対する相手の回答を理解できないこと。
 ハワイで買いものをしたり,食事をしたりする分には,ほとんど困ることはないけれども,初めての外国旅行(韓国だった)ではほとほと閉口した。
 自分の気の弱さをイヤというほど思い知ることになった。気後れして,食堂にすら入っていけないのだ。餓死するわけにはいかないから,いよいよになれば重い扉を押すことになるんだけど。

● こうなると語学力以前の問題で,自分のコミュニケーション能力はゼロなんだと自己診断せざるをえない。そのよって来る所以のものは,自分の性格である。
 この性格を何とかしないととはるかな昔に思ったわけだが,性格なんて何とかなるものではないのだった。
 相変わらず,人間嫌い,人間恐怖,孤独好き,内弁慶だ。喋るのが面倒くさい。喋るより書いて伝えたほうが楽。

● が,この点について,著者は次のように書いている。
 異国を旅していると,ときには現地の人たちとやり合うこともあって,神経の図太さはイヤでも身につくものだ。(p47)
 僕は「おっとりしていますね」などとよく言われる。自分では意識したことはないが,いさかいは嫌いだし,自分をガツガツ主張するタイプではないのかもしれない。 ただ,それはあくまで日本にいるときの話だ。海外旅行中は,少なからずアグレッシブさが求められるし,自然とそうなる。(p185)
 そうなのかなぁ。ぼくはまだ経験が足りないだけなのか。

● 仕事との兼ね合いについては,次のようにアドバイスしている。
 本音を明かすと,どちらを優先すべきかといえば,僕自身は仕事よりも旅の方がプライオリティは高い。圧倒的に,絶対的に高い。 この際もう開き直ってしまうが,そういうスタイルでやってきて困ったことはなかったのも事実だ。出世なんてそもそも興味がないし,ほどほどに働いて,全力で遊びたいのだ。(p44)
 見栄や虚栄心をポイッと捨て去ったら,新しい世界が開けるかもしれない。旅のせいで肩身が狭くなるようなことはまずないのだ。やりたいことを我慢したり,大好きな趣味を封印したりしてまで働くなんてナンセンスだと僕は思う。(p44)
 どうせやるなら中途半端にせず,とことん突き抜けた方がいい。“旅人キャラ”を確立すると,その後はきっと楽になるはずだ。 「あいつは休んでばかりいるけど,まあ仕方ない」 諦めてくれたら,しめたもの。(p47)
 これを読んで気が晴れる人は多いのではないかと思う。ぼくもその一人だけれど。でも,著者は「出世なんてそもそも興味がない」としても,会社に残っていれば出世した人なのではないかと思える。
 気が晴れた人の多くは,出世なんてどうでもいいとは思い切れていないけれども,結果的に出世するような能力の持ち主ではなかったり,そのようなタイプではなかったりするのではないか。ぼくもその一人だけれど。

● そのような人も落ち着くところに落ち着くから,まぁまぁ心配は要らないんだけどさ。出世しなくても死ぬことはないし。サラリーマンの給料なんて,そもそもが知れたものだし。

● 他にいくつか転載。
 旅は必ずしも長ければいいってものではない。短い旅には短い旅なりの魅力がある。(p38)
 旅の予定があるかどうかは,日々のモチベーションにも大きな影響を及ぼす。旅という非日常を心ゆくまで楽しむためには,日常もおろそかにしない方がいい。(p39)
 旅はあくまで娯楽である-これが僕の持論だ。「自分探し」なんてあり得ないし,困難を乗り越えることに喜びを見いだすような,マゾ的発想には興味がない。(p140)
 自分を顧みてトラブルの主要因をいま一度考えてみる。それはズバリ,誤解である。(p172)
 アジアで麺料理を食べるときには,そばやラーメンの感覚でずるずる食べるのは御法度だ。スープを飲むのにお椀に口をつけるのもNG。スプーンですくってちびちび口に入れる。じれったいが,「ここは日本ではないのだ」と自分に言い聞かせるようにしている。(p179)
 僕自身は,旅における積極的なネットの活用の肯定派だ。もうネットがない時代の旅には戻れない。便利なものがあるのなら,とことん利用すればいいと思う。見知らぬ外国を旅する際につきものの不安なあれこれも,情報武装することで軽減できる。(p215)

2015.09.07 PHP研究所編 『やなせたかし 明日をひらく言葉』

書名 やなせたかし 明日をひらく言葉
編者 PHP研究所
発行所 PHP文庫
発行年月日 2012.07.18
価格(税別) 571円

● こうしたアフォリズム,格言を集めた本は星の数ほどあって,そのうちの何冊かは(二桁になるかもしれないが)ぼくも読んでいる。
 で,そういうものはたいてい身にならない。そもそも読書は身になるのかという問題にまで拡散するかもしれないけれど,少なくとも格言集といったものは,読んでいる間は気持ちが高揚したり,なるほどと肯いたり,少々賢くなったような錯覚は味わえるものの,読んだらそれっきりになる。
 読む前と何も変わらない自分がいる。

● 読書はほぼすべてそうだと思う。長い間に,自分では自覚できない影響を受けて,何らかの変容を被っているのかもしれないけれども。

● たぶん,本書もそうなんだと思う。が,一人の著作から編んだものなので,何というのか血が通っているという印象を持った。

● 以下にいくつか転載。
 大変に遅まきながら六十歳を過ぎたあたりから,あまり欲がなくなった。「漫画は芸術である」なんてえらそうなことは言わなくなった。(p5)
 人生のサイダのよろこびは何か? それはつまるところ,人をよろこばせることだと思った。「人生はよろこばせごっこ」だと気づいたとき,とても気が楽になった。(p5)
 とかく,叙情詩は少女趣味だとか,甘ったるいなどと軽蔑されやすいけれど,そういう人に限って,自分の胸深くにある叙情性に気がつかないか,叙情性を照れくさがっているのではないだろうか。(p31)
 めぐり合った仕事を誠実にやる。たとえばアメをつくるなら,おいしいアメをつくることだけを考える。そうしていれば,道は自然に開けていくものだ。(p51)
 教訓的なことはあまり好きではない。話はできるだけおもしろいほうがいい。 だが,いくらおもしろくするためでも,「毒」は入れない。本や音楽は精神の栄養であり,体に流れる血になると思うからだ。(p63)
 「良質な作品では読者がつかない」と言う人がいるが,間違いだ。読者がつかない原因は,ただおもしろくないからである。(p63)
 幸福は本当はすぐそばにあって,気づいてくれるのを待っているものなのだ。(p71)
 病気がわかったのは一九八八年の秋だった。カミさんがやせ始め,顔色もおかしいと気になっていたのに,仕事に追われ,「すぐ病院に行ったほうがいい」と言っただけで,一緒に病院に行こうとしなかった。(p77)
 最後の入院となったある日,カミさんの体を拭いてあげた。「ああ,天国にいるみたい」とぼくを見て,かすかに笑ったカミさんの顔は今も脳裏から離れない。(p77)
 人生,何があっても,これで終わりなんてことはないのだ。(p79)
 人間にとって一番つらいのは飢えである。正義を示すもっとも端的な行為は,飢えた人間に一片の食べものをさし出すことにほかならない。(p103)
 悲しいときやつらいとき,涙がこぼれてきても,手のひらで拭くのでは,弱い心を追い出せない。しっかり手を握り,拳で涙を拭かなければダメだ。(p123)
 一世を風靡した作品は,絵のスタイルがユニークだとか,ストーリーにオリジナリティがあるとか,それぞれ独自の世界を持っていることに気づく。ヒットするとすぐに亜流が出てくるのだが,亜流では絶対に成功しない。(p145)
 「今日も笑顔で行こう!」と心に号令をかけながら,鏡に向かって笑いかける。これが,毎朝の習慣になっている。 笑顔を大事にしている人は,自然に笑顔になる筋肉が鍛えられていく。反対に,いつもしかめっ面をしていると,苦虫をかみつぶしたような表情しかできなくなってしまう。(p149)
 もし,沈んでいる人がいたら,笑顔を向けてみよう。少しでも慰めることができ,その人が笑顔を取り戻せたら,「ああ,人の役に立つことができた」と,こっちまでうれしくなる。それが,自分にとっても新しい生きる力になっていく。(p149)
 老境は人生の秘境なのだ。毎日,未知の世界への冒険旅行をしているようで,ますます生きるのがおもしろくなってくる。(p161)
 「老人は老人らしく」しなくてもいいのだ。人間は人それぞれなんだから,「らしく」というひとつの価値観でくくる必要なんかない。「いい年」だからこそ,やりたいことはどんどんやっていこう。(p161)
 人間,七転八倒していくのはしょうがない。だが,そのどれひとつとして無駄はない。失恋や離婚さえ役に立つのだ。 この年齢になると,そのことが実によくわかるのだ。(p177)