2015年11月10日火曜日

2015.11.03 外山滋比古 『忘却の整理学』

書名 忘却の整理学
著者 外山滋比古
発行所 筑摩書房
発行年月日 2009.12.10
価格(税別) 1,200円

● これまで読んだ外山さんの著書にも,知識と思考は相性がよろしくない,思考のためにはいったん入れた知識を忘れることが必要だ,と力説されていた。
 その忘却の効用をまとめて説いているのが本書。

● 本書にひんぱんに登場するフレーズは「休み,休み」。休みを取らないで,読み続けるのは害あって益なし。

● 以下に転載。
 大学で卒業論文を書く学生はだれしも苦労するが,日ごろよく勉強して知識も豊富な,優秀だと見られている人が意外に混乱し,テーマが決められない一方,普段はあまり勤勉でなく,本なども読み方の足りない学生が,もちろんすべてではないが,しばしば,驚くようなおもしろいテーマをつかむのである。(p6)
 どうして知識が独自の思考に結びつかないのか。両者の間に,忘却を考えないと,説明がつかない。知識をいったんかなりの部分,忘れたあとで,もとの知識から離れてオリジナルな思考の生まれる余地が生じる。忘却がないと,知識は途方にくれる。(p7)
 まず吐いて,残っているよくない空気を全部出してしまってから,きれいな空気を存分に吸い込む。これが深呼吸である。吸い込むのを先行させれば,肺臓によごれた空気が残ってしまう。充分な換気にならない。 それと同じで,忘却が先行する。そうあるべきである。(p16)
 完全な記憶は没個性的である。だれもが同じように記憶できる。試験で百点満点の答案は,何人あっても同じ答えをしている。ところが,忘却作用がはたらいて,欠損部分がある答案は,十人十色,それぞれのところで間違っている。(中略) 没個性的な知識を習得することを通じて個性が生まれるのは,つまり忘却の作用によるのである。(p17)
 頭を使いっぱなしにして,休ませてやらないと,あとから新しいことを吸収することができなくなってしまう。頭へ入れたことを適当に整理する時間,うまく忘れる時間がないと進歩するのは困難である。(中略)勉強も休み,休み,するのが賢明である。(p81)
 本ばかり読んでいると,考えることのできない人間になりやすい。教育が普及した現代,知識過多な読書人が昔に比べて,多くなっている。それに社会も個人も気がつかない。 本を読むのはほかの人の考えたことの跡をたどり,追うことである。いくら行っても本を書いた人の先に出ることは叶わない。(p84)
 思考のとりえはとにかく疾いこと。一瞬,千里を走ることができる。三分の黙考が,本にしたら十ページ,二十ページになることも不可能ではない。それこそ休み,休み,忘れ,忘れて継続的に思考を積み重ねる。いくら忙しい人でも,二分や三分の思考の時間がとれないということはあるまい。(p85)
 実際,歩きはじめて三十分くらいの間は,考えごとはうまくできない。頭が濁っているからである。(中略)散歩の効用は思考そのものをおこすのではなく,思考のための準備をととのえるところにある。忘却するには歩くことがよいようで,その上,忘却はたいてい爽快感をともなっている。思考はその中から生まれるというわけである。(p103)
 原稿は風を入れて,ひととき寝かせてやらないと,うまい推敲にならない(p118)
 夢中,時を忘れ,われを忘れていれば,いつまでも年をとらない。 そういう忘我,夢中の状態にしてくれるものが,そんなにころがっているわけがない。人為によって,見るものに,われを忘れ,時のたつのも気づかないようにさせるものが考え出された。ドラマ,演劇である。(p123)
 悲劇を見ると,人は内にかかえている鬱積した情緒を解放し,それによって,精神を浄化するというのがカタルシスである。(中略)カタルシスには,下剤によって腸内のものを排出する意味もあるが,心に付着したものをはがし,処理するのは,忘却の一種である。(p125)
 いくら古い時代でも人間のいるところにはかならず,祭りがある。人々はそれによって,めいめいカタルシスをおこし,精神を浄化,活力を増進させられることを,為政者たちはいち早く発見していたのである。祭りはいくらかの反社会性をはらんでいるけれども,それは社会の安定を高めるために有用である。毒をもって毒を制する知恵としてよい。(p126)
 カタルシス効果においては,美談,あるいはサクセス・ストーリーのようなものは,凶悪,悲惨なニュースに及ばない。同類だからこそ毒を毒で制するようにしたときカタルシス効果が大きい。マスコミはひどいニュースばかりをとりあげようとしているかに見えるが,カタルシスを求める読者が無意識のうちに,ネガティヴなものを欲していて,それに対応しているにすぎない。(p127)
 自然に,必然的,本人が望むと望まないとを問わず,勝手にどんどん忘れるようになっている。ということは,記憶より忘却の方が人間にとって重大なものだということになる。(p130)
 集中講義ですばらしい授業があったら例外的だし,大きな知的刺激を受ける学生もほとんどないはずである。 大学の授業は週一回と決ったものである。よほど熱心な学生でも,先週の授業のかなりの部分は忘れている。ひどいのになると,まるきり忘れてしまっていることもある。それを非能率だと考えるのは,勉学というものを知らない人で,喜んで集中講義をするだろう。(p141)
 良心的,というか,気の小さい人は,ほかのことにかかずらうのは不純といわんばかりに,一心不乱でその問題だけを考えつめるかもしれない。しかし,これは誤っている。そういう熟慮の結果は,しばしば即答とあまり変わるところがない。(p146)
 この読み方を昔の人は,「読書百遍,意おのずから通ず」と言った。ふつう,百回,つまり何度も読むという点が注目されるけれども,一回一回の間に,空白の時間のあることは注意されない。その空白は頭の整理をする忘却のためにあるのだ。立て続けに何回も読んだのでは,「意おのずから通ず」とはならない。(p151)
 メモをとった話は結局,聴いたことにならないのだ,ということに気づかないのは問題である。忠実にメモしたつもりでも,話半分も書きとれないし,文字を書くのに気を取られているから,話は頭を素通り。あとには何も残らない。メモしたから,後で読めばと本人は考えるが,お生憎さま,メモはまず後で読むことはない。(中略) だいたい,聴いた話をすべて,わがものにしようというのがよろしくない。半分わかれば上等,五分の一覚えていれば上々,としなくてはいけない。(p174)
 やはり,聞き流し,読み流すのが,自然で,またもっとも有効な情報の取得方法になる。記憶と記録と忘却と理解は,一般に考えられているよりずっと複雑な関係にある。(p179)
 時間はただ流れるのではなく,不要なもの,不快なもの,腐敗する部分を洗い落とし,流れ落とすはたらきをもっていることがわかる。はっきり言えば,時は忘却なり,である。古いものは,時の忘却を経ているから,なつかしく,美しく,心ひかれるのである。(中略)思い出はもとのものごとをそのまま再現することではなく,時の忘却作用によって加工,変化した過去である。歴史家はこのことを頭に置かないといけないように思われる。(p182)
 時は距離でもある。そうだとすれば,空間的距離も時の忘却作用に似た作用をおびている。距離も美化の機能をもつ。 すぐ近くで見れば,岩と雑木のかたまりのような山も,遠山となれば,青く霞んで美しい。(p183)
 詩は強い感情の自然の発露だけれども,ナマの感情ではなく,心静まり,時を経て思い出された情緒に根をもっていなくてはならない(p185)
 毎日毎日,病める人とばかり接している医師の仕事は精神衛生上,きわめて厳しい仕事である。息抜きが必要で,好きなことにひと時われを忘れるのは,医師の力を高めることになるはずである。(中略)モンテーニュが,「よく笑う医者はよく治す」という意味のことを言っている。仕事ひと筋の医者は笑うゆとりがなく,したがって,良医ではないとも言える。(p188)
 ひと筋につながっていては忘却するヒマがないが,何足も履物をはいていれば,労せずして,どんどん忘れることが出来る。(中略) ひとつでは多すぎる。いくつかを同時実行すれば,どうしても,休み休み,になる。それが,頭の好むところでもあって,忘却は,忙しいほど進む。忙しい人ほど頭がよく働くことになる。(p190)

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