2015年10月24日土曜日

2015.10.21 外山滋比古 『乱読のセレンディピティ』

書名 乱読のセレンディピティ
著者 外山滋比古
発行所 扶桑社
発行年月日 2014.04.05
価格(税別) 920円

● 本ばかり読んで知識を詰めこむことに警鐘を鳴らしている。忘れることの重要性を説く。この点は,今月読んだ他の著書でも何度も説いていること。
 知識は思考の邪魔になる。借りものの知識より自力で考えることのほうがずっと重要だ。本書の肝をひと言で表せと言われれば,そういうことになるだろう。

● 本を読む場合,ノートを取りながら読むなんてのは下策。なぜならスピードを殺してしまうからで,本はある程度のスピードを保って「風のように」読むほうがいい。そうでないとわからないことがある。

● たぶん,本を読んだあとにこんなふうにブログ(記録)を書くのも余計なことだと言われるのではないかと思う。
 が,半ば惰性で続けている。自分のためのブログだけれども,自分で読み返すことはほとんどない。書いたあとはそっくり忘れている。
 だけど,それだったら書かなくても同じだなと思う。

● 以下に,いくつか転載。
 書いた人間の顔がチラチラするようでは本当の読書にならない。どんなすぐれた著者の本でも,近い人の心をゆさぶるのは難しい。(p11)
 なれ親しんだ仲間,親しきものは,多く,不毛である。われわれはよく知っているものごとや人間からよい影響を受けることが下手である。その代わり,えたいの知れない遠くのものから,おもいがけない美しき誤解とともに深い教えを受けることができる。(p13)
 戦前の青年はいまよりもよく本を読んだが,あまり個性的ではなかった。そして常識的読者が多かった。哲学的なものが高級だと信じこんで,難解な翻訳にとり組んで粋がっていた。(p24)
 読ませたかったら,まず,読むことを禁止するのが案外,もっとも有効な手となる。(中略)かくれて読み,禁書を読むのははじめから自己責任である。かくれて飲む酒は,すすめられて飲む酒よりつねにうまい,にきまっている。(p30)
 わかりやすい文章を書くのは難しく,チンプンカンプンの文章を書くのはいともやさしい。そういうことを,教わらなかった日本人はずっと長い間,わけのわからぬ難解文をありがたがる悪習から抜け出すことができなかった。(p38)
 本当にわからない本でも,百遍読み返したら,わかるようになるか。ためした人はいなかっただろうが,わかる,のではなく,わかったような気がするのである。自分の意味を読み込むから,わかったような錯覚をいだく。(p41)
 いまはむしろ速読に人気がある。十分間で一冊読み上げる法などを言いふらしている向きもある。そんな本なら,いっそ読まない方が世話がない,とは考えないところが,かわいい。(p43)
 本を読んだら,忘れるにまかせる。大事なことをノートしておこう,というのは欲張りである。心に刻まれないことをいくら記録しておいても何の足しにもならない。(p45)
 読書ということはそれほどありがたいことではない。どれくらいご利益があるのかもはっきりしていない。(p49)
 知識はすべて借りものである。頭のはたらきによる思考は自力による。知識は借金でも,知識の借金は,返済の必要がないから気が楽であり,自力で稼いだように錯覚することもできる。(p51)
 文章の上手,下手は,技術の問題であるけれども,話すことがりっぱであるのは,その人の心,頭のはたらきそのものを反映する。そう考えると,書くことばよりも話すことばの方が,大きな意味をもっていることが納得される。(p56)
 ことばは,ゆっくり読まれると情緒性が高まる一方,速く読まれると,知的な感じがつよくなる。重々しい感じを与えたかったら,ゆっくりゆっくり話せばいい。知的な印象を与えるには,速度が大切で,早口だと,なんとなく知的にきこえる。(p61)
 辞書をひいたりして,流れをとめてしまい,むやみと時間をかけると,ことばをつないで意味を成立させている残曵が消えて,わかるものがわからなくなってしまうのである。一般にナメルようにして読んだ本がおもしろくないのは,速度が足りないからである。(p66)
 どうも,人間は,少しあまのじゃくに出来ているらしい。一生懸命ですることより,軽い気持ちですることの方が,うまく行くことがある。なによりおもしろい。(p88)
 学校を出て,自分で考えた問題をつくり,借りものではない思考によってモノを書きたい,論文をまとめたいと思うようになるのに十年はかかったのだから,いかにも血のめぐりがよくないのである。(p96)
 オリジナルなテーマは頭の中だけでは生まれない。生きていく活動の中からひょっこり飛び出してくるらしい。机に向かって考えるだけでは充分でない。常住坐臥,いつも頭の中にとどめていてはじめて,テーマになるもののようだ。(p97)
 読み飛ばしたって,心にひびくところは消えたりしない,ということがわかって,ノートをとりながらの読書をやめた。(p109)
 あえてよい条件からはなれ,不利なところで努力する方が新しいものを見つけることができる,と考えている。(p117)
 映画は俳優の演技によるが,廃油が勝手に動きまわっても映画にならない。監督が俳優を活かしてフィルムにする。俳優が一次的創造とすれば,監督の役割は二次的である。かつては,一次的創造の俳優の方が二次的創造よりも社会的に注目されたが,だんだん映画が進化するにつれて,監督の方が俳優におとらず,やがては俳優以上の評価を受けるようになる。(p125)
 風刺というものはピストルのようなもの。至近距離には威力をふるうが,遠くにはタマが飛んで行かなくて無力である。(p146)
 古典は作者ひとりで生まれるのではなく,後世の受容によって創り上げられるもののようである。絶対的作者の概念は,古典に関する限り,修正されなくてはならない。(p147)
 作者自身の評価はしばしば偏っている。客観的でないからで,作者は自作について,客観的になることはきわめて難しい。(中略) 近いということは,ものごとを正しく見定めるには不都合なのである。近いものほどよくわかるように考えるのは,一般的な思い込みである。自分のことがいちばんわかると思っているが,実は,もっともわからない。(p149)
 中国人は大昔,耳の方が目よりも高度の知性を育むことを知っていたようである。聡明。聡は耳の賢さであり,明は目の賢さであるが,順位は,聡,つまり耳の方が上である。そういうことばを移入させておきながら,日本人は耳を軽んじ,耳でする勉強を耳学問などと言っておとしめたのである。(p160)
 知識が少なくて,利用が活発であれば,余分な知識がたまって,病的状態になることはないが,知識,情報があふれるようになり,さらにせっせと摂取していれば,消費されないものが蓄積されて,頭の健康を害することがありうる。 つまり,体のメタボリック・シンドロームに似たことが,頭においてもおこりうる。(p169)
 忘却力のつよい人は頭がからっぽ近くになるまで忘れることができるのに,自然忘却力の弱い人は,覚えていなくてもいいことまで忘れない。これまでは,こういう忘れない人を優秀だと考えてきた。(p171)
 スポーツをする,勉強もつよい文武両道の子どももある。スポーツの練習で勉強の時間が少ないのに,勉強ばかりしている生徒より学業の成績がよいということがある。スポーツで,頭をきれいにしているからであろう。(中略) 不眠不休は大働きのように見えるが,疲れて,あまりよい成績が得られないことがあるのも,忘れる時間がないからである。(p173)
 知識によって人間は賢くなることができるが,忘れることによって,知識のできない思考を活発にする。その点で,知識以上の力をもっている。(p176)
 記憶はいつまでももとのままであるのではなく,忘却によって,少しずつ変化する。しかも,よりよく変化する。(中略) つまり,回想はつねに甘美である。甘美でないものは消える。(p179)
 知識を得るには本を読むのがもっとも有効であるが,残念ながら思考力をつけてくれる本は少ない。ものごとを考える思考力を育んでくれるのは散歩である。(p190)

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