2015年10月14日水曜日

2015.10.09 外山滋比古 『知的生活習慣』

書名 知的生活習慣
著者 外山滋比古
発行所 ちくま新書
発行年月日 2015.01.10
価格(税別) 800円

● 先日読んだ『50代から始める知的生活術』と重なるところもあるけれど,90歳を超える人でなければ書けない(かどうかはわからないにしても),相当以上の説得力を感じる。
 知識なんて大したものではないというのが,本書に通底する主張(あるいは事実の指摘)のように思う。

● 読み進めていくうちに気分が楽になるのを感じた。ゆったりとしてくる。

● 以下に転載。
 いかに賢く忘れるかは,昔の人の知らなかったいまの人間の課題である。(中略)日記は心覚えのためにつけるのではなく,むしろ,忘れて頭を整理する効用のあることがわかってくる。(p26)
 知識と思考は仲がよくない。知識がふえればふえるほど,思考の必要が小さくなって,考えなくなる。必要が思考の母である。知識で間に合わせれば考えるまでもない。それでいつしか思考を忘れ,思考ができなくなる。(p48)
 知識を得たら,すぐに,使わない。時間をおいて,変化するのを待つ。(中略)“時”の力を加えることで,知識は変容し,昇華する。正確でなくなるかもしれないが生産性を獲得する。そういう特化した知識は,思考と対立しない。(p48)
 図書館で書き上げた本がどれくらいあるか,自分でもわからない。書いていてわからぬことがあると,十歩も歩けば書架である。辞書類もわりによく揃っている。図書館は,私にとって,本を借りて読むところではなく,主として,執筆の代用書斎として役立っている。うちの書斎より仕事のはかが行くのである。(p57)
 あるとき,われわれの日常の生活も,形のない雑誌のようなものではないかと考えた。ぼんやり,なんとなくすごす一日は,編集のない同人雑誌のようなものではないか。(p85)
 自分で編集者になったつもりで,スケジュールをつくるのである。(中略)一日の生活編集である。(p86)
 モノマネによって得られた知識は,それ自体では活力をもたない。新しい知識を生む力を欠いているが,それを反省するのは愉快ではないから,飾りもののような知識のことを教養と呼んで価値づけ,実用よりも一段上のものであるような錯覚をもつようになったのはシッタシズム文化の成り行きである。(中略) 人文学の学者は多くこの教養シッタシズムに陥って,無力である。モノマネの知識は振りまわしても,自分のことばがない。知ったかぶりをしても,借りものの着ていい気になっているおしゃれくらいにしか評価されるべきではない。(p91)
 腑に落ちないこと,わからないこと,不思議なことに出会ったら,素朴に,「なぜ」「どうして」などと自問するのである。すぐ本を調べたりすることは必ずしも賢明ではない。疑問はいつまでも疑問としていだいていれば,そこにおのずから独自の思考が生まれるきっかけになる。(p94)
 飲み屋の雑学的放談はすばらしいエネルギーを与える。象牙の塔に立てこもると,そういう低俗をきらい,ひとり高しとしていると下降し始めるのに気づかない。(p104)
 机の上ではまとまらなかったことが,近所をひとまわり,ふたまわりしてくると,スラスラと解決することがあって,散歩の信者になったのである。散歩中の思いつきをメモにとる習慣が付いた。その後,散歩より,朝,目覚めたあと三十分か小一時間,天井をにらんでいる方が,思考にとって生産的であることに気がつく。枕もとに大きなメモ紙を置いて,自由思考を楽しむ。(p120)
 じっと座っているのがたいへん心身にとってよくないことだという常識を現代人はもっていない。人間はしゃべる動物である。だまってひとりでながい時をすごすのは人間ばなれたことになる。(p135)
 明治の話だが,日露戦争のあったことも知らず,勉強,研究した学者がいて,世人はそれを学問の権化のようにたたえた。象牙の塔では,そういう人たちによって守られると誤解した。生活がすくなければすくないほど人間として価値があるという考え方である。象牙の塔には生活がなくて,ただ知識の残骸あるのみ,ということを啓蒙期の社会は知らない。おくれているのである。(p175)
 人間は生活があるから人間なのであって,知識がいくらあっても,生活のない人間は価値が小さいのである。(p181)
 学校を出て勤めるようになると,生活欠如を反省したりしているヒマがない。ただ勤勉にはたらけば,充実した生活であるように考えやすい。つまり,仕事人間であって,本当の人間らしさを失うおそれが大きい。(p183)
 文学青年は眼高手低である。自分ではできもしないで,他人の仕事にケチをつけるのを得意とし,それを批評だと思い込む。判断力が欠けている上に,反省することを知らないから,ハタ迷惑である。(p201)
 学生だったあるとき,英語学者の大塚高信博士が,こんなことを言われた。若いうちは文学がおもしろいが,年をとると,語学の方がおもしろくなる。私はこのことばに強い感銘をうけたが,私自身,文学青年的であることに満足できなくなっていたからであろう。(p202)
 日本語の散文確立にとって木下是雄『理科系の作文技術』の果たした役割は大きい。文系の人たちの「文章読本」は充分に散文的でない。それをはっきりさせたのが,物理学者の書いた『理科系の作文技術』である。(p206)
 バーナード・ショーがえらいのは,書いた手紙の数ではなく,ほかの人が書かないことを手紙の中で書いたことである。そのひとつに,「今日は疲れている。体力がないから,長い手紙になるが,かんべんしてください」という冒頭の手紙がある。(中略)すぐれた手紙を書く人は,短くて要領よく心にひびく手紙を書く。(p218)

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