2015年9月30日水曜日

2015.09.28 内田 樹 『下流志向』

書名 下流志向
著者 内田 樹
発行所 講談社文庫
発行年月日 2009.07.15(単行本:2007.01)
価格(税別) 524円

● 「学ばない子どもたち 働かない若者たち」が副題。
 なぜそうなったか。それは子どもたちや若者たちが怠惰だからではなく,むしろ勤勉だからである。愚かであり続けることを全力で維持しようとしているのだ。
 なぜか。そうするように社会から強制されているからである。
 概ね,そのような内容。

● 彼らは社会との関わりを消費者として始めることを強いられている。どういうことか。
 今の子どもたちと,今から三十年ぐらい前の子どもたちの間のいちばん大きな違いは何かというと,それは社会関係に入っていくときに,労働から入ったか,消費から入ったかの違いだと思います。(中略) 社会的能力のない幼児が,成長していく過程で,社会的な承認を獲得するために何をしたかというと,まず家事労働をしたわけです。(中略)親からすれば自分たちの分担すべき家事労働がわずかなりとも軽減するわけですから,当然「ありがとう」とか,「よくやったね」とかほめてくれる。子どもはそれがうれしいし,誇らしい。(中略) ところが,今はそうではない。今の子どもたちは,労働主体というかたちで社会的な承認を得て,自らを立ち上げるということができない。そういう機会をほとんど構造的に奪われている。(p45)
 むしろ,今の子どもに求められているのは,「何もしないこと」です。 子どもが動き回ること自体が家庭内の秩序を乱す壊乱的なファクターであるのですから,できればじっとしていて,割り当てられた空間内で静止していることが子どもの果たしうる最良の貢献である。そういうふうになっている家庭がたいへんに多いと思うのです。「いいから,あなたは何もしないでちょうだい!」という母親たちの怒声を僕たちはずいぶん聞き慣れています(p48)
 消費することから社会的活動をスタートさせた子どもはその人生のごく初期に「金の全能性」の経験を持ってしまう。そのスタートラインにおける刷り込みの重みは想像される以上に大きいと僕は思います。それは単なる拝金主義的傾向が刻印されてしまうということとは違います。そうではなくて,消費主体として立ち現れる限り,買う主体の属人的性質については誰からも問われないということです。 問題は金の多寡ではないのです。「買い手」という立場を先取することなのです。(p51)
 さらに危機的なのは,子どもの目から見て,学校が提供する「教育サービス」のうち,その意味や有用性が理解できる商品がほとんどないということです。(中略)教育の逆説は,教育から受益する人間は,自分がどのような利益を得ているのかと,教育がある程度進行するまで,場合によっては教育課程が終了するまで,言うことができないということにあります。(p54)
 五十分間の授業を黙って耐えて聴くという作業は子どもたちにとっては「苦役」です。彼らはその苦役がもたらす「不快」を「貨幣」に読み換えて,教師が提供する教育サービスと等価交換しようとする。学校において,子どもたちが交換の場に差し出すことのできる貨幣はそれしかないからです。(p57)
 公立の中高の生徒たちに授業に対する「興味がない」という意思表示の激しさにいつも驚かされます。(中略)これ以上だらけた姿勢を取ることは人間工学的に不可能ではないかと思われるほどだらけた姿勢で立ち上がり,いやいや礼をし,のろのろ着席する。僕はこの精密な身体技法にほとんど感動してしまいました。「きちんとした動作をしたせいで,うっかり教師に敬意を示していると誤解される余地がないように」この生徒たちは全力を尽くしている。(p60)
 今の子どもたちが最初に社会関係に登場するときに,労働主体としてではなく消費主体としてであること。それは(当然ながら)彼らの責任ではなく,そういう社会になっていること。ここを指摘したのは著者が初めてではないか。

● この問題をさらに深刻にしているのは,消費主体にとって,自分の知らないことは存在しないことになるということ。
 学力低下の危機的な要素の一つは(中略)子どもたちが,自分たちには学力がないとか,論理的思考ができないといったことを,多少は自覚していても,そのことを不快には思っていないという点にあります。 どうしてそういうことができるのか,僕にはよくわからなかったのです。でも,これを説明できるロジックというのは,よく考えると一つしかない。 それは,彼らは「自分の知らないこと」は「存在しない」ことにしているということです。(p32)
 消費主体にとって,「自分にその用途や有用性が理解できない商品」というのは存在しないのです。そのようなものはそもそも商品としては認識されない。(p52)
● そうした消費=市場原理の特徴は無時間モデルであること。しかし,学びは時間性を本質とするものだから,教育に市場原理を持ち込むことはそもそもできない。
 学びは市場原理によっては基礎づけることができない。これが教育について考えるときの基本です。この基本原則を見逃してしまうと,あとはどのような精緻な教育モデルとつくってみても,どのように斬新な教育方法を考案しても,無駄なことです。(p70)
 母語の習得は最も原型的な学びです。他のすべての学びは,この経験を原型として構築されます。そう断言してよいと思います。 母語の習得を,私たちは母語をまだ知らない段階から開始します。(中略)母語の学習を始めたときは,これから何を学ぶかということを知らなかった。これがたいせつなところです。(中略) つまり,起源的な意味での学びというのは,自分が何を学んでいるのかを知らず、それが何の価値や意味や有用性をもつものであるかも言えないということろから始まるものなのです。というよりもむしろ,自分が何を学んでいるのか知らず,その価値や意味や有用性を言えないという当の事実こそが学びを動機づけているのです。(p74)
 まず,学びがあり,その運動に巻き込まれているうちに,「学びの運動に巻き込まれつつあるものとしての主体」という仕方で事後的に学びの主体は成立してくる。私たちは自らの意思で,自己決定によって学びのうちに進むわけではありません。私たちはそのつどすでに学びに対して遅れています。私たちは「すでに学び始めている」という微妙なタイムラグを感じることなしに,学び始めることができないのです。(p76)
 教育を「苦役と成果」「貨幣と商品」「投資と回収」というビジネス・モデルで考想する限り,それは必ず無時間モデルで下絵を描かれることになります。なぜなら,消費主体は時間の中で変化しない,というより変化してはならないからです。手持ちの貨幣のいくぶんかを投じ,それと等価の商品を手に入れるという交換を繰り返している限り,手持ちの資産は形態は変化するけれど総額は変化しない。それが等価交換プロセスを生きる主体の宿命です。変化することを禁じられているというのが消費主体の宿命なのです。(p182)
● それはまた,子どもたち自身にも過酷な結果をもたらすと著者は言う。
 子どもがまず学ぶべきことは「変化する仕方」です。学びのプロセスで開発すべきことは何よりもまず「外界の変化に即応して自らを変えられる能力」です。「学び」の人類学的意味はそれに尽きます。「学び」は人類と同じだけ古い。それに比べれば,市場経済や等価交換の原理が人間世界に入ってきたのは,ぼく最近のことにすぎません。ですから,市場原理を掲げて学校教育に立ち向かう子どもたちは,いわば,人類学的な進化圧に抗して戦っていることになります。(p82)
 おのれの幼児的欲望を抱え込んで,決して成長変化することのない消費主体のままでいること。市場原理は子どもたちにそうであることを要請します。(p82)
 知性とは,詮ずるところ,自分自身を時間の流れの中に置いて,自分自身の変化を勘定に入れることです。 ですから,それを逆にすると,「無知」の定義も得られます。 無知とは時間の中で自分自身もまた変化するということを勘定に入れることができない思考のことです。(p182)
● 市場原理を支えるイデオロギーは「自己決定・自己責任論」である。しかし,これは官が奨励したもので,かつて流行った(今も流行っているのか)いわゆる「自分探し」も同様である。
 「自分はほんとうはなにものなのか?」「自分はほんとうはなにをしたいのか?」 ちょっと申し上げにくいのですが,このような問いを軽々に口にする人間が人格的に成長する可能性はあまり高くありません。(中略) もし,自分がなにものであるかほんとうに知りたいと思ったら,自分のことをよく知っている人たち(例えば両親とか)にロング・インタビューしてみる方がずっと有用な情報が手に入るんじゃないでしょうか? 外国の,まったく文化的バックグラウンドの違うところで,言葉もうまく通じない相手とコミュニケーションして,その結果自分がなにものであるかがよくわかるということを僕は信じません。(p83)
 この「自分探しの旅」のほんとうの目的は「出会う」ことにはなく,むしろ私についてのこれまでの外部評価をリセットすることにあるのではないかと思います。(中略) 「自分探し」というのは,自己評価と外部評価のあいだにのりこえがたい「ずれ」がある人に固有の出来事だと言うことができます。(p84)
 「何の役に立つのか?」という問いを立てる人は,ことの有用無用についてのそのひと自身の価値観の正しさをすでに自明の前提にしています。(中略)では,「私」が採用している有用性の判定の正しさは誰が担保してくれるのでしょうか? (中略)この個人的な判定の正しさには実は「連帯保証人」がいるのです。「未来の私」です。 「私」に自己決定権があるのは,自己決定した結果どのような不利なことが我が身にふりかかっても,その責任は自己責任として,自分が引き受けると「私」が宣言しているからです。 これが「何の役に立つのか?」という功利的問いを下支えしているのは「自己決定・自己責任論」です。これもまた「自分探しイデオロギー」と同時期に,官民一体となって言い出されたものでした。そして,それが捨て値で未来を売り払う子どもたちを大量に生み出しているのです。(p90)
● さらに。「自己決定・自己責任」は自分でリスクを取るということだけれども,そのリスクは誰にでも遍在的に存在しているものではない。弱者ほどリスクが大きくなる構造がある。
 リスク社会では必ず二極化が進行します。それは,努力におけるごくわずかな入力差が成果において巨大な出力差として結果することがある,ということです。 しかし,リスク社会のほんとうの問題はその次にあります。それは,「このリスク社会をどうやって生き延びるか」という生存戦略の選択において,さらに二極化が進行するということです。 もっとも典型的なのは学校システムにおけるふるまいです。(中略)パイプラインに亀裂が入っているときに,それでもなお学習努力を続けられる子どもと,学習努力を放棄してしまう子どもの間にはあきらかな学力差がつきます。そして,リスク社会では入力におけるわずかな差が,巨大な出力差として現れる可能性が高い。(p96)
 一般的印象としても,社会上層の家庭の子どもたちは下層家庭の子どもたちよりも学力が高いように思われる。(中略) 上層家庭の子どもは「勉強して高い学歴を得た場合には,そうでない場合よりも多くの利益が回収できる」ということを信じていられるが,下層家庭の子どもは学歴の効用をもう信じることができなくなっているということです。ここにあるのは「学力の差」ではなく,「学力についての信憑の差」です。「努力の差」ではなく,「努力についての動機づけの差」です。(p97)
 リスク社会におけるリスクはすべての社会成員に均等に分配されているわけではなく,階層ごとにリスクの濃淡があるのです。そして,自分たちが生きているのは努力と成果が相関しないリスク社会であるということを認め、それゆえ「努力してもしかたがない」という結論を出しているのは,いちばん多くのリスクをかぶっている階層なのです。(中略) まことに奇妙な話なのですが,リスク社会とは,そこがリスク社会であると認める人々だけがリスクを引き受け、あたかもそれがリスク社会ではないかのようにふるまう人々は巧みにリスクをヘッジすることができる社会なのです。(p98)
 失業するのも,ホームレスになるのも,病気になるのも,すべてはそのようなリスクのある生き方を選んでしまった自分自身の責任であるという言い方には,リスクというのは個人的なものだということを前提にしています。 しかし,この言明は論理的にはすでに破綻しています。だって,リスクヘッジというのは一人ではできないことだからです。(中略) リスクをヘッジするためには,少なくとも二人が必要です。Aを選択した人間とBを選択した人間がいて,どちらに転んでも,利益と損失を均等にシェアするという約束が成立している場合にしかリスクはヘッジできない。(p116)
 リスク社会を生き延びることができるのは「生き残ることを集団的目的に掲げる,相互扶助的な集団に属する人々」だけです。ですから,「リスク社会を生きる」というのは,巷間言われているように,「自己決定し,その結果については一人で責任を取る」ということを原理として生きることではまったくないのです。「自己決定し,その結果については一人で責任を取る」というのはリスク社会が弱者に強要する生き方(というよりは死に方)なのです。(p120)
 「迷惑をかけ,かけられる」ような双務的な関係でなければ,相互支援・相互扶助のネットワークとしては機能しません。「誰にも迷惑をかけてないんだから,ほっといてくれよ」というのは若い日本人の常套句です。たしかに,その人は,誰にも迷惑をかけていないのでしょうが,それは他人に迷惑をかけたくないからそうしているのではなく,他人に迷惑をかけられたくないからそうしているのです。自己決定について他人に関与されるのがわずらわしいので,「あなたの生き方にも関与しない」と宣言しているのです。こう宣言することによって,人々は戻り道のない社会的降下のプロセスを歩み始めます。(p126)
 現在の教育の問題は,単に子どもたちの学力が低下しているからということではありません。それが子どもたちの怠惰の帰結であるのではなく,努力の成果である,ということです。(中略) それは「自分のことは自分で決める」という自己決定権に対する固執です。自己決定したことであれば,それが結果的に自分に不利益をもたらす決定であっても構わない。(中略) つねに正しい選択肢を選ぶことができるから自己決定が推奨されるのではない。「私は私の運命の支配者である」という自尊感情のもたらす高揚感が,間違った選択肢のもたらす心身のダメージをカバーできる限り,自己決定は有用である。 だから,「自己決定することはいついかなる場合でもよいことである」という信憑が社会全体に根づいている社会では,自己決定は多くのプラスをもたらす可能性が高い。でも,そうでない社会ではそうではない。そして,日本はそういう社会ではない。(p137)
 選択を強制されていながら,選択したことの責任は自分でかぶることを強いられている。これはどう考えても不条理です。でも,子どもたちはそのことを特に不条理だとも思っていない。(中略)不条理が現実のものであり,ある程度以上の人間によって引き受けられていると,それはもう不条理のようには見えない。(p144)
 日本では,社会的弱者が進んで差別的な社会構造の強化に加担するという仕方で階層化が進んでいる。弱者が自分自身の社会的立場をより脆弱なものとするために積極的に活動している。(p146)
 「未婚化・非婚化」といわれていますけれど,現実には高学歴で高収入の人たちの方が結婚率は高いのです。収入と学歴が下がるにつれて,離婚率,未婚率が上がる。つまり,社会的弱者たちほど支援者が持てないようなシステムになっている。(中略)弱者が弱者であるのは孤立しているからなんです。自己決定・自己責任とか,「自分探しの旅」とかいうイデオロギーに乗せられて,セーフティネットの解体に同意し,自分のリスクを増大させていることに気づいていない。(p238)
● 子どもたちにとっては自分が属する階層がすなわち世界であって,その世界に過剰適応してしまいがちだ。その結果,階層が固定化が促進されることになる。著者は「文化資本」を例にとって説明する。
 子どもたちが「自信を持つ」のは,彼が属する社会集団のおいて支配的な価値観に合致する場合だけです。(中略)「自信を持ちたがる」子どもは自分の属する集団のイデオロギーに過剰反応してしまう可能性があります。(中略) 例えば日本でも,社会上層では「文化資本(いわゆる教養)には差別化機能がある」と信じられていますから,子どもたちは進んで文化資本を身につけようとします。逆に,社会下層では「文化資本には差別化機能がない」という考え方の方が受け容れられやすいので,子どもたちはむしろ積極的に文化資本を拒否するふるまいによって同集団の大人たちからの評価を期待します。(p134)
 階層化がいちばん進んでるのは,(中略)実は文化資本においてなんです。(中略)フランスは階層社会ですから,所属階層が違うと生きる世界が違う。(中略)文化資本は所属階層を表示する「名刺代わり」です。だから,その取り扱いにはみんな非常に慎重です。階層の下の人間がヴィトンとかエルメスを身につけたり,高級レストランで食事をすることは,「ルール違反」というか,ほとんど「経歴詐称」のようなものですから,階層社会では禁忌とされる。 でも,日本は久しくそういうことはなかったわけです。「あいつは野暮だね」くらいのことは言いますけれど,それは所属階層とはあまり関係ない。(p231)
 佐藤学さんから伺ったんですけれど,東大のゼミでももう学生同士の話題が噛み合わなくなってきているそうです。音楽の話とか,美術の話とか,文学の話になると,そういう話題にまったくついていけない学生と,そういう話題がちゃんとできる学生の間にはっきりとした断層が生じている。(中略)いわゆる昔ながらの上流社会の「リベラルアーツ」を身に付けて育ってきた子どもが一方にいて,子どものころから塾通いで勉強だけしてきて,本も読まないし,音楽も聴かないし,美術もわからない・・・・・・というような学生が他方にいる。その落差がもう埋めがたくなっている。(p232)
 文化資本は統計的には正規分布していないんですから,下の方の階層の人は文化資本が豊かに備わっている日本人が存在するということ自体を知らない。日本人はみんな「自分程度」だと思っている。「教養のある人」がどこかにいるということがわかっていれば,自分には教養がないということもわかるし,教養を身につけないとまずいということもわかる。現に,大学に進んではじめて自分に文化資本がないということを知った東大生は必死になってその遅れを取り戻そうとする。でも,自分には文化資本が欠けているということを知らない階層にはそもそも努力するモチベーションがない。だから,階層間の文化資本格差は拡大する一方なんです。(p233)
● 自分が最もギョッとしたのは,次の指摘だ。思いあたる節がありすぎるのだ。そうか,自分は妻や子どもに取り返しのつかない傷を負わせてしまったのかもしれない,と思った。そう,もう取り返しがつかない。
 昔は給料袋というものがあって,月末になると父親がそれを持ち帰り,その日だけはトンカツやすき焼きなど,ふだんと違うごちそうを食べて,扶養者たる人への感謝の意を家族で確認するという行事が行われていました。そんな美風も給料が銀行振り込みになってからはなくなりました。(中略) その結果どうなったかというと,父親が家計の主要な負担者であるという事実は,彼が夜ごと家に戻ってきたときに全身で表現する「疲労感」によって記号的に表象される以外になくなりました。(p64)
 家庭の電化が進んで,主婦の家事労働は劇的に軽減されます。育児を除くと,家事のうちに「肉体労働」に類するものはもうほとんど存在しないと申し上げてよいでしょう。となると,子どもから手を離せるようになった主婦たちが家庭内において記号的に示しうる労働とは何でしょう? それは「他の家族の存在に耐えている」という事実以外にありません。たいへん悲劇的なことですが,現代日本の多くの妻たちが夫に対して示している最大の奉仕は夫の存在それ自体に耐えていることなのです。(p65)
 今の子どもたちには家庭に貢献できるような仕事がそもそもありません。彼らに要求されるのは,「そんな暇があったら勉強しろ」とか「塾に行け」という類のことだけです。(中略)子どももまた子どもなりに「おつとめ」を立派に果たしたことを示そうとします。父や母がそうしているように,充分に不機嫌でありうるということによって,子どもたちは不快に耐えて,家産の形成に与っていることを誇示しているのです。 家族の中で,「誰がもっとも家産の形成に貢献しているか」は「誰がもっとも不機嫌であるか」に基づいて測定される。これが現代日本家庭の基本ルールです。(p66)
● ほかにも多すぎる転載。
 「誰にとっても同じように正しくないソリューション」で合意形成を果たす方が,当事者双方が「私はあくまで正しい」と言い募って合意形成ができないよりも「まし」であるということについての社会的合意は日本社会からは急速に失われつつあるように思われます。(中略) 「つねに正しいソリューションを採択する」という条件が課せられた場合,「正しいソリューション」が何であるかを確定するためには,たいへんな手間ひまがかかります。うっかりすると「正しいソリューション」を採択させるために投じられた努力と時間の総量が,「正しいソリューション」が採択実施されたことによってもたらされる利益よりも大である,ということになりかねません。(p110)
 日本人がリスクヘッジという技術について考えるのを止めてしまって,「正しいソリューションだけを選択し続けなければならない」というような途方もないことを言い出したのは,「間違っても大丈夫」という無根拠な安心に全国民がのどもとまで浸かっていることができているからです。日本人はそれほどまでに無防備なのです。その理由を言い当てることは少しもむずかしいことではありません。 それは戦後六十年間戦争をしたことがなかったからです。(p113)
 「自立」と「孤立」の間には千里の逕庭があるのですが,そのことを指摘した人はほとんどいません。 「孤立している人」にとって,他者はすべて彼または彼女の自由や自己実現の妨害者です。百パーセントの自由を享受するのが「孤立した人間」の目標なわけですから,「他者が存在する」ということ自体がすでに主体の自由を制約することになります。(p128)
 「オレは自立しているぞ」といくら力んでみても,それだけでは自立した人間にはなれません。その人の判断や言動が適切であることが経験的に確証されたために,周りの人々から繰り返し助言や支援や連帯を求められるようになった人が「自立した人間」と呼ばれるというだけのことです。(p129)
 ヨーロッパのニートは階層化の一つの症状です。本人に社会的上昇の意思があっても機会が与えられない。でも,日本のニート問題はそれとは違います。社会的上昇の機会が提供されているにもかかわらず,子どもたちが自主的にその機会を放棄している点に日本固有の問題があります。 「青い鳥」を探して,若い人がどこか遠くへ行ってしまうというのは,昔からよくあったことで,そういうこと自体が悪いというわけではありません。(中略) でも,少数の人だけがやっているときには本人にとっても社会にとっても有用だけれど,それをする人の数が一定数を超えてしまうと,本人にも社会にも弊害が出てくる,ということがあります。たいせつなのは按配なんです。(p151)
 転職を繰り返すのは「よりよい雇用条件」を求めて行われているわけです。しかし,実際には,(中略)階層下降しているケースが多い。 (中略)転職を繰り返している人を見ると,仕事がつまらないから,職場での人間関係に投資しない,仕事の質を上げる努力も怠る,その結果,勤務考課が下がり,つまらない仕事しか与えられなくなり,耐えきれずに転職する・・・・・・という悪循環に陥っている人が多いように思われます。(p154)
 失敗の責任を他人に押しつけて,自分には何の過誤もなく,自分のやったことはすべて正しかったということにすると,その「正しいふるまい」を繰り返さなければならなくなる。人間はそうやって失敗に取り憑かれます。(p156)
 彼らが「有用無用」の判断に際して判断基準に採るのは,学びの場合と同じく,財貨やエロス的愉悦や政治的威信や享楽的な熱狂といった「子どもにもわかる価値」だけです。(p171)
 「実学」というのは,「実際に役立つ知識や技術」ということであると理解されていますが,そうではありません。「実学」とは,それが「実際に役に立つことを高校生でも知っている知識や技術」のことです。「高校生でも知っている」という限定は譲ることができません。どれほど有用な学問でも,高校生にその有用性が理解できない学問は「実学」とは認定されませんから,専攻としては選択されません。(p175)
 「適切な勤務考課ができる人間」というのは,客観的にものが見られて,冷静で,手際のいい人ですから,それ以外の仕事だってできるに決まっている。そういう,企業にとっていちばん重要な人材をあらいざらい評価活動にもっていかれてしまったら,企業はたちゆきません。 実際に,どこの企業でも,ある段階までやって「成果主義はあきらめよう」という雰囲気になってきています。個人の成果を評価するのはいいことなんですけれど,評価コストが評価のもたらす利益を超えることが確実だからです。(p187)
 学校で身につけるもののうちもっとも重要な「学ぶ能力」は,「能力を向上させる能力」というメタ能力です。いうなれば「ものさしを作り出す能力」です。「ものさしを作り出す力」をできあいの「ものさし」で計測できるはずがない。 教育のアウトカムは数値的に評価できない。それは当たり前のことなんです。(p188)
 なぜ貨幣と商品を交換することに私たちが熱中するのかというと,交換が安定的にスムーズに進行するためには,交換の場を下支えするさまざまな制度や人間的資質を開発する必要があるからです。交換そのものよりもむしろ,交換の場に厚みを加えること,それ自体に目的があるわけです。(p193)
 児童虐待の事例がだんだん増えてきていますけれど,これは育児を等価交換で考える習慣の必然の帰結のように私には思えます。(中略) 自分の子どもは自分が作り出した「製品」であり,親の「成果」は「製品」にどんな付加価値を付けたかによって査定されると考えている。その成果が評価されると,親は育児の「成功」というかたちで社会的な自己実現を果たした,と考える。メーカーが工場から送り出した製品の売れ行きや評価に一喜一憂するのと同じメンタリティです。(p196)
 それで子どもの成長を気長に待つということができにくくなっていると思うんです。子どもというのは,意味のわからない行動をする。なんだか訳のわからないことをやる。そういうときに,「この子は何をやっているんだろう」と親もぼうっと見ているのがまっとうな育て方だろうと思うんです。でも,そういう育て方が許されなくなっている。(p197)
 精神科のお医者さんに聞いたんですけれど,思春期で精神的に苦しんでいる子どもたちの場合,親に共通性があるそうです。子どもの発信するメッセージを聴き取る能力が低い親が多い。子どもが発信する「何かちょっと気持ちが悪い」とか「これは嫌だ」とかいう不快なメッセージがありますね。それを親の方が選択的に排除してしまう。というのは,子どもが心身に不快を感じているという情報は,いわば「製品」がノイズを出しているようなものだからです。それは製造過程に瑕疵があるということを意味する。それを親は自分の育児の失敗を意味する記号として理解する。だから,耳を塞いでしまう。(p198)
 自分の理解の枠組みをいったん「かっこに入れて」,自分にはまだ理解できないけれど,注意深く聴いているうちに理解できるようになるかもしれないメッセージに対して,敬意と忍耐をもって応接する。そういう開放的な態度で耳を傾けないとノイズはシグナルに変わらない。ノイズはノイズであり,シグナルはシグナルであるというふうにきれいに切り分けてしまう人には,ノイズがシグナルになる変成の瞬間が訪れない。(p200)
 時間は過去・現在・未来という順序で不可逆的に進行しているわけじゃない。未来までたどりつけないと過去は確定できないし,過去が確定されないと未来は成立しない。時間というのは,そういう高速度で往還する力動的なプロセスなんです。(p201)
 ビジネスが実際の人生といちばん違う点は,やったことに対してすぐにリアクションが返ってくることです。自分の選択が成功か失敗か,すぐに市場の反応でわかる。そして,「マーケットは間違えない」というのは,ビジネスの場合,プレイヤー全員が承認しているゲームのルールです。(中略) 男が仕事をしたがるのは,仕事の方がはるかにシンプルで,アクションに対する成否の反応がすぐに出るゲームだからというにすぎません。(p205)
 けれども,無時間モデルのピットフォールは,あまり気持ちがいいので,「それだけ」になってしまうということにあります。(p206)
 「師であることの条件」は一つでいい,ということだと思うんです。「師であることの条件」は「師を持っている」ことです。(中略) 弟子として師に仕え,自分の能力を無限に超える存在とつながっているという感覚を持ったことがある。ある無限に続く長い流れの中の,自分は一つの環である。長い鎖の中のただ一つの環にすぎないのだけれど,自分がいなければ,その鎖はとぎれてしまうという自覚と強烈な使命感を抱いたことがある。そういう感覚を持っていることが師の唯一の条件だ,と。 弟子が師の技量を超えることなんかいくらでもあり得るわけです。そんなことあっても全然問題ではない。長い鎖の中には大きな環もあるし,小さな環もある。(p210)
 私が技術上のことで質問しても,師は「これこれこうだ,と私は思う」とは言わない。そうではなくて,「私は師からこう聞いた」としか言わない。私見を述べない。師は断言しない人なのです。(平川克美 p219)
 人から尊敬される方法は一つしかないんです。「人を尊敬するとはどういうことか」を身をもって示せるということです。その人に敬意を示す仕方を私たちは,その人が敬意を示している当の仕方を通じて学ぶからです。(p220)
 どういうわけだか,こちらが楽しそうだと,向こうも「ちょっと仕事を出してやらせてみようか」ということになって仕事をくれる。たぶん,何か訳がわからないんだけれど,俺より楽しそうなやつがいるというのが向こうにはどうも気になったんでしょうね。 仕事の原動力というのか,何でもそうなんだけれど,何かわからないけれど,楽しそうな人たちがいると,どうして楽しいのか知りたくなる。(平川 p224)
 「幼児や病人や老人の面倒を押しつけられると私の自己実現の障害になるから,そういうものの面倒は行政が見ろ」と声高に言える人は,「幼児であり,病人であり,老人である自分」を勘定に入れ忘れている。かつて自分がそうであり,これから自分がそうなるかもしれないものとして「家庭内弱者」をとらえたときにはじめて,家庭内の誰かに過度の負担をかけることもなく,行政に丸投げするのでもなく,弱者たちをどういうふうに細やかにすくい上げてゆくかという問題が「自己救済」の問題として立てられることになる。(p236)
 今は孤立した個人と個人が中間的な緩衝帯抜きで向き合っている。これを風通しがいい関係だと思っている人もいると思うのですけれども,やはり,これほどストレスフルな環境に人間は長くは耐えられません。(中略)地縁的なものであれ,血縁の共同体であれ,とにかく複数の人間で構成される相互扶助組織を持っていないと,やっていけないと僕は思います。(p238)
 今は家の中に他人に入り込まれるということに対して強いアレルギーがあります。(中略)たぶん,今は家の中に他人を迎え入れて共生する能力がなくなってしまったということだと思うんです。 これはけっこう重要な能力だと僕は思うんです。ふすまと障子だけの仕切りで公私の切り分けができるというのは,かなり気配りができないとむずかしい。(p241)
 「ニートになったやつは自己責任だから,勝手に飢え死にしろ」というロジックを正論として認めれば,僕たちの社会はこれからも無数のニートを生み出し続けることになる。(中略)「オレのことはほうっておいてくれ」という人々がもたらす社会的コストを減らす方法は,「悪いけれど,ほうっておけない」という「おせっかい」しかないのです。(p244)
 余計なコミュニケーションが人を育てるのです。過不足ないコミュニケーションなんてありえませんよ。(p254)
 今の方がされた「日本社会は均質的で,アメリカ社会は価値観が多様である」というような言い方って,それ自体が日本人の均質的なものの見方の「見本」みたいな言葉づかいだと思うんです。(中略)「均質的だから多様化しよう」という発想そのものがすでにして絶望的なまでに均質的なんです。(p259)
 その人が話を聴く前から持っている手持ちの枠組みの中に聴いた話を全部収めようとする。枠に収まらない部分は全部カット。聴いてわかるところだけ拾う。(中略)そういう人,どんどん増えてますね。(p262)
 都市生活の中でいかに時間性を回復するかというのは,すごく大きな、面白いテーマだと思います。僕の思いつきですけれども,一つあるとすれば,ルーティンを守ることです。日課を崩さない。意外かもしれませんが,都市化のもたらしたいちばん大きな変化は,人々が日課を守らなくなったということだと思っているんです。(中略) そうすると,なんというか,生活がもっとゆったりと平和なんですよ。ルーティンを守って暮らしていると,一日が長いんです。(p265)
 今の子どもたちを見ていると,曜日によってスケジュールが違うし,ご飯の時間も違う。(中略)それに耐えるためには時間意識をむしろ鈍感にしていかないといけない。(中略)寝る時間も食事の時間も風呂に入る時間も,毎日違うような生活をしていれば,体内時計は狂ってくる。日変化もわからなくなるし,四季の変化にも気づかなくなる。(p267)
 天才的プレーヤーというのは,野球でもバスケットボールでもそうでしょうけれど,時間変数込みで,三次元のシミュレーションができる。背走していって,くるりと振り返ると外野フライがすっぽりとグローブに収まるというような芸当ができる。 「待ち合わせ」をするのは,こういう能力開発の基礎訓練だと思うんです。でも携帯のせいで,もう「待ち合わせ」は死語になりつつある。(p269)
 宇宙には起源があり,終末がある。時の始まりがあり,終わりがある。その悠久の流れの中のこの一瞬,という時間のとらえ方ができる人間のことを「宗教的な人間」あるいは「霊的な人間」と呼んでよいと思います。自分がこの広大な宇宙の,他ならぬこの場所に,他ならぬこの瞬間に,他ならぬこの人といっしょにいるという事実に,人知を超えた「何か大いなるもの」の意思を感知できると,人間はとても豊かな気持ちになれる。(p272)

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