2015年9月28日月曜日

2015.09.25 内田 樹・釈徹宗 『現代霊性論』

書名 現代霊性論
著者 内田 樹・釈徹宗
発行所 講談社文庫
発行年月日 2013.04.12(単行本:2010.02)
価格(税別) 581円

● 眼からウロコが何十枚も落ちる。ただし,読書で落ちたウロコは,短時日でまた付いてしまうもの。落ちっぱなしになってくれればいいのにね。

● ともあれ。全文を引き写したいくらいのものだ。が,厳選して以下に転載。それでも少々以上に多すぎるか。
 なによりもまず宗教的寛容。ある宗教について,そのクオリティや意義を論じるのは,その次の段階の話だと僕は思っています。(内田 p12)
 政治を語っても,生活文化を語っても,文学や芸能を語っても,僕たちの関心は必ず「その制度文物の宗教的な意味は何か? それはどのように宗教的に機能しているか?」という問いに収斂されます。そして,実際に,この問いはおよそ人間のかかわるすべてのものについて有効な問いまのです。ということはつまり,人間たちは古来あらゆる社会制度を宗教的なしかたで設計し,運用してきたということになります。(内田 p14)
 アナログな世界にデジタルな分節線を引くこと,切り分けられないはずのものを截然と切り分けることこそが人間の本性だからです。そうしないと人間は生きていくことができないのです。現に,「二元論的に世界を切り分けるのはよくない」と主張している人自身,すでに世界を「よいこと」と「よくないこと」に二元論的に切り分けているわけですし・・・・・・。(内田 p16)
 都会だと,目に入るものは刺激が強いし,耳から入ってくる音はうるさいし,臭気も気分のよいものではないし,身体に触れる刺激もとげとげしいものばかりでしょう。それなら自己防衛上,視覚情報も聴覚情報も遮断して,五感の感度を下げるのは当然なわけですよ。(内田 p44)
 低刺激環境にいると,身体感度をかなり上げても,それによって深いな入力を浴びるリスクがない。だから,いつのまにか感覚の回路が全開してしますう。(中略)そういうふうに感覚回路の開いた子たちはコミュニケーション感度がいいんです。(中略)言葉のレベルではなく,非言語的なレベルで「わかる」んです。でもね,ほんとうはそういう能力が生きてゆく上で一番大切な力じゃないかと僕は思うんです。(内田 p44)
 「名前を与えられる」というのは,規定づけられる,縛られる,ってことですから。宗教学的に言うと,「名前は呪術の機能を持つ」ということになります。(釈 p49)
 日本でも明治維新以降,国民はみんな名字と名前をつけられますけど,これはつまり,「個人」という縛りがなかったら近代は成立しないということです。(中略)個人を特定できなかったら,徴税も徴兵もできないわけです。全員が名字と名前を名乗ることによって,近代の呪縛が始まったわけですね。(釈 p50)
 宗教は超歴史的に固定的で,政治だけが変化するというものではない。すべての人間的営為を押し流していく滔々たる巨大な流れがある。宗教と政治を二元的に対立させると身動きがとれなくなる。(内田 p54)
 名前は本来呪術的に機能しているのに,現代人はそれをただの記号として,機械的に処理しようとする。それがいろいろな問題を引き起こしている。(内田 p57)
 僕はご存じのように,父子家庭で娘を一人で育てました。出産こそしなかったけれど,育児はずいぶん真面目にやりました。でも,そのことが僕の自己実現を妨害しているなんて思ったことは一遍もない。どう考えたって僕が業界的に成功することなんかよりも,子どもと一緒にいて,子どもを育てるほうが楽しいに決まっている。ですから,子育てに専念していた十二年間は,学者らしい仕事はほとんど何もしてないんです。翻訳を少しやったくらいで。でも,それで何かを失ったなんて思わない。子育てを通じて学んだことのほうが,その時間難しい本をばりばり読んで学べたことよりも,ずっと大きかったと思う。(内田 p64)
 すでに人口に膾炙している情報を,いつの間にか自分の意見として信じ込んでしまうと,その結果,誰かの都合のよい方向に誘導されたり,操作されることがあるという自覚は必要ですね。その自覚の有無が,大人と子どもの分岐点なのかもしれない。(釈 p67)
 下手でも何でも、芸能でもファッションでも,政治でも法律でも何でも,とりあえず自分なりのフォームができると,それを応用してあるときバアーッといろんなことがわかる,知的快感が連鎖することってありますよね。(釈 p69)
 都市生活には土俗の宗教性がありません。そこで「占い」や「スピリチュアル」がブームとなる。「占い」が都市部ほど盛んなのは,都市生活者がなんらかの縛りを求めていることの表れの一つなんじゃないでしょうか。(釈 p74)
 最大の供養というのは「その人が生きていたらするであろうふるまいを繰り返すこと」だと思うんです。自分が死んだ後も,自分が今しているような日々の営みを誰かが継いでくれると思ったら,死ぬときに気が楽じゃないですか。(内田 p80)
 E阪先生はね,全然叱らないの。歯を見て,「あらー,これは大変なことになってますよ。がんばって闘いましょうね」っていうふうにおっしゃる。要するに「歯を悪くする邪悪な霊」みたいなものを想定して,僕がその無辜なる被害者で,E阪先生と二人で悪と闘うっていう,そういう物語に巻き込んでしまうんです。僕の生活習慣とか,ブラッシング不足とか,そういうことは一切とがめないんですよ。(内田 p92)
 言われて直せるようなら,「生活習慣」なんて言わない。(中略)患者自身をまず免罪する、そうしないと患者自身が「戦力」になりませんからね。(内田 p93)
 逆に言えば,民間宗教者というのは,その場にいるその相手,個人と個人との関係性の中で機能する技法だということです。ですから,いわゆるマス(大衆)を相手にすると,ある意味,詐欺に近くなると思うんですね。詐欺というか,とても罪つくりなことだと思います。(釈 p94)
 荒行や座禅や瞑想をすることで,この世と外部をつなぐ回路が開いて,いろんなものが見えたり聞こえたりするのを,伝統宗教では「単なる生理現象だから,宗教の本質には関係ない」とばっさり切って捨てます。(釈 p100)
 このメジャー宗教の裏バージョンには,だいたい共通する特徴があります。 一つは,超越的唯一性を説くというところです。(中略) さらには,人間がそれに合一することを説きます。唯一絶対なるものと自分が一体となる。ほとんどがこういう構造をとっていますね。ですから,そこでは,変性意識や自己変革といった,自分というものが新たなものに生まれ変わるという体験が重要になります。(釈 p102)
 少し前まではインターネットを使えない人たちが,「デジタルデバイド」により情報にキャッチアップできなくて下流に吹き寄せられると言われてましたけど,現実には,ネットのための初期投資はどんどん安くなっている。(中略)だから,インターネットで遊んでいるのが一番お金がかからない。それが「引きこもり」状態をより容易にしている。その若いネットピープルたちが好む娯楽は,ロックコンサート鑑賞とスポーツ観戦なんだそうです。(内田 p107)
 グローバリゼーションとか男女雇用機会均等法とか,そういう流れにのって,がんがん働いていた若い女性が,どこかで心身の限界に達して,ぷつんと切れる。そしてまったく逆の方向に同じように走りだす。そういうふうに僕には見えます。ペースダウンするわけじゃないし,それまでの価値観からまったく離れようというのでもない。能力主義・成果主義を別のかたちで表現しているような気がするんです。オウム真理教がそうでしたけれど,「表」の能力主義・成果主義で疲れた人たちが,次には「裏」の能力主義・成果主義に飛びついてしまう。(内田 p112)
 若い人たちが宗教やナショナリズムに走るときって,どうも生活実感が希薄なんだな。日々の生活なんてどうだっていい,自分の身体なんかどうなってもいいという,なんだか捨て鉢な感じがする。(中略)具体的で持ち重りのする身体実感に根ざしたものが感じられないんです。(内田 p118)
 ヨーガを実践する「ポスト新宗教」にコミットしている知り合いから聞いたんですけど,師弟関係を嫌がる人がすごく多いらしいんですね。自我が少しでも傷つけられるのを避けるから,頭を下げたり師弟関係を結ぶことなく繋がろうとする。だから,信者をたくさん獲得できるかどうかもそこがポイントや,って言ってましたね。(釈 p119)
 ものごとには必ず裏表があるんですよね。こういう「いいこと」があれば,必ず「よくないこと」がある。対になっている。それがリミッターとして機能していると思うんです。しかし霊能力で商売している人たちというのは,「裏側」のことを言わないですよね。わりと単純なことなんですけどね。たとえば「瞑想は夜してはいけない」なんて当たり前のことなんだけれど。(中略) でも,瞑想することで自分の霊的ステージを上げようといった功利的な発想で修行をしている人は,自分の体感が「こんなことしたくない」とアラームを鳴らしていても,気がつかない。(内田 p125)
 神道というのは共同体を繋げるための宗教です。だからそこには教義とか教えとか,あるいは思想とかは別に必要ないわけです。その代わりに,たとえばみんなで同じタブーを共有したりします。(釈 p131)
 どのような宗教も社会とは別の価値体系を持っています。そうでなければ宗教である存在意味も希薄になってしまうと言ってもいいでしょう。つまりその宗教も,社会と対峙する面があるということです。もちろん,教団内というのは単なる社会の縮図ですので,内部はどこにでも見られる権力構造だったりしますが,いずれにしても,社会とは別のものを提示するところに宗教の面目があるわけです。(釈 p144)
 武道では「胆力」と言うんですけど,「驚かされちゃいけない」ということを教える。「驚かされない」ための秘訣は,いつも「驚いている」ことなんです。(内田 p151)
 「人知を絶した境域における適切なふるまい方」,それを主題にした文学作品が世界性を獲得する。僕はそう思う。(中略) 世界文学になるような作品は,あらゆる時代,あらゆる場所に共通する「どうしていいかわからないときには,どうすればいいか」という難問を扱っているから世界文学になり得る。(内田 p153)
 ふつうに生活している人の枠組みをわざわざ揺さぶって,不安にさせてるんですね。(中略)先祖を供養してないでしょうとか,思わぬ方向から球を投げて,誰もがどきっとするようなことで揺さぶっておいて・・・・・・。マッチポンプですよね,自分で火を点けておいて,うちに頼めば火を消しますよ,というのと同じ手法ですね。(釈 p190)
 死者たちは正しく弔わなければならない。しかし,どのような喪服の儀礼が正しいのかについては誰も確言する権利を持たないし,持ってはならない。(中略)なぜならば,それは本来死者たちの判断に委ねられるべきことだからです。でも,死者は語らない。(内田 p205)
 国民国家という近代的な国家制度はまだできて日が浅い。それはあらゆる人間的制度がそうであるように,いずれ賞味期限が切れて消滅する。長いスパンで見れば,暫定的な制度にすぎない。しかし,これに代わる新しい統治形態が標準的なものになるまでは,国民国家を基準に共同体のありようを考えざるを得ない。(内田 p218)
 一流の詐欺師はできいるだけターゲットに不満を残さない詐欺を行いたいので,そのために,予め「クーラー」という役目の人間をつけておきます。このクーラーは,ふだんからターゲットに対して何かと世話を焼いたり,相談に乗って親切にしたりして,すごく信頼されるようにしておきます。充分な信頼関係ができたところで,詐欺師が詐欺を行うんです。詐欺師はすぐ逃げますが,そこからがいよいよクーラーの出番です。クーラーはこのターゲットに対して,「まあ,よう考えたらこれぐらいで済んでよかったやん」とか「あいつ見てみ。あいつに比べたらずっとましやで」と言って,この人の不満や苦しみを半減させることで,本質的な詐欺の被害から目をそらさせるわけです。(釈 p232)
 現代人は自分と他者の間にはっきりした境界線を引きたがりますね。「自立」や「自己決定」「自己責任」も同じ流れです。だいたい人間は「自己決定」なんかできないし,「自己責任」も取れない。人がなんらかの決断をするときは,いろんなファクターが関与しているわけで,百パーセント自分の判断で事を決めることなんかあり得ない。(内田 p241)
 前に大峰山という女人禁制のところに,性同一性障害者の人たちが入山をこころみたという事件がありましたでしょう。性差別反対を掲げて。女人禁制というのが特異なローカル・ルールであって,一般性がないというのは指摘のとおりなんです。でも,そういうローカル・ルールは非合理的だから撤廃しろと主張している人たちご自身は,性同一性障害の人たちなわけですよね。「自分たちの性の特異なありようを認めろ」と,「強制的異性愛体制で全員を標準化,規格化するな」という主張をしている人たちが,なぜ大峰山の人たちの「宗教性の特異なありよう」は認められないと言えるのか。彼らは自分の特異性には配慮を要求し,他人の特異性には権利を認めない。自分の論理矛盾に気づかずにいられるその愚鈍さが,どうにも僕には耐えられない。(内田 p248)
 行うべき儀礼を表の顔とするなら,行うべきではない儀礼,つまり裏の顔は「タブー」となります。(中略)たとえばヒンドゥー教のカースト制度や,神道のケガレ観は負の側面ですね。(中略) 日本のケガレの観念のユニークなところは,ケガレ状態の人に接触すると,ケガレが伝染すると考えるところです。(釈 p260) 境界線上をタブーとするというのは,タブーについて考える上で大きな手がかりになります。(釈 p269)
 おそらく儀礼の定義というのは,基本的にはその儀礼の起源を言えないということなんじゃないでしょうか。(中略)それができたらそれはもう儀礼ではなくなる。(中略) 起源に遡行すると,最後にはすべてが闇の中に消えてしまう。でも存在している。(中略)僕はこういうものに対して人間はもっと畏れの気持ちを持つべきだと思います。(内田 p276)
 オカルトというのは,「隠された知」というのがもともとの語源なんですけど,「真実は隠されている/私(占い師)はそれに気づいている」という構図が危ないんです。(釈 p278)
 「三十二歳まで結婚できない」と言われたときに,「はあ,そうですか」と言ってしまったら,もう結婚するのは難しくなる。というのは,そんなバカな占いでも,行って三千円払って予言を聞いた以上は,その払った三千円が惜しくなるからです。そこで三千円払った自分の行動を正当化するためには,予言が実現したほうがいい。ほんとに人間って,人生を信じられないほどの安値で叩き売るんです。怖いですよ。(内田 p280)
 「最後にすべては解明されるのであるが,その答えは私が想像していたものとはまったく違うものである」という確信だけが推理小説を読む快楽を担保している。生きる快楽を担保するのも同じ「不可知」だと思うんです。(内田 p282)
 その頃西武が開発した「ロフト」とか「シード」を店舗展開したとき,彼は江戸時代の古地図を参考にしたんだそうです。(中略)江戸の場合,人通りの多い通りには共通性があって,それは,「汐見坂」か「富士見坂」のどちらかだった。ゆるい坂道を歩くと,その先に東京湾が見える通りと,その道の先に富士山が見える通り,そういう坂道に人々は惹きつけられる。(内田 p291)
 われわれが考えることって,だいたい同じようなことです。みんな似たようなことで苦悩し,死について考えたり,死を希求したりします。大切なのは,「それはけっして自分だけが気づいているのではない」という感覚です。(釈 p296)
 自我というのは一種の仮説だと思っているんです。内と外という言い方をしたときに,自我というのは内側のことだと思う人がいるけれど,そうじゃない。外と内の境界面みたいな,皮膜みないなものが自我じゃないかと思います。(内田 p297)
 村上春樹さんもかいていたけれど,作家の条件というのは,自分のヴォイスが見つかるかどうかにかかっている。自分のヴォイスを探しあてたら,あとは無限に書ける。(中略)「ヴォイス」は音声ですからね。ずっと身体的です。声質,音の響き,厚み,奥行き,そういうもの全部含めてヴォイスなんです。自我が操作する道具じゃないんです。インターフェイスなんですよ。(内田 p298)
 たぶん世の中で起こる苦しみの総量というのは一定であって,僕が回避した分のツケを誰かが払っている。そう思ったら,ぞっとして。それからあと自分の幸運を試すようなことは絶対に止めようと思った。(内田 p303)
 ツキってダマで来るんですよね。平均的に来るということはない。いいことは集中的に来るし,悪いことも集中的に来る。いいときに図に乗って「好天モデル」をベースにして生きていると,ある日どかんと不運に遭遇する。(内田 p304)
 宗教というのは,愛とか労働とか言語と同じレベルのものです。「言語って必要ですか」「愛って必要ですか」「労働って必要ですか」「共同体って必要ですか」「空気って必要ですか」「地球って必要ですか」という質問と同じことですよね。それらがあるからこそ,僕たちは現にここにいるわけであって,必要か必要じゃないかなんていう議論ができる論件ではないんです。人間が必要だと思ったから宗教をつくり出したわけではなくて,宗教があったから人間ができた。(中略) 自己決定できない問題について,「必要かどうか」を論じても始まらないです。(内田 p312)
 宗教の戒律だって,「戒律を守る」のではなくて,戒律に守られているんですよ。宗教のエートスを守ることによって危ない場面を避けることができて,守られていくと考えるべきでしょう。(釈 p316)
 「運がいい人」というのは,周りからは「選択するときにいつも正しいほうを選ぶ人」というふうに見えているんだと思います。でも,そうじゃない。「運がいい人」っていうのは選択しない人なんです。分かれ道に至って,「さて,どちらの道を進んだものか」と自問する人は,その時点でかなり運に見放されている。というのは「運がいい人」の眼には道は一本しか見えていないから。(内田 p317)
 繰り返しさまざまなトラブルに巻き込まれる人がいますね。それは,ご自分で「そういう道」を選んでいるからそうなるんですよ。人間だって生物である以上,すべての生物と同じく自己保存の機能が生得的に標準装備されています。だから,危険なファクターが近づけば,「危ない」というアラームが鳴りだす。そのとき(中略)アラームを消してしまう人がいる。そういう人がだいたいトラブルに巻き込まれる。(中略)みんなが「あの人はいい人だよ」と言っても,その人の近くにゆくと自分のアラームが鳴るという場合は,世間の評価よりも自分のアラームを信じたほうがいい。(内田 p317)

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