2015年8月25日火曜日

2015.08.20 内田 樹・中沢新一 『日本の文脈』

書名 日本の文脈
著者 内田 樹
    中沢新一
発行所 角川書店
発行年月日 2012.01.30
価格(税別) 1,600円

● けっこう分厚い本なんだけど,読み始めたらグイグイ引き込まれた。心身の関連のこと,日本文化の特徴,ユダヤ的思考など,次から次へとそうだったのかと思わせる内容が展開される。

● 最も印象に残ったのはユダヤ的思考についての部分。こういうのってまとまった話をこれまで聞いたことがなかったから。
 それは「ブレイクスルー」っていうことだと思うんです。与えられた枠組みを乗り越えていくことが,ある民族集団のフルメンバーの条件であるという。(中略)「ユダヤ人の枠組みを絶えず超えていくことができる人間をユダヤ人として認定する」というひじょうに不思議な条件を課した。そういう不思議なことを考えついた集団が,何千年か前に中東の荒野にいたんです。(内田 p145)
 ノーベル賞が受賞の対象としている学問は,そもそもユダヤ人が得意とする学問なんですよね。ユダヤ人が能力を発揮しやすい学問が,学問の王道になっている(中沢 p147)
 ユダヤ人が学術的なブレイクスルーを担うのは当たり前なんです。ユダヤ人は知的なパラダイムの変換以外のことを知的営為とは認めないんですから。(中略)他の人は,パラダイムを変えることが学術の第一目的だとは思っていない。むしろ緻密化するとか,体系化するとか,教条化するとか,格付けに使うとか,その格付けに基づいて資源の傾斜配分したりすることが学問だと思っている。(内田 p147)
 僕らから見ると「それってすごくユダヤ人的ですね」ということも,レヴィナスにしてみたら,たぶん「それ以外に,どういう思考法があるの?」ということなんだと思うんです。ユダヤ的に思考する人にとって,ユダヤ的以外の仕方で思考するということがよくわからないんじゃないかな。(内田 p150)
 レヴィ=ストロースの場合,(中略)外に出て行くんですね。自分の手持ちの理論や学説で説明できるものには興味がない。自分の理論で説明できないことに惹きつけられる。そこに自分の理論を適用するためじゃなくて,自分の理論を書き換えるために外部に向かう。(内田 p151)
 ユダヤ人は都市型文化の中で無から有をつくりだすことに関しては天才ですけど,自然から贈与されて,それを潤沢に享受するということに関しては歴史的経験がないんじゃないかな。(内田 p167)
 レヴィナスを読んだときに,直感的に,この人の頭の中で動いているのは,日本人の頭の中ではぜんぜん動いていない部分だっていうのは感じたんですね。いまになって思うと,それがたぶん「一神教的」な思考回路だったんでしょうね。 一言で言うと「被造物」感覚です。自分は神によって創造された被造物であって,世界の創造に対して「遅れている」という意識。もうすでに世界は始まっていて,自分の知らないルールでゲームは進行している。(中略) そのような不能感,不全感がないと人間の思考は限界を超えられない。(中略)神が自分に何を命じているのかさっぱり意味がわからない。(中略)にもかかわらず,いまここでただちにおのれの責任において神の言葉を解釈して,それを実践しなければならない。ユダヤ人はこの霊的な緊張感のうちに追い込まれるわけです。(内田 p312)
 古代ユダヤ人が考えたのは,身も蓋もない言い方をすれば,「どうやったらもっと頭がよくなるか」ということだったと思うんです。そして,それは「正解のない問い」とか「人知を超えた超越的存在」とか「理解も共感も絶した他者」とか「一度も現実になったことのない過去」とか,そういう手のつけようのない難問を「いま,私に切迫したもの」として引き受けることでしか達成できない,と。答えられない問いにまっすぐ向かうことで,脳のパフォーマンスは爆発的に向上する。そのことを古代ユダヤ人は経験的に知っていたのだと思います。(内田 p314)
● その他,以下に転載。
 チベットの学問というのは,本を読んで頭の中にいろんなことを詰め込むのではなくて,まず呼吸法をやるんです。からだの中には自分でコントロールできる部分とコントロールできない部分があって,呼吸法によってそれをつなぐことができるようにならないと学問を始めちゃいけないと言われるくらいです。(中沢 p27)
 中心と周縁というこの図式だと,からだは主体の外側,いわば主体が乗っている「ヴィークル」というか,自己拡張のための道具のようなものとしてとらえている。だから,身体訓練というのをヴィークルの性能を上げることだと理解している。(中略) でも,呼吸法をやるとそうじゃないことがわかる。内側に入り込んでゆくと,人間のからだはソリッドなものじゃないし,だいたい主体という中心なんか存在しないんです。あるのは精密な関係の網の目だけで。(内田 p28)
 最初のうちはドライバーとヴィークルの関係で,意思が身体を統御するというふうに心身二元論的にからだをとらえていたのが,次第に「人馬一体」,「車馬一体」になる。心が命じてからだが動くんじゃなくて,からだがあることをしたことによって心のありようが変わる。からだが動くと心が変わる。からだがそれまでできなかったある動作ができるようになると,それまで存在しなかった心の状態が出現する。(内田 p29)
 武道をやっていちばん変わったことは,「自分の内側には未知のものがある」という,自分自身に対する畏怖の念なんです。それはいわゆる自尊心とは違うんです。自分自身の中に,わけのわからない,底知れないものがいる。だから,もっとていねいに自分自身とかかわらないといけない。そういう自分を大事にするという感覚が,武道を通じて出てきたんですね。(内田 p29)
 僕が着目していたのは,「惰性」ということです。社会制度のある部分は,歴史的状況が変わってもあまり変わらない。まったく変わらないものもある。たとえば貨幣,親族,言語といった社会制度の根本をなすものは惰性が強く効いているから,歴史的な条件の影響を受けない。(中略) そういうものは時代が変わっても,あまり変わらない。ということは,われわれが理解できる以上の意味がそういう仕掛けの中には組み込まれているんじゃないか。(中略)そこには何か集団の存立にかかわる人間についての知がある。それを見通す努力が必要なんじゃないか。(内田 p34)
 もし,相手にその価値がわかるものを贈与したら,相手が等価物を贈り返す。それで「チャラ」になったら,交換は終わってしまう。交換は始められた以上,停止されてはならない。そして,「贈られた相手にはその価値や有用性がわからないもの」だけが,等価物による相殺が不可能であるがゆえに,交換をエンドレスに継続させる力を持っている。(内田 p37)
 努力に対する報酬が予測可能であるほうが人間は一所懸命に労働するという考え方って,人間理解として,あまりに底が浅いと思うんです。人間の労働パフォーマンスが高まるのは,努力と報酬のあいだに,どういう法則があるのかが予見できないときですよね。これは,必ずそうなるんです。(中略)労働と報酬が正確に数値的に相関したら,人間は働きませんよ。何の驚きも何の喜びもないですもん。(内田 p44)
 「ワクワクする」という感覚が関係してるんじゃないでしょうか。「正しいかどうかわからないけどワクワクする」と「正しいけどワクワクしない」ってあるじゃないですか。なんとなくテンションが上がる。生命力の針が一目盛り分だけ高くなるような方向に向かう。学問的なテーマにしても,日々の仕事にしても,「ワクワク」を選択し続けていると,なんとなくいいことが続いて起こる。身体の中に,自分自身を正しい方向に導くセンサーがある。このセンサーの構造法則をなんとか解明したいと思ってるんです。(内田 p116)
 人間が自分の限界を超えるような働きをするのは,夢中になっているときだけです。そして夢中になるのは,自分がしていることがどういう結果をもたらすことになるのか,あらかじめわかっているからではなく,何が起きるか予測がつかないからなんです。何が起きるか予測がつかないけれど,何かとてつもなくおもしろそうなことが起こりそうだというワクワク感にドライブされて,人間は限界を超えて能力を発揮する。(内田 p119)
 いまある生産様式や生産手段の内側に踏みとどまって,労働した分だけきっちり報酬を受け取ることを最優先する人間はいかなるイノベーションとも無縁です。イノベーションを担うのは,「もっと楽にしごとしたい」「単位時間内にもっとたくさんの仕事をしたい」と思う人間なんですから。横着な人間だけがイノベーターになるんです。横着であるためにはいかなる努力も惜しまないというタイプの人間が学術や技術の壁を突破する。(内田 p46)
 よく科学と宗教を対立させて,科学者は科学的で,宗教家は非科学的だというような愚かなこをを言う人がいますけど,それは「科学主義的」な,イデオロギー的な態度であって,少しも科学的ではないと僕は思う。すべての科学者はランダムに見えるさまざまな現象の背後には,すべてを統率している不可視の秩序がひそんでいることを先駆的には確信している。それと宗教者の「摂理が存在する」という先駆的確信とどこが違うのか。(内田 p50)
 子どもの遊びで「かくれんぼ」ってあるじゃないですか。「鬼」には視覚情報としては何も与えられない。聴覚情報もほとんどない。だけど,勘のいい子どもは「何かがあそこの後ろに隠れている」ということがわかるようになる。そのための訓練ですよね。(中略)そういう情報は,感覚入力としては徴候化していない。でも,わかる。感覚入力の閾値以下の情報を感知できれば,わかる。 そういう精密な,通常の感覚ではとらえられない入力を受信する訓練を,人類はその黎明期からずっとやってきた。(内田 p59)
 ほんとうに危機的なのは,いまある資源だけで,タイムリミットが迫る中で,とにかく何とかしなければいけないという状況に置かれることですよね。船が難破するとか,致死性のウィルスが飛散してくるとか,ゴジラが上陸するとか,金なんかいくらあってもどうにもならないというのが死活的な危機であるわけです。そういう状況をどう生き延びるかということをいつも考えていると,つねに自分のまわりにいるすべての人の,それぞれの潜在的可能性のもっとも良質な部分に焦点を合わせるようになるんです。(内田 p67)
 外来の漢字を「真名」といい,これが正統的な言語で,土着語は「仮名」で一段低く,暫定的な地位しか与えられていない。この「外来が上で,土着が下」というのは日本の文化構造の全体を貫く基本的スキームじゃないかと僕は思っているんです。(内田 p82)
 できるだけ多くの人に届けて,日本人全体の知的パフォーマンスを高めたいと思ったら,アカデミックな言語で記述された命題を,土着語,生活言語に置き換えなきゃいけない。翻訳しなきゃいけない。この「真名」を「仮名」に開くっていう仕事はたぶん日本に特有のものなんだと思うんです。(内田 p84)
 日本語というのは,取り扱いのむずかしいもので,自分の身体実感にしっくりなじむような命題を書こうとすると,どうしても言葉を使うための力業が必要になる。(中略)水を含んだスポンジを重ねて城を築くようなものなんですよね。(内田 p89)
 どんな言語を使って,どんなふうに思考するのが正統的日本人であるかって考えると,実は「野蛮人」こそ日本人なのではないか。僕はそう思うんですよ。日本人が恰好つけて気取ったことをやると,全部欧米の物真似になってしまうでしょう。「出来の悪い欧米人」になってしまう。欧米文明を過剰に内面化した日本人て,必ず「ヨーロッパではこうである。アメリカではこうである。だから日本はダメなんだ」っていう言い方になりますよね。でも,そういう人たちの言葉が日本人に対して強い指南力を発揮することは絶対ない。(中略)「うるせえな,そんなこと知るか馬鹿野郎」と思っている。 この「知るか馬鹿野郎」という土着のサイドからの反感を言語化する仕事のほうが実は日本の知識人としては正統的な仕事じゃないかと思うんですよ。(内田 p100)
 合気道の稽古をやってきたんですけれど,だんだん動きが乗ってくるとどうなるかというと,ゆらゆらふらふらしてくるんですね。(中略)ピシッと前後に足を開いて,腰が決まっている状態よりも,少しゆるんでふらふらしているときのほうがなんだか調子がいいんです。(内田 p101)
 芸能とか儀礼だと,身体技法について「どうしてこういう型をしなければならないか」についての合理的な説明を自制するでしょう。「昔からこうです」というふうに有無を言わせずに叩き込む。うっかり説明しちゃうと,「だったら,こうした方がいい」とか「こっちの方が楽だ」っていうことになって,伝来の型が崩れてしまう。身体技法についてはできるだけ合理的説明は避けたほうがいいんです。(内田 p102)
 型がある種の身体運用を要請するときに,どうしてその動きができなければいけないのか,その理由は自分で考えないといけない。(中略)そのつど,ある身体技法の必要性について,包括的な仮説を立てないと稽古にならない。もちろんその仮説は稽古が進めば,必ず破綻するんです。でも,仮説抜きの稽古というのは無意味なんです。(内田 p111)
 大切なことは,自分の修行の現時点でも目的が暫定的なものにすぎないという自覚だと思うんです。最終目的地までの旅程が全部からかじめ開示されていて,それを「すごろく」を上がるように俯瞰的に点検しながら進んでゆくというのは,日本的な修行のあり方じゃない。(内田 p111)
 アメリカから来た学者が,今西さんと弟子の伊谷純一郎さんに「あなたたちはどうしてこんなにすごい研究(サル学)ができたんですか?」と訊いたら,「日本人はサルとのあいだに距離がない。だいたい同じ目線でものを見てるから,相手のことがよくわかる」と。(中略) 日本人がつくりだした科学の中でも創造的なものは,だいたいそういう特徴を持っています。つまり目線が低いんです。(中沢 p114)
 ニーズもマーケットもない。でも,「教えたい」と思う人たちがいた。そして学校をつくった。「そういう先生に就いて学びたい」と言い出す少女たちがぽつりぽつりと出てきた。そういう順番だと思うんですよ。これこれの知識や技術を教えてほしいというニーズがあったから学校をつくったわけじゃない。(中略) でも,僕は教育ってそれでいいと思うんですよ。「あの学校に行って,何を勉強するつもりなの?」って訊かれたときに,「よくわかんないけど,行きたい」っていうので。(内田 p121)
 僕が武道を始めてわりと早い段階で先生から言われたのが「伝書を読むな」ということでした。「極意にかぶれる」と言って武道では嫌うんです。本に書いてあるものを読んで「わかった」と思うのはひじょうに危険なことだ,と。(内田 p161)
 日本文化がどういうふうにつくられているかというと,中心の価値を打ち立てるってことをしない。(中沢 p173)
 日本は自然が豊かだから,自然の豊穣性が日本の王権の権威を下支えしている。砂漠とか,飢饉が頻繁に起こるような土地だったら,天皇制は無理でしょうね。(内田 p176)
 戦闘の跡ってあんまりないでしょう。日本神話を見るともっぱら結婚ですよね。(中略)「結婚とは,戦争の弱化した形態である」というわけですね。(中沢 p180)
 中沢 からだが柔らかいのって大事なんですね。銀座のホステスから聞いたんだけど,「相撲取りほどいいものはない」って。(中略)「相撲取りと一度したらやめられない」って言いますよ。癒されるんだって。 内田 日本人の基本なのね。対人関係の攻略の基本は「ふにゃふにゃ」にあり。 中沢 そういう人々に中心的価値の構築ができるわけないし,する必要もない。(p181)
 地場の女の子は見たこともない男の子にセックスアピールを感じる。(中略)フラッとやってきたよそ者に対してエロスを感じるのは世界共通ですね。(中略)そういうふうに混交することで,生物学的多様性を担保しつつ,同時に戦争を回避した。(p183)
 おじさんにはプリンシプルがある。世界理論がある。「俺らの相手は世界だ」っていう。あれ,邪魔なんですよね。おばさんは世界なんか相手にしない。相手にするのは町内会。ローカルから始めるのがおばさん。(中略) 日本人は,結局それしかないと思うんですよ。おのれのローカリティを徹底して,はい,こんなにローカルなんですって言い切って,さらにおのれのローカリティを相対化できる言語を持っていれば,それこそ世界性でしょ。(内田 p198)
 システムはでき上がったものだけを見るんじゃなくて,どういう歴史的文脈で出てきたのかを見ないといけない。ある静態的なシステムができる前に,どのような過激な暴力があったのか。それをちゃんとわかった上で,民主主義の世の中はこうだっていう話になっていかないと。(内田 p220)
 民主主義というシステムは,たえず誰かが身銭を切って下支えしないと保たないんです。(中略)生身の肉体が分泌する情念とか名誉心とか理想とか,そういう生き生きとしたものが民主主義のシステムを下支えしている。(内田 p221)
 なによりすばらしいのは,この国には「宗教」というものがないことじゃないですか。「信心」はあるんです。美しいもの,真実のもの,何か価値があるものに出会ったら深い信心を持つ。でも,それが宗教のシステムの中にとらえられることを好まなかった。(中沢 p232)
 あるとき,橋本治さんのことを「あの人は頭が丈夫だ」って養老先生がおっしゃったことがあった。どういうことですかってお訊きしたら,ふつうの人の頭には入らないものが入るんだそうです。ふつうの人は「これはこれ,あれはあれ」と分けて処理するけど,そういうものを同時に入れて,一つの文脈を生成することによって関係づけられる。この能力を「頭が丈夫」と呼んでいる。(内田 p251)
 「からだを介して」「からだを使って」ということは,言い方を換えると「時間をかけて」ということだと思うんです。なんだかんだ言って,欧米の学問の根本は無時間モデルでしょう。真理が一望される観照モデルを理想とする。問いと答えのあいだにタイムラグがない。ところが,東洋の学びの場合には,禅の公案にしても典坐料理にしても,すぐに答えが出ない状況に置かれますね。(中略) 父性原理と母性原理というのは,無時間モデルと有時間モデルの違いだと思います。(中略)東洋的な学びがめざしているのは,「正解」じゃなくて,「成熟」なんだと思います。(内田 p257)
 東京人は,出会い頭にガツンとかまして上下関係をつくるというところがありますよね。人を批判するのも平気だし。(中略)それは結局「人間関係は使い捨て」だからですよね。地方からどんどん人が集まってくるから,いくらでも替えがきく。(中略)都市の開放性が,逆にじっくりと人間関係を熟成させていくことを妨げている。(内田 p271)
 中沢 その東北の人がぼそっと「有機農法とか言ってる連中は嘘つきが多いんだ」って。複雑な思いを抱えているんですね。 内田 このあいだ,秋田の白神山地のマタギの方と対談したんですけど,エコの人たちのことを嫌がってましたね。穏やかな方でしたけど,エコロジーとか自然環境保護の人たちには困っているって。(中略)自然に対していいことだけしようという発想は無理なんだって。(p273)
 日本では原発問題になると,推進派も反対派もたちまちこわばってしまう。推進派は「経済成長」という錦の御旗を掲げ,反対派は「被爆者の苦しみ」という錦の御旗を掲げて,その裾に隠れて居丈高な物言いをする。(中略)この「虎の威を借る狐」たちを笑いのめす文化的伝統を持っていないというのが,日本人の宗教的な弱さだと思う。(内田 p285)
 日本人は,上からの指示には従順だし,きちんと設計して精巧にものをつくることにおいては能力が高いんだけど,従来の手順では対応できない危機的状況で自己判断で動ける人材を育てるという気がぜんぜんない。(内田 p291)
 森の中から何か邪悪なものがやってくるっていうのがヨーロッパ人の自然観の基本なんですよね。人間の生活領域の向こう側に「闇の世界」が広がっている。 エコロジーというのは,それが逆転して,今度は「保護すべき宝物」になってしまったわけでしょう。でも,この「邪悪なもの」から「守るべきもの」への転換がなんとなく記号的な操作のような気が僕はするんですよね。(内田 p293)
 今度の震災以降に見えてきたことは,日本の地方の首長にはとても立派な人たちが多いということ。東北の首長たちの立派な立ち居振る舞いに対して,中央政府の連中がぜんぜんダメだとうのがくっきりと見えた。(中沢 p299)
 今度の震災で,市町村合併して自治体単位を大きくしたところが対応に苦しんだ。(中略)自治体のサイズを均一化し,制度を規格化したほうが経費が削減できていいっていうのは統治するほうの都合であって,される側にしたら大変迷惑なわけです。(内田 p299)
 いまのグローバル資本主義市場での消費行動って,要するに「クオリティが同一であれば,もっとも安い価格のものを買う」ということでしょう。でも,「うちの県内でできたものだから」とか「隣の村でつくっているから」というような非経済的な条件で消費行動をとる人が一定数いたほうが市場って安定すると思う。(内田 p301)
 橋口(いくよ)さんは震災直後からずっと原発に向かって「安らかに眠ってください」って祈っているそうです。福島の一号機って十年前にリタイアしていいはずなのに,耐用年数を過ぎてまでこき使った末に事故を起こした。これは酷使した人間が悪いんであって,原発さんには罪がない,と。むしろ「四十年間も働いてくれてありがとう」という「感謝」と「いたわり」の言葉がまずあって,「だからどうぞ鎮まってください」と祈るのが順番だろうって。僕はこの橋口さんの考え方,とても正しいと思うんです。これが日本の文脈ですよ。(内田 p304)
 「逆風」のとき,長期にわたる膠着戦や先行きのおぼつかない後退戦のときに,浮き足立たず,不機嫌にならず,絶望せず,仲間を決して置き去りにせず,静かな笑顔をたたえて自分の果たすべき日々の仕事をきちんと果たすことは,才能や学識だけではできません。例外的に禁欲的であるとか倫理的であるというだけでは務まりません。生命力の強さが必要です。「生物として強い」という条件が要ります。(内田 p333)

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