2015年7月15日水曜日

2015.07.14 宮田珠己 『旅はときどき奇妙な匂いがする』

書名 旅はときどき奇妙な匂いがする
著者 宮田珠己
発行所 筑摩書房
発行年月日 2014.12.10
価格(税別) 1,500円

● なんか,抽象画を文章化したものを読んでいるような気になることがあった。「おわりに」で宮田さんが次のように書いている。
 旅についての本,つまり,旅先ではなく,旅そのものについて書かれた本は、あまりないように思う。
 自分としてはこういう実験をやってみたかったのだ。
 要するに,具体的な旅の紀行ではなく,旅それ自体に
いきおい,抽象的にならぬざるを得ないということか。いや,そういうことよりも,文章で遊んでいるところがあって,そこから抽象画という印象につながっているような気がした。

● 以下にいくつか転載。
 旅行中はなるべく,しがらみのない世界に心遊ばせたい。そうなると,日本とはかけ離れた土地に行きさえすればそれでよし,という簡単な話にはならず,むしろそんな非日常的な土地で日常的な光景を見せつけられると,逆にどこまで行っても脱出できない,お釈迦様の手のひらのなかで飛び回る孫悟空のような幻滅を覚えるのである。(中略) かつては,そんな逃げ腰ではダメだと自分を戒めていた。旅とは,日本の日常から,外国の日常へと身を移し,日本の日常を相対化することだと思っていた。 そのためにはなるべく多くの人と知り合い,話をし,その価値観を知り,自分にひきつけて考えなければならない。 それなのに,現地で知り合った人にうちに泊まりにおいでと言われると,多少の好奇心が働く一方で,やっぱり,面倒くさい,と思ってしまう自分の正直な気持ちは,長い間,劣等感の源だった。(p52)
 私が旅を書くのは,その旅をパッケージにして目に見える形で所有するためだったような気がする。 日本の日常から外国の日常へと身を移し,日本の日常を相対化する,(中略)それが旅の正攻法であるなら,私の旅はまったく逆で,自分にとって心地よいパッケージを次々と生み出すためにあったと言えるかもしれない。 世に役立つ旅,新しい知見をもたらす旅。そんな立派な旅は私にはもともと向いていなかったのだ。(p191)
 観光地でもない場所が,面白い旅を約束してくれることは稀である。というかほとんどない。 観光地を一歩出てみれば,さきほどまで自分がいた場所がどんなに見どころに満ちていたか思い知ることになる。(p65)
 気合いとは心身に力をいっぱいに込めることだと考えていたが,そうではない。気合いとは,そんなふうに病気に真っ向から対峙することではなく,お前のことなどまるで知ったことではない,との心構えで,言ってみればふわりと宙に浮くことだった。そうやって敵の攻撃を無力化するのだ。(p77)
 海に入ると,普段大地が覆い隠している非常な現実,つまり生と死は隣り合わせであるという現実が,世界のベースに横たわっていることが理解され,死が突然身近なものに感じられる。本来,大自然とはそういうものだが,深入りしなければそれを感じさせない山と違って,海は波打ち際の一歩先から不気味である。(p97)
 もし私が,ビーチチェアで寝そべるときがくるとしたら,それは,慌しく観光地をハシゴしていく旅行などは無粋の極みだ,という世間の圧力に屈したときだ。 本当は,やっぱり観光地をめぐりたい。持てる時間のすべてを使って,見られるものは見たい。 そうして歩き回って疲れたとき,そのとき初めてどこかに横たわればいい。疲れてもいないのに,最初から横になってどうするか。(p111)
 なによりいいのは,移動中は,自分はじっと座っているだけなのに,風景のほうで次々と移り変わり,常に何がしかの感慨を提供してくれることだ。(中略) つまり旅にまつわる面倒くさい様々な雑事がすべて棚上げにされ,自分はただ座っていられて,景色は面白く,荷物は肩に重くなく,それでいて時間を無駄にしていないという,旅のいいところだけを抽出したものが,移動なのである。(p120)
 インターネットの登場で,海外旅行が不自由になってきたのである。(中略) 当然予約を入れておいたほうが,安心かつ効率的であって無駄がない。 だが,効率的であって無駄がないことは,旅の自由さとは矛盾する。むしろそうなると,予約した通りに行動しなければならなくなって不自由なのである。(p140)
 以前ラオスを旅していたとき,三〇〇ミリ近い望遠レンズを持った西洋人女性を見かけた。鳥でも撮影するのかと思ったら,人ばかり撮っていた。望遠レンズがあれば,本人に悟られないで撮れるのだった。嫌な感じであった。(p157)
 聖なる山須弥山は,理念ではなく,地理感覚として存在する。 しかも須弥山は,上に行けば行くほど広がる逆四角錐になっている。頂上に至るまでには,オーバーハングの斜面を延々登り続けなければならない。このオーバーハングも,ラダック下流の大峡谷を彷彿させる。(p162)
 私は胸のなかに,どこにいても地形から逃れられないという妙な気持ちが高まってくるのを感じた。 その後もパンゴン・ツォにたどり着くまで,ずっと私は地形のなかを旅した。人間がここに道を作らなくても,この風景はずっとこの姿で存在していたのだ。それは想像を超えた事態だ,ものすごいことだという認識が,私を打った。自分の小ささが怖いようだった。(p174)
 たしかに私は親切だった。なぜか外国人旅行者を見ると,世話を焼きたくなるのだ。 私が日本を旅行するのは何の苦労もないが,外国人にとってはそうではない。だからつい口を出したくなる。それと同時に,彼らといると,見慣れた日本が違って見えてくるんじゃないかという期待もあるのだった。(p180)
 人間の住むところ,どんな場所にも生活はあり,生活のあるところ,どんな場所も本人にとって桃源郷ではないとするなら,桃源郷はよそ者が夢見心地で語る,楽観的な錯覚に過ぎないということになりそうである。 そのとき,無理矢理にでもこう考えることは出来ないものだろうか。桃源郷が錯覚であるのと同じように,現実もまた錯覚のひとつではないかと。 当事者にとって痛みさえ伴う現実が,他者からは桃源郷に見えるとするなら,当事者である自分自身を他者の目で眺めることによって,現実を桃源郷に変えることはできないものか。(p212)
 旅行中には旅行中なりのストレスがある。しかし,それは普段とは何か別の種類のものらしく,現実を少し浮き上がらせるような形で神経に作用し,どんな現実主義者をも,わずかに夢見心地にさせる。(p214)
 おそらく,われわれが現実と思っている日常は,自意識のせいで現実の絶対値よりもわずかに陰に籠もった側に偏っている。現実の絶対値は,われわれが現実と思っている感じよりもあっけらかんとしていて,意外性や異様さが含まれており,理路整然としておらず,わずかに幻想よりである。つまり現実はわれわれが認識しているよりもファンタジーなのであり,多少夢見心地なぐらいのほうが,現実に覚醒していると言ってもいいのではあるまいか。(p217)

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