2015年4月29日水曜日

2015.04.26 内田 樹・釈徹宗 『聖地巡礼 ライジング 熊野紀行』

書名 聖地巡礼 ライジング 熊野紀行
著者 内田 樹・釈徹宗
発行所 東京書籍
発行年月日 2015.03.13
価格(税別) 1,500円

● 熊野に行ってみたくなった。熊野古道を歩いてみたい。観光案内書を読んでも,そうした気持ちになることはまずない。
 熊野の大いなるというか,他にはないというか,魅力が存分に伝わってきた。

● 本書の魅力のひとつは,聖地巡礼とは言いながら,それとは関係のない諸々の話題が飛び交うところだ。
 編集の手がだいぶ入っているはずだ。削除された話もかなりあるのじゃないかと思うけれども,その代わり,読みやすくなっているのだろう。

● 以下に転載するところも,そうした諸々の話題に属するものが多い。
 だいたい富者というのは,一代目は努力して立志伝中の人物となり,二代目はまだ一代目の苦労を見ているけれど,三代目になると生まれてからずっと金がある状況でしょ。そうすると,社会的に成熟しない。どこか世間を舐めた感じになる。とくに自分の家がすでに持っているものを手に入れようとして,ほかの人たちが必死に努力している様子が馬鹿に見える。だから,どうしても人を見下すようになる。(内田 p40)
 頭がいいし,人間がよく見えてもいるんだけど,そのせいでこの世はろくでもない人間しかいないと諦め切っていて,世の中を改善する気がない。だから,そういう人のまわりにはろくでもない人間ばかりが集まるようになる。(内田 p41)
● 社会事象の行き過ぎについても語られる。すでに何人もの人が語っていると思うんだけども,いつも確認しておくべきことがらだ。
 いまの動きは行き過ぎに対する補正なので,それも必ず行き過ぎます。(内田 p55)
 分配のフェアネスって,徹底すると,最終的にはポル・ポトになっちゃうんです。持てる者から奪い取って弱者に分配するということを徹底すると,必ずどこかで行き過ぎてしまう。たとえ貧しくても「そこそこ幸せ」と思うことが許されない。(内田 p55)
 正しいことでも「正し過ぎる」と災厄をもたらす。正義が正義になり過ぎないように,いいあんばいのところで手控えるというのは「大人の知恵」ですけど,こういうのは社会的に成熟しないと身に付かないし,不公平に怒っている人たちにそれを要求するのは,ほんとうに難しいんです。(内田 p56)
● 世界は連続体で境界はないんだけれども,人間は境界を引かずにはいられないのだ,という話。
 聖と俗の二項対立。そもそも昼と夜であったり,男と女であったり,善と悪であったり,そういう二項対立の中でしか人間は生きていくことができない。実際の世界はアナログの連続体であって,どこにも境界線なんかありません。でも,人間は境界線を引かずには生きられない。(内田 p175)
 さらにいえば,その境界線にもよいのと悪いのがあるような気がするんです。(中略) 悪いボーダーというのは,「UFOや霊魂なんてあるわけない」と線引きしてしまう,いわゆる「科学主義」です。科学主義と科学は別物です。科学主義というのは「エビデンスがあるかないか」という二項対立でデジタルに切り分けて,エビデンスがいま示されていないものについては,判断を留保するということをしないで,「存在しない」と決めつける態度のことです。硬直しているんです。科学主義の内側にとどまっている限り,科学の進歩なんかないのに。(内田 p175)
 ボーダーを引くのは,何もないより,そこに二項対立があったほうが知的に生産的だからです。その線上に感じのいいインターフェイスが生まれる。(内田 p176)
 二項対立で世界を分節しながらも,同時に「二項対立になじまぬもの」のための場所もとっておいてある。この「なにものであるか決めかねるので,どうなるのか,判断保留してしばらく待つ」という態度は人間の科学的知性にとっても,宗教的感性にとっても,非常に重要なものだという気がするんです。(内田 p177)
 相互参入しているクロスボーダーがいちばん多産的なんじゃないかな。海の文化と山の文化は二項対立的ですけれど,それが例外的な場所では「文化の汽水域」みたいに,相互参入して,入り交じっている。塩水と真水が混じり合うところにたくさん魚が棲息っするように,文化の汽水域にもそこにしかないないような不思議な混交体があれこれと生まれてくる。(内田 p178)
● その他,ぼくの脳にひっかかったところを転載。
 日本人はだんだん知的な負荷に耐えられなくなっている気がします。「話を簡単にしてほしい」「右か左か,どっちでもいいから,早く決めてくれ」という苛立ちを感じますね。(内田 p57)
 僕は多くの宗教研究者がいうほど,キリスト教が土着していないとは思っていないんです。たしかにものすごく時間はかかってはいますが,少しずつ昇華されて,日本人の肌感覚になっている部分も少なくありません。いまや教育や倫理観などはかなりキリスト教をベースにしています。(釈 p114)
 女の人がいるから男は真剣に祭りをやるんですよ。(釈 p134)
 城郭建築はもちろん軍事的な意味もあるんでしょうが,そこで暮らす人の身体感覚の感度を高めるための訓練の装置でもあったんだと思います。(内田 p153)
 成功するコミュニティっていうのは,センターに公共的で開放性の高い空間が確保されていること。その場を守る人がいること。いつ行っても,誰かそこを守る人がいる。そういった開かれた空間と恒常的な守り手がいることが共同的な空間が持続するための条件でしょうね。行ったときにドアが閉まっていることがあると共同体の中心にはなかなかなれないんです。(内田 p158)
 その品物についての物語が面白いわけで,贈与された物自体の価値は副次的なんです。「これについては因縁がある。聞きたいかい? 長い話になるよ」というきっかけになることが大切なんです。(内田 p160)
 六本木ヒルズとかレインボーブリッジとか東京スカイツリーとかミッドタウンとか,そういうのを見るとね,なんだか末期だなって気がするんです。六本木ヒルズには一回しか行ったことないんですけれど,なんか,瘴気漂う空間でしたね。(中略) あそこだって霊的に浄化することはできたんでしょうけれど,そういう装置が何もない。神社仏閣がない。祈りのための空間がない。そういう空間は人間が一定数以上いる場所には絶対に必要なんです。(内田 p162)
 「聖地はスラム化する」というのは,大瀧詠一さんの名言ですけれども,聖地の周りに世俗のものが拡がるのは,別に聖地を穢しているわけじゃなくて,聖地の発する人間的スケールを超えた力を抑制して,宗教的に成熟していない人間でも「服用可能」な強度にまで抑制する。そういう働きをめざしていることじゃないんでしょうか。(内田 p227)
 喜捨や歓待の文化は,自然が苛烈で見知らぬもの同士でもとにかく助け合わないと生きていけないという,やっぱりある種の地理的な状況のうえに成り立っているんだと思います。(内田 p283)
 鈴木大拙が「大地の霊」と呼んだ自然の生命力,野生のエネルギーを受け容れ,それを整えられた身体によって制御する技術,それが武道です。僕はそういうふうに理解しています。だから,道場は霊的に浄化された場所でなければならない。そんなものには何の意味もないと思う人もいるでしょう。人間が動き回れる空間があれば,それで十分だと思っている人は,道場を使っていない時間にはカラオケ教室にでも,こども体操教室にでも貸し出したらどうかというようなことを考えつくのかもしれません。でも「そういうこと」をすると道場の空気が変わってしまう。稽古できる状態に戻すために,それなりの儀礼をしないとはじまらない。(内田 p289)

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