2015年4月25日土曜日

2015.04.19 桜井章一 『ツキの正体』

書名 ツキの正体
著者 桜井章一
発行所 幻冬舎新書
発行年月日 2010.05.30
価格(税別) 720円

● 2011年5月に一度読んでいる。今回,二度目。
 副題は「運を引き寄せる技術」となっている。技術というのは,訓練すれば誰でも操れるようになるもののことだ。が,本書で説かれているようなことは,さて,訓練でどうにかできるものなのかどうか。

● 次のようなことがらが説かれているんだけど。
 野球でいえば,得点のチャンスを何度も逃していると,流れが相手チームに行ってしまい,ちょっとしたエラーが大量失点につながったりします。(中略) 自分はついていない,と嘆く人は,酷な言い方をすれば,つかなくなるようなことばかりしている。つまり,つかなくなるような考え方や生き方をしているということかもしれません。(p17)
 仕事でも勉強でも,苦しんだ末に得るものなど,たいしたものではありません。苦しまず,極力楽しみながら物事を進めていくための工夫をするのです。楽しんでいれば,気分はよくなっていきます。自分だけでなく,周りにもいい空気が生まれてくるものです。いい空気は,ツキを呼びます。(p25)
 だいたい,日常の生活の中でやるからこそ効くのです。日頃やっていないことを裃つけて特別にやってみたところで,無理や反動が生じるだけ。(p131)
● 考えていては動けなくなる。間に合わなくなる。
 所詮,人間は人間。どんなに文明が発達しようと,そのおおもとになっているのは,感性だと思います。知識やノウハウを信じれば信じるほど,見えなくなるものがある気がするのです。感性を高めるのに一番いいのは,いろいろなことに「気づく」ように努めることです。場の空気に気づく,人の気持ちに気づく,ツキの流れに気づく。(p29)
 気づくだけでは,まだ不十分です。気づいたら,即,動かなければならない。考える前に行動するのです。(中略) だいたい人間は,考えれば考えるほど,動けなくなるものです。損得勘定がちらついたり,体面が気になったりして,迷いが出てくるからです。 そのメカニズムをぶっ壊す。自分に損得や体面を気にする暇を与えず,迷いが出てくる前に,身体を動かしてしまうのです。(p29)
 「物事に取り組むときは集中しろ」なんていう“常識”にだまされてはいけません。一般に言う集中している状態というのは,一つのことに囚われている状態です。(中略)そういう状態は,もろい分だけ危険です。 なぜこんなことを言うかというと,何をやるにしても,一つのことばかり気にしていてはうまくいかないからです。世の中は万事万物,時々刻々と変化していくものですから,一つのことに囚われた瞬間に,ほかの部分の変化を見逃してしまい,間に合わなくなります。(p35)
 ツキはナマモノです。同じシーンなんて,二度と起こらないと考えておいたほうがいい。だからこそ,入念に先を読み続けなければなりません。ツモってから考えるなんて態度でいては,間に合わないのです。(p42)
 目だけで場を見ていては,そういうテクニックにごまかされてしまうのです。また,見ることに囚われていると,最も肝心な「感じること」がおろそかになりがちです。(p48)
● バカになれ,という。バカは素直に通じる。
 一つのバカだとただのバカですが,十種競技のように十のバカになれば,「キング・オブ・バカ」になれる。プロを名乗る専門バカになんか負けるはずがありません。 ここで言う「バカ」とは,何もかもかなぐり捨てて裸になれる,自分への素直さを指します。(中略)知識も学歴も,プライドも体裁も,あるいはトラウマもコンプレックスも,身につけたものを根こそぎ捨て去ることのできる潔さ。(p52)
 バカをやるというのは,つまり遊び心です。たとえば,出版社の人が来て打ち合わせをやるにしても,それを仕事と考えてまじめな顔をしていたら,つまらなくなる。 そこで,編集者の人にあだ名をつけたり,女性の道場生を呼んで編集長の膝の上に座らせたりして,どうやってこの時間を遊びにしてやろうか,という工夫をします。楽しい時間を過ごす努力をするわけです。 そうやって,楽しい空気を作り出していくと,物事ははかどるものです。(p53)
 “遊び心”のところは,取ってつけたような印象も持つんですけどね。もちろん,大事な知恵だと思うし,そうだよなぁと思うんだけど,“バカ=遊び心”としちゃうと流れが途切れてしまうんじゃないか。

● 自分に素直であることと,人の言うことに無条件にしたがうのは,まったく別のこと。当然のことだけれども,次のように念押しをしている。
 人の言いなりになる人は,逆に固定観念に縛られ,それに疑いを抱きません。命令する側,管理する側から見ると,非常に扱いやすいとう意味で「素直」だということになります。 つまり,自分に忠実な本当の素直さと,世の中を支配する都合上求められる素直さは,まったく反対の意味を表している。ここに言葉の怖さがあります。混同するとえらいことになる。(p71)
 人に習わないですむなら,習わないにこしたことはありません。習ったことというのは,頭での処理になるからです。対して,自分で発見したことは,心や身体に染み込みます。理解度がまったく違ってくるし,新しい問題にぶつかったときの修正力にも断然差がついてくる。(p72)
● 不運のときも,ついているときも,守りに入ってはいけない。
 麻雀は,降りたら負けです。手が悪くても,それなりに対応して,いろいろと工夫をしながら攻め続け,いい手がくるような流れを作っていかなければならない。(中略)日常生活も同じです。運のせいにして,降りていてはいけない。自分があがれそうもない流れであるなら,他人のあがりのために汗をかく。流れをよくするための努力をして,自分があがれるようなチャンスを自力で作っていく。そうやって,闘い続けることが,ツキを呼び込むことにつながっていくのです。(p83)
 なぜベタ降りがいけないか。それは「勝負どころ」を逃してしまうからです。勝負どころは,逆境の中に訪れます。 最下位で迎えた最終局の親,手がなかなか進まないところへ,相次いで3人リーチ。絶体絶命です。 ああ,もうダメだ,とガッカリしますか? 勝負をあきらめて,ベタ降りですか? 私なら,奮い立ちます。落胆するどころか,勝負の醍醐味を感じてワクワクする。そして,3人の包囲網をかいくぐりながら,次々と牌を切り飛ばし,何としてでもあがり切る。 すると,次の局では,流れが一変します。(p84)
 もし振り込んだ後に体勢がおかしくなるとしたら,それは,自分の心の持ち方に問題がある。「あの牌を切らなければよかった」といつまでも悔やんでいたり,「これで流れがさらに悪くなるかもしれない」と弱気になったり,そういう心境の変化が闘いに影響を及ぼして,その結果,手が悪くなっていくのだと思います。 振り込むこと自体には,問題はない。振り込んだために生じる「心の揺れ」のほうが問題なのです。(p87)
 勝負における敗因の99%は自滅です。自分で自分を追い込んでいき,そのプレッシャーに耐え切れなくなり,結局はフォームを乱して,人は負けていく。守りや日和ることは,その始まりなのです。 ピンチのときには,勇気を持って,ふさわしい形で果敢に攻める。ついているときは,守りへの誘惑を封じ込め、流れをせき止めないように攻める。攻め続けることです。守っているヒマは,麻雀にも人生にもないのです。(p90)
● トラブルを避けたくなるのも,守ろうと思うからであって,受けて立つと思えば,姿勢が変わる。そうだと思うんですよ。そうだと思うんですけどね。
 問題やトラブル,悩みは,目に見えるし,具体的なことです。そのまま放っておくわけにもいかない。ところが,それを「不運」というふうに置き換えたとたんに,目に見えない,何かわけがわからない抽象的なものとして棚上げすることができる。 逃避です。運のせいにして,現実から目をそむけ,対策を取ることから逃れようとしている。そんな横着をしていると,本当につかなくなります。(p82)
 トラブルを避けてはいけません。堂々と受けて立てばいい。(中略)「守りに入るな」と書きましたが,「守ろう」と思うからいけないのであって,「受けて立つ」と考えればまったく姿勢はかわってくるはずです。(p92)
 トラブルやヤバイ局面から逃げようとするのは,「今」から逃げ出そうとすることでもあります。そういうクセがつくと,いつも逃げ回っていることになる。 トラブルに立ち向かう人は,いつか必ずそれをクリアして,次のレベルに進むことができます。一段階上の問題に取り組めるようになる。ところが,トラブルから逃げ回っている限り,同じレベルにずっとウロウロしていて,形を変えて次々に訪れる同レベルのトラブルに常に悩まされている状態を強いられてしまいます。(p98)
 苦労して克服しようとするから面倒くさくなるのです。遊び心をうまく取り入れて,楽しみながらクリアする算段をする。勉強でも仕事でも,義務と考えたとたんにつまらなくなります。遊んでしまいましょう。目の前の課題をゲームと考えて,「今」を楽しく過ごすように努力するのです。(p99)
 ここで“遊び心”が出てくるのはわかる。すんなりと納得できる。極力楽しみながら物事を進めていくための工夫をする」ことは先にも説かれていた。
 凡人でもできそうな気がするのはこれくらいなんだけど,これだってねぇ,なかなかどうして。機転と気丈さは必要ですよね。

● 心にも適温があるということ。すぐ熱くなるようなヤツは信用できない。
 ところが,体温にも個人差があるように,熱さを持続できる人が(少数だろうけど)世の中にはいると思うんですよね。こちらが逆立ちしても勝負にならないなと思わせてくれる人が。
 36度とか37度とか,身体に適温があるように,心にも適温というものがあります。高すぎても低すぎてもいけません。それはすなわち,自然ではない,ということです。 そういう意味で,「熱い人」を私はあまり信用しません。(p103)
 私自身,自分の子どもや孫,道場生に対する心がけとしてあるのは,「温めてやりたい」ということ。 教育しよう,育成しよう,なんてことは思ってもいません。ただ私にも体温くらいはあるので,温めてやりたい,そう願っています。温まったら,あとは勝手に育って,好きなように成長していけばいい。(p104)
 100度の努力をしようとすると,無理が生じて破綻します。36~37度の努力をじっくりと続けるのです。(p104)
● その他,いくつか転載。
 悪いことを100%追放しようという発想は不自然です。自分の中だけでなく,世の中にも,表があれば裏があり,正があれば負が必ずある。表も裏も知り,正も負ものみ込み,あるがままのものとして丸ごと,淡々と引き受けて,その中でまっとうに生きていく,それが人間だと思います。(p119)
 身体は,相手の表面に出ていない本当の強さを,敏感に感じ取ります。強さというのは,表に出たら強さじゃない。わからない人にはわからない,奥底のほうに潜んでいるものです。(p122)
 私が子どもを育てたのではないのです。子どもたちが私に楽しく生きる力を与えてくれた。「親が子どもを育てる」などという考え方は100年早いと思います。 子どもを持ち,孫を持つというのは,ただそれだけで喜びなのです。こんなに大きな喜びを,生きていく力を恵んでくれる子どもや孫に,悲しい思いをさせたくない,喜びだけを返したい,と心から思います。(p167)

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