2015年3月25日水曜日

2015.03.22 宮脇俊三 『平安鎌倉史紀行』

書名 平安鎌倉史紀行
著者 宮脇俊三
発行所 講談社
発行年月日 1994.12.19
価格(税別) 1,700円

● 発刊されてすぐに買って,途中まで読んだところで,中断していた。ついこの間のことのように思えるのに,20年も経ってしまっていた。
 この間,いたずらに馬齢を重ねただけなのは言うまでもない。賢愚に年齢は関係ないとぼくは断言できるけれども,それはぼく自身が老いた愚人であるからだ。

● 鉄道紀行の大家が書いた歴史紀行ということになるのだが,歴史に対する蘊蓄は披瀝しない。意識してそれはとめている。
 鉄道の話は出てくる。それが出てこないんじゃ,読者も納得しないだろう。とはいえ,鉄道紀行でもないので,鉄道の話も簡潔にとどめている。

● それでは何を書いているのか。次のようなことが書かれている。
 時刻は,まだ一〇時半。せっかく四国まで来たのだから,ゆっくりしたい気もするけれど,四国をあとにして高野山へ行く予定である。こういうあわただしさ,私は好きである。四国だろうとパリだろうと,心残りがあれば,また来ればよいのだ。(p58)
 その着岸,離岸の手際の良さには眼を見張らされる。グイと船首を返したと思うや見事に浮き桟橋や岸壁にピタリと横づけになり,艫綱を結び,そして解き,すぐ発進。私は腕時計の秒針を見ながら観察していたのだが,その間わずか一分前後であった。(p97)
 淋しい一本道を歩いていて人に出遭うのは無気味なものだ。(中略)人間さえいなければ旅は安全なのだと思うことがある。(p102)
 『池亮記』は短い作品ながら平安前期の京都の変貌ぶりを鋭く的確に描いている。(中略) 「予行年漸くに五旬(五〇歳)に垂して,適に小宅を有てり。蝸は其の舎に安むじ,虱は其の縫に楽しぶ。(中略)朝に在りては身暫く王事に随い,家に在りては心永く仏那に帰る」 この程度の引用では保胤の気持は伝えられないが,とにかく「史跡めぐりよりは読むことが大切」と痛いほど知らされる作品である。(p114)
 宇治川の水量豊かな清流,藤原氏の栄華の象徴たる鳳凰堂も昔のままである。(中略)なのに,私は齢をとってしまった。相手が変わらないのに,こちらだけ老いるのは悲しいことである。旅をしていて何十年ぶりかに同じところへ来ると,いつもそう思う。(p115)
 金色堂解体修理にともなうミイラの調査によると,清衡は背が高く,鼻すじがとおり,手は小さく,華奢であったという。背の高さを別にすれば,あの戦乱をくぐりぬけてきた逞しさとはイメージがちがう。しかし,伊達政宗の遺骸も調査によると意外に優男だったという。その復元像を私は仙台で見たことがあるが,本当の英雄というものは容姿より頭脳なのだろう。(p159)
 秀衡は朝な夕なに阿弥陀さまに詣で,供をしたがえてこの堤の道を柳の御所へと出向いていたにちがいない。 私は秀衡の気分で「優雅な」堤の上にいる。八〇〇年まえならば,狼藉者め! と斬り捨てられるだろう。史跡めぐりの楽しさは,こんな他愛のない妄想にあるのじゃないかと,いつも思う。(p161)
 雨が多くて水量豊かな熊野川の河原に神殿を建立したのは解せない。だが,そう考えるのは浅はかで,明治二二年までの千年のあいだ,本宮神殿が安泰だった事実に注目すべきだ。江戸末期から明治のはじめ,つまり近代化の段階で自然破壊の乱伐をしたために洪水に見舞われたのではないか。(p188)
 清盛の行動は木曽義仲など東国武士のように単純で直線的ではない。将棋の手順を踏むような老獪さがある。(p190)
 吹き降りでズボンの裾が濡れて裾にはりつくのは閉口だが,これが六月下旬の音戸ノ瀬戸探訪にふさわしいのだろう。晴れていれば天気がよいと思うのは浅はかなのであって,行く先き先きには,それにふさわしい気象があるのだ。私は運がいいのだと痩せ我慢をする。(p198)
 現在の社殿は毛利元就が修復したというが,この聖域を手中にした元就の得意もさることながら,海に浮かぶ寝殿造りの優雅な建物が荒廃するのを見るにしのびなかったのではないか。戦国時代の傑出した武将の美意識と美術品への執着は,太平の世に生きる者より切実だった。(p202)
 梅雨の雨上がり! 日本の風景が,もっとも美しくなるときである。(p203)
 歴史上の人物に「さん」をつけるのは奇妙だが,郷土の誇りは呼びつけを許さない。敬称を略したために叱られた経験は一度もないけれど,この地にしても「義仲」と呼びつけにした立札や石柱はない。すべて「義仲公」または「義仲殿」である。(p214)
 かように夜を徹して急いだのは,「平氏は軍勢を浦々島々に分散配備したので,屋島にいるのは千騎ぐらい」の情報が入ったからである。よし,いまのうちにと義経は屋島へと急いだのだが,その勢力は降伏してきた三〇騎を加えてもわずか八〇騎であった。義経は「八〇対一〇〇〇」に勝機を感じとったのである。(p227)
 頼朝という人は西のほうへは行かない。京や西国は弟の範頼や義経,義父の北条時政をやって対処してきた。が,東国となると電光石火,たちまち平泉まで行ってしまう。東国の地固めが頼朝や御家人たちにとって何より大切だったのだろう。(p241)
 まだ三ヵ所だが,館めぐりをし,土塁や空濠を見ていると,関東の武士たちは大変だったのだなあ,と思う。いつどこから敵が襲ってくるかわからない。竹藪のなかに刺客が潜んでいるかもしれない。年中無休・二十四時間,警戒しなければならぬ。(p248)
 私は武蔵嵐山駅前からタクシーに乗った。五千円ぐらいかかるかな,と思う。東京の巷で飲食するときは,その何倍を費やしても動じないのに,旅に出ると本業のはずなのにケチくさくなるのが不思議だ。(p249)
 「道」の研究は非常に重要なはずなのだが,制度などのほうが重視され,交通史は軽んじられているように思われる。発掘調査をしても墳墓や住居跡のような面白いものが出土しないし。(p253)
 途中の駅名を列挙してみると,東福寺,稲荷,桃山,六地蔵,木幡,黄檗。関東人の私は,これらの駅名に劣等感をおぼえる。東京近郊の駅名ときたら,ひばりヶ丘とか百合ヶ丘とか,恥ずかしくなるようなのが多い。この文化的劣等感は鎌倉時代も今も,あまり変わっていないのではないか。(p299)
 鎌倉時代の歴史の面白さは,力で敵わぬ朝廷側と,伝統や文化に敵わぬ新興武士側との相互の劣等感のからみ合いにあると私は思う。(p322)
 飲食価格の上下動が激しいが,私は長年にわたって旅行をしているうちに,一つの悟りに達している。それは,上は可,下も可,中間は不可,ということである。旅館に泊まるなら一泊二食一万数千円級の中途半端な宿は不可。五〇〇〇円程度の民宿か三万円,四万円級の高級旅館のどちらかだ。食べものについても同様。(p340)
 後醍醐天皇は諸芸に秀でた傑出した人物だったようで,こういう人が紆余曲折をへて天皇の地位につけば権力志向が強くなる。中世の帝王の心境をおしはかるのは無理だが,私の社会経験からすると,そう見える。(p356)

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