2014年11月6日木曜日

2014.11.04 佐々木正悟 『なぜ,仕事が予定どおりに終わらないのか?』

書名 なぜ,仕事が予定どおりに終わらないのか?
著者 佐々木正悟
発行所 技術評論社
発行年月日 2014.05.10
価格(税別) 1,580円

● 巷間,時間管理を説くビジネス書は読み切れないほどにある。一番多いのは“スキマ時間活用のすすめ”だろうか。あるいは手帳術の解説書。

● しかし,そんなことをいくらやったところで,何も解決しないと著者はいう。なぜなら,時間はもともと足りないのだから。
 自身の経験を通じて私が知った究極のポイントは,「時間はないのだ」という事実が「見える」ようになることの大切さでした。私たちは「時間が足りない」「時間がない」としょっちゅう口にしていますが,心のどこかでそれを疑っています。「うまくやれば時間が足りるはず」とか「ダラダラしなければ時間がないわけではない」と思い込んでいる,または思い込まされているところがあります。しかし,時間はもともと足りないのです。(p5)
● ぼくらの時間感覚に対して,著者は次のように言う。言われてみれば,いちいち納得する。
 明らかに愚かな,明らかにバカげた,明らかにムダな行動を,そうと知りつつ,わざわざやったりはしないものです。(中略)「ある時間の使い方がムダだった」とか「もっと効率よく動けたはずだ」というのは,後からでなければわからないのです。これは大事なことです。 要するに「ムダな時間を省きましょう」といったアドバイスは,意味がないのです。“ムダ”とわかっているくらいなら,もうとっくに省かれています。(p79)
 これが「空間と家具」だと,すぐ納得されます。しかし,「時間と仕事」になると,「本気でやればできる」とか「実行時間を明らかにすればできる」とか「手帳に書けばできる」といった,意味不明の言説がまかりとおるようになります。まったく信じがたいことです。「本気で入れれば,ベッドルームに入りきらないベッドでも入れられる」とは,だれも思わないでしょう。(p126)
● 「たとえば,通勤時間がちょうど1時間だとした場合,あっさりと「よし,この1時間をプログラミングの勉強に充てよう」などと」考える。けれども,実際にやってみれば,次のようなことが即座にわかる。
 そもそも1時間の通勤時間をまるまる何かに使えるわけではない
 立ったままでできることはとても少ない
 それでも勉強を強行すると,とても疲れる
 であれば,それは諦めないといけない。
 人はしばしば,諦めるべきところで「自分の意思の弱さ」などを嘆き出すのですが,それは時間管理ではありません。「現実的に不可能で諦めたほうがいい」という事実を認識するのが,時間管理です。(p105)
● 著者の警鐘はなおも続く。
 テレビにタンスをくっつけないように,部屋をものでぎっしり埋めたら,部屋は使えなくなります。同じように,1日を活動でぎっしり埋めたら,1日は使えなくなるのです。(中略)こう考えてみると,「スキマ時間の活用」といった話が,いかに無理をさせようとしているかも明らかになります。(p128)
 「休憩」を「バッファ」(予備時間)と書き換えることは容易なことです。これを繰り返していれば,やがて「空きのまったくない物置のような空間」と変わりのない時間の使い方になります。つまり,時間は使えなくなるのです。(p130)
 なぜこんなこと(完璧主義的な仕事のしかた)をやり出してしまうかというと,「根本的に対策を打てば,その後問題に見舞われずに済む」というイメージに惑わされるからです。(中略)しかし現実には,それがかえって生産性を落とす結果になります。(p140)
 自責の念に駆られると,記憶がウソをつきます。どんなウソかと言えば,「実際よりも時間的、リソース的な余裕があったはずだ」というウソです。(p204)
● では,どうすればいいのか。タスクシュート時間術というものを提唱する。要は,時間がないことを見えるようにするということのようだ。
 1分以上かかるすべての行動を見積もりをあらかじめ出します。なぜそのようなことをするのかというと,細かくても見積もり時間がないと,「12:05に昼食に行ける(それまではいけない)」という情報が正確でなくなるからです。「終了予定時刻が正確であること」がとても大切です。正確であることによって,「今,たとえ1分でもムダにすると何が起こるのか?」が目に見えてわかるようになり,だからこそ時間を節約できるようになるのです。(p64)
 1日の時間のシミュレーションをすることです。そして,そのシミュレーションの記録を残すことです。事前にできることといえば,それしかありません。(p81)
 ポイントは,記録をつけることです。記録について明らかに言えるのは,少なくとも「想像よりははるかに客観的な実像に近い」ということです。有り体に言えば,記録のほうが本当なのです。記憶の中の自分は,ハッキリ言って虚像です。そんな虚像をいじり回していたところで,仕事が「完璧にできる」などということは,永遠に達成されるはずがないのです。(p205)

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