2014年6月30日月曜日

2014.06.30 内田 樹 『先生はえらい』

書名 先生はえらい
著者 内田 樹
発行所 ちくまプリマー新書
発行年月日 2005.01.25
価格(税別) 760円

● このタイトルから本書の中身を想像できる人は,著者の本をすでにいくつも読んでいる人に限られるだろうね。

● 学びを恋愛のアナロジーから説き起こす。
 全員が妄想抜きの同一の客観的審美的基準で異性を眺めるということになったら,おおごとですよ。 恋愛というのは,「はたはいろいろ言うけれど,私にはこの人がとても素敵に見える」という客観的判断の断固たる無視の上にしか成立しないものです。(p15)
 こと生物に関する限り,ほとんどの場合,「誤解」がばらけることの方が,単一の「正解」にみんなが同意することよりも,類的な水準でのソロバン勘定は合うんです。(p16)
 技術には無限の段階があり,完璧な技術というものに人間は決して到達することができない。プロはどの道の人でも,必ずそのことをまず第一に教えます。 では,どうしてそれにもかかわらず,プロを目指す人は後を絶たないのか? それは完璧な技術に到達しえない仕方が一人一人違うからです。(p30)
● そして,脱線だと言いながら,本書の肝を書き下ろす。コミュニケーションの構造についてだ。
 ここでたいせつなことをみなさんに一つ教えておきます。 それは,人間はほんとうに重要なことについては,ほとんど必ず原因と結果を取り違える,ということです。 コミュニケーションはその典型的な事例です。 私たちに深い達成感をもたらす対話というのは,「言いたいこと」や「聴きたいこと」が先にあって,それがことばになって二人の間を行き来したというものではありません。そうではなく,ことばが行き交った後になって,はじめて「言いたかったこと」と「聴きたかったこと」を二人が知った。そういう経験なんです。(p72)
 コミュニケーションを駆動しているのは,たしかに「理解し合いたい」という欲望なのです。でも,対話は理解に達すると終わってしまう。だから,「理解し合いたいけれど,理解に達するのはできるだけ先延ばしにしたい」という矛盾した欲望を私たちは抱いているのです。(p102)
 コミュニケーションの目的は,メッセージの正確な授受ではなくて,メッセージをやりとりすることそれ自体ではないのでしょうか? だからこそ,コミュニケーションにおいては,意思の疎通が簡単に成就しないように,いろいろと仕掛けがしてあるのではないでしょうか?(p103)
● そのことを文学や芸術に落としこんでいく。そうして大団円となる。
 私たちが聴いて気分のよくなることばというのはいくつかの種類がありますが,そのすべてに共通するのは(誤解を招く表現ですが),そこに誤解の余地が残されているということです。(p116)
 わからないけれど,何か心に響く。「たしかに,そうだ」と腑に落ちるのだけれど,どこがどう腑に落ちたのかをはっきりとは言うことができない。だから,繰り返し読む。 そういう文章が読者の中に強く深く浸透する文章なのです。(p131)
 デヴィッド・リンチは(そして,ほかの多くの芸術分野でのクリエイターたちは)「何か言いたいこと」があらかじめあって,それを映像記号やオブジェや音符に託して表現しているわけではありません。「気が付いたら,こんなものができちゃった」というのが,芸術的創造においては,だいたいのみなさんの本音ではないかと思います。(p138)
 作者はしばしば自分がいちばん強い影響を受けた作家や作品のことを忘れます。 そもそもそれを忘れてしまわないと,「どうしてこんな作品ができたのかわからない」という自分自身の創造工程に対する「無知」が失われてしまうからです。 そして,「無知」に支えられない限り,人間は創造的になりえるはずがないのです。 自分がどうして作品を作るのか,どういう技法を使ったのか,誰の影響を受けたのか,どの点が新しいのか,何を伝えたいのか・・・・・・そういうことがあらかじめわかっていたら,人間は創造なんかしません。(p141)
 人間の個性というのは,言い換えれば,「誤答者としての独創性」です。あるメッセージを他の誰もそんなふうに誤解しないような仕方で誤解したという事実が,その受信者の独創性とアイデンティティを基礎づけるのです。(p151)
● というわけで,本書のキーワードをひとつあげろと言われれば,それは「誤解」である,と。「誤解」することが,コミュニケーション(人対人,人対文学,人対芸術)をコミュニケーションたらしめる心臓部であるということ。

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