2014年6月23日月曜日

2014.06.21 内田 樹・釈徹宗 『聖地巡礼 ビギニング』

書名 聖地巡礼 ビギニング
著者 内田 樹
    釈徹宗
発行所 東京書籍
発行年月日 2013.08.23
価格(税別) 1,500円

● 面白かった。対談形式で高度なことをわかりやすく語ってくれているという印象。聖地が聖地であることの種々様々な理由が語られる。
 中沢新一さんのアースダイバー論は以前に読んでなるほどと思ったものだけど,そのときと同じ感じ。が,それだけではない。もっと広範にいろんなことが語られる。

● たとえば,次のような話。
 「ええかーとし子,向こうに行ったら水が変わるから飲み物,食べ物には気いつけてな。人さまのもんにはどんなにほしくても万劫にも手を出したらあかんで。おまえは末っ子やから,帰ってきても家が困るから,どんなつらいことがあっても辛抱せなあかんでー」。 すると,とし子さんがまたうんうんとうなずく。黙って歩いていると,また「ええかー,とし子」がはじまる。(中略) やがてバスが着く。(中略)昔のバスですから,下から押し上げる窓ですよね。あれを開けてバーッと身体をのり出したんですって。ベンチに座っていたお母さんも気づいてダーッと走ってきて,窓の下で二人は一瞬見つめ合ったそうです。 最後のお別れやなと思って茂利先生が見てたら,お母さんの「ええかー,とし子」ってはじまったんです。そしたら今度は「つらかったら何時でも帰って来いよー」というたんですって。そしたらね,「お母さんっ!」って,とし子さんの声を一回だけ聞いたと茂利先生はいうてはりました。(釈 p137)
 釈さんは「この「帰ってこいよ」「お母さん」といった呼応に,宗教の原型を見る思いがします」と引き取り,本来はかなり合理的でクールな宗教である仏教が,日本に移植されるとだいぶウェットになったと総括する。

● 「つらかったら何時でも帰って来いよー」という思いを忍んで,娘を奉公に出さなければならない母親。その思いをわかったうえで覚悟を決めている娘。ここのところの切なさが,この話の通奏低音。
 すべてはその上での解釈だ。ぼくらはこの母親の崇高な境地をかすめることが生涯に一度でもあるかどうか。良い時代に生きていると言っていいのだろう。これ,相当にしんどいもん。

● ほかにいくつか転載。
 この四天王寺とは,日本でもっとも優しいお寺なんです。すべての敗者を受け入れてきましたから。だから荒陵に建てられるのも無理ないんです。荒陵って,生と死の境界線上みたいなところです。『弱法師』でも『しんとく丸』でもここに捨てられたし,施薬院や悲田院がつくられる。死者や敗者が集い,実はそれらは自分の写し身じゃないかととらえて祀る,そんな場所ですね,ここは。(釈 p128)
 いつ行ってもその場所が自分にとって新しく見えたり,あるいは元の自分に戻れたりするような場所があるんです。(釈 p164)
 じつはそういう場所,ぼくにもある。生まれ故郷に近い山(低い山だけど)の尾根道だ。途中,山幅が狭くなって,両側に集落が見える箇所がある。一方は田んぼが伸びやかに拡がる豊かそうな集落。もう一方は耕地が狭くて貧しそうな集落。どっちにしても今は耕地に縛られたりはしていないんだろうけど,そんなことを思わせる場所。
 もっともそれがぼくにとってのそういう場所である理由ではなくて,眼下に蛇行する河があって,田んぼが拡がっていて,その向こうに家々がひかえめに連坦している。それを眺めていると,何とはなしにここはオレがいてもいい場所だと思う。
 宗教というのはぎゅっとエネルギーが集積してしまうものです。でも笑いがそれをポカッと外すような役目をしていて,そこに演劇の原型を見るような気がします。宗教が熱狂的な方向に行ってしまわないために,どこかで脱臼させるような役割は大事だと思うんです。(釈 p171)

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