2014年6月10日火曜日

2014.06.09 内田 樹 『街場の読書論』

書名 街場の読書論
著者 内田 樹
発行所 太田出版
発行年月日 2012.04.29
価格(税別) 1,600円

● この人のものを読んだのは,これが初めて。“知の巨人”という手垢にまみれた言葉があるけれども,世の中に巨人はいるものなのだね。
 本書をぼくがどれほど理解できたのか,まったくおぼつかない。けれども,面白かったですよ。面白ければそれでいい。そのように思い決めている。だから,理解できようができまいが,本書を読めてよかったと思う。

● 著作権の話など,なるほどと思うことの連続だった。著作権はもともと政治の産物であって,かくあるべしという不易の理屈に載っているわけではない。
 自分が本を書くのは読んでもらいたいからであって,本を購入してもらいたいからではないっていう,まっとうな話。

● “箴言”のオンパレード。そこから多すぎるかもしれない転載。
 交換においては交換される物品の有用性に着目すると交換の意味がわからなくなる。交換の目的は「交換すること」それ自体である。(p82)
 教条や社会科学は「汎通性」を要求する。あらゆる歴史的状況について普遍的に妥当する「真理」であることを要求する。だが,その代償として失うものが多すぎる。マルクスの理論が普遍的に妥当すると主張してしまうと,なぜ他ならぬマルクスが,このときに,この場所で,このような文章を書き,このような思想を鍛え上げたのか,という状況の一回性は軽視される。(p106)
 たしかに,「快刀乱麻を断つ」読みのもたらす爽快感や全能感が私たちにはときには必要だ。でも,爽快感や全能感を欲するのは,私たちが賢明で強い人間だからではなく,あまり賢明でなく,それほど強くない人間だからである。その原因結果の関係だけは覚えておこう。(p217)
 いったん「極端」まで行ってから「戻ってきた」人の方が,はじめから「そこ」にいる人よりも,自分がしていることの意味をよく理解しているというのは経験的にはたしかなことです。(p241)
 社会問題はぎりぎり切り詰めると,実践的には「どうやって大人を育てるか」というところにいきつきます。(p244)
 物書きは本質的には「ニッチ・ビジネス」である。つまり,「私の代弁者がどこにもいない」という不充足感に苦しむ読者たちをクライアントに評定する,ということである。(p269)
 もし歴史を動かすほんとうに大きな出来事があったとしたら,それは出来事としては出来しないだろうということである。もっとも巨大な人間的努力、もっとも精密な人間的巧知は,「起こってもよかったはずの災厄が起こらなかった」というかたちで達成されるからである。(p291)
 美的価値とは,畢竟するところ,「死ぬことができる」「滅びることができる」という可能態のうちに棲まっている。 私たちが死ぬのを嫌がるのは,生きることが楽しいからではない。一度死ぬと,もう死ねないからである。(中略) 私たちが定型的な言葉を嫌うのは,それが「生きていない」からではない。それが「死なない」からである。(p347)
 真に「古典」という名に値する書物とは,「それが書かれるまで,そのようなものを読みたいと思っている読者がいなかった書物」のことである。書物が「それを読むことのできる読者」「それを読むことに快楽を覚える読者」を創り出すのであって,あらかじめ存在する読者の読解能力や欲望に合わせて書物は書かれるのではない。(p394)
 長く生きてきてわかったことの一つは,人間は「自分宛てのメッセージでないものを理解するために知的資源を投じることについてはきわめて吝嗇である」ということです。 一度,「あ,これはオレ宛ての話じゃないわ」と思われたら,発信者がどれほどがんばってメッセージを送っても,右の耳から左の耳に素通りです。 ですから,ひとりでも多くの人に話を聞いてほしい,書いたものを読んでほしいと思う人間にとっての技術的な最優先課題は「どうすれば,聴き手や読み手はこのメッセージを『自分宛てだ』と思ってくれるか」ということに集約されることになります。(p407)

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