2013年2月28日木曜日

2013.02.28 大橋鎭子 『「暮しの手帖」とわたし』


書名 「暮しの手帖」とわたし
著者 大橋鎭子
発行所 暮しの手帖社
発行年月日 2010.05.21
価格(税別) 1,714円

● 雑誌「暮しの手帖」の社主である大橋鎭子さんの自伝のようなもの。
 一読して感じたことは,時代の重さ。戦争を生きなければならなかった人たちが,否応なく経験させられたことのあれやこれや。
 そうしたことがらを抑えた筆致で綴っている。抑制は品の良さを産む。

● もうひとつは,大橋さんが当時のアッパークラスに属する人だったこと。戦後の貧しいときに,服飾を考えることができたというそれ自体,アッパークラスにしか許されなかったことだろう。
 肺結核で亡くなった父親も,当時とすれば充分な療養を受けている。正直,羨望の念を禁じ得なかった。

● 戦中・戦後の混乱期に反物や洋服をもって農家に行き,わずかな米や芋に替えてもらった,という話が語られることがある(本書にも登場する)。それって,アッパークラスや中流が,農民(下流)にかしづかなければならなかった屈辱を語っているに過ぎないと言ってしまうと,言い過ぎになるか。
 そんなことは,時代のほんの一瞬の出来事,時のいたずらに過ぎない。農民は持ちなれないモノを所有できて,舞いあがったことだろう。どうせろくな着こなしはできなかったに違いない。豚に真珠を地で行ったはずだ。あるべきモノがあるべきところにある,というのが一番だ。
 が,彼らの心情は理解できるではないか。

● おもしろいのはやはり「暮しの手帖」にまつわるあれこれの話だ。恐ろしいほどの完璧主義。なるほど,実のある雑誌はこうして作られるのか。
 この完璧主義が成立するには,しかし,いくつかの要件がありそうだ。上意下達ではダメだろう。完璧主義者が複数いることも必要だ。仕事なり職場なりが,基本,楽しいこと。その楽しさに乗って,部活のノリで行け行けどんどんってんじゃないと,完璧主義は貫徹しないかもしれない。
 当然,脱落する人もいるだろうなぁ。ぼくなんかはいの一番に脱落しそうだな。

● 大橋さんって,苦労が身につかないタイプの人かもしれない。それがつまり,育ちの良さってことなのかも。
 一番面倒な仕事(原稿依頼と催促)を妹とふたりでずっとやってきてるんですね。これって絶対できないって人がけっこういるんじゃないか。

● 「暮しの手帖」の哲学といってもいいんだろうけど,日々の暮らしを丁寧に,大切に。それが身についている人っているんだよなぁ。
 これがぼく的には本当に難しい。間に合わせの連続で生きている。簡便&インスタント至上主義になっている。

● 「暮しの手帖」といえば花森安治。しかし,大橋鎭子がいなければ,「暮しの手帖」は間違いなくあり得なかった。というのが,読後の感想だ。
 全体的に筆を抑えているから,読後感がスッキリする。後味がいい。

2013年2月26日火曜日

2013.02.26 永江 朗 『筑摩書房それからの四十年』


書名 筑摩書房それからの四十年
著者 永江 朗
発行所 筑摩書房
発行年月日 2011.03.15
価格(税別) 1,800円

● 筑摩書房の社史。「それからの」というのは,「倒産後の」ということ。
 社史を自社で編纂するのではなく,外部のライターに書いてもらうというのは,そうそうないことだと思う。結果,読みものとして耐える内容に仕上がった。お金を払って読んでもらえる社史になった。永江さんの技量による。

● 印象的なのは,やはり倒産前後のところ。当時の経営陣の不甲斐なさ。文学青年あがりの理想主義者が,現実の経営者としてはいかに無能であるか。為す術はあったのに,ほとんど何もしないで傍観していた感じ。
 永江さんといえども,発注者に対する遠慮はあるだろう。思いの丈を吐きだしているわけではないだろう。それでも,何だこれは,と呆れかえっているように思われる。
 想像をたくましくすれば,創業者の古田氏に対しても,永江さんとしては言いたいことがあったような。そこは見事に筆を抑えているけれども。

● 筑摩書房の歴史をたどることは,戦後の出版界のあれこれや,文学や出版物の栄枯盛衰,思想の流行り廃りを概観することでもある。
 大げさにいえば,日本戦後史でもある。そういうものとして本書を読むこともできる。というか,そういうものとして読めることにこそ,本書の価値がある。

● 本書が面白いのは,筑摩書房にいた個人を前面に出しているからでもある。もともと大きな会社ではない。個人が見えやすい。それでも,永江さんに与えられた時間はさほど長くはなかったようだ。短期間でここまでやれるのは驚異だ。

● 昨今の新書創刊ラッシュについて,永江さんは苦々しさをもってながめているらしい。「出版界の新書ブームは終わらず,新規参入はまだ続いている。しかし,新書市場そのものの拡大はない。正直いって,新書全体の企画はかなり荒廃している」(p252),と。

2013年2月25日月曜日

2013.02.23 黒崎政男 『今を生きるための哲学的思考』


書名 今を生きるための哲学的思考
著者 黒崎政男
発行所 日本実業出版社
発行年月日 2012.10.10
価格(税別) 1,400円

● 副題は「想定外の世界で本質を見抜く11の講義」。
 本書の問題意識は,東日本大震災の津波と原発事故。あの大きな被害を「想定外」だったとする東電に対して,世論は反発したし,現に起きたのだから今後はこれを「想定外」とすることは許されないと,政治家や識者が意見を述べていた。
 しかし,ああいう千年に一度という災害を想定の内に組み込むことができるのか。

● 哲学の入門書として,これほどわかりやすい本を読んだ記憶がない。IT化がぼくらに及ぼす影響についてもわかりやすくまとめてくれている。
 わかりやすいと面白いはほとんどイコールだから,つまり本書は面白い。

● 以下,多すぎる転載。
 立場を超えて一つの行為の意味を語ることができない(中略)。立場とあわせてでしか語ることができない(p14)
 人々は同じ場所にいながら,まったく別の世界を生きている。場所や時間の同時性が,人の間の結びつきを意味しなくなっている。同じところにいても,まったく共通の話題がない,そんな事態がどんどん進んでいます。デジタル時代はこの状況を徹底化するわけです。(p91)
 昔だったら,人が何かを訴えるとき,ビラを配ったりしていたわけですけど,それは握りつぶされたり,影響範囲が限られたりしていた。それが今では,もう逆転です。大企業であれ,一つの投書や人々の意見のほうが,もはや強いということがありうる時代に変わってしまった。そういう意味で,少数の人物が多数の一般大衆を啓蒙したり,教育したりという非対称的な構造が,完全に崩れた(p93)
 私の感じで言うと,ちょうど20年くらい前(1980年代),テレビが「えらい人」をおちょくりはじめていった。それまでは学者先生のほうがアナウンサーよりえらかったけど,「え? おかしいよ」みたいなことをアナウンサーやキャスターが平気で言うようになって,上下関係をどんどんどんどん,掘り崩していった。 それからはあらゆるものが暴かれていって,「世の中には立派な人はいないのかもしれない」とか,「立派になっている,ということは,裏があるんだな」という感覚を持ちはじめた。(p97)
 かつては,権力者になるということは,自分は下々には知られないまま,自分が下々を知るという構造だったのが,今は下々からすべて知られるような構造になってしまった。「あの人,こんなことやった」ということがすぐわかってしまう構造になっているために,安泰ではなくなった。権力者が自分の情報を制御できなくなった。情報が全部流れてしまっているということだと,私は思っています。(p99)
 「ポスト・モダンの時代が来れば,人間はもっと自由になれる」という話もありましたが,自由というのは,もともとモダンの中の概念なのであり,ポスト・モダンになれば,自由という発想自体が消えている可能性があります。 自由とか個人というものは,あるパラダイムの中で初めて成立するような概念なのだから,今,起こっている変化がその枠組み自体を崩すような変化であるとすれば,かつて存在していた自由や個人というものは,新しいパラダイムの中ではそもそも意味を持たない可能性がある。(p103)
 私は人生長いので,本も何冊か書いている。いつ出したか,どんな本だったか,という正確な情報を忘れてしまったときはアマゾンに入る。自分の名前を入れると,「あ,おれはこんな仕事をしてたんだ」と知る。 だから,自分はどこにいるのか,と考えると,ネット上の中にいる自分というか,ネット上の自分というのが正確な自分だったりするかもしれない。そういったとき,私の心の内は私しか知らない,というあの感じは,ほとんどほとんど崩壊しはじめている(p112)
 現代の最先端の工学者たちの試みを見ますと,20世紀の科学とはまったく違う側面から行われはじめている,ということがわかります。つまりそれは「人はものである」,という発想です。つまり,心の動きや意識は,すべて,脳という物質の変化に還元されるのだ,と考えることです。(p115)
 国内初となるコピペ判定ソフトを開発した金沢工業大学の杉光一成教授が,コピー&ペーストは,簡単に技術なしで,完成された文章を自分が書いたような錯覚に陥り“麻薬”のように常習性がついてしまう,ということを述べているのですが,麻薬であるコピペと,そうでない世界がくっきり分かれているような発想ですね。善と悪がくっきりしているという前提の下に立っているけど,そもそも私達の存在ってコピペなのかもしれないという発想が,ここには欠けている気がします。(p122)
 著者性,私性っていうのは,大昔からあったわけではないんですね。あるシステムの構造の中で,個人名を冠するという制度が成立した。つまり,グーテンベルクの時代に,ようやく書いたものを多くの人に届けることができるようになって,少数の著者と多数の読者という構図が生まれた。そこで,初めて「著者」が出てきたわけです。 (中略)そうすると,もしかすると,今のインターネット時代の匿名性,誰が書いたんだかわからないし,私のと言ってもいいし,誰のと言ってもいいという状況がありますが,もしかしたら文化のあり方としてはそっちのほうがノーマルで,個人名がつくというのは逆にある特殊な時代だったんじゃないかという,こういう発想もできるわけです。(p126)
 文化の根本は〈模倣〉なわけです。真似をしてるうちに,自分のものになる。だから文化は基本的に,コピペとは言わないけど,言葉をちょっと柔らかくすれば,模倣なわけですよ。(p128)
 従来の図書館型では,検索することが死ぬほど大変なことだった。たとえば蔵書を10万冊持っていたとして,どこに何が書いてあるかを覚えているのはほとんど不可能ですよね。書籍の数は少ないと役に立たないが,多過ぎると,わけがわからなくなる。紙の情報には,そういう不便さがありました。でも,デジタルの世界では,グーグルなどの新しい検索方法によって,きわめて有効に情報を活用できるようになった。 ということは,何か調べなければならないテーマについてまったく何も知らなくても,ネットを検索すれば,情報を取ってこれる。(p140)
 従来は,たとえば新聞でものを書くときに,一番上の大きな総評をやっている人と,小さな意見を書いている人とでは,明らかにその権威が違うという構造がはっきりしていたわけですけれど,ネット上っていうのは,非常に不思議で,すべての意見は平等というか,すべてフラット化するわけですよね。どんな人間だろうと,一人の発言に過ぎない発言であるという形で扱われる。だから,一般の人でも「面白いな」と思われれば人気が出るし,有名人でも「意外と中身はない人なんですね」といったこともある。(p143)
 昔は,一方に大学を中心とする知的な共同体を構成している人がいて,他方にマスメディアで大衆に対して何かを語るジャーナリズム,という,この二つがうまく作用していたのだと思いますが,1990年以降,もうマスメディアは,言っても言わなくても,まったく同じだろうっていうような,ほぼ紋切り型の非常に決まりきった批判しかできない。じゃあ,一方の大学アカデミズムの知識人や文化人達はイキイキしているかというと,そうでもなくて,(中略)閉じ籠もった状況になっている(p143)
 かつて「学会」と呼ばれるものは,たとえばカメラ同好会とか,万年筆趣味集団とかいうものと比べて,もう圧倒的に発言力があるし,比べること自体,無意味なくらい別のものだったんだけれども,今はもう,なんとなく同じように感じられるような雰囲気になってきている。(p144)
 たとえば,デパートで高級な化粧品を見るだけ見て,買うのは安売り店で半額で,ということが,もう多くの人の日常生活になっています。(中略) デパートみたいに大きな敷地と多くの人員を割いて,定価で売るために様々な広告費を掛けているところには利益が還元されずに,とにかく安く売るところ,半額でなんとか仕入れてきて売ってしまうというところは,一切の広告費を掛けず,なんの苦労もしないで,デパートやメーカーが宣伝広告,開発したものを売って,自分の利益にするという構造になっている。これがフリーライド,ただ乗りの典型例でしょう。でも,それはしばらくすると,本体を食い尽くしてしまうわけですよね。(p146)
 かつては,読書そのものが素晴らしい,と言われた。本を読みなさい,と大人は子どもに勧めた。しかし,今の問題はどんな本を読むかです。メディアが普及すると,もうそのメディア自体が悪いとか,そういう言い方はしなくなっていきます。(中略)インターネットが良いとか悪いとかっていう議論は,そのうち,意味をなくすでしょう。(p151)
 私達の危機はあらゆるところにあって,それが一回起こる,ということのためにしておかなければならないことは,実はごまんとある。保険商品を見ても,がん保険からゴルフのホールインワン保険まで,様々なものがありますね。でも,そのごまんとあることへの備えを,用心のために一つひとつやっていると,一切生活ができなくなってしまうかもしれない。そのくらい危機はある。(p185)
 私達は,なんらかの大事件や大事故を,必ず〈人災〉に還元して,誰かの責任を追及する,という形をとりがちです。(中略)しかし,人災という形で今回の「フクシマ」を処理しよう,という発想は,何かより根源的な問題を見逃してしまうようにも思えます。(p185)
 リスク社会のリスクというのは,一度起これば(国家レベル,地球レベルで)壊滅的な被害をもたらす一方で,起こる確率は非常に少ないものです。(中略)ときに〈小さ過ぎて計算不能〉である,という特徴も持っています。(p203)
 今の科学は〈仮説とそのシミュレーション〉を元にしていますから,原理的に回答不可能なものにまで,仮説を立て,コンピュータに計算をさせれば,〈客観的〉とされるなんらかの回答が出てしまう。(中略) さらに科学は,仮説と初期値,あるいはパラメータのとり方によっては,確率1%から99%まで(言葉は悪いですが)いくらでも呈示することができる。それも「科学的根拠に基づいて客観的に」という言葉を付加しながら,です。(p207)
 千年周期の津波について考えてみましょう。千年周期っていうのはどういうことかっていうと,1000年前はちょうど「いいくに作ろう」で鎌倉幕府の時代ですよ。その1000年前を考えてみると,「稲作がはじまった。文字はまだない」という時代です。そうした人たちが被害に遭い,次に源頼朝が被害に遭い,次に私達が被害に遭っている。千年単位ってそのくらいの単位ですよね。文字を持たない人達が源頼朝に対して何ができたのか,源頼朝が私達に対して何ができたか,と考えてみると,1000年後の人に対して私達が何をなせるのかということを考えること自体がいかに無意味であるか,ということになります。 だから将来に対して私達には責任があるとか,未来の子孫に対して責任があると言うとき,1000年後の人達に(単にお題目ではなく)どういう形で責任を取ることができるか,と考えなければならないはずです。 でも,1万年単位で起こる出来事,千年単位で起こる出来事に関しては,私達がどの共同体に対して責任を負っているのか,どの主体に対して責任を持つのか,一体何を守ろうとしなければいけないのか,ということが不明になってしまう。つまり,リスクにさらされるような主体の存在を定義できなくなってしまうという状況になっている。(p208)
 〈利益優先や怠惰のためにこの事故を招いた〉というその言い方は,むしろ,マスコミや一般のステレオタイプなものの見方ではないかと思います。紋切り型の攻め方ですよね。 怠惰でなく利益優先でもなかったなら,大惨事は起こらなかった。もちろんこう考えたいです。しかし,こういう考えは,〈人間や科学に対する万全の信頼〉が前提となっています。人間は科学を使ってしっかりやれば大事故は防げるものだ,という思い込みです。だから,不都合な出来事は,すべてを〈人災〉,誰かの責任と考えたくなります。(中略) 今回の3・11の出来事は,しかし,人間がどんなに頑張ってもダメなことがあるのだ,ということを顕わにしたのだと思います。従前に責任を取ることができるほど人間は完全なものでもなく,そんな能力のあるものでもない,ということが見えたのだと思います。(p210)
 「人類の英知を結集した科学を使えば,地震の予知は可能である」。こんな発想をまだ抱いているとすれば,それは,かつての世界観,人間中心主義(自然は人間の計算と計画の手の内にある),ニュートン的世界観(初期状態と法則さえわかれば,人間は未来永劫にわたるまで世界のあり方を予知することができる)をいまだに抱いているからです。(p214)

 時間の経過とともに,別の感じも私達には芽生えてきてもいます。終わるはずだった日本はなぜかいまだ終わっていないし,また次々とまったく別な問題が生じては,また対処して,なんだかんだやってきている。3・11という未曾有の大惨事も,なんとか受け止め、なんとか処理,対処しながら,どこかそれを少しずつ〈過去の出来事〉という態様に入れ込みつつある。人間が持つ生命エネルギーの常に前に進むあり方には感嘆すべきものがあります。(p232)

2013年2月23日土曜日

2013.02.22 須藤八千代・渋谷典子編 『女性たちの大学院』


書名 女性たちの大学院
編者 須藤八千代・渋谷典子
発行所 生活書院
発行年月日 2009.10.25
価格(税別) 2,200円

● 日本の企業ではでは昔から新卒採用が原則で,だいぶ変わってきたとはいっても,まだこの原則は崩れていないように見受けられる。こういうことが罷り通っている究極の理由は,企業の側が大学(教育)に期待するもの,求めるものがほとんどないからだろう。
 企業側の認識が間違っているとはまったく思わない。今は各方面で専門職化が進行しているようでもあるけれども,ほんの一部を除けば,日々の仕事を捌いていくのに特別な能力は必要ない。大学を出ている必要すらない。地頭がよければ中卒でも何ら支障はない。

● ゆえに,社会人大学(院)が盛況なのだとすれば,学びというレジャーにうつつを抜かす人が増えたということだ。要するに,それだけの暇を持つようになったということ。
 身も蓋もない言い方だが,つまりはそういうことだと思う。体裁もいいし,自分で自分に言い訳する必要なしに,打ち込めるレジャーだ。
 そのことと大学側の経営事情が合致しての隆盛なのだろう。

● まったく悪いことではない。言うまでもないことだ。テニスをしたり,旅行をしたり,食べ歩きをしたりってのが,悪いことではないのと同様だ。
 だから,正々堂々と社会人大学(院)生をやればいい。自らの欲望に忠実であればいい。

● しかし,こんなことを思ったりもする。社会人大学(院)生の中には,ひょっとして大学(院)依存症の人がいやしないか。あるいは,大学(院)に行けば自分は変われるのではないか,自分でも知らなかった自分に出逢えるのではないか,といった幻想を抱いている人がいやしないか。
 少し冷静になった方がいい。そんな僥倖は万に一つもないものだ。あたりまえのことなんだけど,そのあたりまえをどこかに捨てちゃった人,数のうちにはいるんじゃないかなぁ。

● もうひとつ。本書でもしばしば語られていることなんだけど,大学や大学院で学んだことを社会に還元していきたいというやつ。素晴らしい心映えに違いない。
 だけれども,大学や大学院で学んだことを社会に活かそうと安易に考えられては,社会が迷惑するぞと言いたい気持ちがぼくの中のどこかにある。
 工学系の技術開発とかなら,もちろん別だ。そうではなく,広義の社会変革に関わる部分で,自分が学んだことを活かそう,活かせる,などと考える輩は,ふたつの欠陥を抱えている。ひとつは,自己評価が高すぎること。もうひとつは,世間をなめすぎていることだ。
 かけ算もロクにできないくせに,微積分まで心得ている人を相手に,数学を教えてやろうと言ったところで,まともに相手にされないのは当然のことだ。大学や大学院であなた方が学んできたものは,しょせんその程度のことではないのか。

● 放送大学というのがある。本書の中でも放送大学(院)体験が詳しく語られているんだけども,ぼく一個は,社会人用の大学なんて放送大学だけで充分だと思っている。
 もちろん,実験や演習がメインになる分野を志している人は,放送大学というわけにはいかない。早い話が,医学部で勉強したいという人にとっては,放送大学は何の役にも立たない。
 けれども,大方の人にとっては,放送大学(院)で足りるんじゃないか。ここで入口部分の手ほどきをしてもらえば,あとは自分一人の独学に勝るものはないんじゃないか。
 さらに言ってしまえば,ちょっと気のきいた人なら,放送大学すら要らないだろう。逆に,大学(院)で学んだところで,気のきいた人になれるわけではない。
 ちなみに,現在の放送大学は学部と修士課程のみだけれど,博士(後期)課程を設置する方向にすでに動きだしているようだ。

● 以上,社会人大学(院)生を揶揄するような響きがあったと思うし,やや斜にかまえたトーンが混じってしまっていたと思う。
 本書では8人の女性たちが自らの社会人大学(院)生の体験を綴っている。その体験を媒介にさせて,来し方行く末を語っている。こちらにしっかりと食い込んでくるものもあれば(真野敏子さんの文章),そうでもないものもあるけれども,どなたも真摯に丁寧に自分の生を生きてきた人たちだ。
 ざっくりと言えば,普通の人生を普通に生きてきた人たちだ。別に特殊な人生を歩んできたわけではない。けれども,その普通を丁寧にやってきたのだなと思わせる。

2013年2月21日木曜日

2013.02.20 藤本順平 『小さい宇宙をつくる』


書名 小さい宇宙をつくる
著者 藤本順平
発行所 幻冬舎エデュケーション
発行年月日 2012.12.25
価格(税別) 1,200円

● 副題が「本当にいちばんやさしい素粒子と宇宙のはなし」。とはいえ,ぼくの頭ではたしてどこまでわかったか。

● が,ひとつだけリコウになったと思えたことがある。
 原子は原子核と電子で構成されており(これは中学の理科で習った),その原子は118種類あり,性質が似ているいくつかのグループに分けることができる。それを表したのが周期表と呼ばれるもの(これは高校の化学で習ったが,この授業,ぼくはほとんど寝ていた)。
 ここまでは既知のこととして,ここからが新知識。原子をさらに細かくすると素粒子になる。その素粒子とはアップクォークとダウンクォークと電子の3つであって,素粒子レベルまで細かくすると,原子の性質は関係なくなる。
 アップクォークとダウンクォークのつながり方で,陽子だとか中性子だとか・・・・・・って話になるんだけど,このへんはまぁ,スルーしちゃってもいいような。

● 最近,存在が確認されたヒッグス粒子は素粒子に質量を与える役割をするらしい。光の速さで動き回っている素粒子がヒッグス場では動きが阻害される。速度が落ちる。その結果,質量を持つことになる。質量を持つってことは,光の速さで動けないってことなんだ。
 このあたりになると,ワクワクして次を知りたくなる人と,わかんないよぉってなる人と,2つに分かれそうだ。前者でありたいが,ぼくはどうも後者の人か。

● 第4章の「宇宙はどこまでわかっている?」は面白かった。謎だらけ。わからなくても生命や生活には何ら影響のない謎なんだけど,それを解くために人生をかける人がいるってのは,わかる話だよなぁ。

2013年2月20日水曜日

2013.02.19 山田昭男 『ホウレンソウ禁止で1日7時間15分しか働かないから仕事が面白くなる』


書名 ホウレンソウ禁止で1日7時間15分しか働かないから仕事が面白くなる
著者 山田昭男
発行所 東洋経済新報社
発行年月日 2012.08.23
価格(税別) 1,500円

● 痛快な本。本書で説かれているのは,管理のコストと副作用についてだ。管理すると社員の当事者意識が育たないということ。当事者意識を持たない社員にいい仕事ができるはずがない,と。
 著者は,岐阜県にある「未来工業」という電気設備資材を製造している会社の創業者(現在は相談役)。

● 言われてみれば,企業や役所は,管理にコストをかけて閉塞感を生産しているのかもしれないな。世間がそれを求めているのかもしれないし,管理をメシの種にしているコンサルタントもいるしね。
 ぼく自身,管理の仕方,され方がだいぶきめ細かくなったと感じている。管理それ自体に対応するための時間や労力が格段に増えた。それに見合った効果を実感したことはない。

2013年2月18日月曜日

2013.02.18 成毛 眞 『面白い本』


書名 面白い本
著者 成毛 眞
発行所 岩波新書
発行年月日 2013.01.22
価格(税別) 700円

● 著者はマイクロソフト日本法人の社長だった人だが,今ではマイクロソフトの元社長と言われることはなくなっているのではあるまいか。社長を辞めた後の活躍ぶりが鮮やかだから。
 本書でいろんな才人を紹介しているわけだけれども,著者もまた才人でしょうなぁ。世間に右顧左眄しないというイメージがある。

● 100冊以上の本が紹介されている。その中でぼくが読んでいるのは,都築響一『TOKYO STYLE』のみだった。

2013年2月16日土曜日

2013.02.16 日本写真家協会編 『写真集 生きる 東日本大震災から一年』


書名 写真集 生きる 東日本大震災から一年
編者 日本写真家協会
解説 伊集院 静
発行所 新潮社
発行年月日 2012.02.25
価格(税別) 2,800円

● 東日本大震災を記録した写真集をどれか1冊,手元に置いておきたいというのであれば,ぼくなら本書を推す。被災者の生活より自分の正義感を優先してしまっているようなキャンプションがわずかに散見されるのが,傷といえば傷だけれども,こちらを胸を突く写真が多く掲載されている。

● たとえば,146~147ページの夜の大船渡市を写した写真。「大船渡市市街は商業,漁業地域の狭い沿岸部と,市役所等のある高台とに分かれていて,その高台は津波の被害を免れた。震災後1ヶ月を経ても,未だ真っ暗な低地と,電気が通じ,生活の明かりが灯る高台とのコントラストが,夜になって際立って浮かび上がった」。

● 自然は人間の都合に合わせてくれない。人間はか弱き存在。それは大昔から言われてきたこと。そのか弱さが大震災で露わにされた。
 ぼくらは,人間のか弱さを観念的にではなく事実として知らされて,かくもオロオロしている。同時に,人間の愛おしさに気づかされて,驚いている。

● 巻頭に伊集院さんの「解説」が付されている。
 復興はなされなくてはならないが,それが最終目標ではない。震災前と同じかたちに戻れることは決してないのだから。それならばどうむき合っていけばよいのか。 まずは真実を知ること。 次に再生を信じて歩むこと。 そうして自分がいきていることを実感としてつかみ,生きることがいかに素晴らしいことかをわかることである。それが死んで行った人々の意志を継ぐただひとつの方法であろう。(p8)
 瓦礫の中でキャッチボールをする少年,サッカーボールを蹴る子,クラリネットを吹く少女,海の絵を描き出した子,家族の遺影に大粒の涙を浮かべ,それでも笑おうとする女の子・・・・・・。そのけなげさ,懸命さを見ていると,人間は,生きているということは賛美されるべきものだとつくづく思う。(p9)

2013年2月15日金曜日

2013.02.15 アサヒカメラ編集部編 『東日本大震災 写真家17人の視点』


書名 東日本大震災 写真家17人の視点
編者 アサヒカメラ編集部
発行所 朝日新聞出版
発行年月日 2011.09.30
価格(税別) 2,200円

● 被災地,被災地の人たちを,17人の写真家が撮影したもの。篠山紀信,野町和嘉,瀬戸正人,立木義浩,横木安良夫,鬼海弘雄,大石芳野,桃井和馬,石川梵,Q.サカマキ,岡原功祐,岡田敦,幸田大地,太田康介,広川泰士,大西みつぐ,平間至。
 巻末に松山巖の解説。

● これらの写真に対する評価能力は,ぼくにはない。注目するものは写真家によって違うけれども,報道写真に比べればどれも落ち着いている。

2013.02.15 朝日新聞社・朝日新聞出版 『震災1年全記録 大津波,原発事故,復興への歩み』


書名 震災1年全記録 大津波,原発事故,復興への歩み
著者 朝日新聞社・朝日新聞出版
発行所 朝日新聞出版
発行年月日 2012.02.29
価格(税別) 1,500円

● 同一場所の被災直後の写真と1年後の写真を並べて掲載しているページがある。これほどの災害であっても,1年後にはかなりのところまで復旧しているのを見ると,日本って凄い国なんだなぁと思わされる。

● 同時に,とんでもない災害だったのだと印象づける効果もある。
 これほどの災害であっても,これからはそれを「想定外」としないことが必要,との論調が世論を席巻した。それができたら,本当に凄い国だ。一方で,普段の生活コストがかなり高くつくことになるのかもしれないけれど。

● 政権が自民党に戻り,そのとたんに為替が円安に振れ,株価も上昇に転じて,日本にいくぶん日がさしてきたような雰囲気がある。長い冬もようやく終わるんじゃないかって。倒産するんじゃないかと騒がれたシャープも経常収支は黒字になった。
 こういう時期だからそう思うのかもしれないけれど,被災地に暮らす人たちの写真を見ていると,日本はまだまだやれるんじゃないかと思えてくる。

● 月並みな言い方になるが,被災地じゃないところに住む日本人が被災地に与えた援助と,被災地の人たちが被災地外の日本人に与えたものとを比較すれば,後者の方がはるかに大きい。
 かの人たちの忍耐,寛容,自彊は素晴らしい。極限の状況下で,身をもってそれを示してくれている。日本人としてのぼくの誇りだ。そう思わせる写真に接することができる。

2013.02.15 『読売新聞報道写真集 東日本大震災』


書名 読売新聞報道写真集 東日本大震災
発行所 読売新聞東京本社
発行年月日 2011.05.04
価格(税別) 1,500円

● 同じものを読売新聞の写真で。ざっくりとした印象でいうと,写真そのものとして見れば,朝日が一枚上手。
 ということは,朝日の方が被災者に踏み込んで撮っているはずで,被災者とすれば迷惑だったのは朝日の方か。

● 無心に笑っている幼児の写真があって,そこに,この子の母親は亡くなっている,との解説文がある。こういうのを見ると,やはりこみあげてくるものはある。

2013.02.14 朝日新聞社・朝日新聞出版 『東日本大震災 報道写真全記録2011.3.11-4.11』


書名 東日本大震災 報道写真全記録2011.3.11-4.11
著者 朝日新聞社・朝日新聞出版
発行所 朝日新聞出版
発行年月日 2011.04.30
価格(税別) 1,500円

● 東日本大震災のような千年に一度と言われる大災害であっても,直接の被災地でないところに住んでいれば,日に日に記憶が風化していくことは避けられない。人間はそういうふうにできているし,そうでなければ自身の生存に支障を来す。
 とはいっても,時々はあのときの記憶を刺激して,被災された人たち,命を落とされた人たちを偲ぶよすがにしなければならない(というと,きれい事に過ぎるか)。
 そういうとき,本書のような報道写真集は頼りになる。

● わが家は震度6強だった。屋根が崩壊した。食器棚,タンスのたぐいはすべて倒れた。当日から数日間は靴をはいたままでないと家の中を歩けなかった。が,その程度ですんだ。
 それでも,モノを所有するとか,立身出世とか,そういうものはどうでもいいとの思いが強くなった。その限りで,ぼくもまた震災の影響を被っている。

● あの災害は揺れではなく津波がもたらしたものであることが歴然とわかる。震度などのデータも掲載されている。これを見ると,震度は岩手よりも栃木,茨城の方が値が大きい。
 津波に襲われて瓦礫に埋もれた街に,原型をとどめて残っている建物がある。そのことが凄いと感じる。もちろん,使用には耐えなくなっているだろうから,瓦礫よりも始末が悪いってことになるのかもしれないんだけども,原型をとどめているというそのことが凄いなぁ,と。

● アメリカ海兵隊が空母「ロナルド・レーガン」を拠点にして,海に流された遺体を引きあげるという最もきつい任務にあたってくれたはずだが,その写真は一切出てこない。なぜだ。報道管制が敷かれていたのか。

● 3.11の3日後,14日の朝日新聞の一面に載った写真は忘れることができない。「大津波で壊滅的な打撃を受けた宮城県名取市閖上地区で,道路に座り込んで涙を流す女性」の写真だ。
 この写真も本書に収録されている。アメリカの雑誌にも掲載されたらしい。が,本書に限ってはこういう自慢は余計なものだろう。つまるところ,人の不幸を写した写真だぞ。

● 多くの人が感じたことだろうけど,これだけの災害に見舞われたときに,時の首相が民主党の菅直人。被災者にとっては不運の極みだったに違いない。ことここに及んでも,御身大切をあれだけわかりやすく発散していた首相って。
 やはり,政治家が大事。役人ではなくて。

2013.02.14 『LEGEND&Memories_Steve Jobs』

書名 LEGEND&Memories_Steve Jobs(Mac Fan 2012年11月号付録)
発行所 マイナビ
発行年月日 2012.09.29
価格(税別) 848円(本誌とも)

● スティーブ・ジョブズのインタビューやスピーチをいくつか収録したもの。彼が亡くなった後に,追悼として出されたもののひとつ。

● SONYが買収するのではないかとまで言われていたappleを,株式時価総額でマイクロソフトを超えるところまで持っていったのだから,それだけでジョブズは偉大だ。そのことに異論はない。彼にしかできなかったことだろう。

● デジタル携帯音楽プレイヤーでは,iPodに先がけてSONYのWALKMANが誕生した。が,iPodのおかげでWALKMANはすっかりマイナーになってしまった。理由は再生できるソフトの違い。
 スマホがこれだけ普及すると,専用の携帯音楽プレイヤー自体,ニッチ機器になってしまったろうけど。

● ぼくはapple製品は使ったことがないけれども,この音楽を聴くという部分に関しては,ジョブズの仕事の恩恵を間違いなく受けている。ありがたい。感謝しかない。ぼくの24時間の中では,けっこう大きい比重を占めているのでね。

● apple製品のデザインの良さはぼくにも感じられる。それでもapple製品に手が伸びないのはなぜだろうと自問することがあるんだけど,要は現状で満足しているからっていうことかなぁ。
 消費者として向上心がないっていうかね。冒険を避けるタチっていうか。足るを知れとも言うし。

2013年2月14日木曜日

2013.02.14 アラン・ケン・トーマス編 『スティーブ・ジョブズ 世界を変えた言葉』


書名 スティーブ・ジョブズ 世界を変えた言葉
編者 アラン・ケン・トーマス
訳者 長谷川 薫
発行所 イースト・プレス
発行年月日 2011.11.30
価格(税別) 1,000円

● ジョブズがやった仕事の大きさというのは,誰もが認めるところ。あるいは,認めざるを得ないところ。普通の人が7回生まれかわってもできないことを,彼はやってのけて逝ったのだなぁ,と。
 ああいう仕事をする人は,どういう姿勢で仕事に臨んでいるのか。それは本書に集められた言葉の断片からも推測はできる。

● 同時に,自分は,さらにいうと自分の周囲のすべての人も,とてもそんなことができる人ではないことも明白にわかる。
 だから,自分もジョブズのようになりたいなどとは,夢,思わないこと。鵜の真似をする烏にすらなれないだろうから。それは幸せへの道ではない。

2013.02.13 アラン・ケン・トーマス編 『スティーブ・ジョブズ 自分を貫く言葉』


書名 スティーブ・ジョブズ 自分を貫く言葉
編者 アラン・ケン・トーマス
訳者 長谷川 薫
発行所 イースト・プレス
発行年月日 2011.11.30
価格(税別) 1,000円

● パソコンはWindowsを使っている。スマホはAndroidだ。MacもiPodもiPhoneもiPadも使ったことがないし,今後もないと思う。
 それでも昔からMacintoshやスティーブ・ジョブズを扱った読みものはけっこう読んできた。隠れappleファンといえばいえるのかも。
 「隠れ」にとどまらせるところが,appleのappleたるゆえん。

● 本書は,スティーブ・ジョブズが残した言葉の断片を集めたもの。全編これ智慧に満ちているわけだが,じつはこういうものは読んでも何も残らない。30分間の暇つぶし。それでいいわけだ。

2013年2月13日水曜日

2013.02.13 喜多麗子 『フジ子・ヘミング 真実の軌跡』


書名 フジ子・ヘミング 真実の軌跡
著者 喜多麗子
発行所 角川書店
発行年月日 2004.04.06
価格(税別) 1,500円

● 「ドラマでは描かれなかった物語」との副題がある。このドラマは,2003年10月17日にフジテレビ系で放送された「フジ子・ヘミングの軌跡」のことで,著者はこのドラマのプロデューサーを務めた人らしい。

● 著者がフジ子・ヘミングになっているものでも,別にライターがいて,そのライターが本人に取材して描いたものが多いんじゃないかと思う。本書はそれらの本に登場しないシーンも出てくるので,いくつか彼女に関する知識が増えたというのが,収穫といえば収穫。
 けれども,彼女について知ろうとすれば,『運命の力』(TBSブリタニカ)1冊を読めば,だいたい足りるかなと思いますね。

● 3月1日に宇都宮で彼女のリサイタルがあるので,聴きにいくことにしている。チケットは1万円。
 それなりに痛い出費ではあるけれども,彼女のCDは繰り返し聴いているし,今ここで生を聴いておかないと,後悔するだろうと思って。

2013年2月12日火曜日

2013.02.10 「CRASSY.」編集部編 『楽しみの発見 モーツァルトから志ん朝まで』


書名 楽しみの発見 モーツァルトから志ん朝まで
編者 「CRASSY.」編集部
発行所 光文社
発行年月日 1999.04.25
価格(税別) 1,700円

● その道の好事家が3人ずつ,蘊蓄や思い入れを語ったもの。10年以上前に出版されたものだけれども,古くなるような性格のものではないから,今でも面白く読める。

2013年2月8日金曜日

2013.02.08 音楽之友社編 『黄金時代のカリスマ指揮者たち』


書名 黄金時代のカリスマ指揮者たち
編者 音楽之友社
発行所 音楽之友社
発行年月日 2012.08.01
価格(税別) 1,600円

● 往年の名指揮者を,わが国を代表する音楽評論家が回顧する。もちろん,褒め称える内容になっている。そうじゃなかったら出す意味もないだろうし。
 取りあげられている指揮者は次の20人。
 ・フルトヴェングラー
 ・トスカニーニ
 ・ワルター
 ・クナッパーツブッシュ
 ・ムラヴィンスキー
 ・メンゲルベルク
 ・モントゥー
 ・シューリヒト
 ・ストコフスキー
 ・アンセルメ
 ・クラウス
 ・クレンペラー
 ・ミュンシュ
 ・カール・ベーム
 ・ジョージ・セル
 ・オーマンディ
 ・バルビローリ
 ・マタチッチ
 ・朝比奈 隆
 ・ヴァント

● 冒頭にドナルド・キーンさんのインタビュー記事が掲載されている。フルトヴェングラーやトスカニーニの指揮や全盛期のマリア・カラスの舞台を観たこともあるそうだ。
 「人間は年とともに多くの変化をくぐり抜けますが,一つだけ変わらないものがあります。それは「声」なのです。誰かが私に三十年ぶりに電話をかけて来ても,誰であるか大体わかります。声には変わらぬ個性がありますから。(中略)ですから昔の演奏を聴くと古い友達に再会したような喜びがあります。それはつまり,「声」こそがすべての音楽の基本であるからです」(p15)という。

● 先生方が思い入れのある指揮者について語るわけだけれども,皆さん,子どもの頃からクラシック音楽に接しているんですな。比較しても仕方がないことながら,自分のスタートのあまりに遅いことを悔やむ気持ちがきざしてしまう。
 少なくとも小学校の音楽の時間に何らかの曲を聴いた(聴かされた)ことは間違いない。音楽室があって,作曲家の肖像画がズラッと掲げられていたのは記憶しているからね。
 が,それだけしか憶えていませんね。何かを聴いてインスパイアされたなんてことはなかった。これがつまり,凡人の凡人たるゆえんなのだと思うけど。

● ポツポツと聴くようになったのは大学生になってからかなぁ。ラジオのFMから流れてくるのをカセットテープに録音してね。その頃は,作曲家の名前と曲名にしか思いが至らなくて,指揮者や演奏者が誰かなんて考えもしなかった。凡人たるゆえん。先生方とは違いますな。

● 先生方の少年時代の回顧録を読んでいると,パソコンの黎明期にパソコンをいじっていたオッサンの話を聞いているような気分にもなる。
 ハードもソフトも高価で,性能も今とは比較にならないほど貧弱で,その代わりパソコンってすげぇなぁと単純に感嘆することができて,使えるようになるにはハードルが高かった頃。その頃からパソコンに触れていた人と,Windows95以降にパソコンを使いだした人とでは,パソコンに対する気持ちが違うだろう。前者の人たちにとっては,パソコンは道具以上というか,自分の分身のように感じている人がいるかもしれない。後者にいわせれば,パソコンは単純に便利な道具に過ぎないだろう。特別なものではない。
 同じように(と言っては失礼かもしれないけれども),先生方にとっては,クラシック音楽は自分の一部,切り離されれば血が噴きだすような存在になっているのだろう。一方,CDがあたりまえになってから,さらにはiPodで聴くのが普通になってからの世代には,音楽じたいがずっと軽いものになっているかもしれない。精魂こめて議論するようなものじゃないでしょ,的な。

● 先生方が絶賛してやまない,たとえばフルトヴェングラーがバイロイト祝祭劇場で指揮したベートーヴェン「第九」のCDを聴いても,悲しいことに,ぼくの体はほとんど感応しない。
 もちろん,修行が足りないのだと思う。耳が悪いのだと思う。聴く体験の絶対量が足りないがために,演奏が持つ「精神の高さ」や「音楽の輝きの光度の強烈さ」や「そこに含まれる闇の深さ」を感知することができないでいるのだと思う。
 だが,一方で,呼吸をし始めた時代の空気が違うせいだとも思う。文学でも社会科学でも「古典」は多数存在するけれども,その「古典」が生まれた当時の読まれ方と,現在の読まれ方はまるで違っているはずで,音楽の演奏もまた同じと考えたくもある。

● っていうか,録音のまずさっていうのがねぇ。これ,普通に言われているよりも,影響,大きくない? どんな名演でもあの録音じゃちょっとなぁって思わない?
 そこがダメなんだよと言われそうだけども,あの録音に耐えられる人ってのは,SPレコードの録音の悪さを経験している人なんじゃないかなぁ。聴き始めたときにはCDだったという人にとっては,昔のパソコンで今のソフトを動かしているようなもので,どうにもこうにもならないと感じるのではないか。

2013年2月7日木曜日

2013.02.06 安孫子 薫 『「お客様の幸せ」のためにディズニーはまず「おそうじ」を考えた』


書名 「お客様の幸せ」のためにディズニーはまず「おそうじ」を考えた
著者 安孫子 薫
発行所 小学館
発行年月日 2011.11.02
価格(税別) 1,300円

● この本の著者もオリエンタルランドでカストーディアルの管理職を長く務めた人。ビジネス書よりの趣あり。ディズニーランドの掃除について,あらためて感心しきりだ。
 この本で書かれていることだけど,ディズニーランドの開業以降,街の公衆トイレが格段に清潔になったのは確かだ。TDRの社会貢献の最たるものは,じつはこれかもしれない。

● TDRの「7割の法則」。パーク来訪者のうち,女性が7割,大人が7割,首都圏在住者が7割。納得。

2013年2月6日水曜日

2013.02.04 中野雅至 『1勝100敗!あるキャリア官僚の転職記』


書名 1勝100敗!あるキャリア官僚の転職記
著者 中野雅至
発行所 光文社新書
発行年月日 2011.11.20
価格(税別) 780円

● 副題は「大学教授公募の裏側」。厚労省の役人から大学教授に転職した著者の転職体験記。なんだ華麗なる転進の話かと思ってしまうかもしれないが,そうではない。
 著者はキャリア官僚といっても,東大を卒業してⅠ種試験に受かってっていう人ではない。市役所に就職してから国の官僚に転じた人だ。市役所を退職して国家公務員試験を受け直したのか,市役所から官僚に転じる道があるのか,それは知らないけれど。だから,たぶん,キャリアとはいっても,将来は局長や事務次官にという栄達の道はなかったんだろうと思う。

● 大学への転進も役人としての実績を買われてというのじゃなくて,コツコツと勉強してシコシコと論文を書いて,落ちても落ちても大学教授の公募に応募してっていうのを経て,やっとこさ転職を全うした。
 本書はその苦労話。相当以上に面白かった。

● とはいっても,キャリアですからね,国費でアメリカに2年間留学させてもらってたりね。羨ましいっちゃ羨ましいよねぇ。その留学が仕事に活きたのかってのは問うところではないけれど。

● で,悪戦苦闘して転職を果たした著者が,その過程で会得した知恵を本書で披露してくれている。

2013年2月5日火曜日

2013.02.03 鎌田 洋 『ディズニー そうじの神様が教えてくれたこと』


書名 ディズニー そうじの神様が教えてくれたこと
著者 鎌田 洋
発行所 ソフトバンククリエイティブ
発行年月日 2011.10.28
価格(税別) 1,100円

● ディズニーランドの掃除が行き届いているというか,行き届くという水準を超えていることは,実際にディズニーランドに行ってみれば即座に了解できる。
 これについては,すでに多くの解説がなされているが,本書もそれにひとつを加えるもの。フィクション仕立てにしてあるので,サラサラと面白く読める。

● 著者は「アメリカのディズニーランドの初代カストーディアル・マネージャー,チャック・ボヤージン氏から2年間にわたり直接指導を受け」た。そのボヤージン氏の教えを紹介するという体裁で,3つの物語が語られる。最後に,自信とボヤージン氏とのエピソードを披露する。
 しかし,と思う。ディズニーランドの現場が本書のような色合いで染められているはずがない。現場のマネージャーや管理職は胃が痛くなるような思いをしょっちゅうしているに違いないと思う。そのあたりのことを書いた本がマーケットに出てこないのが,やや不満(あるのかもしれないが)。

● 「ダメだと思っても,信じる心を共有することで,限界を超せる時がある」とか「そうじは,パレードやアトラクションを演出するための,舞台作りなんだ」とか「夢は,あきらめなければ叶うんだよ」ってのを,素直にそうだと受けとめて,ずっとその心ばえを維持できる人がいるとしたら,凄い人だ。

● 巻末で「イノセンス」という言葉が紹介される。ウォルト・ディズニーの言葉らしい。
 「感動の源泉,それはイノセンス=純粋無垢にあるのだ」と。 この「イノセンス」こそが,ウォルトが宝物のようにしていたもの。そして,誰の心の中にもあるイノセンスさ,つまり子どもの心を呼び覚まし,交歓する場所としてディズニーランドを作ったのです。
 そうだよなぁ。「イノセンス」なんだろうね。ただね,幼児といえども「イノセンス」だけで生きているわけじゃないし,「イノセンス」だけでは生きられない。

● ディズニーランドは現実から逃避するための場所。ある種の人たちにとっては,あまりに居心地の良すぎる逃避先なんだろうな。ゆえに,ディズニーフリークってのが発生する。
 ぼくもまた,トータルで200回はTDRのゲートをくぐったはずだ。逃避ばかりしていたダメなヤツってことか。

2013年2月1日金曜日

2013.02.01 フジ子・ヘミング 『耳の中の記憶』


著者 フジ子・ヘミング
書名 耳の中の記憶
発行所 小学館
発行年月日 2004.06.20
価格(税別) 1,600円

● これも自分の過去を語ったもの。なので,内容的には他の著書との重複がある。すでに読んだことのある事柄だらけだから,ではつまらないかといえば,そんなことはない。
 2日前の夕食のメニューを思いだせないのと同様で,本の内容なんて読んだそばから忘れていくものだからね。

● カラヤンを偲んで「自分でつくった服を着て,自分で刺繍した手提げバッグを持ってカラヤンの演奏を聴きに行ったとき,彼はキラキラひかるスパンコールの刺繍をものすごく褒めてくれました。褒めてもらった刺繍入りのバッグはもう色褪せて,そしてバッグとしては使えなくなってしまったけれど,カラヤンに褒めてもらった思い出として,今でも額に入れて部屋の片隅に飾っているのです」(p77)と書いている。
 カラヤンも良いことをしたものだ。っていうか,当時のカラヤンであれば,褒め効果も相当なものであったに違いない。

● 「日本人は景気が悪い悪いと言っている割りには無駄遣いが多いのではないか」(p101)と苦言を呈している。まったくもってその通りで,早い話が貧乏人ほどガラクタに囲まれている,持たなくてもいいモノを持っている,という印象がありますね(わが家のことなんですが)。モノ洪水に溺れそうになっている貧乏人。
 最小限度のモノで生活しているのはホームレスの人たちだけで,彼らはいっそ潔い。

● ホームレス救済っていうと,ホームレスから抜けだせるように支援することだ。でもさ,ホームレスのままでやっていけるようにしてあげることってできないんだろうか。
 地下道で寝ているホームレスを追いだすとか,公園を生活の場にするのを許さないとか,そこを何とか緩められないかと思ったりもするんですけどね。
 自分と異なる存在や異形なるものに対して不寛容だ。存在を抹殺しようとする(いじめの根源は,ほぼここに集約されるのではあるまいか)。一方で,そうであればこその良さもあるんだろうけどさ。

● 日本では行政も変なところできめ細かいし,何だかんだいって相互に監視しあっているようなところがあるしね。他人に無関心でいるってことができないようだよね。他人に無関心でいることを通すって,けっこうエネルギーがいることだしさ。
 少なくとも,日本では行方不明になる自由はないからね。すぐに探されてしまう。
 って,まったく本書とは関係のない話になっちゃいましたけど。

2013.02.01 宇田川一美 『ちょいワザ文具術』


著者 宇田川一美
書名 ちょいワザ文具術
発行所 ポプラ社
発行年月日 2012.10.23
価格(税別) 1,000円

● 「毎日のシゴトがはかどるときめき★アイデア」が副題。百円ショップにある文具や台所用品を使った整理術の紹介,といった感じですかね。

● これはいいなと思ったのは,「手作りページストッパー」(p46)。リボンの両端に目玉クリップを結んで,開いた本のページをクリップで挟むという単純なもの。
 問題はふたつ。ページストッパーなんてそんなに使うものじゃないから,使わないときは机のひきだしにでも放り込んでおくことになるんだけど,けっこう邪魔だろな,これ。もうひとつは,やはり使わないときの姿がちょっと見苦しいだろうってことかなぁ。

● というわけで,実用書としてじゃなくて,ものの10分間で目を通せるから,気分転換を兼ねて発想の妙(あるいは,発想だおれの妙)を楽しめばよいと思う。


(追記 2013.02.10)

 ページストッパー,実際に試してみたんだけど,どうもうまくいかなかった。普通に事務用の丸文鎮(?)を2個買って,両方のページを押さえた方がいいみたい。