2013年4月30日火曜日

2013.04.26 森 博嗣 『科学的とはどういう意味か』


書名 科学的とはどういう意味か
著者 森 博嗣
発行所 幻冬舎新書
発行年月日 2011.06.30
価格(税別) 760円

● 先の東日本大震災で,多くの人たちが,マスコミが機能不全に陥っていることを痛感したのではないかと思う。自分たちがやるべきことを全然やれていないっていう。
 著者も容赦なく次のように指摘する。
 原発の放射能漏れの大事故では,TVの司会者やコメンテータが何度も「はっきりと示してほしい」と訴えていた。しかし,(観測数が充分とはいえないが)測定された数値は毎日示されているのだ。また,その数値がどんな危険を意味するのかも,秘密にされているわけではない。情報は公開されている。「はっきりと示してほしい」というのは,数字を頭に留めず,「ただちに健康に影響が出るレベルではない」という言葉を聞いているからだろうか。はっきり示すことは,むしろマスコミの仕事なのではないか。(p156)
● さらに,報道の受け手である大衆に対しても手厳しい。
 測定値をきちんと捉え,それによって各自が判断することが大事だし,それしかないのである。こんな事態になっても,数字から目を逸らし,「数字なんて当てにならない」と言う人がいるのだ。やはり科学を遠ざけることの「危険」を感じずにはいられなかった。(p157)
 ● 科学の本質は何か。著者は明解に次のように説く。
 科学とは「誰にでも再現ができるもの」である。また,この誰にでも再現できるというステップを踏むシステムこそが「科学的」という意味だ。 (中略) このように,科学というのは民主主義に類似した仕組みで成り立っている。この成り立ちだけを広義に「科学」と呼んでも良いくらいだ。(p75)
 他者によって現象が再現され,正しさが確認されるためには,情報が包み隠さず公開され,研究者どおしのコミュニケーションが重要である。そして,このコミュニケーションには,数字が不可欠となる。(p79)
● 世の中のオピニオン・リーダーは文系人間が多い。彼らがとんでもないことを平気で言う。著者は科学を擁護する。
 科学を目の敵のように言う人もいる。「科学ですべてが説明できるのか? そんなふうに思っているのは科学者の傲りだ」と。それは違う。科学者は,すべてが説明できることを願っているけれど,すべてがまだ説明できていないことを誰よりも知っている。どの範囲までがまあまあの精度で予測できるのかを知っているだけだ。しかし,科学で予測できないことが,ほかのもので予測できるわけではない。(p85)
 ● 「科学は人間の本当の幸せを奪っている」「科学が自然を破壊している張本人だ」「科学の発展とともに人間性が失われた」と,言葉だけで(科学に対して)反発・非難しようとする(p90)人がいる,と著者はいう。
 たしかにね,人文系の人にけっこういるよね,こういう人。大学生向けの哲学や倫理学の教科書的な本にも,わりとこの種のフレーズは出てくるんじゃないか。
 どうなんだろう,いまどき文学部哲学科から哲学者って出てくるんだろうか。自然科学の水準を知らないで,世界の成り立ちや起源,認識や思考について,考えを巡らすことが成立するんだろうか。いずれは,理学部哲学科ってのがあたりまえになる?

● 著者の次の指摘も心にとめておくべきでしょうね。
 大人は子供に対して,「無邪気に自然の中でのびのびと走り回ってほしい」というような偏ったイメージを抱きすぎているのではないか,と僕は感じる。(p183)
 著者がいうイメージは,いかにも子供と親和性が高いと思ってしまうんだけど,これは昔に子供時代を過ごしてきた大人のノスタルジーにすぎない? ぼくは「自然の中でのびのびと走り回っ」た子供では全然なかったけれども,それでも子供はかくあるべしと思い込まされているもんね。
 ひょっとして,大人が自分にそう望んでいるとわかっていて,それに沿うように子供が演じている,なんてこともあったりするのかねぇ。

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