2012年11月29日木曜日

2012.11.28 中川右介 『カラヤン帝国興亡史』


書名 カラヤン帝国興亡史
著者 中川右介
発行所 幻冬舎新書
発行年月日 2008.03.30
価格(税別) 820円

● 副題は「史上最高の指揮者の栄光と挫折」。カラヤンはベルリンフィル,ウィーン国立歌劇場,ザルツブルク音楽祭を押さえて,音楽界に君臨する。聴衆からも圧倒的な人気を獲得し,録音したレコードも出せば売れる状態。この人気において他の追随を許さない。したがって,レコードの制作・流通業界もまた,帝王カラヤンの意向を無視できない。
 が,諸行は常無しなのであって,栄誉栄華はいつかは消える。本書はその過程を描いたもの。

● 『カラヤンとフルトヴェングラー』同様,しごく面白い読みものに仕上がっている。もちろんノンフィクション。それでこれだけ面白くなるのは,第一に,カラヤンの人生が起伏に富み,エピソードに事欠かないからだ。
 第二は,その結末が滅びで終わること。諸行無常というぼくらが馴染んでいる展開にピッタリとはまるわけですよね。
 第三に,著者である中川さんの緻密な文献渉猟と筆力。

● 著者は「クラシックジャーナル」誌の編集長を務めているが,それだけではないらしい。他書(幻冬舎新書)の著者略歴によると,「クラシック音楽・歌舞伎を中心に,膨大な資料を収集し,比較対象作業から見逃されていた事実を再構築する独自のスタイルで精力的に執筆」「出版社「アルファベータ」代表取締役編集長として,音楽家の評伝,美術書,写真集,カメラ本,専門用語辞典,雑学本など約三百点を編集,出版している」とある。大量の仕事をしている人なんですな。
 活動力が旺盛なオタクというイメージを持つんだけど,その風貌と相まって,かの荒俣宏さんを連想させる。

● カラヤンとベルリンフィルの確執については,川口マーン惠美『証言・フルトヴェングラーかカラヤンか』(新潮選書)も面白い。フルトヴェングラーとカラヤンの両方を知っている数人の元団員を訪ね,インタビューしたものだ。
 しかし,この本を読んでも,結局のところはよくわからない。わからないのだ。当然といえば当然だ。要するに,人によってカラヤンに対する見方は違うから。

● カラヤンは懸命に生きた。最後まで全力疾走をやめなかった。その功罪はわからない。カラヤンがいなければ,他の誰かがカラヤンをしのぐ名盤を残せたかもしれない。語り継がれる伝説のコンサートやオペラが多数生まれていたかもしれない。
 しかし,毀誉褒貶の振り幅がどれだけ大きいかを,その人物の傑出度を測るモノサシのひとつとして使用することが認められるならば,間違いなくカラヤンは傑出していた。

● 著者も次のように書いている。
 二十世紀は共産主義と国家社会主義という二つの理想がとんでもない災厄をまきちらし,そのあげくに自滅した世紀だった。理想を持った政治家ほど危ない者はいない-その「理想」がどんな卑小なものでも,当人が「理想」と思い込んでいる限りは危険である。 カラヤンはその時代に生き,ひとつの「理想」の狂気を身近に感じたはずだ。 それもあって,カラヤンは「理想」を持つことを自ら禁じたのではないか。だが,「理想」を持っていると見せかけたほうが仕事はやりやすい。「帝王」と呼ばれることを黙認し,自らの権力志向を隠さなかったのも,仕事をしやすくするためだったのではないか。 「理想」は「野望」と言い換えてもいい。カラヤンには「野望」などもともとなかった。「権力」などどうでもよかった。「帝王」など,仮面に過ぎないのである。死んでまで,その仮面を被る必要はなかったので,彼は密葬と質素な墓を望んだのではないだろうか。 (中略)「理想」すらも軽蔑するのが,本当の芸術家であるという精神風土に,カラヤンは生きた。(p297)
 ● しかし,そうではないのかもしれない。「理想」実現のためにしゃにむに「権力」を欲したのかもしれない。最晩年にいたって,ようやくその空しさを悟っただけなのかもしれない。
 つまり,これはわからない。わかりようがない。
 著者はさらに「この俗なる人が,なぜかくも美しい音楽を引き出せたのか。俗を極めた人であったからこそ,聖に転じることができた。そう思えてならないのだ」(p298)と書いて結んでいるんだけど,これは少しまとめすぎのようにも思える。俗と聖は両立可能なのかもしれないしね。

● 最後にもうひとつ引用。
 カラヤンの映像作品は,音だけのレコード同様にライヴではなく,セッション録画されたものが多く,完成度は高いのかもしれないが,臨場感がなく,つまらないというのが定評である。しかし,そのなかにあって,この《英雄》(1982年5月1日の演奏。ベルリンフィルとの対立が決定的になっていた時期)は完全なライヴ収録であり,迫力のある演奏で知られている。百周年という記念公演であることと,指揮者とオーケストラが対立していたことなどの理由で,緊迫した演奏になったのであろう。仲がよいだけでは名演にならないという見本としても,後世に伝えられるべき名演である。(p255)

2012年11月28日水曜日

2012.11.27 中川右介 『カラヤンとフルトヴェングラー』


書名 カラヤンとフルトヴェングラー
著者 中川右介
発行所 幻冬舎新書
発行年月日 2007.01.30
価格(税別) 840円

● この本の副題を何と付けようか。ニーチェをパクって「人間的な,あまりに人間的な」としようか。それとも「愚かな,あまりに愚かな」がいいだろうか。

● まるで小説を読んでいるような面白さ。フルトヴェングラーとカラヤンにチェリビダッケを絡ませて,相互の確執をまるで見てきたかのように語る。
 もちろん,すべて史実に基づいたノンフィクションだが,そのときフルトヴェングラーはどう思ったか,カラヤンはどう考えたかについては,著者の推測が入る。それが臨場感をもたらす。

● フルトヴェングラーもカラヤンもナチスドイツの時代と戦後を生きた。時代や政治に翻弄される。凡人なら味わわなくてすんだはずのものだが,彼らの才能を政治が放っておいてくれなかった。
 フルトヴェングラーはカラヤンを嫌い抜く。しかし,カラヤンもやられるままにはならない。権謀術数を尽くして一方は勢力の拡大を図り,他方は生き残ろうとする。
 そうしたさなかでも,両者とも凄まじい量の仕事をこなしている。自分の版図を広げるためというより,音楽への忠誠心がそうさせるのだと考えると,予定調和的なきれい事に過ぎるだろうか。

● 本書の続編となる『カラヤン帝国興亡史』で,著者も次のように書いている。
 結果的にカラヤンは巨万の富を得たが,それは彼の真の目的ではなかった。彼にとっては,最高の音楽を演奏することが究極の目的であり,そのために,彼は権力を必要とした。 (中略)自ら音を出すわけではない指揮者は,最高のオーケストラと最高の歌劇場を手に入れなければ,理想の音楽に近づくことはできない。 (中略)そうしたポストは,しかし,天から降ってくるわけではない。自分で獲りにいかなければならない。カラヤンはそれをやった。(同書p10)
● それにしても。何と愚かなという思いが消えるわけではない。
 人の人生を,後生,大所高所から見てあれこれとあげつらうのはたやすいことだ。ぼくらはひとり残らず,愚かであることを免れないのかもしれない。何をしようと。あるいは,何もしなくても。
 それにしても。ここまでやる必要があったのか。そう思うことじたい,凡人の悲しさかもしれないけれど。
 この本を読んで,フルトヴェングラーもカラヤンも可愛いじゃないかと思えるようでありたいというのが理想だけどね。なかなかその境地には行けそうにないですね。

● 閑話休題。引用をひとつ。
 ベルリンを,すなわちドイツを代表するオーケストラであるベルリン・フィル管弦楽団が戦後第一回目の演奏会を開くのは,五月二十八日のことだった。敗戦からまだ一ヵ月もたっていない。ちなみに,日本においても,映画館は八月十五日から一週間は休館していたが,その後は営業を開始しているし,九月には日本交響楽団(現在のN響)の戦後第一回目の演奏会が開かれているので,「文化」というものは意外としたたかに生きているもののようである。(p132)
 気が晴れる話ではないですか。

2012年11月27日火曜日

2012.11.25 菅付雅信 『はじめての編集』


書名 はじめての編集
著者 菅付雅信
発行所 アルテスパブリッシング
発行年月日 2012.01.25
価格(税別) 1,800円

● 読みものとしても面白い。「池袋西武百貨店のコミュニティカレッジで2010年10月から2011年3月までの半年間,計12回に渡って行った「編集力講座」の講義録を元に大幅に加筆修正したもの」とのこと。元がコミュニティカレッジの講義録のゆえか,読みやすいんですな。

● ベタな教訓を含むけれども,以下にちょっと多めの引用。
 雑誌では、『メトロミニッツ』の羽田空港国際ターミナル特集「羽田なう。」で,篠山紀信さんに完成間近の国際ターミナルでLALとANAのキャビン・アテンダントを一緒に撮影してもらいました。実はこの永遠のライバルである2社のキャビン・アテンダントが一緒に撮影されることはまずないそうで,よそよそしい撮影現場になるのではと危惧していたのですが,そこは篠山さん,いやそういう難易度が高いからこその本領発揮。最初から彼女たちを乗りに乗せて,まるで以前から気心の知れた仲間であるかのような和気あいあいとした撮影になりました。篠山さんのテンションの高い撮影と,それにどんどん乗せられてますますキレイになるアテンダントの方たちを半日見ていて,「スッチー萌え」という気持ちが少しわかりました。(p76)
 編集者は上手く写真も撮れなければ,質の高い文章も書けず,デザインもできないわけです。つまり,何もできない人なんです。(中略) でも,自分ができないことには人一倍自覚的になることによって,自分よりも遙かに才能があるスペシャリストを見抜き,集め,彼らを指揮することで,何でもできる人でもあるのです。(p80)
 編集をする上で,まず言葉がしっかり固まらないと,なにを伝えるのか,どういう風に伝えるのかが揺らいでしまいます。言葉にすると自分の考えが対象化されます。言葉がなかなか決まらない時は,考えがうまくまとまっていない時です。(p83)
 「美しく正しい文章なんて,退屈で眠たくなるだけです。そんなものはシロウトにまかせておけばいい。プロは客を退屈させてはいけません」と永江(朗)さんは(中略)言います。(p90)
 文章力はきちんと鍛錬を積むことで上達します。一般論になりますが,いいライターや作家,コピーライターを見ていて思うのは,文章力は読書量に比例するということです。彼らは例外なく読書家です。良い文章を書こうと思うなら,読書の質を保つことが肝心だと思います。(p116)
 僕は今までに内外数百人のクリエイターにインタビューをして,世間から「天才」と呼ばれる人たちからもたくさんの話を聞いてきましたが,その経験を通してひとつだけ確信をもって言えることがあります。 それは「この世に生まれつきの天才はいない」ということです。皆,すさまじく勉強し,努力し,他人とコラボレーションし,時には野蛮なまでに他人のアイデアを取ってきています。それが天才の実情なのです。(p122)
 イメージをつくるにはイメージのアーカイヴ(書庫,保管所)をつくることが大事です。天才と言われている人たちがすばらしいイメージを創り出せるのは,頭の中に豊かなアーカイヴを持っているからなんです。(p124)
 僕がイメージをつくる上で常に意識するのは,なるべく砂糖を入れないということです。(中略)イメージにおける砂糖の代表とは,僕が思うに「笑顔」「子供」「動物」です。このどれかを入れるだけで,簡単にハッピーな印象を与えることができ,多くの人に受け入れられるものになります。(中略)誰がどのメディアで発表しても,ある程度好感を得ることができる素材なのです。そこに独創性はあまりありません。(p156)
 編集は,そこに含まれた言葉やイメージ単体を伝えるのではないのです。それらをひとつにまとめあげる編集の形式そのものにメッセージ性があり,その形式を自覚して上手く操ることができれば,そのメッセージは飛躍的に強く受け手を触発できるのです。それが編集の醍醐味です。(p164)

2012年11月25日日曜日

2012.11.24 岡田斗司夫・福井健策 『なんでコンテンツにカネを払うのさ?』


書名 なんでコンテンツにカネを払うのさ?
著者 岡田斗司夫・福井健策
発行所 阪急コミュニケーションズ
発行年月日 2011.12.07
価格(税別) 1,400円

● 副題は「デジタル時代のぼくらの著作権入門」。前半はその著作権の「現状と課題」的な話。
 しかし,本書の白眉は後半にある。岡田さんが自分のビジョンを展開する。これが面白い。

● 現行の著作権制度を維持するのは無理というのが,岡田さんの出発点。まず,「ユーザーが求めているのはコンテンツではない」(p112)と。
 では何かといえば,「お金を払う対象は,崇拝の対象となる人自身です」(p114)ということ。その人が産みだすコンテンツではなく,その人自身なのだ,と。

● それを受けて福井さんも言う。「ライブの売り上げがまったく落ちなかったのは,デジタルで代替できないから」(p119)だ。
 「ライブイベントの関係者に「どうやって稼いでいるの?」と尋ねると,入場料自体の収支は武道館のワンデーがフルハウスでやっとトントンというところで,大したことはない。(中略)じゃあ,何で収益を上げるのかといえば,大きいのはタオルなどのグッズなんですよ」(p119)ということ。
 では,なぜライブの観客がグッズを買うのかといえば,「臨在感を買おうとしているから」(p120)だ,と。

● 岡田さんは「コンテンツで食えるクリエイターは「世界で」1,000人が限度じゃないか」(p155)と大胆なことを言う。
 さらに「僕らが救うべきは,食うや食わずで創作を行っている貧乏なクリエイターではなく,無料で作品を作っているプチクリエイターなんですよ。こうしたクリエイターこそが,文化の多様性を生み出す最大多数です」(p157)とつないでいく。
 このあたりはスリリングといっていいほどに面白い。

2012年11月24日土曜日

2012.11.23 夏目房之介 『本デアル』


書名 本デアル
著者 夏目房之介
発行所 毎日新聞社
発行年月日 2009.05.30
価格(税別) 1,700円

● 書評を編んで一冊にしたもの。一番面白かったのは冒頭の「序 遅読王のため息」。
 問題は,読みたい本はたくさんあるのに,それ以上に読まねばならない本が増えてきたことだ。(中略) でも,事実上無理である。何しろ元が「遅読の王」なのだ。ではどうするか。 どうしようもないのだ。
● こうんなふうに,読者を救済しておいて,内容はけっこう硬派。ぼくにとっては読みごたえがあった。ありすぎたかも。

● 引用をふたつ。まず,『なぜ,御用聞きビジネスが伸びているのか』(ダイヤモンド社)の藤沢久美さんについて。
 日本初の投資信託評価会社を起業した著者だが,彼女に会った印象は,キレる人,デキる女性という感じではない。むしろ,ごく普通の女性である。少なくとも僕の感じたかぎりではそうだし,本人もそういっていた。彼女だけではなく,女性の起業家を取材していると,けっこうそう感じる。ちょっと頑張り屋だが,特別な才能,特殊な育ちとかではないのだ。(p208)
● 『ラッキーウーマン』(飛鳥新社)の竹中ナミさんについて。
 女優,漫才師,マンガ家,水商売を目指し,どれも中途半端のまま十五歳で同棲。高校中退で結婚。二十二歳で母となり,その二年後に生んだ娘は重度脳障害だった。ここから著者の破天荒な苦闘と活躍が始まる。一方で悲惨で,片方で痛快な人生講談。(p223)
 陽性な活力に支えられたシンプルさが必要なのかもしれない。彼女の本を読むと,とにかくあきらめずに明るく進んでゆくと,お金も人材も協力も,それなりについてくるかのように見える。(p224)

2012.11.23 暮しの手帖社編 『花森安治のデザイン』


書名 花森安治のデザイン
編者 暮しの手帖社
発行所 暮しの手帖社
発行年月日 2011.12.19
価格(税別) 2,200円

● こんなエピソードが披露される。
 シャッター直前に,セットした位置を,部員が誤ってずらしてしまったことがある。花森は怒らず,元に戻すことはせず,全てを取り払って,真っ白の状態から配置し直した。(p44)
 こういう上司がいたら,胃が痛くなるほどピリピリしてなきゃいけないね。ものを作るってのは,そういうことなんだろうけどさ。

● 「暮しの手帖」の表紙も花森さんがデザインしてたんですな。絵も自分で描き,写真も自分で撮っていた。もちろん,取材もすれば記事も書く。そのうえで,前代未聞の広告なしの雑誌を売る。とんでもない人だ。
 いつも思うんだけど,こういう怪物とぼくのようなその他大勢との違いってどこから来るんだろうねぇ。

● その表紙をすべて並べてみると,さすがに圧巻。当然ながら,これは花森さんの作品集であって,美術書を残せるほどの仕事を彼はしていたってこと。
 花森さんって,スカートをはく男ってイメージで,奇人変人としか思っていなかった自分の不明をいまさら恥じるしかない。女性を描いた絵の表紙がいくつも続く。彼は女性の感性を持っていた男っぽい人だったのかもしれない。

● 「暮しの手帖」の創刊は1948年。戦後の混乱期にこの雑誌は華やかにハイカラに映ったろうねぇ。同時に,この雑誌を買えたのはアッパークラスに限られたはずだ。都会のほんの一部の人たち。田舎人(当時は日本のほとんどが田舎だった)には縁のないものだった。
 ぼくらが普通に雑誌を買えるようになったのはいつ頃だったろう。戦後(高度成長以後ってことになるね)の大衆化に思いを馳せることになる。いろいろ言われるけれど,昭和30年代からの高度成長って,たいしたものだったんだなぁって。

2012年11月22日木曜日

2012.11.22 日本経済新聞出版社編 『達人たちの日経術』


書名 達人たちの日経術
編者 日本経済新聞出版社
発行所 日本経済新聞出版社
発行年月日 2012.10.25
価格(税別) 1,000円

● 日本経済新聞をどう活用しているのか。各界の著名人(とは限らないが)にインタビューしてまとめたもの。

● 日経っていうと,セレブというか知的な人が読む新聞っていうイメージあり。ぼくも定期購読していた時期がある。
 が,かつて,勤務先でいくつかの雑誌からアンケートを受け取ったことがあった。それを元に記事を仕立てるわけだが,実際に仕立てられた記事を読むと,なんとまぁ安直な,と思ってしまうわけなんですね。返ってきたアンケート回答をそのまままとめただけの記事。この種の記事って信用しちゃいけないんだな,と。
 だって,答える側がきちんと答えているなんて保証はないじゃないですか。文章で答えさせる設問もあるので,そこは回答者が回答に協力的かどうかに温度差があって,それが回答に反映されるのは当然のことだ。それをそのまま記事にしていいのかね。ま,忙しいんだろうけどさ。

● その中で日経系の某誌のアンケートが特にひどかった。アンケートの作り方も雑だし,答えないで放っておいてやったら,横柄極まる口のきき方で電話をかけてきた。なぜ出さないのか,と。取材先に義務を課したつもりでいるかのようでしたな。電話をかけてきたのは下請けの記者かもしれないんだけど。ま,回答は返しておきましたけどね。
 以来,日経新聞と日経系の雑誌は一切読まないと思い決めて,今日に至っている(ただ,単行本は日経刊のも拒まず)。

● ところがね,今では新聞を取ることじたいをやめているんですよ。それで困ることは特にない。
 ニュースを知りたければ,Googleの「ニュース」を見ればいい。本書の中で竹中平蔵さんが「ファクトを知るだけならインターネットのニュースで十分ですが,日経はファクトに加え,分析をしっかりと書いているところが最大の魅力だと思います」(p38)と仰っておられるんだけども,分析まではしてくれなくてもいいかな,と。
 折りこみチラシもネットチラシで代用できる。そのうえ,ゴミの量が大きく減った。所在ないときに新聞を取りあげてボーッと読むってこともなくなった。その代わり,ネットを見るとはなしに見ているわけだけどね。

● この本を読んでも,では日経を読んでみようかとは,ぼくは思わなかった。

2012年11月21日水曜日

2012.11.21 小田嶋 隆 『地雷を踏む勇気』


書名 地雷を踏む勇気
著者 小田嶋 隆
発行所 技術評論社
発行年月日 2011.12.01
価格(税別) 1,480円

● 『もっと地雷を踏む勇気』が面白かったので,手順前後になるんだけど,本書も読んでみた。もっと早い時期に読みたかったんだけど,そこがなかなか。
 「地雷を踏む勇気」というタイトルを付けたことについて,著者は「まえがき」で次のように述べている。
 コラムニストにとって,時事ネタは時に地雷になる。時間軸に沿ってその意味を変える主題は原稿の賞味期限を短くするものだし,政治的な話題を扱うためには,文章上の技巧を云々する以前に,結果を顧みない思慮の浅さみたいなものが必要だからだ。
 覚悟の表明といっていいのだろう。

● この本で菅内閣時代の「復興構想会議」の「提言」を(もちろんほんの一部だが)初めて読むことになった。なるほど,これはひどい。どんなふうにひどいのかは「提言」本体を読めばわかるが,さすがにそれを読み通せる人は稀だろうから,本書を読んでもらうのが一番いいかもしれない。

● 著者ならではの切り口と切り方の鮮やかさを味わえばいいのでしょうね。いくつか引用。まずは,三陸に伝えられる「てんでんこ」の教えについて。
 三陸の人びとは,「老幼の者を助けようとして一家共倒れに」なったり「家族をさがしているうちに逃げ遅れ」たり,「点呼を取っている間に津波に呑まれ」たりしてきた苦い経験から,緊急時にあっては,とにかく「個人の判断と責任において,一刻も早く逃げる」という方針を徹底してきたというのだ。 より詳しい解説をする人は,「てんでんこ」は,「たった一人でも生きていかねばならない」という決意および,「家族やまわりの者を助けきれなかった者(自分も)を責めてはならない」という事後の心構えも含んでいるのだという。 で,この「てんでんこ」の教えが,結果として,大船渡や釜石で,その教えに沿った避難訓練を繰り返してきた子供たちを,津波の被害から救うことになった,と,そういう話だ。 印象的なエピソードだ。 なにより実践的である点が素晴らしい。避難訓練というと,「一糸乱れず」に,「全員が一致」して「整然と」避難する過程をイメージしがちだが,実体験から来る知恵は,訓練のための訓練とは発想の根本が違っている。 非常時にあって,決断を他人に委ねたり,周囲の状況に安易に同調することは,命取りになりかねない。普段から,自分の状況に合った避難の方法と経路を,自分のアタマで考えられるようにしておかねばならない。そういうことなのであろう。(p151)
● 次は,風評被害に対する政府対応について小田嶋さんが述べていること。
 買う側の論理(というよりも「感覚」だが)からすると,ハエがとまったケーキの商品価値はとりあえずゼロとして扱わざるを得ない。 「科学的」に考えれば,ハエが接触した部分を素早く除去すれば,害は無いのかもしれない。 でも,一瞬でも,たとえばほんの一部でも,ハエがとまったケーキは,市井のスイーツ愛好者にとっては,商品価値を失う。商品価値というのは,そもそもそういう性質のものなのだ。 「実害のないものを恐れる態度は,間違った情報にまどわされる愚民の反応だ」 と,科学的に真であること以外を信じない冷静で冷徹で怜悧で賢明な有識者は,放射能が検出されたイカナゴのいた漁場から50キロのところで捕れた魚であっても,有害なレベルの放射能が検出されていないのであれば,まったく恐れることなく食べるのであろう。 庶民は違う。食べない。理由は,「なんとなく気持ちが悪い」からだ。 食べ物の商品価値は,この「なんとなく」といったあたりの弁別不能な思い込みを根拠に生成されるところの,多分に感覚的な関数のようなものだ。農水省が発表する数値に基づいて算出される科学的なデータではない。であるから,たとえば,たったの5%でも不安があれば,食品の価値は,ほぼ100%失われる。(p163)
● 生産と消費と娯楽について。
 私たちの生活は,つまるところ,生産的な労働を通じて得た収入を,非生産的な娯楽に振り向ける過程でもあるわけだからだ。「生産的」と「非生産的」を「健全」と「不健全」に置き換えてもよい。いずれにせよ,われわれは,無駄を省くために生きているわけではない。 われわれは,働く活力を取り戻すために,余暇時間を持っているのではない。順序が逆だ。むしろわれわれは,余暇時間を安逸無為に過ごすに足る収入を確保するために,余儀なく生産に従事している。もし人々が生産だけに血道をあげて,消費を排除したら,世界は動かなくなる。(p177)
 あらゆる娯楽は-旅行も,スポーツも,ギャンブルも酒も-ある臨界点を超えると,単純なレクリエーションとは質の違う,厄介な段階に到達する。(中略) 再開日にディズニーランドに駆けつけた人妻の歓喜の様子が,見る者に居心地の悪い感慨をもたらしたのは,彼女が自粛していなかったからではなくて,彼女の渇仰の対象があまりにも資本主義的だったからなのだと思う。 平凡な結論だが,なにごとも適度に取り組むのが一番なのだと思う。 もっとも,適度というのは,実は,非常に困難なミッションだ。(p181)
● 「より高カロリーな食品をできる限りたくさん摂取して,それでも太らないためにジムに通うみたいな生活が最高で,その生活を支えるべく,睡眠時間を削って大車輪で働くことが,より実り多い人生の秘訣である」(p173)という表現が出てくる。もちろん,世間(の一部の人たち)を揶揄する言い方だけれども,巧いなぁと思いますね。
 この種の愚は,自分もけっこうやってしまっているかもしれない。一度,精査した方がいいかもな。

2012年11月20日火曜日

2012.11.20 和田秀樹 『人は「感情」から老化する』


書名 人は「感情」から老化する
著者 和田秀樹
発行所 祥伝社新書
発行年月日 2006.11.05
価格(税別) 740円

● 副題は「前頭葉の若さを保つ習慣術」。本書の結論は次の一文にある。
 「年を取ったから,ひっそりと地味に暮らそう」と自己規制してしまうのは,老化を促進してしまう。「もう年なのにいつまでも遊び歩いて」と顰蹙を買うくらいの「不良老人」こそが,若々しさを保つ秘訣だ(p40)
 老人はかくあるべしと期待される老人像に縛られないことですな。若者はかくあるべし,中高年はかくあるべし,父親はかくあるべし。そういったものはことごとく吹っ飛ばせってこと。
 が,老人になるまでずっとそうしたものを自己標準に据えてきた人が,老人になってからそれを変えられるとも思えない。
 老人になる前から心がけておかないといけない。心がけるだけではなくて,小さくとも実行に移していないといけない。
 だから,本書は中年が読むべきものだ。

● 具体的な教訓になる引用3つ。
 「落ち込んだときは反省しない」という習慣が大切になる。落ち込んだときは,自分の悪いところばかりが目につくに決まっているから,そんなとき反省したら,ますます落ち込むという「悪循環」に陥るに決まっているのだ。(p81)
 のんびりと心静かな人は,一見,老成しているようにも見える。しかしその実,EQが高くて感情が若いのだ。事態が変化したときに慌てないのは,心がフレキシブルな証拠である。(p103)
 いたずらに自立を目指して,何でも自分で解決しようとすると「自分は自立できないからダメなんだ」と悩みがちだ。それよりも,頼るべきときには頼り,上手に甘える。「成熟した依存」を目指したほうがいい。怒っているのに誰も聞いてくれる人がいないから,いちばん弱いところに当たり散らしてしまったりするのだ。(p130)

2012.11.19 中川右介 『常識として知っておきたいクラシック音楽50』


書名 常識として知っておきたいクラシック音楽50
著者 中川右介
発行所 KAWADE夢新書
発行年月日 2004.07.01
価格(税別) 720円

● クラシック音楽はわりと聴いている方。数少ないというか,ほとんど唯一の趣味が,クラシック音楽のコンサートに出かけていくことだ。
 が,クラシック音楽について知るところは,きわめて少ない。本書が紹介している「常識として知っておきたい」楽曲の中でも聴いたことがないものもけっこうあるしね。

● 「はじめに」で,「クラシックだけが「難解」「堅苦しい」イメージになっている。なぜだろう。その答えは,クラシックと最初に出会うのが,勉強の場,学校だからだ。そして,ほとんどの人が,微分積分でわけがわからなくなり数学嫌いになるように,音楽の授業で強制的に聴かされ,「クラシック嫌い」になって卒業するからだろう」と分析する。
 夏休みの宿題に読書感想文を課すことが読書嫌いを作っているのと同様だ。
 ただね,ぼくがポツポツと音楽を聴き始めたのははるか昔で記憶もおぼろなんだけど,学校で聴いた中からとっかかりを得たように思うんですよね。音楽の授業って,功罪でいえば罪の方が多いかもしれないけれども,罪ばかりでもないかもしれないね。

● そうだったのかと目から鱗が落ちたのは,次の記述。
 オペラに序曲が必要になったのは遅刻してくる人のためだ。いつの時代,どの国の,どの劇場でも,遅刻する人はいる。しかし,遅刻する人がいるからといって,すでに席についている人を待たせるのも失礼だ,というわけで,序曲が考え出された。本編を始めるまでに一〇分くらい,序曲を演奏しておけば,すでに席についているお客さんも退屈しないし,遅刻する人も物語の最初から見ることができる。(p87)
 言われてみるとストンと納得できる。オペラの序曲って工夫の産物だったんだねぇ。

● 「クラシックで商売として成功するには,女性客をつかめる容姿の音楽家でなければならず,その条件に合うのは,モーツァルトとショパンしかいない」(p166)というのも,そうだよなぁと思わされる。「容姿」っていろんなところでモノを言うんだよなぁ。

● 著者は「クラシックジャーナル」誌の編集長。ゆえに,文章が読みやすい。クラシック音楽についてたくさんの啓蒙書を出しているので,引き続き,いくつか読んでいきたい。
 ちなみに,こういう本を書くくらいだから,勉強もハンパなくしているだろうし,CDも聴きこんでいる様子。なまじな専門家よりも蓄積が多いし,専門家のように下手で固い文章は書かないでくれるからね。こういう人がいてくれるって,音楽界にとってもありがたいことなのではあるまいか。

● どのCDを聴けばよいか。著者は基本的にカラヤンを推奨。理由は「はじめに」で次のように述べられている。
 交響曲や協奏曲などオーケストラによる曲は,基本的には,カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のものを聴けばいい,というのが基本方針だ。その理由は,カラヤンほどレパートリーが広く,多くの曲を録音している指揮者はいないからだ。(中略) だが,覚えておいてほしい。カラヤンは,クラシックの「通」を自任する人々からは,ばかにされている。カラヤンを否定するところから,真のクラシック道が始まるといってもいい。しかし,否定するにも,まず聴かなければ始まらない。
● ぼく個人は何でもいいという意見なんだけどね。そんなものは偶然に任せればいい。
 だいたいさ,細かいこだわりをあれこれと開陳する人がいるけどさ,おまえ,ホントにわかってんのかよ,って思うもん。
 マーケットに流通しているCDであれば,それほどひどいものはないとリスペクトしていいのじゃなかろうか。あとは聴いていくうちに自ずと自分のスタイルができてくる。
 人の意見を聞いて右往左往するほど愚かなことはない。入口をくぐるときに定盤を気にするなんてのは,愚の骨頂。
 ゆえに,基本的にカラヤンでいいという著者の意見にはシンパシーを感じる。わからなければ(入門の段階でわかる人はいないはずだが)カラヤンと決めてしまうのは,大いにこれあり。

2012年11月19日月曜日

2012.11.17 藤沢秀行 『野垂れ死に』


書名 野垂れ死に
著者 藤沢秀行
発行所 新潮新書
発行年月日 2005.04.20
価格(税別) 680円

● ぼくは碁を打たない。ルールも知らない。が,藤沢秀行という名前は知っている。
 碁界第一のタイトルである棋聖位を連続6期保持して名誉棋聖の称号を得ていること。
 競輪競馬で3億円もの借金を作り,しかもその筋の者から借りて,修羅場を味わったこと。しかし,その借金を完済したこと。
 酒浸りでほとんどアル中だったこと。禁断の四文字言葉を連呼し,警察のご厄介になったこと数知れず。
 家に帰らず,複数の愛人との間に子をもうけたこと。
 書をよくし,何度も個展をひらいたこと。
 門弟が列をなし,韓国,中国にも教えに出向き,かの国の囲碁水準を飛躍的に高めたこと。
 日本棋院の言うことをきかず,一時は棋院を脱退したこと。

● 要するに,奔放に生きた人。奥さんや家族はたまらなかったでしょうね。普通はそこでブレーキがきくものだと思うんだけど,それでは普通の人。奔放には生きられない人なのでしょうね。
 奥さんが彼を見捨てなかった。最大の不思議はここにある。ここまでの無軌道を受け容れたのはなぜか。もし,奥さんが見捨てていれば,秀行さんのここまでの鮮やかさはなかったはずだ。
 秀行さんは状況にも恵まれたんですな。あるいは,恵まれた状況を彼は引き寄せたのかもしれない。それだけの何かを持っていたのだと考えるしかないね。

● 奔放に生きれば,そのツケを払わなければならない。秀行さんは必死こいてそのツケを払ってきた。だから,彼の生涯は物語になる。
 くれぐれも彼の真似をしようとしちゃダメだよね。真似したいと思う人はいないだろうけど。

● 彼が無軌道路線に入ったのは30歳を過ぎてから。それまでは真面目の塊だった。しかも,ギャンブルや酒にのめりこんだ後も,中心は碁で,この軸がゆらぐことはなかった。彼の言葉を聞いてみる。
 強くなればなるほど,私には少しずつ碁の難しさ、奥行きの深さが見えてきて,以前にも増して碁のことで始終頭がいっぱいになった。(中略) 石を並べる,考える,わからない。それを繰り返し、頭がどうにかなりそうなくらい考えた。(p47)
 私の勉強の仕方は,とにかく自分の頭で考え抜く方法だった。定石を覚えたり,人に教わったりはほとんどしない。自分の棋譜はもとより,先輩方や仲間,果ては昔の名人の譜を片っ端から並べてみる。 なぜその石が打たれたのか,ほかに手はないのか,一手一手を吟味しながら,よりよい形,面白い形を考えていく。勝負どころを的確にとらえる努力をし,局面の動かし方を工夫する。(p89)
● つまり,根は真面目一方の人。真面目というか一途なのでしょう。
 世間の人はどう思っているのか知らないが,私は自分でも息が詰まるくらい,真面目な男なのである。(p45)
 私のように,自分の神経に参ってしまうような類の男には,どうしても酒が欠かせないものなのだ。 世間の人は,私を評して「豪放磊落」なんて言うけれども,それは過大評価で,一見そう思われるのは,神経が細かすぎて,それに自分で我慢しきれなくなって,暴走してしまうことが多かったせいと思う。 「豪放磊落」どころか「繊細暴走」なのである。 そういう私にとって,酒は,必要欠くべからざる“安定剤”だった。 酒さえ飲まなければもっと大きな仕事ができたのではないか---私の生き方を見てそう思われる方がいるとしたら,私はこう反論したい。 酒があったからこそ,われだけの碁が打てたのです,と。(p81)
● 秀行さんの人生哲学をいくつか。
  よく学びよく遊べ,という言葉は本当だと思う。人間というものは,人一倍勉強したり働いたりするためには,人一倍の精神の遊びが必要なようだ。集中の度合いが激しければ激しいほど,開放や発散も思い切ってしなければバランスが悪くなってしまう。 (中略)そこに,競輪や競馬という面白い博打があった。美味い酒があった。そういうことである。(p47)
 だいたい,たいしたことのないヤツに限って,わかったような顔をして,もっともらしいことを言う。(中略) 私は,そういう安易な不惑野郎に対しては,全力で完膚なきまでに負かしてやり,力量の違いを思い知らせることにしている。 わからない,ということがわかるためには,よほどの勉強が必要なのだ。(p87)
 穴があったら入りたいほど恥ずかしくなるのは,「勝ちたい」という自分のだらしなさが感じられるときだ。碁は正直だから,ある譜全体やある一手に,それは如実に表れる。隠すことができない。 碁打ちの多くは,「勝つことがすべて」と考えているようだが,私は違う。 勝ち負けは,後から自然についてくるものではないか。勝ち負けにこだわって縮こまっていてはいけない。 こだわるべきなのは,自分にしか打てない碁を打つことなのだ。 碁には,恐ろしいほど,人物が出る。個性,生き方,碁に対する姿勢など,その人のすべてが凝縮されて盤面に表れてしまう。それが譜となって後世に残るのだから,一局一局の勝った負けたで騒いでいる場合ではない。(p90)
 棋譜は私の作品なのである。 芸のレベルを高めるためには,碁の修行だけではダメだとも思った。人間自体のレベルやスケールをアップしなくては,芸は育たない。 もともと私は,中国や日本の歴史小説が大好きだが,それらの読書も,酒に呑まれて自分を解放することも,競輪でしびれる勝負に没頭することも,自分の生活のすべてがトータルに芸に関わってくる,と覚悟していた。(p92)
● にしても,秀行さんの人生にもし碁がなかったら。彼はどんな人生を歩んだのだろう。のめりこむ対象がなければ,バランスをとるために反対側にのめりこむこともない。普通の人生を送ったのだろうか。
 それとも,碁に代わる何物かを見つけて,はやり壮絶な人生を送ることになったのだろうか。

2012.11.17 小沢昭一 『川柳うきよ鏡』


書名 川柳うきよ鏡
著者 小沢昭一
発行所 新潮新書
発行年月日 2004.04.15
価格(税別) 680円

● 「小説新潮」の連載をまとめたもの。「小説新潮」の川柳欄に読者から投稿を募り,小沢さんが選者となって選んだものに,小沢さんの選評というか解説というか口上を加えての連載。
 1994(平成6)年からの10年分の連載を集めているので,だいぶ昔のようでもあり,ついこの間のようでもあるが,懐かしい事象が川柳の対象になっている。

● 政治ネタを川柳にするのは難しいらしい。新聞などマスコミ報道そのままのが多いと,何度か小沢さんが苦言を呈している。独自の視点からヒネリを加えてください,と。
 「茶の間の正義」で憤るだけでは川柳にならないのはわかるけど(思考停止だからね),実作するのは難しそうだな。

● 川柳で気楽に楽しめると思ってたんだけど,これだけまとめて読むとけっこう疲れるものですね。

2012年11月17日土曜日

2012.11.16 清野恵里子 『樋口可南子のいいものを,すこし。その2』


書名 樋口可南子のいいものを,すこし。その2
著者 清野恵里子
    浅井佳代子(写真)
発行所 集英社
発行年月日 2011.12.06
価格(税別) 1,800円

● 続編の本書は5つの章立て。紹介している個人,お店は次のとおり。

1 作るということ
  伊藤佐智子 ファッションクリエイター
  髙野雅子 ファッションクリエイター
  西田信子(東京・渋谷) 革バッグ制作
  村田 森(京都) 陶芸家
  戸田敏夫(東京・根岸) 江戸指物師
  「山田松香木店」(京都) お香
  「カガミクリスタル」(茨城・竜ヶ崎) クリスタル製品
  「福永紙工」(東京・立川市) 紙工作

2 食をめぐって
  「パパ・アントニオ」(東京・渋谷) イタリアン
  「パーラー・ローレル」(東京・世田谷) 洋菓子
  「エストパニス」(東京・田園調布) パン
  「凡味」(東京・人形町) 梅の甘煮
  「鮒佐」(東京・浅草橋) 牛蒡の佃煮

3 懐かしい時間
  東京タワー
  都電荒川線

4 美を訪ねる
  古美術店「ロンドンギャラリー」(東京・六本木)
  原美術館(東京・品川)
  黒田記念館(東京・上野)
  高麗美術館(京都)
  杉本歌子邸(京都)
  三溪園(横浜)
  銀座「和光」

5 旅の空,出会いの喜び
  琵琶湖
  ソウル,瑞山

● ここに登場するのは,ぼくには苦手の分野。まず,語彙がわからない。ここに登場する品々を与えられても,ぼくにはその良さはわかるまい。
 自分が野人であることを認識するために読んだようなもの。

2012.11.15 清野恵里子 『樋口可南子のいいものを,すこし。』


書名 樋口可南子のいいものを,すこし。
著者 清野恵里子
    浅井佳代子(写真)
発行所 集英社
発行年月日 2009.10.10
価格(税別) 1,800円

● どうしたって文章よりも写真の方に目が行く。素材がいいうえに,メイクさんやスタイリストさんやプロのカメラマンが同行しての取材だから,できあがりは素晴らしい。
 ひょっとすると,取材を受けた相手方の中には,歓迎はできないけれど仕方がないかと思ってる人もいるかもしれない。のだが,写真からうかがえる樋口可南子はそれらの風景の中にしっとりと溶けこんでいる。

● 章立ては5つ。取材先は次のとおり(目次をうつしているようなものだが)。

1 エレガンスということ
 「MUNI」(岡山・倉敷) チャイニーズ・ラグ
 平田暁夫(東京・西麻布) 帽子
 「エクラン」(京都) ボタン
 岩立広子(東京・自由が丘) インド染織品
 
2 手仕事の周辺
 「ない藤」(京都) スリッパ
 「ダニアジャパン」(岡山・児島) ジーンズ
 「大倉陶園」(横浜) 洋器
 川真田克實(滋賀・大津) 和器
 「榛原」(東京・日本橋) 和紙
 「清課堂」(京都) 金工品
 前川秀樹(茨城・土浦) 造形作家
 森山寛二郎(福岡・小石原) 陶器

3 時のかたち
 遠山邸(埼玉・比企郡)
 「堀商店」(東京・新橋)
 茶房「李白」(東京・世田谷)
 東京国立博物館(東京・上野)

4 おいしいひととき
 「トレプチ」(東京・小金井) 焼き菓子
 「嘯月」(京都) きんとん
 神田須田町界隈

5 旅のむこうに
  酒田と鶴岡
  吉野
  京都伏見

2012年11月14日水曜日

2012.11.14 福島文二郎 『9割がバイトでも最高のスタッフが育つ ディズニーの教え方』


書名 9割がバイトでも最高のスタッフが育つ ディズニーの教え方
著者 福島文二郎
発行所 中経出版
発行年月日 2010.11.25
価格(税別) 1,300円

● 「PROLOGUE」でリッツカールトンとディズニーを対比している。リッツカールトンの「従業員採用の特長は,会社の考え方に同調できない人はもちろん,サービス業に向いていないと判断した人は,絶対に採用しないということ」なのに対して,「ディズニーは「ウエルカム」,つまりアルバイト採用に応募してきた人は,基本的に全員採用する方向で対応してい」るということだ。「ディズニーには「人は経験で変わる・育つ」という考え方があ」るからだ,と。
 その育て方を本書で説いているわけだが,採用数がぜんぜん違うし,仕事の内容も違うから,ディズニーのやり方をリッツカールトンに適用してもうまくいくかどうか。

● 「人は,相手が最善を尽くす姿に心を打たれるものです」(p101)とはしばしば言われることだけれども,本当にそうだと思う。たいていの人はそのことをわかっている。なぜなら,自分に最善を尽くしてくれた人に心を打たれた経験を,一度くらいはしているからだ。
 しかし,相手に最善を尽くすことができる人とできない人がいる。

● 「よい職場には笑顔が根づいています。笑顔の多い職場ほど人間関係も良好です。社員の仕事に対するモチベーションが高いことはいうまでもありません」(p162)
 そうなんだよね。ひっきょう,ここに集約されるかもしれないですよね。だいぶ前から部下のメンタルヘルスに注意することが,上司の仕事のひとつの柱になっていると思うんだけど,職場の雰囲気がギスギスしていたりよそよそしかったりしてたんじゃ,メンタルヘルス対策をいくら打ちだしてみたって,ザルで水を救うようなものだ。
 喧嘩や言い争いがあるのはいいけれども,それぞれがそれぞれに対して無関心ってのは,ウツの温床になる。

● 今のサラリーマンって昔より余裕がなくなっていると思う。仕事が増えている。管理がきつくなっている。きつくなること自体はいいとしても,意味のないきつさってのは,けっこうコタえるよね。出張旅費を早く精算しろって言われるのはいいけれども,稟議書のテニオハについて呼びつけられて,アーダコーダと言われると,時間を返せと言いたくなるものな。気がついたのならおまえが直しておけ。
 ま,管理のし方,され方がきめ細かくなっている。これが余裕を奪っている第一の元凶だと,ぼくなんぞは思っている。

● 職場環境の変化もある。一番大きいのはパソコンが一人に一台配置されたことだね。これで前後左右の人たちとの言葉のやりとりがだいぶ減ったと思うぞ。
 それに見合うだけのメリットがパソコン(+イントラネット)にあるのかどうか。端末やネットワークの保守点検に要する費用や,ソフトを含めた導入費用を加えると,ほんとに元が取れているのかね。
 ともあれ,いろいろあって,日本のオフィスからは余裕が失われ,笑顔が消える方向にある。

● それと,最近の余儀ない節電で,オフィスが暗ったくなっていること。デパートとか行っても,動いていないエスカレーターがあると,ウツ細胞が刺激される。まして,暗ったいオフィスってのはなぁ。
 冷暖房を我慢するのは当然としても,蛍光灯を間引いたところで,実際どれほどの節電効果があるのだ?

● 「後輩に指示を出すとき,指示だけを伝えて,なぜ,どういう目的でその指示を出しているかについては,何も伝えないという上司・先輩はいないでしょうか。それでは部下は納得しないでしょう。反発するケースも考えられます。なぜなら,後輩の存在を軽んじているからです」(p182)
 これも大事なことだ。上司面する馬鹿とか先輩風を吹かせる阿呆とかは,昔からいる。上司や先輩の役割を演じるのに,面とか風は要らないんだけどね。
 ただ,問題は,自分でもできていないってこと。気をつけないとな。

2012年11月13日火曜日

2012.11.13 岩中祥史 『アナログ主義の情報術』


書名 アナログ主義の情報術
著者 岩中祥史
発行所 梧桐書院
発行年月日 2010.06.18
価格(税別) 1,500円

● 著者が本書で言わんとすることは,「まえがき」にある次のエピソードが代表している。
 ある出版社から「大阪人」をテーマにした本の執筆を依頼され,ふたつ返事で引き受けた。(中略)大阪には過去何度となく行っているし,インターネットで資料をそろえさえすればすんなり書けるだろうと,タカをくくっていたこともある。
 ところが案に相違して,締め切りの一週間前になっても,全体の一割ほどしか書けていないのである。いくらインターネットをいじくりまわしても,アイデアがいっこうに湧いてこない。正直,これはヤバいと思ったのだが,ふと「よし,大阪の空気を吸いに行こう!」とひらめき,新幹線に飛び乗った。そして大阪に二泊したのである。
 すると,不思議なことに,新大阪に降り立った瞬間から,私の頭には次々と本の中身が,見出しとともに思い浮かんでくるではないか。大阪の街を一日中歩き回り,ホテルの部屋に戻ると,時間のたつのも忘れて一心にノートパソコンのキーをたたき続けるほどであった。
● 読みものとしても面白く,スイスイ読める。短いエッセイ仕立てにした文章を重ねているから,通勤電車の中で読むのに適している。

● 2つほど引用しておく。
 一気に書き上げた原稿は一気に読まれる。逆に,書くのに呻吟した原稿は,読み手もすっと読めない。--これは私自身の戒めになっている。(p40)
 女性が女性誌を読み,男性が男性誌を読む,という常識的な行為からは,一般的な情報しか集められない。まして,独創的な情報発信など,望むべくもないだろう。他に負けない情報収集力を持つための第一歩は,「人のしないことをする」である。(p97)

2012年11月12日月曜日

2012.11.12 見城 徹 『異端者の快楽』


書名 異端者の快楽
著者 見城 徹
発行所 太田出版
発行年月日 2008.12.15
価格(税別) 1,600円

● 『編集者という病い』は強烈だった。尾崎豊との関わりは凄まじかった。ここまでやらないと本や雑誌は作れないのか。
 尾崎豊は普通にいえば生活破綻者。ひょっとすると人格障害という診断名まで付いてしまうのではないか。その破綻者に徹底的に寄り添っていくと決めた,見城さんの決意と見通し(打算といってもいい)はあまりにもプロフェッショナルで,こんなことができるのは千人に一人いるかどうか。当然,ぼくにはできない。裸足で逃げだすに違いない。
 一方,生活は破綻していても,見城さんをしてそう決意させるだけの力を尾崎豊は持っていた。

● 本書の「序章 異端者の祈り」はアジテーションとして出色。若者がこれを読むと,自分も異端者たらんとする人が出てくるかもしれない。もちろん,なろうとしてなれるものではない。やめておけ。
 坂本龍一や尾崎豊に象徴されるようにクリエティブな活動に関わる才能は,それを持とうとしてもてるものではない。真の表現者はつねに異端であり,石原慎太郎の言葉で言えば「ゲテモノ」でありフリークスなのだ。異端のDNA。マジョリティ=共同体からこぼれ落ちる悲しみと他人には通じない官能の回路を持って,暗闇に向かって跳躍を続ける表現者たち。(p13)
 自分は共同体の規範から外れた快楽原則に突き動かされてきた。どうにもならない本能で動いているから,どんな辛苦にでも耐えられる。(中略)表現に関わる仕事に寄る辺などない。まして社会的権威,政治的正義,道徳や良識などどこにもない。(p14)
● 本書は見城さん自身のエッセイ,見城さんが受けたインタビュー記事,対談によって構成される。
 対談の相手は,さだまさし,中上健次,石原慎太郎,藤田宜水,鈴木光司,内舘牧子,田島照久,杉山恒太郎,熊谷正寿。

● さらに,多すぎる引用。
 いい奴には大した作品はつくれないと思っている。作品さえよければ,相手が殺人者であろうと性的異常者であろうと,誰だってかまわないと思っている。俺を感動させてくれれば,どんな相手でも体を張って守ってやろうと思うわけです。(p26)
 ぼくの持論で,売れたりブレイクしたり感動させるものには,必ず四つの要素があります。 それは,「明快であること」「極端であること」「癒着があること」「オリジナリティがあること」。この四つを満たしていれば,本は必ず売れる,芝居もヒットする,テレビは視聴率を取る,と思っています。(p35)
 不可能だ,無理だ,無謀だと言われることを,圧倒的な努力で可能にしたときに,結果というのは出てくる。それが一番鮮やかなんです。それがその人や,その組織の伝説を作っていく。(p46)
 アルバムが100万枚売れていくミュージシャンっていうのは,みんな例外なくツアーをやってるんですよ。(中略)ツアーをやって,その人の声やその肌触りみたいなものがちゃんと伝わる。胸の鼓動や吐く息が。その上でアルバムを出すことを,音楽界ではとうの昔からやってる。それを出版界ではやってないんですよ。(p151)
 幻冬舎で売れている本を指して「こんな本が売れてもねぇ」と言われることがある。でも,それが売れてしまうのは,「こんな本」のなかに大衆が嗅ぎ分けた価値が潜んでいるからだと僕は思う。「大衆が欲していたものがそこにある」ということにほかならない。100万部売れたら,100万人が買ったという事実が,すべてを物語る。僕は,文学や文化は「こういうものだ」と大上段に言うつもりはまったくなくて,人々が望んでいるものを提供するのが僕にとっての「本当にいいことをやる」ことだし,そこに価値があると思っているんです。(p187)
 テレビというあの形態を,インターネットが凌駕するとか,包摂するということはあり得ないというふうに思っています。インターネットで何かやっても,本に関してはほとんど影響力はないですよね,今。僕の実感としては。(p197)
 その共同体から滑り落ちる羊の内面を照らし出すのが表現だというふうに思っているんですね。そのために表現はある。(中略)表現がある限りはすべてを奪われても,表現というものが残っている限りは,その人はすべてを失ったことにはならないというふうに思っているわけです。 (中略)だからものすごく抑圧されているものからしか,芸術というのはあまり出てこない。能でも歌舞伎でも狂言でも,華でもお茶や庭でも,全部それは差別があるところからしか出てきていない。(p199)
 すべては死ぬということから人は一回きりの人生を,短い生涯で体験して死ぬという,それがあるからあらゆる感動はあると思うんです。切なさも哀しみも恍惚も絶頂も,すべては死ぬということが定義づけられているからあると思っているんです。だから人が死ぬ運命にある限り表現というのは不滅なわけです。(p204)
 活字離れとか文芸の衰退なんて世間では言われているようですが,衰退しているのは文芸を編集する側ですよ。出版社側は,作者と読者の両方の胸の鼓動や息遣いに絶えず耳を澄ましているべきなのに,それができていないだけなんです。(p257)
 そもそも編集者っていうのは,「人の精神」という目に見えないものから商品を作り出すという,じつにいかがわしいことをやっているわけです。それを誠実な営みとして成立させるためには,「これはお決まりのお仕事です」というような安全地帯に編集者がいるようでは話にならない。その生きざまが激しく問われることになるわけですよ。(p258)
● 見城さんのキーワードは,タイトルにもなっている「異端者」と「圧倒的努力」。こうして引用なんかしているようなやつには,無縁の世界だとわかっている。
 見城さんとぼくを分かつものは何なのだろう。結局,ぼくは共同体に馴染める体質だったってことか。だから自分の人生を徹底して見つめる必要に迫られなかった。安逸に生きることができるタチだった。
 でも,それだけじゃないよなぁ。

2012.11.11 美食を歩く会編 『池波正太郎の美食を歩く』


書名 池波正太郎の美食を歩く
編者 美食を歩く会
    逢坂 剛(エッセイ)
発行所 祥伝社
発行年月日 2010.05.01
価格(税別) 1,600円

● 『食卓の情景』や『散歩のとき何か食べたくなって』などの池波正太郎の食に関するエッセイ集は,大昔に読んだことがある。
 本書は池波さんが通ったお店を取材して,当時の池波さんの様子を紹介するもの。っていうか,お店そのものの紹介がメインですかね。

● 巻頭に逢坂剛さんのエッセイを載せている。それと池波さんゆかりの天ぷらの店を営む近藤文夫さんと逢坂さんの対談なども。

● 池波さんはけっこう大食漢だったらしい。グルメはたいていグルマンだ。開高健さんがよく書いていたことだけど。

● しかし。世の中には食にこだわる人と,何でもいいと言う人と,きれいに分かれるような気がしている。時代の風はこだわる人に吹いている。っていうか,そういう人たちが食文化を育んできたはずだしね。

● ぼくはこだわらない方。読むだけでいいと思ってしまうタイプ。
 ゆえに,ここに紹介されている店のどれかにぼくが行くことがあるとは思えない。敷居が高そう。知らない店に入るのを極度に苦手とするし。それで逸した(旨いものを食べる)機会がけっこうあるかもしれないけれど,さほど惜しいとは思っていないんだな。

● 池波さんの時代小説はまったく読んだことがない。鬼平犯科帳をテレビで見ただけ。中村吉右衛門の長谷川平蔵ね。昔からいつかは読むだろうと思ってきたんだけれども,そろそろ読むと決めないと,人生の時間切れがきてしまいそうだ。

2012年11月10日土曜日

2012.11.10 市橋織江 『BEAUTIFUL DAYS』


書名 BEAUTIFUL DAYS
著者 市橋織江
発行所 MATOI PUBLISHING
発行年月日 2011.12.07
価格(税別) 2,800円

● 市橋さんの写真集。海岸の風景,公園でくつろぐ家族連れ,路地裏で遊ぶ子ども,カフェ(ほとんどはスターバックス)で憩うカップル,花,大学の図書館など,小さな安楽を連想させる光景を切り取って集めたもの。

● ぼくは,絵画,書,写真など,視覚に訴える芸術に関しては,まったくの音痴であることを自覚している。が,この写真集は芸術云々というより,サッと見てホッとするという味わい方でいいのだろう。

2012.11.10 ミロスラフ・サセック 『ジス・イズ・ギリシャ』


書名 ジス・イズ・ギリシャ
著者 ミロスラフ・サセック
訳者 松浦弥太郎
発行所 ブルース・インターアクションズ
発行年月日 2007.02.01
価格(税別) 1,800円

● 仄聞するところでは,ヨーロッパ諸国はもちろのこと,アメリカでも自国史は古代ギリシャから始めるらしい。ドイツ人もフランス人もイギリス人も,ギリシア人がバルバロイとよんだ蛮族の子孫だろうと思うんだけど,自らのアイデンティティは古代ギリシャにあると思っているわけでしょうね。

● 現在のギリシャ人はトルコ系だから,古代ギリシャとは断絶している。要するに,古代ギリシャは忽然と姿を消してしまった。
 その痕跡は彼らが残した遺跡と美術品に残っているのみ。

● ぼくはギリシャにも行ったことがない。ギリシャに関する知識といえば,中学,高校で習った世界史の教科書に書いてあったことに限られる。ので,この絵本は勉強になった。
 サセックも現在のギリシャを紹介するよりは,古代の歴史を伝えることに情熱を傾けている。かなり熱心に古代ギリシャの歴史や神話をたどって,絵にして伝えようとしている。この絵本を読むであろう子どもたちにとっては,ちょっと負担が大きすぎるのではないかと思うほどに。
 その勉強ぶりはハンパない感じ。ヨーロッパ人にとって古代ギリシャはそういうものなのかと思わされた。

● その分,只今現在のギリシャの街なみや市民の暮らしぶりについては,若干手薄になっている。ぼく一個は,歴史(遺跡)よりも現在のギリシャ(街なみや人々の様子)を彼の絵と文章で伝えて欲しかったと思っているけれど。

2012.11.10 ミロスラフ・サセック 『ジス・イズ・ニューヨーク』


書名 ジス・イズ・ニューヨーク
著者 ミロスラフ・サセック
訳者 松浦弥太郎
発行所 ブルース・インターアクションズ
発行年月日 2004.08.01
価格(税別) 1,600円

● ぼくはアメリカにも行ったことがない。行きたいとは思うが,ぜひにともというほどではない。というのも,勝手な思いこみがあるからだ。アングロサクソンが住むところはメシが不味い,っていう。松浦弥太郎さんの一連のエッセイ集を読んで,修正しなければとは思っているんだけど。

● 絵本である。というからには,まずは子どもに向けて書いているのだろう。それゆえだからだろうか,サセックの視点は基本的に暖かい。いいところを見つけて,子どもたちに教えてやろうとしているように思われる。ニューヨーク市民の暮らしぶりにも目配りしている。
 (ニューヨークの)ガイドブックのいくつかも見ているけれども,サセックのこの絵本の方が,ニューヨークに対するイメージがより多く喚起される。
 ビルの屋上の貯水タンクのこととか,自由の女神のてっぺんにある展望台からの景観とか,狭い路地のこととか,ガイドブックには出てこない事柄がいくつもあって,それが,実際はこうであろうか,それともこんな感じだろうかと,想像を刺激してくれる。

● なんていうんでしょうね,行った気になってしまうっていいますかね,数十ページの絵本なのにね。

2012.11.10 小日向 京 『考える鉛筆』


書名 考える鉛筆
著者 小日向 京
発行所 アスペクト
発行年月日 2012.04.06
価格(税別) 1,500円

● のっけに次のような文章が出てくる。
 なによりも,削ったあとに削りかすができるから鉛筆は楽しい。鉛筆は短くなる代わりに,削りかすという世にも美しいものに姿を変えるのだ。(p14)
● オタクだぁ。著者は女性なんだけど,女性にもオタクはいる,と。ま,いますよね,そりゃぁね。
 で,鉛筆削りによってどんな紋様の削りかすができるかとか,鉛筆の削り方とか,マニアックというかオタッキーというか,そんな話が続く。こちらとしては,どうでもいいんじゃないですかとツッコミを入れたくなりながらも,ついつい最後まで付き合わされてしまう。

● ただし,最終章「思考の流れを邪魔しない鉛筆」は,「知的生産の技術」論としても読み応え充分。ひとつだけ引用しておく。
 何度でもしつこく書くが,あなたの筆圧には限定値などない。筆記具に合わせてあなたは筆圧を調整すべきなのだから,筆圧が高いので○○○は使えない,のではなく,○○○は筆圧をかけずに使うものなのだからそう用いる,としよう。 (中略)主軸としたいのは筆圧に幅を持たせることで,そのことによって手にかかる負担は軽減され,もっと楽に多くの文字を書くことができる。楽に文字を書く方法が自分のものになれば,考えることもおっくうにならない。(p181)
 だったらパソコンを使えばもっと楽ですよ,とも思うんだけどね。これはまた別の話でしょうね。とっさの時のメモとりってパソコンじゃできないからね。

2012.11.10 松浦弥太郎・若木信吾 『居ごこちのよい旅』


書名 居ごこちのよい旅
著者 松浦弥太郎
    若木信吾(写真)
発行所 筑摩書房
発行年月日 2011.03.10
価格(税別) 1,900円

● 今年の5月に読んでいる。ここのところ,ぼく的には松浦弥太郎ブームなので,ブームに乗って再読しておこうと思った。

● 別のエッセイ集に収められている文章もある。が,一冊の本として完結させるためには,再録もありでしょうね。再録するという編集者の判断は間違っていないと思う。
 そこに若木さんの写真が付くので,違った味わい方ができるしね。

● 個人的には台湾の紀行が一番魅力的だった。まだ台湾に行ったことがない。行ってみたくなった。LCCも就航しているんだろうからね。松浦さんが紹介しているカフェでコーヒーを飲んでみたい。
 だけどね,おそらく台湾の実際は,この本で紹介されているほどには魅力的じゃないんだと思うんですよね。松浦さんの筆にかかると実際以上に魅力的になる。っていうか,松浦さんの感性が切り取った台湾が魅力的なのであって,それと同じものをリアルの台湾から,ぼくの感性が引き出せるかどうかってことなんですよね。結果は言わずもがなですよね。
 でも行ってみたい,台湾。

● 「あとがき」からひとつだけ引用。
 ドアを一歩出れば旅である。そうおもうと,暮しというのは,旅によって出来ているなあ,とわかる。遠かろうと近かろうと,旅であるか否かには関係がない。歩いて,見て,聞き,感じ,出合い,観察するという意識を常に働かせること。それは普段,自分たちの日々の暮しそのものを,豊かにする工夫の基本でもある。
 こういう文章を読むと,吉行淳之介の「街角の煙草屋までの旅」を思いだす。昔に読んだ吉行作品を読み返してみようかなぁと思いました。 

2012年11月5日月曜日

2012.11.05 下川裕治 『LCCで行くぶらり格安世界の旅』


書名 LCCで行くぶらり格安世界の旅
著者 下川裕治
発行所 PHP
発行年月日 2012.08.31
価格(税別) 1,300円

● 若い人たちが旅行をしなくなっているという話をよく聞く。留学する人も激減しているんだとか。悪いことなのか,それほどに騒ぐようなことなのかはわからない。
 旅行なんて行きたければ行けばいいし,行きたくなければ行かなきゃいい。その程度のもんじゃないかと思わないでもない。
 留学にしたって,洋行帰りのアメリカかぶれやフランスかぶれを揶揄する論調は,つい最近まで珍しくもなかったのではないか。

● けれども,下川さんのように旅行してその記録を作品にしている人は,商売に直結する。下川さんはビンボー旅行派だから,特に影響が大きいかもしれない。
 さらに,人は年をとるものだ。ビンボー旅行をしたくてもできなくなる年齢が,厳然と存在するだろう。

● 下川さんの作品はそのほとんどを読んでいる(すべてではない)。読むに値する文章だと思っている。
 ゆえに,下川さんはビンボー旅行をやめても,文章で喰っていける人であると思っている。

● LCC(格安航空)は下川さんが違和感なく取りあげることのできるテーマかもしれない。しかし,人はいずれLCCに慣れるし馴染むだろう。
 この本でもざっとLCCの解説をしているけれども,大半は世界各地のビューポイントを紹介する内容になっている。ビューポイントといっても,そこは下川さんの視点だから,凡百のガイドブックとは異なる。読めるガイドブックである。

2012.11.03 ミロスラフ・サセック 『ジス・イズ・ロンドン 改訂版』


書名 ジス・イズ・ロンドン 改訂版
著者 ミロスラフ・サセック
訳者 松浦弥太郎
発行所 ブルース・インターアクションズ
発行年月日 2011.01.25
価格(税別) 1,800円

● サセックはチェコの絵本作家。普段は絵本を見ることはあまりないけれど,なぜこの本を手にとったかといえば,松浦さんがこの絵本を推奨していたから。

● たとえば『ぼくのいい本こういう本 2』で次のように書いている。
 誰の言葉か忘れたけれど,「旅心は旅に出なければわからない」というが,この絵本はポンと手に取って見ているだけで,いつの間にやら自分がその国をフラッと訪れた旅人という無名の存在になってしまうから不思議である。(同書p27)
● 『続・日々の100』でも次のように。
 『THIS IS・・・・・・』を探す旅は,僕にとって古書店をはじめるきっかけにもなった旅だった。知られていない五〇年代の絵本を紹介していくことは,古書店としての新しいスタイルだったからだ。(同書p188)
● で,まずはロンドンから。
 どうやらぼくの擦りきれているらしい感性では,松浦さんのような受けとめ方はできなかった。が,ロンドンの空気の色が絵に塗りこめられているのはわかる(行ったことはないんだけど)。鈍色の空気。それでいて重苦しさはないんですね。
 ロンドン市民の牛乳の買い方のような,普通のガイドブックではまずお目にかからない,サセックならではの視点から描かれた絵もある。
 一度目は松浦さんが訳した日本語の文章を読みながら,二度目は絵だけを見ながら。

2012.11.03 松浦弥太郎 『今日もていねいに。』


書名 今日もていねいに。
著者 松浦弥太郎
発行所 PHP
発行年月日 2008.12.24
価格(税別) 1,300円

● 『メッセージ&フォト 今日もていねいに。』は先月読んだけれども,写真が載っている分,文章はダイジェストになっているはず。そこで,あらためてこの本を読んでみることにした。

● 松浦さんのモットーをそのままタイトルにしたような本だから,全編に松浦生活哲学が満ちているわけだが,その中からあえていくつかを引用。
 世界のすべてにかかわる土台とは,清潔感だと思います。「どんなことができるか,何をもっているか」よりも,清潔感があるほうが,はるかに尊いと感じます。 僕にとって清潔感を保つとは「ここが崩れると自信を失う」という境界線。どれほど賢くても能力があっても,馴れ合いに塗り込められて清潔感が姿を隠したら台無しになってしまう。---そんな気がしてならないのです。(p43)
 明日で命が終わるとしても,後悔せず,おだやかに世を去る方法---それは,今日をていねいに生きること、これだけだと僕は思います。 ていねいに生きるには,その日が大切な一日であることを思い出させてくれる,きっかけが必要です。何かひとつだけでもいいから,暮らしに新しさを投げ込みましょう。(p51)
 それでも僕は,壊れたものを修理して使うほうが好きです。ものは壊れるという大前提があるから,そこがスタートだと思います。処分したり新品と交換するのではなく絶対に直そうと決め,手をかけて修繕することで,ようやく自分のものになっていく気がするのです。 人とのつきあいもこれと同じです。ぶつかり合って摩擦がおき,壊れたりひびが入ったときがスタートだと思っています。(p58)
 一瞬で終わる関係なら,あえて素通りする。これは人と関わる際の僕のルールです。(中略)なんと冷たい対応だろうと思うかもしれませんが,これが僕なりの誠実さです。仕事についてでも,恋愛や人間関係の問題についてでも,人に相談されたことに対してアドバイスをするときには,その人の面倒を一生みる覚悟がいると思います。(p72)
 僕ときたら,読んだあと,あらすじを忘れてしまうこともしばしばです。読み終わったあとの記憶や,書かれていた内容はどうでもよく,読書の楽しみは「読んでいる時間そのもの」にあると感じているから。 「知識を得るために本をひらくのは,読書ではなく勉強だ」というのが,僕なりの認識です。(p102)
 情報を保存する際は,インターネットであればマウスをかちかち動かして画面をコピーすればすみますが,それもちょっと怖いふるまいです。 だから僕の鞄には,いつだってメモと鉛筆。本物を見たとき,本物の言葉に出会ったとき,いつでもメモを取れる状態にしておきたいのです。大事なことだから忘れないというのは嘘で,直感やひらめきは書き留めなければこぼれ落ちていきます。(p104)
 腕を組むというのは,自分の精神の表れです。心をブロックしている状態だと思います。 目の前の相手に,あるいは自分のまわりの世界に対して心を閉ざす。そんな所作を毎日続けていて,「いいことなんて,あるわけない」とすら思います。(p108)
 さわったことで,あたかも命の吐息がふきかかったごとく,そのものがすこし元気になるのです。 逆に言えば,誰にもふれられず置き去りにされたものは,やがて生気を失います。 僕が本や服を少ししか持たないのも,自分が毎日さわってあげられるものには,限りがあると知っているためです。(p122)
 感じる,思う,考える,選ぶ,決める---人生の根っことなるこうしたことは,一人でしかできない。この事実を,いさぎよく認めねばならないと思うのです。 だから,僕は孤独であることを基本条件として受け入れています。孤独を誤魔化すために意味もなく人と会ったり,仲間と騒いだりはしません。(p124)
 願うというのは,とてつもないパワーを生み出します。強い願いとバランスの良い実行力さえあれば,かなわないことなんてないとすら思います。 その意味で,願うとは魔法だと信じているのです。 (中略)願いには潔癖さがなくてはならないと考えています。 たとえば,「お金がほしい,すばらしい絵画がほしい,異性にもてない」といった単純な欲望に対して願いの魔法を使うのは,ある種の冒?だという気がします。(中略) 魔法は大事なことのために,大切にとっておく。「この目的に,魔法を使わせてください」と心の中で請うくらいの謙虚さが,魔法を魔法として守り続ける秘訣です。(p152)
● 読書の楽しみは「読んでいる時間そのもの」にある,というのはまったくそのとおりだと思う。だから,こうして読んだあとにその本のことをウダウダ書くなんてのは,まったく余計なことなのだ。
 なのになぜこんなことを始めたのかといえば,読んだ本の内容をかすかにでも記憶に引っかけておきたいというスケベ根性からだ。無粋といえば無粋なことなのだ。

2012年11月2日金曜日

2012.11.01 松浦弥太郎 『続・日々の100』


書名 続・日々の100
著者 松浦弥太郎
発行所 青山出版社
発行年月日 2011.11.25
価格(税別) 1,900円

● 100個あげたうえで,さらに100個。いかな松浦さんといえども,これは辛かったのではないか。それでもきちんと100個でまとめあげているわけで,さすがはプロという感じ。

● 前作(『日々の100』)よりエッセイ成分が多くなっているように感じる。モノ自体を語るよりも,そのモノを媒介にして自分を語る。だから,前作より面白くなっているとぼくには感じられる。

● ぼくも普段使いしてて,お世話になっているモノをランダムにあげてみる。
 ヤクルトの野菜ジュースと黒酢ドリンク
 ポール・スミスのシステム手帳
 ユニクロのトートバッグ
 水性ボールペン(パイロットのHi-TEC-C COLETO)
 パソコン(ThinkPad)
 スキャナ(ScanSnap)
 スマートフォン(docomoのSH-12C)
 BOSEのイヤフォン
 革靴風の運動靴(newbalance)
 Seriaのシステム手帳バインダー(保存用)
 もらいもののペーパーナイフ(VICTORINAX)
 安物のペンケース(Trevi-Ⅱ)
 ディズニーランドで買ったコーヒーカップ(2000YEARS LIMITED EDITION)
 ナイスタック両面テープ
 MIKIHOUSEのマグカップ(ペン立てに使っている)
 子供が小さかった頃にお気に入りだった玩具(タイヤが取れてしまったミニカー)
 百円ショップで買ったハサミ
 日清のチキンラーメン
 ロッテのクロレッツガム
 桃屋の江戸むらさき「唐がらしのり」

● 以上で止まってしまった。もちろん,いろんなモノに囲まれているわけですけどね。これ以外に気にとまるモノはないな。
 ひとつにはデジタル化ってのがあると思いますね。ノートもペンもアルバムも使わなくなっている。なんでもかんでも,パソコン。保存先もパソコンのハードディスク。そのうち手帳も使わなくなってしまうかもしれない。
 正直,以上のモノの中で,理由があって選んだモノなんかないからね(子供の玩具は別)。代替品がいくらでもあって,べつに代替品でもかまわないわけでね。思い入れもさほどにあるわけじゃない。
 以上にあげたモノだけでも,松浦さんとは全然違うわけでね(インスタントラーメンが入ってるんだもん)。彼のようにはできないなぁ。要するに,ていねいじゃないってことになる。ぼくの人生はマニアワセの連続。

● いくつかの引用。
 僕がみんなにすすめたいことは,自分が他人にしてもらって嬉しいことは何だろう,と一日に一度考えてみることだ。そして,そのうちの一つでいいから,今日,家族や友だち,出会った人にしてみることだ。そんなささやかで小さな心がけが今日一日のしあわせを生んでくれる。(p32)
 語学ができても笑顔がなければ,言葉は通じない。たっぷりの笑顔で上手な挨拶ができれば,言葉なんでできなくても,世界中どこに行っても暮らすことができるということが,外国での旅で覚えたことだ。(p34)
 部屋にティッシュの箱が置かれていると,どんなにインテリアに気を使っていても,一気に台無しになる。(p60)
 他にも使えそうな便利な木皿だが,トースト用,しかも朝だけの特別にしている。愛用とは,その用途を一途に守ることだと思っている。(p62)
 人生にはふたつのルールがある。ひとつはコストを計算しないこと。もうひとつは,自分が熱中できないことは決して何もしないこと。(p90)
 嫌われることを恐れて,他人の顔色をうかがう生き方はするなということだ。(中略)黙って,にこにこしているだけで,何を考えているかわからない人間と友だちになろうと思う人はいるはずがない。僕はそれにもっと早く気がつくべきだった。(p136)
 孤立を孤独と間違えるな。孤独は人間の条件である。今のおまえは孤独ではなく,単なる孤立である。さみしいと思っているのは,自分が社会や家族,他人に対して,十分に手を差し伸べていない証拠である。(p168)
 たくさんの希望や努力があるかぎり,たくさんの挫折や絶望はさけられない。常に作用と反作用が対になっているからである。「朝の来ない夜はない」と誰かが言ったがその通り。苦しみやつらさは,逃げれば逃げるほど追ってくるもの。だからこそ,苦しみやつらさから逃げずに,それに立ち向かうしか方法はないのである。楽な道を選ばないように。(p182)
 ピンときたときは,臆せず声をかけるのが,旅先で出合いをもたらすコツである。(p208)
● 風水に凝って西に黄色のものを置いたことがあるという話も出てくる。松浦さんでもそういうことがあるんだと,ちょっとホッとした。
 普通の人なんだってね。そりゃそうだ。人間だもんな。

● この本の刊行後に,松浦さんが愛用品について語っているインタビュー記事がネットに載りました。一応,ご紹介に及びます。リンクをクリックしてみてください。

2012年11月1日木曜日

2012.11.01 松浦弥太郎 『日々の100』


書名 日々の100
著者 松浦弥太郎
発行所 青山出版社
発行年月日 2009.03.29
価格(税別) 1,900円

● 松浦さんが日々使っているモノを100個選んで紹介するという趣向。
 これを読んで何がわかるかというと,松浦さんが日々を「ていねいに」過ごしているってことがわかる。「ていねいに」は松浦さんのキーワードの一番目のもの。それを自分でもきちんとやってますよ,ということですね。

● 「ていねいに」であって,華美にとかゴージャスにではない。効率的にでもない。
 紹介されているモノたちの中に人口に膾炙したモノは少ないし,ブランド品もごく少ない。実用性において優れているモノ。大切な人とのつながりがあるモノ。松浦さんにの美意識に適うモノ。そういうモノたちですね。
 モノに対する思いが行き届いている。いま,そこにある理由がないモノは置かない,というね。

● こういうものを読むと,自分も同じことをやってみようかと思ってしまう。けれども,それは考えるまでもなく無謀な試みですな。
 なぜなら,相当に雑な暮らしをしちゃってるからね。いくつかあげてみようか。衣料品だったら,ユニクロのフリース,ユニクロのチノパン,ユニクロのヒートテックの下着。鞄だったら,ユニクロのトートバッグ。日用品だったら,花王のメリットシャンプー,もらいものの石けん。机代わりに使っているのは折りたたみ式のテーブル(材質はプラスチック)。食事に使っている器は百円ショップで買ったもの。
 というわけだからね。ユニクロ製品は相当いいと思ってますけど,要は量販店で一番安いものを買ってますね。安けりゃいいや主義。したがって,百円ショップとスーパーとヤフオクがぼくの行きつけ。
 これで文章を紡ぎだすのは無謀でしょ。

● であればこそ,たまにはこういう本を読んで,気持ちの洗濯をする。洗濯して何が変わるわけでもないんだけど,一瞬,気持ちがきれいになる。自分も松浦さんになったような気になる(もちろん錯覚なんだけど)。それで充分だと思っている。