2012年12月5日水曜日

2012.12.02 茂木健一郎 『カラヤン 音楽が脳を育てる』

書名 カラヤン 音楽が脳を育てる
著者 茂木健一郎
発行所 世界文化社
発行年月日 2009.07.10
価格(税別) 1,500円

● 中川右介さんのカラヤン本が面白かったので,引き続きカラヤンに関するものを読んでいきたいと思うんだけど,分厚いのに取り組む根気はない。
 ので,かつて読んだ本書を再読。で,再読してみたら,きれいに内容を忘れていたことを発見できた。初めて読むような新鮮な気持ちで読むことができる。

● 本書については引用に終始する。大量の引用。
 カラヤンは,しばしば目を閉じて指揮をした。(中略)指揮をするということを,メトロノームで機械的な指示をだすことの延長に捉えている人は,そのような話を聞くと意外に思う。しかし,実際には,指揮とは自律した演奏家たちにインスピレーションを与えることである。指揮者なしで,自分たちでも演奏を続けることができるくらいの技量を持つ人たちの魂を鼓舞することである。(p22)
 ダイナミックに変化する脳の履歴の中で,不思議といつまでも変わらないものがある。そのような普遍的な存在に思いを馳せるとき,同時に蘇るもうひとつの記憶がある。時は一九七〇年代後半,高校生だった私が,ヘルベルト・フォン・カラヤンを強く意識した日のことである。(中略) それは一枚のレコード盤から生まれたものであって,映像を見たわけでもライヴを聴いたわけでもない。しかしながら,リヒャルト・ワグナーの楽劇『神々のたそがれ』のレコードから聞こえてきた音楽は,カラヤンという男の名を私の脳に刻ませた。あえていうなら,耳から聞こえるメロディーの他に,不可視の何かをその演奏は宿していた。目には見えない。計り知れない。しかし,確かに存在する何ものかを。(p35)
 耳を澄まして音楽を聴く。 「いい音楽だ」と感じられたなら,それは脳が快楽を味わっている瞬間である。 特に,自分の好きな音楽を聴くと脳は喜び、それが繰り返されることによって報酬系と呼ばれる回路が強化され,脳の自発性が動きだす。生命の躍動,エラン・ヴィタールである。 だからこそ私たちは,音楽を聴くことによって脳という内なるシンフォニーを能動的に活かすことができるのであり,好きな曲,自分にとって大切な一曲というのは,脳への贈り物であり人生の宝物に等しい。(p39)
 創造性は,決して,孤立した個人に宿るものではない。人と人が出会い,理解し合い,気持ちを見せ合い,言葉を重ねるうちに新たなものが生み出されていく。「創造性」=「独創性」と捉えてしまうと,私たちは数多くのものを見落としてしまう。むしろ,「創造性」=「共創性」だと私は確信している。人と人の間に生まれるものをつなぐこと,その共創性こそが私たちの未来なのではないか。(p42)
 私は「頭のいい人」とは,美しく機知に富んだ音楽を頭の中で奏でられる人だと思っているが,カラヤンのような人物は,作曲家の頭の中に響いている音楽を的確に捉えることができ、それを演奏する方法がわかり,他者に伝える術さえ持っている,いわば感性と理性の融合体のような人間だったのだろう。(p45)
 カリスマ性や天才というものを,私たちは個人の努力に帰するように考えがちだ。が,実際のところ,それは二度と繰り返されない時代状況の果実であることが多い。(p58)
 人間の脳は,予想できることとできないことが入り交じった状態(偶有性)に適応できるよう,その進化を遂げてきた。脳本来の力が発揮されるのはこうした状況下であり,創造性やコミュニケーション能力も,その人が偶有性に相対することで引き出されていく。そして,最も偶有性に充ちた存在が,“生身の人間”である。 「今,ここ」に生きている人間とは,次に何を仕出かすかわからない不確実な生き物だ。だからこそ,人は人から学び,生を得る。音楽においても,脳が最も「真剣に」なるのはライヴ演奏を聴くときだというのは,こうした理由からだ。 それでも私は,カラヤンの録音から偶有性を感じ,生身の人間の気配を覚えた。定着された「確実なもの」から,「不確実なもの」が生まれてくるかとでもいうように。私にとって,彼の音楽の真髄はまさにここにあった。(p63)
 彼(小津安二郎)の演出は,アドリブを排除し,団扇をあおぐ場面ではその回数まで役者に指示を与えたという,徹底的なものだった。つまり,作品全体が小津のリズムであり,スクリーンに映し出されるすべてが,彼の制御の下にあった。 そしてこれは,観る側にも同じ効果をもたらす演出だ。ある一定のリズムを基調とする映像は,ある一定のリズムを脳内にもたらす。つまり,観客はストーリーや状況を自分で制御しているような感覚を得られ,集中でき,映像の「流れ」をともに体験できるのである。(中略) あるリズムから生まれる全体の流れ。制御した表現から顕れる普遍的なテーマ。作品自体が作り手と受け手の共有体験になるとき,そこには映らないはずのものまでもが映り込む。 そしてこれは,カラヤンの音楽にもつながる文法だ。 小津は映像。カラヤンは演奏。どちらも,精緻な造りこみによって抽象を追いかけた。抽象とは,人間の脳内の「自由さ」に他ならない。美しく,そして意思を持った芸術こそ,脳の自由さと呼応する。(p66)
 音楽を止め,分解し,両手を俊敏に動かしながら正確な実音を求めるカラヤン。彼は重要だと思うフレーズを楽器ごとに弾かせている。それは,オケ・メンバーが嫌うことだという。それでも彼はひるまない。(中略) 一流の楽団員に向かって,同じく一流の同僚の音を「聴く」ように求める指揮者。 彼は,自分の感覚的な要求を「運動性の言葉」に置き換えることができたのだ。こうした一種の変換作業によって,皆が楽譜を超えた次元の流れを掴み,把握し,「小節の縦線が聴こえない」響きが生まれてくる。レガートの誕生である。(p87)
 思えば「レガート」とは,私たち一人ひとりが本来備えている生物的な特徴に,非常に近いものだといえるかもしれない。 なぜなら脳内現象を筆頭に,人間の生命活動とは「なめらかな」動きそのものであるからだ。臓器の働きから思考や感情まで,生まれ,生き,そして死んでいくその命の流れに時間の断絶はあり得ない。人とは畢竟,内なるなめらかな流れに満ちた存在なのである。(p90)
 カラヤンにとって理想の劇場とは,あらゆるトップの才能が一堂に会する場だったに違いない。ゆえに彼の視線には,出自や性別,国籍といった隔てはなく,完成度のためならば人間関係の決裂さえいとわなかったのだ。 彼が評価する人物とは,自分の役割を知り,それを天職と思え,なおかつそれに対する研ぎ澄まされた意識を持つことができる者だったのだろう。そして,彼自身もそうである必要があったからこそ,カラヤンは「学び」の道を生涯トップギアで走り続けた。たとえ,その道が万人の賛辞による舗装道路ではなかったとしても。 ここに私は,ある種の「帰依の精神」を感じざるを得ない。「己の利益」という一人称の次元を超えた,利他的な献身である。(p103)
 「音楽」という日本語からは,どうしても音やリズムや音程といった具象が連想されるが,本来「music」の語に音の意味はない。つまり,音として聞こえるものだけでなく,私たちの知覚の背後に常に存在するインスピレーションの源も「music=音楽」といえるのだ。たとえ,それは耳には聞こえていなくても,私たち人間はどこかで感じているに違いない。 それがカラヤンのいうところの「流れ」ではなかったろうか。 私たちの世界に常に流れている“聞こえない音楽”を音楽家に気付かせ,掴ませ,そして意図的につなげて具象化させること。カラヤンが生涯を賭けたのは,そのような行為だったのではないか。(p111)
 脳の本質を一言で表すとしたら,それは「オープン・エンド性」である。 脳の学習に終わりはない。 脳がオープン・エンドであるからこそ,人間の文化は発展を遂げることができる。つまり,ひとつの課題を解いても常にその先を見出すような性質で,どこまで行っても終わりがないもの,それが脳の学びの特性なのだ。 ここでいう学びとは,机を並べて競い合うような機械的な勉強ではなく,一日のあらゆる事象から手に入れられる精神的な学習である。主体的な興味。失われない好奇心。自発的な集中。持続する志。それらの学びは,脳本来の生命運動にとって空気や水のごとく必要なものであるが,この特性を活かした現象のひとつがまさに音楽だといっていい。 要するに,「今,ここ」の瞬間を前へ,前へとつながていく連続の力が,いかに音楽生成の根幹であるかということ(p116)
 私の頭の中では,指揮者とギリシャ彫刻のイメージが限りなく近い。 音楽が奏でられる場になくてはならない,最も理想的な彫像。その存在との対話ですべてが生まれるような源。ある時は集中するエネルギーを高みへと導き,またある時は,生まれたばかりの生命運動に筋道を与える。そこに,それが,完全な姿で在る,というただそれだけで,時々刻々と音楽が湧き出るような美の身体-究極の指揮者とは,ある意味,このような存在ではないだろうか。 特に,晩年のカラヤンの映像を観ていると,彼もそのように感じて指揮をしていたのではないかと思わずにはいられない。ナルシストでも自己賛美でもなく,自分自身という「物言わぬ彫刻」も含め,ひとつの作品だとみなしていたかのような。(p123)
 カラヤンのドキュメンタリーに印象的な発言があった。 「ジェット機の操縦で,事前に役立つ忠告はただひとつ。『邪魔をするな』ということです。これは,あらゆる場面に通用します」 為すべきことを正確に把握している人には自分でやらせることです,口出しせずにね。そのようにカラヤンは語る。(中略) 為すべきことを知っている人に対しては,その能力を最大限に引き出すために,「邪魔をしない」こと。すなわちそれは,人間の持っている潜在的なエネルギーを十二分に行き来させようという姿勢である。 生命にとってそれが何より大切なことであるのはいうまでもない。オーケストラも,脳内現象も,大切なのは主体的であることであり,自らを開いていくその過程で本来の生命が輝くのだということを,カラヤンの言葉は思い出させてくれるのだ。(p124)

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