2012年12月26日水曜日

2012.12.25 宇野功芳 『新版 クラシックの名曲・名盤』


書名 新版 クラシックの名曲・名盤
著者 宇野功芳
発行所 講談社現代新書
発行年月日 1996.09.20
価格(税別) 728円

● 「クラシックの入門者は,まず曲の好き嫌いに始まり,興味はやがて演奏者に移ってゆく」(p16)ものだ。ほとんどの人がその道をたどる。
 が,ここで注意すべきことがふたつあると思う。

● ひとつは,いわゆる名盤といわれるものが,自分にとっても名盤であるとは限らないってこと。
 本書のほかにも,名盤紹介の本はたくさんある。なぜあるのか。需要があるからだ。どうせ聴くなら「名盤」でと思う。自分でいろいろ聴きくらべるよりも,識者のご意見をいただいちゃった方が手っ取り早い。効率的だ。時間の節約になる。
 でも,そこに落とし穴がある。それはその人にとっての名盤なんだよねぇ。だから,ここで効率を求めすぎてはいけないんだろうなぁ。

● もうひとつは,究極の1枚ってのはたぶん幻想だろうってこと。ありゃしないんだと思う,そんなものは。今日の自分にとっての究極が,明日の自分にとっても究極だとは限らないから。過去の自分なんて他人だからね。自分とはいつも揺らいでいるものだ。究極とは相容れない。

● そもそも16年前の本だから,CDガイドとして使うときも,本書の射程範囲に注意が必要。

● ということを前提にして,本書を読む。面白かったですよ。まず,曲目解説として楽しく読める。もちろん,ここでも著者の解釈による解説だ。でも,ぼくのような者は色々と蒙を啓いてもらえるわけでね。
 それと,音楽用語(のいくつか)を知ることができる。
 もうひとつ,この世界に独特の表現ってのがあるんですな。たとえば,「声に自我があり」(p75)とか「左手の音型のしゃべらせ方」(p178)とかね。こうした言い回しにも慣れておいた方がいいのかもしれない。

● 具体的な収穫もあった。恥ずかしながら,ぼくはモンテヴェルディの「聖母マリアの夕べの祈り」を知らなかったもので。それと合唱曲の高田三郎「水のいのち」も。
 さっそく聴いてみようと思う。

● カラヤンはケチョンケチョンだ(ただし,プッチーニ「蝶々夫人」など3つだけ,カラヤンのCDを推奨してもいる)。

 モーツァルトの「ディヴェルティメント第17番」について,「弦を合奏にするとモーツァルトのチャーミングな旋律線がぼってりとして,美しさを半減させてしまう。カラヤンのCDがよい例だ」(p44)

 「戴冠ミサ曲」では,「カラヤンなど,多くの人に絶賛されているが,僕にいわせれば,曲の魅力をこれっぽっちも伝えておらず,威圧的で粗い。独唱もなよなよしすぎる」(p78)

 ベートーヴェンの「交響曲第3番」では,「カラヤン/ベルリン・フィルなど,オーケストラは数段上だが,いくら技術的に優れていても,本当に魂のこもった迫力において大阪フィルより落ちる。それはやはりカラヤンの指揮が外面的だからであろう」(p94)

 同じく「交響曲第5番」では,「フルトヴェングラーにくらべると,現代の指揮者の演奏はなんとむなしいことか。カラヤンはその最たるもので,まるでスポーツ・カーに乗ってハイ・スピードで飛ばすような「第五」であり,スマートでカッコイイかもしれないが,ベートーヴェンからはあまりにも遠い」(p97)

 メンデルスゾーンの「交響曲第3番」では,クレンペラー/フィルハーモニア管弦楽団を推奨して,「たとえばカラヤンと聴きくらべてみてほしい。おなじ曲がなんでこんなに違うのか。芸術家としての才能の違いがいやというほどわかるはずだ」(p168)

 プッチーニ「ラ・ボエーム」では,「一般に評判の高いのはカラヤンのCDだが,指揮者の詩情の乏しさ,芸術性の低さが大きなマイナスとなっている」(p254)

 レハールの「メリー・ウィドウ」では,「人はすぐにカラヤン,カラヤンとさわぐが,品格,芸術性,音楽性のすべてにおいてマタチッチとは格段の差がある。名前にだまされてはならない」(p282)

● この時期,カラヤンはすでに蔑みの対象になっていたようだ。このモードは現在も継続中。
 「芸術性」っていうのは,どうにでも転ぶ抽象語だ。できればきちんと定義できた方がいいね(できなそうだけど)。定性的な抽象語を裸のままにして否定の道具に使うと,神々の争いになってしまいそうだ。
 昔,マルクス主義に乗って,時の政府を攻撃するという愚鈍かつ安直きわまるやり方で,ヒーローを気取っていたかに見える馬鹿者たちがいた。その名前がチラチラする。
 本書の著者をそういう人たちと同列に置いてしまうのは,無礼千万ではあるんだけど。

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