2012年12月24日月曜日

2012.12.23 伊集院 静 『美の旅人』


書名 美の旅人
著者 伊集院 静
発行所 小学館
発行年月日 2005.05.20
価格(税別) 4,500円

● 1998年から2000年にかけて「週刊ポスト」に連載されたもの。したがって読みやすいはずなのだが(実際,読みやすいんだけど),ずっしりと重い本で読みごたえがある。
 作家の眼力というか,目の付けどころのユニークさを味わうものだろう。そうか絵ってこういうふうにも見ることができるのか,と。

● 主にスペインのゴヤ,ダリ,ミロの作品について語られる。編集も行き届いていて,絵の配置にも気が配られている。文章を読んでいる読書に,絵を見るためにページを戻す手間をかけさせないように配慮して,本が造られている。

● ぼくは美術を苦手とする。自分で絵を描くのは論外として,絵を見ても何もわからないんだな。この本を読んで,その理由の一端を理解した。
 要するに,絵を見てなかったのだ。全体をパッとみて終わりにしていた。何かあれば絵の方から自分に訴えてくるはずだと思っていた。
 細部をゆるがせにしないことが大切なんだねぇ。となると,美術鑑賞はこれからもぼくには苦手のままで残ることになるかぁ。

● 著者は,絵に直に対面してそこから受けるものがすべてだと,何度か繰り返している。そうだとしても(そうだからこそ),見る側の器量が問われるんですね。その人なりの器量に応じた見方しかできない。こうして文章にするとあたりまえのことにしかならないんだけども,世の中に美学なんて言葉があるものだから,鑑賞の仕方にもセオリーがあるのかと思いがちになる。
 もちろん,いくつかの細かい約束事はある(したがって,知っていなければならない最低限の知識はある)にしても,深く鑑賞できるかどうかは,鑑賞者の人間性というか,その人のすべてが問われるということなる。

● そうは言いながらも,著者は実際には勉強もしてますよね。かなりのレベルで実作もしているはずだ。でなければ気づけないような感想がいくつも出てくる。

● 著者はダリについて次のように書いている。
 彼はいきなり,己の内にあるものを描こうと試み,内にあるものを模索しはじめたのである。青年ダリは容易に発見できぬ,己の内に潜む,絵画の魂,創作の源泉を探し,うろたえたに違いない。 -私の内に,そのようなものがあるのか? 普通の人間ならその問いを発し,挫折し,失望し,創作と別離する。ダリはそんなヤワな人ではなかったろう。暴挙であれ,己を信じた。信じるしかなかった。さらに彼は内なるものを自ら創作しようとしたのではないか。なぜ,それができたか? ダリは近代,そして現代において,基準,基軸というものがないことを早い段階で察知していた気がする。(p284)
 ひょっとすると,ダリを自分の文学創作に引き寄せて解釈しているのかもしれない。著者にしかできない解釈なのだろう。

● ゴヤ,ダリと見てきて,ミロに至ったときに,作者はホッとしたと書いている。が,ミロの抽象画は解釈の手がかりを与えないというか,百パーセント自由な解釈を保障しているというか,ぼくには途方に暮れるしかないもの。
 引用ふたつ。
 よほど裕福な家に生まれたとか,よほどのパトロンを持ち合わせた者以外の画家は,世間に認められるまでの時間,必ずと言っていいほど,貧困に身を置いている。それは逆説で述べると,貧困を通過しなかった画家は何かをなし得ていないということになる。家柄もよくパトロンにも恵まれた若い画家のほとんどは途中で挫折し,私たちに作品を残していない。ならば貧困ないし,困窮の中には,創造者に何かを宿らせる力のようなものがあるのだろうか。もしあるとすれば,ひとつではなかろうか。それは,-なぜ自分はこうしてまで,この生き方に耐えなくてはならないのか? と彼等が貧困の中で問いかけたからではないだろうか。その問いの答えは,他の道を選択することではなく,なぜ,人間が表現しなくてはいけないのか,創作しなくてはならないのかに辿り着くはずである。表現,創作は,その人の生の根幹に近いところから生じていることを考えるきっかけ,時間,状況を,貧困は持ち合わせているのかもしれない。(p318)
 日本の近代の作家の中でも,破滅型の人間を容認する傾向があるが,そんな暮らしと創造は相成り立つものではなかろう。 幻想的な世界,それが絵画であれ,音楽であれ,文章であれ表現される時には,冷静な作家の視点,背骨のようなものがなければ,何かは生まれない。 ミロは若い時から一見,おとなしくて,ひ弱そうに周囲の人々には映ったが,彼の内実は強靱そのものであったのだろう。(p323)

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