2012年12月13日木曜日

2012.12.12 中川右介 『指揮者マーラー』


書名 指揮者マーラー
著者 中川右介
発行所 河出書房新社
発行年月日 2012.04.30
価格(税別) 1,800円

● マーラーのいわゆる伝記ではない。妻マルタの浮気にマーラーが悩まされたことは有名な話だけれども,本書ではこの点についてはごくアッサリとふれるに留まっている。あくまでマーラーの指揮者としての活動を追ったものだ。
 文章が平明なのがありがたい。学者や専門家が書くと,おどろおどろしい文章にするんだろうな。これほどの水準のものをこの文章で読めるのは,それ自体がひとつの幸せ。

● 本書を読んでの感想は,マーラーは音楽家としては比較的順調な歩みを歩んだのだなということ。同じ中川さんの筆によるフルトヴェングラーやカラヤンに比べれば,穏やかといってもいい印象。大人だったというか,後先を考える人だったのですね。
 もちろん,それだけでは本にならない。著者は本書の「はじめに」で,マーラーについて「内向的な作曲家はいても,内向的な指揮者はありえない。計算高く権謀術数に長け,出世欲を剥き出しにし,独裁者として歌劇場とオーケストラを指導・監督し,過剰なまでの情熱で音楽に取り組んだ人なのだ」と紹介している。

● というわけで,これまた当然ながら,著者はマーラーが好きなのだ。
 マーラーに限らず,人間というものは,日々の仕事でも,家族や友人,恋人との関係でも,さまざまな些細な出来事が起きる。それの積み重ねが人生である。天才音楽家といえども,二十四時間の全てを音楽に没入できるわけではない。逆に言えば,この際限のない日常の雑務をこなしながら,なおも創作できた者が,歴史にその名を刻むのだ。(p70)
 ラフマニノフは,マーラーについて(中略)こう書いている。「マーラーによれば,総譜の細部すべてが重要であった-これは数多い指揮者のなかで稀有の心構えである。練習は十二時三十分に終わる予定だったが,その時刻を大幅に超過し,演奏に演奏を重ねた。その後に,マーラーが第一楽章をもう一度練習すると告げた時,私は楽団員が抗議するか大騒ぎするのではと思った。しかし,誰一人,何の気配も示さなかった」。つまり,マーラーのリハーサルはいつもこんな調子だったのだろう。(p212)
 指揮のことばかり書いたのは,作曲について軽視しているからではない。「マーラーにとって作曲は夏休みの余技にすぎない」と言いたいのではない。音楽活動全体のなかで,これっぽっちの時間しか割かなかったのに,あんなにも偉大な交響曲を書いたことを,逆説的に強調するためである。(p233)
● 指揮者という職業について。
 若くしてひとを指導し,まさに「指揮」するのが,指揮者という職業だ。彼が指図するオーケストラのなかには,父親よりも年長の者もいるだろう。音楽家としてのキャリア,その歌劇場でのキャリアがはるかに長い人々に対して,生意気にも棒で指図するのが指揮者である。この職業は,したがって,遠慮深い性格の人には向かない。尊大でなければ務まらない。(p26)
● 次の意見については,その通りだと思う人もいれば,ちょっと待て,それは言い過ぎじゃないか,と考える人もいるだろう。
 興行師グートマンは「千人の交響曲」あるいは「ファウスト交響曲」と命名して宣伝しようとしたが,マーラーはそのどちらの案も激しく拒否した。現在の日本では,演奏会やCDで,この曲が「千人の交響曲」と呼ばれているが,マーラーが断固拒否したものである。ベートーヴェンの「運命」もそうだが,日本では作曲家の意図とは全く関係のない曲名が,「その方が売りやすい」という理由で流布している。「作曲家が知らない題」も罪深いが,「作曲家が拒否した題」を平然と使い続けていることのほうが,その罪は重いだろう。無知ゆえのことであるのかもしれないが,知っていてなおも「千人の交響曲」と呼んでいるのであれば,それは冒瀆である。(p218)
 ぼく一個は,いい悪いの話ではなくて,これは避けられないという意見。大げさにいえば,文化の伝播には必ずこの現象が起こる。かつ,この現象に関しては作者といえども発言権はない。
 死ぬ前に自分の葬儀についてああしろこうしろと指図したところで,遺族がそれに従うかどうかはわからないのと同じだ(たいていは従わない,あるいは従えない)。葬儀は死者ではなく残された者のために執り行われるものだ。いかに確固たる価値観のもとに指図されたものであれ,どれほど深刻な事情があって指図されたものであれ,その指図に従うかどうかの決定権は遺族にある。
 21世紀の日本でマーラーの8番に「千人の交響曲」と付けているのを,天国のマーラーが憤慨して見ているかどうか。どうでもいいやと思っているんじゃないのかなぁ。

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