2012年11月28日水曜日

2012.11.27 中川右介 『カラヤンとフルトヴェングラー』


書名 カラヤンとフルトヴェングラー
著者 中川右介
発行所 幻冬舎新書
発行年月日 2007.01.30
価格(税別) 840円

● この本の副題を何と付けようか。ニーチェをパクって「人間的な,あまりに人間的な」としようか。それとも「愚かな,あまりに愚かな」がいいだろうか。

● まるで小説を読んでいるような面白さ。フルトヴェングラーとカラヤンにチェリビダッケを絡ませて,相互の確執をまるで見てきたかのように語る。
 もちろん,すべて史実に基づいたノンフィクションだが,そのときフルトヴェングラーはどう思ったか,カラヤンはどう考えたかについては,著者の推測が入る。それが臨場感をもたらす。

● フルトヴェングラーもカラヤンもナチスドイツの時代と戦後を生きた。時代や政治に翻弄される。凡人なら味わわなくてすんだはずのものだが,彼らの才能を政治が放っておいてくれなかった。
 フルトヴェングラーはカラヤンを嫌い抜く。しかし,カラヤンもやられるままにはならない。権謀術数を尽くして一方は勢力の拡大を図り,他方は生き残ろうとする。
 そうしたさなかでも,両者とも凄まじい量の仕事をこなしている。自分の版図を広げるためというより,音楽への忠誠心がそうさせるのだと考えると,予定調和的なきれい事に過ぎるだろうか。

● 本書の続編となる『カラヤン帝国興亡史』で,著者も次のように書いている。
 結果的にカラヤンは巨万の富を得たが,それは彼の真の目的ではなかった。彼にとっては,最高の音楽を演奏することが究極の目的であり,そのために,彼は権力を必要とした。 (中略)自ら音を出すわけではない指揮者は,最高のオーケストラと最高の歌劇場を手に入れなければ,理想の音楽に近づくことはできない。 (中略)そうしたポストは,しかし,天から降ってくるわけではない。自分で獲りにいかなければならない。カラヤンはそれをやった。(同書p10)
● それにしても。何と愚かなという思いが消えるわけではない。
 人の人生を,後生,大所高所から見てあれこれとあげつらうのはたやすいことだ。ぼくらはひとり残らず,愚かであることを免れないのかもしれない。何をしようと。あるいは,何もしなくても。
 それにしても。ここまでやる必要があったのか。そう思うことじたい,凡人の悲しさかもしれないけれど。
 この本を読んで,フルトヴェングラーもカラヤンも可愛いじゃないかと思えるようでありたいというのが理想だけどね。なかなかその境地には行けそうにないですね。

● 閑話休題。引用をひとつ。
 ベルリンを,すなわちドイツを代表するオーケストラであるベルリン・フィル管弦楽団が戦後第一回目の演奏会を開くのは,五月二十八日のことだった。敗戦からまだ一ヵ月もたっていない。ちなみに,日本においても,映画館は八月十五日から一週間は休館していたが,その後は営業を開始しているし,九月には日本交響楽団(現在のN響)の戦後第一回目の演奏会が開かれているので,「文化」というものは意外としたたかに生きているもののようである。(p132)
 気が晴れる話ではないですか。

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