2012年10月31日水曜日

2012.10.31 茂木健一郎 『挑戦する脳』


書名 挑戦する脳
著者 茂木健一郎
発行所 集英社新書
発行年月日 2012.07.18
価格(税別) 740円

● 茂木さんが出演していたNHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」は毎回見ていた。彼が出なくなってからは見なくなっちゃいましたね。
 たかだか1時間足らずの番組でその人の流儀などわかるわけもない。それでもね,茂木さんのホンワカポッチャリした様子は,あの番組に妙に合っていた。住吉アナとのコンビネーションもバッチリだったし。

● 彼の専門である脳科学など,ぼくにわかるわけもない。けれども,一般向けのエッセイをたくさん書いてくれている。それらはぼくにも手が届く。
 茂木さんがよく言うのは偶有性。「半ば規則的で半ばランダムな現象の性質」という意味で,彼は偶有性という語を使っているのだが,勇気をもって偶有性の海に飛びこめ,と言う。
 なぜなら,それこそが脳を活気づける唯一の方法だから,と。決まりきったルーティンは脳が好むところではない。それでは脳は失調してしまう。

● 茂木さん,子供の頃は蝶採りに夢中になり,アインシュタインの伝記を読んで科学者になると決めたそうだ。そのアインシュタインの伝記が彼にとっては大きな一冊になったわけだ。そうした本との出会いってのは,あるとすれば子供のときに限られるのだろう。長じてから,人生を変えるような一冊に出会えるとは思えないんですよねぇ。
 あるんだろうか。自分が気づかないだけで,そうした本にぼくも出会っているのか。とは思えないんだよなぁ。

● 茂木さんはクラシック音楽を扱った本も出しているくらいで,音楽にも詳しい。クラシックからビートルズ,尾崎豊まで。歌舞伎の話題もしばしば文中に登場する。舞台にかかる芸術芸能はすべて彼の守備範囲なのかと思えるほど。
 漱石を素材にした著書もある。『赤毛のアン』を材料にしたものも。ジェイムズ・ジョイスから村上春樹まで,こちらも気が遠くなるほどに渉猟している。
 スピノザやニーチェなど哲学者の説も頻出する。読んでいるんじゃなくて読みこなしているという感じなんですね。知のストックがすごい。
 それあればこそ,こうした一般向けの書籍を量産できるのでしょうなぁ。

● ちょっと多すぎる引用。
 そもそも,「知性」ということ自体が,有限の立場でしか成り立たない属性である。どこまでいっても知性は有限のものでしかないとすれば,「無知」であることを自覚することだけが,最高の知性のあり方となるのであろう。(p31)
 ある特定の性質に着目すれば,その限りにおいてある人がどれくらい「典型的」かを論じることができる。しかし,身長や身体の大きさなどに「これでなければならない」という「普通」の値など,本当は存在しない。あるのは,「典型的」な値だけ。たとえ典型的でなかったとしても,価値が下がるというわけではない。(p43)
 非典型的な脳は,その成育の過程でどうしても周囲とさまざまな摩擦を起こす傾向がある。その摩擦を,非典型的な脳を非難するきっかけにするのは最悪である。「みんなちがって,みんないい」という金子みすゞの精神を実践できるか。理解されずに光らないままでいる原石は,社会のさまざまな場所に潜んでいるはずだ。
 非典型的な脳ほど,その本質を理解する上では,常識にとらわれない大胆な発想と,異質なものを思い描く想像力が必要となる。多くの場合,本当に試されているのは非典型的な脳の持ち主その人ではなく,それに向き合っている周囲の方なのである。(p46)
 「挑戦する」ということが原理的なことである以上,私たちは決して「挑戦する」ことから逃れることはできない。そうして,脳の挑戦においては,負の資産が時に跳躍台となり,欠損が余剰への先駆けとなるのだ。(p62)
 天才とは,努力をしなくても何でもできる人のことを言うのではない。むしろ,天才とは,どのような努力をすれば良いのか,わかっている人のことである。そうして,そのような努力を惜しまずに続けることができる人のことである。(p81)
 人は,笑うことができるからこそ挑戦し続けることができる。リヒャルト・ワグナーの楽劇『ジークフリート』の最後には,「笑いながら死ぬ」という台詞がある。(中略)大らかに笑うことができる人が,結局のところ最も深く人生の「不確実性」というものの恵みを熟知している。杓子定規な真剣さは,往々にして臆病の裏返しでしかない。(p105)
 私の見立てでは,日本の不調は,たった一つの理由に基づいている。すなわちそれは,「偶有性忌避症候群」である。この症候群は,もはや日本の風土病とでも言うべきもので,社会のあらゆる場所に蔓延し,人々の思考力を低下させている。(中略)
 何が起こるかわからないという「偶有性」の状況。「偶有性」は,生命そのものの本質であり,環境との相互作用において,私たちの脳を育む大切な要素である。その大切な「偶有性」から目を逸らし,そこから逃走してしまうことで,日本人の脳は成長の機会を奪われている。
 人生には,最初から決まった正解などない。なのに,あたかも正解があるかのような思い込みをして,自分自身がその狭い「フェアウェイ」を通ろうとするだけでなく,他人にも,同じ道を通ることを求め,強制する。それは「挑戦する」という脳の本質からかけ離れている。(p111)
 「アンチからオルタナティブへ」。これからの時代に必要なのは,この精神であろう。脳の使い方としても,「アンチ」と「オルタナティブ」はかなり異なる。
 「アンチ」とは,つまりは,自分が気に入らないもの,ダメだと思うものに対して正面から向き合うということである。その欠陥,短所を言い募る余り,かえってとらわれてしまう。「アンチ」の立場に身を置くものはまた,巨大な悪に対する正義の味方であるかのような勘違いをしやすい。ただ異を唱えているだけなのに,大きな相手と同等のスケールにまで自分が成長したと勘違いする。(p126)
 「アンチ」は,分析や批評が中心であり,下手をすれば反対している対象に対して「おんぶにだっこ」になる。それに対して「オルタナティブ」は,不満のある現状から飛び出したある生き方を,具体的に示さなければならない。それは,一つの「創造」の行為である。(p127)
 「アンチ」を気取っているうちは,人は案外良い気分でいられる。いわば,花見酒に酔っているようなもの。自分が一人前の活動家であるかのような錯覚の中にいられる。「オルタナティブ」を志した瞬間,心細さが忍び寄ってくる。不安は,二つの側面から来る。一つは,いよいよ自分の身体を張って,ある生き方の道筋を示さなければならないということ。また一つは,自分が示した「オルタナティブ」は,所詮「その他大勢」のうちの一例に過ぎず,それが世に行われるかどうか,確証がないこと。(p128)
 「挑戦」は,若いときだけとは限らない。中年,老年になっても,脳にとっての挑戦は続く。脳は,完成することのない「オープン・エンド」なシステムである。何歳になっても,人間は新しいことを学び続けることができる。「私にはできない」という思い込みにとらわれない限り,何歳になっても,人は新しいことを習得することができるのである。(p142)
 そんな中,明らかになってきた日本の病理。たとえば,ペーパーテストの点数に固執した大学入試のあり方。あるいは,世界に例を見ない「新卒一括採用」の不条理。または,「記者クラブ」制度の不可思議。これらの問題について現状を批判する人は,往々にして、関係者の「悪意」や「怠慢」があると思い込んできた。私もまたそうであった。
 しかし,震災をきっかけに,ものの見え方が変わった。悪意があるのではない。サボっているわけでもない。ただ単に,できないのである。悪意や怠慢ではなく,純然たる能力不足。そのことこそが,日本の今日の問題点であると,私の中で確信された。
 日本の大学関係者は,志願者の資質を深く掘り下げて判定するような面接をする技術や,リソースを持っていない。日本の企業の人事担当者は,大学を卒業見込みの人以外の,非典型的な志願者の評価をするノウハウを持たない。そして,日本の多くの「ジャーナリスト」たちは,「記者クラブ」という護送船団の中で記事を書く以上の能力を持っていない。(p196)
 「自由」とは,「発明」であり,「発見」であり,「イノベーション」である。もちろん,昼食に何を食べるか,というような「小さな自由」もあるし,大切である。しかし,よりマクロな意味で,社会の中での「自由」の空気を生み出すものは,今までにないものの「発明」であり,未だ解明されていない真理の「発見」であり,社会のあり方を変える「イノベーション」なのである。(p220)

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