2012年12月30日日曜日

2012.12.30 清水玲奈・大原ケイ 『世界の夢の本屋さん』


書名 世界の夢の本屋さん
著者 清水玲奈
    大原ケイ
発行所 エクスナレッジ
発行年月日 2011.07.02
価格(税別) 3,800円

● ロンドン,パリ,ローマ,ミラノ,アムステルダム,ブリュッセル,ニューヨークなどの本屋さんを写真をメインに,オーナーや店員のインタビューを添えて紹介している。ドイツが入っていないのはなぜだかわからない。

● 本離れは日本だけの現象ではない。新刊書の増大に書店が苦慮しているのも,日本だけではない。イギリスでもイタリアでもフランスでも,事情は同じらしい。
 アマゾンを驚異に感じているのも,また同様。太平の惰眠を貪っていた書籍小売業界をたたき起こしたことが,アマゾンの功績ではないかとも思うんだけど。

● 若い頃なら,こういう本を見ると,自分も現地に行ってみたくなったろうな。が,この年になるとそんな気概?も湧いてこない。
 けれど,だから年は取りたくないとは全然思わない。

● ロンドンの「ドーント・ブックス・マリルボーン」の店長さんの話。
 今日,出版業界は電子書籍とアマゾンで売ることだけに力を注いでいて,これでは音楽業界の二の舞になりかねないと,私は危惧しています。書店はアマゾンのショールームとして使われる危機にさらされているのです。(p12)
● ロンドンの「ヘンリー・サザラン」の店員さんの話。
 読書家には女性が多いですが,コレクターはみんな男性で,読むためではなく,いわば狩猟本能を満たすために本を集めます。古い全集なども,一度も読まれた形跡がないことが多い。(p18)
 「英国でも住宅事情の悪化で,「お屋敷の書斎をいっぱいにするまで古書を買い集める」という熱心なコレクターは急速に減った。近年は,コレクターの多くが本を買い始めてからおよそ5年で,ぱったりと店に来なくなるそうだ」(p15)とのことなのだが,いいことなのじゃないか,これ。
 牛乳瓶のフタや切手やコインを集めるのは良くて,本を集めるのは悪いってことはまったくないと思うんだけど,読まないのにブツとして持ってるってのは,家族にははた迷惑だろうから。大きなお屋敷だとしてもさ。

● ローマの「メル・ブックストア」の店員さんの話。
 イタリアに本格的な読書人口は400万人しかいません。でも経済危機の後も,店の売り上げには影響はありませんでした。「本を読む人は,どんな状況でも本を読む」ものなのでしょう。(p88)
● 同じ書店の別の店員さんの話。
 私は本が大好きですが,セレクトには自分の趣味を反映しないように気をつけています。(p89)

2012年12月28日金曜日

2012.12.28 和田秀樹 『困ったときは人に頼ろう』


書名 困ったときは人に頼ろう
著者 和田秀樹
発行所 新講社
発行年月日 2012.11.27
価格(税別) 1,300円

● タイトルのとおり。タイトルだけ見て得心すれば,中身は読まなくたっていいようなもの。

● それだけでは身も蓋もないので,ふたつだけ引用。あとは,このことを手を変え品を変えて繰り返しているわけだ。
 ヘルプのサインを出すというのは,少しも恥ずかしいことではないし,他人に迷惑をかけることでもなく,むしろ苦しんでいる自分と,苦しんでいるかもしれないだれかを楽にしてくれることが多いのです。(p20)
 自分も周囲に甘えない。そのことに矜持を持っている。それは立派かもしれませんが,不機嫌でした。なぜなら,イヤなこと,苦しいことがあっても口にできないからです。悪い感情を溜め込めば,だれだって不機嫌になります。(p21)

2012.12.28 矢部智子 『本屋さんに行きたい』


書名 本屋さんに行きたい
著者 矢部智子
発行所 アスペクト
発行年月日 2009.05.07
価格(税別) 1,600円

● これもセレクトブックショップやブックカフェの紹介本。島根県松江市にある「artos Book Store」が紹介されてて,この種のお店は地方では無理と思いこんでいた,こちら側の独断と偏見を砕いてくれたのが,ちょっと嬉しかったりする。
 こうした業態のお店がともかくも存在している松江って,すごいのかも。

● 本屋をコミュニケーションの場にしたいっていう店主の発言がけっこう出てくる。実際には難しいんだと思うんですよ,これ。コミュニケーションのあるところ,トラブルあり。トラブルの坩堝に突っこんでいく覚悟がないとなかなか。
 それをやれている人は尊敬に値する人ですよ。たぶん,自分には無理だと思うので。

● 「New Standard of Japaniese Bookstores」という英語の副題が付いている。実際,5年,10年と続いているお店があるわけだから,これでいいんだけれども,さりとてこのスタイルがこれからも続いていくのかどうか。

2012年12月27日木曜日

2012.12.27 『TOKYOブックカフェ紀行』


書名 TOKYOブックカフェ紀行
発行所 玄光社MOOK
発行年月日 2012.12.13
価格(税別) 1,200円

● 東京の大型書店で店内に喫茶コーナーを設けるところが出始めたのは,今から30年も前のことだろうか。ちょっと,画期的だった。やっぱ東京は違うなぁと思ったね。

● はるかな昔,法科の学生だった頃。書店で「法学セミナー」なんていう月刊誌の最新号を買って,行きつけの喫茶店に立ち寄ってページを繰るのは,たしかに満たされた時間だった。
 社会人になってからも,田舎町の喫茶店で,お店備え付けの週刊誌で開高健の連載を読むのが楽しみだった。書籍・雑誌と喫茶の組合せは,幸せ感を醸すのにちょうどいい。

● ところが東京ではもっと進んでいるんですなぁ。進むというより,やむを得ない仕儀なのかもしれないけれど。中には高級ホテルのライブラリーじゃないかと思えるようなものもあって,こういうところで,コーヒーカップを片手に本を読んだら,さぞかし優雅だろう。
 もっとも,本が見えるところで本を読むのはいやだっていう人もいるよね。図書館には行くけれども,館内で読書するなんてあり得ないっていう人。まぁ,世の中は色々だ。

● カフェといっても,ここで紹介されているお店の過半では,店内の本を購入できる。書店でもある。この業態も都市ならではかなぁ。栃木じゃあり得んだろうなぁ。
 実際,こんなお店ができたらおまえ行くかと問われると,たぶん行かないような気がするんですよね。本なんかどこでだって読めるんだもん。本を読む環境のためにお金を払う? ちょっと無理,みたいな。これがおそらくは田舎人の平均的なところだ。ゆえに,都市でしか成立しない,と。
 けれども,それで終わりじゃない。都市でしか成立しない文化現象は,田舎人の憧れになる。しこうしかして,文化は都市から田舎に流れる。いずれは田舎にもこうした業態のお店ができるかもしれない。

2012.12.26 『TOKYO本屋さん紀行』


書名 TOKYO本屋さん紀行
発行所 玄光社MOOK
発行年月日 2012.12.13
価格(税別) 1,200円

● 本屋に求める第一のものは品揃えだ。田舎に住んでいると特にそうだと思うんだけどね。大型書店がいい書店っていうのが,疑うべからざる前提としてある。

● けれども,どんなに容器を大きくしても,出版点数の飛躍的な増加には追いつかない。書籍全体の売上げは減少傾向なんだから,スペースあたりの生産性は下がる一方だ。
 購入者にすれば,買うだけなら,アマゾンをはじめネットが便利だ。

● というわけで,ってそれだけが理由ではないんだろうけど,数(品揃えの総アイテム数)ではなくて,センスを棚づくりの基本にする本屋が出てきた。棚を編集するってやつ。

● 本書は,それらの特色ある書店を取材して編んだもの。写真が豊富で,見ていくだけで楽しくなる。そうか,東京ではこんな本屋ができているのか,ってね。

● 栃木ではなかなか成立しないだろうな,これは。
 宇都宮のララスクエアには「遊べる本屋ヴィレッジヴァンガード」があるけれども,これは書籍のほかにCDや雑貨も売っているっていうだけで,書棚に店主の好みが現れているとかっていうことはなさそうだしな。

2012年12月26日水曜日

2012.12.25 宇野功芳 『新版 クラシックの名曲・名盤』


書名 新版 クラシックの名曲・名盤
著者 宇野功芳
発行所 講談社現代新書
発行年月日 1996.09.20
価格(税別) 728円

● 「クラシックの入門者は,まず曲の好き嫌いに始まり,興味はやがて演奏者に移ってゆく」(p16)ものだ。ほとんどの人がその道をたどる。
 が,ここで注意すべきことがふたつあると思う。

● ひとつは,いわゆる名盤といわれるものが,自分にとっても名盤であるとは限らないってこと。
 本書のほかにも,名盤紹介の本はたくさんある。なぜあるのか。需要があるからだ。どうせ聴くなら「名盤」でと思う。自分でいろいろ聴きくらべるよりも,識者のご意見をいただいちゃった方が手っ取り早い。効率的だ。時間の節約になる。
 でも,そこに落とし穴がある。それはその人にとっての名盤なんだよねぇ。だから,ここで効率を求めすぎてはいけないんだろうなぁ。

● もうひとつは,究極の1枚ってのはたぶん幻想だろうってこと。ありゃしないんだと思う,そんなものは。今日の自分にとっての究極が,明日の自分にとっても究極だとは限らないから。過去の自分なんて他人だからね。自分とはいつも揺らいでいるものだ。究極とは相容れない。

● そもそも16年前の本だから,CDガイドとして使うときも,本書の射程範囲に注意が必要。

● ということを前提にして,本書を読む。面白かったですよ。まず,曲目解説として楽しく読める。もちろん,ここでも著者の解釈による解説だ。でも,ぼくのような者は色々と蒙を啓いてもらえるわけでね。
 それと,音楽用語(のいくつか)を知ることができる。
 もうひとつ,この世界に独特の表現ってのがあるんですな。たとえば,「声に自我があり」(p75)とか「左手の音型のしゃべらせ方」(p178)とかね。こうした言い回しにも慣れておいた方がいいのかもしれない。

● 具体的な収穫もあった。恥ずかしながら,ぼくはモンテヴェルディの「聖母マリアの夕べの祈り」を知らなかったもので。それと合唱曲の高田三郎「水のいのち」も。
 さっそく聴いてみようと思う。

● カラヤンはケチョンケチョンだ(ただし,プッチーニ「蝶々夫人」など3つだけ,カラヤンのCDを推奨してもいる)。

 モーツァルトの「ディヴェルティメント第17番」について,「弦を合奏にするとモーツァルトのチャーミングな旋律線がぼってりとして,美しさを半減させてしまう。カラヤンのCDがよい例だ」(p44)

 「戴冠ミサ曲」では,「カラヤンなど,多くの人に絶賛されているが,僕にいわせれば,曲の魅力をこれっぽっちも伝えておらず,威圧的で粗い。独唱もなよなよしすぎる」(p78)

 ベートーヴェンの「交響曲第3番」では,「カラヤン/ベルリン・フィルなど,オーケストラは数段上だが,いくら技術的に優れていても,本当に魂のこもった迫力において大阪フィルより落ちる。それはやはりカラヤンの指揮が外面的だからであろう」(p94)

 同じく「交響曲第5番」では,「フルトヴェングラーにくらべると,現代の指揮者の演奏はなんとむなしいことか。カラヤンはその最たるもので,まるでスポーツ・カーに乗ってハイ・スピードで飛ばすような「第五」であり,スマートでカッコイイかもしれないが,ベートーヴェンからはあまりにも遠い」(p97)

 メンデルスゾーンの「交響曲第3番」では,クレンペラー/フィルハーモニア管弦楽団を推奨して,「たとえばカラヤンと聴きくらべてみてほしい。おなじ曲がなんでこんなに違うのか。芸術家としての才能の違いがいやというほどわかるはずだ」(p168)

 プッチーニ「ラ・ボエーム」では,「一般に評判の高いのはカラヤンのCDだが,指揮者の詩情の乏しさ,芸術性の低さが大きなマイナスとなっている」(p254)

 レハールの「メリー・ウィドウ」では,「人はすぐにカラヤン,カラヤンとさわぐが,品格,芸術性,音楽性のすべてにおいてマタチッチとは格段の差がある。名前にだまされてはならない」(p282)

● この時期,カラヤンはすでに蔑みの対象になっていたようだ。このモードは現在も継続中。
 「芸術性」っていうのは,どうにでも転ぶ抽象語だ。できればきちんと定義できた方がいいね(できなそうだけど)。定性的な抽象語を裸のままにして否定の道具に使うと,神々の争いになってしまいそうだ。
 昔,マルクス主義に乗って,時の政府を攻撃するという愚鈍かつ安直きわまるやり方で,ヒーローを気取っていたかに見える馬鹿者たちがいた。その名前がチラチラする。
 本書の著者をそういう人たちと同列に置いてしまうのは,無礼千万ではあるんだけど。

2012年12月25日火曜日

2012.12.22 利倉 隆 『イメージの森のなかへ ゴッホの魂』


書名 イメージの森のなかへ ゴッホの魂
著者 利倉 隆
発行所 二玄社
発行年月日 2008.02.25
価格(税別) 1,900円

● 最も凄絶な人生を送った画家をひとりあげろと言われれば,ゴッホということになるんだろうか。
 本書は,アルルに移ってから拳銃自殺する(事故だったという説もある?)までの2年半をたどりながら,ゴッホの作品を解説する。

● 紹介されている作品は次のとおり。
 ラングロワ橋
 夜のカフェ・テラス
 郵便配達夫ジョセフ・ルーランの肖像
 ひまわり
 ゴッホの椅子
 ゴーギャンの椅子
 耳に包帯をした自画像
 サン・レミの精神病院の庭
 アイリス
 花の咲いたアーモンドの枝
 星空の下の糸杉の道
 星月夜
 自画像
 人物のいる村の通りと階段
 ガッシェ医師の肖像
 カラスのいる麦畑
 一足の靴

● 神様に選ばれてしまった人間の栄光と悲惨。
 でも,弟テオがいた。彼がいなかったら。ゴッホの作品はなかったかもしれない。その前に,ゴッホの人生が人生たり得なかったかもしれない。

2012.12.22 利倉 隆 『イメージの森のなかへ ルソーの夢』


書名 イメージの森のなかへ ルソーの夢
著者 利倉 隆
発行所 二玄社
発行年月日 2008.02.25
価格(税別) 1,900円

● だんだん立体感のないベッタリした絵本チックな画風になっていくんですね。画家としての出発がだいぶ遅い人なんだ。

● 紹介されている作品は次のとおり。
 蛇使いの女
 陽気な道化者たち
 飢えたライオン
 ジャガーにおそわれた黒人
 私自身,風景=肖像
 入市税関
 ジェニエ爺さんの馬車
 詩人に霊感をさずけるミューズ
 マラコフの眺め
 セーヴル橋の眺め
 サッカーをする人たち
 花
 カーニヴァルの夜
 不意打ち!
 眠るジプシー女
 夢

2012.12.22 利倉 隆 『イメージの森のなかへ レオナルドの謎』


書名 イメージの森のなかへ レオナルドの謎
著者 利倉 隆
発行所 二玄社
発行年月日 2008.02.25
価格(税別) 1,900円

● 初心者に対する鑑賞の手引き。

● 紹介されている作品は次のとおり。
 モナ・リザ
 キリストの洗礼
 受胎告知
 東方三博士の礼拝
 白てんを抱く貴婦人
 岩窟の聖母
 最後の晩餐
 聖アンナと聖母子
 洗礼者ヨハネ

2012.12.22 利倉 隆 『イメージの森のなかへ フェルメールの秘密』


書名 イメージの森のなかへ フェルメールの秘密
著者 利倉 隆
発行所 二玄社
発行年月日 2008.02.25
価格(税別) 1,900円

● 絵画鑑賞に関してまったくの素人に向けて,こういうふうに鑑賞すればいいんだよっていう感じで,ガイドしてくれるありがたい本。

● ヨーロッパの絵画を見るにあたっては,聖書は旧約新約とも読んでおかないといけないようだ。できれば,ギリシア神話についても承知しておいた方がいい。かの地における教会や修道院の存在感を実感できればさらにいいのだろう。

● 本書で紹介されている作品は次のとおり。
 絵画芸術の寓意
 真珠をはかる女
 牛乳を注ぐ女
 真珠の首飾りの女
 手紙を読む青衣の女
 手紙を書く女と召使い
 レースを編む女
 デルフトの眺望
 真珠のネックレスを持つ女
 天文学者
 窓辺で手紙を読む女
 音楽の稽古

2012年12月24日月曜日

2012.12.23 伊集院 静 『美の旅人』


書名 美の旅人
著者 伊集院 静
発行所 小学館
発行年月日 2005.05.20
価格(税別) 4,500円

● 1998年から2000年にかけて「週刊ポスト」に連載されたもの。したがって読みやすいはずなのだが(実際,読みやすいんだけど),ずっしりと重い本で読みごたえがある。
 作家の眼力というか,目の付けどころのユニークさを味わうものだろう。そうか絵ってこういうふうにも見ることができるのか,と。

● 主にスペインのゴヤ,ダリ,ミロの作品について語られる。編集も行き届いていて,絵の配置にも気が配られている。文章を読んでいる読書に,絵を見るためにページを戻す手間をかけさせないように配慮して,本が造られている。

● ぼくは美術を苦手とする。自分で絵を描くのは論外として,絵を見ても何もわからないんだな。この本を読んで,その理由の一端を理解した。
 要するに,絵を見てなかったのだ。全体をパッとみて終わりにしていた。何かあれば絵の方から自分に訴えてくるはずだと思っていた。
 細部をゆるがせにしないことが大切なんだねぇ。となると,美術鑑賞はこれからもぼくには苦手のままで残ることになるかぁ。

● 著者は,絵に直に対面してそこから受けるものがすべてだと,何度か繰り返している。そうだとしても(そうだからこそ),見る側の器量が問われるんですね。その人なりの器量に応じた見方しかできない。こうして文章にするとあたりまえのことにしかならないんだけども,世の中に美学なんて言葉があるものだから,鑑賞の仕方にもセオリーがあるのかと思いがちになる。
 もちろん,いくつかの細かい約束事はある(したがって,知っていなければならない最低限の知識はある)にしても,深く鑑賞できるかどうかは,鑑賞者の人間性というか,その人のすべてが問われるということなる。

● そうは言いながらも,著者は実際には勉強もしてますよね。かなりのレベルで実作もしているはずだ。でなければ気づけないような感想がいくつも出てくる。

● 著者はダリについて次のように書いている。
 彼はいきなり,己の内にあるものを描こうと試み,内にあるものを模索しはじめたのである。青年ダリは容易に発見できぬ,己の内に潜む,絵画の魂,創作の源泉を探し,うろたえたに違いない。 -私の内に,そのようなものがあるのか? 普通の人間ならその問いを発し,挫折し,失望し,創作と別離する。ダリはそんなヤワな人ではなかったろう。暴挙であれ,己を信じた。信じるしかなかった。さらに彼は内なるものを自ら創作しようとしたのではないか。なぜ,それができたか? ダリは近代,そして現代において,基準,基軸というものがないことを早い段階で察知していた気がする。(p284)
 ひょっとすると,ダリを自分の文学創作に引き寄せて解釈しているのかもしれない。著者にしかできない解釈なのだろう。

● ゴヤ,ダリと見てきて,ミロに至ったときに,作者はホッとしたと書いている。が,ミロの抽象画は解釈の手がかりを与えないというか,百パーセント自由な解釈を保障しているというか,ぼくには途方に暮れるしかないもの。
 引用ふたつ。
 よほど裕福な家に生まれたとか,よほどのパトロンを持ち合わせた者以外の画家は,世間に認められるまでの時間,必ずと言っていいほど,貧困に身を置いている。それは逆説で述べると,貧困を通過しなかった画家は何かをなし得ていないということになる。家柄もよくパトロンにも恵まれた若い画家のほとんどは途中で挫折し,私たちに作品を残していない。ならば貧困ないし,困窮の中には,創造者に何かを宿らせる力のようなものがあるのだろうか。もしあるとすれば,ひとつではなかろうか。それは,-なぜ自分はこうしてまで,この生き方に耐えなくてはならないのか? と彼等が貧困の中で問いかけたからではないだろうか。その問いの答えは,他の道を選択することではなく,なぜ,人間が表現しなくてはいけないのか,創作しなくてはならないのかに辿り着くはずである。表現,創作は,その人の生の根幹に近いところから生じていることを考えるきっかけ,時間,状況を,貧困は持ち合わせているのかもしれない。(p318)
 日本の近代の作家の中でも,破滅型の人間を容認する傾向があるが,そんな暮らしと創造は相成り立つものではなかろう。 幻想的な世界,それが絵画であれ,音楽であれ,文章であれ表現される時には,冷静な作家の視点,背骨のようなものがなければ,何かは生まれない。 ミロは若い時から一見,おとなしくて,ひ弱そうに周囲の人々には映ったが,彼の内実は強靱そのものであったのだろう。(p323)

2012年12月23日日曜日

2012.12.22 田中幸夫 『卒論執筆のためのWord活用術』


書名 卒論執筆のためのWord活用術
著者 田中幸夫
発行所 講談社ブルーバックス
発行年月日 2012.10.20
価格(税別) 880円

● 『Wordというソフトは,直感的な操作が可能であるがゆえに,あらためてその使い方を勉強する機会は多くありません。卒業論文の執筆時も多くの人は自分の知っている操作方法の範囲で作業を進めてしまい,「本来しなくても済む作業」をしてしまいがちです』(p4)という状況がある。
 そこで,こうすれば楽になるよっていうのを解説したのが本書。

● 『Wordにはさまざま機能が搭載されていますが,それらは大きく2種類に分けられます。1つは「日常的に使用しながら習得できる機能」で,もう1つは「体系的に学ばないと習得できない機能」です。卒業論文の執筆では,後者の機能をいかに使いこなせるかが作業量を決める大きな鍵となってきます』(p233)とのこと。

● 自分が論文を書くという環境にない人(ぼくのこと)にとっても,Wordってこんなことができるのかっていう発見の連続。
 が,身につまされる状況にいないと,読んでも頭に入ってきませんね。操作マニュアルを読むようなものだから。肝心のところは飛ばし読みになってしまいました。

2012年12月22日土曜日

2012.12.21 永江 朗 『作家になるには』


書名 作家になるには
著者 永江 朗
発行所 ぺりかん社
発行年月日 2004.12.25
価格(税別) 1,170円

● ぺりかん社の「なるにはBOOKS」の1冊。ということは,高校生や大学生を読者対象として想定しているのだろうが,これはその枠を超えて,年寄りが読んでも面白い内容になっている。
 たとえば,73ページから82ページの10ページは,日本近現代文学史をギュギュッと圧縮して,しかも読みやすく提供してくれている。

● 何人かの作家をインタビューしており,それも楽しく読める。インタビューした作家は次の7人。篠田節子,保坂和志,上遠野浩平,佐野眞一,貫井徳郎,大原まり子,いしいしんじ。
 小説家っていうと,呑む打つ買うの三拍子が揃ってて,昼は寝てて夕方に起きだし,ゴールデン街や銀座に繰りだし,娼婦とかホステスとかを相手にし・・・・・・っていう無頼派を連想してしまう。
 朝起きて,昼は働き,夜は寝るという生活をするのは,いわゆる小市民であって,そういう普通の生活をしてたんでは小説なんて書けないと思ったりするんだけど,今の作家はどなたも規則正しい生活をしている。
 どうやら,長く作家を続けていた人たちは,昔からじつはそうだったらしい。言われてみれば,そりゃそうだよなぁと納得できる。そうじゃなかったら続かないはずだもんな。

● 引用をひとつ。
 あるベテランの作家は「ぼくはちょっとだけ覗いたような資料も参考文献一覧に入れています。それが資料を書いた人への礼儀ですし,盗用や盗作問題を避ける一番の方法だと思います。それに,むずかしい本が参考文献としてあげられていたら,『この作家は,こんなにむずかしい本も読むのか』と思ってもらえるかもしれませんからね」と笑っていました。(p107)
 これって,学術書や論文なんかだともっとそうなんだろうね。巻末に載っている参考文献の膨大さに圧倒される思いがするんだけど,「ちょっとだけ覗いたような資料」がたくさん掲載されているんだろうな。っていうか,それが大半だったりして。

2012年12月19日水曜日

2012.12.19 永江 朗 『いまどきの新書』


書名 いまどきの新書
著者 永江 朗
発行所 原書房
発行年月日 2004.12.24
価格(税別) 1,200円

● 副題は「12のキーワードで読む137冊」。12のキーワードとは,社会,ビジネス・経済,生き方,思考の道具,暮らし,趣味,国際,芸術,科学,歴史,文化,読書で,それぞれが章になっている。

● 『恥ずかしい読書』が面白かったので,これもさぞかしと思ったらアテがはずれた。
 読書は人を賢くしない。これって,故井上ひさし氏の政治的発言がその例証になると思っている。井上氏はとんでもない読書家として知られていた。雑誌でいえば,「法学セミナー」や「ジュリスト」まで読んでいたらしいから。でもって,小説家,脚本家としては押しも押されもしない位置にいたのに,米の輸入とか憲法問題に関する発言レベルはどうだったか。
 けれども,井上氏には本業があったからよかった。餅屋は餅屋に任せればいいのに,と思うことができた。
 永江さんのこの本はどうなのだろう。余技なのかなぁ。

● といっても,アテがはずれたのは,社会,ビジネス・経済,思考の道具,国際といったあたりであって,それ以外は別にイライラしないで読むことができた。

● イライラしたところをいくつか挙げてみる。
 菊田幸一『日本の刑務所』を取りあげているところ(p28)では,刑務所に入ってくるのは初入者より再入者が多いことを紹介して,「そもそも,出所者がまた罪を犯したとき,彼/彼女を矯正できなかった刑務所には責任がないのか」というのであるが,数ヶ月や数年の間にどうすれば矯正できるのか,逆に訊きたい。
 「善良なる一般市民が犯罪被害者とならないためにも,再犯者を減らすこと,出所者がうまく社会に適応できるような刑務所と矯正プログラムを作ることが必要だ」と結んでいるんだけど,作ってみるがいい。作れるものなら。
 そんなことは言われなくてもわかっているのだ。わかっているけれどもできないのだ。だから苦しい。

● 斎藤貴男『教育改革と新自由主義』を取りあげた箇所(p30)では,「ゆとり教育は,それまでの知識偏重のつめこみ教育への反省から生まれたかのように受け止められているが,実態はちがう。ごく一握りのエリートと,大多数のロボットのような国民を作り出すために,産業界と官僚がたくらんだことだ」という。
 ゆとり教育は壮大な失敗だったとする意見が今では大勢だろう。それに異論はないけれども,こういうのを読まされると,いわゆる同和問題なるものが,農民の不満をやわらげるために,織豊政権と江戸幕府によって,上から政策的に創られたものだという説を説かれたときと同じ気分になる。疲れる。どうしてこういう安直きわまる犯人捜しに走るのか。
 政治や行政が無から有を生むことなど,できるものか。お上を買いかぶってはいけない。基本的にお上は無能なのである。お上がそんなに手際よく何事かを成し遂げられるはずがないじゃないか。

● 田中敦夫『日本の森はなぜ危機なのか』を取りあげた箇所(p54)では,「いずれにしても森林復活の鍵は魅力ある商品開発ができるかどうか。ビジネスセンスがなくては,自然環境も守れないのである」と結ぶ。
 ハァーッ。これを知らない人がいるのか。これは問題の出発点であって,ではどうすればいいのか,その具体的な方法論を考えるのが問題のすべてだ。これを結びにするくらないなら,口をつぐんでいることがなぜできないのか。

● 連載媒体が「週刊朝日」だったってこともあるんだろうか,頻発する政治批判が今となっては薄っぺらいんですよねぇ。言う方に何の覚悟も感じられない。「茶の間の正義」を散らかしているだけではないか。あるいは誰も反論できない正論を述べて,字数を整えているだけではないのか。
 というわけで,読み始めてしばらくは,本書中で読むに値するのは「まえがき」と「あとがき」だけじゃないかと思っていた。

● やっぱりねぇ,得手不得手ってあるんでしょうね。政治や経済って大事なことなんだろうけど,大事なことだから発言しなきゃいけないってことになるのかなぁ。不得手だと思ったら徹底的に背を向けると決めてしまうのはダメ? 歴史はしょせん過ぎたことだけれども,政治は自分の生活に直結すると思うから,何か言わないではいられないところはあるんだろうけどさ。
 あるいは,発言しやすいんでしょうね。この分野って。素人でも口を出しやすい。口を出すと,たとえば時の首相を批判すると,批判する自分も首相と同じ大きさになったような錯覚を得られるってこともあるだろうし。

2012年12月18日火曜日

2012.12.18 永江 朗 『恥ずかしい読書』


書名 恥ずかしい読書
著者 永江 朗
発行所 ポプラ社
発行年月日 2004.12.01
価格(税別) 1,300円

● 本と読書にまつわる諸々のことがらをエッセイに仕立てた読みもの。面白く読めた。

● 具体的な読み方でなるほどねぇと思ったのを2つ紹介。
 ひとつは「写真集をカメラのファインダー越しに見る」(p64)というもの。これをすると「構図の秘訣がなんとなくわかってくる」んだそうだ。「すぐれた写真家は,ファインダーのなかの点で見ているのではなく,ファインダー全体を見ているらしい」(p66)と。
 もうひとつは,本を「逆さにしたり横にしたりして眺める」(p112)こと。たとえば,「書の鑑賞というと,私のような素人は,つい字の形を見てしまう。整っているとか,荒々しいとか。だけどこうして横にしたり逆さにしたりして見ると,形ではなく筆の運動が見えてくる。いままでとは違った書の美しさや面白さが見えてくる」(p116)

● 著者はThinkPadユーザーだと書いているので,オレと同じかぁと思っていたら,途中からMacユーザーに変わっていた。
 だから何がどうってことはないんだけど。

2012年12月15日土曜日

2012.12.15 中川右介 『世界の10大オーケストラ』


書名 世界の10大オーケストラ
著者 中川右介
発行所 幻冬舎新書
発行年月日 2009.07.30
価格(税別) 1,300円

● 新書とはいえ500ページ。量的な読みごたえはありすぎるほどにあった。

● 世界のオーケストラから10を選びだすことの困難さについては著者も語っているが,ともかく次のオーケストラが登場する。
 シュターツカペレ・ベルリン
 ニューヨーク・フィルハーモニック
 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
 サンクトペテルブルク・フィルハーモニー管弦楽団
 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
 ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
 イスラエル・フィルハーモニック管弦楽団
 フィルハーモニア管弦楽団
 パリ管弦楽団

● 著者が「まえがきにかえて」でも書いているけれども,この本は「オーケストラを通じて十九世紀後半から二十世紀の終わりまでの「世界」を描くもの」になっている。それぞれのオーケストラがそれぞれの「国家や都市とどう関係してきたか」が叙述される。オーケストラから見た欧米近現代史のようなものだ。

● 最も印象に残った人物は,サンクトペテルブルク・フィルハーモニー管弦楽団で登場するショスタコーヴィチ。スターリン時代のソ連で生きた人だけれど,具体的に生命の危機を感じながら生活していた時期があった。親族が収容所に送られたり,逮捕されたりという経験も味わっている。これはフルトヴェングラーもカラヤンもマーラーも味わうことのなかった体験。
 交響曲5番で復権できたからいいようなものだが,余人の容喙を許さない体験ってこういうことだな。

● ニューヨーク・フィルハーモニックの章で次のような記述がある。映画(無声)が登場する前はクラシック音楽のコンサートが「娯楽の王座」だったことがわかる。
 しかし,この時代,娯楽を享受できるのは上流に限られていたはず。大方の人たちは娯楽とは無縁の世界に生きていた。映画も音楽も,それらが大衆化するのはもっとずっと先のこと。
 すでにニューヨークは大都会であり,ブロードウェイには七十もの劇場がひしめいていた。映画はまだ無声映画だったが,観客を増やしており,クラシック音楽が娯楽の王座から転落する日が近いのは誰の眼にも明らかだった。(p83)
● 指揮者の苦労について。
 指揮者たちは音楽監督になると,ある種の使命感で現代音楽を演奏したがり,その結果,批評家からは評価されるが,聴衆と理事会の支持を失う。現代音楽が少ないと批評家たちが批判するのも事実だが,批評家は客を連れて来てはくれない。それが,二十世紀後半のオーケストラの音楽監督にとって,最大の悩みだった。(p110)
● ウィーン・フィルについて著者は次のように書いている。
 多くの指揮者たちの評伝を読むと,このオーケストラと関係した指揮者たちのほとんどは,オーケストラとの関係において不幸である。関係した男たちすべてを不幸にする悪女的なオーケストラなのだ。だからこそ魅力があり,だからこそ指揮者たちはこのオーケストラに吸い寄せられるのかもしれない。(p136)
● 最後に,「あとがき」から現在のオーケストラと指揮者についての総括部分を引用。
 昨今は,オーケストラに限らず,指揮者も,あるいはピアニストやヴァイオリニストといった独奏者たちも,「個性がなくなった」と言われる。(中略) 個性がないのは,みんなが幸福になったからなのだ。個性あるオーケストラ,個性ある指揮者が,戦争と革命の不幸な時代がもたらしたものだとしたら,それを生むためには,またも何千万もの人々が殺されなければならない。 現在のオーケストラに個性がなくても,別にいいではないか。昔のような個性を聴きたければ,過去の録音を聴けばいいのだ(p500)

2012年12月13日木曜日

2012.12.12 中川右介 『指揮者マーラー』


書名 指揮者マーラー
著者 中川右介
発行所 河出書房新社
発行年月日 2012.04.30
価格(税別) 1,800円

● マーラーのいわゆる伝記ではない。妻マルタの浮気にマーラーが悩まされたことは有名な話だけれども,本書ではこの点についてはごくアッサリとふれるに留まっている。あくまでマーラーの指揮者としての活動を追ったものだ。
 文章が平明なのがありがたい。学者や専門家が書くと,おどろおどろしい文章にするんだろうな。これほどの水準のものをこの文章で読めるのは,それ自体がひとつの幸せ。

● 本書を読んでの感想は,マーラーは音楽家としては比較的順調な歩みを歩んだのだなということ。同じ中川さんの筆によるフルトヴェングラーやカラヤンに比べれば,穏やかといってもいい印象。大人だったというか,後先を考える人だったのですね。
 もちろん,それだけでは本にならない。著者は本書の「はじめに」で,マーラーについて「内向的な作曲家はいても,内向的な指揮者はありえない。計算高く権謀術数に長け,出世欲を剥き出しにし,独裁者として歌劇場とオーケストラを指導・監督し,過剰なまでの情熱で音楽に取り組んだ人なのだ」と紹介している。

● というわけで,これまた当然ながら,著者はマーラーが好きなのだ。
 マーラーに限らず,人間というものは,日々の仕事でも,家族や友人,恋人との関係でも,さまざまな些細な出来事が起きる。それの積み重ねが人生である。天才音楽家といえども,二十四時間の全てを音楽に没入できるわけではない。逆に言えば,この際限のない日常の雑務をこなしながら,なおも創作できた者が,歴史にその名を刻むのだ。(p70)
 ラフマニノフは,マーラーについて(中略)こう書いている。「マーラーによれば,総譜の細部すべてが重要であった-これは数多い指揮者のなかで稀有の心構えである。練習は十二時三十分に終わる予定だったが,その時刻を大幅に超過し,演奏に演奏を重ねた。その後に,マーラーが第一楽章をもう一度練習すると告げた時,私は楽団員が抗議するか大騒ぎするのではと思った。しかし,誰一人,何の気配も示さなかった」。つまり,マーラーのリハーサルはいつもこんな調子だったのだろう。(p212)
 指揮のことばかり書いたのは,作曲について軽視しているからではない。「マーラーにとって作曲は夏休みの余技にすぎない」と言いたいのではない。音楽活動全体のなかで,これっぽっちの時間しか割かなかったのに,あんなにも偉大な交響曲を書いたことを,逆説的に強調するためである。(p233)
● 指揮者という職業について。
 若くしてひとを指導し,まさに「指揮」するのが,指揮者という職業だ。彼が指図するオーケストラのなかには,父親よりも年長の者もいるだろう。音楽家としてのキャリア,その歌劇場でのキャリアがはるかに長い人々に対して,生意気にも棒で指図するのが指揮者である。この職業は,したがって,遠慮深い性格の人には向かない。尊大でなければ務まらない。(p26)
● 次の意見については,その通りだと思う人もいれば,ちょっと待て,それは言い過ぎじゃないか,と考える人もいるだろう。
 興行師グートマンは「千人の交響曲」あるいは「ファウスト交響曲」と命名して宣伝しようとしたが,マーラーはそのどちらの案も激しく拒否した。現在の日本では,演奏会やCDで,この曲が「千人の交響曲」と呼ばれているが,マーラーが断固拒否したものである。ベートーヴェンの「運命」もそうだが,日本では作曲家の意図とは全く関係のない曲名が,「その方が売りやすい」という理由で流布している。「作曲家が知らない題」も罪深いが,「作曲家が拒否した題」を平然と使い続けていることのほうが,その罪は重いだろう。無知ゆえのことであるのかもしれないが,知っていてなおも「千人の交響曲」と呼んでいるのであれば,それは冒瀆である。(p218)
 ぼく一個は,いい悪いの話ではなくて,これは避けられないという意見。大げさにいえば,文化の伝播には必ずこの現象が起こる。かつ,この現象に関しては作者といえども発言権はない。
 死ぬ前に自分の葬儀についてああしろこうしろと指図したところで,遺族がそれに従うかどうかはわからないのと同じだ(たいていは従わない,あるいは従えない)。葬儀は死者ではなく残された者のために執り行われるものだ。いかに確固たる価値観のもとに指図されたものであれ,どれほど深刻な事情があって指図されたものであれ,その指図に従うかどうかの決定権は遺族にある。
 21世紀の日本でマーラーの8番に「千人の交響曲」と付けているのを,天国のマーラーが憤慨して見ているかどうか。どうでもいいやと思っているんじゃないのかなぁ。

2012年12月10日月曜日

2012.12.10 中川右介 『モーツァルトミステリーツアー』


書名 モーツァルトミステリーツアー
著者 中川右介
発行所 ゴマブックス
発行年月日 2006.07.10
価格(税別) 1,300円

● モーツァルトはバチカンのスパイだったかも,などモーツァルトを素材にした楽しい読みもの。著者はひょっとしたら大衆小説も書けるのじゃないかと思いましたけど。

● 楽しく読みながら,しかし,モーツァルトの生涯がわかる。そうか,こんなふうに生きた人なのか。
 それと,ザルツブルク,ウィーン,プラハの観光案内もしてくれる。本書を読むと,ザルツブルクやウィーンにはもう行かなくてもいいか,だいたいわかったから,と思わせます。

● 引用をふたつ。
 モーツァルトも,ウィーンで活躍した時代は,自分の芸術家としての本能というか魂に突き動かされて,作曲するようになるんだ。そういう意味では新時代の人だった。とはいえ,ザルツブルク時代は,ようするにサラリーマンだった。だから,モーツァルトの曲はなんでもすばらしい,ということになっているけど,初期から中期の作品はつまらないものが多いんだ。モーツァルト信者の言うことを真に受けないほうがいい。(p115)
 それにしても,学者とか評論家も,みんなモーツァルトが書いた手紙とかを,そのまま信用するのはどうしてなんだろう。手紙や日記だから,本当のことを書いてある,なんて思うほうがおかしいと思うんだよね。犯罪捜査だって,自白だけでは有罪にはできないし,家族の証言はほとんどあてにならないってことになっているのに,芸術家の書いた日記や手紙は,そのまま信用されてしまう。それこそがミステリーだよね。(p244)

2012.12.09 日下公人 『日下公人が読む2013年~ 日本と世界はこうなる』


書名 日下公人が読む2013年~ 日本と世界はこうなる
著者 日下公人
発行所 WAC
発行年月日 2012.11.27
価格(税別) 1,238円

● いつもながらの日下節で面白く読める。来年は金融不安が世界を襲うと予想。
 来年,金融大津波が世界を洗うとヨーロッパ文明と文化の威信が地に落ちる。アメリカの自由・民主・ドルの看板に傷がつく。中国共産党は和解路線に戻る。新興国は自らのアイデンティティに目覚める・・・・・となるが,そのとき日本と世界の関係はどうなるのか,日本はどうするのか。(中略) 日本はそういうとき,どう振舞えばよいかについての経験がない。指導理念もない。覚悟もない。世界をリードする優位戦を戦える人材もいない・・・・・・と思っていたが,そんなことはなかった。 安倍晋三氏とそれを支持する人々がいた。颯爽と登場されたのは嬉しい限りである。(p2)
 心優しい日本人は平和のため,原爆などは論外で軍事力は持っても最低限で,中国など近隣諸国とトラブルも起こさず,世界から愛されるような国であればいいと願っている。しかし,それを実現するためにはどうすればいいか,援助のばら蒔きが無効であることはもう証明されているが,何かいまの世界で有効な策があるのかどうか。 国民が安倍新総裁に期待していることは,それが第一だと思うが,期待だけですむ段階はもう終わっている。(p182)
 民主党がひどすぎた。市民運動家かひょっとしたらそれ以下の水準で,一国の政治を動かそうとした。特に,外交・防衛という国の根本に関わるところを滅茶苦茶にした罪は大きい。どうにもならない。
 あと一週間で総選挙だけれども,新聞の予想記事以上に民主党は議席を減らすのではあるまいか。政権交代時に民主党だった政党もまた同じ。
 とすれば,安倍-石破ラインの自民党に期待するのは自然の流れだ。

● 日下さんは中国をはっきり見限っている。中国人とは関わるなという。
 日本の新聞は,「中国が元通貨圏をアジアにつくろうと企んで着々と進めている」と,中国脅威説をつくっているが,国家が管理する通貨は長期的には信用できない。したがって,誰も元を受け取ろうとしないのだから,元通貨圏などできるわけがないし,元はこれから下がるという予測のほうが的確であろう。(p76)
 中国は(中略)いまだに古代が根強く残っている国である。すなわち,中国は根本的に原理が違う国なのだから,日本も中国とのつき合い方は当然変えなければならない。 日本人と中国人とは心は通じないと割り切らなければいけない。しかし,日本人は,いつかは中国人もわかってくれると思っている。 たとえば,日本の会社が中国に工場を建てて,工場長みずからがそれこそ率先して雑巾がけをして,誠心誠意でやれば,働く中国人がついてきてくれて,いつかはうまくいくと思う。だが,少しもうまくいかない。そんなことはいくらでもある。(p83)
 ● ヨーロッパも滅ぶ。
 EUの危機は昔からいわれ続けているが,結局,「ヨーロッパはヨーロッパ的な幸せ」の中で静かに消えていくと考えている。(p89)
 いままでヨーロッパが問題を先送りできたのは,ひとつは植民地を搾取してきたからで,もうひとつは,ヨーロッパの間でも,弱い国を潰してきた。しかし,もう限界である。 そこで中国や日本からカネを出させようと,いろいろやっているが,そのときの彼らの論理は,騙されたのは騙されたほうが悪いという自己責任論である。(p118)
● 福祉政策もほどほどにしろという意見。
 いまの選挙制度のもとでは,働かない人の投票によって福祉予算が膨らみ,国家財政が破綻する道をまっしぐらに歩むことになる。(p16)
 リンゼー市長によって母子家庭の保護が充実すると,離婚及び父親不明の出産が増加した。市役所の職員が偽装離婚を摘発しに深夜訪問すると,射殺される事件が起こった。赤ん坊の遺伝子を検査して前夫と同じであれば母子家庭の保護を打ち切ったので,行きずりの男に遺伝子を求めるという話もあった。働くより子ども手当のほうが楽だったのである。福祉の行き過ぎは家庭を破壊した。(p60)
● そもそも左翼政党や労働組合がお嫌いである。国会議事堂の施設に関して,次のようなエピソードを紹介している。
 はじめはエレベーターも食堂も国会議員専用というのはなく誰でも同じだったが,みるみるうちに国会議員専用エレベーター,国会議員専用食堂などができた。 こうした要求は,ほとんどが社会党の主張だった。これは,労働組合運動の「カネをよこせ」「権力をよこせ」というのと同じで,そうした私利私欲や党利党略ばかりに専念していると,その政党は内部からおかしくなる。結局,衰退していまは「社民党」として細々と残っているだけである。(p67)
● 日下さんの論調の骨子は,庶民の常識や道徳,実生活から生まれた知恵にリスペクトを置いていることで,逆に官僚や学者など頭で考えるだけの人たちに対してはかなり辛辣である。
 日本のエリートも同じで技術進歩とか生産性の向上とか合理化とか国際競争力強化とかを,いまだにキーワードとして信奉している。 その延長にあるのは「計画化」や「統合化」や「中央集権化」で,それが古いと思っていないのは高学歴病である。大学その他が教えているアカデミズムを身につけて世に出た人はなかなかそれを捨てられない。したがって,結局は庶民の後方を歩くことになるが,それに気がつかない。(p22)
 役人は先見の明もないし手金もないのに,民間の商売に口を出すのが大好きである。彼らにとっての手金は,結局は徴税権であって,国民に責任を転嫁する力があるというだけである。(p106)
 ● 理性の限界も強調する。
 理性が使える範囲は,時間や場所を限定すれば切れ味は鋭い。その意味で,ケインズの理論も少しは使えるが,長期間使ってはいけない。人間は理性だけで動くものではなく,感情や感性や人格や品格や変化しやすいいろいろな要因の波にもまれて動いているから,それを縛る仁義や道徳がなければ,社会は続かない。(p28)
 ● 庶民の常識が官僚や学者をしのぐ。
 二〇一三年は,日本人の庶民の常識が復活する年だと考えている。そのときには,「裏」「影」「歪み」「回り道」「含み」「あいまい」「不統一」「多様化」「ひずみ」「揺らぎ」「でたらめ」といった,一般にはマイナスイメージでとらえられてきた日本語が,逆に,いい意味になる。 というと,「それはいったいどういうこと?」と疑問に思うかもしれない。 たとえば,公式意見としては事故や不正はゼロにしたほうがいいに決まっている。しかし,庶民の常識の中には「適正事故率」というのがある。
● 金融についても,金融だけを見ていてはいけない,と。
 公認会計士を入れてもきちんとした監査が行われないのは,オリンパスの例でも分る。オリンパスの場合には,一九九九年から一千億円以上の「飛ばし」で損失を隠していた。(中略) 外部に監査をさせたり,社外取締役を置いたからといって,会社が健全に経営されることが保証されているわけではない。コスト高になるだけで,そのコストはアメリカの弁護士や会計事務所の利益になるとはばかばかしい話である。(p125)

2012年12月9日日曜日

2012.12.09 フジ子・ヘミング 『フジ子・ヘミング ピアノのある部屋から』


書名 フジ子・ヘミング ピアノのある部屋から
著者 フジ子・ヘミング
発行所 求龍堂
発行年月日 2001.03.04
価格(税別) 1,800円

● ピアノ曲はあまり聴かない。のだけれども,フジ子・ヘミングのCDは時々聴いている。リストの「ラ・カンパネラ」とかグリーグの「ピアノ協奏曲 イ短調」とか。

● 本書はそのフジ子・ヘミングの絵画を集めたもの。いろんな才能を持った人なんだねぇ(父親が画家だった)。

● 彼女が本書の冒頭に書いていること。
 ゲーテは「美しい」と言う事は「気に入ってる」と言う事でしかないと言っています。気に入るか気にくわないか,だけの話です。
 サラッとこれが言える境地って凄くないですか。言葉を弄するだけなら誰にでもできるけれども,これがズシンと腹に入るのは,何ごとかと格闘してきた人だけに許されることだと思う。

2012.12.09 水沢 勉編 『日経ポケット・ギャラリー クレー』


書名 日経ポケット・ギャラリー クレー
編者 水沢 勉
発行所 日本経済新聞社
発行年月日 1993.08.06
価格(税別) 971円

● これもパウル・クレー。昔,日経から出ていた「日経ポケット・ギャラリー」の中の1冊。

● 収録している絵のそれぞれに,編者の解説やクレーの著作からの引用を付けている。が,クレーの著作そのものがやはり難解で,ぼくにはなかなか腑に落ちてこない。

● クレーが音楽への造詣も深かったことを,この本で知った。ヴァイオリンはプロ水準であったらしい。シェーンベルクと同世代で,彼の音楽は行き過ぎだと批判的に感じていたようだ。
 が,そういうことを知ったからといって,クレーの作品への理解が進んだわけではない。

● デッサンのすごさとか,構成の確かさとか,そういったことはよくわかったけれど,それも作品理解に資するわけではない。

2012.12.09 谷川俊太郎 『クレーの天使』


書名 クレーの天使
著者 パウル・クレー(絵)
     谷川俊太郎(詩)
発行所 講談社
発行年月日 2000.10.12
価格(税別) 1,500円

● パウル・クレーの絵に谷川俊太郎が詩を付けたもの。
 昔,若かりし頃,吉行淳之介の小説,エッセイ,対談に夢中になったことがある。その吉行さんが絵ならクレー,音楽ならドビュシーを好むとあったので,ぼくも挑戦の真似事をしたことがあるんだけれども,どちらも当時のぼくには難解すぎてとても手がでなかった。

● っていうか,それは今でも同じで,CDでドッビュシーのピアノ曲を聴こうと試みても,最後まで聴けたことがない。クレーの絵も同じ。抽象性の高い絵は,ぼくごとき凡人がながめたところでどうなるものでもないらしい。

● 本書に収録されている絵は,一筆描きのような天使シリーズの中から選ばれている。谷川俊太郎さんの詩を鑑賞の手引きとして,何ごとかを理解できるかと思ったんだけども,やはりダメ。なまじ頭でこねくってしまうからかもしれない。
 谷川さんが「あとがき」で「想像力」の効用を訴えているんだけれども,その想像力を喚起するにも元手が要る。いたずらに馬齢を重ねてきてしまったってことね。

2012年12月5日水曜日

2012.12.02 茂木健一郎 『カラヤン 音楽が脳を育てる』

書名 カラヤン 音楽が脳を育てる
著者 茂木健一郎
発行所 世界文化社
発行年月日 2009.07.10
価格(税別) 1,500円

● 中川右介さんのカラヤン本が面白かったので,引き続きカラヤンに関するものを読んでいきたいと思うんだけど,分厚いのに取り組む根気はない。
 ので,かつて読んだ本書を再読。で,再読してみたら,きれいに内容を忘れていたことを発見できた。初めて読むような新鮮な気持ちで読むことができる。

● 本書については引用に終始する。大量の引用。
 カラヤンは,しばしば目を閉じて指揮をした。(中略)指揮をするということを,メトロノームで機械的な指示をだすことの延長に捉えている人は,そのような話を聞くと意外に思う。しかし,実際には,指揮とは自律した演奏家たちにインスピレーションを与えることである。指揮者なしで,自分たちでも演奏を続けることができるくらいの技量を持つ人たちの魂を鼓舞することである。(p22)
 ダイナミックに変化する脳の履歴の中で,不思議といつまでも変わらないものがある。そのような普遍的な存在に思いを馳せるとき,同時に蘇るもうひとつの記憶がある。時は一九七〇年代後半,高校生だった私が,ヘルベルト・フォン・カラヤンを強く意識した日のことである。(中略) それは一枚のレコード盤から生まれたものであって,映像を見たわけでもライヴを聴いたわけでもない。しかしながら,リヒャルト・ワグナーの楽劇『神々のたそがれ』のレコードから聞こえてきた音楽は,カラヤンという男の名を私の脳に刻ませた。あえていうなら,耳から聞こえるメロディーの他に,不可視の何かをその演奏は宿していた。目には見えない。計り知れない。しかし,確かに存在する何ものかを。(p35)
 耳を澄まして音楽を聴く。 「いい音楽だ」と感じられたなら,それは脳が快楽を味わっている瞬間である。 特に,自分の好きな音楽を聴くと脳は喜び、それが繰り返されることによって報酬系と呼ばれる回路が強化され,脳の自発性が動きだす。生命の躍動,エラン・ヴィタールである。 だからこそ私たちは,音楽を聴くことによって脳という内なるシンフォニーを能動的に活かすことができるのであり,好きな曲,自分にとって大切な一曲というのは,脳への贈り物であり人生の宝物に等しい。(p39)
 創造性は,決して,孤立した個人に宿るものではない。人と人が出会い,理解し合い,気持ちを見せ合い,言葉を重ねるうちに新たなものが生み出されていく。「創造性」=「独創性」と捉えてしまうと,私たちは数多くのものを見落としてしまう。むしろ,「創造性」=「共創性」だと私は確信している。人と人の間に生まれるものをつなぐこと,その共創性こそが私たちの未来なのではないか。(p42)
 私は「頭のいい人」とは,美しく機知に富んだ音楽を頭の中で奏でられる人だと思っているが,カラヤンのような人物は,作曲家の頭の中に響いている音楽を的確に捉えることができ、それを演奏する方法がわかり,他者に伝える術さえ持っている,いわば感性と理性の融合体のような人間だったのだろう。(p45)
 カリスマ性や天才というものを,私たちは個人の努力に帰するように考えがちだ。が,実際のところ,それは二度と繰り返されない時代状況の果実であることが多い。(p58)
 人間の脳は,予想できることとできないことが入り交じった状態(偶有性)に適応できるよう,その進化を遂げてきた。脳本来の力が発揮されるのはこうした状況下であり,創造性やコミュニケーション能力も,その人が偶有性に相対することで引き出されていく。そして,最も偶有性に充ちた存在が,“生身の人間”である。 「今,ここ」に生きている人間とは,次に何を仕出かすかわからない不確実な生き物だ。だからこそ,人は人から学び,生を得る。音楽においても,脳が最も「真剣に」なるのはライヴ演奏を聴くときだというのは,こうした理由からだ。 それでも私は,カラヤンの録音から偶有性を感じ,生身の人間の気配を覚えた。定着された「確実なもの」から,「不確実なもの」が生まれてくるかとでもいうように。私にとって,彼の音楽の真髄はまさにここにあった。(p63)
 彼(小津安二郎)の演出は,アドリブを排除し,団扇をあおぐ場面ではその回数まで役者に指示を与えたという,徹底的なものだった。つまり,作品全体が小津のリズムであり,スクリーンに映し出されるすべてが,彼の制御の下にあった。 そしてこれは,観る側にも同じ効果をもたらす演出だ。ある一定のリズムを基調とする映像は,ある一定のリズムを脳内にもたらす。つまり,観客はストーリーや状況を自分で制御しているような感覚を得られ,集中でき,映像の「流れ」をともに体験できるのである。(中略) あるリズムから生まれる全体の流れ。制御した表現から顕れる普遍的なテーマ。作品自体が作り手と受け手の共有体験になるとき,そこには映らないはずのものまでもが映り込む。 そしてこれは,カラヤンの音楽にもつながる文法だ。 小津は映像。カラヤンは演奏。どちらも,精緻な造りこみによって抽象を追いかけた。抽象とは,人間の脳内の「自由さ」に他ならない。美しく,そして意思を持った芸術こそ,脳の自由さと呼応する。(p66)
 音楽を止め,分解し,両手を俊敏に動かしながら正確な実音を求めるカラヤン。彼は重要だと思うフレーズを楽器ごとに弾かせている。それは,オケ・メンバーが嫌うことだという。それでも彼はひるまない。(中略) 一流の楽団員に向かって,同じく一流の同僚の音を「聴く」ように求める指揮者。 彼は,自分の感覚的な要求を「運動性の言葉」に置き換えることができたのだ。こうした一種の変換作業によって,皆が楽譜を超えた次元の流れを掴み,把握し,「小節の縦線が聴こえない」響きが生まれてくる。レガートの誕生である。(p87)
 思えば「レガート」とは,私たち一人ひとりが本来備えている生物的な特徴に,非常に近いものだといえるかもしれない。 なぜなら脳内現象を筆頭に,人間の生命活動とは「なめらかな」動きそのものであるからだ。臓器の働きから思考や感情まで,生まれ,生き,そして死んでいくその命の流れに時間の断絶はあり得ない。人とは畢竟,内なるなめらかな流れに満ちた存在なのである。(p90)
 カラヤンにとって理想の劇場とは,あらゆるトップの才能が一堂に会する場だったに違いない。ゆえに彼の視線には,出自や性別,国籍といった隔てはなく,完成度のためならば人間関係の決裂さえいとわなかったのだ。 彼が評価する人物とは,自分の役割を知り,それを天職と思え,なおかつそれに対する研ぎ澄まされた意識を持つことができる者だったのだろう。そして,彼自身もそうである必要があったからこそ,カラヤンは「学び」の道を生涯トップギアで走り続けた。たとえ,その道が万人の賛辞による舗装道路ではなかったとしても。 ここに私は,ある種の「帰依の精神」を感じざるを得ない。「己の利益」という一人称の次元を超えた,利他的な献身である。(p103)
 「音楽」という日本語からは,どうしても音やリズムや音程といった具象が連想されるが,本来「music」の語に音の意味はない。つまり,音として聞こえるものだけでなく,私たちの知覚の背後に常に存在するインスピレーションの源も「music=音楽」といえるのだ。たとえ,それは耳には聞こえていなくても,私たち人間はどこかで感じているに違いない。 それがカラヤンのいうところの「流れ」ではなかったろうか。 私たちの世界に常に流れている“聞こえない音楽”を音楽家に気付かせ,掴ませ,そして意図的につなげて具象化させること。カラヤンが生涯を賭けたのは,そのような行為だったのではないか。(p111)
 脳の本質を一言で表すとしたら,それは「オープン・エンド性」である。 脳の学習に終わりはない。 脳がオープン・エンドであるからこそ,人間の文化は発展を遂げることができる。つまり,ひとつの課題を解いても常にその先を見出すような性質で,どこまで行っても終わりがないもの,それが脳の学びの特性なのだ。 ここでいう学びとは,机を並べて競い合うような機械的な勉強ではなく,一日のあらゆる事象から手に入れられる精神的な学習である。主体的な興味。失われない好奇心。自発的な集中。持続する志。それらの学びは,脳本来の生命運動にとって空気や水のごとく必要なものであるが,この特性を活かした現象のひとつがまさに音楽だといっていい。 要するに,「今,ここ」の瞬間を前へ,前へとつながていく連続の力が,いかに音楽生成の根幹であるかということ(p116)
 私の頭の中では,指揮者とギリシャ彫刻のイメージが限りなく近い。 音楽が奏でられる場になくてはならない,最も理想的な彫像。その存在との対話ですべてが生まれるような源。ある時は集中するエネルギーを高みへと導き,またある時は,生まれたばかりの生命運動に筋道を与える。そこに,それが,完全な姿で在る,というただそれだけで,時々刻々と音楽が湧き出るような美の身体-究極の指揮者とは,ある意味,このような存在ではないだろうか。 特に,晩年のカラヤンの映像を観ていると,彼もそのように感じて指揮をしていたのではないかと思わずにはいられない。ナルシストでも自己賛美でもなく,自分自身という「物言わぬ彫刻」も含め,ひとつの作品だとみなしていたかのような。(p123)
 カラヤンのドキュメンタリーに印象的な発言があった。 「ジェット機の操縦で,事前に役立つ忠告はただひとつ。『邪魔をするな』ということです。これは,あらゆる場面に通用します」 為すべきことを正確に把握している人には自分でやらせることです,口出しせずにね。そのようにカラヤンは語る。(中略) 為すべきことを知っている人に対しては,その能力を最大限に引き出すために,「邪魔をしない」こと。すなわちそれは,人間の持っている潜在的なエネルギーを十二分に行き来させようという姿勢である。 生命にとってそれが何より大切なことであるのはいうまでもない。オーケストラも,脳内現象も,大切なのは主体的であることであり,自らを開いていくその過程で本来の生命が輝くのだということを,カラヤンの言葉は思い出させてくれるのだ。(p124)

2012.12.05 中川右介 『第九』


書名 第九
著者 中川右介
発行所 幻冬舎新書
発行年月日 2011.11.30
価格(税別) 840円

● 副題は「ベートーヴェン最大の交響曲の神話」。第九誕生から現在に至るまでの経過をていねいにたどっている。もちろん,著者の視点からのものだから,別の人が書けばまた別の物語が紡ぎだされるはずだが。

● 「第九」は革命賛歌であり,国威発揚・戦意高揚の具であり,鎮魂の曲でもあり,再建の祝曲であり,自由を讃えるために演奏された。こんな曲はほかにはない。
 音楽演奏史,音楽業界史としても読める。もちろん,ロマン派以降ってことになるわけだけど。

● ちょっと思ったのは,当時と今の演奏水準の違いってどのくらいあるのだろうってこと。そもそも演奏回数が段違いに少なかったわけだから,指揮者の水準もオーケストラの水準も今よりずっと低かったんだろうけど,ひょっとしたらこの本に登場するオケよりも,今の国内のアマオケの方が上手かったりするってことはないのかなぁ。いくら何でも言い過ぎか。

2012年12月2日日曜日

2012.12.01 奥野宣之 『読書は1冊のノートにまとめなさい』


書名 読書は1冊のノートにまとめなさい
著者 奥野宣之
発行所 ナナ・コーポレート・コミュニケーション
発行年月日 2008.12.16
価格(税別) 1,300円

● この本が出版された頃は「1冊のノートにまとめなさい」が流行っていて,この本もだいぶ読まれた。
 要は,読書ノートを作れってこと。それだけのためにノートを用意するんじゃなくて,メモ帳や日記も含めてすべてを1冊にまとめろ,時系列で書いていけ,ってこと。

● そんな面倒なことやってられるかと思って,もちろん,読書ノートなんてのを作ることは考えなかったんだけど,こうしてブログで記録を残すことを始めている。
 それが,この本を再読してみようと思った動機。

● 「読書ノートをベースにしても,外向けの文章を書くのはなかなか大変です。言い回しや構成を練るのはしんどい。思ったことを素直にブログに書いた方が,楽なことは確かでしょう。それでも,読書ノートを使って構成を練ってから書くと,アウトプットの質が上がり,より読まれる文になることは間違いありません」(p149)とある。
 そうなんだろうなぁ。だけども,ぼくもそうだけれど,たいていの人は「思ったことを素直にブログに書い」てしまっているようだ。したがって,文章として読むに耐えるブログってあまり多くはない。

● ブログってのはそういうものだと誰もが思っていて,だからこそ,これだけブログが普及しても,単行本と競合することはまずないだろう。
 ブログは,理屈としては世界に向けて情報を発信できるツールってことになるんだけど,実際には,書いている本人とごくわずかな仲間内しか読まない(ボログって呼ばれてる?)あらたまって「外向けの文章を書く」場ではなくて,普段着でチョコチョコ動き回るところになっている。

● 本から抜き書きをする場合,ノートに手書きで写すよりも(その効用は認めるとしても),キーボードでパソコンに打ちこむ方がはるかに楽。
 この一点だけでも,読書ノートを作るよりもブログをその代役に使った方が,長続きすることは間違いない。ブログだとわずかながら読んでくれる人がいるから,それが継続のモチベーションにもなるし,整理の手間が一切いらない。
 読んでもらうためではなく,自分のためのブログ。それでいいんじゃないのかと今は思っている。

2012年12月1日土曜日

2012.11.30 吉野朔実 『吉野朔実劇場 神さまは本を読まない』


書名 吉野朔実劇場 神さまは本を読まない
著者 吉野朔実
発行所 本の雑誌社
発行年月日 2010.10.15
価格(税別) 1,300円

● こちらのおすすめ本は次のとおり。
 S・フィッツジェラルド編『存在することの習慣 フラナリー・オコナー書簡集』(筑摩書房)
 Robert Sabuda『Alice's Adventures in Wonderland』
 『ワールドカップサッカー スペシャル・コレクション』(アスペクト)
 R・B・SEDER『GALLOP!』
 森雅之『散歩手帖』(大和書房)

 ヒヨコ舎編『本棚』(アスペクト)
 くるねこ大和『くるねこ』(エンターブレイン)
 T・R・スミス『チャイルド44』(新潮文庫)
 堀江敏幸『めぐらし屋』(毎日新聞社)
 春日武彦『「治らない」時代の医療者心得帳』(医学書院)

 銀林みのる『鉄塔 武蔵野線』(ソフトバンク文庫)
 安藤忠雄『悪戦苦闘』(安藤忠雄建築展実行委員会)
 エンリーケ・ビラ・マタス『バートルビーと仲間たち』(新潮社)
 シャーリイ・ジャクスン『ずっとお城で暮らしている』(創元推理文庫)
 南條竹則『中華文人食物語』(集英社新書)

 大友克洋『童夢』(双葉社)
 シクスホード『せかいにパーレただひとり』(偕成社)
 にしのあきひろ『Dr.インクの星空キネマ』(幻冬舎)
 ダン・ブラウン『天使と悪魔』(角川文庫)
 マイケル・アダムス『精神分析を受けに来た神の話』(青土社)

 ウィリアム・トレヴァー『密会』(新潮社)
 鬼海弘雄『東京夢譚』(草思社)
 岩合光昭『ネコを撮る』(朝日新書)
 ジャック・ロンドン『火を熾す』(スイッチ・パブリッシング)
 柴田元幸編『昨日のように遠い日』(文藝春秋)

 リリー・フランキー 澤口知之『架空の料理 空想の食卓』(扶桑社)
 トニー・パーカー『殺人者たちの午後』(飛鳥新社)
 穂村弘『短歌の友人』(河出書房新社) 『にょにょっ記』(文藝春秋)
 ウィーダ『フランダースの犬』(集英社)

● ここでもぼくが読んでいるのは『本棚』一冊のみ。

2012.11.30 吉野朔実 『吉野朔実劇場 弟の家には本棚がない』


書名 吉野朔実劇場 弟の家には本棚がない
著者 吉野朔実
発行所 本の雑誌社
発行年月日 2002.05.25
価格(税別) 1,300円

● 漫画仕立ての読書おすすめ本。漫画でおすすめ本の内容を紹介していることもあれば,本に触発された,あるいは本から連想した内容を漫画にしているものもある。けっこう,自由に描いている感じ。

● おすすめ本は次のとおり。
 サン・テグジュペリ『星の王子さま』(岩波書店)
 小林恭二『短歌パラダイス』『俳句という遊び』『俳句という愉しみ』(岩波新書)
 W・W・ジェイコブズ他『恐怖と怪奇名作集4 猿の手』(岩崎書店)
 奥田實・木原浩『日本の桜』(山と渓谷社)
 王超鷹『トンパ文字』(マール社)

 荻巣樹徳『幻の植物を追って』(講談社)
 天童荒太『永遠の仔』(幻冬舎) 『家族狩り』(新潮社)
 T・ローザック『フリッカー,あるいは映画の魔』(文春文庫)
 コンラッド『闇の奥』(岩波文庫)
 U・エーコ『薔薇の名前』(東京創元社)

 A・P・レベルテ『呪のデュマ倶楽部』(集英社)
 J・J・フィシュテル『私家版』(東京創元社)
 D・フランシス『興奮』『大穴』『利腕』『血統』『本命』(ハヤカワ文庫)
 グレゴリイ・フィーリイ『酸素男爵』(ハヤカワ文庫)
 中勘助『蜜蜂・余生』(岩波文庫)

 イタロ・カルヴィーノ『木のぼり男爵』(白水社) 『まっぷたつの子爵』(晶文社) 『不在の騎士』(松藾社)
 ピュルガー編『ほらふき男爵』(岩波文庫)
 ジョン・M・マグレガー『ヘンリー・ダーガー 非現実の王国で』(作品社)
 B・ソローキン『愛』(国書刊行会)
 E・マコーマック『隠し部屋を査察して』(東京創元社)

 M・コナリー『わが心臓の痛み』(扶桑社)
 L・ブロック『殺し屋』(二見文庫) 『獣たちの墓』(二見書房)
 ジム・トンプスン『ポップ1280』(扶桑社)
 B・シュリンク『朗読者』(新潮社)
 カズオ・イシグロ『わたしたちが孤児だったころ』(早川書房)

 宮部みゆき『模倣犯』(小学館)
 馳星周『漂流街』(徳間文庫)
 大道珠貴『背く子』(講談社)

● 以上のうち,ぼくが読んだことがあるのは『星の王子さま』のみ。この年になってしまうと,今まで読んだことのない異分野に入りこむことはおそらくないのじゃないかと思うんだけど,ひょっとしたら読むかもと思えるのが,こうしたおすすめ本を読む楽しみだ。

2012年11月29日木曜日

2012.11.28 中川右介 『カラヤン帝国興亡史』


書名 カラヤン帝国興亡史
著者 中川右介
発行所 幻冬舎新書
発行年月日 2008.03.30
価格(税別) 820円

● 副題は「史上最高の指揮者の栄光と挫折」。カラヤンはベルリンフィル,ウィーン国立歌劇場,ザルツブルク音楽祭を押さえて,音楽界に君臨する。聴衆からも圧倒的な人気を獲得し,録音したレコードも出せば売れる状態。この人気において他の追随を許さない。したがって,レコードの制作・流通業界もまた,帝王カラヤンの意向を無視できない。
 が,諸行は常無しなのであって,栄誉栄華はいつかは消える。本書はその過程を描いたもの。

● 『カラヤンとフルトヴェングラー』同様,しごく面白い読みものに仕上がっている。もちろんノンフィクション。それでこれだけ面白くなるのは,第一に,カラヤンの人生が起伏に富み,エピソードに事欠かないからだ。
 第二は,その結末が滅びで終わること。諸行無常というぼくらが馴染んでいる展開にピッタリとはまるわけですよね。
 第三に,著者である中川さんの緻密な文献渉猟と筆力。

● 著者は「クラシックジャーナル」誌の編集長を務めているが,それだけではないらしい。他書(幻冬舎新書)の著者略歴によると,「クラシック音楽・歌舞伎を中心に,膨大な資料を収集し,比較対象作業から見逃されていた事実を再構築する独自のスタイルで精力的に執筆」「出版社「アルファベータ」代表取締役編集長として,音楽家の評伝,美術書,写真集,カメラ本,専門用語辞典,雑学本など約三百点を編集,出版している」とある。大量の仕事をしている人なんですな。
 活動力が旺盛なオタクというイメージを持つんだけど,その風貌と相まって,かの荒俣宏さんを連想させる。

● カラヤンとベルリンフィルの確執については,川口マーン惠美『証言・フルトヴェングラーかカラヤンか』(新潮選書)も面白い。フルトヴェングラーとカラヤンの両方を知っている数人の元団員を訪ね,インタビューしたものだ。
 しかし,この本を読んでも,結局のところはよくわからない。わからないのだ。当然といえば当然だ。要するに,人によってカラヤンに対する見方は違うから。

● カラヤンは懸命に生きた。最後まで全力疾走をやめなかった。その功罪はわからない。カラヤンがいなければ,他の誰かがカラヤンをしのぐ名盤を残せたかもしれない。語り継がれる伝説のコンサートやオペラが多数生まれていたかもしれない。
 しかし,毀誉褒貶の振り幅がどれだけ大きいかを,その人物の傑出度を測るモノサシのひとつとして使用することが認められるならば,間違いなくカラヤンは傑出していた。

● 著者も次のように書いている。
 二十世紀は共産主義と国家社会主義という二つの理想がとんでもない災厄をまきちらし,そのあげくに自滅した世紀だった。理想を持った政治家ほど危ない者はいない-その「理想」がどんな卑小なものでも,当人が「理想」と思い込んでいる限りは危険である。 カラヤンはその時代に生き,ひとつの「理想」の狂気を身近に感じたはずだ。 それもあって,カラヤンは「理想」を持つことを自ら禁じたのではないか。だが,「理想」を持っていると見せかけたほうが仕事はやりやすい。「帝王」と呼ばれることを黙認し,自らの権力志向を隠さなかったのも,仕事をしやすくするためだったのではないか。 「理想」は「野望」と言い換えてもいい。カラヤンには「野望」などもともとなかった。「権力」などどうでもよかった。「帝王」など,仮面に過ぎないのである。死んでまで,その仮面を被る必要はなかったので,彼は密葬と質素な墓を望んだのではないだろうか。 (中略)「理想」すらも軽蔑するのが,本当の芸術家であるという精神風土に,カラヤンは生きた。(p297)
 ● しかし,そうではないのかもしれない。「理想」実現のためにしゃにむに「権力」を欲したのかもしれない。最晩年にいたって,ようやくその空しさを悟っただけなのかもしれない。
 つまり,これはわからない。わかりようがない。
 著者はさらに「この俗なる人が,なぜかくも美しい音楽を引き出せたのか。俗を極めた人であったからこそ,聖に転じることができた。そう思えてならないのだ」(p298)と書いて結んでいるんだけど,これは少しまとめすぎのようにも思える。俗と聖は両立可能なのかもしれないしね。

● 最後にもうひとつ引用。
 カラヤンの映像作品は,音だけのレコード同様にライヴではなく,セッション録画されたものが多く,完成度は高いのかもしれないが,臨場感がなく,つまらないというのが定評である。しかし,そのなかにあって,この《英雄》(1982年5月1日の演奏。ベルリンフィルとの対立が決定的になっていた時期)は完全なライヴ収録であり,迫力のある演奏で知られている。百周年という記念公演であることと,指揮者とオーケストラが対立していたことなどの理由で,緊迫した演奏になったのであろう。仲がよいだけでは名演にならないという見本としても,後世に伝えられるべき名演である。(p255)

2012年11月28日水曜日

2012.11.27 中川右介 『カラヤンとフルトヴェングラー』


書名 カラヤンとフルトヴェングラー
著者 中川右介
発行所 幻冬舎新書
発行年月日 2007.01.30
価格(税別) 840円

● この本の副題を何と付けようか。ニーチェをパクって「人間的な,あまりに人間的な」としようか。それとも「愚かな,あまりに愚かな」がいいだろうか。

● まるで小説を読んでいるような面白さ。フルトヴェングラーとカラヤンにチェリビダッケを絡ませて,相互の確執をまるで見てきたかのように語る。
 もちろん,すべて史実に基づいたノンフィクションだが,そのときフルトヴェングラーはどう思ったか,カラヤンはどう考えたかについては,著者の推測が入る。それが臨場感をもたらす。

● フルトヴェングラーもカラヤンもナチスドイツの時代と戦後を生きた。時代や政治に翻弄される。凡人なら味わわなくてすんだはずのものだが,彼らの才能を政治が放っておいてくれなかった。
 フルトヴェングラーはカラヤンを嫌い抜く。しかし,カラヤンもやられるままにはならない。権謀術数を尽くして一方は勢力の拡大を図り,他方は生き残ろうとする。
 そうしたさなかでも,両者とも凄まじい量の仕事をこなしている。自分の版図を広げるためというより,音楽への忠誠心がそうさせるのだと考えると,予定調和的なきれい事に過ぎるだろうか。

● 本書の続編となる『カラヤン帝国興亡史』で,著者も次のように書いている。
 結果的にカラヤンは巨万の富を得たが,それは彼の真の目的ではなかった。彼にとっては,最高の音楽を演奏することが究極の目的であり,そのために,彼は権力を必要とした。 (中略)自ら音を出すわけではない指揮者は,最高のオーケストラと最高の歌劇場を手に入れなければ,理想の音楽に近づくことはできない。 (中略)そうしたポストは,しかし,天から降ってくるわけではない。自分で獲りにいかなければならない。カラヤンはそれをやった。(同書p10)
● それにしても。何と愚かなという思いが消えるわけではない。
 人の人生を,後生,大所高所から見てあれこれとあげつらうのはたやすいことだ。ぼくらはひとり残らず,愚かであることを免れないのかもしれない。何をしようと。あるいは,何もしなくても。
 それにしても。ここまでやる必要があったのか。そう思うことじたい,凡人の悲しさかもしれないけれど。
 この本を読んで,フルトヴェングラーもカラヤンも可愛いじゃないかと思えるようでありたいというのが理想だけどね。なかなかその境地には行けそうにないですね。

● 閑話休題。引用をひとつ。
 ベルリンを,すなわちドイツを代表するオーケストラであるベルリン・フィル管弦楽団が戦後第一回目の演奏会を開くのは,五月二十八日のことだった。敗戦からまだ一ヵ月もたっていない。ちなみに,日本においても,映画館は八月十五日から一週間は休館していたが,その後は営業を開始しているし,九月には日本交響楽団(現在のN響)の戦後第一回目の演奏会が開かれているので,「文化」というものは意外としたたかに生きているもののようである。(p132)
 気が晴れる話ではないですか。

2012年11月27日火曜日

2012.11.25 菅付雅信 『はじめての編集』


書名 はじめての編集
著者 菅付雅信
発行所 アルテスパブリッシング
発行年月日 2012.01.25
価格(税別) 1,800円

● 読みものとしても面白い。「池袋西武百貨店のコミュニティカレッジで2010年10月から2011年3月までの半年間,計12回に渡って行った「編集力講座」の講義録を元に大幅に加筆修正したもの」とのこと。元がコミュニティカレッジの講義録のゆえか,読みやすいんですな。

● ベタな教訓を含むけれども,以下にちょっと多めの引用。
 雑誌では、『メトロミニッツ』の羽田空港国際ターミナル特集「羽田なう。」で,篠山紀信さんに完成間近の国際ターミナルでLALとANAのキャビン・アテンダントを一緒に撮影してもらいました。実はこの永遠のライバルである2社のキャビン・アテンダントが一緒に撮影されることはまずないそうで,よそよそしい撮影現場になるのではと危惧していたのですが,そこは篠山さん,いやそういう難易度が高いからこその本領発揮。最初から彼女たちを乗りに乗せて,まるで以前から気心の知れた仲間であるかのような和気あいあいとした撮影になりました。篠山さんのテンションの高い撮影と,それにどんどん乗せられてますますキレイになるアテンダントの方たちを半日見ていて,「スッチー萌え」という気持ちが少しわかりました。(p76)
 編集者は上手く写真も撮れなければ,質の高い文章も書けず,デザインもできないわけです。つまり,何もできない人なんです。(中略) でも,自分ができないことには人一倍自覚的になることによって,自分よりも遙かに才能があるスペシャリストを見抜き,集め,彼らを指揮することで,何でもできる人でもあるのです。(p80)
 編集をする上で,まず言葉がしっかり固まらないと,なにを伝えるのか,どういう風に伝えるのかが揺らいでしまいます。言葉にすると自分の考えが対象化されます。言葉がなかなか決まらない時は,考えがうまくまとまっていない時です。(p83)
 「美しく正しい文章なんて,退屈で眠たくなるだけです。そんなものはシロウトにまかせておけばいい。プロは客を退屈させてはいけません」と永江(朗)さんは(中略)言います。(p90)
 文章力はきちんと鍛錬を積むことで上達します。一般論になりますが,いいライターや作家,コピーライターを見ていて思うのは,文章力は読書量に比例するということです。彼らは例外なく読書家です。良い文章を書こうと思うなら,読書の質を保つことが肝心だと思います。(p116)
 僕は今までに内外数百人のクリエイターにインタビューをして,世間から「天才」と呼ばれる人たちからもたくさんの話を聞いてきましたが,その経験を通してひとつだけ確信をもって言えることがあります。 それは「この世に生まれつきの天才はいない」ということです。皆,すさまじく勉強し,努力し,他人とコラボレーションし,時には野蛮なまでに他人のアイデアを取ってきています。それが天才の実情なのです。(p122)
 イメージをつくるにはイメージのアーカイヴ(書庫,保管所)をつくることが大事です。天才と言われている人たちがすばらしいイメージを創り出せるのは,頭の中に豊かなアーカイヴを持っているからなんです。(p124)
 僕がイメージをつくる上で常に意識するのは,なるべく砂糖を入れないということです。(中略)イメージにおける砂糖の代表とは,僕が思うに「笑顔」「子供」「動物」です。このどれかを入れるだけで,簡単にハッピーな印象を与えることができ,多くの人に受け入れられるものになります。(中略)誰がどのメディアで発表しても,ある程度好感を得ることができる素材なのです。そこに独創性はあまりありません。(p156)
 編集は,そこに含まれた言葉やイメージ単体を伝えるのではないのです。それらをひとつにまとめあげる編集の形式そのものにメッセージ性があり,その形式を自覚して上手く操ることができれば,そのメッセージは飛躍的に強く受け手を触発できるのです。それが編集の醍醐味です。(p164)

2012年11月25日日曜日

2012.11.24 岡田斗司夫・福井健策 『なんでコンテンツにカネを払うのさ?』


書名 なんでコンテンツにカネを払うのさ?
著者 岡田斗司夫・福井健策
発行所 阪急コミュニケーションズ
発行年月日 2011.12.07
価格(税別) 1,400円

● 副題は「デジタル時代のぼくらの著作権入門」。前半はその著作権の「現状と課題」的な話。
 しかし,本書の白眉は後半にある。岡田さんが自分のビジョンを展開する。これが面白い。

● 現行の著作権制度を維持するのは無理というのが,岡田さんの出発点。まず,「ユーザーが求めているのはコンテンツではない」(p112)と。
 では何かといえば,「お金を払う対象は,崇拝の対象となる人自身です」(p114)ということ。その人が産みだすコンテンツではなく,その人自身なのだ,と。

● それを受けて福井さんも言う。「ライブの売り上げがまったく落ちなかったのは,デジタルで代替できないから」(p119)だ。
 「ライブイベントの関係者に「どうやって稼いでいるの?」と尋ねると,入場料自体の収支は武道館のワンデーがフルハウスでやっとトントンというところで,大したことはない。(中略)じゃあ,何で収益を上げるのかといえば,大きいのはタオルなどのグッズなんですよ」(p119)ということ。
 では,なぜライブの観客がグッズを買うのかといえば,「臨在感を買おうとしているから」(p120)だ,と。

● 岡田さんは「コンテンツで食えるクリエイターは「世界で」1,000人が限度じゃないか」(p155)と大胆なことを言う。
 さらに「僕らが救うべきは,食うや食わずで創作を行っている貧乏なクリエイターではなく,無料で作品を作っているプチクリエイターなんですよ。こうしたクリエイターこそが,文化の多様性を生み出す最大多数です」(p157)とつないでいく。
 このあたりはスリリングといっていいほどに面白い。

2012年11月24日土曜日

2012.11.23 夏目房之介 『本デアル』


書名 本デアル
著者 夏目房之介
発行所 毎日新聞社
発行年月日 2009.05.30
価格(税別) 1,700円

● 書評を編んで一冊にしたもの。一番面白かったのは冒頭の「序 遅読王のため息」。
 問題は,読みたい本はたくさんあるのに,それ以上に読まねばならない本が増えてきたことだ。(中略) でも,事実上無理である。何しろ元が「遅読の王」なのだ。ではどうするか。 どうしようもないのだ。
● こうんなふうに,読者を救済しておいて,内容はけっこう硬派。ぼくにとっては読みごたえがあった。ありすぎたかも。

● 引用をふたつ。まず,『なぜ,御用聞きビジネスが伸びているのか』(ダイヤモンド社)の藤沢久美さんについて。
 日本初の投資信託評価会社を起業した著者だが,彼女に会った印象は,キレる人,デキる女性という感じではない。むしろ,ごく普通の女性である。少なくとも僕の感じたかぎりではそうだし,本人もそういっていた。彼女だけではなく,女性の起業家を取材していると,けっこうそう感じる。ちょっと頑張り屋だが,特別な才能,特殊な育ちとかではないのだ。(p208)
● 『ラッキーウーマン』(飛鳥新社)の竹中ナミさんについて。
 女優,漫才師,マンガ家,水商売を目指し,どれも中途半端のまま十五歳で同棲。高校中退で結婚。二十二歳で母となり,その二年後に生んだ娘は重度脳障害だった。ここから著者の破天荒な苦闘と活躍が始まる。一方で悲惨で,片方で痛快な人生講談。(p223)
 陽性な活力に支えられたシンプルさが必要なのかもしれない。彼女の本を読むと,とにかくあきらめずに明るく進んでゆくと,お金も人材も協力も,それなりについてくるかのように見える。(p224)

2012.11.23 暮しの手帖社編 『花森安治のデザイン』


書名 花森安治のデザイン
編者 暮しの手帖社
発行所 暮しの手帖社
発行年月日 2011.12.19
価格(税別) 2,200円

● こんなエピソードが披露される。
 シャッター直前に,セットした位置を,部員が誤ってずらしてしまったことがある。花森は怒らず,元に戻すことはせず,全てを取り払って,真っ白の状態から配置し直した。(p44)
 こういう上司がいたら,胃が痛くなるほどピリピリしてなきゃいけないね。ものを作るってのは,そういうことなんだろうけどさ。

● 「暮しの手帖」の表紙も花森さんがデザインしてたんですな。絵も自分で描き,写真も自分で撮っていた。もちろん,取材もすれば記事も書く。そのうえで,前代未聞の広告なしの雑誌を売る。とんでもない人だ。
 いつも思うんだけど,こういう怪物とぼくのようなその他大勢との違いってどこから来るんだろうねぇ。

● その表紙をすべて並べてみると,さすがに圧巻。当然ながら,これは花森さんの作品集であって,美術書を残せるほどの仕事を彼はしていたってこと。
 花森さんって,スカートをはく男ってイメージで,奇人変人としか思っていなかった自分の不明をいまさら恥じるしかない。女性を描いた絵の表紙がいくつも続く。彼は女性の感性を持っていた男っぽい人だったのかもしれない。

● 「暮しの手帖」の創刊は1948年。戦後の混乱期にこの雑誌は華やかにハイカラに映ったろうねぇ。同時に,この雑誌を買えたのはアッパークラスに限られたはずだ。都会のほんの一部の人たち。田舎人(当時は日本のほとんどが田舎だった)には縁のないものだった。
 ぼくらが普通に雑誌を買えるようになったのはいつ頃だったろう。戦後(高度成長以後ってことになるね)の大衆化に思いを馳せることになる。いろいろ言われるけれど,昭和30年代からの高度成長って,たいしたものだったんだなぁって。

2012年11月22日木曜日

2012.11.22 日本経済新聞出版社編 『達人たちの日経術』


書名 達人たちの日経術
編者 日本経済新聞出版社
発行所 日本経済新聞出版社
発行年月日 2012.10.25
価格(税別) 1,000円

● 日本経済新聞をどう活用しているのか。各界の著名人(とは限らないが)にインタビューしてまとめたもの。

● 日経っていうと,セレブというか知的な人が読む新聞っていうイメージあり。ぼくも定期購読していた時期がある。
 が,かつて,勤務先でいくつかの雑誌からアンケートを受け取ったことがあった。それを元に記事を仕立てるわけだが,実際に仕立てられた記事を読むと,なんとまぁ安直な,と思ってしまうわけなんですね。返ってきたアンケート回答をそのまままとめただけの記事。この種の記事って信用しちゃいけないんだな,と。
 だって,答える側がきちんと答えているなんて保証はないじゃないですか。文章で答えさせる設問もあるので,そこは回答者が回答に協力的かどうかに温度差があって,それが回答に反映されるのは当然のことだ。それをそのまま記事にしていいのかね。ま,忙しいんだろうけどさ。

● その中で日経系の某誌のアンケートが特にひどかった。アンケートの作り方も雑だし,答えないで放っておいてやったら,横柄極まる口のきき方で電話をかけてきた。なぜ出さないのか,と。取材先に義務を課したつもりでいるかのようでしたな。電話をかけてきたのは下請けの記者かもしれないんだけど。ま,回答は返しておきましたけどね。
 以来,日経新聞と日経系の雑誌は一切読まないと思い決めて,今日に至っている(ただ,単行本は日経刊のも拒まず)。

● ところがね,今では新聞を取ることじたいをやめているんですよ。それで困ることは特にない。
 ニュースを知りたければ,Googleの「ニュース」を見ればいい。本書の中で竹中平蔵さんが「ファクトを知るだけならインターネットのニュースで十分ですが,日経はファクトに加え,分析をしっかりと書いているところが最大の魅力だと思います」(p38)と仰っておられるんだけども,分析まではしてくれなくてもいいかな,と。
 折りこみチラシもネットチラシで代用できる。そのうえ,ゴミの量が大きく減った。所在ないときに新聞を取りあげてボーッと読むってこともなくなった。その代わり,ネットを見るとはなしに見ているわけだけどね。

● この本を読んでも,では日経を読んでみようかとは,ぼくは思わなかった。

2012年11月21日水曜日

2012.11.21 小田嶋 隆 『地雷を踏む勇気』


書名 地雷を踏む勇気
著者 小田嶋 隆
発行所 技術評論社
発行年月日 2011.12.01
価格(税別) 1,480円

● 『もっと地雷を踏む勇気』が面白かったので,手順前後になるんだけど,本書も読んでみた。もっと早い時期に読みたかったんだけど,そこがなかなか。
 「地雷を踏む勇気」というタイトルを付けたことについて,著者は「まえがき」で次のように述べている。
 コラムニストにとって,時事ネタは時に地雷になる。時間軸に沿ってその意味を変える主題は原稿の賞味期限を短くするものだし,政治的な話題を扱うためには,文章上の技巧を云々する以前に,結果を顧みない思慮の浅さみたいなものが必要だからだ。
 覚悟の表明といっていいのだろう。

● この本で菅内閣時代の「復興構想会議」の「提言」を(もちろんほんの一部だが)初めて読むことになった。なるほど,これはひどい。どんなふうにひどいのかは「提言」本体を読めばわかるが,さすがにそれを読み通せる人は稀だろうから,本書を読んでもらうのが一番いいかもしれない。

● 著者ならではの切り口と切り方の鮮やかさを味わえばいいのでしょうね。いくつか引用。まずは,三陸に伝えられる「てんでんこ」の教えについて。
 三陸の人びとは,「老幼の者を助けようとして一家共倒れに」なったり「家族をさがしているうちに逃げ遅れ」たり,「点呼を取っている間に津波に呑まれ」たりしてきた苦い経験から,緊急時にあっては,とにかく「個人の判断と責任において,一刻も早く逃げる」という方針を徹底してきたというのだ。 より詳しい解説をする人は,「てんでんこ」は,「たった一人でも生きていかねばならない」という決意および,「家族やまわりの者を助けきれなかった者(自分も)を責めてはならない」という事後の心構えも含んでいるのだという。 で,この「てんでんこ」の教えが,結果として,大船渡や釜石で,その教えに沿った避難訓練を繰り返してきた子供たちを,津波の被害から救うことになった,と,そういう話だ。 印象的なエピソードだ。 なにより実践的である点が素晴らしい。避難訓練というと,「一糸乱れず」に,「全員が一致」して「整然と」避難する過程をイメージしがちだが,実体験から来る知恵は,訓練のための訓練とは発想の根本が違っている。 非常時にあって,決断を他人に委ねたり,周囲の状況に安易に同調することは,命取りになりかねない。普段から,自分の状況に合った避難の方法と経路を,自分のアタマで考えられるようにしておかねばならない。そういうことなのであろう。(p151)
● 次は,風評被害に対する政府対応について小田嶋さんが述べていること。
 買う側の論理(というよりも「感覚」だが)からすると,ハエがとまったケーキの商品価値はとりあえずゼロとして扱わざるを得ない。 「科学的」に考えれば,ハエが接触した部分を素早く除去すれば,害は無いのかもしれない。 でも,一瞬でも,たとえばほんの一部でも,ハエがとまったケーキは,市井のスイーツ愛好者にとっては,商品価値を失う。商品価値というのは,そもそもそういう性質のものなのだ。 「実害のないものを恐れる態度は,間違った情報にまどわされる愚民の反応だ」 と,科学的に真であること以外を信じない冷静で冷徹で怜悧で賢明な有識者は,放射能が検出されたイカナゴのいた漁場から50キロのところで捕れた魚であっても,有害なレベルの放射能が検出されていないのであれば,まったく恐れることなく食べるのであろう。 庶民は違う。食べない。理由は,「なんとなく気持ちが悪い」からだ。 食べ物の商品価値は,この「なんとなく」といったあたりの弁別不能な思い込みを根拠に生成されるところの,多分に感覚的な関数のようなものだ。農水省が発表する数値に基づいて算出される科学的なデータではない。であるから,たとえば,たったの5%でも不安があれば,食品の価値は,ほぼ100%失われる。(p163)
● 生産と消費と娯楽について。
 私たちの生活は,つまるところ,生産的な労働を通じて得た収入を,非生産的な娯楽に振り向ける過程でもあるわけだからだ。「生産的」と「非生産的」を「健全」と「不健全」に置き換えてもよい。いずれにせよ,われわれは,無駄を省くために生きているわけではない。 われわれは,働く活力を取り戻すために,余暇時間を持っているのではない。順序が逆だ。むしろわれわれは,余暇時間を安逸無為に過ごすに足る収入を確保するために,余儀なく生産に従事している。もし人々が生産だけに血道をあげて,消費を排除したら,世界は動かなくなる。(p177)
 あらゆる娯楽は-旅行も,スポーツも,ギャンブルも酒も-ある臨界点を超えると,単純なレクリエーションとは質の違う,厄介な段階に到達する。(中略) 再開日にディズニーランドに駆けつけた人妻の歓喜の様子が,見る者に居心地の悪い感慨をもたらしたのは,彼女が自粛していなかったからではなくて,彼女の渇仰の対象があまりにも資本主義的だったからなのだと思う。 平凡な結論だが,なにごとも適度に取り組むのが一番なのだと思う。 もっとも,適度というのは,実は,非常に困難なミッションだ。(p181)
● 「より高カロリーな食品をできる限りたくさん摂取して,それでも太らないためにジムに通うみたいな生活が最高で,その生活を支えるべく,睡眠時間を削って大車輪で働くことが,より実り多い人生の秘訣である」(p173)という表現が出てくる。もちろん,世間(の一部の人たち)を揶揄する言い方だけれども,巧いなぁと思いますね。
 この種の愚は,自分もけっこうやってしまっているかもしれない。一度,精査した方がいいかもな。

2012年11月20日火曜日

2012.11.20 和田秀樹 『人は「感情」から老化する』


書名 人は「感情」から老化する
著者 和田秀樹
発行所 祥伝社新書
発行年月日 2006.11.05
価格(税別) 740円

● 副題は「前頭葉の若さを保つ習慣術」。本書の結論は次の一文にある。
 「年を取ったから,ひっそりと地味に暮らそう」と自己規制してしまうのは,老化を促進してしまう。「もう年なのにいつまでも遊び歩いて」と顰蹙を買うくらいの「不良老人」こそが,若々しさを保つ秘訣だ(p40)
 老人はかくあるべしと期待される老人像に縛られないことですな。若者はかくあるべし,中高年はかくあるべし,父親はかくあるべし。そういったものはことごとく吹っ飛ばせってこと。
 が,老人になるまでずっとそうしたものを自己標準に据えてきた人が,老人になってからそれを変えられるとも思えない。
 老人になる前から心がけておかないといけない。心がけるだけではなくて,小さくとも実行に移していないといけない。
 だから,本書は中年が読むべきものだ。

● 具体的な教訓になる引用3つ。
 「落ち込んだときは反省しない」という習慣が大切になる。落ち込んだときは,自分の悪いところばかりが目につくに決まっているから,そんなとき反省したら,ますます落ち込むという「悪循環」に陥るに決まっているのだ。(p81)
 のんびりと心静かな人は,一見,老成しているようにも見える。しかしその実,EQが高くて感情が若いのだ。事態が変化したときに慌てないのは,心がフレキシブルな証拠である。(p103)
 いたずらに自立を目指して,何でも自分で解決しようとすると「自分は自立できないからダメなんだ」と悩みがちだ。それよりも,頼るべきときには頼り,上手に甘える。「成熟した依存」を目指したほうがいい。怒っているのに誰も聞いてくれる人がいないから,いちばん弱いところに当たり散らしてしまったりするのだ。(p130)

2012.11.19 中川右介 『常識として知っておきたいクラシック音楽50』


書名 常識として知っておきたいクラシック音楽50
著者 中川右介
発行所 KAWADE夢新書
発行年月日 2004.07.01
価格(税別) 720円

● クラシック音楽はわりと聴いている方。数少ないというか,ほとんど唯一の趣味が,クラシック音楽のコンサートに出かけていくことだ。
 が,クラシック音楽について知るところは,きわめて少ない。本書が紹介している「常識として知っておきたい」楽曲の中でも聴いたことがないものもけっこうあるしね。

● 「はじめに」で,「クラシックだけが「難解」「堅苦しい」イメージになっている。なぜだろう。その答えは,クラシックと最初に出会うのが,勉強の場,学校だからだ。そして,ほとんどの人が,微分積分でわけがわからなくなり数学嫌いになるように,音楽の授業で強制的に聴かされ,「クラシック嫌い」になって卒業するからだろう」と分析する。
 夏休みの宿題に読書感想文を課すことが読書嫌いを作っているのと同様だ。
 ただね,ぼくがポツポツと音楽を聴き始めたのははるか昔で記憶もおぼろなんだけど,学校で聴いた中からとっかかりを得たように思うんですよね。音楽の授業って,功罪でいえば罪の方が多いかもしれないけれども,罪ばかりでもないかもしれないね。

● そうだったのかと目から鱗が落ちたのは,次の記述。
 オペラに序曲が必要になったのは遅刻してくる人のためだ。いつの時代,どの国の,どの劇場でも,遅刻する人はいる。しかし,遅刻する人がいるからといって,すでに席についている人を待たせるのも失礼だ,というわけで,序曲が考え出された。本編を始めるまでに一〇分くらい,序曲を演奏しておけば,すでに席についているお客さんも退屈しないし,遅刻する人も物語の最初から見ることができる。(p87)
 言われてみるとストンと納得できる。オペラの序曲って工夫の産物だったんだねぇ。

● 「クラシックで商売として成功するには,女性客をつかめる容姿の音楽家でなければならず,その条件に合うのは,モーツァルトとショパンしかいない」(p166)というのも,そうだよなぁと思わされる。「容姿」っていろんなところでモノを言うんだよなぁ。

● 著者は「クラシックジャーナル」誌の編集長。ゆえに,文章が読みやすい。クラシック音楽についてたくさんの啓蒙書を出しているので,引き続き,いくつか読んでいきたい。
 ちなみに,こういう本を書くくらいだから,勉強もハンパなくしているだろうし,CDも聴きこんでいる様子。なまじな専門家よりも蓄積が多いし,専門家のように下手で固い文章は書かないでくれるからね。こういう人がいてくれるって,音楽界にとってもありがたいことなのではあるまいか。

● どのCDを聴けばよいか。著者は基本的にカラヤンを推奨。理由は「はじめに」で次のように述べられている。
 交響曲や協奏曲などオーケストラによる曲は,基本的には,カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のものを聴けばいい,というのが基本方針だ。その理由は,カラヤンほどレパートリーが広く,多くの曲を録音している指揮者はいないからだ。(中略) だが,覚えておいてほしい。カラヤンは,クラシックの「通」を自任する人々からは,ばかにされている。カラヤンを否定するところから,真のクラシック道が始まるといってもいい。しかし,否定するにも,まず聴かなければ始まらない。
● ぼく個人は何でもいいという意見なんだけどね。そんなものは偶然に任せればいい。
 だいたいさ,細かいこだわりをあれこれと開陳する人がいるけどさ,おまえ,ホントにわかってんのかよ,って思うもん。
 マーケットに流通しているCDであれば,それほどひどいものはないとリスペクトしていいのじゃなかろうか。あとは聴いていくうちに自ずと自分のスタイルができてくる。
 人の意見を聞いて右往左往するほど愚かなことはない。入口をくぐるときに定盤を気にするなんてのは,愚の骨頂。
 ゆえに,基本的にカラヤンでいいという著者の意見にはシンパシーを感じる。わからなければ(入門の段階でわかる人はいないはずだが)カラヤンと決めてしまうのは,大いにこれあり。

2012年11月19日月曜日

2012.11.17 藤沢秀行 『野垂れ死に』


書名 野垂れ死に
著者 藤沢秀行
発行所 新潮新書
発行年月日 2005.04.20
価格(税別) 680円

● ぼくは碁を打たない。ルールも知らない。が,藤沢秀行という名前は知っている。
 碁界第一のタイトルである棋聖位を連続6期保持して名誉棋聖の称号を得ていること。
 競輪競馬で3億円もの借金を作り,しかもその筋の者から借りて,修羅場を味わったこと。しかし,その借金を完済したこと。
 酒浸りでほとんどアル中だったこと。禁断の四文字言葉を連呼し,警察のご厄介になったこと数知れず。
 家に帰らず,複数の愛人との間に子をもうけたこと。
 書をよくし,何度も個展をひらいたこと。
 門弟が列をなし,韓国,中国にも教えに出向き,かの国の囲碁水準を飛躍的に高めたこと。
 日本棋院の言うことをきかず,一時は棋院を脱退したこと。

● 要するに,奔放に生きた人。奥さんや家族はたまらなかったでしょうね。普通はそこでブレーキがきくものだと思うんだけど,それでは普通の人。奔放には生きられない人なのでしょうね。
 奥さんが彼を見捨てなかった。最大の不思議はここにある。ここまでの無軌道を受け容れたのはなぜか。もし,奥さんが見捨てていれば,秀行さんのここまでの鮮やかさはなかったはずだ。
 秀行さんは状況にも恵まれたんですな。あるいは,恵まれた状況を彼は引き寄せたのかもしれない。それだけの何かを持っていたのだと考えるしかないね。

● 奔放に生きれば,そのツケを払わなければならない。秀行さんは必死こいてそのツケを払ってきた。だから,彼の生涯は物語になる。
 くれぐれも彼の真似をしようとしちゃダメだよね。真似したいと思う人はいないだろうけど。

● 彼が無軌道路線に入ったのは30歳を過ぎてから。それまでは真面目の塊だった。しかも,ギャンブルや酒にのめりこんだ後も,中心は碁で,この軸がゆらぐことはなかった。彼の言葉を聞いてみる。
 強くなればなるほど,私には少しずつ碁の難しさ、奥行きの深さが見えてきて,以前にも増して碁のことで始終頭がいっぱいになった。(中略) 石を並べる,考える,わからない。それを繰り返し、頭がどうにかなりそうなくらい考えた。(p47)
 私の勉強の仕方は,とにかく自分の頭で考え抜く方法だった。定石を覚えたり,人に教わったりはほとんどしない。自分の棋譜はもとより,先輩方や仲間,果ては昔の名人の譜を片っ端から並べてみる。 なぜその石が打たれたのか,ほかに手はないのか,一手一手を吟味しながら,よりよい形,面白い形を考えていく。勝負どころを的確にとらえる努力をし,局面の動かし方を工夫する。(p89)
● つまり,根は真面目一方の人。真面目というか一途なのでしょう。
 世間の人はどう思っているのか知らないが,私は自分でも息が詰まるくらい,真面目な男なのである。(p45)
 私のように,自分の神経に参ってしまうような類の男には,どうしても酒が欠かせないものなのだ。 世間の人は,私を評して「豪放磊落」なんて言うけれども,それは過大評価で,一見そう思われるのは,神経が細かすぎて,それに自分で我慢しきれなくなって,暴走してしまうことが多かったせいと思う。 「豪放磊落」どころか「繊細暴走」なのである。 そういう私にとって,酒は,必要欠くべからざる“安定剤”だった。 酒さえ飲まなければもっと大きな仕事ができたのではないか---私の生き方を見てそう思われる方がいるとしたら,私はこう反論したい。 酒があったからこそ,われだけの碁が打てたのです,と。(p81)
● 秀行さんの人生哲学をいくつか。
  よく学びよく遊べ,という言葉は本当だと思う。人間というものは,人一倍勉強したり働いたりするためには,人一倍の精神の遊びが必要なようだ。集中の度合いが激しければ激しいほど,開放や発散も思い切ってしなければバランスが悪くなってしまう。 (中略)そこに,競輪や競馬という面白い博打があった。美味い酒があった。そういうことである。(p47)
 だいたい,たいしたことのないヤツに限って,わかったような顔をして,もっともらしいことを言う。(中略) 私は,そういう安易な不惑野郎に対しては,全力で完膚なきまでに負かしてやり,力量の違いを思い知らせることにしている。 わからない,ということがわかるためには,よほどの勉強が必要なのだ。(p87)
 穴があったら入りたいほど恥ずかしくなるのは,「勝ちたい」という自分のだらしなさが感じられるときだ。碁は正直だから,ある譜全体やある一手に,それは如実に表れる。隠すことができない。 碁打ちの多くは,「勝つことがすべて」と考えているようだが,私は違う。 勝ち負けは,後から自然についてくるものではないか。勝ち負けにこだわって縮こまっていてはいけない。 こだわるべきなのは,自分にしか打てない碁を打つことなのだ。 碁には,恐ろしいほど,人物が出る。個性,生き方,碁に対する姿勢など,その人のすべてが凝縮されて盤面に表れてしまう。それが譜となって後世に残るのだから,一局一局の勝った負けたで騒いでいる場合ではない。(p90)
 棋譜は私の作品なのである。 芸のレベルを高めるためには,碁の修行だけではダメだとも思った。人間自体のレベルやスケールをアップしなくては,芸は育たない。 もともと私は,中国や日本の歴史小説が大好きだが,それらの読書も,酒に呑まれて自分を解放することも,競輪でしびれる勝負に没頭することも,自分の生活のすべてがトータルに芸に関わってくる,と覚悟していた。(p92)
● にしても,秀行さんの人生にもし碁がなかったら。彼はどんな人生を歩んだのだろう。のめりこむ対象がなければ,バランスをとるために反対側にのめりこむこともない。普通の人生を送ったのだろうか。
 それとも,碁に代わる何物かを見つけて,はやり壮絶な人生を送ることになったのだろうか。

2012.11.17 小沢昭一 『川柳うきよ鏡』


書名 川柳うきよ鏡
著者 小沢昭一
発行所 新潮新書
発行年月日 2004.04.15
価格(税別) 680円

● 「小説新潮」の連載をまとめたもの。「小説新潮」の川柳欄に読者から投稿を募り,小沢さんが選者となって選んだものに,小沢さんの選評というか解説というか口上を加えての連載。
 1994(平成6)年からの10年分の連載を集めているので,だいぶ昔のようでもあり,ついこの間のようでもあるが,懐かしい事象が川柳の対象になっている。

● 政治ネタを川柳にするのは難しいらしい。新聞などマスコミ報道そのままのが多いと,何度か小沢さんが苦言を呈している。独自の視点からヒネリを加えてください,と。
 「茶の間の正義」で憤るだけでは川柳にならないのはわかるけど(思考停止だからね),実作するのは難しそうだな。

● 川柳で気楽に楽しめると思ってたんだけど,これだけまとめて読むとけっこう疲れるものですね。

2012年11月17日土曜日

2012.11.16 清野恵里子 『樋口可南子のいいものを,すこし。その2』


書名 樋口可南子のいいものを,すこし。その2
著者 清野恵里子
    浅井佳代子(写真)
発行所 集英社
発行年月日 2011.12.06
価格(税別) 1,800円

● 続編の本書は5つの章立て。紹介している個人,お店は次のとおり。

1 作るということ
  伊藤佐智子 ファッションクリエイター
  髙野雅子 ファッションクリエイター
  西田信子(東京・渋谷) 革バッグ制作
  村田 森(京都) 陶芸家
  戸田敏夫(東京・根岸) 江戸指物師
  「山田松香木店」(京都) お香
  「カガミクリスタル」(茨城・竜ヶ崎) クリスタル製品
  「福永紙工」(東京・立川市) 紙工作

2 食をめぐって
  「パパ・アントニオ」(東京・渋谷) イタリアン
  「パーラー・ローレル」(東京・世田谷) 洋菓子
  「エストパニス」(東京・田園調布) パン
  「凡味」(東京・人形町) 梅の甘煮
  「鮒佐」(東京・浅草橋) 牛蒡の佃煮

3 懐かしい時間
  東京タワー
  都電荒川線

4 美を訪ねる
  古美術店「ロンドンギャラリー」(東京・六本木)
  原美術館(東京・品川)
  黒田記念館(東京・上野)
  高麗美術館(京都)
  杉本歌子邸(京都)
  三溪園(横浜)
  銀座「和光」

5 旅の空,出会いの喜び
  琵琶湖
  ソウル,瑞山

● ここに登場するのは,ぼくには苦手の分野。まず,語彙がわからない。ここに登場する品々を与えられても,ぼくにはその良さはわかるまい。
 自分が野人であることを認識するために読んだようなもの。

2012.11.15 清野恵里子 『樋口可南子のいいものを,すこし。』


書名 樋口可南子のいいものを,すこし。
著者 清野恵里子
    浅井佳代子(写真)
発行所 集英社
発行年月日 2009.10.10
価格(税別) 1,800円

● どうしたって文章よりも写真の方に目が行く。素材がいいうえに,メイクさんやスタイリストさんやプロのカメラマンが同行しての取材だから,できあがりは素晴らしい。
 ひょっとすると,取材を受けた相手方の中には,歓迎はできないけれど仕方がないかと思ってる人もいるかもしれない。のだが,写真からうかがえる樋口可南子はそれらの風景の中にしっとりと溶けこんでいる。

● 章立ては5つ。取材先は次のとおり(目次をうつしているようなものだが)。

1 エレガンスということ
 「MUNI」(岡山・倉敷) チャイニーズ・ラグ
 平田暁夫(東京・西麻布) 帽子
 「エクラン」(京都) ボタン
 岩立広子(東京・自由が丘) インド染織品
 
2 手仕事の周辺
 「ない藤」(京都) スリッパ
 「ダニアジャパン」(岡山・児島) ジーンズ
 「大倉陶園」(横浜) 洋器
 川真田克實(滋賀・大津) 和器
 「榛原」(東京・日本橋) 和紙
 「清課堂」(京都) 金工品
 前川秀樹(茨城・土浦) 造形作家
 森山寛二郎(福岡・小石原) 陶器

3 時のかたち
 遠山邸(埼玉・比企郡)
 「堀商店」(東京・新橋)
 茶房「李白」(東京・世田谷)
 東京国立博物館(東京・上野)

4 おいしいひととき
 「トレプチ」(東京・小金井) 焼き菓子
 「嘯月」(京都) きんとん
 神田須田町界隈

5 旅のむこうに
  酒田と鶴岡
  吉野
  京都伏見

2012年11月14日水曜日

2012.11.14 福島文二郎 『9割がバイトでも最高のスタッフが育つ ディズニーの教え方』


書名 9割がバイトでも最高のスタッフが育つ ディズニーの教え方
著者 福島文二郎
発行所 中経出版
発行年月日 2010.11.25
価格(税別) 1,300円

● 「PROLOGUE」でリッツカールトンとディズニーを対比している。リッツカールトンの「従業員採用の特長は,会社の考え方に同調できない人はもちろん,サービス業に向いていないと判断した人は,絶対に採用しないということ」なのに対して,「ディズニーは「ウエルカム」,つまりアルバイト採用に応募してきた人は,基本的に全員採用する方向で対応してい」るということだ。「ディズニーには「人は経験で変わる・育つ」という考え方があ」るからだ,と。
 その育て方を本書で説いているわけだが,採用数がぜんぜん違うし,仕事の内容も違うから,ディズニーのやり方をリッツカールトンに適用してもうまくいくかどうか。

● 「人は,相手が最善を尽くす姿に心を打たれるものです」(p101)とはしばしば言われることだけれども,本当にそうだと思う。たいていの人はそのことをわかっている。なぜなら,自分に最善を尽くしてくれた人に心を打たれた経験を,一度くらいはしているからだ。
 しかし,相手に最善を尽くすことができる人とできない人がいる。

● 「よい職場には笑顔が根づいています。笑顔の多い職場ほど人間関係も良好です。社員の仕事に対するモチベーションが高いことはいうまでもありません」(p162)
 そうなんだよね。ひっきょう,ここに集約されるかもしれないですよね。だいぶ前から部下のメンタルヘルスに注意することが,上司の仕事のひとつの柱になっていると思うんだけど,職場の雰囲気がギスギスしていたりよそよそしかったりしてたんじゃ,メンタルヘルス対策をいくら打ちだしてみたって,ザルで水を救うようなものだ。
 喧嘩や言い争いがあるのはいいけれども,それぞれがそれぞれに対して無関心ってのは,ウツの温床になる。

● 今のサラリーマンって昔より余裕がなくなっていると思う。仕事が増えている。管理がきつくなっている。きつくなること自体はいいとしても,意味のないきつさってのは,けっこうコタえるよね。出張旅費を早く精算しろって言われるのはいいけれども,稟議書のテニオハについて呼びつけられて,アーダコーダと言われると,時間を返せと言いたくなるものな。気がついたのならおまえが直しておけ。
 ま,管理のし方,され方がきめ細かくなっている。これが余裕を奪っている第一の元凶だと,ぼくなんぞは思っている。

● 職場環境の変化もある。一番大きいのはパソコンが一人に一台配置されたことだね。これで前後左右の人たちとの言葉のやりとりがだいぶ減ったと思うぞ。
 それに見合うだけのメリットがパソコン(+イントラネット)にあるのかどうか。端末やネットワークの保守点検に要する費用や,ソフトを含めた導入費用を加えると,ほんとに元が取れているのかね。
 ともあれ,いろいろあって,日本のオフィスからは余裕が失われ,笑顔が消える方向にある。

● それと,最近の余儀ない節電で,オフィスが暗ったくなっていること。デパートとか行っても,動いていないエスカレーターがあると,ウツ細胞が刺激される。まして,暗ったいオフィスってのはなぁ。
 冷暖房を我慢するのは当然としても,蛍光灯を間引いたところで,実際どれほどの節電効果があるのだ?

● 「後輩に指示を出すとき,指示だけを伝えて,なぜ,どういう目的でその指示を出しているかについては,何も伝えないという上司・先輩はいないでしょうか。それでは部下は納得しないでしょう。反発するケースも考えられます。なぜなら,後輩の存在を軽んじているからです」(p182)
 これも大事なことだ。上司面する馬鹿とか先輩風を吹かせる阿呆とかは,昔からいる。上司や先輩の役割を演じるのに,面とか風は要らないんだけどね。
 ただ,問題は,自分でもできていないってこと。気をつけないとな。

2012年11月13日火曜日

2012.11.13 岩中祥史 『アナログ主義の情報術』


書名 アナログ主義の情報術
著者 岩中祥史
発行所 梧桐書院
発行年月日 2010.06.18
価格(税別) 1,500円

● 著者が本書で言わんとすることは,「まえがき」にある次のエピソードが代表している。
 ある出版社から「大阪人」をテーマにした本の執筆を依頼され,ふたつ返事で引き受けた。(中略)大阪には過去何度となく行っているし,インターネットで資料をそろえさえすればすんなり書けるだろうと,タカをくくっていたこともある。
 ところが案に相違して,締め切りの一週間前になっても,全体の一割ほどしか書けていないのである。いくらインターネットをいじくりまわしても,アイデアがいっこうに湧いてこない。正直,これはヤバいと思ったのだが,ふと「よし,大阪の空気を吸いに行こう!」とひらめき,新幹線に飛び乗った。そして大阪に二泊したのである。
 すると,不思議なことに,新大阪に降り立った瞬間から,私の頭には次々と本の中身が,見出しとともに思い浮かんでくるではないか。大阪の街を一日中歩き回り,ホテルの部屋に戻ると,時間のたつのも忘れて一心にノートパソコンのキーをたたき続けるほどであった。
● 読みものとしても面白く,スイスイ読める。短いエッセイ仕立てにした文章を重ねているから,通勤電車の中で読むのに適している。

● 2つほど引用しておく。
 一気に書き上げた原稿は一気に読まれる。逆に,書くのに呻吟した原稿は,読み手もすっと読めない。--これは私自身の戒めになっている。(p40)
 女性が女性誌を読み,男性が男性誌を読む,という常識的な行為からは,一般的な情報しか集められない。まして,独創的な情報発信など,望むべくもないだろう。他に負けない情報収集力を持つための第一歩は,「人のしないことをする」である。(p97)

2012年11月12日月曜日

2012.11.12 見城 徹 『異端者の快楽』


書名 異端者の快楽
著者 見城 徹
発行所 太田出版
発行年月日 2008.12.15
価格(税別) 1,600円

● 『編集者という病い』は強烈だった。尾崎豊との関わりは凄まじかった。ここまでやらないと本や雑誌は作れないのか。
 尾崎豊は普通にいえば生活破綻者。ひょっとすると人格障害という診断名まで付いてしまうのではないか。その破綻者に徹底的に寄り添っていくと決めた,見城さんの決意と見通し(打算といってもいい)はあまりにもプロフェッショナルで,こんなことができるのは千人に一人いるかどうか。当然,ぼくにはできない。裸足で逃げだすに違いない。
 一方,生活は破綻していても,見城さんをしてそう決意させるだけの力を尾崎豊は持っていた。

● 本書の「序章 異端者の祈り」はアジテーションとして出色。若者がこれを読むと,自分も異端者たらんとする人が出てくるかもしれない。もちろん,なろうとしてなれるものではない。やめておけ。
 坂本龍一や尾崎豊に象徴されるようにクリエティブな活動に関わる才能は,それを持とうとしてもてるものではない。真の表現者はつねに異端であり,石原慎太郎の言葉で言えば「ゲテモノ」でありフリークスなのだ。異端のDNA。マジョリティ=共同体からこぼれ落ちる悲しみと他人には通じない官能の回路を持って,暗闇に向かって跳躍を続ける表現者たち。(p13)
 自分は共同体の規範から外れた快楽原則に突き動かされてきた。どうにもならない本能で動いているから,どんな辛苦にでも耐えられる。(中略)表現に関わる仕事に寄る辺などない。まして社会的権威,政治的正義,道徳や良識などどこにもない。(p14)
● 本書は見城さん自身のエッセイ,見城さんが受けたインタビュー記事,対談によって構成される。
 対談の相手は,さだまさし,中上健次,石原慎太郎,藤田宜水,鈴木光司,内舘牧子,田島照久,杉山恒太郎,熊谷正寿。

● さらに,多すぎる引用。
 いい奴には大した作品はつくれないと思っている。作品さえよければ,相手が殺人者であろうと性的異常者であろうと,誰だってかまわないと思っている。俺を感動させてくれれば,どんな相手でも体を張って守ってやろうと思うわけです。(p26)
 ぼくの持論で,売れたりブレイクしたり感動させるものには,必ず四つの要素があります。 それは,「明快であること」「極端であること」「癒着があること」「オリジナリティがあること」。この四つを満たしていれば,本は必ず売れる,芝居もヒットする,テレビは視聴率を取る,と思っています。(p35)
 不可能だ,無理だ,無謀だと言われることを,圧倒的な努力で可能にしたときに,結果というのは出てくる。それが一番鮮やかなんです。それがその人や,その組織の伝説を作っていく。(p46)
 アルバムが100万枚売れていくミュージシャンっていうのは,みんな例外なくツアーをやってるんですよ。(中略)ツアーをやって,その人の声やその肌触りみたいなものがちゃんと伝わる。胸の鼓動や吐く息が。その上でアルバムを出すことを,音楽界ではとうの昔からやってる。それを出版界ではやってないんですよ。(p151)
 幻冬舎で売れている本を指して「こんな本が売れてもねぇ」と言われることがある。でも,それが売れてしまうのは,「こんな本」のなかに大衆が嗅ぎ分けた価値が潜んでいるからだと僕は思う。「大衆が欲していたものがそこにある」ということにほかならない。100万部売れたら,100万人が買ったという事実が,すべてを物語る。僕は,文学や文化は「こういうものだ」と大上段に言うつもりはまったくなくて,人々が望んでいるものを提供するのが僕にとっての「本当にいいことをやる」ことだし,そこに価値があると思っているんです。(p187)
 テレビというあの形態を,インターネットが凌駕するとか,包摂するということはあり得ないというふうに思っています。インターネットで何かやっても,本に関してはほとんど影響力はないですよね,今。僕の実感としては。(p197)
 その共同体から滑り落ちる羊の内面を照らし出すのが表現だというふうに思っているんですね。そのために表現はある。(中略)表現がある限りはすべてを奪われても,表現というものが残っている限りは,その人はすべてを失ったことにはならないというふうに思っているわけです。 (中略)だからものすごく抑圧されているものからしか,芸術というのはあまり出てこない。能でも歌舞伎でも狂言でも,華でもお茶や庭でも,全部それは差別があるところからしか出てきていない。(p199)
 すべては死ぬということから人は一回きりの人生を,短い生涯で体験して死ぬという,それがあるからあらゆる感動はあると思うんです。切なさも哀しみも恍惚も絶頂も,すべては死ぬということが定義づけられているからあると思っているんです。だから人が死ぬ運命にある限り表現というのは不滅なわけです。(p204)
 活字離れとか文芸の衰退なんて世間では言われているようですが,衰退しているのは文芸を編集する側ですよ。出版社側は,作者と読者の両方の胸の鼓動や息遣いに絶えず耳を澄ましているべきなのに,それができていないだけなんです。(p257)
 そもそも編集者っていうのは,「人の精神」という目に見えないものから商品を作り出すという,じつにいかがわしいことをやっているわけです。それを誠実な営みとして成立させるためには,「これはお決まりのお仕事です」というような安全地帯に編集者がいるようでは話にならない。その生きざまが激しく問われることになるわけですよ。(p258)
● 見城さんのキーワードは,タイトルにもなっている「異端者」と「圧倒的努力」。こうして引用なんかしているようなやつには,無縁の世界だとわかっている。
 見城さんとぼくを分かつものは何なのだろう。結局,ぼくは共同体に馴染める体質だったってことか。だから自分の人生を徹底して見つめる必要に迫られなかった。安逸に生きることができるタチだった。
 でも,それだけじゃないよなぁ。

2012.11.11 美食を歩く会編 『池波正太郎の美食を歩く』


書名 池波正太郎の美食を歩く
編者 美食を歩く会
    逢坂 剛(エッセイ)
発行所 祥伝社
発行年月日 2010.05.01
価格(税別) 1,600円

● 『食卓の情景』や『散歩のとき何か食べたくなって』などの池波正太郎の食に関するエッセイ集は,大昔に読んだことがある。
 本書は池波さんが通ったお店を取材して,当時の池波さんの様子を紹介するもの。っていうか,お店そのものの紹介がメインですかね。

● 巻頭に逢坂剛さんのエッセイを載せている。それと池波さんゆかりの天ぷらの店を営む近藤文夫さんと逢坂さんの対談なども。

● 池波さんはけっこう大食漢だったらしい。グルメはたいていグルマンだ。開高健さんがよく書いていたことだけど。

● しかし。世の中には食にこだわる人と,何でもいいと言う人と,きれいに分かれるような気がしている。時代の風はこだわる人に吹いている。っていうか,そういう人たちが食文化を育んできたはずだしね。

● ぼくはこだわらない方。読むだけでいいと思ってしまうタイプ。
 ゆえに,ここに紹介されている店のどれかにぼくが行くことがあるとは思えない。敷居が高そう。知らない店に入るのを極度に苦手とするし。それで逸した(旨いものを食べる)機会がけっこうあるかもしれないけれど,さほど惜しいとは思っていないんだな。

● 池波さんの時代小説はまったく読んだことがない。鬼平犯科帳をテレビで見ただけ。中村吉右衛門の長谷川平蔵ね。昔からいつかは読むだろうと思ってきたんだけれども,そろそろ読むと決めないと,人生の時間切れがきてしまいそうだ。

2012年11月10日土曜日

2012.11.10 市橋織江 『BEAUTIFUL DAYS』


書名 BEAUTIFUL DAYS
著者 市橋織江
発行所 MATOI PUBLISHING
発行年月日 2011.12.07
価格(税別) 2,800円

● 市橋さんの写真集。海岸の風景,公園でくつろぐ家族連れ,路地裏で遊ぶ子ども,カフェ(ほとんどはスターバックス)で憩うカップル,花,大学の図書館など,小さな安楽を連想させる光景を切り取って集めたもの。

● ぼくは,絵画,書,写真など,視覚に訴える芸術に関しては,まったくの音痴であることを自覚している。が,この写真集は芸術云々というより,サッと見てホッとするという味わい方でいいのだろう。

2012.11.10 ミロスラフ・サセック 『ジス・イズ・ギリシャ』


書名 ジス・イズ・ギリシャ
著者 ミロスラフ・サセック
訳者 松浦弥太郎
発行所 ブルース・インターアクションズ
発行年月日 2007.02.01
価格(税別) 1,800円

● 仄聞するところでは,ヨーロッパ諸国はもちろのこと,アメリカでも自国史は古代ギリシャから始めるらしい。ドイツ人もフランス人もイギリス人も,ギリシア人がバルバロイとよんだ蛮族の子孫だろうと思うんだけど,自らのアイデンティティは古代ギリシャにあると思っているわけでしょうね。

● 現在のギリシャ人はトルコ系だから,古代ギリシャとは断絶している。要するに,古代ギリシャは忽然と姿を消してしまった。
 その痕跡は彼らが残した遺跡と美術品に残っているのみ。

● ぼくはギリシャにも行ったことがない。ギリシャに関する知識といえば,中学,高校で習った世界史の教科書に書いてあったことに限られる。ので,この絵本は勉強になった。
 サセックも現在のギリシャを紹介するよりは,古代の歴史を伝えることに情熱を傾けている。かなり熱心に古代ギリシャの歴史や神話をたどって,絵にして伝えようとしている。この絵本を読むであろう子どもたちにとっては,ちょっと負担が大きすぎるのではないかと思うほどに。
 その勉強ぶりはハンパない感じ。ヨーロッパ人にとって古代ギリシャはそういうものなのかと思わされた。

● その分,只今現在のギリシャの街なみや市民の暮らしぶりについては,若干手薄になっている。ぼく一個は,歴史(遺跡)よりも現在のギリシャ(街なみや人々の様子)を彼の絵と文章で伝えて欲しかったと思っているけれど。

2012.11.10 ミロスラフ・サセック 『ジス・イズ・ニューヨーク』


書名 ジス・イズ・ニューヨーク
著者 ミロスラフ・サセック
訳者 松浦弥太郎
発行所 ブルース・インターアクションズ
発行年月日 2004.08.01
価格(税別) 1,600円

● ぼくはアメリカにも行ったことがない。行きたいとは思うが,ぜひにともというほどではない。というのも,勝手な思いこみがあるからだ。アングロサクソンが住むところはメシが不味い,っていう。松浦弥太郎さんの一連のエッセイ集を読んで,修正しなければとは思っているんだけど。

● 絵本である。というからには,まずは子どもに向けて書いているのだろう。それゆえだからだろうか,サセックの視点は基本的に暖かい。いいところを見つけて,子どもたちに教えてやろうとしているように思われる。ニューヨーク市民の暮らしぶりにも目配りしている。
 (ニューヨークの)ガイドブックのいくつかも見ているけれども,サセックのこの絵本の方が,ニューヨークに対するイメージがより多く喚起される。
 ビルの屋上の貯水タンクのこととか,自由の女神のてっぺんにある展望台からの景観とか,狭い路地のこととか,ガイドブックには出てこない事柄がいくつもあって,それが,実際はこうであろうか,それともこんな感じだろうかと,想像を刺激してくれる。

● なんていうんでしょうね,行った気になってしまうっていいますかね,数十ページの絵本なのにね。

2012.11.10 小日向 京 『考える鉛筆』


書名 考える鉛筆
著者 小日向 京
発行所 アスペクト
発行年月日 2012.04.06
価格(税別) 1,500円

● のっけに次のような文章が出てくる。
 なによりも,削ったあとに削りかすができるから鉛筆は楽しい。鉛筆は短くなる代わりに,削りかすという世にも美しいものに姿を変えるのだ。(p14)
● オタクだぁ。著者は女性なんだけど,女性にもオタクはいる,と。ま,いますよね,そりゃぁね。
 で,鉛筆削りによってどんな紋様の削りかすができるかとか,鉛筆の削り方とか,マニアックというかオタッキーというか,そんな話が続く。こちらとしては,どうでもいいんじゃないですかとツッコミを入れたくなりながらも,ついつい最後まで付き合わされてしまう。

● ただし,最終章「思考の流れを邪魔しない鉛筆」は,「知的生産の技術」論としても読み応え充分。ひとつだけ引用しておく。
 何度でもしつこく書くが,あなたの筆圧には限定値などない。筆記具に合わせてあなたは筆圧を調整すべきなのだから,筆圧が高いので○○○は使えない,のではなく,○○○は筆圧をかけずに使うものなのだからそう用いる,としよう。 (中略)主軸としたいのは筆圧に幅を持たせることで,そのことによって手にかかる負担は軽減され,もっと楽に多くの文字を書くことができる。楽に文字を書く方法が自分のものになれば,考えることもおっくうにならない。(p181)
 だったらパソコンを使えばもっと楽ですよ,とも思うんだけどね。これはまた別の話でしょうね。とっさの時のメモとりってパソコンじゃできないからね。

2012.11.10 松浦弥太郎・若木信吾 『居ごこちのよい旅』


書名 居ごこちのよい旅
著者 松浦弥太郎
    若木信吾(写真)
発行所 筑摩書房
発行年月日 2011.03.10
価格(税別) 1,900円

● 今年の5月に読んでいる。ここのところ,ぼく的には松浦弥太郎ブームなので,ブームに乗って再読しておこうと思った。

● 別のエッセイ集に収められている文章もある。が,一冊の本として完結させるためには,再録もありでしょうね。再録するという編集者の判断は間違っていないと思う。
 そこに若木さんの写真が付くので,違った味わい方ができるしね。

● 個人的には台湾の紀行が一番魅力的だった。まだ台湾に行ったことがない。行ってみたくなった。LCCも就航しているんだろうからね。松浦さんが紹介しているカフェでコーヒーを飲んでみたい。
 だけどね,おそらく台湾の実際は,この本で紹介されているほどには魅力的じゃないんだと思うんですよね。松浦さんの筆にかかると実際以上に魅力的になる。っていうか,松浦さんの感性が切り取った台湾が魅力的なのであって,それと同じものをリアルの台湾から,ぼくの感性が引き出せるかどうかってことなんですよね。結果は言わずもがなですよね。
 でも行ってみたい,台湾。

● 「あとがき」からひとつだけ引用。
 ドアを一歩出れば旅である。そうおもうと,暮しというのは,旅によって出来ているなあ,とわかる。遠かろうと近かろうと,旅であるか否かには関係がない。歩いて,見て,聞き,感じ,出合い,観察するという意識を常に働かせること。それは普段,自分たちの日々の暮しそのものを,豊かにする工夫の基本でもある。
 こういう文章を読むと,吉行淳之介の「街角の煙草屋までの旅」を思いだす。昔に読んだ吉行作品を読み返してみようかなぁと思いました。 

2012年11月5日月曜日

2012.11.05 下川裕治 『LCCで行くぶらり格安世界の旅』


書名 LCCで行くぶらり格安世界の旅
著者 下川裕治
発行所 PHP
発行年月日 2012.08.31
価格(税別) 1,300円

● 若い人たちが旅行をしなくなっているという話をよく聞く。留学する人も激減しているんだとか。悪いことなのか,それほどに騒ぐようなことなのかはわからない。
 旅行なんて行きたければ行けばいいし,行きたくなければ行かなきゃいい。その程度のもんじゃないかと思わないでもない。
 留学にしたって,洋行帰りのアメリカかぶれやフランスかぶれを揶揄する論調は,つい最近まで珍しくもなかったのではないか。

● けれども,下川さんのように旅行してその記録を作品にしている人は,商売に直結する。下川さんはビンボー旅行派だから,特に影響が大きいかもしれない。
 さらに,人は年をとるものだ。ビンボー旅行をしたくてもできなくなる年齢が,厳然と存在するだろう。

● 下川さんの作品はそのほとんどを読んでいる(すべてではない)。読むに値する文章だと思っている。
 ゆえに,下川さんはビンボー旅行をやめても,文章で喰っていける人であると思っている。

● LCC(格安航空)は下川さんが違和感なく取りあげることのできるテーマかもしれない。しかし,人はいずれLCCに慣れるし馴染むだろう。
 この本でもざっとLCCの解説をしているけれども,大半は世界各地のビューポイントを紹介する内容になっている。ビューポイントといっても,そこは下川さんの視点だから,凡百のガイドブックとは異なる。読めるガイドブックである。

2012.11.03 ミロスラフ・サセック 『ジス・イズ・ロンドン 改訂版』


書名 ジス・イズ・ロンドン 改訂版
著者 ミロスラフ・サセック
訳者 松浦弥太郎
発行所 ブルース・インターアクションズ
発行年月日 2011.01.25
価格(税別) 1,800円

● サセックはチェコの絵本作家。普段は絵本を見ることはあまりないけれど,なぜこの本を手にとったかといえば,松浦さんがこの絵本を推奨していたから。

● たとえば『ぼくのいい本こういう本 2』で次のように書いている。
 誰の言葉か忘れたけれど,「旅心は旅に出なければわからない」というが,この絵本はポンと手に取って見ているだけで,いつの間にやら自分がその国をフラッと訪れた旅人という無名の存在になってしまうから不思議である。(同書p27)
● 『続・日々の100』でも次のように。
 『THIS IS・・・・・・』を探す旅は,僕にとって古書店をはじめるきっかけにもなった旅だった。知られていない五〇年代の絵本を紹介していくことは,古書店としての新しいスタイルだったからだ。(同書p188)
● で,まずはロンドンから。
 どうやらぼくの擦りきれているらしい感性では,松浦さんのような受けとめ方はできなかった。が,ロンドンの空気の色が絵に塗りこめられているのはわかる(行ったことはないんだけど)。鈍色の空気。それでいて重苦しさはないんですね。
 ロンドン市民の牛乳の買い方のような,普通のガイドブックではまずお目にかからない,サセックならではの視点から描かれた絵もある。
 一度目は松浦さんが訳した日本語の文章を読みながら,二度目は絵だけを見ながら。

2012.11.03 松浦弥太郎 『今日もていねいに。』


書名 今日もていねいに。
著者 松浦弥太郎
発行所 PHP
発行年月日 2008.12.24
価格(税別) 1,300円

● 『メッセージ&フォト 今日もていねいに。』は先月読んだけれども,写真が載っている分,文章はダイジェストになっているはず。そこで,あらためてこの本を読んでみることにした。

● 松浦さんのモットーをそのままタイトルにしたような本だから,全編に松浦生活哲学が満ちているわけだが,その中からあえていくつかを引用。
 世界のすべてにかかわる土台とは,清潔感だと思います。「どんなことができるか,何をもっているか」よりも,清潔感があるほうが,はるかに尊いと感じます。 僕にとって清潔感を保つとは「ここが崩れると自信を失う」という境界線。どれほど賢くても能力があっても,馴れ合いに塗り込められて清潔感が姿を隠したら台無しになってしまう。---そんな気がしてならないのです。(p43)
 明日で命が終わるとしても,後悔せず,おだやかに世を去る方法---それは,今日をていねいに生きること、これだけだと僕は思います。 ていねいに生きるには,その日が大切な一日であることを思い出させてくれる,きっかけが必要です。何かひとつだけでもいいから,暮らしに新しさを投げ込みましょう。(p51)
 それでも僕は,壊れたものを修理して使うほうが好きです。ものは壊れるという大前提があるから,そこがスタートだと思います。処分したり新品と交換するのではなく絶対に直そうと決め,手をかけて修繕することで,ようやく自分のものになっていく気がするのです。 人とのつきあいもこれと同じです。ぶつかり合って摩擦がおき,壊れたりひびが入ったときがスタートだと思っています。(p58)
 一瞬で終わる関係なら,あえて素通りする。これは人と関わる際の僕のルールです。(中略)なんと冷たい対応だろうと思うかもしれませんが,これが僕なりの誠実さです。仕事についてでも,恋愛や人間関係の問題についてでも,人に相談されたことに対してアドバイスをするときには,その人の面倒を一生みる覚悟がいると思います。(p72)
 僕ときたら,読んだあと,あらすじを忘れてしまうこともしばしばです。読み終わったあとの記憶や,書かれていた内容はどうでもよく,読書の楽しみは「読んでいる時間そのもの」にあると感じているから。 「知識を得るために本をひらくのは,読書ではなく勉強だ」というのが,僕なりの認識です。(p102)
 情報を保存する際は,インターネットであればマウスをかちかち動かして画面をコピーすればすみますが,それもちょっと怖いふるまいです。 だから僕の鞄には,いつだってメモと鉛筆。本物を見たとき,本物の言葉に出会ったとき,いつでもメモを取れる状態にしておきたいのです。大事なことだから忘れないというのは嘘で,直感やひらめきは書き留めなければこぼれ落ちていきます。(p104)
 腕を組むというのは,自分の精神の表れです。心をブロックしている状態だと思います。 目の前の相手に,あるいは自分のまわりの世界に対して心を閉ざす。そんな所作を毎日続けていて,「いいことなんて,あるわけない」とすら思います。(p108)
 さわったことで,あたかも命の吐息がふきかかったごとく,そのものがすこし元気になるのです。 逆に言えば,誰にもふれられず置き去りにされたものは,やがて生気を失います。 僕が本や服を少ししか持たないのも,自分が毎日さわってあげられるものには,限りがあると知っているためです。(p122)
 感じる,思う,考える,選ぶ,決める---人生の根っことなるこうしたことは,一人でしかできない。この事実を,いさぎよく認めねばならないと思うのです。 だから,僕は孤独であることを基本条件として受け入れています。孤独を誤魔化すために意味もなく人と会ったり,仲間と騒いだりはしません。(p124)
 願うというのは,とてつもないパワーを生み出します。強い願いとバランスの良い実行力さえあれば,かなわないことなんてないとすら思います。 その意味で,願うとは魔法だと信じているのです。 (中略)願いには潔癖さがなくてはならないと考えています。 たとえば,「お金がほしい,すばらしい絵画がほしい,異性にもてない」といった単純な欲望に対して願いの魔法を使うのは,ある種の冒?だという気がします。(中略) 魔法は大事なことのために,大切にとっておく。「この目的に,魔法を使わせてください」と心の中で請うくらいの謙虚さが,魔法を魔法として守り続ける秘訣です。(p152)
● 読書の楽しみは「読んでいる時間そのもの」にある,というのはまったくそのとおりだと思う。だから,こうして読んだあとにその本のことをウダウダ書くなんてのは,まったく余計なことなのだ。
 なのになぜこんなことを始めたのかといえば,読んだ本の内容をかすかにでも記憶に引っかけておきたいというスケベ根性からだ。無粋といえば無粋なことなのだ。