2017年11月21日火曜日

2017.11.21 松岡正剛 『空海の夢〈新装増補〉』

書名 空海の夢〈新装増補〉
著者 松岡正剛
発行所 春秋社
発行年月日 1995.07.15
価格(税別) 2,000円

● 初版は1984年。著者に増補を付けさせたのは,オウム真理教のサリン事件であるらしい。

● しかし。この呆れるほどのパースペクティブの広さは何ごとであるか。一個人がここまで広い空間把握と時代把握ができるものなのか。
 そうするための要諦(の一部)は本書でも披瀝されるのであるけれども,こちらとすれば唖然とするしかない。

● 内田樹さんに対して「知の巨人」という言い方がされることがあるけれども,この称号は松岡さんにこそ相応しいのではないか。
 知といっても,無から有を生むわけではない。知を生産するとは,つまるところ,既存の知を編集することだとすれば,それは松岡さんの得意とするところかと思われる。

● 無類に面白い本であることはわかる。のだが,こちらの頭脳ではスイスイと読み進めることができない。日数をかけてしまった。こういう読み方では読んだことにならないのかもしれない。

● 以下に,多すぎる転載。
 いちばんつまらない議論もはびこっている。オウム事件は日本の社会的矛盾を反映した病理の露呈であるという、いわゆる社会病理説というものだ。この手の評論はその趣旨をどのように粉飾し,何を例証にもってこようと,つまらない。歴史上,病理のない社会などあったためしがないからだ。(pⅵ)
 そもそも仏教が,なぜ「意識の制御」(マインド・コントロール)を必要としたかということが,問題の大前提になっていなければならないだろう。密教というも空海というも,もともとはこの「意識の制御」を発端させた初期の思索や活動の様式に起源をもっているからだ。意識の制御をしたくなったということは,ほうっておけば辛くなるような意識の傾向が芽生えたということである。(中略)そこには,ヒンドゥー教や仏教が生まれた(中略)インドの気候風土が関与する。ともかく話はそこからだ。(pⅶ)
 言葉などというものは,たとえば「心を鎮めて欲を断ち」などという一フレーズの意味ですら,どんな解釈も可能であるのだから,ここに解釈の立場をめぐる論争と対立が次々におきていく。ヒンドゥー教から仏教が分かれ,その仏教が大乗と小乗に分かれていったのは,そこである。(pxⅰ)
 だいたい宗教的動向に変更が加わるときは,こうしたグローバリゼーションとローカリゼーションの正当性が正面からぶつかっている。(pxⅱ)
 そもそも宗教には二つの宿命があって,ひとつは限定した言語体系をつくってしまうこと,もうひとつは禅によくその特徴があらわれているのだが,本質的なことは言葉では言いあらわせない(不立文字)とすることだ。このふたつの宿命は大半の宗教のどこかに忍びこんでいるものだが,空海という人はこのあたりを自在に横断してみせた。(pxⅴ)
 もともと中国への文化文物の流入は,シルクロード型と南海型と北方ステップロードによる草原型の三種のコースによっていた。これをシルクロード型の一本にみてしまうのは,やがてそれが朝鮮半島を経て日本に入ってきたことに照らし合わせても,たいへんに日本文化とアジア文化の橋梁を狭いものにしかねない。(p9)
 社会にいて「我」をとりのぞくのはなかなか困難なことだった。「我」は生物界から離脱した人間が牙と毛皮のかわりにみがきあげた武器である。その武器を放棄するのは社会的生活の失敗を意味していた。(p23)
 仏教史とは,つねに生命と意識の対立をどのように解消するかという一点をめぐる世界最大の思想劇である。(p24)
 直立二足歩行がひきおこしたもうひとつの事態は,世の女性を震撼させる。子宮が陥没し出入口が狭くなったため,これによって出産が容易ならざることになったのである。出産率は低下し,種族によっては絶滅の危機にさえさらされた。のみならず,子宮陥没は胎児の時間をひきのばしてしまうことになった。俗に十月十日といわれるヒトの胎児状態は,あらゆる生物の中で一番に長い。それはメスの受胎能力の限界に近かった。わが女性たちの狩猟能力が一挙に衰えたのはこのためである。それまではメスこそが力強いハンターとして森林を疾駆していたものだった。(p29)
 大脳がほかの動物より大きくなってしまったのも,実は子宮の出入口が狭くなったためだった。生クリームをボール紙をまるめた口からしぼり出すように,われわれは“狭き門”を通過したがゆえに肥大した大脳にありついたのである。(p30)
 言語記憶の再生は大脳の皮質の上ではノン・ローカルでありながら,その再生のためにはあえてローカルな場所を設定したほうが有効だったということになる。つまり言語記憶とその再生にはつねに「場面」が必要だったのである。(p34)
 古代言語観念の世界においては,「お前は誰か」と問われて自身の名を言ってしまうことがそのまま服属を意味していた(p39)
 この国は,コトアゲ(言挙)せぬことをもって言語習俗としていたふしがある。いたずらに言葉をつかわないことがむしろ言葉の力を生かしているのだと考えられてきた。コトダマが信仰されたのはそのためである。(p41)
 空海にはそういうとことがあった。AとA',あるいはAとA''をも同定するところがあった。だからこそ,インド,中国,日本にまたがる思想の潮にも対応できた。(p49)
 それ(『大日経』)は言われるところの“事相テクスト・ブック”というよりも,むしろ魔法の羅列のような奇怪な印象だったのである。空海ならばただちに秘密の芳香を感得して,その独占のために入唐を決断しかねまいとおもわれた。(p69)
 空海の道教批判を一点にしぼれば,そこには自他救済の慈悲が説かれていないということだろう。つまり逆に言えば,それ以外の面では,空海はひそかにタオイズムに憧れていたということになる。(p72)
 空海の声は深かったと思う。ただ大きいのではなく,深く遠く響いたであろう。高くはなかったはずである。(p81)
 この少年(空海)は友人をつくる器量に欠けていた。寡黙であったせいばかりでない。周囲の者もなにかしら近づこうとはしなかった。少年の方もその壁をすこしずつでもくだこうとはしない。壁はしだいに高くなっていた。これを打破するには,よほどの飛躍を必要とするようになっていた。(p82)
 青年(空海)は,五経の奥に四書五経をあやつる一人の大指揮者の指揮棒があることを見ていた。大指揮者とは鄭玄である。(中略)それまで彼方の経学としかおもえなかった古典の世界に,鄭玄という具体的な人物がこれをあでやかに指揮するのを知って,いささか大唐という国に関心をもちはじめたのもこのころであったろう。(p83)
 ここでひとつの激突があれば,佐伯真魚は沙門空海とはならなかった。いまもなお高校や大学で日々くりかえされている自我の真空放電でおわったことだろう。それでも彼は一人の有能な官吏や卓越した文人になったかもしれない。彼はかれらとの論争に勝ってしまっただろうからだ。しかし,彼はきっと黙ってしまったのだ。そのあまりにもみずみずしい感受性が連中のニヒリズムにもペシミズムにも感応してしまったのである。宗教家の資質のある感受性とはそういうものである。いつかその内奥にたまるエネルギーが爆発することはあったとしても,ふだんはたいていの議論を呑みこむものだ。(p86)
 そうした山中では,四書五経が役に立つはずもなく,虚空蔵求聞持法のようなダラニのもつコトダマの力だけが空海を守ったにちがいない。そして,ただひとつの「求聞持法」のみに頼った空海は,修行の日々のうちにさらに強烈な呪法を渇望したにちがいない。その渇望こそが空海に密教をもたらすことになる。(p93)
 『三教指帰』を読んで驚かされるのは,その老成した主張の結構もさることながら,やはり厖大な漢籍を縦横無尽に駆使している「博学の技術」というものである。目がくらむとはこのことだ。(p97)
 空海が他の追随を許さないほどの「集めて一つに大成する綜合力」(福光光司)に長けていたことは,空海研究者の誰しもが認めている。私の言葉でいえば,これはエディトリアル・オーケストレーションの妙,すなわち編集構成力というものだ。(p99)
 エディトリアルの出発はAに見出したきらめきを別のBにも見出したいと願うことにある。そこが学問とは異なっている。Aをそのまま突っこんではしまわない。きらめきを多様の中に求めようとする。(p102)
 エディトリアルとは結集ではない。どちらかといえば結縁というものである。そこには一種の禅機がなければならず,また過剰な探求があってはならない。つねに眼を光らせていながらも,その質量の下に横たえて下敷になるようであってはならない。そういう意味では諸学に対するに遊撃性をもってあたらなければならなかった。それは思想の方位という相対性に向きあって,たえず自在な選択力をもつということでもある。(p106)
 善無畏がナーランダー寺院で学んだ師の達摩掬多から「中国を開教しなさい」と言われて,西域から天山北路を通って長安に入ったのはもう八十歳になんなんとする時だった。(p109)
 特筆すべきは新羅の恵日・悟真,ジャワの弁弘,日本の空海らの異邦僧にも好んで伝法していることである。門人一千人の中にはさらに多くの異邦僧がいたことだろう。私はこの点をいささか誇大に重視したいとおもう。そこに史料にあらわれぬ恵果の秘められたインターナショナリティを看取したいと思う。(p115)
 般若三蔵については,彼が日本に渡ろうとしていたという話もある。老齢の般若がこれを果たせなかったのはやむをえないところであろうが,その熱情がおそらくは空海を動かした。(中略)空海はぜいぜい日本語と唐語を知っていたにすぎなかったが,このカシミール出身の老僧は三ヶ国語,いやおそらくは西域諸国や南海諸国の言葉を加えた数ヶ国語に通暁していたと思われる。それが,いままた東海の波を越えて日本語にも関心を示している。空海はサンスクリットを学びつつ,この醴泉寺にたたずむ老僧の世界言語観念ともいうべきもののすさまじさに大いに共感したのではなかったか。(P124)
 空海が必ずしも時流に乗る人ではなかったことは強調してよいかもしれない。四十歳をこえてたしかにその勢いは天下に聞こえたが,それはむしろ晩成というにふさわしい。(p129)
 ちょっと意外かもしれないが,あるものの状態を構造として整えこれを維持しやすいようにしておくには多少ゆさぶっておくことが必要である。(p141)
 空海の密教構想が矛盾をもっているということは,同時代の得一や円珍も批判的に感じていたことだし,その後も今日にいたるまで指摘されつづけている。(中略)しかし,「宗教に矛盾がない」とはまたどういうことなのであろう。どの宗教に矛盾がないと言えるだろうか。宗教はもともと矛盾をエネルギー源として出発しているはずである。(p151)
 空海だけがとびぬけていた。そして,あまりにとびぬけているその構想は,平安王朝のみならず,ごく最近にいたるまでそれが日本思想に根をおろすものであるとはおもわれなかった。(p151)
 最澄がともすれば内なる憤懣を泰範や徳一などの-さすがに空海には正面切らなかったが-個人にむけて一挙に吐露せざるをえなかったのにくらべると,これはやはり空海の強靱であり,また,個人的発言ではなくつねに類的発言に徹する空海の普遍でもあった。(p165)
 よく「字面にとらわれる」と言うが,空海はその字面にこそ本意がはためいているとみえた。そういう“文字の人”だった。(p169)
 「書は散なり」とは,空海の書のみならず,その思想を知るうえでもすこぶる重要な指摘である。書を散らして書きなさいというのではない。書する心の方をあれこれ景色にあてがいなさいと言うのだ。景色とはまた気色であるが,ようするに対象に陥入してidentifyすることである。(p175)
 しばしば文字を見れば人がわかると言われる。そうだろうか。文字を見れば人がわかるとは,その人が自分にこだわっているさまがよくわかるという意味であろう。エゴイズムが見えてくるということにすぎない。空海の書は入唐後,そのエゴイズムをこそ脱しようとした。(p175)
 益田池碑銘は一字ずつ書体を変えている。単に篆隷真行草を変えているのではなく,その一字の背後に棲む景物気色に応じて,それぞれ恰好の象形を選んでいる。(中略)小野道風が空海の書は邪道だと批難するのもむりはない。これはとても道風の書美の知識ではわからない次元での天工開物である。空海はここにタオ・カリグラフィの生命力をこそもちこんでいたのであった。(p177)
 われわれはどうしても小さな写真図版でマンダラを見てしまいがちである。それでは全体の構成が先に眼に入ってきて,細部が見えにくい。ところが実物大の複製マンダラを眺めてみるとまったく印象がちがってくることを知る。(p195)
 われわれがいつかは考えなければならないもっとも怖るべき問題のひとつは,「生命は生命を食べて生きている」ということにある。この怖るべき事実から唯一のがれられるのはわずかに緑色植物の一群だけである。(p225)
 実は,そこにこそ最初にして最大の「生命の矛盾」が顕現するのであるが,藍藻の冒険は次の静物たちがこれと同じ方法で生きる可能性を奪ってしまったのである。つまり対応の紫外線エネルギーで自給自足のできる生命体をつくることは,もう次に生まれてくる生物にはできなくなっていたのであった。(p238)
 一般に発音や発語の問題-すなわちボーカリゼーションの問題は文化史では過小評価されているようだ。これはわれわれがあまりに放縦な発音世界や聴音世界にいるために,「音」と「義」と「字」をバラバラに切り離してしまっているからである。(p249)
 発話時には一分あたりの呼吸数が激減し,吸息作用はすこし増すものの呼息作用はいちじるしくゆるやかになり,全体としての呼吸は深くなる。(中略)十全な発語活動をしているときに呼吸が深くなるということは,声を出していても瞑想しうるという可能性を立証する。これがマントラやダラニの高次元性を支えるひとつの条件になる。(p256)
 むしろ全身に号令のかからない声などありえないと言ったほうが正確なほどである。したがって「声の文」とはいえ,そこには全身体的特徴が検出されるはずなのである。空海はその特徴をこそ「文の字」と言った。「六塵ことごとく文字なり」とはそういう意味だった。(p258)
 だいたいインターバルのあまりに長い呼吸はそれこそ筋肉内のATPをフルにつかうためよほど自覚的でなければできないことで,そうした強引な呼吸法と瞑想性は合致しない。(p261)
 しょせん空海には「国家」など仕掛けの多すぎる悲しき玩具であった。(p288)
 コンピュータがホロニックではなく,われわれの脳がホロニックである最大の差がここにある。たった一個の入力情報によって,その部分=全体系を組み替えることができること,それはまた生命だけがもつ神秘でもあったのである。(p334)
 それは「一個の有機体はそれが存在するためには全宇宙を必要とする」(ホワイトヘッド)という目のくらむような考え方である。われわれはたとえ一個の石塊すら全宇宙から放逐することが不可能であることをふだん忘れているものだが,そのわれわれ自身が存在するためにも全宇宙がいっさいを準備しているのだということをもっと忘れていたようにおもう。(p336)

2017年11月17日金曜日

2017.11.17 朝日新聞社編 『文士の肖像 一一〇人』

書名 文士の肖像 一一〇人
編者 朝日新聞社
発行所 朝日新聞社
発行年月日 1990.06.20
価格(税別) 4,757円

● カメラマンは木村伊兵衛,土門拳,濱谷浩,秋山庄太郎の4人。錚々たる大家。

● 最も面白いと思ったのは,土門さんが撮った土井晩翠と正宗白鳥の写真。下からアングルを取っていて,鼻毛まで写っている。

● 巻末で安岡章太郎さんによる「文士の顔」と題する本書の解説が載っている。
 四十過ぎたら,自分の顔に責任を問われるものだとしても,その顔は時代によって確かに違ってくるのである。 政治家や実業家とは明らかに異なった何かが,文士の風貌には共通してあるようだ。 それはみずからの人間としての弱さを,閉ざしも隠しもしていないということであろうか。
● とあるんだけれども,今となってはどうだろうか。いや,当時からどうだったろうか。
 職人は言うに及ばず,今なら,ホームレスの中にもこの種の風貌を見つけることができるのではないか。ホームレスと「文士」は意外に近しいのかもしれないが,職業が風貌を作るというのはあまりなくなっているように思う。

● 業界を通貫する一流の顔というのはあるのかもしれない。が,ぼくには見分けがつかない。
 ただ,おしなべていうと,異形の顔というか怪異な風貌というか,そういうものと一流は相性がいいんじゃないかと思っている。

2017.11.17 三好和義 『HOTEL楽園 オリエンタルリゾート』

書名 HOTEL楽園 オリエンタルリゾート
著者 三好和義
発行所 小学館
発行年月日 2000.11.20
価格(税別) 3,000円

● だいぶ前の刊行。なので,ここで紹介されているホテルの中で,今は消滅しているものもあるかもしれない。経営体が替わっているものは,もっとあるだろう。
 紹介されている国(地域)は次のとおり。インドネシアはそっくりアマンの紹介。
 セイシェル モルディブ タヒチ ハワイ フィジー ボルネオ インドネシア インド トルコ エジプト サハラ イスラエル シンガポール タイ ミャンマー マカオ ネパール チベット ブータン 日本

● ブータンやチベットなど山岳地域のホテルもあるけれども,多いのは海がらみだ。リゾートというときに,海が果たす役割は大きいのだろう。マリンスポーツもさることながら,風景としての海が持っている力。
 癒やしとか開放感の象徴だ。ぼくらは海に住んでいた生き物の子孫なのだ。太古の記憶がぼくらを海になびかせるのだと,安直に理解しておこう。

● 以前は,こうしたホテルの写真を見ると,行ってみたいものだと思ったものだ。が,今はあまりそそられなくなっている。惹かれなくなった。好奇心が枯渇したわけではないと思いたい。
 リゾート,行楽という言葉からぼくが連想するのは,南の島ではなくて,都市だ。自分が田舎生まれの田舎育ちだからだと思うんだけど,休日は都市で過ごすのが何より気分転換になる。アーバンリゾートというやつだ。

● 散歩や買い物もしなくはないけれど,基本的にホテルの中で過ごすことになる。で,一般論としていうと,ホテルのサービス水準はいわゆるリゾート地よりも都市の方が高い。日本ならやはり東京はすごい。
 もし,アメリカに行くんだったらカリブ海とかそっち方面じゃなくて,ニューヨークのホテルに泊まって,ホテルの窓からニューヨークの街並みを眺める快感を味わいたい。

2017年11月16日木曜日

2017.11.16 番外:GOETHE 12月号-最上の生活必需品

編者 二本柳陵介
発行所 幻冬舎
発売年月日 2017.12.01
価格(税別) 741円

● 『GOETHE 12月号』では,メルセデス日本法人の社長やソニーの社長が,「最上の生活必需品」を紹介している。「自分の彼らが最上と認めるモノ,特に生活必需品ともなると,さらに愛用するモノに色濃く人生が映りこみ,無数の物語が生まれでる」と。なるほど。
 筆記具だとモンブランの149や,フランスのデュポンの製品が紹介されている。

● では,ぼくも同じように自分の生活品を紹介できるだろうか。
 ムリだね。たとえば,最も常用しているノートとペンは,ダイスキンとプラチナの千円万年筆。洋服はユニクロがメイン。いつも持ち歩いているバッグは,レスポのトート。これらを紹介できるだろうか。
 物語は高級品からしか生まれないかといえば,そんなことはないと思うんだよね。金額の多寡にかかわらないはずだ。

● でも,ダメだ。理由は2つ。ひとつは,そういうものを紹介するのは,この雑誌の主旨にはまるでそぐわない。
 もうひとつは,持ち主に魅力がないからだ。モノは物語を生みだすとしても,その物語の帰属者が平々凡々で,耳目を惹くような業績もなく,容姿もなく,お金もないのでは,物語自体が伝達性を持たない。

2017年11月8日水曜日

2017.11.08 樺沢紫苑 『読んだら忘れない読書術』

書名 読んだら忘れない読書術
著者 樺沢紫苑
発行所 サンマーク出版
発行年月日 2015.04.20
価格(税別) 1,500円

● 「読んだら忘れない読書術」なんてない。本書にも色々説かれているけれども,それを全部実行しても忘れないなんてことはないでしょ。実行しないでこう言うのは申しわけないんだけど。
 こうして読んだ本について記録を残していても,1ヶ月前に読んだ本なんて,タイトルすら忘れている。ぼくが特に頭が悪いからじゃなくて,そんなもんだと思うんですよ。

● 忘れないでいるって,不毛なことかもしれないんだよね。読んだら忘れていいと思うんだけどね。受験勉強してるんじゃないんだから。
 ぼくらがしている読書は,消費(=娯楽)としての読書だもんね。けっこう固い内容の本を読んでいる場合でも,何かに役立てようと思って読むことは,ぼくの場合は,ほとんどないな。

● 以下にいくつか転載。
 圧倒的な量の情報を日々自分の頭に入力しているからこそ,毎日原稿用紙で10~20枚程度,多い日で約30枚ものアウトプットが可能になるのです。「圧倒的なインプット」があって,はじめて「圧倒的なアウトプット」ができるということです。そのインプットの軸になるものが「読書」です。(p4)
 「読書の習慣のない人」は,読書の本当のメリットを知らないはずです。(p22)
 ほとんどの人の仕事,生活は,無駄だらけです。無駄なことをやり,無駄なことをして疲れ,無駄なストレスを抱えて病気になる。そういう「無駄」を避け,膨大な時間を節約する方法がたった1500円の「本」に書かれています。それを知るのか,知らないのか。本を読めば,大幅な時間短縮が可能です。(p31)
 「文章力」というのは,実はインターネットの時代となった現在,極めて重要になっています。(中略)「文章力」を鍛えるほとんど唯一の方法は,(中略)「たくさん読んでたくさん書く」ことしかないのです。(p38)
 自分の経験・体験からしか判断できない人は,今,自分が走っているレールをそのまま走り続けるしかないのです。自分がいる井戸の外側の情報がまったくないのに,その井戸から出ていこう,というアイデアが浮かぶはずはありません。(p60)
 私がこれほどたくさん読書する理由は,「楽しいから」です。これがまず基本です。(中略)本を読む動機は「楽しいから」であって,「自己成長のため」であってはいけないのです。(p69)
 人間の脳は,入力された情報のほとんどを忘れるように作られています。正確にいうと「重要な情報」以外は,全て忘れるようにできているのです。脳が「重要な情報」と判断する基準は2つです。「何度も利用される情報」と「心が動いた出来事」です。(p80)
 私は電車の中でスマホを見るのは,最大の時間の無駄だと思います。なぜならば,1日10回もメールやメッセージをチェックする必要はないし,スマホでメッセージを返信するよりも,パソコンで返信したほうが,何倍も早いからです。(p86)
 私が,スキマ時間を使って1日1冊読み切ることができるのは,ちょっとしたコツがあります。それは,その日の外出前に「今日は,帰宅までにこの本を読み終える!」と決めることです。(p90)
 読書において読むスピードは,あまり意味がないのです。(中略)「読んだつもり」になっているだけ,ただの「自己満足」のための読書になっている人が多いのです。特に,「速読しています」という人ほどその傾向にある。(p93)
 私は本を読んだら,その日かその翌日に,Facebookに感想をアップするように心がけています。10行を超えるような長文の感想を投稿する場合もありますが,数行の感想でもいいと思います。たったそれだけのことですが,それをやるだけで,本の内容が,やらない場合に比べて何倍も記憶に残りやすくなるのです。(中略)SNS上に感想を書く。それは,あなたの体験を共有する,つまり「シェアする」ということです。自分しか読まない手帳やノートに書くのと,第三者に見られることを前提とした「シェア」には,大きな違いがあります。(p107)
 そうなのか。Facebookでは10行を超えるような文章は,長文の範疇に入るのか。憶えておこう。
 「Facebookの上級者向けノウハウが学べます!」と強調すると,たくさん人が集まります。しかし,そこに参加する人の7~8がFacebook初心者なのです。(中略)初心者の人に限って,基本的な使い方すら知らないのに,なぜか「上級のノウハウ」を知りたがるのです。(p153)
 ネットやスマホで情報チェックするのももちろんいいのですが,スマホ,つまりインターネットで得られるものの大部分は「情報」です。熱心なスマホユーザーのほとんどは「情報過多」で「知識不足」に陥っているはずです。(p192)

2017年11月5日日曜日

2017.11.05 関本紀美子 『手帳スケッチ』

書名 手帳スケッチ
著者 関本紀美子
発行所 ソフトバンククリエイティブ
発行年月日 2011.12.07
価格(税別) 1,300円

● スケッチの描き方,イラストの描き方の手引書。別に手帳に描くのでなくてもかまわない。

● なるほどと思ったところがあるんだけど,それだけでは畳上の水練にもならないね。実際に描いてみないとね。
 自分に絵心はないことはわかっている。一方で,ひょっとしたらあるのかもしれないぞ,とも思っている。

● それでこういう本を読んでみたりするんだけど,その結果,描き始めたということはないから,それ自体が絵心がないことの証明なんでしょうね。

2017.11.05 藍玉 『まずは,書いてみる』

書名 まずは,書いてみる
著者 藍玉
発行所 KADOKAWA
発行年月日 2017.01.12
価格(税別) 1,200円

● 副題は「〔時間〕〔アイデア〕〔やりたいこと〕がどんどん湧き出すメモの習慣」。メモの勧めであるわけだ。
 メモ魔になれとはよく言われることで,そのことを知らない人はいない。けれども,メモを取る人は少ない。面倒だ。取らなくても致命的に困ったことはない。その他,いくつかの理由があるんだろうけど,とにかくメモを取る人は少ない。

● だから,メモの勧め本が途切れずに出版される。問題は,メモを取らない人はその種の本も読まないこと。こうしたものを読むのは,すでにメモを取ることが習慣になっている人だろう。
 自分がやっていることは正しいのだと背中を押してもらいたくて読む,という場合がほとんどではないだろうか。

● ただし,昔に比べれば今を生きる人は書くようになっている。インターネット(ブログ,SNS)の影響だ。Twitterをメモ代わり,ログを残す手段として使っている人は,けっこう以上に多いのではないか。
 そうと意識はしていなくても,結果的にそうなっているという場合を含めて。

● 参考になったのは「ふせんのサイズでタスクの需要度,緊急度を視覚化する方法」(p39),「誰に何を頼まれたかが明確に」わかるメモの仕方(p105)。これは特に新人には役に立つかもしれない。
 ただ,じゃあ自分もやるかといえば,たぶん(いや,確実に)やらないんだな。

● いくつか転載。
 ミスをすると少なからず落ち込んでしまいますし,そのような出来事から早く逃れたい心理になります。ですが,そこは勇気を出してミスを分析します。これもまた,ノートに書き出します。(p112)
 「やること」は小さな目標でもあります。できた喜びから「もう一つやろう!」を意欲が湧いてくるのです。(p117)
 メモをアップデートする裏技は縦のノートを横にして使うこと(p120)
 長年叶えられないものは自分にとって必要ないことだ(p134)
 最近,マンスリーのフォーマットに可能性を感じています。アイデアしだいでいろいろと面白い使い方ができるのです。(p149)