2018年3月5日月曜日

2018.03.05 松浦弥太郎 『自分で考えて生きよう』

書名 自分で考えて生きよう
著者 松浦弥太郎
発行所 中央公論新社
発行年月日 2017.02.25
価格(税別) 1,300円

● 『暮しの手帖』からクックパッドに移り,「くらしのきほん」をスタートさせた。環境が大きく変わったろう。松浦さんって,もともとITに対してのめり込んでいた方ではなかったと思うんだが。どちらかといえば,アナログ派というイメージだった。情報カードにペンシルで手書きというイメージ。

● その松浦さんがクックパッドに移ったんだから,文字どおりの新人の気分だったろう。が,機器の使い方だの,ネットの取り扱いなんぞというのは,すぐに慣れる。
 大切なのはやはりコンテンツ。あとは,本人も言っているけれども,のめり込む度合い。たとえば,更新頻度や間違いの修正に要する時間の短縮など。そういうところで,松浦さんに手抜きはないのだろう。

● といって,本書でクックパッドでのとまどいを詳しく語っているわけではない。松浦流の仕事論,生活論,人生論を本書でも語っている。

● 以下にいくつか転載。
 どんなに立派といわれる仕事や学びよりも,料理や掃除,洗濯という,日々繰り返される家事全般の仕事こそがもっとも尊い行為であり,そこにこそ真実があり,本当の学びや楽しみがある。(p11)
 本来のおいしい味とは,食べながら自分で探して見つけるもので,ひと口食べてすぐにわかるようなものではないのだ。(p15)
 勝負において,圧勝というのは一時は心踊るものである。しかし,圧勝の恐さを忘れてはいけない。というのは,その後に必ず大きな負けも作用するということだ。作用には常に反作用が働くのも自然の摂理。なので,勝ち続けたいなら,たまに負けるのが良い。(p19)
 優れた人は,きっと自分が真似をしたい型を見つけることが得意であるということだ。実はそこに独自性があらわれる。もっと言うと,型を見つけることができたら,目的のほとんどは済んでしまっているようなものである。(p24)
 行き詰ったときは,まわりの人に助けを求めるのが一番いい。もうダメだと思ったら早いほうがいい。(p50)
 英国の老舗靴店で靴を注文したことがある。その店の主人に靴の手入れで大切なのは何かと聞いたら,見えるところではなく見えにくいところの手入れをすることだと言った。とくにヒールだという。(p71)
 おもてなしはしてもらうのが当たり前ではなく,お客としての協力があってのこと。客ぶりの良い自分であれば,いつでもどこでも,すてきなおもてなしを受けることができるだろう。(p73)
 「ありがとうを一〇〇回言うことが,夢や希望を叶える最高の秘訣なんだよ」 知人は実業家として大きく成功している人だから,言葉に説得力があった。(中略)「いや違うんだ。ありがとうを言うのは人だけでなく,モノや植物,空や太陽というような,どんなものにも,ありがとうと言葉をかけるんだよ。そうすれば一日に一〇〇回言うのはむつかしくはない」(p88)
 この知人っていうのは,斎藤一人さんではないかと思った。
 女性が強くなっていくと,さらにわがまま坊やな男性が増えるに違いないのだ。(中略)世の女性たちよ。男を甘やかさないでほしい。(p93)
 自宅であっても退屈したらパソコンを開くのではなく,靴を履いてぶらっと外に出るほうが,どれほど豊かな時間の使い方なのかと思う。(p211)
 餃子は,餡に味つけをして,できればタレを使わないほうがおいしいのだ。(p231)
 蕎麦はわざわざ音を出してすすって食べるのがよいとされているけれど,それは違う。(中略)すする音が出てしまっても許される料理とされてきただけ。(p233)
 「料理は結局,材料である。材料を選ぶことである」という,芸術家の北大路魯山人の言葉がある。(中略)豊かな暮らしとか,心地良い暮らしとか,確かな仕事,価値のある仕事というのは,いかにして良い材料を知り,選ぶかということなのだろう。(p250)

2018年3月4日日曜日

2018.03.04 和田秀樹 『勉強したくなった人のための 大人の「独学」法』

書名 勉強したくなった人のための 大人の「独学」法
著者 和田秀樹
発行所 大和書房
発行年月日 2017.03.25
価格(税別) 1,400円

● 和田さんはすでに,受験生や社会人に向けて,勉強の本を何冊も書いている。その多くをぼくも読んでいる。
 思いだした。ぼくは受験生のときも,合格体験記というのを好んで読んでいた。受験雑誌に載っている勉強法のところを読みひたっていた。そうして,勉強そのものはしなかった。そうだった,そうだった。

● こういう困った性癖は,大人になってからも直らないものだね。和田さんの勉強法の本はかなり読んだのに,勉強じたいが自分の生活の中心になることは,やっぱりなかったな。

● 以下に,多すぎるかもしれない転載。
 独学のメリットは,勉強の時間や進め方を自由に設定できるなど,さまざまあります。ただ,もっとも重要なのは,既成の権威や価値に左右されないところにあると私は考えます。(p4)
 あなたは,知性とはほど遠いような学者もたくさんいるという現実を,きちんと認識しているでしょうか。(p4)
 相手が専門家であろうがなんであろうが,疑問に思ったことがあれば,率直に疑問をぶつける。専門家であっても,正しいことを言うとは限らない。私は,それこそが本物の知性であると考えている(p9)
 私は,勉強熱心な社会人の多くが,ただインプットすることに夢中になっているように思えます。(中略)大切なのは,インプットするだけではなく,学んだ知識を自分なりにアウトプットすることです。(中略)どれだけ独自の観点からアウトプットできるか。勉強の成果は,そこにかかっています。(中略)つまり,これからの時代,本当に必要とされるのは,他の人とは違う視点からアウトプットできる人なのです。(p12)
 日本人の多くは,学校を卒業してから勉強をしないまま一生を終えているのではないでしょうか。(中略)人生を分けるのは,大人になってから勉強をしているかどうか,です。(p29)
 資格試験やカルチャースクールなどでは,基本的に先生から一方的に教えを受ける形式で勉強します。このとき,私たちはなんとなく「正解を教えてもらう」という意識で先生のお話を聞いています。(中略)けれども,私は「これしか正解がない」という発想は非常に息苦しいと考えます。(p34)
 健康寿命を延ばすには,体を鍛える必要があるのはもちろんですが,脳の老化対策も重要となります。(中略)1人でコツコツと勉強する意欲がある人は,超高齢者会にあっても,健康的で若々しくいられるのではないか,と私は考えます。(p40)
 勉強のテーマは多種多様ですが,とにかく楽しい勉強,面白い勉強に取り組むのが基本です。(p42)
 私が提案したいのは,普段使いのパソコンとは別に,勉強用のパソコンを別に1台持つ,という方法です。(中略)ネットにつながないパソコンは,原稿を書くためだけに使用します。(中略)余計な機能はいりませんから,低価格のパソコンでも中古品でも十分です。(中略)書くことにしか使えないパソコンがあれば,単純に「書く」という行為に集中できます。勉強用パソコンを使っているときは勉強に集中する,というルーティンが完成すれば,こっちのものです。(p63)
 政治であれ,歴史であれ,科学であれ,ワインであれ,勉強した内容を面白く語る。それができれば大人としての魅力は高まります。(p69)
 あなたがもし独学を志すのであれば,既存の学説をたくさん身につけるなどという,情けない目標を持たないでほしいのです。(p74)
 何を学ぶにあたっても,既存のフレームワークに類型化して安心していると思考停止に陥ります。あらゆる可能性を模索するスタンスを忘れないようにしてください。(p77)
 ユニークな意見を言うために必要なのは,大胆な仮説を立てることです。どれだけ荒唐無稽な説であっても,仮説を立てるのは自由です。一度仮説をたてると,その仮説を立証するための材料を得ようと努力します。大切なのは,その努力です。(p78)
 日本人が「ノーベル賞」や「有名大学の教授」といった肩書きに弱すぎる証拠に,万が一,ノーベル賞学者が週刊誌で不倫疑惑を報じられたら,一転して世論のバッシングの嵐に遭うはずです。私にしてみれば,研究者の人格に問題が会っても研究の価値自体は揺るがないと思うのですが・・・・・・。(p87)
 数学オリンピックで金メダルを獲得するような人は,数学者としては大成しないと有名な数学者から聞いたことがあります。数学者の中では数学的な「問い」を立てられる人こそが優れているのであって,問題を解くだけの人は二流以下とみなされるからだそうです。(p90)
 私は知識を詰め込む教育を否定はしません。日本だけでなく,諸外国でも初等中等教育は詰め込み式の発想で設計されています。(中略)ところが日本の場合は,大学に進学しても,一方的に教授の学説を教えてもらうだけで,自ら考える場にはなっていません。(p96)
 大人にとっての頭の良し悪しを分けるのは,知識量ではなく,「答えが1つだと思っているかどうか」と私は考えています。頭が悪い人は,正解が1つしかないと決めつけています。(p98)
 「儲けたい」という人間のインセンティブよりも,「損をしたくない」というインセンティブのほうが3倍強く働く--端的にまとめるとカーネマンはこのような理論をきちんと数式化して,2002年にノーベル経済学賞を受賞しました。(p105)
 日本では精神分析の治療で医者や心理学者が食べていくのは至難の業です。ところが大学の教授になれば食べていけるので,理屈ばかり言って,論文ばかり書いている人が分析の世界では主流です。結局は,その手の大学の先生が何十年も前の理論をもとに,患者さんの心を平気で踏みにじるような「治療」を行っているわけです。(p108)
 外国の人は,「会話はできるけど話の中身がない人」よりも「会話はおぼつかないけど話に中身がある人」の話を聞きたがります。それは立場を逆にしてみれば当然です。(p119)
 仕事ができる人,勉強ができる人ほど,休むべきときにはきちんと休んでいます。大切なのはメリハリです。力を出し切ったと思ったら,とにかく体を休めるのが先決です。(p137)
 ビジネス書にいたっては,売れているものでも3~5万分が相場ですから,内容のあるビジネス書を読んでいれば上位1%どころか,0.5%に入ることができます。知的レベルが上位1%に入れば,少なくとも失業の心配は不要でしょう。ちなみに,ビジネス書やビジネス誌の購読層は首都圏に集中しているのが実情です。(p156)
 今ほど,読書によって周囲を差をつけられる時代はないと痛感します。(p157)
 たとえば,簿記の試験に合格するという目標を立てたときに,会計学のテキストを購入するのは順序として間違っています。資格試験を受けるなら,まず過去問を集めた問題集を入手するのが基本中の基本です。(p158)
 若い人にぼくが最も伝えたいのはここだ。実践知として,有益このうえないのは,ここのところだ。まず過去問にあたってみること。そのときの自分の学力は度外視していい。とにかく過去問にあたること。
 当然,大部分はわからない。だから解答と解説を読む。そうしてとにかく,3年分なり5年分(それ以上は無意味)の過去問にすべてあたること。
 で,解答と解説を読んだあと,さらに同じ過去問を解いてみるのだ。すでに解説を読んでいるのだから,今度は半分くらいはできるだろう。そして,また解答と解説を読む。2回目からは解説を読んでもわからないところは,人に訊くなり参考書にあたるなりしてもいいだろう(今ならネットをググるという手もある)。
 それを繰り返す。5回も繰り返せば,全問正解に至るだろう。5回でダメなら全問正解になるまでやるのだ。それでおそらく,大学受験や資格試験はパスするだろう。なぜなら,本番でも同じ問題しか出ないからだ。どういうわけかそうなのだ。
 この勉強法を若い頃に知っていれば,まぁ東大くらいは入れたかもしれない。そのくらい有効な方法だ。
 何か新しいテーマを知ろうとするときに,著名な著者のテキストや定評のある教科書から読もうとするのはリスクが高すぎます。(中略)まずは,見栄を張らずに手ごろな「入門書」から手にとればよいのです。(p158)
 精神分析の本でも,自分に基礎的な知識があれば,一部分を読んだだけでも著者の理論をある程度把握できます。むしろ部分的に読むだけでも,1冊を隅々まで読むのとあまり変わらないのではないか,と思えるようになったのです。(p174)
 熟読する部分の選び方がわからないという人には,あれこれ考えずにとりあえず1章だけを熟読する読み方をおすすめします。私が著者としてたくさんの本を執筆してきた経験からいうと,著者が本を通してもっとも主張したい内容は1章に書いてあるケースがほとんどです。(p178)
 「正しさ」にとらわれすぎると,考えの幅が広がりません。他の人とは違う視点で,どのような主張を提示できるか。それを考えてほしいと思います。(p199)
 ブログでは主張したいことを妥協しないで書いているので,ストレスの解消に大きく貢献しています。そして何より文章を書く行為は,日々の勉強を下支えしています。(p204)
 私はたくさんの本を出版しているので,博覧強記のように思われることもありますが,まったくの誤解です。本を書くという仕事があるから,いろいろとものを調べたり,人から話を聞いたりします。そうやって学んだ材料を,著書を通じてアウトプットする過程で知識が自分のものとなっているわけです。(p205)
 つまらない文章になるのをおそれず,わかりやすく書けばいい(p207)
 一般的な論理展開に,「①問題提起」「②意見提示」「③展開」「④結論」の4部構成があります。(中略)この論理展開をマスターすれば,文章が格段に論理的になります。型にはめて書けば,いろいろなテーマで文章を量産できるようにもなります。(p208)
 私の場合は,まずコンテづくりを行います。コンテというのは,どんな内容を,どんな順序で書くかという見取り図です。(中略)短いコラムのような文章を書くときも,最初は簡単なコンテを作るのをおすすめします。箇条書きでも十分です。内容のモレを防ぐ効果もあります。(p212)
 「相手はわかっているはず」と思う内容であっても,実際には相手が知らないケースがはるかに多いのです。(中略)省略するよりも,むしろ丁寧すぎるくらいの文章を書いてください。(p218)
 灘高校に通っていた当時,英語の先生が「英作文は英借文だ」と語っていました。(中略)自分が表現したい内容に近い英語の文章を見つけてきて,単語を入れ替えたほうが書きやすいし,自然な文章になるというわけです。(p220)
 定年になれば,時間がいくらでもできるから,それからにしようとか,今はちょっと忙しくて,と思う人も多いかもしれません。しかし実は,人間の脳の前頭葉と呼ばれる部分は,40代から萎縮が目立つようになります。ここが萎縮すると,なにごとも意欲がだんだん衰えてしまうのです。(中略)結局のところ,時間ができたころには意欲が衰え,「ま,今さらいいか」ということになりがちなのです。そういうことを避けるためにも,意欲のある今のうちに勉強を開始したほうが懸命です。(p227)
 毎日進化を続けられるなら,歳をとることはなにも怖くありません。長く生きるほど強くなれるし,賢くもなれるのです。そして,そのために残された時間も十分あります。うまくいかないことがあっても,またやりなおせる。(p229)

2018年3月3日土曜日

2018.03.03 茂木健一郎監修 『脳に効く写真』

書名 脳に効く写真
監修者 茂木健一郎
発行所 エムディエヌコーポレーション
発行年月日 2017.04.01
価格(税別) 1,300円

● 監修者の茂木さんによれば,「脳の中では,喜怒哀楽などの感情に関する情報処理は,すばやく行われることがわかっています。(中略)そのように感情の「準備」ができた後で,大脳皮質が,ゆっくりと情報処理をしていきます」(p2)ということらしい。
 写真は感情に直接訴えるということだろうか。そこに本書の意義がある,と。

● ぼくはサラッと読んだ(見た)だけなので,こういうものが本当に「脳に効く」のかどうかは未検証。

2018.03.03 フレデリック・ヴァン・レンスラー・ダイ 『マジック・ストーリー』

書名 マジック・ストーリー
著者 フレデリック・ヴァン・レンスラー・ダイ
訳者 野津智子
発行所 ソフトバンクパブリッシング
発行年月日 2004.12.14
価格(税別) 1,000円

● “プラスの私”と“マイナスの私”。どちらを自分の支配者にするか。それによって成否は決まるよ,ってのを物語仕立てにしたもの。同じようなものがこれまでずいぶん出ている。

● 自分でも読んでおきながらこう言うのはルール違反だと思うんだが,これは大衆が読むもの。つまり,普段は本を読まない人に読ませようとして出版されたものだろう。あわよくばベストセラーに,と。
 つまりだ,こういうのを読んでるようではとてもダメだな。

● けれども,働き盛りの人たちの中にウツになるほど気が弱る人がかなりいるはずだが,そこまで落ちこむ前に,一服のカンフル剤として読むのはありかもしれないと思う。
 しかし,カンフル剤としても効果は限定的であることを承知しておくこと。

2018年2月25日日曜日

2018.02.25 松浦弥太郎 『おとなのきほん』

書名 おとなのきほん
著者 松浦弥太郎
発行所 PHP
発行年月日 2017.09.04
価格(税別) 1,300円

● 50歳になった著者が,「おとな」の仕事の仕方,生活のあり方について,自身の考えを述べたもの。
 といっても,基本はこれまでの松浦さんの著書と変わるところはないように思う。50歳になったら変節したのか,と感じるところはないはずだ。

● たしか邱永漢さんだったと思うが,50歳だろうと60歳だろうと70歳だろうと,誰もが初めてなる50歳,60歳,70歳なのであって,50歳としては新人なのだと語っていた。60歳もしかり,70歳もしかり。なるほどと思ったことを思いだした。
 だから,50歳になればそれが初めての50歳なのだから,誰もが戸惑うものなのだろう。

● 孔子の『論語』以来,年代論が賑々しく語られてきた。だけども,あんまり区切らない方がいいのかもしれないんだよね。50歳になったからといって,特に何をどうするというのは,あえて考えないという行き方もあるだろう。
 考えなくても,身体は正直だから,近くのものが見えなくなるし,階段を登るのは億劫になるし,ITの動きについていくのはしんどくなる。それに任せるか抵抗するかは人によるが(世間的には抵抗する方が推奨されているだろう),そうしたひとつひとつに自分なりに対処していけば(あるいは,諦めれていけば)それでいいのではないか,とも思う。

● 以下にいくつか転載。
 商品として考えた場合,おとなの多くは“新しさの全盛期”を過ぎています。もしもみずみずしい赤いりんごのような商品であれば,“新しさの全盛期”を過ぎたら価値はありません。(中略)しかしそれがりんご酒のような商品であれば“新しさの全盛期”を過ぎても価値は失われません。時を経て熟成され,おいしさを増すこともできる。(p19)
 りんご酒になるための準備は,しかし,50歳になってから始めようと思っても遅いのかもしれない。というか,自分をりんご酒にするにはこうすればいいという,万人に共通の方法論などないのだろう。
 そこは人それぞれとしても,りんご酒になるための発酵過程は,じつはかなり若い頃から始まっているのかもしれないよね。
 面白さに知識を付け加える。これもおとなのコミュニケーションです。ただし,これが逆になると,すべてが台無しになります。(p22)
 僕らはコンテンツを見てもらうとき,ユーザーから時間をいただいています。時間とお金というのはとても似ていて,人は何に時間とお金を使うのかを考えると,「自分を助けてくれるものに使う)という答が浮かんできます。(p27)
 いつでも,どんな状況でも,人を笑わせることができる人は素晴らしいし,僕もそうなりたいと憧れています。笑わせるセンスをみにつけること。これはおとなの教養といってもいいでしょう。(p30)
 「また会いたい」という気持ちになる相手。それは面白くて楽しい人です。「もう一度会いたい」と別れてすぐ思う相手。それは自分の話をすごく大切に聞いてくれる人です。(p37)
 自分にもしもまだ伸びしろがあるなら,新しい人とつきあったほうがいい。まだ伸びしろがあると気づかせてくれる人,その伸びしろが伸びるように支えてくれる人は,新しい友だちです。自分では,自分の伸びしろを伸ばすことはできません。ずっと仲良くしてきた親友な仲間も,伸びしろを教えてはくれません。(p42)
 「この人と会ってよかった,友だちになりたい」と感じる人には共通点があります。みな,仕事が好きな人たちです。どんな仕事でもいいのです。(p46)
 今でも守っているお金とのつきあい方が,いくつかあります。まずは,「お金が好きだ」と思うこと。はっきりそう口にすること。それだけお金を大切に考えるということです。そしてもう一つは,矛盾しているようですが,「お金を追いかけない」ということ。(p83)
 頼まれた以上の仕事をする。それがお金をたくさん稼ぐ一番の方法です。(p86)
 お金の使い方についても,僕は基本を守っています。それは,お金を友だちと見なし,お金が喜ぶような使い方をするということ。「えっ,僕をそんなことのために使うの?」と“お金さん”という友だちががっかりしたりすることには,お金を使わない。(p90)
 無限だと思っていた時間が有限だという現実が突きつけられる年齢になったら,やりたいことだけに絞らないと,チャンスが来たときにトライできなくなります。(p97)
 僕なら,本当に迷った時は時の流れに任せます。激流に巻き込まれてしまったら,体の力を抜いて泳ぐのをやめます。自分の中の思考をとめる。それでも自分のまわりはどんどん動いていくので,それにゆだねてみるのです。(p98)
 五十歳を過ぎた僕が,おとなのおしゃれを考えたときに大切と思うこと,それは,品質とか,組み合わせとかではなく,体を鍛えることなのです。(中略)だらしない体では,着こなせない。むしろ,服に対して失礼なのではないかとすら感じています。(p107)
 去年夢中でやっていたことを,今年はさっぱりやっていない。それも大いに結構だと思うのです。新しいことを次々とやる秘訣は,「やる・やらない」の境界線を作らないことだと思います。(p117)
 どんなに偉くて権力を持っていても,すべてを手にれているように見える賢くて美しい人でも,人間はみんな弱いと僕は思っています。(中略)みんな弱くて困っていて,いつも何かに助けてもらいたいと思っているし,自分を救ってくれるものを探しています。(p134)
 正直に打ち明けてしまうなら,僕が朝四時半に起きるのは,べつに夜十時に寝ているからではなく,あらゆる不安が大きくて目が覚めてしまうという部分も少なからずあります。(p136)
 みんなが「こんな感じ」とか「こういうふう」と思っているのにもかかわらず,まだ誰も言語化してないような大切なことを,仕事を通じて言語化したい。(中略)自分の言葉によってみんなの気持ちに役に立つことが,僕のいろんな仕事の目的です。喜んでもらう,気づいてもらう,役立ててもらう。(p137)
 やっぱり僕は偉い人にはなりたくありません。僕はプレイヤーをやめた評論家にはなりたくありません。(p144)
 とても幸せで,恵まれているからこそ,お返しをしなければいけない。だから僕は,もっと成長しなければいけないのだと。(p155)

2018年2月21日水曜日

2018.02.21 外山滋比古 『考えるとはどういうことか』

書名 考えるとはどういうことか
著者 外山滋比古
発行所 集英社インターナショナル
発行年月日 2012.01.31
価格(税別) 1,000円

● 本書に述べられているのは,すでに著者が別の著書で語っていることではある。
 知識と思考は排斥しあうところがある。教育は知識を詰めこむものだから,思考力を阻害する側面があることに注意せよ。憶えること以上に忘れることが重要だ。
 要約すれば,そういうことが述べられている。

● 以下に転載。
 知識がふえればふえるほど思考は弱体化し,知識の乏しいものは,思考力をつよく発揮できる。(中略)不用意に知識をふやしていけば,知識メタボリック症候群の病状を呈するおそれもあります。これまでの知識万能思想はそのことを故意に見落としていたのです。ふえすぎた知識は捨てなくてはならない。(p6)
 よく忘れ,よく考えるのが,これからの頭です。余計なもののない,整理された頭を自由に働かせるのが,思考です。(p8)
 知識は基本的に過去のものですから,情報としては半ば死んでいます。したがって,いくら多くの知識を集めてみても,そこから新しいものを生み出すのは難しい。(p37)
 知識だけに頼って経験を軽んじているからでしょう。別のいい方をすると,生活をバカにしています。(p37)
 一般企業で学校で学んだ知識が求められる仕事はそう多くありません。ほとんどの仕事は,経験や生活力が物をいいます。それを無視した学校教育の優等生に,いきなり仕事で結果を出すことを期待するほうが間違っているのです。(p41)
 知識はうまく使えば大きな力になりますが,その使い方を身につける上でも生活による経験が必要です。生活から遠く離れたところでまとめた知識は,いくらたくさんあってもあまり価値がありません。(p42)
 昔の社会は「経験人間」が大多数でした。「知識派」は少数派だったからこそエリートとしての価値があったのです。(p43)
 創造的な思考とは,無から有を生み出すものではなく,新しいものを考え出すには,何らかのタネが必要です。もちろん知識もタネにはなりますが,これは多くに人々が共有しているので,それだけでは独創的なアイデアにはなりません。そこに自分ならではの経験というタネを加えることで,オリジナルな化合物としての思考が生まれます。(p55)
 日本人は,良くいえば謙虚,悪くいえば自虐的なところがあって,身近なものをみなダメだと考えがちです。(中略)日本人自身が欠点だと思い込んでいる物事の中に,実は高い価値をもっているものがあります。(p84)
 連句や俳句のような詩だけでなく,ふつうの散文の場合も,論理だけで構成すると平面的で退屈なものになりがちです。起伏のある表現で読者の興味を惹きつけるには,いくらか論理が飛躍したとしても,飛躍の空白を作ったほうがいいのです。(p97)
 言語と論理は,きわめて深い関係にあります。言語が違えば論理が変わり,論理が違えば言語が変わる。これは切り離すことができません。同じ日本でも関東と関西せは言葉が違い,したがって論理も異なります。(p104)
 富永仲基は合理主義の立場から儒教・仏教・神道を批判したことで知られていますが,その批判も加上の説に基づくものでした。簡単にいうと,加上の説とは,ある話が時間をかけて人づてに伝わっていくうちに雪だるまのように大きくなっていき,元の話は大きく変わってしまうというものです。あまり広くは知られていない学者ですが,この理論をひとりで考え出したのは実に天才的だといえるでしょう。(p109)
 一般に文章の区切りがはっきりしないため,日本語の文章は長ければ長いほど論理構成が不明確になりがちです。(中略)しかもその理論は,ヨーロッパの言語のように線でつながるものではありません。日本人は点を並べるように論理を構成します。(p115)
 最初から最後まで線でつなぐ論理では,書かれていることが表現のすべてです。しかし与えられた点を線に仕立てるだけの読解力を読み手が持っていれば,こうした奥深い論理が可能になる。日本人は,これが得意です。逆に,きっちりと引かれた線ですと,日本人は退屈な気分になってしまいます。(p116)
 日本人は大事なことを先に言いません。「後方重点」の論理を持っています。これが,「前方重点」の欧米人とのコミュニケーション・ギャップを生む最大の要因といってもいいでしょう。(p121)
 昔は火口がひとつだったから,仕上げの時間を合わせるのは,一般家庭などでは困難でしたが,いまはガステーブルに火口がいくつもある。(中略)それだけことは複雑になってきましたが,頭にものをいわせることが容易になりました。つまり,かつてより料理は面白くなっています。(p126)
 食べるほうではグルメが現れて文化的にも向上しましたが,作る側の二次的創造に心を向ける人が少ないのは,食文化の未熟さを表すものでしょう。(p127)
 文化的なモノを作る喜びを感じれば,衣服を作るのは単純労働にない創造的欲求を満たす点で,本などをワケもなく読んでいるのに較べて,ずっと手ごたえがあったでしょう。(p130)
 話すのと書くのでは,鮮度が違います。生きが違うのです。話を軽んじるのは間違いです。近代文化は声を失っていて,そのために文化全体が大きく歪んでいるように思います。(p156)

2018年2月17日土曜日

2018.02.17 外山滋比古 『ものの見方 思考の実技』

書名 ものの見方 思考の実技
著者 外山滋比古
編者 栗原 裕
発行所 PHP
発行年月日 2010.09.01
価格(税別) 1,000円

● 外山さんのこれまでの著書の中から代表的な論考を集めたもの。外山さんの考えの概要を知りたかったら,本書を読めばいい。
 が,小さな本であるにもかかわらず,読み通すのにけっこうな日数を要してしまった。平明な文章で決して読みづらくはないんだけども,目下のぼくの頭の具合では,ま,やむを得ないかな。

● 若い人なら,勉強論,学習の方法論としても読むことができるだろう。なるほどこうすればいいのか,と示唆を受けるところも多いのではないか。
 年寄りにとっては,こうすればよかったのかという遅すぎるかもしれない発見に満ちている。

● 以下に,多すぎるかもしれない転載。
 眼の走る方向に交叉する線が多ければ多いほど,文字を読みとるのに要するエネルギーは少なくてすむ。(p14)
 俳句は横組みを嫌う。逆に,横組みの日本語の中からは,おそらく俳句のような詩は生れないであろう。(p17)
 印刷文化は“読者”を生み出した。つまり,かならずしも書き手を個人的に知っているとは限らない人間に印刷物を読ませるのである。当然,野暮な人間がいる。(p28)
 日本的表現法の特色のひとつは,相手を尊重する心である。そのためあえて曖昧な表現様式をとって,相手に下駄をあずけるのが好まれたりする。何から何まではっきり言ったのでは,はしたない,含みの乏しい表現になる。(p29)
 どうして翻訳の多くが悪文になるのか。それを考えているうちに,文順墨守がいけないのだと思うようになった。つまり,原文のセンテンスの並んでいる順序をバカ正直に守って,それを“原文忠実”なりとする考えに責任がある。(p39)
 絶えずものを読んでいる人は,いつか音読から黙読へと移って行くと想像される一方,たとえ理解力に秀れていても,読むことに馴れていなければ,音読によらなければ読めない。(p43)
 イギリスの中世において,本が読まれるのは,音読であり,朗読であり,ときには,職業的読書技術ををもった吟遊詩人の「演技」ですらあった。そこにはつねに聞き手が予想されている。声を出して読まれるのは,読者ひとりのためでなくて,小コミュニティのためであった。(p43)
 人が共同社会に属しながら,その共同社会の中に生れた表現を読むときには,音読ということが必然であった。人々の群から独りはなれて,自分のためにのみ読むという意図を読者が抱くようになったとのときから,リーディングの性格は変る。(p44)
 たいていの黙読に際して,われわれは声こそ出さないが,声の出る一歩手前の声帯の小さな運動を行っているらしく,それを心声と感ずるもののようである。黙読でも長時間本を読むと,声帯が疲れてくる。今日のいわゆる黙読も音から完全に絶縁した読み方ではないことは認めてよい。(p47)
 その詩歌でも,声を出さずに読まれることが次第に普通になりつつある。それが現代詩の性格を関係するように思われる。(p49)
 ただ対象のありのままを自然に写した写真を芸術とは言わず,そういう写真を撮ることを創作活動とは言わないのに対して,画家が風景を絵にするのは創作であり,絵は芸術になるのである。かりに,正常な「読む」活動が,この比喩における画家の活動に通ずるものであるとすれば,読書もまたクリエイティブな機能をもつと言ってもよいはずである。「読む」と言うと,とかく,受動一方のように考えるのは正しくない。(中略)解釈の加わる積極的な精神の活動だからである。(p61)
 われわれ自身が昔に立ち返ることができない限り,歴史的過去はつねに距離をもった対象である。それを完全に理解することは不可能である。どうしても,そこへわれわれ自身の考え方を補充することが必要になる。その補充が,実は,しらずしらずのうちに行われているアナクロニズムになるのである。(p69)
 身近なものは,われわれにとって鮮明である。強い印象を与える。よくわかりそうなものであるが,その強い印象に圧迫,圧倒されて,かえって,よい理解にはならないことが多い。(中略)ものごとはある程度,時が経ち,古くなってはじめておもしろく感じられるもののようである。(p70)
 もの自体の美しさとは別に,それを見る人との間の関係が生む美のあることに注意しなくてはならない。(中略)はるけきものをあこがれる心--これがロマンティシズムの中核的特質であることは,いまことあたらしく言うまでもないが,これは,距離の美を求めていることにほかならない。(p74)
 絶対にして普遍的な美は少ないと見なければならない。美は多く見者の感情移入によって支えられているのである。(p78)
 文化的概念が科学的概念と根本的に違うのは,科学上の概念は,時間と空間の中を移動し得るのに対して,文化や文化的概念は移動し得ないという点である。(p80)
 シェイクスピアの戯曲は今日の基準からすれば剽窃的要素をかなりふくんでいるけれども,彼の天才はそういうことではすこしも損なわれることがない。借り物を自家薬籠中のものとして絶妙なとり合わせにもっていったところに天才の天才たるところがあった。こういう作者はいわば編集者的であるといってよい。(p87)
 一般に,ひろく人々の心を惹く表現のおもしろさにはエディターシップによることろがすくなくないように思われる。ものごとは単独に存在するのではなく,ほかのものと並べられて,あるいは,より大きな全体へ入れられたときの,とり合わせの妙からおもしろさが感じられるのである。(p88)
 明治以来のわが国の文化,思想がなんとなく生気に乏しく,創造性に欠けるのは,エディターシップがながい間,文筆志望の青年の腰掛け仕事みたいに考えられてきたことと無関係ではなかろう。(p93)
 新しいものを認識する。これは,新しいものごとが独立して頭に入るのではない。既存のものと関係づけられて,はじめて認識になるのである。(中略)創造も精神のエディターシップによって可能になる。自然,事件,情緒などがなまのままに表出されても芸術的創造にはならないのである。(p94)
 エディターシップはニュートラルである。ことさら創造的であろうとするのは本ものではない。ただ,触媒に徹することにおいておのずから創造的になるのである。(p96)
 オーサーシップ(執筆)の絶対性からいえば,推敲はともかく,添削や編集が作品,表現に改修を加えるのは許しがたいことのように考えられるであろうが,実際には,そいういう改変がよい結果を生んでいることがすくなくない。(中略)作者だけにしかわからないようなものは,伝達を目的とする言語表現の資格を放棄しているとすらいえる。(p98)
 人間的記憶には,その裏の亡失が不可欠である。忘れることが不活発になると,新しいものを吸収する能力も低下するのである。(p104)
 歴史的事実そのものは太古から存在するが,歴史に対する意識は近世の産物である。この二者の区別ははっきりしておく必要がある。(p120)
 自己中心的な考え方は,近世のヨーロッパに限らず,どこの社会にも見られる人間にとって基本的認識態度である。(p121)
 ルネッサンスがギリシア,ローマの古典的世界の復古思想によっておこったことはよく知られているが,一方では,当時,毎年のように,新しい国土がつぎつぎ発見されて,たえず地図が書きかえられなくてはならなかったということも忘れてはならない。歴史的展開とともに空間の地理的発見があったことが,ルネッサンス人のわき立つような想像力の一つの秘密であった。(p125)
 異質な文化を混ぜ合わせると,公約数的なものに収斂されるから,元来具わっていた個性的ニュアンスが削りとられて,原始的単純へ向かう。文化交流は,本質においては,一見,プリミティヴィズムと思われる簡素化の傾向を有している。(p128)
 姿,かっこうは変装することができても,言葉づかいを隠すことは難しい。しかし,現代人は案外こういうことに無頓着に生きているのではあるまいか。そうだとすれば,われわれがいつの間にか視覚人間になっているからで,根は文化の深部にあるということになる。(p134)
 声は地域的制限をもつのに対して,活字は自由にどこへでも広がって行く。それで活字文化は,地方性のプラスの面,伝統の破壊に手を貸すことになる一方,マイナスの面,固陋と閉鎖を開放するという両刃の剣となるのである。いずれにしても,社会の体制を大きくゆさぶらずにはすまないもので,活字文化と切り離した近代というものを考えることはできない。(p140)
 活字による個性的表現は,よほどの名文家でもない限り,肉声による味わいには及ばないのが普通である。(p141)
 われわれがもち合わせている既成の認識のパターンは人間関係,はっきり言うならば,ゴシップ的人間関係に大きく傾いているから,ゴシップ的表現ならおもしろがるが,すこし抽象的になればハナもひっかけない読者ばかり多くなる。(p144)
 目に見てからでないとわかったような気がしない視覚タイプの人間が多くなった。文章を読んでもそこからすぐ情景を心に描くのではなく,既往の体験,パターンをまず連想し,それをもとにして表現に向う,具体先行の認識である。小説や旅行記ならこれでもいいが,言論思想についても同じやり方でわかろうとする読者があるのは問題である。(p145)
 古来,すぐれたアイディアを散歩中に得たという例がはなはだ多い。ことにヨーロッパの学者には散歩型が多いように思われる。(中略)散歩が日常性からの離脱を意味しているのは注目してよかろう。(中略)問題は,やはり日常性の止揚である。(p159)
 知的環境としては,住めば都,はもっともまずい状態なのである。行きずりの旅人として見た場合には,おもしろい発見ができても,住みつくと,ものが見えなくなる。(p160)
 ここで注意しなくてはならないのは,トラヴェラーにとって,旅さきのことを,そこの土地の人と同じように知る必要はないという点である。むしろ,新しい土地が触発するものを楽しめばよい。(p161)
 いくら研鑽をつんでも初心を忘れず,何でもないことに日々おどろくような精神をもっていれば,語学はいつまでも創造的思考の母体たり得るであろうが,人情として,一日も早く安心立命の境に達したいと願う。その気持自体が不毛の道につながっている。(p163)
 発見や創造に心を砕いた人たちは申し合わせたように,アイディアが浮かんだらすぐ記録できるように小さな紙片を持ち歩いている。(p172)